現在、このおぞましい犯罪的「第九」が二つのチャンネルから同時に流れてきている。ま〜、分かってはいたが、私が研究に研究を重ね、先日ようやくベートーヴェンの意図する「第九」にほぼ近づく演奏が出来たばかりなので余計に(泣)。
ベートーヴェンの研究は、近年世界中で目覚しい進歩を遂げてきた。それにより、20世紀にめちゃくちゃになってしまったベートーヴェンの演奏様式がようやく正しくなりつつあるというのに、今(大晦日の21時前後)おぞましくも鳴り響く二つのチャンネルからの「第九」は、ベートーヴェン作曲ではない!!
20世紀(一部は19世紀の内に)という化け物によって哀れにもまったく形を変えられ、編曲されてしまった惨めな「第九」!
なぜ、せっかくこの惨めさを救うべく正しくされた楽譜を使わないのだろうか!現在は、今までの間違いだらけの楽譜はすべて廃版になったというのに。未だに、その正しい譜面に対応できず、今までのでたらめな楽譜に頼って、20世紀に生まれた間違いだらけの演奏法を用い、間違った音程、ハーモニー、テンポで、くちゃくちゃな「第九」にしている! 不勉強が故何も知らない聴衆に誤った印象を与え続けている行為は、アマチュアならば許されても、プロの責任の重さを鑑みれば、あってはならない、厳しい言葉で言わせてもらえば、一種の犯罪的とも言える行いであろう!
彼らどう演奏しようが、「第九」そのものに感激している人たちは世界中に大勢いようが、もしその人たちが、本当のベートーヴェンの作った「第九」は別にあるんだよって知ったら、その感激はいっぺんに冷えてしまうのではないだろうか。それほどベートーヴェンの意思に反した演奏だったのである。
(もっとも本人がそのことを知らないまま行ったとすれば、法的に罪には問われないかも知れないが。でも過失・・・には?世界中にたくさんの・・・・が(泣)。私がここでどれだけ叫んでみてもその違いを知らない方々には、内藤は何言ってんだろうって思われるのがおちだが、もし詳しくお知りになりたい方がいらっしゃったら、ご自分の連絡先を入れて書き込んでくだされば、ご納得いくまで説明する所存である。)
NHKで振っている指揮者は、もう80を超えて、いまさら自分のやってきた今までの過ちを認めたくないのであろう。今から考えれば、自分のせいか否か(無罪か有罪か)は別として、結果として誤ったベートーヴェン感を長い間観客に植えつけてきたことは紛れもない事実なのだから、その演奏活動を、本来なら詫びて修正し、正しく一新された本当のベートーヴェン像を一刻も早く観客に示し直すのが、プロとしての正しい姿であるはずであるが。
医者でなくて良かった。もし彼が医者だったら、昔の低いレヴェルの医学を今でも後生大事にして、そのために現在の進んだ医学なら助かるはずの患者さんを何人も殺し、法廷に引っ張り出されているでしょう。過失致死か、殺人か・・・・。今だったらどんなにぺいぺいの卒業したての若僧でも直せる病気なのに!
プロならプロらしく、日々進歩している科学を、ちゃんと研究し、取り入れていかなければ失格であり、何も知らない聴衆に誤った音楽を、ベートーヴェンが嘆き、怒り狂うような演奏を与えてはならないのだ!!今日のTVの「第九」のような!
一方の美人女性指揮者も、まったく譜面を読まないまま、悪しき20世紀の慣習の物真似をしている!20世紀の巨匠の間違った慣習だけをCDでお覚えて指揮していちゃ、いつまでたっても本当の意味で大成はしませんよ!なぜ、楽譜を読まないのだろうか。なぜベートーヴェンの意思とは無関係に作曲後百年以上経ってから生まれてきた悪習だけ覚えて指揮しているのだろう!
べートーヴェンが、この曲に対し、何を語っていたのか、どう演奏をしてほしいといっていたのかを、なぜ楽譜から読み取ろうとしないのか。楽譜には今までの悪しき慣習とはまったく反対の内容が、彼自身の言葉で(方法で)何度もくどく書き示されているのに!また、そういった彼の考え方(真意)がわかる当時の書物等をなぜ研究しないのだろか!答えがあちこちに散らばっているのに!! それを知らないままなぜ指揮台に立つことができるのだろうか!世紀の大巨匠をも含めてのことである!
少しでも研究すれば、彼らのやっていることが如何にいかさまであるか、彼ら自身で身にしみて分かるであろう!同じ指揮者として信じられない!
あ〜、やっと今おぞましい演奏が2つとも終わった。クルト・マズアと西本智実であったが、彼らはたまたま今TVでやっていただけのことで、特別彼らが憎い訳でも、特別彼らが不勉強な犯罪者であると言っているわけでもない。普通の大勢いるあまり勉強をしていない典型的な指揮者の単なる一人に過ぎないのであり、たまたま偶然にも私がその放映を見てしまっただけのことに過ぎない。このブログを読んでくださっている皆様が、このブログ上での私の汚らしい罵り表現に対して、逆に嫌悪感をお持ちになられてしまうであろうことも重々承知の上で、現在書かせてもらっている。申し訳ない!
特にクルト・マズア氏からは、三十数年前、氏が読売日響を振りに来られた時、何度も練習を見学させていただき、勉強させていただいたものである。その氏に向かって悪口雑言の数々とは、私の人間性を疑われてもやむを得まい。しかし、どういう立場であれ、プロとしてやっている以上は、常に常に最良のものを提供していかなければ・・・・。この悪口雑言が、よくあるような単にある人を貶めたくて根拠なく言っているのではないことは、今まで私のブログを読んできて下さっている方なら、お分かりいただけると信じられるからこそ書いている(書くことが出来る)のである。
新しい楽譜が出てはや十年。当時の正しい演奏法が世に認知されだして約廿年。しかし残念ながらまだほとんどの指揮者が、彼らのような状態なのである。いつまで天国のベートヴェンを苦しめたら気が済むのだろうか!
私がこのブログで使っている悪口雑言の数々は、実際にベートーヴェンが当時の指揮者や彼にかかわった評論家等々に対して浴びせた罵声の日本語直訳である。当時から彼は自らの曲をでたらめな演奏する指揮者に頭を痛め、そのつど、そうならないようにとの思いをこめ、注意書き等を楽譜に書き込んでいったのである。彼の最晩年に発明されたメトロノームを知ったときの彼の喜びは尋常でなかった。すぐに彼は祈るような思いで、彼の理想とするテンポを書き込み・・・・。そのテンポ表示は、単なる思い付きだけではなく、特に「第九」の4楽章にいたっては、まことに理路整然とし、ありの這い出る隙間もないほど完璧な指定がしてあるにもかかわらず・・・・。
もちろん当時彼を悩ませたひどい演奏といっても、これらの注意書きやメトロノームのテンポ表示等々、すでに本来のベートーヴェンの望みを知っていながら、それらをまったく無視することを誉れとする(それ以外の数々の悲劇的要因も加わって)20世紀になって流行りだした、そして現在までも多くの聴衆や音楽家に間違ったイメージを与えてしまっている犯罪的“ベートーヴェンの真髄”よりは、ズ〜ッとましだったでしょうが。
それですら彼は・・・・・。・・・・なのに・・・。
私のように、この惨状を嘆き、実践の場でどんどん攻撃的(もちろん良い意味で)に責めていく気概を持った指揮者がいたら、いくらでもその場を提供したいと心底思っている。自薦他薦を問わず、積極的に名乗り出ていただきたい。
[クラシック音楽 未来のための演奏論」(くつがえるオーケストラ演奏の常識!)毎日新聞社刊 著者;内藤彰
をお読みください、「第九」以外にも同様に正しいと思われている名曲の定番的演奏の中に、本当はこんなにも間違っている演奏があって、それはこういう理由でそうなってしまっているんだよ。何とかしなければね〜という数々を、根拠を示して説明がしてあります。 エッ!!本当!!なるほど、言われてみればねっ、でもまさかこの曲が本当はこんなだったなんて、じゃ〜今までの演奏ってなんだったの?って内容に満ち満ちていますよ!
言いたいことはわかりますが
「犯罪者」だとか「殺人」という表現は
いかがなものなのでしょうか?
コメント by ゲスト — 2010/1/2 土曜日 @ 22:19:58
それ以前に、聴き手の心を動かす演奏ができないようではね。主張ばかり声高で演奏がカスカスでは本末転倒ですよ。
コメント by というより — 2010/1/3 日曜日 @ 1:24:12
1)のコメントに対して
「犯罪者」とか「殺人」という言葉は、確かに表面的に解釈すればきつい言葉ですが、しかし医学界ではもう常識になっているのではないでしょうか。なぜなら新しい正しい治療法が確立されていることが分かっているにもかかわらず、それまでの遅れた、あるいは誤った治療法で患者さんを死に至らしむることを、殺人行為と言わず他になんと言えばよいのでしょうか?ちゃんと勉強した医師に任せれば簡単に直ったものが・・・。患者さん、あるいはご家族の皆さんの立場に立ってみてください。例え死に至らなくてもそれに近い状態にされてしまえば、その医師は彼らにとって犯罪者以外の何者でもないでしょう。だって、自分が新しい治療法をろくに勉強していない事が分かっていながら、あるいはそれすら分かっていないヤブが、患者に結果的には危害を加えてしまっているのですよ。ひどいときには、患者さんをモルモット代わりの実験台にして・・・・・。こういった事態を見逃しては駄目なのです!そう思われませんか?もう、そういうこと事態を知らずに、「先生は最善を尽くしてくださいました。ありがとうございました。」なんてだまされている時代は終わったのです。
オーケストラも同じです。作曲家の意思とは違う誤った音楽を聴きたいと思って聴きにくる人は誰もいないでしょう。実態を知らずに聴かされる聴衆の立場からすれば、いままで本物を聴いてきたつもりだったのが、医師、いや指揮者の怠慢のために誤ったまったく違う音楽を聴かされてきたとすれば、医学界的に言えば一種の犯罪行為を受けたと言えるのです。それによって、音楽の見方を誤ってしまう聴衆も大勢いらっしゃるでしょう。普通の人がちょっとぐらい喧嘩で人を殴ってもいちいち問題にはされないでしょう。しかし空手の有段者が人を殴れば、たとえ軽くではあってもこれは犯罪として取り締まり対象になるのです。プロである以上は、それぐらい厳しく自分の仕事に対処しなければなりません。当然のことです。それとも勉強しない輩を野放しにして、ますます哀れな被害者(聴衆)を作り出していくことを黙認しろとでも言われるのでしょうか。音楽に携わるものも、プロである以上医者と同じぐらいの覚悟を持って仕事をしなければならないと言う私の主張です。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 15:31:53
2)のコメントに対して
まったくその通りだと思います。今度9日の定期を聴きにきてください。すべてピリオド奏法です。ウィンナワルツも今のウィーンフィルがヴィブラートいっぱいでJ.シュトラウスをはじめて取り上げるまでは、ノンヴィブで、本当の3拍子のリズム感たっぷりで演奏されていました。
4月9日の20周年記念定期の「第九」を聴きにきてください。衝撃的ですよ!ベートーヴェンがおそらく泣いて喜んでくれるでしょう。なんで20世紀中にこういう自分が楽譜に書いたことをやってくれなかったのだろうか?なんであえて逆のことをやっていたのかってネ!
こういう言葉でのやり取りは誤解の基です。まずは聴いてくださいね。なぜ私が年末のTVでの「第九」をあそこまでこっぴどく言ったかを、よ〜く分かってもらえるはずですので。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 15:42:30
2)のコメントに対して、続きです
書き忘れていました。このコメントにはスカスカではとありました。これは一般的に初歩的なピリオド奏法における時限の低い音色による演奏のことに対して皮肉って言う表現です。まだそういう団体も一部にはあるみたいですね。でもこの奏法は現代の奏者にとって大変難しいものなんですよ。果敢にチャレンジしている人たちをもう少し温かい目で見守ってあげてくださいね。進化の一過程なのですから。そういった点にまったく目もくれず、何でもかんでもイージーにヴィブラート掛けまくって綺麗な音だと思っている前世紀の遺物的な団体よりは一歩前を行っているのです。少なくてもスカスカといわれる音の方が、ロマン派までの作曲家は、「そう、その音に近い」って言うでしょう。なぜならそれに近い音を彼らは聴いて、イメージをもらい作曲していたのですから。当時、ヴィブラートいっぱいの今のような音色は彼らの周りにはなかったのですから。
でもできたらスカスカではなく、そこに音楽の加わったヴィブラートに頼らなくても良い表現に速く皆さんが慣れてくださるといいですね。
ただ、私のブログで書いたことは、奏法のこともありますけど、それはごく一部です。まず「第九」だけで、目立つ音程の違いが数箇所。おそらく私のブログを読んでくれているどなたもご存じないベートーヴェンの叫びです。テンポの大きな誤り、も数箇所。楽譜には当初から正しく書いてあるにもかかわらず、百年前ぐらいからそれを(ベートーヴェンという作曲家自体を)無視することに指揮者としての大義だと感じるような風潮が出来上がり、それがおろかな大巨匠から大巨匠へと、ヴィールスの伝播のごとく・・・。そして誤った旋律やテンポが「第九」の真髄だと思い込み、そこに十把ひとからげのヴィブラートが加わり、音色までも・まったく変ってしまって・・・あ〜おぞましい!
スミマセンが、私が自分のブログだとはいえ、ここまで書くには、どれもそれなりの根拠があってのことです。傲慢に思われるかもしれませんが、おそらくどなたも覆すことは無理でしょう。申し訳ございませんが、それなりの勉強をなさっていらっしゃらない方の、このコメントに対する意見めいた書き込みは削除させていただきますのでよろしくお願いいたします。
ただもちろん前向きな姿勢で、一つ一つ今までの演奏に対する誤りに対して勉強していくことをお望みの方でしたら、いつでもお相手させていただきます。その中のたとえひとつでも、私の知らない、あるいは私の過ちを指摘してくださる貴重なご意見がございましたら、この上ない喜びです。私とまったく面識のない方でも結構ですので、どうぞご自分をあかされてからのお書き込みをお願いいたします。
まったくの素人の方でも結構です。ただ前向きの姿勢さえ持ち合わせておられる方でしたら。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 18:08:06
[…] First Tweet: 1 hour ago bakucla BakuCla 指揮者の内藤彰さんが第九の件で怒ってる。(> <) 興味深い記事でした。http://www.naito-akira.com/archives/136 retweet […]
ピンバック by Twitter Trackbacks for 内藤彰オフィシャルブログ あ〜悲劇!大晦日のNHKと、たまたま同時放送の民間TVの「第九」。この犯罪行為はいつまで続くのか!! [naito-akira.com] on Topsy.com — 2010/1/3 日曜日 @ 18:47:28
某女性指揮者の掲示板でこの記事を知り、来させて頂きました。
悪口雑言と言うより、根拠もあり、正直にお感じになられた
ことかと思います。時に人は、その悪口雑言を、文句、まさに
悪口と思う人もあるかもしれませんが、内藤さんのおっしゃる
ことは、まさに、その通りだと思いました。原因と結果、その
過程まで、根拠あるお考えかと。とても説得力のあるものと。
某女性指揮者のファンの掲示板でも、犯罪者、なんとかかんとかと平然と人に言う人達も見受けました。
内藤さんのお話は、それとは完全に根拠が違い、表現的には、きついかもしれませんが、内藤さんが何を言おうとしているのかは、非常に伝わって来るものがありました。コメントが、大変抽象的になり申し訳ありません。内籐さんの音楽への愛情が感じられる記事だったと思います。日本武道館での第九がどのように演奏されるのかが、楽しみでもあり、また、内藤さんのおっしゃら
れることが浮き彫りになるのかと、多少の心配も・・・
コメント by 威風堂々 — 2010/1/3 日曜日 @ 20:44:02
7)のコメントについて
ありがとうございました。ついさっき某女性指揮者の盲目的信仰者と思しき方から、単なる根拠のない誹謗コメントをいただきました。コメント5)にもお書きしましたように、名乗らず、何の根拠も示さない誹謗中傷でしたので、即刻削除いたしました。私のブログが、早々に女性指揮者のブログにまで張られ、また別のサイトのどこかにも繋がって結構大変なことになっているようで、びっくりしています。これも人気美人指揮者?がたまたま対象になったからなのでしょうか?
1月9日(土)2時半から間違いが修正されたショパンのピアノ協奏曲1番、大間違いであった20世紀の「序奏の演奏法」が修正された「魔笛」序曲(おそらく間違った演奏のイメージしかない一般の聴衆はびっくりします)。そしてヴィブラートをとったピリオド奏法での元祖ウィンナワルツ(ヴィヴラートがないため華麗さは減りますが、ピリオド奏法の長所により、ウィーンフィルにない本来のウィンナワルツの良さに満ち満ちていると思います。まだ練習は始まっていませんが・笑)。一度私の理論の仰天的実践をお聴き下さい。連絡くださればご招待します。また4月9日芸術劇場の「第九」もびっくりされるでしょう。これこそが「ベートヴェンの望んだ演奏」となるはずです。必ずでたらめな感情的批判がいっぱい出てくるでしょう。しかし誰のもおそらく私の根拠の前には撃沈してしまうでしょう。残念ながら。私は、今のうちに私の根拠を超えるものが出てくることを切望しているのですが。なぜなら今なら修正がかなうからです。CDとなって外国にも行くものですので、完璧を期したいのです。
私は、ブログに書いたように、何も彼女を特別貶めたいのでもなく、何の恨みも持っているわけではありません。くだらない2チャンネルではありませんので(笑)。まったく彼女のことは知らないので(新聞、週刊誌等で叩かれていた時のことを少しお覚えているだけです)、批判しようがありません。ただ、彼女も私の言うところの、良くあるあまり勉強していない(私も含み)指揮者の単なるone of themにすぎないのであり、たまたま大晦日にTVで「第九」の放映があったのを私が見てしまっただけのことです。もし別の指揮者であったとしても、おそらく同じ誤りをしているでしょうから、その演奏に対して同じことを書いたでしょう。くれぐれも彼女本人にも、また熱烈な信奉者たちにもその辺の誤解がないよう願いたいものです。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 22:00:12
初めて書き込みさせて頂きます。面識もございませんし、まったくの素人ですし、それなりの勉強もその水準を満たしているかどうかもわかりませんが、ベートーヴェンを愛する気持ちは誰にも負けないつもりです。それで、もしよろしければ、私としては前向きなつもりで申し上げたいことがあり、差し出がましくはありますが書き込ませて頂きます。お仕事もお忙しいことと忖度致しますので、軽く目を通して頂けるだけで幸いであり、特にお返事を要するものではございません。
>私がこのブログで使っている悪口雑言の数々は、実際にベートーヴェンが当時の指揮者や彼にかかわった評論家等々に対して浴びせた罵声の日本語直訳である。
この文面は私にとって非常に悲しいものでした。感受性の強い天国のベートーヴェンは、そのような物真似をされたらきっと傷つきます(幸いなことにベートーヴェンは日本語を解しませんが)。ベートーヴェンの悪口雑言は「あのベートーヴェンだからこそ許された」類のものです。ベートーヴェンが言ったから誰でも言っていい、ということにはなりません。それはあたかも自分がベートーヴェンに並ぶのだという態度であり、そこに敬愛を見てとることはできません。こんなところでベートーヴェンを引き合いに出さず「指揮者内藤彰の言葉」で語って頂きたいのです。「指揮者内藤彰の言葉」であればいくら傲慢になろうともそれはそれでいいのではないでしょうか(断り書きを何度も入れておられるくらいですから、内藤さん自身はおそらく謙虚な方なのでしょう)。それでこそこのブログが前向きになるのではないかと思っております。
演奏についてでもない重箱の隅のようなことをつつく上に、分不相応な苦言とは思いますが、心底ベートーヴェンを愛しておる者としてはこのような書かれ方はさすがに堪え難く、コメントを入れさせて頂いた次第です。不快な思いをさせてしまいましたら申し訳ございません。これを期に内藤さんがより一層深くベートーヴェンを愛するようになって頂けましたらと願うばかりです。失礼致しました。
コメント by N次郎 — 2010/1/3 日曜日 @ 22:07:37
9)のコメントについて
早速の正直なご感想ありがとうございました。結構皆様読んで下さっているのですね。お気分悪くされたのなら、誤ります。申し訳ございませんでした。ただ、たとえ大天才に対しても、私たちは良い意味で常に対等に渡り合って向かっていきます。それは生意気でもなんでもなく、真剣勝負とはそういうものだと思うからです。相撲界でも世話になった先輩に本場所で勝って、ごっつぁんです!っていうのが慣習ですよね。世話になった人にとんでもないことをしたのに! あまり良い例ではなかったかな(笑)?
ただベートーヴェンは単に気の短い癇癪もちだったらしいですよ。あまり、ご自分の中で神格化するのは本当に愛するってことにはならないのでは?っていう論は認められませんかね?
それよりも、こと「第九」に関しての指揮者連中のベートヴェンに対する失礼極まりない態度をどこまでご存知ですか?もうとんでもないですよ。それを私が、彼の下にひれ伏そう(第九の歌詞の一部)と、今度の4月9日に初めての真の「第九」をやろうとしているのです。指揮者連中はベートーヴェンを馬鹿に仕切っているって言う根拠は、今まで99%の指揮者が、彼のメトロノームはいんちきだ、その根拠は・・・・・・。と嘘八百を並べ立て、無視してきたことでもわかります。その挙句の果てに生まれたのが、フルトヴェングラーの・・・であったり、う〜ん、枚挙に暇がありませんネ。
このブログに書いた大晦日のTVでの「第九」もまったくベートーヴェンを信用しない、無視したから出来る演奏だったから私が怒ったのです。私は貴方以上に彼らのベートーヴェンに対する失礼な態度に心底腹が立ちました。何度も言いますが、彼ら二人に特別な感情はありません。たまたま彼らの演奏であったのであって、ほとんどの指揮者の演奏が、ベートーヴェンがこれでもかって気持ちを込めて書き加えた指示を、鼻先でせせら笑い、まったく無視するどころか、敢てその逆をやっているのですよ。
あなたはスコアをちゃんと勉強されてはいないでしょうから、何のことを言っているかわからないかもしれませんが。貴方程度の(失礼)内容でお怒りになられるのなら、「第九」の演奏中に指揮者たちがやっている本当に無礼な態度をお知りになられたら、もう頭の血管が切れてしまうほど怒られると思いますよ!!
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 22:40:50
初めてのコメントでしたのに、丁寧なお返事をありがとうございました。
真実を見極めると言うことは時に、どんなに反対意見があったと
しても貫かなければならない時があると思います。それはわたしも未熟ではありますが、体験してまいりました。
真実は、風当たりの強い中にある。わたしはそう思っています。
どのようにスコアに指示があったとしても、それを受ける側の、
人生経験や、解釈の違いから又、違う音楽になってしまう。
だから、指揮者によって聴こえてくる音もまた同じ音楽でも
違うのかと、人の道でもまたそうであると思えてなりません。
ぜひ、内藤さんの「第九」を聴きに伺いたいと心底思いました。
素人で、わたくしも面識もございませんのに、素晴らしくご器量のおありの方と、おこがましいのですが、お見受けいたしました。延々のご活躍をお祈りしています。ありがとうございました。内藤さんのブログで、音楽の真髄をお勉強させて頂きたい
と思いました。よろしくお願いいたします。
コメント by 威風堂々 — 2010/1/3 日曜日 @ 23:09:35
1です。コメントありがとうございます。
先生のプロとしての覚悟はよく分かりました。
しかし、厳しい覚悟だけで聴衆がついてくるのかどうかは
疑問です。
あれだけ、厳しい言葉を使われるということは
聴衆からも容赦なく叩かれる危険があるわけですよね。
そんなぎすぎすした演奏会だけを聴衆は望んでるのでしょうか?
先生はがんばってやってらっしゃるのに
人を敵にまわすことで損していることも多くないですか?
おそらく今回のブログを見て、拒否反応を起こした人は
ニューシティの演奏会に来なくなってしまいませんか?
生ぬるい関係といわれても、
多少は言いたいことも我慢して、
誠実に人と向き合うほうが先生の研究結果を結果的には多くの人に知らせることはできませんか?
そのほうがベートーヴェンも喜ぶのではないでしょうか?
私は以前、ニューシティの演奏を見て楽しかったので
排他的な断定になってしまい
結果、人気がなくなってしまうのが心配です。
コメント by 1 — 2010/1/3 日曜日 @ 23:26:49
11)にのコメントに対して
「どのようにスコアに指示があったとしても、それを受ける側の、人生経験や、解釈の違いから又、違う音楽になってしまう。
だから、指揮者によって聴こえてくる音もまた同じ音楽でも
違うのかと、人の道でもまたそうであると思えてなりません。」
大変立派な総括?で痛み入ります。これをそのままお受けしていれば良いものを、私は馬鹿ですので、ついつい少しチャチャを入れてしまうのです。スミマセン。
実際に貴方のおっしゃる面もないわけではないのですが、現実は、もっともっと低レヴェルなのです。人生経験や人間の解釈の違いなんて次元ではなく、単に何の因果かベートーヴェンの確固たる意思を無視するようになってしまった悪習を、「みんなで渡れば怖くない」的に何も考えず、責任はそういう慣習を受け継いできた歴代の巨匠に無意識になすりつけたまま、そういったCDをいっぱい聴いてその人なりの折衷案で指揮しているだけなのです。今までのほとんどの指揮者が(私も数年前までその中の一人でしたから、よく分かります)。何も分け分かっていない悪口専門の人から、そんなの内藤だけだよ!って声が聞こえてきそうですが、今まだ多くの指揮者がやっている、ベートーヴェンをいっぱい無視して平気で演奏する慣習は、それ以外の理由付けなどありえないからです。指揮者の誰かに聞いてみてください。誰もはじめは恥ずかしいから何かこじつけを言うでしょう。でも少し突っ込んでみたら、例えばなぜ楽譜にこう書いてあるのにそれと逆のことをおやりになるのですか?とか、なぜメトロノームの指示とこんなにも違うテンポでなされるのですか?って。苦し紛れなこじつけしか返って来ませんから。
あなたが専門的なことをお分かりにならない方ですと、そこで専門用語を並べられ、太刀打ちできなくなるかもしれませんが、もしそこに私がいて、ニタニタしてたら、その指揮者はその言い訳すら出来なく、怒ってどこかへ行ってしまうでしょう。だって何の根拠もなく単なる20世紀になってから始まった悪習に過ぎないんですもの。世界的指揮者といわれる方もです。そんなもんなんですよ、指揮者って、えらそうな振りしてるけど実態は!! 。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 23:46:55
12)のコメントに対して
いや〜、どんどんコメントが来るので、もうすぐ定期だと言うのに勉強が出来ません(嬉・泣)。
お説ごもっともだと思います。ただ私はいろいろ批判されたとしても、やっている内容は誰にも批判され得ないものだと思っておりますので、私の説明を聞いてくださり、その後お聴きくださればニュートラル(中立)の方には皆さんに分かっていただけ、それなりの反響をいただけると信じています。現に、多くの指揮者はそれだけのプロとしてはあってはいけない(犯罪的)行為をされていること自体は事実であり、おそらくどなたも私のその論に勝るものを持たれて「第九」を振っておられないでしょう(ここで、そんなこと分からないだろう、とか傲慢な態度だって、感情的なチャチャを入れないでくださいね)。一つ前のコメント欄にも書きましたように、半分はベートーヴェンをあまりにも馬鹿にし、無視してきたことと、楽譜等指揮者に起因しないミスが多くあったこととの半々の理由で、今までの「第九」はメチャメチャにされてきたのです。そのこと自体は主観ではなく、客観的事実ですので。議論の入り込む余地はありません。私は先月末2回の「第九」の本番で、序曲の終わった後、聴衆の皆さんに向かってこの事態を説明し、普段とは違う(ベートーヴェンのオリジナルに極めて近い)「第九」をやりました。圧倒的に多くの方からアンケート等でその理由と違いがわかってとても良かった、演奏もテンポ、音程の違い、ヴィブラートのない響きに初めて接してすごく感動したとのコメントをいただきました。この説明のときも、私はかなり過激な表現を使いました。中には貴方がおっしゃられるように、感情的にやや・・・という方もおられたかもしれません。これはどこに照準をおくかということの問題だと思います。
4月9日の演奏結果は絶対に大好評になると信じています(必ず聴く前から悪口雑言を準備してくる人も何人かはいるでしょうが)。もう今までに何度も同様なことをやり、そういう評価を得ているからわかるのです。それなら、もう少し過激な表現を控えても良いじゃないか、という意見も分かります。しかし、私がやってきたことは広い日本、広い東京の中のほんの一部でだけです。今度の4月も然りです。
その場合、やはり本当のことであるのですから、少し過激であってもコマーシャリズム的にインパクトが強い方が、聴きにこられない方にまで、なんとなく理解していただける可能性を広げられると思っています。感情的批判が少々あったとしても、それはそれなりに。私としては何しろ自分が生きているうちに、正しい方の演奏が、主流になることを強く念じているからです。
今までの歴史で、正しいものがせっかく世に出たのに、正義が結果的に葬り去られ、誤ったままの演奏が勝ってしまったなんて例はざらにあります。ブルックナーの5番の2楽章のテンポも、私が一昨年、70年ぶりに正しい演奏をやり(CD発売中)直しましたが、1935年ハース版が出来て、せっかく楽譜は正しくなったのにもかかわらず、演奏は、それまでの間違った慣習が改められず、今まで3倍も遅いテンポが2楽章だと思われ、演奏されてきました。みな正しい楽譜を使っているにもかかわらずですよ。いったい何を見て演奏しているのかと怒鳴りたくなるでしょう、ブルックナーは! 空きめくら状態で、考えられない悪習が慣習という名の下に、真実を駆逐してしまった例です。今またピアノ界ではショパンがせめぎ合いを演じています。半世紀ぶりに全面改正されたナショナルエディションと、従来の間違いだらけのパデレフスキー版との間でです。明らかに後者に誤りが多く有ったので、作り直されたにもかかわらず、誤った音に慣れきったピアニストが、いまさら治せないとか、何の根拠もなく、今までの方が正しいなどと言って・・・・。「第九」も、今多数決をとったら、明らかに正義が負けるのです。正義に勝利をもたらすために私が今という時代にやれる最良の言動は、なりふり構わず、私なりのやり方で、批判されようが突き進んでいくしかないと思っております。そのひとつが、貴方のご指摘の過激な言動です。私はもちろんそれによるマイナスも分かっております。もし私が小澤征爾氏なら、もっとゆとりを持ったやり方をするでしょう。お分かりでしょうか?
せっかくのご指摘ですが、しばらくこのままやらせてください。いつか余裕が出来るようなときが来ましたら、それなりにすると思います。そしてできましたら、「内藤は口が悪いけどああ見えても・・・・」なんてかばっていただければこの上なく幸せです。長々と勝手な御託を並べましてスミマセンでした。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 0:43:36
ベートーヴェンの第九の優しいメッセージとかけはなれた
内藤彰さんの言葉に、恐れを感じ、おののきました。
どうか!美しいものをきかせてください。
文中に『思しき人』という表現がみられましたが
確かでない憶測から、人を批判なさることは、
「ネチケット」の一環としてぜひ!お控え願います。
全てが平和のために♪
2009年の内藤彰さんのいらだった大晦日のようでなく
あなたの心がいつも穏やかにありますことを、そして
いつも素敵な音が響くことを
心からお祈りします。オネガイネ。
コメント by 第九ざんまい — 2010/1/4 月曜日 @ 1:26:16
演奏方法に正義だとか悪だとか、19世紀、20世紀の演奏が全くの誤りだとか言うことを延々と書き連ねてますが本当に傲慢な態度ですね。
どんなに勉強しているのか知りませんが、先人の素晴らしい演奏に対して敬意を評せない人間のする音楽などは聴く気にはなれません。
時代の背景を踏まえてベートーベンの本質を真剣に追及した結果がメンゲルベルクでありフルトヴェングラーでありトスカニーニでありカラヤンであったわけで、ベートーベンの時代と違う奏法だから正しくないというのは偏狭すぎます。そのような20世紀の流れを汲んで演奏すること自体を間違いだというのは全く理解できません。
それに、ピリオド奏法のベートーベンは世の中にあふれてますので、まるで自分だけが唯一最高のベートーベンを演奏するかのような自惚れは捨てた方が良いでしょう。
全く呆れました。
コメント by WBM — 2010/1/4 月曜日 @ 1:39:32
15)のコメントに対して
あなたは、ベートーヴェンが「第九」のメッセージで何を言っているかお分かりでしょうか?どこに貴方が言っていらっしゃる「美しいもの」をお感じですか?少なくても文意は最初から最後まで猛烈厳しいものばかりですよ。そこに美しさを、とはよっぽど次元の高いところから見ておられるのですね。具体的には?
私の文の中で恐れおののいたとお感じになられるのは、今までの「第九」の悲劇的演奏史をご存じなく、現状の演奏がどんな悲劇的状況かをご存じない一般の方にとって、至極当然のことであり、それと「どうか美しいものをお聞かせください」とは文の脈絡としてはどう繋がるのでしょう?
失礼ですが、なにか勘違いをされているのではないでしょうか。今までの貴方が漠然と感じてこられたものと、いろいろな面で貴方にとって衝撃的に違いすぎたので、面食らっておられるのではないでしょうか。やむをえないことだと思います。それほどまでに、現実はとんでもないことになっているのでから。
「思しき人」とは、単に私の謙虚?な言葉の使い回しです。いい加減なことは書いておりません。もう一度申します。もし、あなたが今回初めて私のブログをご覧になられた方で、あまり「第九」のことを詳しくない方でしたら(もっともプロの人でも、有名な指揮者でも詳しくない人がたくさんいますが)びっくりなされ、私の言うことを信じたくなくなるという、そういうお気持ちは良く分かります。いきなり次元を飛び越えすぎてしまわれたのでしょうから。そのうちに徐々に理解していただけるようになられると思います。
さっきの「美しいもの」で思ったのですが、拙著にも書いてあります「レクイエム」のことを、死者が安らかに天国で暮らせますようにと祈って歌う、あるいは安らかにお眠りくださいなんて感じで美しく歌う鎮魂歌だなんて思っている方ではないでしょうか。乗りが同じように感じてしまって。実際はまったく正反対の恐怖感に満ち満ちたものであり、まったく鎮魂歌ではないということを(実際は皮肉に言いますと死者の心を不安に陥れる掻魂歌かも?・拙著参照)ご存知ないまま、歌ったり、聞いたりしている人が日本には多すぎて、まじめにレクイエムのことを論議するとき、初歩からお教えしないとなかなか分かってもらえないことが多いのですが。失礼ながらそれと似たような・・・。間違っていたらスミマセン。ご気分を害されないようにお願いいたします。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 2:40:32
16)のコメントに対して
「演奏方法に正義だとか悪だとか、19世紀、20世紀の演奏が全くの誤りだとか言うことを延々と書き連ねてますが本当に傲慢な態度ですね。
どんなに勉強しているのか知りませんが、先人の素晴らしい演奏に対して敬意を評せない人間のする音楽などは聴く気にはなれません。」⇒
貴方は先人がどんなに誤っていても、敬意を払うことが出来ますか? そんなことしてたら病気になったとき、最新治療は受けられませんよ。数十年前にノーヴェル賞を受賞した超名医に、今あなたは当時の方法のままがんの手術を任せられますか?敬意を払うことと、現実とはまったく別物ですよ。誰でも知らず知らずにそうしているでしょう。
私はいっぱい誤った演奏をしてきたかつての大音楽家は、その時点ではすごい人であり、今若ければもっと正しい素晴らしい演奏を聴かせてくれるだろうと思っています。ただ、まだいろいろな研究が進んでなく、科学も今とは比較にならない時代に生きていた人は、人間として、あるいは音楽家としてすごい、尊敬に値する人であることは未来永劫変わりませんが、しかしそれと彼らがその時点でやっていたことが今から見て良かったかどうかは、まったく無関係です。そのへんをお間違いないように。
半世紀前の男子1500メートル自由形のオリンピック金メダリストの記録は、現在の小学校の女の子に100メートル以上差をつけられて負けるそんな程度のものです。先日亡くなった古橋広之進さんもその中の一人です。でもそれでは彼らはそんな低レヴェルの人か、言うとそうではありません。きわめて尊敬され大切に扱われています。彼らが今若ければまったく別のすごい記録を出すでしょう。
まったく同じことです。かっての偉人を尊敬しないなんてとんでもないことを言っているのではありません。ただ、今例に挙げたように、彼らの時代は今から見ればすべての分野でずっとレヴェルは低かったわけです。その低いものを、時にはその当時だったからやむなく間違って演奏してしまっていたものを、あえて間違いと分かっていながら今もまねをするということは止めましょうといっているに過ぎません。当然のことでしょう?
それが当然でなく、すべての時限が低かったからやむをえなかったその過ちや、低レヴェルの演奏法を後生大事にしていては未来の発展がないですよと言っているのです。どこの分野にそんな馬鹿をやっているところがあるでしょうか。
「時代の背景を踏まえてベートーベンの本質を真剣に追及した結果がメンゲルベルクでありフルトヴェングラーでありトスカニーニでありカラヤンであったわけで、ベートーベンの時代と違う奏法だから正しくないというのは偏狭すぎます。」
このコメントは、まさに今言ったことに該当しています。当時のレヴェルではたとえ真剣に追及しても今のぺいぺいの指揮者がちょっと勉強したものよりも、正しい結果が出せなかったのです。しょうがなかったのです。そんなことどの分野でも当たり前のことでしょう。
何度も言いますように、医学の進歩を見てください。メンゲルベルクが如何に天才でも、百年以上前の医学と今の医学の差を比べてみれば、一目瞭然でしょう。なぜそれが分からないのでしょうか?
彼らにはいくら才能が有っても、研究する資料も、その精度も、それから過去から受け継いできたものも今よりはるかに劣悪だったのですよ。だからといって彼らが当時の大指揮者であり、現在でもそういう意味で、尊敬に値する人に違いないことは当たりまえのことです。彼らがいて現在の指揮者がいるのです。
でも誰も百年前の手術方法でがんの手術をしたくない、いや、してはいけない、もっと言えば、したら傷害罪か、殺人罪に問われる!当然のことでしょう。分かっていただけましたか?
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 3:16:25
悪しき習慣・・・
作曲された当時は
ホルンやトランペットに吹けない音域
があったので自筆譜には当然書かれていないが
後年吹けるようになったときグスタフ・マーラーとか
指揮者が勝手に
改訂して吹かせたりメトロノーム速度を無視
すること・・・。
楽譜どうり演奏するのが本当だと
思うので作曲者以外の改訂をいれて
演奏するのはよくないことでしょう。
朝比奈隆さんもベートーヴェンでは
ブライトコップ版ですが
悩んでいましたし・・。
(でもメトロノーム速度は無視していたような・・)
でもブルックナーは不思議でして
なぜか私的には
シャルク・レーヴェ改訂版が聴きたくなります。
(おもしろいからでしょう)
またピリオド奏法でやるとおそらくオーケストラ
の腕はあがるでしょう。
なぜならヴィヴラートのごまかしが
できなくなるからです。
調べてみると海外ではピリオド奏法が
けっこうやられているようなので
(ラトルもベートーヴェン全集でしています)
がんばってください。
コメント by HITORI — 2010/1/4 月曜日 @ 11:55:22
19)のコメントに対して
ありがとうございます。良い意味での‘おたく’の方のようで、大変詳しいですね。確かにある意味で作曲家が書いたものを、良かれとの思いからであっても直して演奏することは、危険な賭けであります。しかし、だからといって明らかな欠陥箇所を、作曲家に忠実にという大義名分を掲げて、結果的に主旋律も消えてしまう(例えば4楽章の歌になる前の全楽器がテーマを演奏し盛り上がる山場の箇所で、どんなに頑張っても、修正しない限り、ベートーヴェンの意図は伝わってきません。これは何らかの修正を施さない限り、ベートーヴェンに対し、失礼であると私は考えます。以前、よく管楽器を倍の人数で吹くいわゆる倍管がはやりました。ベートヴェンの時代にもそういうことは有ったらしいです。この場合は多少ましにはなりますが、それでもまだ完璧ではありません。私は昨年末、フルートとオーボエ、クラリネットに対し部分的に、2番吹きにも旋律を吹いてもらいました。もちろんそうしますと彼らのパートが無くなってしまいます。しかし、作曲学的に見ればそのマイナスは旋律が消えるのと比べ、ほとんど問題にならないからです(こんなところで、重箱の隅を突っつかないでくださいよ。いろいろなこと分かった上で書いているのですから)。もちろんピッコロの出番が出てくる前のフルート3番にも旋律を吹いてもらいました。これは誰でもがやっていることでしょう。そして、あなたがおっしゃる金管楽器の自然倍音が云々とは別に、木管楽器も性能が上がり、2〜3音高い音まで現在では可能なので、旋律が消えないよう突然オクターブ下がるのをギリギリまで延長しました。その結果、とてもよく旋律が聞こえてきて、大成功?だったのですが、フルートの高音がきつい音色になってしまい、問題でした。2回目の別の公演では、その部分の修正のため、3人とも高音の旋律を吹くのではなく、少しづつずらしながら・・・・。う〜ん本当に難しいですね。でもここだけは絶対に楽譜どおりの演奏は、それこそ犯罪です。指揮者として監督不行き届きで執行猶予付き有罪でしょう。
私は原則として作曲家の思いのままの演奏になるよう、誰よりも心がけているつもりです。でもそれはただそのまま書いてあるとおり演奏するということではないと思っております。ものすごく微妙な問題を含んでおり、この場だけでは完全には言い表せません。くれぐれも私の真意を汲んでくださいますよう、変にあご足取りをなさらないようお願いいたします。
メトロノームの速度を勝手に無視することは言語道断です!しかも無視するための大義名分の物語を作り出してまで(多くの指揮者が無批判にその大義名分とやらを信じていました。今もなお多くの・・・・)実に嘆かわしい、時限の低い話ですね(拙著参照)。曲がまったく変わってしまいます。4楽章の有名なテーマは、いかに変奏されて登場しても(マーチが始まってすぐのフルートの変奏、後半に出てくる大フーガ等)すべて同じテンポになるように、願いをこめて数字をつけたのに、一切無視され指揮者によっては自分がテーマを振っているという認識さえなく、でたらめなかってな、その場限りが格好良ければよいだろう的な演奏をしています。年末の私が批判した典型的な誤った「第九」もまさにその通りでした。なにも考えてない、楽譜をまったく読めていない大変恥ずかしい、ベートーヴェンに対し、この上なく失礼な演奏でした。まさに同業者として許せない、犯罪的演奏でした。何度も言いますように、たまたまあの2人であっただけで、彼らがすべての指揮者の中で特別駄目だといっているのではなく、大半の指揮者が間違った演奏を正しいものだと植えつけられ、今もなお考えもなく、それにしたがっているという、ただそれだけのことです。
ピリオド奏法は、また別の話ですが、もうヨーロッパでは当たり前?といいたいのですが、やはりあんなの言語道断だといって切り捨てる人も多いとか聞いています。
ラトルのベートーヴェン全集は、ピリオドではありませんよ。まだ若いし、相手が各上のオーケストラなので、ああいうことになってしまうのでしょう。ベルリンフィルのときも、ウィーンフィルのときもいいようにヴィブラートをかけられ・・・、もちろん本人はバーミンガムの時のようにやりたいのでしょうが、やろうと思えば思うほど、彼らの伝統(良くも悪くも)に阻まれ結果が中途半端になってしまっています。
通常のウィーンフィルのような華麗なヴィブラートが減り、からといってピリオドのよさなど微塵もない(泣)といったところでしょうか。あと十年もして彼がもっと各上になれば、もっとピリオドが受け入れられるようになって良くなると思って期待しています。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 12:49:33
1、初演時の楽器のバランスの悪さが版を改定してきた大きな理由のはずでしたが?なぜ、あなたの独断のみ、正義の名のもとに許されるのですか?
2、内藤さんは豊富な資料を勉強してるのですか?
コメント by 蝦夷っこ — 2010/1/4 月曜日 @ 18:08:33
>この乗りは、まるで4楽章の冒頭のチェロとバスのレチタティーヴォにベートヴェンがつけた歌詞のようですね(笑)。
「いや違う、もっと心地良い歌を・・・・。いやそれでもないそんなふざけたものではなくもっと美しいもを・・・・。いやそれでは甘すぎる・・・・。そう、それだ!!」
いよいよ「そう、それだ!!」が初演以来185年の眠りから覚め、現世に現れてきたのです!!
内藤さんの演奏が正しいという根拠をしめしてください。
コメント by 蝦夷っこ — 2010/1/4 月曜日 @ 18:11:26
アーノンクール氏は、膨大な資料と対峙し考証をすすめ、演奏史に多大な影響を与えながらも、自らの演奏を主観的なものとしています。
彼への評価はともかく、それに値する作業を行ったうえで、内藤さんはは自らの演奏を正しいと主張しているのですか?
また、ウィンナワルツの話がありましたが、内藤さんはウィーン訛りのリズム感は身についてますか?
実際の演奏からは日本訛りが聴こえてくるのです。
コメント by ぶーにゃん — 2010/1/4 月曜日 @ 18:57:13
ピリオド奏法の演奏がこじんまりして嫌いなのですが、(誰の指揮でも)その場合、私は聴き手として間違っているんでしょうか?
コメント by 名無しの笛の踊り — 2010/1/4 月曜日 @ 19:14:50
以下の点について疑問があります。
1.「正しい楽譜」とおっしゃっているのは、ベーレンライター版でしょうか、それとも新ブライトコップフ版でしょうか?どちらも最新の研究成果を取り入れた楽譜ですが、細部でかなりの違いがあります。果たしてどちらが「正しい」のですか?また、「正しい」と判断された根拠はなんでしょうか?
2.一昨年のブルックナーの5番を聴かせていただきました。プレトークで、確か「ブルックナーの意図を初めて忠実に再現する演奏」とおっしゃっていたと記憶しています。しかし、使用した楽譜について、はっきりいってブルックナーが自ら不要と考え削除した部分や、(弟子やオーケストラから批判されたわけでもなく、自らの意思で)改訂した部分を無理やり掘り起こしたものであり、果たしてこれが「作曲家の意図に忠実」といえるのでしょうか?3番や8番のように、他人からの批判を受けてやむなく改訂したというなら話は別ですが、5番の場合はブルックナーが不十分と考えたからこそ今の完成形に至ったはずです。それを、いわば作曲途上のものに戻して演奏するのは作曲家の意図を冒涜するものではないのですか?
コメント by ワグネリアン — 2010/1/4 月曜日 @ 19:18:27
21)のコメントについて
何のことをおっしゃっているのでしょうか?
楽譜の改正で、一番大切な版や、それにまつわる重要なポイントのことではなく、歴代の指揮者がやってきたオーケストレーションの変更のことを言っていらっしゃるのですか?大きな幹の部分ではなく。表面的にはかなり大きな問題かもしれませんが、もっともっと重要な点がたくさんありますので、それから比べると(揚げ足取りをしていただくと困るのですが)、この問題は枝葉の問題だと思います。
また、どこに私だけが正義の名の下に許されると書いてあるのでしょうか?ご自分で勝手な創作をなさって、その創作文に対して勝手に批判して何が面白いのでしょうか?
この場合、豊富な資料って何を指していらっしゃるのでしょうか?
オーケストレーションのことだけでしたら、誰がどうしたとしても、それはその指揮者の好みの問題で、他人がとやかく言ってみても意味があるとは思われません。素人さんには面白いかもしれませんが。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 19:58:43
22)のコメントに対して
これはこんな場所で理解していただくことは不可能だと思いますので、もしどうしてもとおっしゃるなら、お会いして説明いたします。まずは私の「本」をお読みください。その後もっと資料、根拠とも増えておりますが、大体のことは拙著でご理解いただけると思います。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 20:02:01
23)について
人それぞれ根拠の求め方は違うでしょう。私には私なりにアーノンクールがどうであれ、根拠があるから行動をしています。
ウィンナワルツは、何も日本だけでなく、ウィーンのオケもおかしなワルツの演奏があふれていますよ。まずは9日に聴きにきてください。わざと批判してやろうと思わず、ニュートラルなお気持ちで。それに、いったいあなたはどういったリズムが正しいウィンナワルツだとお思いですか? ボスコフスキーが日フィルを振りにきた時練習をずっと見ていましたが、彼は何も出来ませんでした。ただブラヴォしかいえませんでした。貴方のおっしゃる日本調ウィンナワルツでしたが。彼自身細かな分析ができていなかったのでしょう。でも私は彼とウィーンフィルの組み合わせが、理想のひとつのパターンだと思っています。ずいぶん参考になりました。現在ではウィーンに行っても何も得られません。日本にいて正しい?ウィンナワルツにいっぱい浸かれば、通常の程度のウィーンフィルのニューイヤー以上のものになることも可能でしょう。
特に今回は、貴方が聞いているウィーンフィル以上にウィンナワルツになると私は思っています。なぜならウィーンフィルがヨハンシュトラウスをやりだす前の、ピリオド奏法とそのための右手の使い方で、彼らより以上にワルツになるのですから。でも貴方には理解できないかもしれませんね。要は聴く人しだいなのですから。あなたはシュトラウス自身のワルツの演奏を聴いたことがおありですか?
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 20:17:14
24)について
いえ、ピリオド奏法が嫌いだという人はたくさんいますよ。でも素晴らしいっていう方もたくさんいます。要は好みの問題と、それまでの先入観がいかに強いかどうか、またどのピリオド奏法に遭遇したか、その曲目はなんだったか?こういった要素しだいですね。食べ物でも何でもそうです。極上のものに当たればみな、素晴らしいですよ。それに、作曲家はピリオド奏法しか知らずに、その音色と音楽表現を前提に曲を作っていたのですから。これは重要なファクターですよ。ワーグナーもマーラーもみなピリオド奏法以外の音では作曲も演奏もしていなかったのです。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 20:23:07
25の1)について
両方の版ともそれまでのブライトコップよりはるかによくなっています。しかしおっしゃるとおり表面的にはかなり違いますね。ただ、よ〜く吟味してください。楽譜上では結構違っていても、コメントを読むとほとんど同じことが書いてあります。ブライトコップ新版は、かつての先輩たちがやったことに敬意を払ったのか、間違っていることが分かっていても、とりあえず以前の間違ったままにして、コメントで実は本当は・・・・として結局はほとんどベーレンライターと同じ結論に達しています。
私は5年前、ブライトコップ新版を世界初演と銘打ってやりましたので、コメントまですべてをその版通りにしました。しかし現在は、私の考えによって、それぞれから選択しています。それだけでなく、2つの版がなぜか採り入れなかったのか疑問なのですが、ベートーヴェンが死ぬ数ヶ月前に修正した箇所は、とても理にかなっていますし、2つの版とは別に、最終遺志としていくつか採り入れるつもりです。
25の2)について
私は、ブルックナーの5番の2楽章に対して、彼の意思どおりの正しい演奏をということで、みながびっくりするような、ハースが直したとおり、すなわちブルックナーの意思どおりの演奏を、おそらく世界で初めてやりました。その根拠は昨秋ロンドンのブルックナージャーナル社の機関紙にも載り話題を呼びました。
ただ、他の楽章は意味が違います。貴方はプログラムの説明を読まれなかったのですか?そこにはあの時のコンセプト、すなわち彼の最終意思ではない、最終に向かう途中にこんな素晴らしいものまあったのですよ、というメッセージとして編集され、演奏しました。それはそれで皆さんにも分かってもらって聴いていただければよいのではないでしょうか。彼の他のシンフォニーの各種版もみなそのようなコンセプトですので。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 20:42:33
>25
1.についてはともかく
2.については
それではハース版はともかくノヴァーク版は
なぜ第一稿、第二稿、第三稿とか
わかれているのでしょうか。
すべてはシャルクさんやレーヴェさんが
したことを元に戻す過程で
生まれた原典版です。
第4番は最近改訂版も
第三稿として認知されました。
それに第5番はギャラガンさんが
第4楽章の一部ですが同じ試み
をしておりそれはCDになっております。
コメント by HITORI — 2010/1/4 月曜日 @ 20:48:46
内藤先生は素晴らしい勉強家ですね。
応援してます
コメント by だらいろ — 2010/1/4 月曜日 @ 21:04:36
コメント対応、お疲れ様でございました。
おこがましいですが、わたしも応援しています。
13で回答いただいたことはもう、仰るとおりで、
こちらの考えをそのままお書きいただいたようで
恐れ入りました。これからも、上記のような
コメントが続くかも解りませんが、一つ一つお答え
になっていらっしゃるのを見ていると、さすがで
いらっしゃいます。頑張ってください。
コメント by 威風堂々 — 2010/1/4 月曜日 @ 21:25:45
このブログはウイルスに感染していませんか。
アクセスするたびに、トロイの木馬の警告が表示されます。
私は、セキュリティをかけていますが・・・。
コメント by 隼人 — 2010/1/4 月曜日 @ 21:32:20
天国のベートーヴェンはフルトヴェングラーと内藤先生の演奏どちらを採るのでしょうか?
想像するとワクワクします((o(^-^)o))
コメント by 黒鍵 — 2010/1/4 月曜日 @ 21:36:02
31)について
キャラガンさんとは私も2回ほど彼の新版を世界初演と銘打ってやった関係で良く知っています。新版が出るまでに何度私とメールでのやり取りをしたか、数え切れないです。彼は何度となく私の意見を取り入れようとし、おこがましいですが、素人の私が、いろいろ枝葉のところで修正したりもしました。彼の5番のことも良く知っています。しかしブックナーの版の問題は言い出したらきりがなく、前回の私がやったものは川崎さんによるものです。キャラガンさんと同じ立場にあられる素晴らしい日本の研究家です。なにもあなたにとやかく言われるような種類のことではないでしょう。
ついでですが、先ほどの「第九」の版の件です。ブライトコップ新版がなぜあそこまで彼らの会社の先輩研究家に気を使うのか、彼らの先輩たちの、要らぬおせっかいによって人為的に楽譜が改ざんされていた箇所があったことも、すでに明らかになっていたのに。まるでブックナーにおける弟子たちのように要らぬおせっかいのためその後150年もの誤った演奏史ができてあがったのです。
私はこの版が出る前、校正の段階で何度もブライトコップ社とやりあいました。間違いと分かっているなら、紛らわしいからちゃんと直してくれと(例えばマーチのテンポが付点4分音符=84ではなく、付点2分音符=84であるなんて言うとても重要な誤りの訂正箇所等)しかし私の意見は、合唱譜でようやく間違った速度記号を削除するところまでは聞いてくれたのですが、スコアには昔のまま載ってしまい、コメントとしてそこは本当は・・・・となってしまいました。いろいろ社内事情等あるのでしょう。私はこのようにいろいろな場に少しだけではありますが、首を突っ込んできましたので、正しいことでもなかなか一筋縄ではいかない版の修正作業の裏事情等々を痛感しています。
これらはすべて東京にいて出来ることです。
昔ならいざ知らず、今となればウィンナワルツもそうですよ。ウィーンでわざわざ変なの習ってきたってどうしようもない。いまは昔と違い、インターナショナルの時代です。どこにいても何でも出来てしまう。恐ろしい時代になったものです。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 21:43:03
33、34)に対して
ありがとうございます。しかし疲れた〜
定期演奏会の準備が出来ない〜
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 21:46:22
35)について
絶対ということはいえませんが、現在にまで残っているベートヴェンの言動から見れば、どちらかの演奏に対しては、激怒して演奏を中断させるのではないでしょうか。もっとも耳の不自由だった彼のことですから・・・・。でも、演奏中常に彼は指揮者とオーケストラの間に座っていたのですから、テンポがあそこまで彼からするとメチャメチャにされたら、気付いてそれは悪口雑言とどまるところを知らずですよ。いろいろ彼にまつわる話をお読みになってみてください。そして、よ〜くスコアをお読みになってみてください。いかに半世紀以上前は・・・・(ああもう書くまい!同じことを!分かりきったことを何度も!疲れました!)
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 21:54:20
先生ほどの偉大なマエストロなら、〜に師事とかはプロフィールに入れないほうがいいのではないでしょうか?
先生の名前を汚す気がします
コメント by だらいろ — 2010/1/4 月曜日 @ 22:02:13
この辺で、一度ストップするのが常識かと思います。
同一のかたの質問が多いようですが。
9日のコンサートにそなえて。
急ぐ必要はないでしょう。
コメント by 斉藤 — 2010/1/4 月曜日 @ 22:08:22
>理にかなっている
とは言うものの、その「理」がなんなのか一向に明らかにされていないのですが…。
『本』でもいつもそう。「正しい」ではなく「好き」って言い方なら、まあ、許されたかもしれない。
結局「正しい」って看板が欲しいだけじゃないのですか?
コメント by ぶた — 2010/1/4 月曜日 @ 22:09:13
そういえば先生の師匠の小澤さんは、ニューイヤーのウィンナワルツでえらく苦労してませんでしたか?
すでに先生は小澤さんを凌駕しているのですか?
でもラトルは格上のベルリンフィルに苦労していると言ってはりましたし、つまり先生はウィーンフィルに本物のウィンナワルツをやれる、もはや世界一の指揮者ですね。
コメント by アマデウス — 2010/1/4 月曜日 @ 22:25:41
41)について
何のことか分かりません。ただ、世の中には正しいものは正しい、駄目なものは駄目(土井たか子)ってあるんでしょう〜。それにいちゃもんつけてみても?!
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 22:37:50
42)ついて
そう小澤先生には向いていない感じがしましたね。でも商売をたくらんだとある日本企業が・・・・(泣)って聞きました。私の意見ではありませ〜んが。
いや、ウィンナワルツ程度が出来たから世界一なんて飛躍しすぎですよ!じゃ、ボスコフスキーは当時世界一の指揮者だったのでしょうか? ウィンナワルツのみで指揮者の実力は分かりません、残念ながら。しかし貴方の文章の脈絡がぜんぜん分かりませんね。どこからこじつけて私が世界一ってことになるんですか?もう少し、苦しくても順に理にかなって、私が行っている内容の範囲で、私を世界一の指揮者まで上り詰めさせて下さいよ(笑)。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 22:46:00
今日は店じまいです。申し訳ございませんが、これ以上のコメントの返答は控えさせていただきます。また数日たって、時間が出来ましたらお相手させていただきます。なお前にも申しましたが、何の根拠もなく誹謗中傷するコメントは即刻削除いたします。よろしくご理解のほどお願いいたします。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 22:49:51
下野竜也さんは楽譜から音楽のおもしろさを引き出す指揮者として素晴らしいと思いますが。
内藤先生以後の方なんでしょうか?
コメント by 賛同者 — 2010/1/4 月曜日 @ 23:08:30
46)について
内藤先生以後の方なんでしょうか?⇒意味が良く分からないのですが?
これは、私より若いのかという意味ですか?もしそうなら、そのとおりで、かなり若いですよ。彼のことはあまり知らないのですが、楽員から評判が良いらしいですね。なにしろ人柄が良いのだそうです。私も単なる第一印象でしかないのですが、とても良い感じを受けました。ピリオド奏法っぽいこともやっているようで、まだ若いし私のようなアラカンが荒く耕して道を開きますので、彼のような貴公子がその後を何事もなかったように、正しいスタイルという白馬に乗ってかっこよく悠然と通って行くことになるのでしょう。彼にはそれだけの才能と度量と運が備わっているのではないでしょうか。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 23:54:03
わざわざお返事ありがとうございました。9の者でございます。
私はベートーヴェンを愛する者であると申し上げたのであって、神格化などとは一言も申しておりませんのに、誤解されたようで残念なことでございます。スコアを読解するお仕事の方が文章を読解しそこなうはずがないでしょうから、きっとおそらくは私の文章の伝え方が悪かったのでしょう。断っておきますが宗教じみた崇拝などは致しません。
指揮者として音楽を生み出していく現場では当然作曲者と作品に対して(相撲でいうところの)「がっぷり四つ」の姿勢で臨まれるべきものだと思いますが、だからと言ってベートーヴェンの悪口雑言をブログで用いるところまで模倣するのは、不快感と芬々たる悪臭を齎すばかりです。ベートーヴェンらしい悪口雑言はベートーヴェンだけのものにしておくというのが、敬意というものではないでしょうか。
私から見れば、作曲家に対する敬意というものが基礎の基礎としてあり、ゆえに楽譜の間違いや奏法の間違いが許せない、という論が成り立つのであって、「貴方程度の(失礼)内容」と言えるくらい程度の低いところにある重要な土台でつまづかれると「仏作って魂入れず」ということが往々にして起こりうるのではないかと思います。
ベートーヴェンの楽譜(設計図)が伝達の手違いで、間違った演奏が行われてきた、仏像を作るはずが泥人形を作っていた、というのは演奏史において実に残念な過ちであったと私も思います。論語にも「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」とありますし、過ちが再生産されることについての内藤さんのお嘆きとお怒りもごもっともなものとは思います。しかし、それらを非難するのであれば、ベートーヴェンに仮託せず、「指揮者内藤彰の言葉」で語っていただきたいという思いで認めさせて頂いた次第だったのですが、私の拙い文意は伝わっておりましたでしょうか。
惟るに、ベートーヴェンの時代は財政上常設のオーケストラなど夢のまた夢でした。奏者を集めて演奏会を開くということがどれだけ大変なことであったか(現代にも現代なりの問題がありますが)に私は思いを馳せます。奏者の技術水準も低く、到底「正しい演奏」など望みえぬものでした。それでも第九の初演が成功を収めたのは、それが「正しい演奏」だったからではなく、もっとエモーショナルなものだったからだと思うのです。ですから私は、たとえ泥人形を捏ねようともそこに人を感動させる何かがある演奏ならば、内藤さんほど激烈には怒れません。私は欠点があるものをその欠点ゆえに愛せる(≒許せる)人間です(だからベートーヴェンを神格化しないし、する必要もありません)。これでもスコアは読みますが、その指示を踏み外してしまった演奏を聴くと、「あらら、やらかしちゃいましたね」とニヤニヤしつつも楽しむ余裕のある人間です。私が感動するのは演奏を通して訴えてくるメッセージが何かしらあるものです。「正しい」だけしか売りがなかったら、それは私にとっては物足りない、ぶっちゃけてつまらない演奏です。これは所詮せいぜいアマオケ経験しかない私の個人的な価値観にすぎませんが、そういう方も少なくないと思いますよ。もちろん、アカデミズムに裏付けられた正しい演奏を好まれる方もいるでしょうが、私自身はどうも権威にひれ伏すような俗物の臭いがしてあまり馴染めない状況ではあります。
ブログでは、正しさ以外、それ以上に演奏を通して何を訴えたいかということがまだよく述べられていないように思われます。まあそういうことは実際の演奏で語ればいいことで、わざわざ言葉にすることではないのかもしれません。
いずれにしましてもお忙しい中お返事を頂きありがとうございました。長々と私自身の価値観を披瀝してお目汚ししました。
コメント by N次郎 — 2010/1/5 火曜日 @ 0:10:13
48)について
スミマセン、せっかくのコメントですが、個人的スケジューリングの関係で簡単にお答えさせてください。
何かあなたのおっしゃりたいことと私とがずれているみたいですね。ベートーヴェンの言葉を借りるのがなぜそんなにひっかかるのか理解できません。軽いのりですよ。軽いユーモアのつもりでした。その辺をご理解ください。それもとんでもないって言われるならそれは人間が違うのですからやむをえないことです。これ以上のやり取りは止めましょう。長々と一生懸命かいてくださったその貴方の真摯な姿勢には敬服いたします。ただ、感動すればよいとは、失礼ですがアマチュアの発想なのです。作曲家の目指したものとまったく違った効果によって仮に感動する人が大勢いたとしても、作曲家は頑として譲らないでしょう。よくコンクールの審査で起こる現象です。他の審査員が全員1位を付け文句なしの優勝をした人(団体)に対し、その曲の作曲者だけが最悪であるとして最下位をつける。でも多数決だから1位は動かない。この時1位になった人(団体)はどう思うでしょうか?1位の感激に心底浸れるでしょうか?
今までの20世紀の垢にまみれた「第九」は、まさにそれなのです。多くの人がそれに気付かず、喝采を送ってきた。でもまったくベートーヴェンの真意とは違っていた。そこまでは少しでも専門的に現在(カラヤン、フルトヴェングラーの時代には資料がなくて現在のレヴェルの勉強が気の毒にも出来なかったのです)勉強した方なら誰でも分かることです。なのにプロでありながらそんな、現在としては低レヴェルの勉強すらしないまま本番をやって誤ったままのベートーヴェン像を与え続けている行為自体が、私に言わせればプロとしては一種の犯罪行為だと言うのです。前の誰かのためのコメントにも書いたように、空手の有段者(プロ)が軽く誰かを小突いただけで犯罪者になる、それなのです。そうでなければまたプロともいえません。前後しましたが、ベートーヴェンが絶対に駄目だといっている演奏をあちこちの箇所で、彼をせせら笑うように行い、知らない聴衆が感動したとしても、それはベートーヴェンに対するこの上ない冒涜であるという私の主張が理解していただけませんでしょうか?彼の言葉を使うのが云々なんてかわいいものとは比べ物にならない大問題のはずですよ。あなたはそんなに大きな問題があること自体をまだご存じないので、そんなに悠長なことをコメントしてこられているのです。ベートーヴェンを愛するならば、もっと心底理解する努力をし、上面だけで私に何かを言う暇があったら・・・・
もうこれ以上言いません。懸命なるN次郎さんなら分かっていただけるものと信じてもう私は寝ます。おやすみなさい。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 0:45:54
31を書いたものです。
私は25に答えただけであり
内藤さんやギャラガンさんを
非難するつもりはないです。
以上です。
コメント by HITORI — 2010/1/5 火曜日 @ 9:25:51
ご自分の主張ばかり押し付け、他人の批判を汚い言葉で語る独りよがりな方がどんな素晴らしい演奏をしようとも、聴衆はその音楽からは感動を覚えないでしょう。少なくとも私は。だって、音楽の力って理屈じゃないんです。演奏している方々はプロ中のプロですが、聴衆はすべてがそうではないんですよ。文で語らずとも音楽で表現されてください。音楽を愛するものとして、お願いいたします。
コメント by 紫苑 — 2010/1/5 火曜日 @ 11:42:14
日本指揮者協会幹事に相応しくない暴言であり、幹事を辞任すべきだ、という意見が聞かれるようになってきました。
内藤先生は、この意見について、どうお考えですか。
コメント by 太郎 — 2010/1/5 火曜日 @ 12:00:38
51)について
スミマセンが、番号の若い私のコメントをお読みください。回答が書いてあります。一般論として、貴方のおっしゃる人がいるならば、まさにけしからんことで、貴方のおっしゃるとおりだと思いますよ。私もそんな人にならないよう気をつけております。ただ、私は貴方のおっしゃいます「他人の批判を汚い言葉で語るような独りよがりな言動」にはまったく身に覚えがありませんし、そんなことをするわけがないと思われませんか? ですからたくさんの方が私の演奏を楽しみに来てくださっています。あなたがこのブログを読んで下さる真っ白な方に、誤った悪印象を与えるため、ありもしない負の出来事を勝手にご自分でデッチ上げる、という、2チャンネルの手段で私のブログに入り込んでこないようにお願いします。私にあなたがおっしゃいますようなことがあったならば、厳に慎まなければなりませんので、該当する言動を、私に具体的にお示しくださいませ。そこでまた無理やり架空の出来事をでっち上げて批判しないようお願いしますよ。もしまたデッチ上げの書き込みがあれば今度はお相手しませんから。名前を変えて、形も変えて入る込むこともご遠慮くださいね。だいたい2〜3名の方で手を変え品を変え・・・・(笑)。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 12:35:27
ノンヴィブラートとかピリオド奏法とか言いながら、基準ピッチA=442Hz前後で演奏するのは如何でしょうか?
作曲家の意思を忠実に、と言いながら、オーケストラ配置を、ストコフスキーが作り上げたモダンな形態で演奏するのは如何でしょうか?
管弦楽曲の演奏は、指揮者、奏者双方の解釈により、また、時代背景等により、常に変化、進化するものだと私は考えます。演奏家の解釈、個性により、それは全く画一的なものとならず、時に違ったものに聴こえる事もあるでしょう。自分の気に入らない演奏、自分の意思にそぐわない演奏をする指揮者、オーケストラを、「犯罪者」「殺人」と表現するのは、貴方の人格、了見を疑うものと存じますが、如何でしょうか?
コメント by 識者 — 2010/1/5 火曜日 @ 12:44:12
52)について
そんな声はどこにも上がっていませんよ(笑)。かってにでっち上げないでくださいね。暴言って何のことをおっしゃっていますか?具体的に、理路整然とお答えになれますか?他人を批判するのはご自由ですが、単に感情だけで暴走したり、他人の悪口を書きまくるのを趣味(職業?)にしている人は、とても惨めな生き様だと思われませんか?もうここらで足をお洗いになられた方がよいと思うのですが。私が何かを批判する時は、かならず、その理由を整然と書いているつもりです。もし私を負かすことが出来る自身がおありなら、そこをすべて崩してから暴言という言葉を使ってくださいね。崩せなければ逆に、暴言ではないという証明になってしまいますよ。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 12:44:13
54)について
バロック音楽の場合はともかく、私はモダン楽器によって、できるだけ作曲家のイメージを再現することを基本姿勢としています。
モダン楽器ではピッチを変えることは出来ません。あなたは442での演奏と、半音低い演奏とで何がどう異なり、だから云々を理路整然と論議できますか?単に頭の中だけで・・・(泣)ではありませんか?
あなたは昔の物真似を私がやっているとお思いですか?私は現在に生きています。一番良いと私が信じるオーケストラの配置を取るのは指揮者として当然でしょう。昔の欠点はいいかげんに捨てたらどうでしょうか。
最後の項で貴方がお書きの件ですが、何のことか分かりません。貴方のお書きになられていることは、まったく事実に反しています。勝手に私の罪を作って冤罪をかぶせないでください。私は自分の趣味に会わない演奏をする人こそ大切にいたします。だって私の持ってない何かを持っているかもしれませんし、その秘密を出来たら分けていただきたいからです。
私はいつ指揮者が殺人者だって書きましたか?勝手にデッチアゲして他人を批判しないように。
今後は2チャンネル系と思われる方からの書き込みはすべて削除します。私も暇がないので。2チャンネルっぽくなく偽装しての入り込みも固くお断りします。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 13:01:48
マエストロ、貴方の本職は、解説者も物書きでもありません。 何をお話しても、どれだけ丁寧に説明されても、質問や批判的な意見は必ずやって来ます。 切りがありませんよ。 今回はそれだけ過激にデモンストレーションをなさったのですから、ね。 それに1つ1つ敏感に反応されて何の得策があるのでしょうか。 自分に不都合なコメントを削除するよりも、言わせておけ、ぐらいの度量をお示し頂けた方が、上に立つ方としての品格が保てると思うのですが・・・。(もちろん、人格否定や名誉棄損に値するような書き込みであれば、即刻、削除すべきですが。) とにかく、真価は、4月の公演を聴いてからにしてくれとひとこと仰れば良いことではありませんか?
マエストロ、僭越ながら、指揮者にとって、一番大事なのは、聴く者を納得させること。 それは音楽で、です。 言葉ではありません。 毒舌家の指揮者が、巨匠と認められたのも、音楽で周囲をねじ伏せるだけの力量があったからです。 当然、無い者は、嗤われるだけ、です。 自信がそれほどおありならば、俺の音楽を聴け、のひとことで良いのではないでしょうか・・・。
4月の公演のご成功と、今後益々のご活躍をお祈りしております。 レス対応に追われ、ご無理をなさいませんように。
コメント by カーペン太 — 2010/1/5 火曜日 @ 17:50:48
「バロック音楽の場合はともかく」と仰っていますが、バロック音楽と、ベートーヴェン、ブラームスの音楽の違いは何でしょうか?
>あなたは442での演奏と、半音低い演奏とで何がどう異なり、だから云々を理路整然と論議できますか?単に頭の中だけで・・・(泣)ではありませんか?
はい、当然出来ますが。
頭の中で半音程度低い音程での、ハーモニーをシミュレーションも出来ますが。
半音低い演奏は、半音低いハーモニクスになりますが。また、音色面でも当然相違が出ますが、それらは演奏者、聴衆、双方で好みの問題もあり、一概に正しい音程というものは存在しないと思われます。しかし、「作曲家の本来意図した演奏様式に基づいた演奏法」と言うのであれば、音程は作曲された当事の音程、オーケストラ編成、ならびに配置は、作曲された当事の物を採用するのが、必要な事ではありませんか?
モダン楽器ではモダンのアプローチ、バロック楽器ではバロックのアプローチをするからこそ、その”棲み分け”も出来るのであって、貴方のは、単に都合よく、ここはピリオド、ここはモダンと”使い分け”をしているだけではないですか? ”使い分け”で、作曲者の本来意図した様式が実現するんですか?
>貴方のお書きになられていることは、まったく事実に反しています。勝手に私の罪を作って冤罪をかぶせないでください。
私は貴方のブログの文章から、キーワードを引用しておりまして、貴方の投稿に反した事は一切書いておりませんし、「犯罪者」という単語は、貴方が貴方のコメントの中で初めて記したものであります。このような貴方の書き込みは私に対する名誉毀損に該当するものと考えます。
また、同時にクルト・マズア氏を「普通の大勢いるあまり勉強をしていない典型的な指揮者の単なる一人に過ぎないのであり」評するのも、名誉毀損に該当するものと認識いたします。
私は、友人を通してクルト・マズア氏にコンタクトを簡単に取る事ができますので、クルト・マズア氏指揮NHK交響楽団の演奏をテレビ放送を通じて聴いた日本人指揮者が、その者が開設しているブログにおいて、その演奏を誹謗中傷していた旨をお伝えしておきます。後は、クルト・マズア氏がどのような対応をとられるか、私は一切関知いたしませんが、今からこのページを削除するような行為はなさらぬ様、お願い申し上げます。
コメント by 識者 — 2010/1/5 火曜日 @ 17:52:12
内藤彰様
取り急ぎのご連絡です。
貴ブログの、マルウエア感染を確認しました。
閲覧者への感染が広がらないうちに、一旦ブログを閉鎖され、対策を
お取りになられるよう、強くお勧めします。
コメント by K生 — 2010/1/5 火曜日 @ 17:53:03
”当事”は”当時”の誤変換でございます。
>一番良いと私が信じるオーケストラの配置を取るのは指揮者として当然でしょう。昔の欠点はいいかげんに捨てたらどうでしょうか。
「一番良いと私が信じるオーケストラの配置」は、ベートーヴェンの作曲当時の意図と反するものであっても構わないのでしょうか?
例えば、バロックオーケストラのみならず、モダンオーケストラでも近年多く試みられている”対抗配置”は、多くの指揮者、研究者らによって、作曲当時の意図を再現するのに有効な方法とされています。しかし、貴方にとってはこれは、単なる”昔の欠点”でしょうか? それとも、対抗配置は「作曲当時の意図に反する配置」なのでしょうか?
コメント by 識者 — 2010/1/5 火曜日 @ 18:02:26
内藤先生の主張は理屈としては理解出来るのですが、一聴衆の私個人としては全く賛同出来ないですね。
もちろん「演奏家たるもの最新の研究を反映した楽譜と正しい演奏様式で演奏するべき!」と主張される演奏家が居てもいいとは思います。
けれども「そうしない演奏家は全て間違っている、不勉強だ!そんな演奏は犯罪だ!」と批難するのは失礼ながら傲慢かと思いますね。
正直なところ私のようなクラシックファンにとっては、楽譜の版とか演奏法の違いなどは非常に些細な事に思われます。
実際のところ古楽やピリオド楽器の演奏でも下らない演奏はありますし、現代奏法で古い楽譜を使っていてもいい演奏は数多いです。
私はベートーヴェンで言えばホグウッドの全集は大好きですが、フルトヴェングラーやジュリーニ、ヴァント、カルロス・クライバーのベートーヴェンも古くさかろうが何だろうが素晴らしいです。
聴き手にとっては響きや演奏のスタイルは違っても、いい演奏であれば大した問題ではないのです。
確かに「どう演奏するか?と」いう事にこだわる事は演奏家にとっては重要な問題でしょうが、我々聴衆にとっては(一部のオタクをのぞき)さして重要ではありません。
現代のオーケストラにノンヴィヴラート奏法が難しいならヴィヴラートを掛けても構わないと思いますよ。
オーケストラや指揮者が古い楽譜に馴染んでるなら古い楽譜を使えばいい。
多少の間違いがあったからってそれが何でしょう?今まで二百年近く間違った楽譜で演奏して誰も疑問にも思わなかったんですよね。
素人からすれば貴重なリハーサル時間をそんな事にこだわるよりもっといい演奏にする事に精力を費やす方がずっと建設的なんじゃないですか?
「それこそが音楽にとって重要な事なんだ!」と内藤先生が思っておられるのは重々分かっています。
しかしそうでないと思ってる我々多くの聴衆が居ますし、某女流指揮者はさておき(笑)クルト・マズアもおそらくはそう思っているのではないでしょうか?
客観的に見ればどちらも一理あるしどちらが絶対的に正しいとかどちらが間違ってるとか言う問題ではないと思います。
極論を言えば現代オーケストラで現代奏法で演奏するのもピリオドオーケストラでピリオド奏法で演奏するのも、楽譜を選ぶのも単なる流行に過ぎません。ファッションといっていいでしょう。
内藤先生はそのファッションの問題を正しさに摩り替えるために反発を受けるのではないでしょうか?
コメント by 一クラシックファン — 2010/1/5 火曜日 @ 18:14:58
60)について
いろいろあって良いのではないでしょうか?なぜたまたま昔ある人が採ったという一配置にこだわるのか理解に苦しみます。昔の配置も様々だったのですよ。今も様々ではないですか。ニューシティも毎回試行錯誤しています。古典派の演奏に対抗配置がいいなんて誰が決めたのですか?セカンドヴァイオリンが上手手前にいればすべてOKなんですか?ありえませんね。そんな不勉強な、現場をご存じない意見など。ブラームスはどういう配置を好んでいたのかご存知ですか?ありえない配置でしたよ。弦楽器だけでなく、管や打楽器はいったいどうなるのでしょうか?
もうこの種の書き込みには返信いたしません。このブログと無関係ですから。もし議論されたいとおっしゃるなら、こんな場所でこそこそではなく、堂々と私の前に出てこられませんか?そのほうが、納得いく答えを得られると思われませんか?相当の勉強をしてからにしてくださいよ。いつでもお相手いたします。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 19:46:49
58)について
再度言います。私の文章を書き換えて勝手な誹謗中傷記事にして勝手に怒ったりしないでくださいね。みっともないですよ。貴方がやっていることは、まさに誹謗中傷以外の何物でもないですよ。事実が捻じ曲げられているのですから。それに私はクルトマズア氏を誹謗も中傷もしていませんが。いったい何を勘違いされているのですか?何を大暴れしているのですか?水を得た魚のおつもりですか?2チャンネルだけでは私が読んでないのでつまらない、そうですね?貴方が何をなさろうともご勝手ですが、堂々とやってくださいよ。クルトマズア氏に連絡取れるなら、うれしいですね。事実をお伝えくださいね。おそらく、え、本当?楽譜が違ってたのって、びっくりされて、これから一生懸命勉強されるのではないでしょうか。あなたも、これだけ親切に忠告してくださるお気持ちがあるのなら、私と一度お会いして堂々意見交換をしませんか?もし、その自信がないのなら、姑息な手段で誹謗中傷をするような、またそれを職業とするようなみっともないことはおやめになったらどうですか?恥ずかしい生き様だと思われませんか?
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 20:03:34
すみません、このブログはコンピュータウィルスに感染しているようです。どうも昨日からみたいです。ブログを一時的に閉鎖したらどうかとのご意見をいただきましたが、私にはどうしたら閉鎖できるかが分かりません。申し訳ございません。アクセスされた方が、感染していないことをただただ祈るのみです。申し訳ございません。今、業者の方に依頼していますので、そのうちに閉鎖処置をとることになるかもしれません。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 20:07:49
指揮者 内籐彰さま
先日、応援差し上げたものです。ご丁寧なコメントに大変感動
致しました。ありがとうございました。
ここのブログを閉鎖される前に、心よりのお願いを申し上げます。
内藤様のベートヴェンに対する熱意も、おっしゃることも、非常に人間として、考えさせられるところがございました。
しかしながら、もし同じ人間として、指揮者であられるのなら、もし、あなた様が、研究されたものに、愛情を感じられ、それを、世に伝えたいとご所望なのであるならば、わたくしはその信念を曲げて欲しくないのと同時に、みなからご指摘を受けている、言葉に対し、そのような言葉を、内藤様から、同じ指揮者におっしゃって欲しくないのです。人間として。
また、わたくしも、法に触れることを何もしていないのに、身も
知らぬ人間に、犯罪者と呼ばれる苦しみも味わいました。しかも
それは複数の人間にです。本来のわたくしを知る由もないのに
そういわれた苦しみは、そういう目に合わないと解らないと思いますが、今、名指しで呼ばれている指揮者もまた、人間として
そういった想いをしていると思うと、音楽とは、何のために
あるのかと、非常に心を痛めるのです。
内藤様が、争いごとを招く意図でなく、その研究内容を世に伝え
たいのであるのならば、彼らを犯罪者とお呼びになることは、そ
れは、人として筋が通らないのではないでしょうか。
内藤様が、おっしゃられたいことは、ベートヴェンの真意のはずです。
もし、その言葉を抜きにして、内藤様が、情熱を持って、研究さ
れたことを発表されたとしたなら、また違う反応を受けられたの
ではないかと思います。
どうか、そのベートーヴェンの真意に誇りを持たせるためにも
また、内藤様の心意気を、穢さぬためにも、彼らに対しての
犯罪者と言う言葉を、取り消していただきたいのです。
もし、それを取り消したとしても、内藤様の、ベートヴェンに
対する愛情と研究に研究を重ねた誇りは、穢されることはない
と思うのです。
このような中でも、理解を示してくださった方はいたように
思います。
どうぞ、彼らに対する、ご指摘を受けた言葉を、取り消して
いただけます様心よりお願い申し上げます。
クラシック音楽を愛するものとして、ご検討のほど、お願い
致します。いつか、内藤様が自信を持って、研究された「第九」
を聴ける日を、楽しみにしております。
コメント by 威風堂々 — 2010/1/5 火曜日 @ 20:41:43
改行が、上手くできず、読みにくい文面になり申し訳
ございませんでした。
コメント by 威風堂々 — 2010/1/5 火曜日 @ 20:43:11
懸命と言われるほど命は懸けておりませんN次郎でございます。
今までは大変失礼致しました。このブログの記事が真剣に怒っている文章だったので、総じて真面目なお話だと勘違いしてしまい、全体があまりにも堅苦しくならないように「軽いのり、軽いユーモア」という内藤さんならではのスパイスが配合されていたのだということを読み切れませんでした。これは私の不徳と致すところであります。また、当人にギャグであると説明させることはこれまた気の利かない無粋きわまりないことでありました。重ね重ね申し訳ございません。
「感動を求めるのはアマチュアの発想」というのも、本気に取れば「アマチュアの語源は『愛する』だぞ、あんたは音楽を愛する全ての人達を敵に回したな」となるところですが、おそらくユーモアなのだと解することにすれば全く腹も立ちません。
ユーモアに疎い石部金吉な私もひとまずはこのへんで納得して、今後の内藤さんのご精進をご期待申し上げようと思ったのでございますが、コンクールのお話がございました。実際のところ比喩としては私にはピンと来ませんでした。なぜなら聴衆と審査員は別物だからです。しかしながら、この投げかけは何かしら意味があるものだろうと、今日一日中考え通しました(うっかり高速の出口を1つ間違えるほど没頭してしまいました)。その結果、勝手ながら比喩ではなくむしろ謎かけという風に解釈致しまして、愚考・感想などを少々述べさせて頂こうと思います。内藤さんの意図にそぐうかはわかりませんが。お時間も取らせることと思いますので無理してお読みにならなくても結構ですし、お返事を頂くお手間を取らせるにも及びません。
「コンクールで優勝するための演奏」というのがあると思います。自分が審査員に回るならばどこを見るかを逆に考えれば、模範解答がわかります。その模範解答を音としてしっかり表現すれば、勝つことは可能でしょう。しかし、作曲家当人としては「勝つための演奏」などは求めていないのです。むしろ「自分の曲の本質を理解してくれた演奏」に賛辞を述べることでしょう。どちらが本当の音楽をしているかは言うまでもありません。
思えばコンクールというのは藝術を堕落させる悪しき習慣だと思いました。勝てば名声や地位、金がついてくるというコンクールは、人を「いかに勝つか」の方法論に陥れるようになります。作曲にしてもローマ大賞なんてひどい例があったではないですか。
なんでも手に入る「魔法の本」を取るか、曲を理解する力である「ヴァイオリン」を取るか、多くの「兵士」を迷い道に誘い込むコンクールという「悪魔」。競争原理は他人を蹴落として自分がのしあがるという醜悪な争いを音楽界にもたらしたのだなあ。
いや、非常に啓発的な示唆に富む問いかけありがとうございました。何が真によいものかは、コンクールが判断するのではありませんよね。音楽は何のためのものか。大バッハは、ハイドンは、ベートーヴェンは何のために作曲したか、そして私は何のために曲を聴き、何のために演奏するのか、もっと自分に問いかけてみたいと思います。いやあ、お受験世代の被害者に聞かせたい話です。より深い「アマチュア」になれた感を覚えました。片言隻句の含蓄で人を導くのはやはりさすが「プロ」ならではだなあと感謝致しております。ありがとうございました。
長らく煩わせて申し訳ございませんでした。正しい楽譜、正しい奏法も勝つための武器であることは重々承知致しております。そうしなければ殺伐とした音楽界を生き延びていくことも難しいのでしょう。それはそれとして、私が今後「勝つための演奏」を聴かずに済むようになることを願ってやみません。
感謝とともに。
コメント by ゲスト — 2010/1/5 火曜日 @ 20:50:47
度々申し訳ありません。ベートーヴェンでございました。
失礼致しました。
コメント by 威風堂々 — 2010/1/5 火曜日 @ 20:55:32
59です。
今、もう一度ウイルス感染を調べたところ、ウイルスは検知されませんでした。業者さんが駆除されたのでしょうか。
コメント by k生 — 2010/1/5 火曜日 @ 21:17:53
大変お騒がせいたしました。コンピュータウィルスは、駆除されました。昨日から本日1時間前までに私のブログにこられた方は、是非トレンドマイクロのオンラインスキャンを実行してくださいませ。業者さんからの指示でございます。皆様のPCも感染している可能性がございます。まことに申し訳ございませんでした。
内藤
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 21:59:02
65)威風堂々さま
ご意見ありがとうございました。もう一度読み直してみました。貴方のご指摘はごもっともだと思います。只今書き直しました。ただ、私の基本的姿勢は変わっておりませんので、多少やわらかくなっておりますが、まだ貴方様のお気に召すものまで行っていないかもしれません。申し訳ございません。でも、貴方だけですね。私のブログに書いてある言葉をそのまま素直に解釈され、それに対して素直に意見を言っていただいた方は。ありがとうございました。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 22:03:56
67)について
コンクールの記載に関して、まったく意味が違います。
私が言いたかったことは、作曲家の意図とまったく違うことやっても、第3者は作曲家の意図とは別のところで感動することが出来る(作曲者以外のすべての審査員が1位をつけた)。でも作曲家が絶対駄目だ、違う!と叫んでいる(最下位に付ける)そういう演奏ってありですか?って言っているのです。そして優勝した人も、自分が自信を持って頑張って人からほめてもらえても(優勝しても)、正しいと思って演奏したその演奏が、その作曲者によって全面否定された時、その優勝を素直に喜べますか?っていう意味です。(現実に私はそういう場に遭遇したことがありましたので書きました。)
すなわち、「第九」は基がよいからどんなでたらめやっても、でたらめであることを知らない聴衆からは、必ず感動したって言われますよ。このブログの書き込みを見ても良く分かります。でも、ベートーヴェンにほぼ全面否定されている演奏の仕方をして、客が喜んでいるからいいでしょうって、それ真剣に音楽をやっているはずのプロとしては、満足していいものなんでしょうかね?という意味の比喩でした。
コメント by tnc — 2010/1/5 火曜日 @ 22:17:05
この事態をみて。
「2ちゃんねる」もどきの、「いじめ」ではないかと
思う質問がずらりとならんでいるようにおもう。
2ちゃんと同じ。
匿名でも真摯な意見もたくさんあれば、相手にするのも
ただ「時間の無駄」とおもわれるものも多いようだ。
ここで、一度ブログを閉鎖するのも良案かとおもいます。
対応に疲労するだけではないでしょうか。
内藤さんは「誹謗中傷」していない。
明白で重要なことは、「指揮者が、そのオーケストラと聴衆に
敬意をはらえば、多くの間違いを修正した新版を使うで
あろう。」
また「巨匠とか世界的と言うレッテルをもちたいのなら、
努力している証を示すべき。」
今後の演奏会で、彼等指揮者の真価を問いたい。
コメント by 澤田 — 2010/1/6 水曜日 @ 10:23:13
N次郎でございます。
コンクールの比喩で言うなら、私が最初から何度も申し上げていることは、「聴衆も審査員も、そして作曲家も全員満足させてこそ真のプロでしょう」ということです。
正しさは歴史が証明するものなので、コンクールという一発勝負の場ではなかなか判断しづらいところではありますが、コンクールに出る以上、普通は優勝を狙うものですよね(人によっては参加することに意義があると考える方もいるでしょう)。
もし逆に、審査員や聴衆からは総スカンを食らって、作曲家ただ一人が評価したとしたら、それは素直に喜べますか? 勝ち負けの場でどん底にいることを甘んじて受けられるならそれでもいいでしょう。でもそれだったら最初からコンクールになど出るなと申し上げたいのです(出ざるを得ない事情などもあるでしょうが)。
他の審査員が評価して、作曲家がノーという状況は、それはプロとして未熟だからでしょう。急遽作曲者が審査員席に座るという不意打ちなど、場合によっては情状酌量の余地はあるかと思いますが、作曲者も審査に加わると分かっているのならば最初から対策の立て方もあるはずです。多くの人はコンクール1位という結果ばかりで判断するでしょうが、そんな表面上のことより(世間は表面上のことをありがたがるけれども)その内容がどうかということがいつも演奏者が精進すべきところなのではないでしょうか。ボウリングで最初から作曲者のピンを敬遠して9本狙いで投げる馬鹿はいません。みなストライクを取ろうとして投げます。もちろんどんなプロでもいつでもストライクが取れるとは限りません。それでも、「プロなんだったらそこまでやれよ」というのは、私だけでなく、多くの人が要求するハードルだと思います。たとえ作曲者のピンに錘が入っていたとしても、その要求に応えるのがプロではないでしょうか。
やはりこのコンクールの比喩は納得できませんね。私にとっては適切な比喩とは思えません。そもそも私は「感動すればいい」などと申しておりません。「感動もなければつまらない」と申していたのですから。意味合いの違いはお分かりになりますよね?
「第九」ほど、簡単に人を偽物の感動に駆り立てる曲もありません。特に年末のものは風物詩として聴きにきた自分に陶酔しているような人はさておくとしても酷いものです。アマチュアの演奏会の観客は知り合いの合唱参加者ばかりに注目している人達が多く、終演後の拍手や歓声は向けられる方向がばらばらで「全ての人が兄弟になる」というような幸せな一体感を得るには至りません。一方プロにもプロで問題があります。いや、プロの現場でお仕事されている方にその問題を指摘してもなんにもなりませんからやめておきましょう。皮相な感動と心からの感動の違いは内藤さんもご承知のはずですから、論いません。
内藤さんはあえて「第九=年末」という根拠のない固定観念を払拭するいい時期に演奏することを選ばれたので、そのことだけでも意欲を感じます。鬼籍に入ったベートーヴェンも、そして評論家や聴衆も、どちらも喜ばせることのできる「真のプロ」の演奏をされることを切に願うばかりです。
コメント by N次郎 — 2010/1/6 水曜日 @ 11:48:22
先月聴いた尾高忠明氏の第九もベートーベンのtempoを無視した演奏でした。
内藤先生に教わればいいのにとここを読んで思いました。
これからも楽しみにしております!
コメント by M太郎 — 2010/1/6 水曜日 @ 14:56:16
年末の金聖響・神奈川フィルもピリオド奏法で早いテンポの第九でした。最近はこういう演奏も増えましたね。
ただ、私にはやはりビブラートがかかった豊かな響き、そして少し落ち着きのある演奏の方が好きなのです。素人だからでしょうか。
ところで先生は第九の一番のクライマックスはどこだとお考えですか?
コメント by とら — 2010/1/6 水曜日 @ 15:16:23
>>73さま、内藤様には、大変失礼をいたします。
もし、>>73さまのおっしゃることがご本心なのであれば、
このブログは閉鎖すべきではないと考えます。
このことは、恐らく、大晦日の第九をお聴きになった内籐様が
心底、そうお思いになり、書かれたことと存じます。
でなければ、ここまで衝撃的な、ブログにはならなかったと。
もし、2ちゃんねるのようないじめと取られるのであれば、
個人のブログでこのような事態が起こると、世間が知り、
もう少し、真摯にこの事態を受け止め、大の大人が、一人を
対象に、「言っている本質を見抜かず」、言われたことだけの
「先入観でものを判断する」と言うことを、ネットに関わる多くの人間が、自覚すべきこと思うのです。幼稚な考えとおっしゃる
方もいらっしゃいますが、その事がもし、解っていらっしゃるの
であるならば、このような事態は起こらなかったと考えます。
それは、音楽をする人間にとっては最も危険なことなのではない
でしょうか。楽譜を、先入観でご覧になるのでしょうか。
ただ単に、相手を非難している内容ではないことを、人間として
判断すべきかと存じます。恐らく、内藤様も、このような事態を
お覚悟の上で、書かれた事だと思います。だからこそ、ご姿勢を
変えるつもりはないとおっしゃられたのではないでしょうか。
それでも、わたくしの意をお汲み取りくださり、書き直して
下さいました。生意気を申し上げましたが、そのご人格は、
物事の中枢を見定められることと存じます。
ベートーヴェンの第九のことも、内藤様のことも失笑される
方もいらっしゃると、どこぞで、言われましたが、どのように
大勢がそうではないと言う中にも、真実はあるはずと思います。
そのお覚悟が、内藤様のブログにはにじみ出ているものと。
言われたことでなく、公平に物事を判断できるかどうかが、
ここを読まれる多くの方々に問いかけられていることでは
ないかと、存じます。
わたくしの意をお汲み取り下さったことで、内藤様は、きちんと
ご判断くださいました。物事を、公平にご覧になれる方と存知ます。
ただ、叩いて、相手を否定する、だけなのか、きちんと根拠を
示す相手に、人間としてどれだけ歩み寄れるのか、それを問わ
れていることと存じます。
それは、内籐様が発信したからということではなく、今、この
現代において、一体どれだけの人が、先入観を抜きに物事を
白紙にして、判断できるかどうかです。
内藤様は、ベートーヴェンの第九に、その真実を見極められた
からこそのお覚悟で書かれたのだと、おこがましいですが、
思います。
長々と失礼致しました。
コメント by 威風堂々 — 2010/1/6 水曜日 @ 15:28:16