ジャーナリズムの原点 シリーズ A
渡邉恒雄氏におけるジャーナリズムの研究
初出 「世界」(岩波書店)2000年1月号
一九九九年六月二十七日、札幌市で開かれた日本マス・コミュニケーシヨン学会の一九九九年春季研究発表会には全国から三百余人の会員が集まった。その研究発表やシンポジウムの合間、一つのエピソードが出席者の間で話題となり、日頃「表現の自由の尊重」を説いてきた研究者やジャーナリストにショックを与えた。
それは、「日本新聞協会会長に就任した読売新聞社社長渡邊恒雄氏が協会の研究機関誌を『偏向している』と批判した」という情報だった。「日頃高圧的な渡邊氏も、新聞協会の会長になれば、少しは穏やかになるだろう」という期待が希望的観測に終わったことに、メディア関係者は落胆した。
協会はこの出来事を公表しない。しかし、ジャーナリズムの行方に危機感を持つ人々から、その事実関係が少しずつ明らかにされた。
渡邊氏が会長に選任されたのは六月十八日の会員(協会加盟社)総会でだが、実際は四月二十一日の協会理事会(理事は加盟紙幹部)が満場一致で内定した。前年の秋以来、読売新聞社は共同通信からの脱退を示唆していたが、それはただちに共同と加盟他社の財政圧迫につなぶるため、その撤回が期待されていた。新聞界の命運を左右する『再版指定解除」問題に対する政治力も必要とされた。それらが渡邊氏の新聞界支配力を再認識させ、結果的には協会会長選任ヘの追い風になったことは否めない。
こうして、渡邊氏の会長選任に反対する声は抑えられたが、同時に、加盟社や協会事務局内には渡邊体制に対する警戒心と不安感がみなぎっていた。
不安が初めて現実のものとして認識された場は、五月二十八日、福岡市で開かれた新聞協会の論説責任者懇談会だった。それには、全国から新聞.通信・放送四十入社の論説・解説責任者五十-人が参加し、政治・経済・自治問題などについて意見を交換した。
日本新聞協会報(週刊紙)六月-日号によると、読売新聞の荻野直紀論説委員長がガイドライン関連法案の成立についで発言し、「日本の平和を守るために何をやるベきか考え始める一歩となる」と評価する意見を述ベている。会報はそこまでしか書いていない。
しかし、出席者によると、荻野氏の発言は、実際には新聞協会編集部の編集傾向に及び、具体的に『新聞研究』(新聞協会発行の月刊研究誌)五月号の座談会(「安全保障・憲法・ジヤーナリズム」)の内容について、「ガイドライン批判側の意見にスペースを割き、公正ではない」と強く批判している。それが荻野氏の個人的見解でないことは、出席者の誰もが気づいている。
そして、三週間後の六月十八日、渡邊氏が正式に新聞協会会{長に選任されると、協会事務局幹部に対する挨拶の中で、とくに『新聞研究』の編集方針に触れ、「偏向がみられる」と警告したのだ。
新聞協会の編集部門が、渡邊氏の圧力を実感させられたのはそれが初めてではない。
たとえぱ、一九八四年初め、新聞協会が法制研究会(第八次)の二年半にわたる研究をもとに「編集権」に関する報告書をまとめたとき、それを知った渡邊氏(当時、論説委員長)が協会幹部を叱責した。彼の意見では「読売新聞の代表として原四郎氏が参加したが、彼は編集主幹(当時)で読売新聞の編集権を代表していない」というのだ。つまり、編集主幹は報道部門は総括できるが、編集権の主体をなすのは社論で、論説委員長の方が編集権の代表者にふさわしいという。
渡邊氏は、記録を送付させ、自分の閲読が済むまで報告書の公表を禁じた。それは実質的な検閲であり、このため報告書の刊行も二年近く遅れた。報告書「新聞の編集権」が刊行されたとき(一九八六年一月)、編集責任者・日本新聞協会研究所山田幸男所長(当時)はその「はしがき」で、「本書の刊行が当初の予定より大幅に遅延し、ご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げる」と書いている。
この事件は、新聞協会事務局に対する渡邊氏の発言権と影響力を増大させる大きなきっかけとなったが、同時に渡邊氏は、一九八五年六月、読売新聞の主筆兼論説委員長となって、名実ともに同社の編集権を掌握した。
渡邊氏は、つねづね、‐新聞の「編集権」と「社論」に対して第三者の介在を許さなぃ、と力説している。それは新聞経営者の、一つの見識といえる。しかし、.実際には社内における自己の発言カと権限に対する強迫的ともいえる執着心であり、他者の編集権に関しては、それを侵害して何らはばからない。
. 反射的効果として、.読売新聞社内には〃渡邊社論〃に対する迎合が蔓延し、反論は鳴りを潜め、実質的に表現の自由が抑圧された状況が続く。個々のジャーナリストの独立性を阻害し、言論を抑圧する自らの強権的な言動に、渡邊氏は陶酔こそすれ、いささかもひるむことはない。
渡邊氏の会長就任内定後、日本新聞協会編集部の出版物では、読売新聞の論調が優遇されるようになつた。それを「渡邊氏に対する『気配り』」と協会内部では自嘲する。例えば、「新聞協会報」の二面に「紙面展望」という欄がある。ここは、新聞論調を、協会審査室が整理して紹介する欄だが、五月を境に、政治的に論争の的となる問題では読売新聞の論調のウエイトが急激に高くなつた。
それまでは、見」出しも記事内容も、多数派の論調を優遇していた。三月二日号の同欄は「情報公開法案の衆院通過をめぐる社説」を次のように編集していた。
見出しは「地方紙は内容に不満」「知る権利うたわれず」の二本で、記事も「知る権利抜きの法案」という法案批判を重視している。法案を評価する読売新聞の社説は、記事の後半で紹介された。
「国旗・国歌の法制化をめぐる社説」を取り上げた同月二十三日号の同欄をみると、見出しは「在京紙は替否相半ば」と「教育界の混乱が議論に」を浮き彫りにし、記事は「日の丸・君が代は負の遺産」という法制化疑問視の論調(朝日、北海道など)を先に並べ、やはり法制化賛成論の読売新聞には後半部分で触れている。
そうした扱いが公平かどうかは別にして、政治的問題では新聞界の少数派に属しがちな読売新聞の社説紹介は、従来、記事の後半、三分の二.付近が定位置の形だった。ところが、六月から、それが記事のトップかそれに近い位置に急浮上する。
例えば、「通信傍受法案の衆院通過をめぐる社説」をテーマとした六月十五日号の「紙面展望」を検証してみよう。本文によれば「法案に賛成したのは数紙で、多くは『憲法の規定に抵触しかねない』と、法案を危ぶむ論調だつた」にもわらず、個別社説の招では、少数・賛成派の読売新聞を最初に持ってきた。
それは偶然とはfいえない。翌月七月二十日の同欄「憲法調査会の設置法案をめぐる社説」をみてみょう。
ここでは「二十四社が社・論説を掲げ、大半は『論憲』そのものには異議は唱えなかったものの、改憲指向については、ガイドライン関連法、国旗・国家法案などと同様、賛否が分かれた」と総括したあと、各論紹介では「歓迎」論を先にし、「読売」.の社説がトップを飾った。
それまで「この欄の〃トップバッター″や〃とり″(真打ちが登場する最後)は朝日独占の観があったが、夏以降、朝日は中盤に下がることが多い。こうした新聞協会出版物の編集内容の顕著な変化は、メディアの中心軸を読売新聞に傾けざるを得なくなった新聞協会の環境変化を反映しているのだろう。
いま、協会内に閉塞感が漂うとともに、ジャーナリストやジャーナリズム研究者の間には重い空気が広がっている。渡邊氏の会長就任が生んだ変化を、わが国のジャーリナズムの正常化と歓迎する人々がいないわけではない。しかし、ジヤーナリストの多くは、渡邊氏のメディアヘの影響力を見せつけられるごとに、それがジャーナリズムの本質を変容させていることに心を傷めているはずだ。
実際、渡邊氏の会長就任は、同氏の思想やこれまでの経歴を知る外国のジャーナリストからは驚きをもって受け止められている。実際に渡邊氏のジャーナリズム観は国際常識からは大きく外れている。会長就任後、新聞協会報とのインタビューでは次のように語った(同紙六月二十九日号)。
「新聞は日本経済の活性.化に向けて、政治や経済の改革を論説などで主張していくべきだ。読売も提言報道を展開している」
そして、「新聞の使命をどう考えるか」という質問に、次のように明言している。
「日本だけが高級大衆紙を実現しており、今や欧米に学ぶ点はない」
欧米のメディアに学ぶ点はない―と言い切れる日本のメディア人がほかにいるだろうか。わが国のジャーナリズムの過去と現在のありようを観察して、どこからそうした発想が生まれるのだろうか。渡邊氏が持つジャーナリズムの倫理観や価値観は、国際的な規範の反対軸に立つているとみなさざるを得ない。
では、ジャーナリズムのあるベき規範どはどういうものだろうか? 現存するメディアの倫理基準やジャーナリストのガイドラインを挙げれぱきりがない。しかし、視点を変えて、わが困のジャーナリズムに欠けている、あるいは軽視されている倫理を挙げることはたやすい。それはとくに「フェアネス」(公正さ)と「公私のけじめ」に集約できると思う。
「フェアネス」(Fairness)とはどういうものか。戦後、連合軍の占領政策「日本民主化」に沿って作られた日本新聞協会の「新聞倫理綱領」(一九四六年七月ニ十三日制定)は「記者の言動を律する基準Lとして「自由、責任、公正、嘗品」を挙げている。この「公正」がフェアネスにあたる。
しかし、その内容をつきつめてみると、「公正」は、欧米の「フェアネス」とはかなり違う。
前記「新聞倫理綱領」は、公正の具体的な内容を次のように規定している。
「第4 公正個人の名誉はその他の基本的人権と同じよぅに尊重され、かつ保護されるベきである。非難されたものには弁明の機会を与え、誤報はすみやかに取り消し、訂正しなければならない」
ここで指摘されているのは、端的にいえぱ「書かれる立場にある人々の人権の尊重Lだろう。それがジヤーナリズムにとって欠いてはならない指針であることには疑いない。しかし、元来、「フェアネス」の概念は人権尊重の枠にとどまらず、スポーツにおける「フェア・プレー」のように、「省みて自かlらの言動を恥じない」というような、.もつど幅広い概念ではなかろうか。ところが、わが国のジャーナリズムに、こうした概念は正しく導入されなかつた。例えぱ、アメリカ新聞編集者協会(ASNE)は、「順守綱領宣言」(Statement
of interest)の中で次のように述ベている。(注=アメリカでは、新聞編集者と、発行者・経営者とは別個の独立した団体を作つている)。
「第6 フェア・プレー ジャーナリストはニュース当事者の権利を尊重し、良識ある品位を保ち、ニュース報道の公正と正確さについては公衆に対して説明義務.をはたさなけれぱならない。公然と非難された人々には、すみやかに弁明の機会をあたえる。取材源に対しては、秘匿の約束をしたら全力を挙げて約束を尊重し、.公開させてはならない。しかし、取材源は、それを秘匿する明白で切迫した必要性がなければ明示しなければならなぃ」(一九二二年採択、一九七五年改正)
次に「公私のけじめ」とはどういうことか。それは「Conflict of interest」のことであり、直訳す.ると「利益の衝突」だが、日本語の概念としては「公私のけじめ」や「公私の利害の峻別」に当たる。それは、個々のジャーナリスト(社員かフリーかを問わない)の行動を幅広く律する指針であり、自らそれに厳格でなければ、個々のジヤーナリストとジャーナリズム全体の独立性が失われ、メディアの信頼は失われる。
欧米のメディアの企業や団体は、倫理綱領に必ずといつていいほど「Conflict of interest 」の規定を含んでいる。例えぱ、アメリカ最新の倫理綱領といえる「ガネットL(アメリカ最大の日刊新聞シンジケート)の倫理行動原則(一九九九年五月採用)は、次のように述ベている。
〔独立性の維持〕
・われわれは、報道の信頼性を損なうような外部の利益、投資あるいはビジネス関係にはかかわらない。
・われわれは、ニュースを左右しようとするいか.なる人物とも公正な距離を置く。
・われわれは公私の利益を峻別し、報道に対する不当な影響を排除する。
・わ.れわれは、ニュース・ソースやニュース当事者や広告主に不当な負い目を持たない。
・われわれは、広告とニュースを識別する。
以上の諸点からみると、「欧米に学ぶ点はない」という渡邊氏のジヤーナリズム観が空疎であることに気づくだろう。しかし、そうした発想は、渡邊氏のメディア人としての軌跡そのものに根ざしているといえる。それを、以下に例証していく。
渡邊恒雄著『天運天職』(光文社刊。一九九九年刊)の「はじめに」で、同氏ヘのインタビュアーを務めた元読売新聞政治部記者・中村慶-郎氏は、「戦後最大の政治記者は渡邊恒雄氏だ」と称賛している。
さらに次のように説明が続く。
「渡邊現社長が-線の政治<記者として活躍しているころを知っている政界関係者なら、誰でもそぅ思うのではないだろうか」「その実力ぶりを示す『伝説』はい,くつもある―これらの『伝説』はすべて事実といってよい」
しかし、『伝説』は、.その多くがこれまでは公表がはぱかられる反ジャーナリズム的行動ではなかったか。言い換えると、.渡邊氏はジヤ}‐ナリストとしての「公正さ」や「公私のけじめ」を、最大限に無視し、政治的思惑を優.先させた「政治的記者」であることを、これらの伝説は証明する。.
渡邊氏の「政治記者活動」が「政治家的行動」であることが、広く各紙の記者間で公然となったのは、一九六三年夏、渡邊氏が政治部記者になって十一年目だった。
統一選挙が行われたその年は、全国で選挙違反が目にあまった。中でも、三か月にわたつて東京都・千葉県両知事選の大がかりな選挙違反事件を捜査した東京地検は、四十四人を逮捕し、七十六人を起訴した。「国会議員ら十数人を被疑者または参考人として取り調べ―政界筋が多数召喚されたのは造船疑獄以来」(読売新聞六三年八月一日朝刊)という大がかりな事件だった。 .
捜査.終了を伝える読売新聞は、「川島正次郎元国務相の処分がもっとも注目され」「〃ほこり高き選挙屋″と自称する肥後亨に川島氏の秘書が渡した巨額の金の出所について、川島氏に疑惑がもたれ取り調べとなった」と報じている。
その川島氏が、東京地検特捜部に召喚されたのは捜査最終段階の七月十一日だつた。各紙は、その事実を翌日の朝刊最終版で報じたが、読売新聞はそのニュースを落とした。.
その段階では副総理格で現職国務相(行政管理庁長官)を辞めていなかった川島氏には、連日各社の記者が張りついていた。そして七月十一日の午後、同氏は読売新聞の社旗をひらめかした乗用車に乗り、記者たちの追跡を振り切って行方不明となった。憤慨した各社記者の問い合わせで、読売新聞はナンバーから渡邉記者のハイヤーを割り出し、それが大田区山王の川島邸に入ったことを知らされた。
筆者も司法記者の-人として駆けつけた。川島邸前の道路は狭く、川島氏が密かに車で出ることばできなかった。玄関に詰めかけた記者たちに、邸内から現わた渡邊氏は「政治家として先生は逃げ隠れしない。地検に出頭するときは堂々と表から出る。門の外で安心して待て」と公言した。
その日、川島氏はついに玄関から出て来なかつた。しかし、深夜、各社の法務省詰め記者から、「川島氏は同夜地検から事情聴取された」という意外な情報がもたらされた。読売新聞編集部にも政治部桑原大行記者からその知らせが入つた。情報源は法務大臣中垣国男だという。しかし、渡邊記者は「川島は自宅か:ら出ていない」と断言した。司法クラブ・キャップの社会部滝沢国夫記者は、川島番である渡邊記者の言葉を無視することが出来なかつた。
翌日「川島邸を検証.すると、裏塀に沿って、人一人がやっと通れる小路があった。渡邊氏は「俺の話を信ずるとは、社会部記者は甘い」と笑った。
権力志向、権力駆使
渡邊氏にも、「表現の目由やジャーナリズムの責任を尊重する反権力的なジャーナリスト」とみられたエピソードがある。
外務省秘密漏洩事件(一九七三年、毎日新聞政治部・西山太吉者が沖縄返還に関わる外務省の機密電文を社会党議員に渡し、外務省事務官とともに国家公務員法違反に問われた)では、被告側証人として出廷し、無罪を主張した。
一審東京地裁の法廷で、渡邉氏は、外務省に実質的な「秘密指定」は存在しないという弁護側の立証趣旨に沿う証言をした。しかし、その後、それは「[国家機密に反対するからではなく、単に外務省を威圧し、外務官僚に対する自分の優越性を示そうとしたために外ならなかつたことが、やがて明らかになる。
外務省秘密漏洩事件の有罪が確定した一九七八年、自民党政府は機密保護法の制定を検討し、さらに一九八三年には外務省と法務省が同法制定必要論を公表した。その年、渡邊氏は論説委員長のまま専務取締役に昇進していたが、同法制定賛成の社論を公表しようとした。外務省秘密漏洩事件での証言とは正反対の主張である。驚いた同事件の弁護人たちが機密保護法賛成を公言しないよう説得に努めた。
その後、一九八五年、自民党はついに国家秘密法(スパイ防止法)案を国会に提出した。問題を重視した日本新聞協会は「スパイ防止法に関する小委員会」を設け、同年十一月十三日、同協会の理事会は、小委員会のまとめた報告をもとに「立法化反対」の見解を発表した。「法律案には民主主義社会の根幹をなす表現の目由を制約する恐れのある多くの条項が盛り込まれている」と法案を厳しく批判した。その見解の代表者は日本新聞協会の会長・小林与三次読売新聞社社長だった。
しかし、この反対見解を伝える読売新聞の扱いは他紙より見劣りし、三面で三段扱いという小さいものだった。当時、朝日、毎日を初め各紙は、繰り返し社説で国家秘密法案反対の論陣を張ったが、読売新聞は一度も社説に取り上げなかった。
鬼頭事件を三木首相に漏らす
ジャーナリストの職業倫理の鉄則のひとつに「取材情報の秘密保持」がある。「取材活動によって入手した資料や情報を:報道目的以外に使用したり、外部に漏らしてはならない」という記者周知のルールである。
TBS事件(TBSが坂本堤弁護士とのインタビュー・ビデオをオウム真理教側に見せたうえ報道を見送り、その後同弁護士一家は殺害された)で同テレビ局が社会から非難されたのは、これに抵触したとみなされたからである。
しかし、ロッキード事件にかかわる謀略電話事件では:渡邊氏がこ'のル−ル違反を冒し、しかも報道を抑えた。
事件は、田中角栄前首相が東京地検に逮捕され拘置中の一九七六年八月六日の深夜に発生した。当時京都地裁の現職裁判官だった鬼頭史郎判事補が、布施健検事総長を扮って三木武夫首相に電話をかけ、一時間にわたってロッキード事件の捜査方針について首相の指揮権発動をうながした。
数日後、読売新聞論説委員だった筆者は、鬼頭判事補から「総理が指揮権を違法に発動した証拠を入手した」と呼び出され、電話のやりとりを録音したテープを聞かされた。読売新聞は特別取材班を作り、再録音したテープによる音声鑑定や補足取材を基に、ニセ検事総長は現職裁判官鬼頭自身であり、事件は、首相から指揮権発動の言質をとって、それを材料にロッキード事件捜査を潰し、田中元首相を釈放させようと企てた悪質な政治的謀略であることを突き止めた。
そこで、読売新聞編集局は、三木首相本人の談話取材だけを残して幹部会議(編集局総務、局次長、社会部長出席)を開き、報道方針を検討した。当時すでに、社会部を中心に社内では渡邊氏(政治部長)の政治性に対する不信感が強く、初め渡邊氏を会議から外した。しかし、渡邊氏は編集局次長兼任の職務権限で参加し、危惧した通り、事件を知'ると、取材班に断りなくその場で直ちに三木首相に電話した。
そして、渡邊氏は「首相は否定したが、ニセ検事総長との電話は事実に違いない。しかし、首相が否定する以上、記事にはできない」と強硬に主張し、報道に反対した。
ニュースは抑えられ、渡邊氏は首相に
大きな恩を売った。謀略事件はやがて他社にもれ、二か月後の十月末、「読売新聞の事件もみ消し」疑惑として国会で取り上げられる直前、あやうく読売新聞はスクープとして報道した。
渡邊氏は最近この事件に関する沈黙を破つた。前記『天運天職』で、インタビュアー中村氏の質問に、次のように答;ている。奇しくも、中村氏は当時三木曽相の秘書官だった。
渡邊氏はこう弁明している。
「何よりも当事者である三木さんに事実を確認しなけれぱならない。そうしたら、社会部の連中が、『渡邊がもみ消そうとしている』と言い出した」
「そんなことはないんです.ね。何を考えているか分からないような人物の謀略めいた話をすぐに記事にすることはできないんですよ。事実、いまだに、背景はハッキリしていない。新聞記者はその場その場に流されず、大きな動きをしつかり見つめて、記事を書かなければならないと思います」
この事件は、読売新聞の読者投票による「一九七六年十大ニュース」の一つに選ぱれている。渡邊氏が政治的思惑を否定すると、それは、現職裁判官が関与した政治的謀略事件のニュース性を無視したことになり、ジャーナリストとしてのニュース感覚が疑われる。
渡邊氏は、鋭い政治感覚で派閥力学の変動を読み、政治家のふところに飛び込む。そうした渡邊氏の肌合いは、元来は三木武夫と異質だろう。しかし、首相である三木氏とは別の次元で接近を図る。三木首相に恩を売った(八月中旬)直後、渡邊氏は「あれは九月だな、三木さんと二人で酒を飲んだことがある」と告白している(後述の「中央公論」連載。同誌一九九九年四月号)。
権力ヘの接近、権力の駆使
一九八三年十二月二十六日の夜、第二次中曾根内閣の組閣が難航していた最中、首相の行動が三十分ほど不明になつたことがある。その時間、読売新聞の論説委員長席で渡邊氏が声を潜めて電話しているのが目撃されている。相手は中曾根首相だったのだろうか。当時、週刊誌は、しぱしぱ渡邊氏を「組閣の黒幕」扱いし、渡邊氏は「国の総理とは格が違う」と否定していた。しかし、最近では渡邊氏自身、そうした根回しを隠すどころか、自慢気に著書などで語つている。ジャーナリストの「公正らしさ」や「公私の峻別」は、あらゆる権力からの独立を意味する。つまり、取材には大胆積極的であっても、取材対象やニュース当事者との取材外の関係には細心で潔癖であることが求められる。しかし、そうしたけじめを渡邊氏はまつたく意に介さない。
これらの点について、AP通信加盟新聞編集者協会の倫理コード'(-九九五年改定)は、次のように規定している。
「新聞社や記者は、取材源やニユース対象から恩恵を受けてはならない。恩恵や公私混同のようにみられるこども避けなければならない。ジャーナリストは、ジャーナリズムと利害が衝突する、あるいは衝突するとみられるような政治や示威行為や社会的問題に関わってはならなない」
「取材対象である人物や組織のために働いてはならない」
現に、アメリカでは、現役のジャーナリストが政治家の演説台本を書くことは厳禁とされているのだが、渡邊氏に、そうした倫理は通用しない。むしろ、政府声明を書いたり、組閣に関与したりする政治的活動を政治記者の実力の一部と誤解しているようだ。
「昭和三十五年六月、安保騒動の最中に樺美智子さんが亡くなって政府声明が出た。戦後政治について学者が書いた本によると、大平が政府声明を書いたなんてなっているけど、実際にあれを書いたのは僕なんだよ」(『天運天職』九十三ページ)
「事実、組閣があるたびに、大野(伴睦)さんは、『今度は誰を入閣させようか』と相談してきて、僕が入閣する候補を選ぶみたいになった」(同書百二ページ)
渡邊氏が自賛する「六○年安保政府声明の執筆」と「鬼頭事件の情報漏洩」について、アメリカのスター・トリビユーン紙(ミネソタ州)のオンブズマン、ルー・ゲルファンド氏にコメントを求めると、次のような返事が戻ってきた。
「二例はともに、どんな文化に属するジャーナリストにとっても反倫理的行為だと強調したい。ジャーナリストのなすベきことは報道することであって、ニユースに関与することではない。かって、スター・トリビューン紙のコラムニストが、一度だけ知事の演説草稿を手伝って、停職になったことがある。もし繰り返したら、当然解雇されただろう」
ジャーナリズムと、政治ヘの関与との間には、当然「利害の衝突」がある。ジャーナリストならジャーナリズムを優先する。しかし、渡邊氏にとつては、政治が優先するだけでなく、ジャーナリズムはしばしば政治目的のための道具として利用されてきた。
「公私のけじめ」は、読売新聞の中央公論社買収でも無視された。
読売新聞が中央公論社を傘下に収める(一九九八年十一月二日発表。正式には一九九九年二月)直前、月刊誌『中央公論』の十一月号から「ロング・イン夕ビュー/短期集中連載『渡邊恒雄政治記者一代記』」の連載が始まった。「短期」は実際には「八回」の長期にわたり、続いて「我が実践的ジヤ]ナリズム論」が掲載された。その間、自筆の書評も載る(「中公読書室」)。同誌は渡邊氏の所有物かのように、自己宣伝に徹底的に利用された。
人心掌握術、そして猟官
人事もまた、渡邊氏の権能拡大の有力な武器として活用される。社内を敵と味方の人脈に分断し、屈伏しない人物は計画的に駆逐され、服従には優遇人事でこたえる。(人事操縦による社会部壊滅の経緯については、月刊誌『現代』に連載(-九九九年五〜十月号)の「『日本の首領』渡邉恒雄の『栄光』と『孤独』」〔魚住昭〕に譲る)
一九七三年秋、東京地検が摘発した韓設省」河川局汚職事件で川田陽吉同局次長が逮捕されたとき、読売新聞の現職論説委員が参考人として調べられた。当時、赤坂の料亭で飲食した代金を川田次長に付け回ししていた嫌疑だつた。川田次長はその代金を土木機械会社社長に支払わせて収賄容疑で起訴されたが、実際に飲食した論説委員は公務員ではないので刑事責任を逃れた。
しかし、一九七五年二月、東京地裁の判決公判で、西川裁判長は、川田被告に執行猶予を言い渡すとともに、判決の中で論説委員の実名を挙げ、付け回しの事実を指摘した。川田被告が収賄に問われた飲食費の中には、読売新聞の政治記者 (当時外報部所属。その後、読売新聞常務取締役・論説委員長)がワシントン支局に転任したさいの送別会費用も含まれていた。
読売新聞論説委員会はこの論説委員を解職した。しかし、同氏は政治部出身で、渡邊氏の社内派閥に属していた。同年六月編集局次長となつた渡邊氏は、自らの権限で同氏を編集局整理部長に抜擢した。
渡邉氏は人をすべて派閥次元でみる。社員はすべて「味方」でなけれぱ「敵」であるベきだ。そして、職務上の失敗や私的なスキャンダルに関わった人物には恩恵を与え、忠誠心を高め、味方として縛りつける好機である。前記の論説委員や政治記者の昇進はそれを物語る。
人心掌握術の一つは、本人のいないところで、多人数を前にして声高になじることだ。それがどのようなルー卜で本人に伝わり、そして当人がそれにどう反応するかを観察し、それによつて、敵か味方かより分ける。公然と非難された当人は、速やかに陳謝に訪れ、他人の目をはぱかることなぐ渡邊氏に平身低頭し、ときには罵倒されることもいとわない。渡邊氏の軍門に下れぱ、社内人事でも、退職後の再就職でも優遇される。しかし、その反面、絶対服従を強いられ、反論は許されない。
一九九八年十月に亡くなつた日本テレビ取締役の外山四郎氏(読売新聞政治部出身)は、個人的にはすぐれたジャーナリストだったが、そんな形で渡邊氏の知遇を受けた一人だった。社報に載つた後輩の追悼文は、期せずしてそうした生前の外山氏の痛ましい姿を伝えている。
「(外山氏は)心底、人を傷つけることのない、純粋で温かい人でした。『オレは渡邊社長から何千回も何万回もどなられたので人を怒る暇がなかつた』という昔笑の弁明を、何度も開きました」
渡邊氏による人事権の活用や独占は社内人事に限らない。傍系会社や大学教員職薦など退職者の人事権から、人事院人事官や政府審議会委員などの政府関連人事にまで及ぶ。
渡邊氏が論説委員長になつたとき、政治部出身の論説委員は、その多くが政治観でも社内派閥でも反渡邊派とみられていた。しかし、そうした人々も職制上は抵抗できないし、思想信条的にも同調せざるを得なくなった。人格、識見ともに優れ、それまでは渡邊氏と政治的識見も異にするとみられていた委員会幹事の播谷実氏もその一人。渡邊氏との関係修復に努め、その後論説委員長、調査研究本部長などの要職を歴任した。一九九三年二月には常務取締役に就任したが、それはさらなる重要人事を可能とするための伏線で、わずか一か月後には人事院人事官に送り込まれた。
播谷実氏自身、自らの人事についてこう述ベている。
「今度の人事官就任にあたり、小林会長、渡辺社長、水上副社長、それに日本テレビの氏家社長にご尽力いただいたことを、心から感謝申し上げます」(読売新聞社報。一九九三年四月五日)
自説の社論化
かって、渡邊氏の知的空白地帯の一つはスポーツ、とくにプロ野球だつた。
「江川卓投手問題」(ドラフト会議前日の一九七九年十一月二十一日、巨人と入団契約)がメディアをギし騒がしていたころ、渡邊氏の出席した会議では、しばしば苦笑が渦巻いた。フォアボールについて「何で一塁に行くんだ」という具合いだったからだ。.
渡邊氏にとっては、スポーツもまた‐ルールやフェアプレーょり政治力学で動く。江川獲得のために政治家船田中(江川出身の栃木県作新学院創立者一族)に働きかけたことはよく知られる。鈴木竜二セ・リーグ会長と金子鋭プロ野球コミ、ッショナーが「江川と巨人の選手契約」をただちに無効と裁定すると、渡邊氏は先頭に立って、紙面を挙げての「江川獲り」キャンペーンを展開した。
江川問題発生から二週間後、読-売新闘は「オピニオンのページ」一面をつぶして、「江川問題これが本質だ」という見出しの膨大な解説記事を載せた。問題を「ドラフト制度は基本的人権である職業選択の自由侵害」ヘとすり替えた。筆者は「運動部長星野敦志」である。
しかし、当時、運動部にはプロ野球フアンや読者の抗議が殺到し、部員の間にも「江川獲得方法はフェアでない」という空気が強く、部長が江川獲得合法論を書ける状況ではなかった。運動部員は社内外に「記事は運動部も部長も関係しない。社命で政治部次長が書いたものだ」と弁明した。実際の筆者と運動部長は社内規制や倫理の違反を問われるどころか、その後昇進している。
この時、社内で渡邊氏の意向に従わない部門が一つあった。それは論説委員会だった。論説委員会は討議の結果、「スポーツの世界は法律解釈や詭弁にとらわれず、ファンとフェアプレー精神を尊重すベきだ」という委員の多数意見に従い、江川獲得を支持するような社説は載載せないことにした。
自由にならない論説委員会に激怒した渡邊氏は、その後、編集局長より論説委員長のポストをねらい、半年後、それが実現する。そして、江川事件や論説委員解職などで渡邊氏の意向や "社論″に従わなかった論説委員は、その後次々と委員会から外されていく。
論説委員会における渡邊委員長の.社論決定プロセスは、それまでの会議重視とは正反対で、まったく独断的だづた。渡邊委員長になると、会議の表面的な時間は長くなったが、.実質的な討議は薄くなり、もっぱら委員長の高説や下ネ夕話を聞くだけになった。
論調は"渡邊社論″ヘと百八十度転回した。当時微妙な論争の一つに「自衛隊の憲法九条解釈」があった。北海道・長沼基地訴訟の-審判決(一九七三年九月七日。自衛隊は違憲)と二審判決(一九七六年八月五日。憲法判断せず)、茨城県百里基地訴訟の-審判決(一九七七年二月十七日。憲法判断せず)などで、この問題はクローズアップされていた。そうした判決に対して、読売新聞の社説は、三権分立尊重の立場から、裁判所による「違憲法令審査権」の積極的な発動を支持し、政治的判断を重視する「統治行為論」は否定していた。
百里基地訴訟でも、一審判決後の社説(一九七七年二月十八日)は「積極的な司法審査権の発動は、一応評価されよう」と述ベている。しかし、渡邊氏が論説委員長になって二年後、一九八一年七月七日に言い渡された百里基地訴訟の二審判決(東京高裁)では、論調が逆転した。
控訴審判決は'憲法九条は自衛権を放棄していない」と-般論を述ベたあと、自衛隊の実態と戦力の憲法判断については、高度の政治的問題として司法の審査対象外とする「統治行為論」を採用した。読売新聞の社説はそれを支持して、「(判決は)第一義的には国会の判断、終局的には主権者である国民の批判を受けるべきものである、といういわゆる統治行為論の立場をとったものである。…立法府は、司法府にゲ夕をあずけているのではなく、防衛問題についての合意形勢をめざして、国権の最高機関としての役割を果たすべきである」と書いた。
実はこの朝、論説会議に先立って、司法担当だった筆者(前澤)は渡邊論説委員長に呼ばれた。
「社説はどう書くか」
「従来は、三権分立の見地から、裁判所に違憲法令審査権の積極的な発動を要望してきたが…」
「それは許さない。国会が国権の最高機関である以上、裁判所といえども国会に従うべきで、統治行為論が正しい」
「社論は私の一存で決められない。これまでも会議に諮ってきたが」
アジェンダ・セッティング
自由な政治的発言は民主主義を支える。また社説や解説で積極的に意見を述ベるのは、ジャーナリズムの責任でもある。しかし、客観的事実を伝える「ニュース報道」の分野に政治的意見を盛り込むことは、明白なジャーナリ.スム違反だ。
渡邊氏は、一九七九年五月の論説委員長就任以来、主筆兼論説委員長から副社長・主筆ヘ、そして一九九一年五月には社長・主筆へと上り詰めた。渡邊氏は、この間、ニュース報道と論説の両分野を完全に支配してきた。とくに憲法改正の「読売新聞試案」発表以来、ニュース報道と論説の両分野を完全に支配してきた。とくに憲法改正の「読売新聞試案」発表以来、ニュースと主張の識別を基本とする新聞編集の常道はまったく無視されている。
若いジャーナリストやマス・コミュニケーションを学ぶ学生にとって必見の古典的映画に「市民ケーン」がある。オーソン・ウエルズの脚本、監督、主演で一九四一年に公開された。アメリカのかってのメディア王、ウイリアム・ランドルフ・ハース卜がモデルであることは、よく知られている。
ハーストは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、当時の主要メディア、新聞・出版・ラジオを集中支配した。社会正義の実現を唱えながら、現実には「イエロー・ジャーナリズム」を売り物にし、同時に政治的、社会的野望を達成するためにメディアを臆面なく利用した。部数を伸ぱすためには戦争(アメリカ・スペイン戦争)を煽りさえした。
ハース卜は、「無冠の帝王」(権力に無縁なジャーナリスト)が権力化する危険を後世に伝えたジャーナリストの反面教師だが、それは決して過去の亡霊だけではなさそうだ。.
読売新聞が一九九四年十一月三日、同社の憲法改正試案を公表した時、その日の同紙朝刊は、一面トップに「自衛力保持を明記」「憲法裁判所創設も」の大見出しが躍り、その関連記事に計八ページを費やした。
読売新聞はその前日、「一千万部確立を宣言・百二十周年を盛大に祝う」ための記念式典を開き、渡邊社長は式辞の中でこの改憲試案公表を強調し、「これは、読売新聞の頭脳を三年間にわたって動員、内外の有識者の知識も十分に吸収した上で大成したものです」と述べている(読売新聞社報)。
渡邊氏率いる読売新聞が、改憲問題でアジェンダ・セッティング(恣意的な報道によって世論を方向づける役割)の機能を駆使することを公言したわけだ。
試案については、読売新聞社内ですら「渡邊私案」と呼ぶ人が少なくない。試案についで読売の紙面や社外出版物に執筆する記者は限られている。しかも、実質的に社内には、この試案を批判する自由がない。巨大な発行部数を武器に、自己の政治的目的遂行に突き進む渡邊氏はハーストとダブって見える。
ハーストは大統領を目指した。渡邊氏も「その活動ぶりはジャーナリストというよりはフィクサーというべきだ」(『世界』一九九四年十二月号―「改憲派のフィクサー・渡邊恒雄氏の思想と行動」)という批判がある。「庶民と共にある」ことを社風としてきた読売新聞が、強引に世論を誘導している。そうした新聞作りは、読売新聞百二十年の伝統からみれば、異端といえよう。
かって保守タカ派といわれた後藤田元晴元法相は、読売新聞が改憲試案を公表した時、「行き過ぎだ。それを批判しない他の新聞社も批判されるベきだ」と述べた(毎日新聞一九九四年十一月十八日)。半世紀前、二十五歳のオーソン・ウエルズは、ハース卜の圧力に抗してメディアを弾劾した。いまは、長老政治家がその役割を演じているのだろうか。
公共性・公人自覚の欠落
新聞が社論や論評掲載を通じて社会的論争に参加することば歓迎される。しかし、そのためには、新聞は、普段から公正さを疑われないよう、社も社員もジャーナリズムの職業倫理を守っていなければならない。つまり、「ニュース報道」や「論評」が、正確、公正で偏っていないことを読者に納得してもらうため、経営者や社員一人ひとりが、利権や私情にとらわれたり、圧力に屈したり、またそう疑われたりしないことが必要なのだ。言い換えれぱ、前述のように、ジャーナリス卜の公共的な立場を損なうような「Conflict
of interest」(公私混同)に対しては、もっと敏感で、細心でなければならない。
しかし、渡邊氏が読売」新聞社内で実権者・務台光雄氏の信頼を得たのは、公私を混同したその政治性ゆえであり、とくに国有財産だつた大手町の土地取得のための活動が大きく作用したことば、渡邊氏自身が自賛する周知の事実である。 そうした、ジャーナリズムに反した行動が.「戦後最大の政治記者」としての功績であるかのように、最近では自ら積極的に書き、語るようになった。 .
渡邊氏に、ジャーナリストとしての「公私のけじめ」や「公正らしさ」の自覚が欠けるのは、元をたどると、「公人」意識の希薄さに帰結するだろう。渡邊氏は、都合が悪いときには自分を「私人」扱いする。ニユース当事者の人権尊重やプライバシー保護を強調する。一方、地域住民の権利を問う住民投票(沖縄基地、原子力発電所建設、廃棄物処理場問題など)には嫌悪感を隠さない。そうした矛盾をたどると、渡邊氏の人権意{識は、一般国民の人権尊重より、自らの防衛意識に根ざしているのではないかと思われる。
一九八二年七月、読売新聞は、広範囲な「人権に関する報道基準」をまとめ、日本のメディアとして初めて単行本(「書かれる立場 書く立場」)として公刊した。その編集・執筆に当たった一人として、私は同書の出版に渡邊氏の意{思が大きく寄与したことを否定しない。
さらに、読売新聞社は、一九八二年から二年間、メディアとしては先駆的な「マスコミの法と倫理に関する(社内)研究会」(毎月一回)を闘いたが、ここでも、渡邊氏はもっとも熱心な出席者の一人だっ‐た。とくに名誉棄損訴訟やプライバシー保護の問題には強い関心を示し、その熱意が、毎回、編集局幹部の出席を促した。
しかし、そうした鋭い人権感覚の根底に、児玉誉士夫との関係を問われるなどの社会的批判やプライバシー侵害、名誉棄損などに対する自己保身の意識が働いていることは否定できない。事実、前記の社内研究会が「公人の名誉とプライバシー」を討議したとき、常務取締役・論説委員長だった渡邊氏は「私は一私企業の重役であって、公人ではない。私人としてプライバシーは尊重されるベきだ」と主張した。
TBSを相手に起こした名誉棄損訴訟(一九九二年)にも、同じような私人意識がのぞいている。「公器」としてのメディア、「公人」としてのジャーナリストなら、本来は法的に名誉棄損の有無を争うのではなく、ジャーナリズム倫理の観点からジャーナリストの公的責任の有無を問題にすベきではなかったろうか。
この事件は、TBSが一九九二年二月二十日の「ニュースの森」と「ニュース23」で、「読売新聞が大阪の土地を佐川急便に売ったさい、その価格は時価より高く、売買には政治家の影があった」などの疑惑があると報じたことから起きた。読売新聞とTBSが、それぞれ相手を名誉棄損で訴えたが、三年後の一九九五年一月に、TBSが「表現に誤りがあった」と認め和解となった。
和解について、TBSの筑紫哲也キャスターは「表現に誤りがあったという点では負け」と番組の中で発言し、読売新聞は「全面勝訴と考えている」(滝鼻卓雄法務室長)という談話を発表している。
しかし、TBSの指摘した疑惑が事実かどうかにかかわらず、ジャーナリズムの本質からみると、「中曾根元首相などの政治家と渡邊恒雄社長、東京佐川・渡辺広康社長らが会食した(一九九○年十一月ごろ)」というその事実だけで決定的なルール違反とみなされるはずだ。それは、メディアと政治の癒着を証明し.メディア企業としての読売新聞とジャーナリストとしての渡邊氏、それぞれの「公正らしさ」を疑わせ、読者の信頼を失墜するに十分な不祥事なのだ。
その上、当時、東京地検は、一九九〇年一月に東京佐川・渡辺社長が金丸信自民党前副総裁に五億円献金した政治資金規制法違反など一連の政治的不正事件を捜査していた。この過程で、一九八七年の自民党総裁選のさい、竹下登首相に対する右翼の攻撃を封じるため、金丸信氏が渡辺広康社長に協力を求め、竹下、金丸、小沢一郎各氏と渡辺広康氏が面談した事実も浮かび上がっていた。
まさにこうした時期に、両渡辺氏と政治家とが密かに会食すれば、公権力を監視するメディアの役割との間に「利益の衝突」がなかったと国民を納得させることは困難であるはずだ。
アメリカのジャーナリズムは、ジャーナリストの信頼を問」うときに、しばしぱ次のような格言を用いる。
すなわち「シーザーの妻たるもの、いやしくも疑いを受ける行いがあつてはならない」
しかし、ジャーナリズム倫理から逸脱した渡邊氏の倫理観と言動を、わが国のメディアはまともに批判しない。そして、政治家と密着し、社論を}独占し、客観的であるべきニュース報道に主観的な主張を混同させ、社内を派閥人事で一色に染め、社内外における自由な編集や論争が息を潜める―そうした異質な日本のジャーナリズム環境が存続する。
しかも、渡邊恒雄氏は、一九九九年六月、日本新聞協会会長に就任し、ついに日本のメディア組織のトップに立った。そして、十月初めには、新聞協会に自らも参加する「倫理特別委員会」を新設することを決めた。そこでマスコミ倫理の向上を論議するとともに、新しい新聞倫理綱領を起草するという。そうした状況に、メディア人のだれ一人として疑問を投げかけたり異を唱えたりしようとしない。それは日本のメディアにとって誇り得る現象といえるだろうか。