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下妻市の川波公平さん(26)は、約10年前にブームになったハイパーヨーヨーの2000年世界チャンピオン。しかし3年後、交通事故で左腕に障害が残り一度はヨーヨーへの熱も冷めたが、ふとしたきっかけから忘れたはずの気持ちが再燃。今年5月には仲間とヨーヨーパフォーマンスチーム「チーム パフォーマンス スピナー」を結成し、その魅力を子どもたちに伝えるとともにプレーヤーとしての再起を目指している。
やんちゃで活発な子ども時代を北海道で過ごし、小・中学校ではサッカー部に所属。中学の時は札幌市の選抜チームに合格したものの友人の影響でバスケットボールに転向。持ち前の運動能力を発揮し、高校1年で小樽市の選抜メンバーに選ばれたが、高校になじめず1年の3学期で中退した。本当は中学卒業後すぐに働きたかった。母の猛反対で進学したが、目的のない高校生活に限界を感じた。サッカーもバスケも学校も中途半端。ただ一つ、ヨーヨーは違った。
中学生になった1996年ごろから玩具メーカー・バンダイが発売した「ハイパーヨーヨー」がブームになり、生来の負けず嫌いからめきめき腕を上げた。ヨーヨーイベントがあると聞けば北は網走まで道内を駆け回り、上級者のトリック(技)を見ては習得した。2年半かけてメーカーが認定する最高レベルに到達した1999年、全国大会で優勝。初めて手にした賞が大きな自信になった。そして2000年、アメリカで開かれた世界大会に出場。世界中から1万人以上がエントリーする中、決勝に進めるのは各部門で20人ほど。その中で、両手に持ったヨーヨーを円を描くように投げるプレースタイル「2A」部門で見事優勝し世界チャンピオンに。「音楽に合わせて3分間演技しますが、この時は一度もヨーヨーをキャッチしないで振り続けた。すべてを出し切った感じです」。
大会後、目指す目標がなくなったことや自分を超えようとするライバルのプレッシャーに悩んだ。ちょうどそのころ建築の足場組み立ての仕事が多忙になり、ヨーヨー熱も次第に冷めていた。そして突然の交通事故―。
2003年5月、気付いた時は病院のベッドにいた。いねむり運転で首の骨(第三頚椎)を骨折し左腕の3本の神経が断裂。左腕が全く動かないショックと痛みで眠れぬ日々が続いた。半年のリハビリで重い物は持てなくても日常生活が送れるまでに回復し、職場にも復帰。できることは限られていたが、それでも「仕事があるだけよかった」。働けることに感謝し7年間に集めた1500以上のヨーヨーは全部捨て、踏ん切りを付けた。
3年後、封印したヨーヨー熱が再燃する出合いがあった。離れて暮らしていた父に誘われて移り住んだ栃木県で友人がヨーヨーをプレゼントしてくれた。左手は思うように動かないが、忘れようとしていた気持ちがよみがえった。ヨーヨーの人気は下火になったものの、一部の愛好家が競って腕を磨き世界大会の上位を日本人が独占していた。しかし、その活躍はあまり知られず「トリックが複雑化して子どもが覚えられないから人気も出ない。本来は子どものおもちゃ。未来のヨーヨー界を担う新しい世代を育てたい」と、自分にできる新たな目標を見つけ、プレーヤーとして再び世界を狙いたいという夢も膨らんだ。
縁あって下妻に越したのは昨年。さっそく茨城のヨーヨープレーヤー4人を探し出し、今年5月「チーム パフォーマンス スピナー」を結成。毎月最終日曜につくばでイベントを開き、パフォーマンスショーと体験会で普及に努める。公平の「公」の字から「ハムちゃん」の愛称で慕われ、毎回見に来る子どもが増える中、ヨーヨーで地域に貢献したいと障害児施設の慰問活動もスタートさせた。
「ヨーヨーは会話が苦手な今の子どもたちのコミュニケーションツールになると思うんです」。技を教え合い、いつしか仲間が増えていく―。自分もそうだった。何でも中途半端だった自分を変えてくれたヨーヨーは今や「人生の一部」。