という言葉をスピリチュアルでは頻繁に見られます。
この言葉は、意図しようがしまいが、洗脳の引き金になる危険性のある言葉ではないでしょうか。
スピリチュアルに関する書物、ブログは、
実証性のない事象について、曖昧な記述が為されていることが少なくなく、
そのような文章の中で、
「あるがまま」を受け入れなさい
と言われた場合、読者はどのような行動をとるでしょうか。
(1)意味がわからない、と受け流す
(2)今読んでいる文章を、「あるがまま」受け入れようとする
(3)他者の「あるがまま」を受け入れようとする
(4)自身の「あるがまま」を受け入れようとする
(1)の場合は、洗脳被害の心配はないと思います。
しかし、多くの場合、スピリチュアルに関する書物を読む人は、
幸せになる、奇跡を起こす等の方法、ヒントを欲している、ある程度の真剣さを持つ人[条件1]ではないか、
という私の予想が正しいとすれば、
(1)の人は少ないのではないでしょうか。
また、その瞬間は(1)であったとしても、
後から思い出して(2)〜(4)になる人もいる、とも考えられます。
また、上記の[条件1]に該当する人は、(1)ではなく(2)〜(4)を選択すると考えられます。
以下、その前提の下、検証していきます。
(2)の場合、
読者は、今読んでいる文章を、「あるがまま」受け入れようとする、
すなわち、今読んでいる文章を“鵜呑みにしようとしている”ということです。(注)
このような場合、
たとえ文章に疑問を感じる箇所があったとしても、
疑問を感じる=理解できない=「あるがまま」を受け入れられていない=幸せになれない
という“恐怖心”から、疑問を唱えることができず、
その文章を“信じ込む”ことしかできなくなるのではないでしょうか。
言いかえれば、
上記の“恐怖心”により、文章の著作者と読者との“信仰(服従)”関係が成立する、
ということです。
この“恐怖心”→“信仰”という流れが、“洗脳”行為です。
(3)の場合、
読者は、他者の「あるがまま」を受け入れようとする、
すなわち、他者の行為、言動を“鵜呑みにしようとしている”ということです。(注)
その行為、発言に対する自分の感情(快、不快)に関わらず、
それらを“鵜呑みにする”ということは、
自身の行動、思考の主導権を他者に握られる、ということになるのではないでしょうか。
不快な感情が抑えられない=「あるがまま」を受け入れられていない=幸せになれない
という“恐怖心”が生じれば、それは決定的になります。
言いかえるならば、不特定多数の他者への“信仰(服従)”という、
(2)の場合と同様の、“洗脳”体系が完成するわけです。
この(3)の場合には、(2)も含まれるわけですが、
その結果、
自分では何も決定できない腑抜け状態の自分の形成、
若しくは、不快な感情を押し殺してきたことによる精神分裂、
が起こるという危険性もあります。
また、(2)(3)を逆に、“洗脳”に用いることも可能です。
つまり、“疑問を持つことを禁じる手法”として、
“私の言葉を鵜呑みにしなさい”という意味を持たせて、
「あるがまま」を受け入れなさい
という言葉を意図的に用いることもできるわけで、
そういったスピリチュアル関連ブログも少なくない、と私は思います。
(4)の場合、
読者は、読者自身の「あるがまま」を受け入れようとする、
ということで、一見問題がないように見えます。
しかし、これは自身の欲求、願望をも“鵜呑みにする”、
すなわち、自身にそういう欲求、願望がある、と認識するだけでなく、
欲求、願望を行動指針とし、理性の効かない状況を生み出す危険性もないわけではありません。
このような場合、教祖願望を持つ人は、カルト的思想を広め始めるのかもしれません。
(注)以上の説明では、
“受け入れる”=“鵜呑みにする”
としましたが、
“受け入れる”という行為について、具体的にどういうことか、
という説明が、多くのスピリチュアル文献ではなされていないことが多く、
一番簡単に(楽に)考えるならば“鵜呑みにする”であろう、
という私の勝手な判断で、上記のような記載を行いました。
しかし、このような解釈ができる以上、
「あるがまま」を受け入れる、という言葉が有する危険性を否定することはできない、
と私は考えております。