幼稚園から地元のクラブチームでサッカーをやっていて、高校進学の際はブラジルへのサッカー留学も考えました。しかし、叔父さんの知り合いが理事長の淞南学園松江日大高(松江市、現立正大淞南高)を勧められ入学しました。全寮制で人格教育に力を入れていました。午前5時の点呼、学校には集団登校です。授業中も背筋を伸ばして不動の姿勢を取るよう指導されました。先生はコワモテの人が多く、先輩や地元の人へのあいさつに厳しく、服装や髪形が元気な新入生もすぐにおとなしくなりました。
問題はサッカー部がなかったこと。寮脱走も考えたほどです。入学直後、上級生も含めてメンバーを募りました。集まった約20人に経験者はほとんどおらず、自分がキャプテンでした。みんな血気盛んで、最初のころの対外試合は乱闘で流れました。先輩たちに「サッカーにならない。キャプテンを降りる」と泣きながら訴えました。まじめにプレーするようになってくれたのはそれからです。対外試合3試合目、大敗でしたが、初めて乱闘なしに試合が終わりました。サッカーをやり遂げることができた喜びでいっぱいでした。そして初勝利は秋ごろです。顧問の先生が泣きました。
高校時代は、一筋縄ではいかない先輩たちに指示を出して部をまとめ上げていく以上、自分がしっかりする必要がありました。逆境にめげず目標に向かう精神的な強さが鍛えられました。
2年生の冬の新人戦では県3位になるほど強くなりました。3年生の11月、高校選手権地区大会決勝の後半。自分のシュートで同点とし、PK戦に持ち込みましたが、最後は自分が外して負けました。みんなで泣きましたが「岡野がいなかったら、おれたちサッカーをやれてなかった」と言われたのがうれしかった。
サッカーが救いだったとはいえ、寮生活や授業は修行そのもの。卒業式は息も吸えないくらい号泣したし、先生たちも「よく頑張った」と泣いてくれました。プロ入り後に再訪し、怖かった理事長と女子生徒が談笑しているのを見て拍子抜けしました。いつの間にか明るく楽しい学校になっていました。【聞き手・井崎憲】
==============
■人物略歴
1972年横浜市生まれ。日本大を経て94年浦和レッズ。97年には日本を初のワールドカップに導く決勝ゴールを決める。現在ガイナーレ鳥取所属で12月に「野人伝」(新潮社)を出版。
毎日新聞 2010年1月9日 東京朝刊