現在、このおぞましい犯罪的「第九」が二つのチャンネルから同時に流れてきている。ま〜、分かってはいたが、私が研究に研究を重ね、先日ようやくベートーヴェンの意図する「第九」にほぼ近づく演奏が出来たばかりなので余計に(泣)。
ベートーヴェンの研究は、近年世界中で目覚しい進歩を遂げてきた。それにより、20世紀にめちゃくちゃになってしまったベートーヴェンの演奏様式がようやく正しくなりつつあるというのに、今(大晦日の21時前後)おぞましくも鳴り響く二つのチャンネルからの「第九」は、ベートーヴェン作曲ではない!!
20世紀(一部は19世紀の内に)という化け物によって哀れにもまったく形を変えられ、編曲されてしまった惨めな「第九」!
なぜ、せっかくこの惨めさを救うべく正しくされた楽譜を使わないのだろうか!現在は、今までの間違いだらけの楽譜はすべて廃版になったというのに。未だに、その正しい譜面に対応できず、今までのでたらめな楽譜に頼って、20世紀に生まれた間違いだらけの演奏法を用い、間違った音程、ハーモニー、テンポで、くちゃくちゃな「第九」にしている!! この犯罪者たちめ!!
NHKで振っている指揮者は、もう80を超えて、いまさら自分のやってきた今までの過ちを認めたくないのであろう。今から考えれば、自分のせいか否か(無罪か有罪か)は別として、結果として誤ったベートーヴェン感を長い間観客に植えつけてきたことは紛れもない事実なのだから、その演奏活動を、本来なら詫びて修正し、正しく一新された本当のベートーヴェン像を一刻も早く観客に示し直すのが、プロとしての正しい姿であるはずであるが。
医者でなくて良かった。もし彼が医者だったら、昔の低いレヴェルの医学を今でも後生大事にして、そのために現在の進んだ医学なら助かるはずの患者さんを何人も殺し、法廷に引っ張り出されているでしょう。過失致死か、殺人か・・・・。今だったらどんなにぺいぺいの卒業したての若僧でも直せる病気なのに!
プロならプロらしく、日々進歩している科学を、ちゃんと研究し、取り入れていかなければ失格であり、何も知らない聴衆に誤った音楽を、ベートーヴェンが嘆き、怒り狂うような演奏を与えてはならないのだ!!今日のTVの「第九」のような!
一方の美人女性指揮者も、まったく譜面を読まないまま、悪しき20世紀の慣習の物真似をしている!20世紀の巨匠の間違った慣習だけをCDでお覚えて指揮していちゃ、いつまでたっても本当の意味で大成はしませんよ!なぜ、楽譜を読まないのだろうか。なぜベートーヴェンの意思とは無関係に作曲後百年以上経ってから生まれてきた悪習だけ覚えて指揮しているのだろう!
べートーヴェンが、この曲に対し、何を語っていたのか、どう演奏をしてほしいといっていたのかを、なぜ楽譜から読み取ろうとしないのか。楽譜には今までの悪しき慣習とはまったく反対の内容が、彼自身の言葉で(方法で)何度もくどく書き示されているのに!また、そういった彼の考え方(真意)がわかる当時の書物等をなぜ研究しないのだろか!答えがあちこちに散らばっているのに!! それを知らないままなぜ指揮台に立つことができるのだろうか!世紀の大巨匠をも含めてのことである!
少しでも研究すれば、彼らのやっていることが如何にいかさまであるか、彼ら自身で身にしみて分かるであろう!同じ指揮者として信じられない、この惨めなるペテン的指揮者たちめ!
あ〜、やっと今おぞましい演奏が2つとも終わった。クルト・マズアと西本智実であったが、彼らはたまたま今TVでやっていただけのことで、特別彼らが憎い訳でも、特別彼らが不勉強な犯罪者であると言っているわけでもない。普通の大勢いるあまり勉強をしていない典型的な指揮者の単なる一人に過ぎないのであり、たまたま偶然にも私がその放映を見てしまっただけのことに過ぎない。このブログを読んでくださっている皆様が、このブログ上での私の汚らしい罵り表現に対して、逆に嫌悪感をお持ちになられてしまうであろうことも重々承知の上で、現在書かせてもらっている。申し訳ない!
特にクルト・マズア氏からは、三十数年前、氏が読売日響を振りに来られた時、何度も練習を見学させていただき、勉強させていただいたものである。その氏に向かって悪口雑言の数々とは、私の人間性を疑われてもやむを得まい。しかし、どういう立場であれ、プロとしてやっている以上は、常に常に最良のものを提供していかなければ・・・・。この悪口雑言が、よくあるような単にある人を貶めたくて根拠なく言っているのではないことは、今まで私のブログを読んできて下さっている方なら、お分かりいただけると信じられるからこそ書いている(書くことが出来る)のである。
新しい楽譜が出てはや十年。当時の正しい演奏法が世に認知されだして約廿年。しかし残念ながらまだほとんどの指揮者が、彼らのような状態なのである。いつまで天国のベートヴェンを苦しめたら気が済むのだろうか!
私がこのブログで使っている悪口雑言の数々は、実際にベートーヴェンが当時の指揮者や彼にかかわった評論家等々に対して浴びせた罵声の日本語直訳である。当時から彼は自らの曲をでたらめな演奏する指揮者に頭を痛め、そのつど、そうならないようにとの思いをこめ、注意書き等を楽譜に書き込んでいったのである。彼の最晩年に発明されたメトロノームを知ったときの彼の喜びは尋常でなかった。すぐに彼は祈るような思いで、彼の理想とするテンポを書き込み・・・・。そのテンポ表示は、単なる思い付きだけではなく、特に「第九」の4楽章にいたっては、まことに理路整然とし、ありの這い出る隙間もないほど完璧な指定がしてあるにもかかわらず・・・・。
もちろん当時彼を悩ませたひどい演奏といっても、これらの注意書きやメトロノームのテンポ表示等々、すでに本来のベートーヴェンの望みを知っていながら、それらをまったく無視することを誉れとする(それ以外の数々の悲劇的要因も加わって)20世紀になって流行りだした、そして現在までも多くの聴衆や音楽家に間違ったイメージを与えてしまっている犯罪的“ベートーヴェンの真髄”よりは、ズ〜ッとましだったでしょうが。
それですら彼は・・・・・。・・・・なのに・・・。
私のように、この惨状を嘆き、実践の場でどんどん攻撃的(もちろん良い意味で)に責めていく気概を持った指揮者がいたら、いくらでもその場を提供したいと心底思っている。自薦他薦を問わず、積極的に名乗り出ていただきたい。
[クラシック音楽 未来のための演奏論」(くつがえるオーケストラ演奏の常識!)毎日新聞社刊 著者;内藤彰
をお読みください、「第九」以外にも同様に正しいと思われている名曲の定番的演奏の中に、本当はこんなにも間違っている演奏があって、それはこういう理由でそうなってしまっているんだよ。何とかしなければね〜という数々を、根拠を示して説明がしてあります。 エッ!!本当!!なるほど、言われてみればねっ、でもまさかこの曲が本当はこんなだったなんて、じゃ〜今までの演奏ってなんだったの?って内容に満ち満ちていますよ!
言いたいことはわかりますが
「犯罪者」だとか「殺人」という表現は
いかがなものなのでしょうか?
コメント by ゲスト — 2010/1/2 土曜日 @ 22:19:58
それ以前に、聴き手の心を動かす演奏ができないようではね。主張ばかり声高で演奏がカスカスでは本末転倒ですよ。
コメント by というより — 2010/1/3 日曜日 @ 1:24:12
1)のコメントに対して
「犯罪者」とか「殺人」という言葉は、確かに表面的に解釈すればきつい言葉ですが、しかし医学界ではもう常識になっているのではないでしょうか。なぜなら新しい正しい治療法が確立されていることが分かっているにもかかわらず、それまでの遅れた、あるいは誤った治療法で患者さんを死に至らしむることを、殺人行為と言わず他になんと言えばよいのでしょうか?ちゃんと勉強した医師に任せれば簡単に直ったものが・・・。患者さん、あるいはご家族の皆さんの立場に立ってみてください。例え死に至らなくてもそれに近い状態にされてしまえば、その医師は彼らにとって犯罪者以外の何者でもないでしょう。だって、自分が新しい治療法をろくに勉強していない事が分かっていながら、あるいはそれすら分かっていないヤブが、患者に結果的には危害を加えてしまっているのですよ。ひどいときには、患者さんをモルモット代わりの実験台にして・・・・・。こういった事態を見逃しては駄目なのです!そう思われませんか?もう、そういうこと事態を知らずに、「先生は最善を尽くしてくださいました。ありがとうございました。」なんてだまされている時代は終わったのです。
オーケストラも同じです。作曲家の意思とは違う誤った音楽を聴きたいと思って聴きにくる人は誰もいないでしょう。実態を知らずに聴かされる聴衆の立場からすれば、いままで本物を聴いてきたつもりだったのが、医師、いや指揮者の怠慢のために誤ったまったく違う音楽を聴かされてきたとすれば、医学界的に言えば一種の犯罪行為を受けたと言えるのです。それによって、音楽の見方を誤ってしまう聴衆も大勢いらっしゃるでしょう。普通の人がちょっとぐらい喧嘩で人を殴ってもいちいち問題にはされないでしょう。しかし空手の有段者が人を殴れば、たとえ軽くではあってもこれは犯罪として取り締まり対象になるのです。プロである以上は、それぐらい厳しく自分の仕事に対処しなければなりません。当然のことです。それとも勉強しない輩を野放しにして、ますます哀れな被害者(聴衆)を作り出していくことを黙認しろとでも言われるのでしょうか。音楽に携わるものも、プロである以上医者と同じぐらいの覚悟を持って仕事をしなければならないと言う私の主張です。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 15:31:53
2)のコメントに対して
まったくその通りだと思います。今度9日の定期を聴きにきてください。すべてピリオド奏法です。ウィンナワルツも今のウィーンフィルがヴィブラートいっぱいでJ.シュトラウスをはじめて取り上げるまでは、ノンヴィブで、本当の3拍子のリズム感たっぷりで演奏されていました。
4月9日の20周年記念定期の「第九」を聴きにきてください。衝撃的ですよ!ベートーヴェンがおそらく泣いて喜んでくれるでしょう。なんで20世紀中にこういう自分が楽譜に書いたことをやってくれなかったのだろうか?なんであえて逆のことをやっていたのかってネ!
こういう言葉でのやり取りは誤解の基です。まずは聴いてくださいね。なぜ私が年末のTVでの「第九」をあそこまでこっぴどく言ったかを、よ〜く分かってもらえるはずですので。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 15:42:30
2)のコメントに対して、続きです
書き忘れていました。このコメントにはスカスカではとありました。これは一般的に初歩的なピリオド奏法における時限の低い音色による演奏のことに対して皮肉って言う表現です。まだそういう団体も一部にはあるみたいですね。でもこの奏法は現代の奏者にとって大変難しいものなんですよ。果敢にチャレンジしている人たちをもう少し温かい目で見守ってあげてくださいね。進化の一過程なのですから。そういった点にまったく目もくれず、何でもかんでもイージーにヴィブラート掛けまくって綺麗な音だと思っている前世紀の遺物的な団体よりは一歩前を行っているのです。少なくてもスカスカといわれる音の方が、ロマン派までの作曲家は、「そう、その音に近い」って言うでしょう。なぜならそれに近い音を彼らは聴いて、イメージをもらい作曲していたのですから。当時、ヴィブラートいっぱいの今のような音色は彼らの周りにはなかったのですから。
でもできたらスカスカではなく、そこに音楽の加わったヴィブラートに頼らなくても良い表現に速く皆さんが慣れてくださるといいですね。
ただ、私のブログで書いたことは、奏法のこともありますけど、それはごく一部です。まず「第九」だけで、目立つ音程の違いが数箇所。おそらく私のブログを読んでくれているどなたもご存じないベートーヴェンの叫びです。テンポの大きな誤り、も数箇所。楽譜には当初から正しく書いてあるにもかかわらず、百年前ぐらいからそれを(ベートーヴェンという作曲家自体を)無視することに指揮者としての大義だと感じるような風潮が出来上がり、それがおろかな大巨匠から大巨匠へと、ヴィールスの伝播のごとく・・・。そして誤った旋律やテンポが「第九」の真髄だと思い込み、そこに十把ひとからげのヴィブラートが加わり、音色までも・まったく変ってしまって・・・あ〜おぞましい!
スミマセンが、私が自分のブログだとはいえ、ここまで書くには、どれもそれなりの根拠があってのことです。傲慢に思われるかもしれませんが、おそらくどなたも覆すことは無理でしょう。申し訳ございませんが、それなりの勉強をなさっていらっしゃらない方の、このコメントに対する意見めいた書き込みは削除させていただきますのでよろしくお願いいたします。
ただもちろん前向きな姿勢で、一つ一つ今までの演奏に対する誤りに対して勉強していくことをお望みの方でしたら、いつでもお相手させていただきます。その中のたとえひとつでも、私の知らない、あるいは私の過ちを指摘してくださる貴重なご意見がございましたら、この上ない喜びです。私とまったく面識のない方でも結構ですので、どうぞご自分をあかされてからのお書き込みをお願いいたします。
まったくの素人の方でも結構です。ただ前向きの姿勢さえ持ち合わせておられる方でしたら。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 18:08:06
[…] First Tweet: 1 hour ago bakucla BakuCla 指揮者の内藤彰さんが第九の件で怒ってる。(> <) 興味深い記事でした。http://www.naito-akira.com/archives/136 retweet […]
ピンバック by Twitter Trackbacks for 内藤彰オフィシャルブログ あ〜悲劇!大晦日のNHKと、たまたま同時放送の民間TVの「第九」。この犯罪行為はいつまで続くのか!! [naito-akira.com] on Topsy.com — 2010/1/3 日曜日 @ 18:47:28
某女性指揮者の掲示板でこの記事を知り、来させて頂きました。
悪口雑言と言うより、根拠もあり、正直にお感じになられた
ことかと思います。時に人は、その悪口雑言を、文句、まさに
悪口と思う人もあるかもしれませんが、内藤さんのおっしゃる
ことは、まさに、その通りだと思いました。原因と結果、その
過程まで、根拠あるお考えかと。とても説得力のあるものと。
某女性指揮者のファンの掲示板でも、犯罪者、なんとかかんとかと平然と人に言う人達も見受けました。
内藤さんのお話は、それとは完全に根拠が違い、表現的には、きついかもしれませんが、内藤さんが何を言おうとしているのかは、非常に伝わって来るものがありました。コメントが、大変抽象的になり申し訳ありません。内籐さんの音楽への愛情が感じられる記事だったと思います。日本武道館での第九がどのように演奏されるのかが、楽しみでもあり、また、内藤さんのおっしゃら
れることが浮き彫りになるのかと、多少の心配も・・・
コメント by 威風堂々 — 2010/1/3 日曜日 @ 20:44:02
7)のコメントについて
ありがとうございました。ついさっき某女性指揮者の盲目的信仰者と思しき方から、単なる根拠のない誹謗コメントをいただきました。コメント5)にもお書きしましたように、名乗らず、何の根拠も示さない誹謗中傷でしたので、即刻削除いたしました。私のブログが、早々に女性指揮者のブログにまで張られ、また別のサイトのどこかにも繋がって結構大変なことになっているようで、びっくりしています。これも人気美人指揮者?がたまたま対象になったからなのでしょうか?
1月9日(土)2時半から間違いが修正されたショパンのピアノ協奏曲1番、大間違いであった20世紀の「序奏の演奏法」が修正された「魔笛」序曲(おそらく間違った演奏のイメージしかない一般の聴衆はびっくりします)。そしてヴィブラートをとったピリオド奏法での元祖ウィンナワルツ(ヴィヴラートがないため華麗さは減りますが、ピリオド奏法の長所により、ウィーンフィルにない本来のウィンナワルツの良さに満ち満ちていると思います。まだ練習は始まっていませんが・笑)。一度私の理論の仰天的実践をお聴き下さい。連絡くださればご招待します。また4月9日芸術劇場の「第九」もびっくりされるでしょう。これこそが「ベートヴェンの望んだ演奏」となるはずです。必ずでたらめな感情的批判がいっぱい出てくるでしょう。しかし誰のもおそらく私の根拠の前には撃沈してしまうでしょう。残念ながら。私は、今のうちに私の根拠を超えるものが出てくることを切望しているのですが。なぜなら今なら修正がかなうからです。CDとなって外国にも行くものですので、完璧を期したいのです。
私は、ブログに書いたように、何も彼女を特別貶めたいのでもなく、何の恨みも持っているわけではありません。くだらない2チャンネルではありませんので(笑)。まったく彼女のことは知らないので(新聞、週刊誌等で叩かれていた時のことを少しお覚えているだけです)、批判しようがありません。ただ、彼女も私の言うところの、良くあるあまり勉強していない(私も含み)指揮者の単なるone of themにすぎないのであり、たまたま大晦日にTVで「第九」の放映があったのを私が見てしまっただけのことです。もし別の指揮者であったとしても、おそらく同じ誤りをしているでしょうから、その演奏に対して同じことを書いたでしょう。くれぐれも彼女本人にも、また熱烈な信奉者たちにもその辺の誤解がないよう願いたいものです。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 22:00:12
初めて書き込みさせて頂きます。面識もございませんし、まったくの素人ですし、それなりの勉強もその水準を満たしているかどうかもわかりませんが、ベートーヴェンを愛する気持ちは誰にも負けないつもりです。それで、もしよろしければ、私としては前向きなつもりで申し上げたいことがあり、差し出がましくはありますが書き込ませて頂きます。お仕事もお忙しいことと忖度致しますので、軽く目を通して頂けるだけで幸いであり、特にお返事を要するものではございません。
>私がこのブログで使っている悪口雑言の数々は、実際にベートーヴェンが当時の指揮者や彼にかかわった評論家等々に対して浴びせた罵声の日本語直訳である。
この文面は私にとって非常に悲しいものでした。感受性の強い天国のベートーヴェンは、そのような物真似をされたらきっと傷つきます(幸いなことにベートーヴェンは日本語を解しませんが)。ベートーヴェンの悪口雑言は「あのベートーヴェンだからこそ許された」類のものです。ベートーヴェンが言ったから誰でも言っていい、ということにはなりません。それはあたかも自分がベートーヴェンに並ぶのだという態度であり、そこに敬愛を見てとることはできません。こんなところでベートーヴェンを引き合いに出さず「指揮者内藤彰の言葉」で語って頂きたいのです。「指揮者内藤彰の言葉」であればいくら傲慢になろうともそれはそれでいいのではないでしょうか(断り書きを何度も入れておられるくらいですから、内藤さん自身はおそらく謙虚な方なのでしょう)。それでこそこのブログが前向きになるのではないかと思っております。
演奏についてでもない重箱の隅のようなことをつつく上に、分不相応な苦言とは思いますが、心底ベートーヴェンを愛しておる者としてはこのような書かれ方はさすがに堪え難く、コメントを入れさせて頂いた次第です。不快な思いをさせてしまいましたら申し訳ございません。これを期に内藤さんがより一層深くベートーヴェンを愛するようになって頂けましたらと願うばかりです。失礼致しました。
コメント by N次郎 — 2010/1/3 日曜日 @ 22:07:37
9)のコメントについて
早速の正直なご感想ありがとうございました。結構皆様読んで下さっているのですね。お気分悪くされたのなら、誤ります。申し訳ございませんでした。ただ、たとえ大天才に対しても、私たちは良い意味で常に対等に渡り合って向かっていきます。それは生意気でもなんでもなく、真剣勝負とはそういうものだと思うからです。相撲界でも世話になった先輩に本場所で勝って、ごっつぁんです!っていうのが慣習ですよね。世話になった人にとんでもないことをしたのに! あまり良い例ではなかったかな(笑)?
ただベートーヴェンは単に気の短い癇癪もちだったらしいですよ。あまり、ご自分の中で神格化するのは本当に愛するってことにはならないのでは?っていう論は認められませんかね?
それよりも、こと「第九」に関しての指揮者連中のベートヴェンに対する失礼極まりない態度をどこまでご存知ですか?もうとんでもないですよ。それを私が、彼の下にひれ伏そう(第九の歌詞の一部)と、今度の4月9日に初めての真の「第九」をやろうとしているのです。指揮者連中はベートーヴェンを馬鹿に仕切っているって言う根拠は、今まで99%の指揮者が、彼のメトロノームはいんちきだ、その根拠は・・・・・・。と嘘八百を並べ立て、無視してきたことでもわかります。その挙句の果てに生まれたのが、フルトヴェングラーの・・・であったり、う〜ん、枚挙に暇がありませんネ。
このブログに書いた大晦日のTVでの「第九」もまったくベートーヴェンを信用しない、無視したから出来る演奏だったから私が怒ったのです。私は貴方以上に彼らのベートーヴェンに対する失礼な態度に心底腹が立ちました。何度も言いますが、彼ら二人に特別な感情はありません。たまたま彼らの演奏であったのであって、ほとんどの指揮者の演奏が、ベートーヴェンがこれでもかって気持ちを込めて書き加えた指示を、鼻先でせせら笑い、まったく無視するどころか、敢てその逆をやっているのですよ。
あなたはスコアをちゃんと勉強されてはいないでしょうから、何のことを言っているかわからないかもしれませんが。貴方程度の(失礼)内容でお怒りになられるのなら、「第九」の演奏中に指揮者たちがやっている本当に無礼な態度をお知りになられたら、もう頭の血管が切れてしまうほど怒られると思いますよ!!
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 22:40:50
初めてのコメントでしたのに、丁寧なお返事をありがとうございました。
真実を見極めると言うことは時に、どんなに反対意見があったと
しても貫かなければならない時があると思います。それはわたしも未熟ではありますが、体験してまいりました。
真実は、風当たりの強い中にある。わたしはそう思っています。
どのようにスコアに指示があったとしても、それを受ける側の、
人生経験や、解釈の違いから又、違う音楽になってしまう。
だから、指揮者によって聴こえてくる音もまた同じ音楽でも
違うのかと、人の道でもまたそうであると思えてなりません。
ぜひ、内藤さんの「第九」を聴きに伺いたいと心底思いました。
素人で、わたくしも面識もございませんのに、素晴らしくご器量のおありの方と、おこがましいのですが、お見受けいたしました。延々のご活躍をお祈りしています。ありがとうございました。内藤さんのブログで、音楽の真髄をお勉強させて頂きたい
と思いました。よろしくお願いいたします。
コメント by 威風堂々 — 2010/1/3 日曜日 @ 23:09:35
1です。コメントありがとうございます。
先生のプロとしての覚悟はよく分かりました。
しかし、厳しい覚悟だけで聴衆がついてくるのかどうかは
疑問です。
あれだけ、厳しい言葉を使われるということは
聴衆からも容赦なく叩かれる危険があるわけですよね。
そんなぎすぎすした演奏会だけを聴衆は望んでるのでしょうか?
先生はがんばってやってらっしゃるのに
人を敵にまわすことで損していることも多くないですか?
おそらく今回のブログを見て、拒否反応を起こした人は
ニューシティの演奏会に来なくなってしまいませんか?
生ぬるい関係といわれても、
多少は言いたいことも我慢して、
誠実に人と向き合うほうが先生の研究結果を結果的には多くの人に知らせることはできませんか?
そのほうがベートーヴェンも喜ぶのではないでしょうか?
私は以前、ニューシティの演奏を見て楽しかったので
排他的な断定になってしまい
結果、人気がなくなってしまうのが心配です。
コメント by 1 — 2010/1/3 日曜日 @ 23:26:49
11)にのコメントに対して
「どのようにスコアに指示があったとしても、それを受ける側の、人生経験や、解釈の違いから又、違う音楽になってしまう。
だから、指揮者によって聴こえてくる音もまた同じ音楽でも
違うのかと、人の道でもまたそうであると思えてなりません。」
大変立派な総括?で痛み入ります。これをそのままお受けしていれば良いものを、私は馬鹿ですので、ついつい少しチャチャを入れてしまうのです。スミマセン。
実際に貴方のおっしゃる面もないわけではないのですが、現実は、もっともっと低レヴェルなのです。人生経験や人間の解釈の違いなんて次元ではなく、単に何の因果かベートーヴェンの確固たる意思を無視するようになってしまった悪習を、「みんなで渡れば怖くない」的に何も考えず、責任はそういう慣習を受け継いできた歴代の巨匠に無意識になすりつけたまま、そういったCDをいっぱい聴いてその人なりの折衷案で指揮しているだけなのです。今までのほとんどの指揮者が(私も数年前までその中の一人でしたから、よく分かります)。何も分け分かっていない悪口専門の人から、そんなの内藤だけだよ!って声が聞こえてきそうですが、今まだ多くの指揮者がやっている、ベートーヴェンをいっぱい無視して平気で演奏する慣習は、それ以外の理由付けなどありえないからです。指揮者の誰かに聞いてみてください。誰もはじめは恥ずかしいから何かこじつけを言うでしょう。でも少し突っ込んでみたら、例えばなぜ楽譜にこう書いてあるのにそれと逆のことをおやりになるのですか?とか、なぜメトロノームの指示とこんなにも違うテンポでなされるのですか?って。苦し紛れなこじつけしか返って来ませんから。
あなたが専門的なことをお分かりにならない方ですと、そこで専門用語を並べられ、太刀打ちできなくなるかもしれませんが、もしそこに私がいて、ニタニタしてたら、その指揮者はその言い訳すら出来なく、怒ってどこかへ行ってしまうでしょう。だって何の根拠もなく単なる20世紀になってから始まった悪習に過ぎないんですもの。世界的指揮者といわれる方もです。そんなもんなんですよ、指揮者って、えらそうな振りしてるけど実態は!! 。
コメント by tnc — 2010/1/3 日曜日 @ 23:46:55
12)のコメントに対して
いや〜、どんどんコメントが来るので、もうすぐ定期だと言うのに勉強が出来ません(嬉・泣)。
お説ごもっともだと思います。ただ私はいろいろ批判されたとしても、やっている内容は誰にも批判され得ないものだと思っておりますので、私の説明を聞いてくださり、その後お聴きくださればニュートラル(中立)の方には皆さんに分かっていただけ、それなりの反響をいただけると信じています。現に、多くの指揮者はそれだけのプロとしてはあってはいけない(犯罪的)行為をされていること自体は事実であり、おそらくどなたも私のその論に勝るものを持たれて「第九」を振っておられないでしょう(ここで、そんなこと分からないだろう、とか傲慢な態度だって、感情的なチャチャを入れないでくださいね)。一つ前のコメント欄にも書きましたように、半分はベートーヴェンをあまりにも馬鹿にし、無視してきたことと、楽譜等指揮者に起因しないミスが多くあったこととの半々の理由で、今までの「第九」はメチャメチャにされてきたのです。そのこと自体は主観ではなく、客観的事実ですので。議論の入り込む余地はありません。私は先月末2回の「第九」の本番で、序曲の終わった後、聴衆の皆さんに向かってこの事態を説明し、普段とは違う(ベートーヴェンのオリジナルに極めて近い)「第九」をやりました。圧倒的に多くの方からアンケート等でその理由と違いがわかってとても良かった、演奏もテンポ、音程の違い、ヴィブラートのない響きに初めて接してすごく感動したとのコメントをいただきました。この説明のときも、私はかなり過激な表現を使いました。中には貴方がおっしゃられるように、感情的にやや・・・という方もおられたかもしれません。これはどこに照準をおくかということの問題だと思います。
4月9日の演奏結果は絶対に大好評になると信じています(必ず聴く前から悪口雑言を準備してくる人も何人かはいるでしょうが)。もう今までに何度も同様なことをやり、そういう評価を得ているからわかるのです。それなら、もう少し過激な表現を控えても良いじゃないか、という意見も分かります。しかし、私がやってきたことは広い日本、広い東京の中のほんの一部でだけです。今度の4月も然りです。
その場合、やはり本当のことであるのですから、少し過激であってもコマーシャリズム的にインパクトが強い方が、聴きにこられない方にまで、なんとなく理解していただける可能性を広げられると思っています。感情的批判が少々あったとしても、それはそれなりに。私としては何しろ自分が生きているうちに、正しい方の演奏が、主流になることを強く念じているからです。
今までの歴史で、正しいものがせっかく世に出たのに、正義が結果的に葬り去られ、誤ったままの演奏が勝ってしまったなんて例はざらにあります。ブルックナーの5番の2楽章のテンポも、私が一昨年、70年ぶりに正しい演奏をやり(CD発売中)直しましたが、1935年ハース版が出来て、せっかく楽譜は正しくなったのにもかかわらず、演奏は、それまでの間違った慣習が改められず、今まで3倍も遅いテンポが2楽章だと思われ、演奏されてきました。みな正しい楽譜を使っているにもかかわらずですよ。いったい何を見て演奏しているのかと怒鳴りたくなるでしょう、ブルックナーは! 空きめくら状態で、考えられない悪習が慣習という名の下に、真実を駆逐してしまった例です。今またピアノ界ではショパンがせめぎ合いを演じています。半世紀ぶりに全面改正されたナショナルエディションと、従来の間違いだらけのパデレフスキー版との間でです。明らかに後者に誤りが多く有ったので、作り直されたにもかかわらず、誤った音に慣れきったピアニストが、いまさら治せないとか、何の根拠もなく、今までの方が正しいなどと言って・・・・。「第九」も、今多数決をとったら、明らかに正義が負けるのです。正義に勝利をもたらすために私が今という時代にやれる最良の言動は、なりふり構わず、私なりのやり方で、批判されようが突き進んでいくしかないと思っております。そのひとつが、貴方のご指摘の過激な言動です。私はもちろんそれによるマイナスも分かっております。もし私が小澤征爾氏なら、もっとゆとりを持ったやり方をするでしょう。お分かりでしょうか?
せっかくのご指摘ですが、しばらくこのままやらせてください。いつか余裕が出来るようなときが来ましたら、それなりにすると思います。そしてできましたら、「内藤は口が悪いけどああ見えても・・・・」なんてかばっていただければこの上なく幸せです。長々と勝手な御託を並べましてスミマセンでした。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 0:43:36
ベートーヴェンの第九の優しいメッセージとかけはなれた
内藤彰さんの言葉に、恐れを感じ、おののきました。
どうか!美しいものをきかせてください。
文中に『思しき人』という表現がみられましたが
確かでない憶測から、人を批判なさることは、
「ネチケット」の一環としてぜひ!お控え願います。
全てが平和のために♪
2009年の内藤彰さんのいらだった大晦日のようでなく
あなたの心がいつも穏やかにありますことを、そして
いつも素敵な音が響くことを
心からお祈りします。オネガイネ。
コメント by 第九ざんまい — 2010/1/4 月曜日 @ 1:26:16
演奏方法に正義だとか悪だとか、19世紀、20世紀の演奏が全くの誤りだとか言うことを延々と書き連ねてますが本当に傲慢な態度ですね。
どんなに勉強しているのか知りませんが、先人の素晴らしい演奏に対して敬意を評せない人間のする音楽などは聴く気にはなれません。
時代の背景を踏まえてベートーベンの本質を真剣に追及した結果がメンゲルベルクでありフルトヴェングラーでありトスカニーニでありカラヤンであったわけで、ベートーベンの時代と違う奏法だから正しくないというのは偏狭すぎます。そのような20世紀の流れを汲んで演奏すること自体を間違いだというのは全く理解できません。
それに、ピリオド奏法のベートーベンは世の中にあふれてますので、まるで自分だけが唯一最高のベートーベンを演奏するかのような自惚れは捨てた方が良いでしょう。
全く呆れました。
コメント by WBM — 2010/1/4 月曜日 @ 1:39:32
15)のコメントに対して
あなたは、ベートーヴェンが「第九」のメッセージで何を言っているかお分かりでしょうか?どこに貴方が言っていらっしゃる「美しいもの」をお感じですか?少なくても文意は最初から最後まで猛烈厳しいものばかりですよ。そこに美しさを、とはよっぽど次元の高いところから見ておられるのですね。具体的には?
私の文の中で恐れおののいたとお感じになられるのは、今までの「第九」の悲劇的演奏史をご存じなく、現状の演奏がどんな悲劇的状況かをご存じない一般の方にとって、至極当然のことであり、それと「どうか美しいものをお聞かせください」とは文の脈絡が合わないような気がいたします。
失礼ですが、なにか勘違いをされているのではないでしょうか。今までの貴方が漠然と感じたものと、いろいろな面で貴方にとって衝撃的に違いすぎたので、面食らっておられるのではないでしょうか。やむをえないことだと思います。それほどまでに、現実はとんでもないことになっているのでから。
「思しき人」とは、単に私の謙虚?な言葉の使い回しです。いい加減なことは書いておりません。もう一度申します。もし、あなたが今回初めて私のブログをご覧になられた方で、あまり「第九」のことを詳しくない方でしたら(もっともプロの人でも、有名な指揮者でも詳しくない人がたくさんいますが)びっくりなされ、私の言うことを信じたくなくなるという、そういうお気持ちは良く分かります。いきなり次元を飛び越えすぎてしまわれたのでしょう。そのうちに徐々に理解していただけるようになられると思います。
さっきの「美しいもの」で思ったのですが、拙著にも書いてあります「レクイエム」のことを、死者が安らかに天国で暮らせますように祈って美しく安らかにお眠りくださいなんて感じで歌う鎮魂歌だなんて思っている方ではないでしょうか。乗りが同じように感じて。実際はまったく正反対の恐怖感に満ち満ちたものであり、まったく鎮魂かではないということを知らないまま、歌ったり、聞いたりしている人が日本には多すぎて、まじめにレクイエムのことを論議するとき、初歩からお教えしないとなかなか分かってもらえないことが多いのですが。失礼ながらそれと似たような・・・。間違っていたらスミマセン。
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 2:40:32
16)のコメントに対して
「演奏方法に正義だとか悪だとか、19世紀、20世紀の演奏が全くの誤りだとか言うことを延々と書き連ねてますが本当に傲慢な態度ですね。
どんなに勉強しているのか知りませんが、先人の素晴らしい演奏に対して敬意を評せない人間のする音楽などは聴く気にはなれません。」⇒
貴方は先人がどんなに誤っていても、敬意を払うことが出来ますか? そんなことしてたら病気になったとき、最新治療は受けられませんよ。数十年前にノーヴェル賞を受賞した超名医に、今あなたは当時の方法のままがんの手術を任せられますか?敬意を払うことと、現実とはまったく別物ですよ。誰でも知らず知らずにそうしているでしょう。
私はいっぱい誤った演奏をしてきたかつての大音楽家は、その時点ではすごい人であり、今若ければもっと正しい素晴らしい演奏を聴かせてくれるだろうと思っています。ただ、まだいろいろな研究が進んでなく、科学も今とは比較にならない時代に生きていた人は、人間として、あるいは音楽家としてすごい、尊敬に値する人であることは未来永劫変わりませんが、しかしそれと彼らがその時点でやっていたことが今から見て良かったかどうかは、まったく無関係です。そのへんをお間違いないように。
半世紀前の男子1500メートル自由形のオリンピック金メダリストの記録は、現在の小学校の女の子に100メートル以上差をつけられて負けるそんな程度のものです。先日亡くなった古橋広之進さんもその中の一人です。でもそれでは彼らはそんな低レヴェルの人か、言うとそうではありません。きわめて尊敬され大切に扱われています。彼らが今若ければまったく別のすごい記録を出すでしょう。
まったく同じことです。かっての偉人を尊敬しないなんてとんでもないことを言っているのではありません。ただ、今例に挙げたように、彼らの時代は今から見ればすべての分野でずっとレヴェルは低かったわけです。その低いものを、時にはその当時だったからやむなく間違って演奏してしまっていたものを、あえて間違いと分かっていながら今もまねをするということは止めましょうといっているに過ぎません。当然のことでしょう?
それが当然でなく、すべての時限が低かったからやむをえなかったその過ちや、低レヴェルの演奏法を後生大事にしていては未来の発展がないですよと言っているのです。どこの分野にそんな馬鹿をやっているところがあるでしょうか。
「時代の背景を踏まえてベートーベンの本質を真剣に追及した結果がメンゲルベルクでありフルトヴェングラーでありトスカニーニでありカラヤンであったわけで、ベートーベンの時代と違う奏法だから正しくないというのは偏狭すぎます。」
このコメントは、まさに今言ったことに該当しています。当時のレヴェルではたとえ真剣に追及しても今のぺいぺいの指揮者がちょっと勉強したものよりも、正しい結果が出せなかったのです。しょうがなかったのです。そんなことどの分野でも当たり前のことでしょう。
何度も言いますように、医学の進歩を見てください。メンゲルベルクが如何に天才でも、百年以上前の医学と今の医学の差を比べてみれば、一目瞭然でしょう。なぜそれが分からないのでしょうか?
彼らにはいくら才能が有っても、研究する資料も、その精度も、それから過去から受け継いできたものも今よりはるかに劣悪だったのですよ。だからといって彼らが当時の大指揮者であり、現在でもそういう意味で、尊敬に値する人に違いないことは当たりまえのことです。彼らがいて現在の指揮者がいるのです。
でも誰も百年前の手術方法でがんの手術をしたくない、いや、してはいけない、もっと言えば、したら傷害罪か、殺人罪に問われる!当然のことでしょう。分かっていただけましたか?
コメント by tnc — 2010/1/4 月曜日 @ 3:16:25