「普天間」が気になる。鳩山政権の対応は米国との信頼関係を損ね、日米同盟を危機に直面させたと日本のメディアや識者らは論評する。濃淡こそあれ全体的な論調はそうだろう。基本的に異存はないが、「アメリカは怖いぞ」と言わんばかりの報道やコメントが多いと、日本人が考えるべき問題が置き去りにされないかと不安になる。危機を叫ぶ人々を見ながら、日米同盟とはこれしきの摩擦で危機に陥るものなのかと首をかしげたくなる。新春にあたり、ここは少し肩の力を抜いて自然体で日米関係を考えてはどうだろう。以下は自戒であり、天につばする行為と知りつつの問題提起である。
最初にお断りすると、私は鳩山政権を擁護する気はさらさらない。普天間に関する日米合意は尊重すべきである。修正を図りたいなら米国の理解を得て摩擦が生じないようにするのが筋だった。
しかし、自民党政権下の07年、日米合意の修正に関して久間章生(きゅうまふみお)防衛相が米側に「偉そうに言ってくれるな」と発言し日米摩擦が生じたことも記憶に新しい。「普天間」は党派を超えて考えるべき問題なのだと改めて思う。
ただ、ここで論じたいのは普天間問題の経緯や望ましい着地点ではない。この問題について日本政府を批判する日本人たちの視点やスタンスについてである。昨年からの各社の報道や論説には、普天間問題の越年は重大な事態を招くとか、関係閣僚は辞職も覚悟で首相を説得すべきだといった主張も目についた。
確かに展望なき先送りは感心しないが、批判の口ぶりが性急とも大仰とも思える。
識者の発言にも「米国を怒らせるとまずい」という、なかば本能的で、しかも根拠が明確でない恐怖感が透けて見えることがある。その恐怖感を直接口にするのは忸怩(じくじ)たるものがあるらしく、ことさら日米同盟の重要さを強調して「それなのに鳩山政権は」と国を憂う論調にすり替えるパターンも少なくない。
意識的か無意識かはともかく、日本の要人や知識人は常に米政府の意向に気を配る傾向がある。「日本としてどうすべきか」より「米国はどうしたいのか」を優先し、常に日本より米国を上位に置く心的傾向。私はこれを「ご主人様目線」「ご主人様モード」と呼んでいて、鳩山政権が言う「緊密で対等な日米同盟関係」に日本人から批判が出るのも、こうした心理の反映ではないかと思っている。
なるほど軍事力では米国にかなわない。日米安保の分担が片務的だという議論もある。だが、掛け声にしろ「世界の中の日米同盟」や「同盟の深化」と言われるように、日米協力は軍事面のみにとどまらない。米国の大統領が日本を「イコール・パートナー」とみなしているのに、当の日本側が「いや対等であるはずがない」と言い張るのも、考えてみると奇妙な話である。
日本人の中には米国と対等であることに居心地の悪さを感じる人もいるのだろう。日米安保の「片務性」等々は口実で、実は米国の下で「協調」だけを心がける方が楽なのだとすれば、現実主義を装ったニヒリズムか敗北主義と言われても仕方がない。日本が基地を提供していることも軽く見てはいけない。
どうも息苦しい。もっと前向きに考えよう。日米で新政権が誕生した歴史的好機に、世界をより良く変える理念と方策を語らない手はない。変革は必要だ。例えば米オバマ政権は前政権時の東欧ミサイル防衛(MD)構想を事実上白紙に戻し、新防衛構想を提示した。関連協定を結んでいた東欧諸国との関係が悪化しなかったのは、米国が礼儀をわきまえていたからだろう。
鳩山政権に欠けていたのは、こうした配慮だと思う。この上は早く米国との信頼関係を取り戻し、北朝鮮や核拡散の問題も含めて率直に意見交換してほしい。それは日米関係の危機どころか国際的な利益につながるはずだ。
私がワシントン駐在時に学んだのは、米国人は自分の意見を真剣に語る人を決して軽んじないということだ。未曽有の9・11テロ(01年)以降、米政府は世界をどう安全にするか、同盟国の忠告をより切実に求めるようになった。逆に米国人が軽蔑(けいべつ)するのは、自分の意見を持たず他人の顔色をうかがって生きる人間である。そこを間違えると、仲良くしているつもりが軽蔑される結果になりかねない。
同盟もそうだ。歯ごたえのある相手だからこそ手を組む価値がある。米国がアジアで中国やインド重視の姿勢を強めてきたのも、ある意味では当然である。特に「変革」を掲げるオバマ政権下だ。日本が米国を助ける理念や方策も示せず、摩擦が生じると「日米同盟の危機だ」「米国離れの親中路線だ」などと言い立てるだけなら、米国が日本に関心をなくす長期的な流れは止まらないだろう。
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毎日新聞 2010年1月5日 東京朝刊