【東京】ど根性横丁ものがたり<2>呑んべ横丁(立石) 消えゆくネオン記憶に2010年1月3日
「路地は人であふれ、肩がぶつかったと言ってはけんかが始まる。それを止めに入った客が争いに巻き込まれ…」。高度経済成長まっ盛りの一九七〇年、三十二歳で店を開いたバー「ニュー姫」のママ、石毛学(たか)さん(72)は、人々が威勢よく生きていた時代を懐かしむ。 ホームに立つと、揚げ物の油のにおいが漂う京成立石駅。北口の「呑(の)んべ横丁」は、木造二階建ての長屋風の建物が並ぶ薄暗い二本の路地に、バーやスナック約二十店が軒を連ねる。時間が止まったような夜の街だ。 空襲による火災の延焼を防ぐため建築物を撤去する建物疎開でできた空き地に五四年ごろ、横丁の前身の商店街ができた。高度成長の歩みと重なるように近くの工場で働く人たちが安らぐ飲み屋が並び、最盛期には三十軒以上を数えた。 「当時ホステスを七人も雇ってて、野球拳もやったね。酔ってステテコで帰った客もいた」と石毛さんは振り返る。横丁は、荒くれ者や飲んだくれたちを丸ごと受け止めてきた。 石毛さんは、葛飾区立石生まれの立石育ちだ。夫は遊び人で家庭にお金を入れず、生命保険の営業や皿洗いを掛け持ち、「睡眠は一日二時間で、二人の子どもを育ててきた」。おでんの屋台を引いて借金を完済、横丁に来て、四十年の歳月がたった。工場は地価の安い郊外に移転、飲んだくれは去り、現在は明かりがつかない店も目立つ。 京成線の高架化に伴う駅前広場の整備で、横丁の建物はここ数年で取り壊されそうだ。「死ぬまで店に立ちたかったけど、無理ね。でも、救急車も入れない路地なので仕方ない」とため息をつく。 「この横丁が消えていくのは惜しい。記録に残したい」。立石出身の福原忠彦さん(32)は、横丁の人間模様を演劇にしようと立ち上がった。 福原さんは、全国で地域や一般の人を取材し演劇を創作している団体のメンバーだ。三年前、地元に魅力的な横丁が残っていることを知り、仲間と聞き取りを始めた。すべての店舗を取材。昨秋、演者の独白や会話劇で、うち五軒のママやマスターにまつわる物語を舞台で表現した。 福原さんが、女装して演じたのが石毛さん。働きづめの人生の独白に、「私のまんまだと思った」と、客席で本人が涙を流した。 「下町育ちなので、人と人との濃密な関係や近所づきあいが子どものころから身近だった。そんな下町らしさと懐かしい建物が一緒に残っているところに安らぎを感じる」と福原さんは魅力を語る。 「地元の人が横丁の良さを分かった上で、次の街づくりをしなければ、新しい魅力が生まれづらい。横丁があるうちに、とにかく残せるものを残しておきたい」 (井上幸一) ◆こぼれ話横丁のママのかたわら、石毛さんは昼間は介護ヘルパーの仕事を13年続けてきた。深夜零時すぎ、老親を介護する昔の客の男性たちがアドバイスを求めにやってくる。究極のアドバイスは「何もしてあげない方がいいのよ」。できることは自分でやらせないと、頼りすぎるようになってしまうからだ。一方で、自分は仕事でもないのに、自分が担当しているお年寄りたちに毎晩のように電話し安否確認をする。「介護ママ」と呼ばれそうだ。
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