VfLをもっと知ろう08.12.2009 - 15:56
熱帯館は暖かいのだが、少々問題ありだ。撮影班のカメラのレンズが、湿度でたちまち曇ってしまうのだ。そうならばと、小野伸二は立ち上がり、インタビューの現場をジャングルからサバンナへ移そうと提案する。旅行好きな彼にとっては、お安い御用である。
我々も然り。赤道直下の密林も、サバンナも、ボーフム市の植物園では隣り合わせなのだ。
VfLが誇る日本人プレーヤーとの対談は、ボーフム市郊外、ルール大学とロッテンタール地区にはさまれた、緑のオアシスで行われた。ここには植物だけではなく、非常にアジア的なもの、中華庭園があるのだ。VfLとも業務提携のあるボーフム都市銀行が寄贈したこの庭園は、柔らかな秋の日差しを浴びながら、幻想的な趣で我々を迎えてくれる。小野は日本建築との違いをひととおり説明してから、カメラマンのリクエストに応え、園亭をバックにポーズをとり始める。そんな撮影に、おどろくほど気長に、そして常ににこやかで礼儀正しくつきあってくれる。それどころか、自ら次のポーズを考えてくれるのだ。
怪我、故障、そして出場停止
ピッチ上の小野も同じである。背番号23は常に一歩先を読み、それに対応してゆく。卓越したテクニックと冷静な判断力が身上の彼は、チームメイトからの信頼も厚い。しかし、VfLに移籍してから2年弱、ブンデスリーガでの出場は26試合にとどまっている。相次ぐ怪我や故障に阻まれ、最近では退場による出場停止が重なった。「本当に恥ずかしいことです」と、小野は3試合の間に受けた二度の累積退場を振り返る。「チームに迷惑をかけたことを反省しているし、みんなに謝りました。ただ、逃した勝ち点は帰ってこない」と悔やむ。一回目は王者ヴォルフスブルグとのホームゲーム。前半に一枚目のイエローをもらうと、後半の63分、退場を宣告された。数的不利となったチームはその後、同点ゴールを食らってしまう。二度目はアウェーでのフランクフルト戦。わずか一分足らずの間にイエロー二枚のスピード退場だった。一点差を追っていたチームは、逆転の望みを絶たれた。「友達は僕のことを“ダーティー・プレーヤー”とからかうんです」 ― 過ぎたことはユーモアで受け止めている。
天才と呼ばれて
ユーモアとウィット ― それは頭脳的なパスやあざやかなひらめきのゲームメイクのように、小野の懐の深さを物語っている。それは数々の試練、そして過剰なまでに集まる日本マスコミによる注目から、彼を守っているように思える。「それは昔の話です」と、本人は訂正する。「最近は帰国しても、ファンやマスコミが大勢待っているようなことはありませんね」。“アジアのベッカム”や“天才”と呼ばれた一時期の熱狂ぶりは、自分にとっても謎のようだ。「十八、九の若手で、たった一度活躍したら、たちまち天才ということになったんです。日本の人々はビッグネームやアイドルを求めています。だから僕もそうやって騒がれたんでしょうね」。しかし、2002年のアジアMVPを、日本人は忘れたわけではないようだ。現在だって、小野がピッチに立てば、日本のスポーツ記者団が駆けつけるものである。
家族とは八時間差
近い将来、自分がどこにいるのか ― 小野はまだそれを語ろうとはしない。VfLとの契約は2010年まで。その後のことは考えていないという。「来年の6月30日(契約期限)やその先より、今は目先のことに集中しなければいけない。とりあえずは(1部残留)安全圏へ順位を上げなければ」。次のケルン戦を勝てば、順位がひとつ繰り上がる。ハンブルグで勝つなど、調子が上向きのチームだが、決しておごったりはしない。「ヘアリッヒ監督の考えるサッカーを、早く実行できるようにならなければ」と、政権交代以降、めっきり充実した練習時間に触れる。一日二度の練習も、けっして珍しくはない。その合間の休憩時間を、小野は家族との通話に使っている。遠く離れた日本との時差は八時間。「一日二度はスカイプしてます」と説明する。下の娘が今年幼稚園に通い始めた、と話す顔は誇らしげな父親そのものだ。一度入学しておけば、高校、大学まで同じ学校なのだとか。
記録的な移籍金
小野伸二少年も、かつては地元静岡の今沢スポーツ少年団、そして今沢中学校でサッカーを始め、高校は清水商業へと進んだ。そして卒業後はプロへ。しかし、母校と提携関係のある清水エスパルスではなく、名門クラブ・浦和レッドダイアモンズに入団。5度のJリーグ優勝を誇るレッズは、2007年にはAFCチャンピオンズリーグを制覇している。そのときのメンバーには、一度目の欧州挑戦から日本へ復帰した小野も名を連ねている。1998年から2001年まで浦和に在籍した後、1250万ユーロという記録的な移籍金でフェイエノールト・ロッテルダムに移籍、5年間在籍することになる。2002年にはUEFAカップを制覇。ボルシア・ドルトムントを破った決勝戦では、ゴールアシストの活躍をしている。2006年、自身三度目のワールドカップを経験した後、日本サッカー界へ復帰。しかし、6度目の大きな怪我に悩まされる。「1999年までは、故障なんてしたことがなかったんです。それで左ひざの靭帯を切って、何ヶ月も欠場。それ以来、怪我とつきあってばかりのサッカー人生です」。
気遣いと協調性
2008年1月、そんな負傷のため試合から遠ざかった状態で、小野は極東の日本から西の果て・ボーフムへ移籍。シーズン後半戦17試合中12試合に出場した。しかし、昨シーズンは公式戦出場がわずか10試合(ブンデスリーガ8試合、ドイツ杯2試合)。怪我も治り、ホッフェンハイム戦で大きく勝利に貢献したと思えば、ドルトムント戦でまたひざを負傷。7度目の大怪我である。このような試練を乗り越えることにはもう慣れたが、やはり毎回少し落ち込むことがあり、リハビリ中はナーバスなることもあると打ち明けてくれた。しかし、落ち着きこそ強みだと、アジア人の小野は良く知っている。植物園でのロケ中も、撮影班の準備が終わるのを気長に待ってくれる。その前には、撮影機材のケースを運んでくれる気遣いぶり。スイスで行われた合宿では、自分のいびきで仲間を起こさないよう、自らマッサージ台に横になって寝たと伝えられている。このような男がベッカムのようにテングになることは、とうていありえない。
シーズン27.11.2009
レヴィルパワースタジアムに詰め掛けた2万9102人のファンを前に、VfLは1.FCケルンを相手ちぐはぐな試合を演じ、無得点で引き分けた。不調な前半を終えて、後半の立ち上がりから少し挽回したが、69分にはペティのシュートが右ポストを直撃するなど、運にも恵まれた。
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シーズン22.11.2009
VfLは、今季二度目のアウェー戦勝利を飾った。大半がちぐはぐな展開だった試合、最後はVfLイレブンの気迫が勝り、ハンブルグを1―0で破った。殊勲のゴールは76分、スタニスラフ・シェスタクの好アシストから、デニス・グローテが決めた。
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シーズン07.11.2009
VfLは、SCフライブルグに悔しい一敗を喫した。終盤は劇的にさえなった試合、まずは元VfL選手のブッチャーがフライブルグに先制点をもたらす(23分)。65分、VfLはクリモヴィッチのゴールで一時同点とするが、後半ロスタイム、ライジンガーに決勝点を奪われてしまった。1―1の同点時、VfLは明らかなゴールが認められなかったことが悔やまれる。
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シーズン01.11.2009
就任したてのヘアリッヒ新監督のデビュー戦を、VfLは残念ながら勝利で飾ることができなかった。一時は白熱した試合の末、1-2でアイントラハト・フランクフルトに敗れた。序盤の14分、カイオに先制ゴールを決められると、同点は25分、マイク・フランツのオウンゴール。しかし、後半は53分、よりによってそのフランツに決勝点を奪われてしまった。
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プレスリリース27.10.2009
VfLボーフム1848は、ハイコ・ヘアリッヒ氏の監督就任を発表した。DFB(ドイツサッカー連盟)のテオ・ツヴァンツィガー会長は、VfL監査役員会長ヴェルナー・アルテゲール氏と会談後、連盟職員のヘアリッヒ氏に、本日10月27日付で就任を許可した。
シーズン25.10.2009