2010-01-08

この夜を生きのびよう。

最近知ったとあるはてなーさんの、書くものが素敵だなあと思い、さかのぼって読んでいたその方のポストやその他から、いくつか思うところがあった。

あまり他人には話していないことなので、anonymousで書く。

わたしには両親と弟がいる。

母はわたしが生まれた直後から精神分裂症を患っていた。(あえて精神分裂症と書く。このころはそう呼びつけていたので)

小学校低学年までは、母との生活は(今にして思えば)まったく筋が通らないことばかりで、いつも、なぜここで怒られるのだろう?とか、なぜ今日はあんなにものすごく褒められたのだろう、とか、謎ばかりだった。

生育環境が特殊だったせいも幾分かはあるのだろうが、わたしはとにかく人と違ったことをしたがる子どもだった。それが物事を杓子定規に進めたがる母の気にいらなかったらしく、なにか思いついて喜び勇んでぶちあげると、必ずひどくしかられた。10歳くらいまでは、ひきずりまわされて力のかぎり叩かれたこともよくあった。もちろん、アザが残ったり傷ができたり骨が折れたりする程ではない。ひどい折檻程度だった。

わたしがラッキーだったのは、平均的女児よりも身体の成長が速く、小学校高学年の時には母とほぼ同じ体格になっていたことだ。身体的暴力は、この時点でほとんど無くなった。家には、父が母の病気を理解するために買った精神病関連の書籍があり、木村敏や小此木啓吾やユングフロイトなどを読みはじめたのもこの頃からだった。

さらについていたのは、父がいたことだ。父は、自分仕事を本当に愛していて、いつでもわたしのそばにいて全面的に護るというようなことはなかったが、常識的な会話ができる人間がこの世にちゃんと居るということを示してくれていた。そして人と違ったことをしたがるわたしの話しを聞いてくれて援助してくれ、ときには叱ってたしなめ、穏かに見守ってくれていた。

そして、これもついていたからだと思うが、普通の生活を営む程度の収入がある家庭だったので、家事全般がほとんどできない母ではあったが食べ物には困らなかったし、そうとう不衛生だったが病気にかかるほどではなかった。

食い意地が張っている子どもでもあったので、まともなウマいものが食べたくて、本を見ながら料理自分である程度やるようになっていた。

とにかく、生命力が強かったのだと、今にして思う。

ここにいては生きていくのは非常に困難だと、小学校高学年で思ったわたしは、とにかく遠くへ離れるべく寮のある学校受験しまくったのだが、高校卒業までは家から通うこと、という父の方針で、18歳まで実家で暮すことになる。

ところで、弟は、わたしほど離脱しようとする力が無かった。

母は弟をとても大切にしていた。大切にされすぎて、彼は何かを失なってしまったのかもしれない。

わたしが自分のことで精一杯の間、だんだん彼は社会小学校中学校だが)との折り合いをつけられずに時を過ごし、中三で精神分裂症を発症した。

家は、この時から、構成人員の半分が常人、半分が精神分裂症患者、となった。

家に帰れば戦場であり(後年、映画「死の棘」を見た時、実に的を射ている表現が多くて驚いた)、学校では思春期らしい悩みと葛藤を抱えて足掻き、それなりに忙しい日々を過した後、大学に入り、一人暮しをはじめる。

その後は、主に自分自身との戦いだったが、ほんとうにいろいろあった。

ただ、わたしには帰る家がない。お金はいくらかは融通してもらえるかもしれないが、自分自分のメシを獲ってこなければ、生きていけない。そう思って、とにかく稼ぐことだけは途絶えないよう必死になっていた。

母が統合失調症(この頃、病の呼び名が変わる)なのは述べたが、叔父も同じ病であり、母の実家はとある新興宗教に全資産を入れあげていたという、ココロの弱い血筋であった。

血筋という言い方をするとオカルトめいて解決不能な雰囲気が漂うが、単に神経系と内分泌系の一部が弱い体質が遺伝しているだけなのだと、今では思える。

わたし自身について言えば、体質が遺伝しているので、危機的状況に陥るといまだにマイナートランキライザーが手放せない。症状が投薬で緩和されることを学習して以来、困ったらかかりつけの医師を訪れて、状況を説明して投薬してもらうことにしている。

こんな風になんとか曲りながらも人生と折り合いをつけていたのだが、わたしはずっと母が許せなかった。母には、「母」であって欲しかった。ドラマに出てきそうな、心優しく、あるいは通俗的で、あるいは自己中心的だが、少くとも夜中にカーペットを切り刻み出したりしないような。

母が「こうして欲しい」「こうでなくてはダメだ」と言うことは絶対だと思っていたので、それがひどく間違っていたり、わたしを苦しめるようなことであった時に、わたしはどうしていいかわからなくなっていた。そして、そんなことを言う母を、許せない、という思いを募らせ続けていたのだ。

電話をすれば必ず口論になり、長い間顔を合わせることはなかった。


時は経つ。

数年前に、一人の男性と出会い、わたしたちは結婚することになった。

結婚の予定を報告をする時に、相手のご両親に、わたしの母と弟の話をしたのだが、そこで相手のお父さんが言ってくださった一言がある。

病気なのだから、しかたないね」

そう言われて、初めて気がついた。

母は病気なのだ。病気なのだから、間違ったことを言ったり行なったりするのは仕方がないことなのだ。

そして、わたしは曲りなりにも自分でエサを獲ってきて寝場所を確保できるくらいには育ち、一応社会渡りあって生きている。

わたしの望むような「母」ではないかもしれないが、彼女なりにわたしのことを思っていることも、やっとそのとき腑におちた。

では、間違ったことを言われた時には、「それは間違いだよ」と、きちんと話してあげれば良いのだ。それが、人間同士というものなのだ、きっと。

そうして、わたしは今、母に向って、「そんなこと言うもんじゃないよ」と、きちんと話ができる。

会うと、ひとつひとつわたしの装いや様子についてヒステリックになる彼女に対して、説明もできるし、「ひとに何かを言う時ははそういう風に言うと失礼なんだよ」と、言ってあげられる。

驚くべきことに、そう言うと母は、「そうかねえ」と、聞いてくれるようになった。どうせまたしばらくしたら、同じことを彼女は言うのだが、それでもその時は返事をしてくれる。

弟のことは、まったく何も解決していないが、彼は彼で生きていくのに困らないよう、両親が整えてくれている。

前からそうだったが、最近はより一層、わたしは自分自身の生育歴を振りかえる時、アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」を思い出す。

さいころはわからなかったけど、家族が数名病気にかかっているというだけで、別にどうということはないのだ。


ここまで至るのに、ずいぶんいろんな人に助けてもらった、底抜けに楽天家の夫や夫のご両親もそうだ。

苦しいかもしれないけど、一人じゃない。

そしていつか必ず、なんとかなる。

あなたにそれを伝えたい。

伝わらなくてもいい。

でももし、自分のことを独りだと思ってしまっているなら、近くまで行くから、ガードレールに座りながらアニメマンガやブンガクやロックの話をして、一緒にこの夜を生きのびよう。

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