2009年05月30日 18:40
今日は5回目のブログの投稿です。毎日書けば良いのに、いつも時間の間隔を空けてしまいます。
さて、今日も前回書いた姉の「がん死」の続きを書こうと思いますが、最近芸能界でも有名人の「がん死」がたて続きに報じられていて胸が痛んでいるところです。
つい、ブログを書く気が滅入ります。根気を出して書き綴ろうと思います。
前回は姉が背中の激痛で倒れ、「がんセンター」に運ばれたあと、放射線を最大にかけて治療したところまで書きました。
その後ですが、姉は3週間ほど「がんセンター」に入院しました。そして歩けるようにもなりました。ベッドで寝ていると放射線の担当医のN先生が姉に「寝てばかりいたらダメだよ。うんと歩く練習しなさい」とハッパをかけておりました。
感じの良い先生でした。テレビや新聞にも良く出ている有名な先生です。ただ、私はその先生のアドバイスに違和感を感じました。あんなにひどい激痛だったのだから背骨がやられた、ということは私にも分かりました。
背骨というのはとても怖いところです。それなのに「どんどん歩く練習しないとダメだよ」とは・・・。
「がんセンター」での診断は背中にがんが転移しているとの事でした。だから私は「安静にしてなくてはいけない」という考えでおりましたので、「どんどん歩く練習しないとダメだよ」との指導にびっくりし、うまく言えませんが、その言葉に違和感を覚えたのです。
私は心のどこかに、姉は本当にがんなのだろうか?と疑いの気持ちも持っておりました。母のことがあったからでしょう。
でも当時、乳がんは40歳以上の未婚の女性が罹りやすいと言われておりましたので、姉はそこにぴったりと当てはまりました。やはり姉は本当に乳がんなのかも知れない、と言う絶望的な気持ちにもなっておりました。
私は姉に聞きました。背骨に転移していると医師に言われたときに、「レントゲンを見せてもらって確認したの?」って・・・。
姉は「背中のところに確かに白いものが写っていた、確認した」と言いました。
私は胸が押しつぶれそうなくらいのショックでした。「やっぱりがんだったのか・・・・。」と。
そして姉は3週間くらいの入院で歩けるようになり、元気も出てきた頃に、「がんセンター」からまたホスピスに戻ることになりました。私の父は「なんできちんと治るまでがんセンターで治療してくれないのか」と、がっかりしていました。私も本当にそう思いました。
ですが、ホスピスの担当医から戻るようにという指示でしたので、私たちは素直に従うしか、どうすることも出来ませんでした。
「がんセンター」のN先生は退院するときに、姉に「きれいに治しておいたからね。他にはどこにもがんの転移はなく、内臓もきれいだったからね」と言ったそうです。
「がんセンター」を退院する日に、同室だった人たちがエレベーターまで見送ってくれました。その時、病院内のことでは物知りで有名?なHさんという「がん患者さん」が姉に言いました。
「あなたはちゃんと元気に退院できて良かったわね。あなたと同じ症状で入院した人は、今は全身に転移して寝たっきりになっちゃたよ。あなたはちゃんと歩いて退院できて本当に良かったわね。」と。
でもエレベーターのドアが閉まるとき、Hさんは不思議そうな表情をしていました。その顔を私は今もよく覚えています。
そして、姉はまたホスピスに戻りました。ただ、入院は短くて一週間くらいだったでしょうか・・・。その辺のことは何故か私には明確な記憶がありません。ただ、入院はとても短かった、ということは憶えています。
姉はホスピスで、乳腺クリニックの主治医の友人だという男性医師が姉の担当医になりました。N医師と言いました。内科・副部長という肩書きの医師でした。
ホスピスに移ってすぐに、姉はこの担当医から「治験」を勧められました。なんでも姉が言うには「骨が丈夫になる治験」だと言っておりました。
私は「治験はやるものではない、ろくな事にはならない」と聞いたことがありましたので、「やめた方がいいよ」と反対しました。ましてや放射線をあんなにかけて体が衰弱しているのだからと、とても胸騒ぎがして強く反対しました。
でも、姉は「骨が丈夫になるなら」と治験をすることに決めてしまったのです。その担当医のN医師と2人だけで決めてしまったのです。義兄(姉の夫)には電話で「治験をすることにしたから」と姉から電話があっただけ、と後に義兄から聞きました。
治験同意書にはこう書かれていました。
「治験課題名:CGP 42446 注射剤の乳癌骨転移患者を対象とした二重盲検群間比較試験」
と・・・・。
姉はこの治験を確か6月か7月ころから始めたようでした。(がんセンターを退院してから割りとすぐでした)そして翌年の6月30日に安楽死することになったのです。「がんセンター」を退院してから一年後くらいの出来事でした。
今日のブログではもう少し書きたかったのですが、詳しく書くとかなり長くなりそうなので、この続きは次回に書きたいと思います。
姉は本当に「がん」だったのか?疑念を抱く決定的なことが分かりました。姉が安楽死の注射をすることになる3日くらい前のことでした。
そのことなどを書きたいと思います。
* 姉が亡くなってから暫くして、ある人からこんなことを聞きました。「治験とは大変重大なことで、患者と医師の2人でコソコソ話しをして決めることではない。家族が何度も何度も話し合って決めるもの。それ程、治験とは怖いもの」と・・・・。
私の胸騒ぎは的中した訳です。
それでは、次回で・・・・。
さて、今日も前回書いた姉の「がん死」の続きを書こうと思いますが、最近芸能界でも有名人の「がん死」がたて続きに報じられていて胸が痛んでいるところです。
つい、ブログを書く気が滅入ります。根気を出して書き綴ろうと思います。
前回は姉が背中の激痛で倒れ、「がんセンター」に運ばれたあと、放射線を最大にかけて治療したところまで書きました。
その後ですが、姉は3週間ほど「がんセンター」に入院しました。そして歩けるようにもなりました。ベッドで寝ていると放射線の担当医のN先生が姉に「寝てばかりいたらダメだよ。うんと歩く練習しなさい」とハッパをかけておりました。
感じの良い先生でした。テレビや新聞にも良く出ている有名な先生です。ただ、私はその先生のアドバイスに違和感を感じました。あんなにひどい激痛だったのだから背骨がやられた、ということは私にも分かりました。
背骨というのはとても怖いところです。それなのに「どんどん歩く練習しないとダメだよ」とは・・・。
「がんセンター」での診断は背中にがんが転移しているとの事でした。だから私は「安静にしてなくてはいけない」という考えでおりましたので、「どんどん歩く練習しないとダメだよ」との指導にびっくりし、うまく言えませんが、その言葉に違和感を覚えたのです。
私は心のどこかに、姉は本当にがんなのだろうか?と疑いの気持ちも持っておりました。母のことがあったからでしょう。
でも当時、乳がんは40歳以上の未婚の女性が罹りやすいと言われておりましたので、姉はそこにぴったりと当てはまりました。やはり姉は本当に乳がんなのかも知れない、と言う絶望的な気持ちにもなっておりました。
私は姉に聞きました。背骨に転移していると医師に言われたときに、「レントゲンを見せてもらって確認したの?」って・・・。
姉は「背中のところに確かに白いものが写っていた、確認した」と言いました。
私は胸が押しつぶれそうなくらいのショックでした。「やっぱりがんだったのか・・・・。」と。
そして姉は3週間くらいの入院で歩けるようになり、元気も出てきた頃に、「がんセンター」からまたホスピスに戻ることになりました。私の父は「なんできちんと治るまでがんセンターで治療してくれないのか」と、がっかりしていました。私も本当にそう思いました。
ですが、ホスピスの担当医から戻るようにという指示でしたので、私たちは素直に従うしか、どうすることも出来ませんでした。
「がんセンター」のN先生は退院するときに、姉に「きれいに治しておいたからね。他にはどこにもがんの転移はなく、内臓もきれいだったからね」と言ったそうです。
「がんセンター」を退院する日に、同室だった人たちがエレベーターまで見送ってくれました。その時、病院内のことでは物知りで有名?なHさんという「がん患者さん」が姉に言いました。
「あなたはちゃんと元気に退院できて良かったわね。あなたと同じ症状で入院した人は、今は全身に転移して寝たっきりになっちゃたよ。あなたはちゃんと歩いて退院できて本当に良かったわね。」と。
でもエレベーターのドアが閉まるとき、Hさんは不思議そうな表情をしていました。その顔を私は今もよく覚えています。
そして、姉はまたホスピスに戻りました。ただ、入院は短くて一週間くらいだったでしょうか・・・。その辺のことは何故か私には明確な記憶がありません。ただ、入院はとても短かった、ということは憶えています。
姉はホスピスで、乳腺クリニックの主治医の友人だという男性医師が姉の担当医になりました。N医師と言いました。内科・副部長という肩書きの医師でした。
ホスピスに移ってすぐに、姉はこの担当医から「治験」を勧められました。なんでも姉が言うには「骨が丈夫になる治験」だと言っておりました。
私は「治験はやるものではない、ろくな事にはならない」と聞いたことがありましたので、「やめた方がいいよ」と反対しました。ましてや放射線をあんなにかけて体が衰弱しているのだからと、とても胸騒ぎがして強く反対しました。
でも、姉は「骨が丈夫になるなら」と治験をすることに決めてしまったのです。その担当医のN医師と2人だけで決めてしまったのです。義兄(姉の夫)には電話で「治験をすることにしたから」と姉から電話があっただけ、と後に義兄から聞きました。
治験同意書にはこう書かれていました。
「治験課題名:CGP 42446 注射剤の乳癌骨転移患者を対象とした二重盲検群間比較試験」
と・・・・。
姉はこの治験を確か6月か7月ころから始めたようでした。(がんセンターを退院してから割りとすぐでした)そして翌年の6月30日に安楽死することになったのです。「がんセンター」を退院してから一年後くらいの出来事でした。
今日のブログではもう少し書きたかったのですが、詳しく書くとかなり長くなりそうなので、この続きは次回に書きたいと思います。
姉は本当に「がん」だったのか?疑念を抱く決定的なことが分かりました。姉が安楽死の注射をすることになる3日くらい前のことでした。
そのことなどを書きたいと思います。
* 姉が亡くなってから暫くして、ある人からこんなことを聞きました。「治験とは大変重大なことで、患者と医師の2人でコソコソ話しをして決めることではない。家族が何度も何度も話し合って決めるもの。それ程、治験とは怖いもの」と・・・・。
私の胸騒ぎは的中した訳です。
それでは、次回で・・・・。
コメント
のりたま | URL | 5BRzWkbA
ホントに売れちゃったよ。。。
http://oppao.net/kgg/hu4rmeu/
セっクスしたらお金貰ったけど、なんだか実感湧かないなぁ・・・
( 2009年06月02日 14:06 [Edit] )
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