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どうなる検証の行方 |
☆★☆★2010年01月08日付 |
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住田町上有住の高清水山(一○一四b)を源流とし、大股川や矢作川などの支流を合流して陸前高田市から広田湾に注ぐ気仙川。本川延長四十四`、支流を含めた総延長は百十五`。アユやヤマメの宝庫であり、秋サケ増殖でも本県沿岸を代表する重要な河川だ。 ふだんは流域に多くの恵みをもたらす緩やかな流れの川だが、背後に傾斜が急な山々を抱えるだけに出水時は姿を一変。昭和五十四年十月の台風20号では、死者一人、倒壊家屋三棟、浸水家屋二百八十一戸、浸水農地四十六f、被害総額約二十億円と牙をむき、その後も昭和五十六年の台風15号、平成二年の豪雨、同十年の豪雨など被害総額十億円超えを幾度か記録してきた。 こうした中、河川改修などと合わせた総合治水対策の柱として、住田町世田米、気仙川支流の大股川に県が建設を予定するのが、津付ダムだ。総貯水容量五百六十万立方bの本体工事は二十六年度着工、三十一年度完成の予定。総事業費は百四十一億円。国がその半額を補助している。 昭和五十二年に県が予備調査に着手し、同五十六年には実施計画調査の国庫補助採択を受けた。その後、バブル経済崩壊を端緒に全国各地のダム計画が休止や中止を迫られる中、平成十二年度に全国唯一の新規建設事業として採択された。 平成十五年の陸前高田市の利水不参加表明をきっかけに、当初の多目的ダムから治水専用ダムに見直され、翌十六年に県大規模事業評価専門委員会が事業継続の方針を決定。十七年には県と地権者会の間で損失補償協定が結ばれた。 そして、十九年度から国道397号の付け替え道関連工事がスタート。およそ三十年、曲折の歴史をたどったうえで本格着工の緒についたところだ。 昨年十一月、県が再度の大規模事業評価専門委の答申を受け事業継続方針を明らかにした直後、鳩山新政権は来年度行われる百三十六のダム事業のうち、本体未着工などの八十九事業については事業継続か否かの検証対象とすることを発表。同ダムにも、「待った」がかかることとなった。 検証対象ダムへの予算配分は、津付の場合の付け替え道工事など生活再建事業に限られる見通しで、事実上の凍結といえる。今後は、同省が設置した「有識者会議」で今夏までに計画継続の是非を判断する基準を作り、それに従って個別に検証。まだ輪郭が見えないその基準は来夏ごろまでに明確に示されるといい、検証結果が事業の行方やその背景にある地域経済広範に大きな影響を与えるのは必至だ。 計画浮上当初、移転を求められることになった地権者は反対を表明した。先祖からの土地を離れることをかんがみれば、当然とも言える反応。それでも、地権者会のメンバーたちは「全体のことを考えたうえで納得するようにしてきた」と計画賛成にシフトしていくこととなった。 いまでは新しい暮らしに移ったが、交渉開始から移転が決まるまでは、家の修理など少々の不自由さがあっても耐え、毎年の米づくりからも離れるなど、対象者以外に感じ取ることのできない心労を重ねてきた。仮に中止となる場合、こうした地権者たちに対して「やっぱりやめました」の一言で済ますことが、果たしてできようか。 一方で、費用対効果への疑問や生態系など環境保護の観点から建設反対運動を展開する人たちの訴えもある。「コンクリートから人へ」「国民の生活が第一」の政権与党は、地元の声をどう検証に反映させていくつもりなのか。新年も一挙手一投足に注目していきたい。(弘) |
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気仙ゆかりの「龍馬伝」 |
☆★☆★2010年01月07日付 |
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徳川幕府を倒し、明治維新に影響を与えた政治家で、実業家としても知られる土佐藩(現在の高知県)出身の武士・坂本龍馬の生涯を描いたNHK大河ドラマ『龍馬伝』の放送が三日からスタートした。 同じ土佐藩出身で、地下浪人(じげろうにん)という低い身分の家に生まれながら維新後は三菱商会を設立し、一代で三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎から見た「幕末の風雲児」の波乱に富んだ三十三年間の人生を紹介するオリジナル作品だが、この気仙にとっても大変ゆかりのあるドラマである。 というのも、昨年十月末に大船渡市内でドラマの収録が行われ、気仙船大工が技術の粋を集めて建造した千石船『気仙丸』を使用。龍馬役のミュージシャン・福山雅治さんも訪れて地元市民とふれあう機会があったという。 また、剣術に優れていたことでも知られる龍馬。その修行の場だったのが、陸前高田市気仙町が生誕の地とされる剣豪・千葉周作の実弟・定吉が開いた北辰一刀流千葉道場。その腕前は道場で塾頭を務めたほどで、「北辰一刀流免許皆伝」だったとも言われている。 昨年十一月下旬に同市で開かれた千葉周作顕彰の剣道錬成大会に合わせ、周作が開いた道場・玄武館の現館長で北辰一刀流宗家六世の小西真円一之さん(46)=東京、周作から五代目の子孫に当たる熊木慶忠さん(73)=横浜、周作が生まれたとされる村上家子孫の村上清さん(50)=東京=の三人が初めて同市で顔をそろえた際も『龍馬伝』が話題となった。 小西さんによると、大河ドラマの収録に先立ち、玄武館では小西館長自ら出演者に剣術を指導。各俳優たちは幕末の千葉道場での稽古を再現するため、北辰一刀流の流儀や技を熱心に学び、稽古に汗を流したという。 第一回放送の内容は、身分差別が激しい土佐藩で、下級武士「下士(かし)」のひとつ「郷士(ごうし)」の家に生まれた龍馬が十七歳になったころ、友人が上級武士「上士(じょうし)」に無礼打ちされてしまった。同じ下士の若い仲間はかたきを討とうとするが彼はこれを体を張って制止した。 一方、学問にいそしんでいた岩崎だったが、恩師を病で亡くしてしまい途方に暮れていたとき、上士にけんかをふっかけてしまった。その時、龍馬は上士にげたで顔を殴られながらも抵抗せず、「上士も下士も同じ人間」といさめた。意気込む岩崎に対し、「憎しみからは何も生まれない。いつかきっと上士も下士もなくなる日が来る」と話し、身分差別のない社会のあり方を模索し始めるところで終えた。 今後、回を重ねる放送では、剣術修行しながら自分の生きる道を探そうと江戸へ向かう龍馬の姿が描かれる。千葉道場に入門し、日本に開国を求めるペリーの来航を目撃するなど、波乱に富んだ人生がどのように紹介されるか興味深いが、二十四日の第四回放送以降、玄武館の小西館長はじめ二十人ほどの門下生がエキストラとして出演することになっているらしく、その演技ぶりも楽しみだ。 第一回放送を見逃した人は、九日(土)午後一時五分から再放送されるNHK総合の視聴を勧めたい。(鵜) |
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一致協力で気仙を発信 |
☆★☆★2010年01月06日付 |
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都市間競争の時代と言われて久しいが、気仙(けせん)は高速交通体系の揃っている県内陸部からは隔たった土地柄だ。JR大船渡線の利用では、一関まで三時間近い時間がかかる。 実際に体験者もあることと思われるが、首都圏から里帰りした娘の荷物が多いことから、親御さんがそれを持って一関まで送って行ったところ、家に戻る前に娘から「いま東京駅に着いたよ」と電話連絡が入ったという。 岩手と東京間を移動するより、岩手県内を移動する時間の方が長いという不思議な現象。地方の交通事情は、これが現実なのだ。 車社会の今日、新幹線の一ノ関駅や水沢江刺駅、あるいは花巻空港などへはマイカーで送っていく場合が多く、二時間以内で接続できるが、とにかく県内陸から遠い気仙としては、その遠さを克服するアイデアが欠かせない。来訪者を増やすためには、最初からこの地を目指してくれる気仙ファン≠増やすのが早道となる。 基本的に、名前を聞いたこともない土地に行ってみたいとか、名も知らぬ土地の特産品を食べてみたいとかは誰も思わない。交流人口を増やし、気仙の特産品を利用してもらうためには、勢い気仙の名を売り込まねばならない。しかし、これが一筋縄ではいかない。 気仙をアピールするには、幾つもの名前を覚えてもらわなければならないからだ。気仙であり、大船渡市であり、陸前高田市であり、住田町であり、陸中であり、三陸だ。地元に住む我々は、これらの名称を何の苦もなく理解し、使い分けているわけだが、ひとたび気仙を離れた場合、地区外の人たちにそのように期待するわけにはいかない。 大船渡、陸前高田、住田の三市町を合わせた地区が気仙という広域名称になるわけだが、首都圏で「ケセン」という発音を聞くと、半数以上の人が「気仙沼」を連想するというアンケート結果もある。 大船渡という名は、大船渡魚市場がある関係で全国的にも水産関係者の間ではかなり知られているが、それは業界内にとどまる。陸前高田市はどうか。白砂青松の高田松原を抱え、県内一の海水浴場として知られるが、県外となるとどうか。住田町は、畜産と耕作物を組み合わせた集約的農業で「住田型農業」として知られたが、これも農業関係者の間での知名度の高さだった。 碁石海岸や高田松原に代表される気仙の自然景観の美しさは、陸中海岸国立公園という範ちゅうで売り込まなければならない。その一方で、気仙の眼前には親潮と黒潮がぶつかる世界三大漁場としての三陸海岸という呼称もまた重要な意味を持つ。 三陸海岸は青森・岩手・宮城の三県にまたがるだけに南北に長く、そのため「南三陸」という使い方もする。陸中、三陸、南三陸という使い分けが、はたして全国的にも認知されているかどうか。このため、陸中海岸国立公園の名称を、「三陸海岸国立公園」へ改称する運動も展開されているが、いまだ実現していない。 こうして気仙を取り巻く色々な名称を眺めていると、それら一つひとつを個々にアピールする努力は欠かせないながらも、何か地域全体として三市町が結束して「気仙」をアピールする取り組みがあってもいいように思う。 時代の節目に合わせたイベントなどでの名称発信と合わせ、気仙に入ったとたんここは一つの統一された空間だ≠ニ、来訪者に印象づけるような観光地や公共施設の案内表示も工夫したい。 すでに福祉や交通安全団体は実施しているが、改めて旅行者や若い女性、写真愛好者、美術家といった人たちの視点で、気仙全域の表示を点検したらどうなるか。その声を反映させることができれば、気仙観光と特産品販売の飛躍にもつながると思うのだが…。(谷) |
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人生がわかりかけてきた |
☆★☆★2010年01月05日付 |
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この歳まで無為に過ごしてきたくせに、やはり人間は目標を持たねばならないと最近になって気付いた。日々ただ漫然と生きているだけではもったいなさ過ぎる。と、殊勝が頭をもたげたのだ。 そこで三日坊主で終わることのないような目標を二、三掲げたが、ほどなくして「二兎を追う者は一兎をも得ず」と気付いた。というのはウソで一兎を追うだけで息切れしたというのが本音。晩酌でも断てば時間を持て余してもう一兎ぐらいは追加できようが、愚生にとって晩酌の一滴は血の一滴。命の水を断って何のかんばせぞ。 その目標だが、新たに未知の領域に飛び込むというような大それたものではない。日常の生活の中で一つのリズムとなっているある事を合理的に見つめ直してみるという、たったそれだけのことである。 顧みれば七十年になんなんとする自分史の中で、文字通りライフワークとして取り組んできたものは何もない。取っかかりだけはいいが、すぐ飽きるか挫折するか、いずれ長続きはせず放り出してきたもののみ多かりきという体たらくである。 それも人生ではあろうが、そろそろ言い訳めいたものも欲しくなってくるのが歳というものらしい。「こうだからこうだ、よってわが人生に悔いなし」というように。ところがその「悔いなし」の叙述部分がまだ見付かっていない。まさか「飲むも飲んだり、喫うも喫ったり。わが人生に悔いなし」などとは口が裂けても言うべきではない。 遅きに失したきらいはあるが、ボケ防止もかねて一つ何かに向き合ってみるのも意味のないことではなかろう、と考えたところに実は意味がありそうな気がするのである。若ければこそ「まだ時間がある。なんとかなるさ」という猶予が、老境に入った今はもはや許されない。となればこそのこの変化は、脳内に多少なりとも刺激を与えずにおられないのではないか。そんな期待もできないではない。ボケ予備軍はワラをも掴むというわけである。 しかしこれは正解だった。若さと勢いだけでがむしゃらに取り組んできたことが、実は空振りに等しく、本質からそれて一人歩きしていたことが判りかけてきた。いやそれは正しくない。それがどういうことか以前から脳は理解していたのだが、意思の方が伴って付いて行かず、結局は「ま、いいか」という妥協にすべてを委ねてしまったというところだろう。結論を言えば先を急ぐ余りどこかで手を抜くか、あるいは「面倒だ」「億劫だ」「それが何になる」というものぐさの論理が本質を先送りしたり、脇に追いやっていたのだった。 もっと若い時この反省に立っていれば、わが人生は多少変わったものになっていたかもしれないが、しかし若いからこそ気がつかないということもある。今さらながらと言われそうだが、それでも反省できたというのは一歩前進であろうか。いずれいまわの際には笑って「わが人生に悔いなし」と言ってみたいものである。(英) |
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「朝日長者」の初夢 |
☆★☆★2010年01月01日付 |
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みなさま、明けましておめでとうございます。いろいろな願いを胸に新年をスタートさせたことと思いますが、まずは健康と安全を基本に、共々にこの一年を乗り切っていきたいと思います。 平成も早や二十二年。西暦二〇一〇年は、あのミレニアム(千年紀)フィーバーから十年を迎える。過ぎゆく時間は早く、一方では内外経済が厳しさを増す昨今だけに、気仙の未来に何かを残す始まりの一年ともしたい。 気仙郡という、一つのまとまりを持った地域として我がケセンが歴史上に登場したのは、弘仁(こうにん)元年(八一〇)十月とされる。このため今秋に、気仙郡名の正史記録初出から千二百年という節目の年を迎えるわけだが、この長い年月の間には地域産業を支えながら、いつしか消えていったものも少なくない。 たとえば、陸前高田市の玉山金山や雪沢金山、大船渡市の今出山金山、住田町の蛭子館(ひるこだて)金山などは伊達藩の「四大金山」と呼ばれた時代もあったとか。しかし現在はその面影も薄れがち。炯屋(どうや)と呼ばれた製鉄産業などは、歴史の彼方に埋もれかけている。 砂鉄を原料にたたら製鉄を行ったものだが、鉄は産業にも生活にも不可欠のものだった。そのたたら製鉄に関連し、全国各地に「朝日長者」の物語が伝わる。言葉だけからは、“昇る朝日の勢いを持つ長者”と連想しがちだが、史家によると少し違った解釈もある。 出雲の国の伝説では「目一つの神」という言い方もされるが、たたら製鉄にはかなりの根気と技能が要求された。原料の砂鉄から鉄を取り出すまでには、三日三晩の籠(こ)もりが必要だった。 炉に火を入れて鉄を吹くという作業を繰り返すが、そこで言い伝えられているのが「最初の日は朝日の昇る色に吹け、二日目は太陽の日中の色に吹け、三日目は日が西山に没する色に吹け」という言葉だった。 ちょうどご飯をおいしく炊く心得に「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋(ふた)取るな」があるように、いい鉄を取るには最初は昇る朝日の赤、中日は白熱の太陽の色、そして最終日は夕陽色に火加減することが、たたら製鉄の基本と言い伝えられてきた。 大切なのは、この火の色を判断する村下(むら猪=棟梁)の役割だった。きちんと朝日や夕陽の色になっているかどうかを確認するため、片方の目で何回となく炉を確認しなければならない。 村下を続けていると、いつしか片方の目が見えなくなってくる。それが「目一つの神」だ。そしてまた、常に良質の鉄を作り出すことに成功すれば、長者となることも夢ではなかった。これが「朝日長者」と呼ばれた理由だという。 長者という言葉には、必ずしも富裕ではなく、単純に長(おさ)という意味もあったかもしれないが、ともかく朝日長者や目一つの神という言葉には職業病的な意味合いが秘められていた。 昔は、こうしたことは何もたたら製鉄に限ったことではなかった。今でこそ少なくなったが、昔のお年寄りは皆腰が曲がっていたものだ。それは、長年にわたる田や畑仕事に従事した証(あかし)だった。家族のため仲間のため、長年にわたって黙々と努力した結果が朝日長者や腰の曲がったお年寄りの本来の姿だ。 気仙の置かれた状況には、正直厳しいものがある。今何もしなけば、三十年先には人口が40%減り、五十年先には半減となる。赤子の泣き声が聞こえず、甲高い声とともに屋外で遊ぶ子どたちの姿が見られなくなる社会が、刻一刻と進行している。それだけに、たとえこの身は目一つになろうとも、輝ける地域の未来のため地域振興に一身を投ずるという人材が、ふつふつとわき出る一年となることを祈念したい。(谷) |
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続・平氏の末裔「渋谷嘉助」H |
☆★☆★2009年12月31日付 |
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東京の日本橋でダイナマイトなどの火薬類を販売する陸軍御用達の渋谷商店を経営していた渋谷嘉助は、明治二十七年(一八九四)の日清戦争で一躍注目を集めた。 至誠奉公を信条とした渋谷嘉助は、日清戦争後、日本に割譲されて新領土となった台湾島にも、自ら組織した職工団を派遣し従軍させた。 台湾には、北白川宮能久親王の統率する近衛師団が駐留していた。渋谷商店の店員、職工など数百人を編隊し、その後方勤務に当たらせた。 師団は現地の抵抗勢力と悪疫に苦しめられ、特に悪疫の流行には多くの軍人軍属が倒れ、旅軍の中で衛生看護が思うに任せず罹患者が拡大したとされる。 この報告を受けた渋谷嘉助は、直ちに腹心の店員を派遣した。「全員一丸となって衛生施設に従事し、命がけで防疫に当たれ」と悪疫予防の訓戒を添えて命じた。その際に、病気の感染を恐れる者に対しては帰国の旅費を与える配慮も示したという。 日本統治が始まった当時、僻遠の地だったため国内の実業家たちも進んで台湾の開発に乗り込む者は少なかったとされる。 そのことを案じた渋谷嘉助は、「私は財産を投じても構わぬ。十分な開発を計らねばならん」と、この時も負けじ魂と至誠奉公で立ち上がった。 そして、派遣した一団のうち十数人の店員をそのまま残留させて、いち早く渋谷商店の支店を開設した。 店員たちは開発に必要な有益な調査を行った。その結果、渋谷嘉助は他の実業家に先駆けて縦貫鉄道の計画を立て、さらに製糖事業の基盤を築いた。 台北市などの枢要な地に広大な土地を購入したのも、将来の発展に着目してのことだった。 同業者からは突飛な行動と映り、親しい人々からも忠告を受けたが、こうと思い立った渋谷嘉助の一念は固かった。 「私は小さい利益のために働くのじゃない。お国のためと思えばこそだ。損失をして丸裸になってももともとじゃないか。私はいつでも喜んで裸になるつもりなのだ」と語ったという。 渋谷嘉助の達観は着々と実現した。台北に設けた土地管理所は莫大な年収を上げ、間髪入れぬ行動は大きな効果をもたらした。 渋谷商店はそのころ、先代以来の陸軍御用達として兵器材料の供給、ダイナマイトの輸入販売のほかに、土地管理、土木建築の分野にまで拡大した。 渋谷嘉助自身が台湾に渡ったかは不明だが、渋谷商店の支店を出した同じころ、本県の偉人・後藤新平も台湾にいた。 現奥州市水沢区に生まれた後藤新平は、初代満鉄総裁、東京市長を務める以前の明治二十九年、軍艦「吉野」に乗り初めて台湾に赴く。 台湾総督府の衛生顧問嘱託などから民政長官となり、鉄道部長などを務め、明治三十九年まで台湾を主舞台に活躍した。 その後藤新平が、渋谷嘉助を顕彰して大正十五年に建立された珊琥島協同園由来碑に「協同」の題字を書いている。 大船渡湾の珊琥島の大半を所有していた渋谷嘉助が、大船渡、赤崎の協睦のために島を寄付したことに感謝して、両村が建てたものである。 珊琥島の顕彰碑に刻まれた、渋谷嘉助と後藤新平のつながり。それは、台湾における事業の中で生まれたのかもしれないと思われるのである。(ゆ) |
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若い時の母≠ニ対面 |
☆★☆★2009年12月30日付 |
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こんな昔話があります。 ―貧しいながらも平和に暮らす父、母、娘がいました。しかし娘が十五歳になったとき、母が病で倒れてしまいました。余命幾ばくもないことを悟った母は、娘を枕元に呼んでこう言いながら形見わけをするのです。 「これは昔、お父さんから貰った大事な都からの土産。私の魂が込められてますからね。お母さんの顔を見たくなったら、いつでもこれをのぞいてみなさい」 間もなく母は亡くなり、残された父と娘は助け合いながら仲良く暮らしました。でも無性に寂しくなる時があるので形見≠のぞいてみます。するとそこにはお母さん≠フ姿が現れるのです。 新しいお母さんがやってきても、娘はこっそりとお母さん≠フ姿を眺めていました。その様子を不審に思った父と新しいお母さんは、娘は何をしているのかと部屋をのぞいてみることにしました。 するとそこには、一心に手鏡を覗きこんで、写し出された自分の姿を「お母さん」と呼んでいる娘の姿があったのでした―。 原作は『松山鏡』という話。色んな形で伝えられていますが、この話に相通ずることがあった。 ―師走になると身の回り、しいては髪型だって整えたくなるもの。ポニーテールもできるほど伸ばしてきたストレートヘアを「そうだ、髪を切ろう」と思いたって、美容院へ行った。 しかしどうせ切るなら、と欲が出てきた。大幅なイメージチェンジもしよう、バッサリと肩に届かぬくらい短くして、パーマもかけよう!―と店員さんにお願いして約一時間半。髪に巻いてあるロッドをすべて外され、鏡に写った己の姿を見た時、こう思った。 「お母さんだ!」 パーマをあてて長時間座っていた疲れから顔色が少し悪くなった自分の姿が、昔の母にそっくり。 冬空の下、風に吹かれて髪を少し乱しつつ、寒さで顔を白くしながらも保育園の入り口まで私たち姉妹を迎えに来てくれた時の、あの母の姿が今ここに。 『お母さーん!』と心の中で叫んで幼き日々を思い出した。自分は母親似と思っていたが、まさか髪型一つでここまで劇的に似るとは…おそるべし髪型!あなどってはいけないのだ。 そして、気がつけば母が私たちを保育園に送り迎えしていたのが、今の自分(未婚)と同い歳。私、いつの間にか子育てしていてもおかしくない年齢になっていたのか。うーん、時が経つのはおそろし……いや、早いですね。 「♪もういくつ寝るとお正月…」という歌に「あと二回ですよ」と即答できるくらい、新年がもうすぐそこまで来ている。今年も世の中悲喜こもごもあったが手狭に自身を振り返ってみれば、忙中閑あり多少の起伏ありだったが、比較的元気に無事に過ごせた。とくに家族全員が、大病を患うことなく健康に恵まれたことがいつにも増してうれしく思える。 そう思えたのも若かりしころの母≠ノ会えたから―いや母は今でも健在なのだが、改めて月日の流れや重みを感じたことで、家族とここまで歩んできたことが急にいとおしくなってきたのだ。 でも鏡を見た時は本当にぎょっとした。若い時の母がそこにいる。ある意味、時間が巻き戻ったような気分……ということは。ある考えがひらめいたので、その日の夜、一目瞭然の娘の変化をあえて父に問うてみた。 「きょう髪を切ってパーマかけてきたんだけど、どう?」 「うーん、どうって言われてもなあ〜…」 愛する妻の若かりしころの姿≠ノ狂喜乱舞するかなと期待したのに、父の口ぶりからは似合ってないぞ、その髪型≠ニいう現実が漂った! ……いいんだ、年の瀬にこんな会話が家族とできるほど幸せなことはないのだから。(夏) |
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「自動計算機」はどこまで行くのか |
☆★☆★2009年12月29日付 |
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人類が初めて月に降り立った時の映像に強烈な感動を受けたのは、子どもの頃すでにその想像図を見ていて、やがていつの日かそれが実現するだろうと考えていたからだろう。宇宙ステーションの図もイラストレーター・小松崎茂によってすでに描かれていて、これまた現実となる日の到来を信じて疑わなかった。その当時の宇宙にかける人類の夢はほぼ想像通りに実現したといっても過言ではあるまい。 では、一般の生活はどうなるのかという当時の予測となると、現実との対比が絡むためか壮大なバラ色の夢は浮かんで来ないもので、ただ漠然と便利で快適な暮らしがもたらされるであろうぐらいしか考えられなかった。当方が小学生となった頃の文明の利器といえば自転車とミシンとラジオぐらいなもので、電気アイロンもやっと登場したばかりだったから、いくら想像力をたくましくしても限界がある。 それでもソロバンが出来なくて先生に叱られた時、「将来は自動計算機というものができるから」とその言い訳を用意していたのはわれながら天晴れだった。だがその自動計算機が実際に生まれて、さらに以後の生活をこれほど変えることになろうとは想像もつかなかった。人間の向上力といったものは幾何級数的に増大増殖するものだという前提を考慮しないで科学の発展は考えられない。その多くは積み重ねの上に成り立って行くものであり、一挙に目標に達するわけではない。その積み重ねというものに人類の飽くなき希求を思い知らされるのがここ二、三十年ぐらいの変化であろうか。 それは一口に言ってパソコンの大化けという現象に代表される、というよりそれに尽きるだろう。パーソナル(個人向け)コンピューターが、個人向けにとどまらず科学計算用のスーパーコンピューター並みに進化したその一大変化のことである。 この機器が世の中をどう変えてしまったかは説明を要すまいが、ビジネスの世界でその貢献はすさまじいものがある。新聞製作の場合だが「上半身」と呼ばれる組版の部分を例に取ると、かつてはゆうに一億円以上したシステムが百万円単位で導入できるようになったのである。その恩恵は小社のようなミニ新聞社にとって計り知れないというより、まさに夢が叶った思いである。この変化はある程度予測はできた。しかし実用化までの速度とコスト低減率は予測をはるかに超えていた。 残念ながら「下半身」つまり印刷の部分はまだ重厚長大に依存していて、軽薄短小の恩恵にはなおあずかっていないが、いずれグーテンベルグ以来の伝統を覆す印刷システムの登場が指呼の間に迫っていることは確かだ。 しかしコンピューターが進化すると今度は人間の能力が追いつかなくなってくる。かつてはあれほど「パソコン命」だった当方も今では扱いが煩わしくなり、できれば触りたくなくなってきている。すると登場してくるのが「バカチョン」だ。つまり「バカチョン・パソコン」のお出ましとなる。その予告編として新しいキーワードとなっているのが「クラウド・コンピューティング」だろう。 クラウドは英語で「雲」で、文字通り「雲をつかむような」概念だが、要約すれば日常のコンピューター作業をアウトソーシング(外部委託)するというか、外部コンピューターに一切を任せるということである。 パソコン本体もソフトも持たず、その作業をネットを使って業者(データセンター)に頼むということで、その波が確実に押し寄せてきている。この波は業際の壁を取り払っていくに違いなく、おそらく産業界全体に劇的な変化が起こるだろう。そして人間はいよいよ頭を使わなくなり文字通り「バカチョン」となっていく。ああおそろしや。(英) |
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殿堂入り火の玉野球∞ |
☆★☆★2009年12月27日付 |
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今年の野球界を沸かせた話題と言えば、WBCにおける日本の連覇と甲子園における花巻東の活躍が挙げられる。特に花巻東は、一五五`左腕・菊池雄星投手の力投によって春のセンバツ準優勝、夏の選手権で4強入りを果たした。 来春オープンする甲子園歴史館の「高校野球歴史コーナー」への展示が、県内ではその花巻東と大船渡の二校のみという点に、昭和五十九年センバツの火の玉野球旋風≠フ意義がある。 当時の高校球界は、桑田・清原というスーパースターを抱えるPL学園(大阪)が、群を抜く強さを誇っていた。その両選手より一学年上の選手たちを主力とする大船渡は、大方の予想を裏切る快進撃を続けた。 初戦では、新チーム結成から無敗の中国地区王者・多々良学園(山口)に4―0で快勝。二回戦では強打の日大三島(静岡)を8―1で粉砕。準々決勝では、四国の古豪・明徳義塾(高知)を1―0で完封。ここに大船渡は、県勢としては当時の過去最高成績となる「センバツ4強」に名を連ねた。 準決勝で相対したのは、大船渡と同じく初陣の岩倉(東京)。それまでの岩倉の戦いは接戦の連続だっただけに、現地取材していた素人記者にはその強さが分からなかった。しかし、改めてその対戦成績を見ると、近代福山(広島)に4―2、金足農業(秋田)に6―4、取手二(茨木)に4―3と、いずれも強豪に打ち勝っていた。 金足農は、大船渡が東北大会で死闘を繰り広げた相手。エース水沢は甲子園でも健在で、一回戦では八回途中までノーヒット・ノーランを演じていた。その投手から6点を奪っていたし、取手二も大型選手揃いで東の横綱≠ニの前評判さえあったから、それらを破った岩倉は難敵だった。 準決勝のプレーボールがかかった時、出場三十二校のうちすでに二十九校が姿を消していた。残るは、一足先に勝ち上がったPLと、大船渡、岩倉の三校のみ。ここを突破すれば、甲子園決勝の桧舞台が待つだけだった。 対岩倉戦でも、大船渡はいかんなくその本領を発揮した。三回表に安打を集中して1点を先取すると、金野―吉田のバッテリーを軸に堅守ぶりを発揮。六回に同点に追いつかれるも、試合内容は大船渡が完全に押していた。 最終九回裏も簡単に抑え、さあ延長だと思っていた矢先、この回の岩倉の先頭打者・菅沢がレフトポール際に放った一打が「公式戦での生涯初本塁打」となり、大船渡の快進撃はここで途絶えた。結局、この年のセンバツは岩倉がPLを1―0で下して初優勝。PLのエース桑田から決勝点を奪ったのは、またしても菅沢だった。 全員野球を掲げた大船渡旋風。その後二十五年間、県勢での最高成績を維持したが、今春の花巻東にその席を譲った。しかし、五十九年の大船渡は夏も甲子園に連続出場。惜しくも夏の勝利は逃したが、代わって金足農が4強入り。そのため、翌春のセンバツへの東北代表枠は従来の2校から3校に増やされた。 甲子園歴史館への殿堂入りを果たすことになった大船渡は、主力選手だけでなく脇役の持ち味が光り、控えにもムードメーカーを起用するなど、指導陣を含めたチーム一丸の態勢があった。それを背後から物心両面で支える、多くの人材と組織もあった。 当時活躍した選手たちが今は後継者として育ち、実社会の第一線で活躍している。大船渡も花巻東も、地元選手で構成したチームだったことも特記される。気仙や岩手に残っても、甲子園で活躍できる証明だ。 記録は破られるためにある。花巻東の記録も、また破られるに違いない。できれば東北に岩手に、甲子園の大優勝旗を持ち帰りたい。それを果たすのは、気仙の球児たちであることを願ってやまない。(谷) |
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墓碑銘2009 |
☆★☆★2009年12月26日付 |
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ジングルベルの音がにぎやかに通り過ぎ、二〇〇九年が静かに暮れようとしている。新型インフルエンザ、政権交代、デフレ不況と、さまざまなニュースが駆けめぐった今年、国内外では、一時代を築いた著名人の訃報が相次いだ。その何人かを偲び、紙上に墓碑銘を刻みたい。 六月二十六日(日本時間)、米国から衝撃的なニュースが飛び込んできた。「マイケル・ジャクソン死す」。突然の悲報に、世界が揺れた。 代表作「スリラー」の世界総売上げは一億枚以上。キング・オブ・ポップ≠ニ称され、ギネス記録で「史上最も成功したエンターテイナー」に認定された。若くして極めた栄光と成功。世界中から絶大な人気を誇ったスーパースターは、数々のスキャンダルにまみれながら偶像化され、五十歳というあまりに早すぎる死によって伝説となった。 日本の芸能界では八月、女優の大原麗子さん(62)が亡くなった。「すこし愛して、なが〜く愛して」のCMで一世を風靡した癒しのヒロイン。独特のハスキーボイスと甘い口調が今も耳に残る。 難病の「ギラン・バレー症候群」を患い、ここ数年、表舞台から遠ざかっていた。華やかな女優生活と愛らしい笑顔。そのイメージとかけ離れた孤独死という最期があまりにも切ない。 十一月には、戦後の芸能史を彩った国民的俳優の森繁久彌さん(96)が天寿を全うした。 森繁さん主演作品で今でも忘れられないのは、故・向田邦子さんが脚本を手掛けた名作ドラマ『だいこんの花』。竹脇無我さんを息子役に、頑固でユーモアあふれる父親を演じた。 ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』では約二十年にわたりテヴィエ役を務め、長期間の公演記録を樹立。今なお愛される名曲『知床旅情』を世に送り出すなど各界に大きな足跡を残した。 芸能界では、一九七〇年代に活躍した四人組グループ「フォーリーブス」の青山孝史さん(57)、俳優の山城新伍さん(70)、牟田悌三さん(80)の訃報も届いた。認知症を発症して女優を引退した南田洋子さん(76)、故・石原裕次郎さんの芸能界の育ての親として知られる元女優の水の江滝子さん(94)らも帰らぬ人となった。 音楽界では五月、日本ロックの革命家といわれた人気ミュージシャンの忌野清志郎さん(58)が逝った。同じ月、作曲家の三木たかしさん(64)と作詞家の石本美由起さん(85)も死去。十月には『あの素晴しい愛をもう一度』など数々のヒット曲で知られる作曲家で音楽プロデューサーの加藤和彦さん(62)が急逝した。 スポーツ界では六月、日本女子マラソン界のパイオニアとして、ロサンゼルス五輪に出場した大船渡市出身の永田(旧姓・佐々木)七恵さん(53)が亡くなり、故郷の各界から追悼の声が相次いだ。 プロレスリング「NOAH」のエースで、受け身の天才といわれた三沢光晴さん(46)が試合中の事故で死亡するという悲劇が起きたのも六月だった。「フジヤマのトビウオ」と称賛された世界的な競泳選手で、戦後の復興のシンボルとして国民を勇気づけた古橋広之進さん(80)、巨人V9戦士の土井正三さん(67)、元広島東洋カープ監督の三村敏之さん(61)らも鬼籍に入った。 個人的に今年、最も衝撃を受けたのは麻生内閣の財務・金融担当大臣など政権の要職を歴任した中川昭一さん(56)の急死だ。数少ない真の保守政治家といわれ、日本の将来を担うリーダーの一人と期待されていたが、G7でのもうろう会見≠ナ大臣辞任に追い込まれた。 その後、八月の衆院選で落選。自身のホームページで「新たな決意を持って進んでいく」と再起を誓っていたが、失職から二カ月後に突然死。自殺した父・一郎氏と同様、道半ばでの「非業の死」という言葉が思い浮かんだ。 このほか、元アナウンサーの頼近美津子さん(53)が五月、古典落語の名手で、テレビ「笑点」の司会などで親しまれた三遊亭円楽さん(76)が十月に死去し、今月二日には日本画の巨匠・平山郁夫さん(79)が亡くなった。 円楽さんは病魔との闘いが続く中、一昨年二月、「ろれつが回らない」と潔く引退を表明。「円楽」の名跡を直弟子の楽太郎さんが受け継ぐことも決まり、「お後(次の出演者の準備)がよろしいようで」と、人生という名の高座を下りた。 最後に、今年、惜しまれつつ人生の幕を閉じた有名、無名の物故者の冥福を祈り、合掌。(一) |
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