2010.01.05

【NEW1/5】極真空手は宗教ではない! 芦原英幸の教え…(追加改訂版)

「最近の道場生は礼儀がなってない!」
「少年部に入門する子供は躾が悪く、何より保護者が礼儀知らずで困る…」
そんな嘆きの言葉を空手指導者(師範、師範代、指導員)が吐くのをよく聞くようになった。特に年末年始になると、「月謝を払ってるのに道場の大掃除なんか何故やらなくちゃならないの?」なんて顔を露骨にしたり、「今年も宜しくお願いします」ひとつ言えない…礼儀作法どころか謙虚さのない若者が増えたと言う。
だが、私はそんな言葉には簡単に頷けない。


少し芦原英幸の話をする。
芦原英幸というと、1980年に極真会館を永久除名(破門)になって以来、極真関係者の間からは真偽不明の悪口雑言が頻繁に発せれ(その源が大山倍達総裁であったのは明白だ)、いつしか「裏切者」の烙印が定着してしまった。あくまでも極真会館関係者の間での事ではあるが…。しかし今尚、芦原英幸という名を聞いただけで顔をしかめる人間は意外な程多い。
また芦原のもとから離れた正道会館(この離反劇も大山倍達=極真会館と無関係ではないが、ここでは触れない)関係者も、極真関係者とはまた別な角度から複雑な感情を芦原に抱いているのは否定出来ない。
以上の理由・背景から、いつしか芦原英幸という人間像が歪められ、誰よりも毀誉褒貶の激しい存在になってしまった。私にとっては極めて遺憾である。
更に、私がここで芦原英幸について書く事を潔しとしないのが芦原の嫡男及び、彼を「2代目館長」と仰ぐ現・芦原会館関係者だろう。彼らにとって、私はやはり裏切者であり、嘘八百を並べる偽者と映るに違いない。
結局、私が芦原英幸について書く事は何ひとつ得はないようだ。完全に無視するか、逆に居直って徹底批判でもした方が味方は増えるかもしれない。
だが、それは出来ない。
以前、私は松井章圭と、芦原英幸を巡って論戦になった事がある。芦原を否定的に捉える松井の主張には「正論」と言える部分が多々あった。だが「生きた芦原英幸」を知る私からすれば、それは大山倍達譲りの偏見と感じるところも少なくなかった。
議論好きな2人である。互いに主張を譲らない。しかし私たちは以心伝心で「もういい加減止めようよ…」と確認し合い、私が「とにかく感情的に好きなんだからしょうがないでしょ!」と言うと、予定調和的な笑顔を浮かべながら松井は、「感情的に! と言うなら議論にならないですね」と終止符を打った。
私と松井のやり取りがひとつの好例だが、今の私が芦原英幸を語る事は、ある意味でタブーに近いのかもしれない。それでも私は敢えて書きたい。
2010年が私にとって人生最大の天王山になると思うからこそ、生涯の恩人であり、かつ最強最後の空手家、否、格技家であると信じる芦原英幸について書いておきたいのだ。


芦原英幸は堅苦しい儀礼や挨拶、礼儀…つまり虚礼を最も嫌った。空手を「武道」という範疇でくくる事も嫌ったし、ましてや「精神を涵養する」とか「空手は教育」云々の講釈を完全に否定していた。
要は、「精神だ! 教育だ!」なんて最初に旗を掲げたり「武道! 武道!」と騒ぐ行為に一種の軽さや胡散臭さを感じていたのかもしれない。



「武道とは生涯続けられるものではなく、生涯をかけて目指すべき道である」

これは大山倍達の言葉だが、きっと芦原にも同様の思いがあったに違いない。ただ芦原はそのようには表現しなかった。内心では「武道だ精神を涵養するなんてアピールしてる暇があれば強くなろうと努力せい! ケンカの道具にも役に立たんチャイルドゲームなんかやりおってからに…何が空手じゃ!?」と嘲笑していたのは確実だ。


私は、そんな芦原英幸の影響と根っからのひねくれ者からか「虚礼」が大嫌いである。空手や柔道の道場が「神聖」な場所だと思った事もない。単なる練習場ではないか。
形だけの虚礼ではなく、一般人の一般常識として最低限の礼儀をわきまえればいいというのが私の主義である。自分が汗を流した場所は後の人の為に綺麗に拭いたり掃除をする。それは私のような自宅リビングでもグアム・ハイアットのtrainningーgymでも同じ事だ。私や倅の汗にまみれた床やマットは拭いて乾かして整理する…。
別に神聖な場所だからとか、「道場に感謝」なんてチャンチャラ可笑しい。日本人の悪い癖がそれなのだ。武道、精神、人間教育etc…。曖昧模糊で抽象的、そこに玉石混淆が生じ、魑魅魍魎が徘徊するのだ。
空手の道場が特別ですか?
もし、道場は神聖で特別な場所と言うならば、もはやそれは「宗教」である。ましてや「道場に感謝を!」などと言い始めたら、極真会館や極真系の空手を学ぶ人間は「宗徒」という事になってしまう。
とんでもない!
空手の道場も野球場もテニスコートも陸上競技のトラックも特別ではない。ただ、そこでtrainningしたりplayしたりする「公共」の場所だから、使い易いように掃除したりする。


「それでええんやないんか!? 空手を学ぶ人間は何より強さを追求すればええんよ。大切な事は精一杯に汗を流す事やろが! 弱くてもええ。その代わり他人の3倍汗を流せ! それだけ稽古をすりゃあ強い弱いの前に、その根性に頭が下がります…そう言えるけん。けど、ろくに汗もかかずに先輩だ指導員だ師範代だとアピールするアホに限って礼儀だ精神やと能書き垂れるんよ。稽古もせん、それで弱い癖に偉そうな宗教始める。芦原はそういう弱虫のアピールが大嫌いなんじゃ!!」
芦原英幸はこんな事を常々言っていた。
人間は強い者を怖れる生き物だ。
人間は人一倍努力し続ける者を畏怖する習性を持つ。
強く努力を怠らない指導者がいてこそ、道場の秩序は保たれ、そこに自然と生きた謙虚さや礼儀が生まれる…これが私の主義である。何も道場なんて狭い世界に限らず、会社もひいては国際政治も同様ではないか!?
経済不況、そして格技界の凋落と格技人口の急減が続いている。そんな中、極真系の道場でも生き残りを賭けて「武道精神を!」とか「武道によって日本人の伝統を守り、人間教育を!」云々をキャッチフレーズに入門者を募るインチキ連中が増えてきた。
かつて「伝統空手」の専売特許だった武道精神ナンタラを否定し、ひたすら強さを追求する事で多くの共感者を得てきた大山倍達率いる極真空手…。それが、今になって武道教育云々を言い始めたら「極真」も終わりである。
芦原英幸の言葉、姿勢を今こそ真摯に受け止めるべきではないだろうか?


それにしても…余計な事ではあるが、今やチャイルドゲームにも価しない2代目芦原会館の堕落さと無惨さである。極真会館の分裂騒動に劣らない悲劇がここにもあった事が残念でならない。
空手界、格技界に絶大なチカラを持つ某人物が断言していた。
「芦原会館の消滅は新極真会の空中分解より早いだろう!」
松山の総本部がある限り芦原会館は生き残るのでは…。私の質問に対し、彼は軽く一笑に付した。
「その総本部が経営的に成り立たなくなれば…芦原会館はなくなるよ」


(了)

samurai_mugen at 19:42│clip!駄文