ひきつづき、左古かず子さん(あゆみ助産院)のインタビューを掲載する。今回は、医療の問題点などについて触れられている。お産は本来、医療の対象ではないのだが、私も、自分ごとになるまでは、医療の対象になるのが当然のような感覚を持っていた。また、なんとなく医者にかかっているほうが安心のような意識もどこかにあったが、結局、リスクがないなんてことはなく、いずれにしても女性や生まれてくる子どもにとって、お産というのは、本当に命がけのことなんだなと感じた。
【大阪編集局・山下耕平】

――医療に問題を感じていることは?
 お医者さんたちの多くは、効率、合理性ばかりでしょう。それと、もし何か起きても治療ができるから、いちいち予防するようなことは言わない。助産院の場合、医療を使えないこともあって、できるだけ医療を使わないでいい体にしておいてほしいと、妊婦さんに働きかけます。しかし結果としては、そのことで健康になれるし、精神的にも快適に過ごせたり、何が大事かを考えるきっかけにもなっています。
 基本的に、医療は問題点さがしだと言えます。いいところを認めていくのではない。患者として妊婦を見て、問題点をさがすわけです。ですから、母体や赤ちゃんにとって必要かどうかではなく、言ってみれば医者の都合で、会陰切開や帝王切開をしたり、陣痛促進剤を使ったり、医師から見て合理的に処理しているところがあると言えます。一人の人間として対面してくれない。

――帝王切開は、赤ちゃんの側からみると、どういう問題があるのですか?
 もちろん、帝王切開が必要な場合もあるわけです。いま、帝王切開になる人は5~30%です。しかし、本当には必要でないのに、帝王切開されることが、すごく多いと思います。帝王切開は、赤ちゃんからしたら、いきなり外に放り出される感じでしょうね。通常は、子宮口が開くと、なんとなく、その方向を赤ちゃんは感じるみたいです。それから、ゆっくりと出ていく。そのとき感じるいろんなことが、産道通過ということの重要さだと言われています。
 産道を通ってくるとき、赤ちゃんは快・不快を両方経験するらしいです。陣痛で子宮がグーッと収縮するときは不快なんだけど、それがフーッと引くときは、最高の快を感じるらしいですね。それが将来の快・不快の感情につながると言われています。
 帝王切開の場合、そういうプロセスを抜きにして、いきなりボンと出されるわけです。病院にいたころは、帝王切開のたびに、そのときの赤ちゃんの苦痛に満ちた顔を見てきて、つらかったですね。

――しかし、医療が必要な場面もありますよね
 まず、お産の場所に関しては、病気の人は病院でお産をしたほうが良いと、私は思っています。病院は、医療の必要な人が分娩するところのはずです。病気でない人は、できれば地域の助産院とか、自宅で分娩するべきだと、医者も言うべきだと思います。しかし、医者はそれを言わない。そこに大きな問題がある。
 それから、病院で産もうと、助産院で産もうと、自宅で産もうと、予期しないリスクは一緒なんです。これは、データ的にも明らかなことです。そういう事態になったとき、医療との連携は重要です。必要な医療は、本当に必要なわけですから、できるだけ迅速にできる状況をつくっておくことは必要です。
 それから、予測できることは予測しておくスクリーニング(※状況を的確に把握して判断すること)の目が必要です。医療が必要かどうか、異常があるかどうかの判断能力。開業助産婦には、とくに求められることです。それは、日々の積み重ねですね。
データでは見えないことがある

――判断の根拠にしていることは?
 何かあったときでも、何を信じているかというと、妊娠中に赤ちゃんに出会っていることが、すごく大きいんです。自分たちは赤ちゃんに乱暴なことは一切していない、暴力を加えていない。できるだけ赤ちゃんに優しいお産をしている。それと、あんなに妊娠中に元気だった赤ちゃんなんだから、絶対に大丈夫だということ。命を信じている、生命の力を信じている、それだけですね。
 それは、妊娠中に何回もお腹に語りかけ、お腹を触って、その反応を感じさせてもらったから、自信を持てるんですね。それは、超音波やデータで赤ちゃんを見ている医者にはわからないことです。

――ブラジルで何かプロジェクトをされているそうですね
 JICAという国際プロジェクトチームの企画で、95年から、5年がかりでブラジルのお産改善にかかわっています。ブラジルのお産の状況は、70年代にアメリカの医療が入ってきてから、帝王切開が90%という状況になってしまったんですね。それと、赤ちゃんの死亡率がすごく高かった。60%を超えている地域もあったんです。抵抗力がまだ備わっていないうち、36週くらいで、日と時間を医者が決めて、帝王切開で出してしまうんですね。そうすると、お母さんの体も熟していないから母乳が出ない。そのうえ水も汚かったりして、その水で粉ミルクを与えたりするのだから、育つわけがないんですね。
 そこで、ブラジルにも自然なお産を取り戻したいと気づいた人たちが、日本の自然なお産に学ぼうと、このプロジェクトが始まったんです。

――5年間で状況の変化は?
 来年3月に、このプロジェクトは終了するんですが、いまは帝王切開が25%まで減りました。ブラジルは、いいとわかったら実践する国なんですね。日本が10年かかるところを、1年でやってしまう。
 助産院もゼロだったのが、今年で50カ所、来年には200カ所になります。それと並行して、そこで働くスタッフの教育も始まっています。本当は助産婦は看護婦の資格はいらないはずなんです。看護婦は医療のなかに位置づけられていますが、お産はもともと医療行為ではないですからね。
 日本で助産婦が医療のなかに位置づけられたのは、GHQがそのように指導したからなんです。

――病院の産科では、助産婦さんは必ずいるものなんですか?
 公立病院には必ずいますが、開業医では、いないことが多いです。助産婦さんが病院にいる場合は、医者の視点と助産婦さんの視点が対峙する部分もありますが、助産婦がいないとなると、医者と看護婦だけで、お産をするわけですから、より医療的になる可能性があります。病院で産んだ人は、助産婦さんに取り上げてもらったと思っている人は少ないですね。

◎わが子の不登校で

――ところで、左古さんの娘さんも、不登校を経験されているんですよね?
 小学校2年生のとき、体育の授業がきっかけで行かなくなりはじめて、最初は先生が迎えに来たり、私が送ったりして、なんとか行かせていたんですね。しかし、3年生のとき、先生が強引に引っ張っていったのがきっかけで、私は、そこまでして連れて行くところじゃないと思ったんです。
 すごく学校に行ってほしかったし、けっして冷静には考えられなかったけれども、なんで娘が学校に行かないことで私がこんなに不安なんだろうと考えてみたら、それは、みんなが病院で産んでいる時代に自宅で産みたいといったとき、妊婦さんが味わうことと似ているなと思ったんです。
 みんなと一緒だから安心というものじゃないし、むしろ、みんなが学校に行っているというのは、かえって怖いことだな、と。行くことを当たり前にしていることのほうが怖いんじゃないか、と。
 娘が「集団でピーッと笛を吹かれると震える」と言ったのは、ちゃんとした神経を持っていることだと思いました。その時点で、「ごめんね、なんとか行ってほしいと思ってたお母さんが悪かった」と謝りました。そしたら、本人もフーッと力が抜けて安心したようでしたね。
 しかし、夫はなかなか理解しませんでした。苦学をしてきた人で、稼ぎながら勉強をしてがんばってきた自分と比べて、「おまえは何やねん、何不自由なく暮らしているのに、怠けている」と。夫婦でよく話し合ったんですけど、理解するのには2年かかりましたね。

――最後に、今後の展望を
 私たちがお産をしている数は、病院に比べると少ないんです。病院の1カ月分が、私たちの1年分ぐらいです。しかし、それを確実に伝えていくことが大切だと思っています。一人ひとりとの出会いを大切に、丁寧なおつきあいをしていきたいと思っています。そこから、口から口へと伝わっていくことが、大事だと思っています。
 それから、お産だけじゃなく、このあゆみ助産院を拠点にして、オープンハウス的な活動を、もっともっと展開していきたいですね。地域にも、もっともっと入り込んでいきたいです。
 また、若い助産婦を育てていく役割が、私にはあると思っています。たくさんの助産婦さんが、ここに勉強に来てくれていますし、確実に、わかってくれる助産婦は増えています。その人たちが、自分で開業してくれるようになったらいいと思っています。
 しかし、実際問題としては、助産院を開業するのには、公的なお金は出ないですし、私の場合も、身銭を切って、なんとかやってきたわけです。ですから、これからは、チームでやったらいいと思っているんです。兵庫県で4年前に開業した助産院は、株式みたいにして、お母さんたちが出資しあって開業したんです。北海道でも、そういう助産院があります。
 自然分娩を自信をもってできる助産婦が増えて、自然分娩で産む人が増えることは、自分の生き方や社会のあり方を問い直す機会が増えることにもなると思います。

――ありがとうございました。(聞き手・山下耕平)

2000年12月1日、12月15日 不登校新聞掲載

左古かず子さん
(さこ・かずこ)1946年、京都府宇治田原町生まれ。1974年から助産婦となり、5年の病院勤務、5年の助産婦学校勤務を経て、開業助産婦に。1989年、あゆみ助産院を京都市伏見区に開業。新しく助産院を開業したことは、助産婦会に衝撃を与えた。これまでに1500人以上の赤ちゃんをとりあげてきている。また、95年より、JICAの国際プロジェクトで、ブラジルのお産状況の改善にかかわっている。共著に『障害を持った人の性』(明石書店)。