ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

            著作権と特許(2009/06/06)



 唐沢俊一検証blogの「虹のレシピにも著作権はある?」の中で、岡田斗司夫の無茶苦茶な発言が取り上げられていた(これは『オタク論2!』の中での発言だが、この本は買っていないので、kensyouhanさんの書き込みをそのまま引用させてもらいます)。まず、一つ目。

 よく僕が例として話すのは、料理のレシピなんです。レシピというものに著作権が認められていないからこそ、料理業界はものすごく進歩するわけです。だから美味しい物がどんどん生まれる。

 先に結論を述べるが、勿論レシピにだって著作権はある。自分の著作物の剽窃云々で訴訟のどうの騒いだくせに、岡田は知的財産権に関しては全く無知だと言っていいだろう。これは「モータリゼーションが発達したのは、普通車なら運転に免許がいらないからだ」と言っているくらい酷い発言なのだ。
 例えば、いま、ここでおれがなんかのレシピを書いたとする。

 春の生野菜サラダのすき焼きドレッシング

 春キャベツは千切りにして水にさらしておく、つまみ菜はよく洗い、水を切っておく。これに千切りの人参、ジャガイモを加えよく混ぜる。昨夜の残りのスキヤキを上からかけ、好みで一味、もしくは七味唐辛子を振りかけていただく。


 この瞬間に、このレシピ(文章)には著作権が発生する。したがって、おれ以外の人間が、この文章をあたかも自分のオリジナルのように、著作物やネットに発表した場合、おれはその人物を訴えることが出来るし、絶版回収、削除等の要求も出来、常識的にその要求は認められる。
 このレシピ(文章)を自分の著作物で使うには、以下の三つの方法がある。

 1、藤岡真のサイトに書かれていたものであることを明示して引用する。
 2、同じレシピに関して、全文を自分の文章で書き直す(アイデアのみ借用=盗用するわけだが、アイデアには著作権はないので問題化しない)。
 3、唐沢方式。盗作して、それと分からないようにするやり方。コピペして、言い回し、語尾など改竄し、新たに書かれた文章のように見せかける。唐沢は『新・UFO入門』でこの手法をとり、改竄が杜撰だったため露見、自分は1のやり方(引用)をしたつもりだった、と苦しい言い訳をしてばっくいれた。

 では、どこぞのレストランがこのレシピをもとにした春の生野菜サラダのすき焼きドレッシングなるものをメニューに加えて売り出したら、どうなるだろうか。
 ――実はなんの問題もない。
 著作権というのは著作物に与えられる。著作物とは、

 「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」

 だから、料理それ自体には著作権はないのである。このことを頭において、岡田の次の発言を検証してみようか。

 ホタテと大根のサラダだって、どこかの婦人誌に主婦が投稿したのが最初でしょう。それがあっという間全国に広がって、居酒屋や家庭料理の定番になった。もしホタテと大根のサラダに特許がついてたら、僕らはそれに特許料を払えませんよ。筑前煮にも、豚骨スープにも払えない。

 これまた出鱈目な発言だ。「ホタテと大根のサラダ」「筑前煮」「豚骨スープ」で「特許」をとることは出来ない。当たり前である。料理人が、なにかレシピを考えるたびに特許登録していたら、自由に作れる料理なんか存在しなくなるだろうっての。さて、特許とはなんなのか、いい機会なのできちんと勉強しておこう。
 特許とは――
 
 特許制度で保護の対象になるのは、「発明」であり、「発明」は「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」と定義されている。

 例えば、「純粋な計算の方法」や「純粋なアルゴリズム」は「自然法則を利用した技術思想」とは看做されず、特許を得ることは出来ない。こうした考えは、あまりに現実にそぐわないため、実際には製品化された「ソフトウェア」という「物」としての特許を認めている。
 それでも、料理の特許を取りたいと考えるなら、それはその調理法に「発明」と認められる技術を用いるしかない。
 つまり、「今まで世間に存在しなかった料理」を「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」を用いて調理することで「物」と「調理法」の特許をとるわけである。
 しかし、特許権を持つ、その料理も「全く違った手法で作られる」ならば、特許対象の料理とは看做されないから、特許侵害とはならないのだ。「料理」に特許が与えられないとはそういう意味で、そして、「虹のレシピにも著作権はある?」の中で岡田斗司夫の発言を検証するなら、その意味が分かるだろうということである。高度な技術(板前のソレは当然、特許の対象ではない)でのみ可能となる料理には、その料理法が発明と看做され、なおかつ料理自体今までに無いものである場合に限り、特許権が与えられるのだ。
 岡田主張しているのが、そうしたもの示しているわけではないのだから、あの場でこうした議論を進め、あたかも「料理」に特許が与えられるように主張するのは、徒な混乱を招くだけのことである。
 お分かりかな。


           足利事件(2009/06/06)



            関係者のお言葉

 「私のボランティア」というサイトがある。※
 既に消されたようだが、こんなことが書かれていた。

 ボランティアは、私の最高の生きがいです。 ~略~ ボランティアは、私にとって生涯学習であり、最高の生きがいです。晴耕雨読が理想の生活。自分を信じて、天寿を全うすることが人生の目的と考えております。

                ・・・

 2008/02/13 1時57分45秒
 足利事件(真実ちゃん誘拐殺人死体遺棄事件)の最新要求棄却
 18年前の平成2年5月12日、足利市内のパチンコ店駐車場にいた松田真実(当時4歳)幼稚園児が行方不明となり、翌13日に近くの渡良瀬川河川敷で遺体で発見された。足利市内では、それ以前2件の幼女誘拐殺人死体遺棄事件が発生していた。3件目の事件で子を持つ親を恐怖のどん底に陥れるなど、社会的反響の大きな事件でした。
 県警では、200名以上の体制による捜査本部を設置して、警察の威信・存在をかけて懸命の1年半に及ぶ捜査の結果、平成3年12月2日被疑者菅谷利和(当時45歳)を逮捕した。
 その後、数次の裁判を経て、平成12年7月17日、最高裁判決により上告棄却により無期懲役が確定した。
 平成14年12月25日、宇都宮地裁に再審請求していたが、本日再審請求棄却が決定されたものである。当時、県警の刑事部長・捜査本部長として捜査に携わった者として、感慨無料(原文ママ)であります。当時として、最高、最善の捜査を尽くしたものであり、誤りでないことを再確認していただいたものと思っております。
 以下、操作当時を振り返っての新聞記事を掲載します。

 ~新聞記事略~
※1990年(平成2年)5月15日付け、下野新聞論説「必ず犯人の仮面はがせ」で必検の信念を鼓舞され勇気づけられました。
 
 で。
 サイトを閉鎖すれば、それでいいのか。
 最高・最善の捜査を尽くしたと自負しながら、なにゆえに反論もせずに逃げるのか。今回の件に関して、下野新聞の論説も読んでみたいもの。
 その下野新聞の記事。

「無罪が確定したわけではない。問題はこれから。法律に基づいて妥当な捜査をし、自供も得ている」。当時の県警刑事部長はあらためてこう強調した。元県警幹部も「(釈放は)検察が決めたことだから、何も言うことはない」と語気を強めた。

 ならば、なんで逃げる。

※このサイトの存在は「探偵ファイル」の記事で知りました。


The Otaku Encyclopedia: An Insiders Guide to the Subculture of Cool Japan(2009/06/04)


     外国人のためのヲタク・エンサイクロペディア


            OTAKU

 マイミク、ノリピーこと大野典宏さんが監修したオタク百科事典です。大野さんは日本推理作家協会会員で、英文・露文の翻訳家で1999年度「遍歴者賞小賞(ロシアSF大賞)」を受賞 しています。さらには空手の達人で(その関係で懇意にさせてもらっています)合気道は指導員の資格まで持っています。そのうえ物理学者でテルミンの演奏家でコスプレーヤーという、レオナルド・ダ・ヴィンチ級の多才なオタクなんであります。
 本書の著者、パトリック・ウィリアム・ガルバレスが大野さんを信頼して監修を任せたことは、謝辞が如実に示しているでしょう。

 Oono Norihiro ---- as hardcore an otaku as ever there was, and a saint for his many sleepless nights fact checking.


 as hardcore an otaku as ever there was。ねえ? われこそはオタクの中のオタクと自称していたお二人に、適任な仕事だと思うのに、なんでお声がかからなかったんでしょうか。お二人には『オタク論2!』なんて著作もあるのに。

 いや、本来なら、「外国人にオタクを解説する」なんて仕事、なんでオレに声をかけないんだ! と怒ってしかるべきはずなのに、こんなぬるい本で対談して満足なんだから、ま、本当にショーモナイ“オタク”なんでしょうね、このお二人は。

The Otaku Encyclopedia Patrick W. Galbraith 
                   講談社インターナショナル 2009


        これまでも、そして、これからも(2009/06/04)



            無能なる匿名子諸兄に

 これまで繰り返し述べてきたけれど、もう一度言わせて貰おうか、三歩歩くと忘れちまう鳥頭なのか、馬鹿というものは雲霞のごとく湧いてくるものなのか、いやはや、鬱陶しいったらありゃしない。
 先月のことだけど、唐沢俊一検証blogの「虹のレシピにも著作権はある?」というエントリに、こんなコメントを寄せた。

 >通行人Aさん
 横レス失礼。それは「料理の特許」ではなくて「料理の製造法の特許」です。知的財産管理技能士として断言します。


 「特許」に関して、ネット検索で調べてみれば誰だって(馬鹿以外は)分かることなんだが、これに対してこんなコメントが付いた。

  SS
・マヨネーズ風味を有する低カロリー型ソース及びその製造方法(特公平5-55104号)
・揚げ出し卵豆腐及びその製造方法(特公平7-63335号)
 通行人Aさんがおっしゃるとおり、この2件の発明は、「物と、その物の製造方法」の発明です。
 つまり、「ソース」「揚げ出し卵豆腐」という食品と、その製造方法の発明とを合わせて一件の特許出願にしたものです。
「ソース」は一般的に料理とは呼べないかもしれませんが、「揚げ出し卵豆腐」は料理と呼べるでしょう。
 また、「料理」という言葉は、調理方法と、料理して作った食品の両方をさしますが、そのいずれも特許をとれます。
 ですから、藤岡さんが間違っていると「断言」しますw
 唐沢を笑えませんよ。
 特許庁電子図書館で公報を読んでみてください。


 どうして、こうも頭が悪いのだろう。いや、なんだって、何も分かりもしないくせにしゃしゃり出てくるんだろう。いま、このblogは注目率が高いから、なにか気の利いたことを書けば目立つだろうと考えたのかしら。わたしが「断言」と書いたのをまぜっ返して「w」をつけてせせら笑う。自分が思い切り馬鹿を曝していることすら分からずに。
 当然わたしは返答しました。誤りを放置しておくわけにはいきませんから。

 >SSさん
 製造法があるから、その結果の製品が登録されているのですよ。よく考えてから発言しましょうね。「醤油味のマヨネーズ」とか「キムチ風味のバナナ」とか(なんでもいいが)、製造法も提示せずにいきなり特許を認定しろといって通ると思いますか? 広報なんかチェックしていないで、「特許」というものがどんなものなのか根本的に勉強しなおすといいと思いますよ。無知を曝して、恥をかくだけですからね。


 まあ、なんて親切な助言なんでしょう。この助言通りにしたら、このSSなる方は、今後「特許」に関して語る機会があっても、恥をかかずに済むってことですから、お礼の一言があったってばちは当たらない。さらに、

LAH
・マヨネーズ風味を有する低カロリー型ソース及びその製造方法(特公平5-55104号)
http://www.inapon.com/pc05055104.htm
・揚げ出し卵豆腐及びその製造方法
http://www.inapon.com/pc07063335.htm
 細かいレシピは書かれていませんね、料理の特許というより工場のライン製造の方法の特許ではないでしょうか。
 実際に料理で特許は取れますが実例を見ると調理法が多いようですよ。

藤岡真
>LAHさん
 
>工場のライン製造の方法の特許ではないでしょうか
 その通りです。特許は「実用新案」ではありませんから、特許は発明に与えられ、発明は、
「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」
 と定義されています。「揚げ出し卵豆腐」がこれに該当するか、ちょっと考えれば分かろうというもの。唐沢の擁護をする人は、なんで無知蒙昧のくせに、草を生やしてせせら笑うレベルの人ばかりなんでしょうね。


 というやりとりをしました。すると今度は、2ちゃんねるのわたしのスレッドに、「他人のblogのコメント欄でケンカするな」とか「書き込んだ奴のblogにいってやれ」などという書き込みがあったのですねえ。
 これまた、なんて頭が悪いんだろう。明らかに間違ったことを無礼な口調で書き込んだ奴がいたから、親切にそれを訂正して諌めただけじゃないか。後者なんか言語道断。面と向かって無礼なことをいっている奴がいるんだから、もって廻ったことはせずに直接返すのが当たり前だろうに。大体、blogやってるかどうかも分からない相手なんですから。実際、当事者のblogまで出かけてコメントしたことなんて、いくらだってありますよ。そうすると「素人のblogに乗り込む痛い奴」なんて言われますけどね。
 まあ、きりがないんで結論だけ申し上げますが、無能なる匿名子の皆様、みっともないから他人(今回の場合はわたしね)に、偉そうに助言をするのはやめておきなさい。馬鹿な素人の意見なんか、何の役にもたたないし、こちらだって聞く耳持ちません。そして、皆様はなにゆえに、幼女のごとくひ弱いのでしょうか。反論されると、ショックで立ち直れなくなるのですか。怖いので(匿名ですら)メールをよこせない。mixiにメッセージを送れないって方ばかりのようだし。
 以前、某省庁が主催する会議で、代理出席していた若い女性が、多分、本来の出席者から「代理だからって遠慮しないでいいから、どんどん発言してきなさい」とか言われたらしく、会議の目的も本質もどこへやら、他人の発言に上から目線で、ずけずけ見当違いな反論をするという醜態を演じたことがありました。その女性は某大企業の代表で、わたしから見れば得意先にあたる人間でしたが、さすがにこのときは頭にきて、慇懃な態度は崩さなかったものの、理路整然といちいちそれに答えてやったのです。で、どうなったかと申しますと、その女性、急に黙り込み、目から大粒の涙を流し、言いも言ったり、
「わたしは分からないから質問しただけなのに、なんで叱られなければいけないんでしょうか」
 だと。泣きながら席を立って二度と戻りませんでした。それで大問題になったかといえば、全然そんなことはなく、先方からお詫びの言葉さえなかったものの、それっきり収束いたしました。馬鹿な代理人を送った企業が恥をかいただけです。
 なんか、ネットの匿名子を見ていると、この馬鹿女を思い出します。匿名をいいことに思い切り無礼な発言をし、辛辣に返されると、涙目で言い返してくる。ひ弱な皆様が同病相哀れんで、徒党を組んだのが、「無能なる匿名子」の正体なんでしょうねえ。

 以上、といいたい所だけれど、
 あの。
 メールやメッセージで直接文句垂れてくる方に一言お願いします。頭の悪い人は長文を書くのはやめて下さい。支離滅裂で読む方も面倒くさい。こちらは、訳がわからんと読まずに捨てたりはせず、真摯に対応するつもりなんで。

「こう言っては諸方の反感を買うかもしれないが、ぼくは素人の文章というものが大嫌いなのだ」 筒井康隆


          スーパー編集長のシステム小説術(2009/06/02)



             プロ中のプロ、本物の凄味

              小説

 今年の「トンデモ本大賞 2009」の公開大会が、大騒ぎになりそうということで、2ちゃんねるをはじめとする各サイトがちょっとした騒動になった。
 唐沢俊一の取り巻きの一人、バーバラこと大内明日香と、これまた問題を多々抱えたノベルス作家若桜木虔との共著『すべてのオタクは小説家になれる!』という著作が、「トンデモ本大賞」にノミネートされ、当初、唐沢はバーバラに会場で本を売るように指示しながら、会員(会長?)から、NGが出ると、掌を返したように来るなという指示を出した。バーバラは頭にきて、

 ああそうですか。それでは、あなたがたとしては、「お前は来るな。だけど、お前のいないところで、俺たちはお前の本を思う存分コケにするから」ということなんですね。

 と応じた。ま、当然だろう。これは唐沢が馬鹿だから発生し、世間にバレた
事件だが、この『すべてのオタクは小説家になれる!』自体が、ノミネートされるだけあって酷い内容なのだ。リンク先のamazonの書評を見れば、その内容も知れようというもの。なんせ、著者の一人の大内女史は、自称出版評論家だが、本職はファーストフード店員で、小説の著作なんか一作もないという人物。もう一人の若桜木虔も膨大な架空戦記ノベルスやミステリ、速読法などの著作はあるものの、色々とトラブッた過去のある人物。ただし、通信添削の小説作法教室からは、何人かの新人賞作家が誕生したという実績は持っている。
 こんな本が世間を賑わせているときに、世に出た本書はタイトルといい、惹句(才能なんていらない!)といい、表紙のトーン&マナーといい、なんか、一緒くたにされちまいかねない雰囲気だが、冗談言っちゃいけない。スーパー編集長の肩書き通り、小説新潮編集部に三十年勤めるうちに、乃南アサ、宮部みゆき、高村薫 、帚木蓬生、御坂真之、有沢創司、天童荒太、伊坂芳太郎、戸梶圭太、どさくさに紛れて藤岡真などを見出した慧眼、ノンフィクションに転じれば、250万部を売った『国家の品格』を世に出したという凄腕の編集者なのである。
 作家デビューしたわたしが読んでもワクワクするような内容。小説を書きたい、作家になりたいと思っている老若男女、迷わず本書を購いなさい。ハウツー本としても、エッセイとしても、極めつきに面白い。いや、果たしてこんな面白い文章が自分に書けるか、そこから考えるのもいいだろう。威力業務妨害と言わば言え、『すべてのオタクは小説家になれる!』なんか参照したら脳みそが腐るぞ。そして、総ての小説家志望者は、必読。読まずば、作家になることなど無理と思いたまえ。
 『スーパー編集長のシステム小説術』  校條剛 ポプラ社 2009

 ※ おい、神田三省堂、表紙のイラストが可愛いのと、出版社がポプラ社だってことで、勝手に児童書扱いすんなよな。本来1階の文藝売り場にあるべき本書が、なんで6階の作文コーナーに並んでおるのだ。ポプラ社には営業はおらんのか!


            田紳有楽(2009/06/02)



              気儘な時空の旅

          田紳有楽

 志望した大学に入学し、スポーツに勉学に趣味にと好き放題に時間を使っていた若かりし日、得体の知れない焦燥感に徐々に襲われていた。なんだか分からないが、自分はこのまま日常生活に埋没し、卒業後は勤め人になって社会の歯車として長い一生を生きていくのだという、当たり前なのにやりきれない人生をなんとかしなけりゃあ、という焦りである。学生運動華やかなりしときで、その流れに身を任せる友もいたが、それには全く納得がゆかず、やがて想いは現実からの逃避となっていった。『2001年宇宙の旅』は、まさに象徴的な映画で、現実の延長に過ぎない宇宙開発(キューブリックは、パンナム、パーカー、ヒルトンホテルなどを登場させ、その世界を強調した)の行く手に、ぽっかりと開いた異次元の穴は、永劫回帰への不安を抱いていた若造の心を強く捉えた。
 しかし、しょっちゅう穴ぼこに落ちていりゃあいい、ってもんでもないだろうし、異界へ異界へと果てしなく進んでいったら、そのうちにアイデンティティだって消滅してしまう。だったら、座して小鍋でもつつきながら冷酒を呑んでいる生活の方がずっと楽しいなんてことが納得出来るのは、実は最近になってからだ。
 しかし、日常生活にどっぷり浸かりつつ、異次元への気儘な旅が楽しめたら、それはまた理想的なんじゃなかろうか。
 そんなお話が、本書『田紳有楽』である。
 藤枝静男という名は知れど作品にはトンと縁のなかった作家の作品に手を伸ばしたのは、筒井康隆が『乱れ撃ち瀆書ノート』で絶賛していたからに他ならない。なのに、購入後一瞥し、なんだか面倒くさそうな本だなと本棚の奥に突っ込んで、瞬く間に二十数年という時が立ったのだ。引越しで本の整理をしていたとき、どれどれと読み出したら、最後まで一気に読んでしまった。
 釈迦入滅後56億7千万年後の未来、弥勒菩薩が出現し衆生を救済するという世まで生きたいと願う、偽のラマ僧やら茶碗(!)やらが時空を飛び回るという物凄い話。ユーカリの落ち葉に埋もれる小さな池の泥底には、皿、茶碗、ぐい呑が浸けられ、偽骨董品として仕込まれていたが、時を経て、そいつらはUFOと化して自在に飛び回るかと思えば、人に化けてホステスを口説き、池の中では金魚と交わって子供を産ませる。
 修行中の阿闍梨を縊り殺した偽阿闍梨は大蛇に化身し、深山の池の主として56億年の未来を待つ。なんとその偽阿闍梨偽はかつてUFO茶碗を托鉢碗として懐に入れ、チベット、ブータン、シッキムを旅していた梅毒病みの偽ラマ僧、サイケン・ラマなのだ。
 もはやストーリーなどどうでもいい。それらが、私小説のような淡々とした日常にすっぽり納まっているところが凄い。いや56億7千万年後だって、いつかはやってくるし(茶碗たちは、その前に宇宙はブラックホールに飲み込まれて消滅してしまうと悲観しているが)、それが日常となれば、また新たな刺激を求めるのも人情だろう。だったら、得体の知れない安骨董の皿に、塩辛を盛って、酒をちびちびやるのも宜しいものだと、この歳になってしみじみ思わせてくれる傑作であります。

 『田紳有楽』 藤枝静男 講談社文庫 1978


           栗本薫と唐沢俊一(2009/06/01)



 27日の裏モノ日記『訃報は死亡さん』は、いろいろな意味で興味深い記事です。
 唐沢俊一検証blogで訃報に関するエントリの数々を、徹底的に検証・批判されたのを意識したらしく、唐沢にしては珍しく、自分の言葉で栗本薫を語っています(そのように読めます)。

 しかし、驚きました。ここに書かれていることは事実なのか、日記の文字数稼ぎの作文なのか。事実だとしたら、他者に対してこんなことを考える人間がいるとは、ちょっと信じられない気持ちです。
 一年半にわたり、唐沢の著作を検証し、言動をチェックしてきたので、浅薄な唐沢の言動、思考回路、あらかた読みきれると思っていましたが、そんな簡単な話ではないようですね。
 唐沢の行動の根源にコンプレックスがあることは、手に取るように分かります。少年期の男性の歪んだ世界観のパターンには、大きく分けて二つあって(わたしの経験に限っての話ですが)、一つは秀才パターン、もう一つは不良パターンです。秀才は文字通り勉強も出来、自分は頭脳労働者として生きていくと言う将来の道がうっすら見えています。その道は、学者、作家、医者、エンジニアetcと違えども、それに邁進しようと決心すると、スポーツが出来ないとか、世情に疎いとか、女性に縁がないとか、そうした問題を少なくとも自分の内では「問題ではない」と納得することが出来てしまいます(あくまでも少年期のお話)。逆に勉強が出来ないというウィークポイントを持った少年は、まさにその裏返しで、スポーツが出来る、俗事に詳しい、女に持てる、要は世渡りが上手い人間としての自分に希望を持ちます。
 唐沢は秀才タイプの少年だったはず。資質がそうだったのではなく、消去法、あるいは自分の希望として、そちらの道を歩きたかったのだと思います。しかし、現実はそうではなかった。小学生時代、口が達者で頭でっかちというくらいのことで、自分を天才と勘違いしていた少年も、中学、高校と長じるに連れて現実とのギャップを実感せざるを得ない。そして、東京に出て、自分は“頭脳”では生きていけないと分かるや、俗事に長け、同世代の人間よりはるかにスレた(なんの根拠もないのにもかかわらず)人間として、ようやく進むべき道を見つけたのでしょう。
 しかし、だとしても、この日の日記の、栗本薫への想いは、見事に屈折したものなのです。

 栗本薫死去の報、26日、すい臓ガン。56歳。 もっと生きていて欲しい人だった。……と言っても、その意味は通常のそれとは少し違う。もちろん、人の死を願うものではないが、癌との闘病の情報が 耳に入って、ある種の予期はしていた。 生きていて欲しかったというのは、彼女の死により、私は “あの頃”の自分と向き合わねばならないからである。彼女がデビューした頃の自分と。せめて、もう十年か十五年、それは先延ばししたかった。

 唐沢と栗本に、どんな因縁があるのか、気になる書き出しです。しかし、それはすぐに呆れ返るという言葉以外に表現できないものだと分かります。

 30年前、『奇想天外』誌(第二期)関係の人とよく話していた
とき、
「いま、SF業界で一番才能のある書き手が中島梓(評論家としての栗本薫のPN)」
と編集者のK氏が言い切り、私はそれを聞いて反射的に
「あんなのが一番の才能なら、僕はSF業界には行きたくない」
と吐き捨て、それをわきで聞いていたなみきたかし(当時並木孝)に
「自分より売れているからだろう」
とズバリ言われた。売れているも何も、私は当時まだ大学生でデビューもしていなかった筈だが、しかし、自分の中の中島梓への嫌悪感の由って来るところがジェラシーであること、それは確実であった。


 一介の学生が雑誌編集者とこんな会話をしていたとは、ちょっと信じられません。こんな環境にあったのなら、雑誌(ぴあ)の投書欄を荒らすなんてことでうさばらしをするはずがないからですが、まあ、それは措いておきましょう。「あんなのが一番の才能なら、僕はSF業界には行きたくない」というのはどんな感情なんでしょうか。ジェラシーでは片付けられない。だって、これがミステリだと考えて下さい。ミステリが好きででも既存のミステリに満足していなかったわたしが「あんなのが一番の才能なら、僕はミステリ業界には行きたくない」なんて考えたら、わたしは永遠にデビュー出来なかったことになる。ま、もっともわたしは今の自分が、ミステリ業界の人間だとは思っていませんが。なんなんだよ、業界って。
 さらに唐沢は、こんなことも言っています。

 以前、『20才の時の愛読書』という原稿を依頼されたことがあり、私はまっさきにそこに百目鬼恭三郎の『風の書評』を挙げた。20才というのは、モノカキを目指している者にとって、そろそろ周囲が見え始め、“自分は天才ではない”ことに気づきはじめ、しかしなお、それを認めたくなくてジタバタしている年齢であり、どうやら自分より才能があるらしい若手の作家がぞろぞろと文壇にデビューしはじめる時期で、毎日、新聞で文芸新人賞の受賞記事を見る度に七転八倒している時期である。その時に、そういうキラキラ輝く若手の作品を片っ端からコキおろし、罵倒し、けちょんけちょんに叩いてくれる“風”の存在だけが救いだった

 嗚呼……。
 なるほどなあ。自分に文才など無いことが20才になるまで分からないというのは、致命的な頭の悪さです。いや、才能のあるなしといった事実はどうでもよろしい。要は自分がどう認識しているかということで、少なくとも大学に進学するときにはある程度の指標が有るはずだからです。医者を志望する人は文学部にはいかないだろうし、と書き並べるのも馬鹿馬鹿しいからやめておきますが、唐沢は未だ何一つ作品を世に問うていないくせに“自分は天才ではない”ことに気づきはじめてしまう。これはまさに、他には何も出来ないから文筆の道を選んだからということを証明しているといえましょう。

 わたしがサラリーマンになりたてのころ、村上龍が颯爽とデビューしました。一つ年下(丸々一年下です)。悔しいという想いで身も震えました。しかし、村上龍を貶した(爺いの)評論家たちに喝采を送ったりはしなかった。どうしようもない馬鹿な爺い達だと思いました。百目鬼恭三郎なんてその最たるものだと思ったし、その考えは今も変わりません。

 作家というものは、どんな境遇に在っても自分の天才を信じ、どんなに強力なライバルが登場し、その評判に嫉妬しようとも、無能な批評家に貶されることを喜んだりはしません。それは断言できます。

 wikipediaの丸写しと看破された追悼記事の体裁を変え、己の心情を吐露して見せて、どうだと大見得を切ったつもりですが、図らずも作家の資質などまるでないことを証明してしまったようです。

 不愉快な気分になるかとも思いますが、裏モノ日記の記事、ご自分で読んでみてください。最後まで読んでも、なにゆえに唐沢が栗本薫死去の報、26日、すい臓ガン。56歳。 もっと生きていて欲しい人だったと考えたか、さっぱり分からないと思います。


           校閲・その2(2009/05/31)



 しつこいようですが、再び校閲の話です。

 初校のゲラをもとに作成された再校のゲラが戻ってきました。これに朱を入れて、明日戻さなければなりません。

 ゲラ

 上のびっしり赤い文字が入った部分は明治時代に書かれた文献という設定なので、その時代につかわれていた字体の活字に差し替える作業用です。鉛筆で書かれた文字(横書きの部分)はテニオハレベルではなく、時系列、因果関係の矛盾や不明点を逐一指摘しています。
 こうした作業を経て、7月末の出版となるわけです。
 したがって、唐沢の著作の出鱈目ぶりは全く理解出来ません。欠陥品を堂々と売っているわけですから。


          法輪功の手先(2009/05/30)




              重大発表

7月

 見逃していた。唐沢は法輪功の仕業と看做されている中国の電波ジャック事件を中国政府が報道禁止にしたことについてこんなことを書いていた。

 中国のニュースサイト『大紀元時報』によれば「西安市在住の陝西省電視台の元記者・馬暁明氏は、中共当局の独裁政治下に、情報が閉鎖され、社会の公正が守られず、人権保障がない中国社会では、このような電波ジャックは迫害に抵抗する平和的な行為であり、大衆に真実を伝え、情報閉鎖を突破する正当な手段であるとコメントした」と伝えている。

 大嘘である。
 『大紀元時報』は中国のニュースサイトではない。『大紀元時報』は
 
「大紀元(だいきげん、中:大纪元、英:The Epoch Times)は、ニューヨークに本部を置き、主に中国語で新聞を出版しているメディア。 大紀元は「気功」などで知られる新興宗教「法輪功」と関連した報道機関であり、 同社が発行する大紀元時報新聞では、中国共産党の言論統制に従うことなく、同党に批判的、反体制的な記事を多く掲載している。報道内容は法輪功の主張に沿ったものであり、中国共産党に肯定的な報道は全くない。各国の主要メディアが引用する事は滅多にない。」wikipedia

 オームオウム真理教のテロに関して、事実を秘してオームオウム真理教の機関紙の見解を載せるようなものなのだ。
 知らずに書いたのなら、大馬鹿。

 しかし、承知でやったのなら、

唐沢俊一は法輪功の

メンバーで、身内の犯罪行為をか

ばうため、第三者のふりをしてラ

ジオライフの記事を書いた


そう疑われても言訳できない。信教の自由を認めるのとは別の問題だ。

 
 ※ 以前、電気関係の学術書の出版社「オーム社」をオウム真理教の組織だと勘違いして嫌がらせの電話をした馬鹿の話を書いておきながら、自分もその轍を踏んでしまった。お詫びして訂正します。


             天地人(2009/05/28)




            読まずに書評・見ずに批評


 24日の裏モノ日記にこんなことが書いてある。

 久しぶりに『天地人』を見る。まるきりホームドラマだが、ホームドラマとして見ればまあ、許容できるし、そう思えば面白い。音楽がとにかくわかりやすく、“さあ、ここで盛り上がりますよ~、小栗旬が泣きますよ~”と視聴者に解説。これでなくてはいかんのだろうな。

 なんともはや、不愉快な文章だ。「許容できる」って、なにを偉そうに。と、突っ込みところは多々あるが、唐沢は大好きなmixiにこんなことが書かれたのは知らないのかしら。
  
 2009年のドラマ界、屈指の爆笑(失笑?)シーンだったのではないだろうか。
 NHK大河ドラマ『天地人』、5月10日放送回の「本能寺の変」でのこと。
 タイトル通り、この回で描かれるのが本能寺の変と、吉川晃司演じる織田信長の死である。本能寺の変といえば、「人生50年」と、炎に包まれながら舞う信長、というのが、定番になっている。多くの人が、何かしらの燃え落ちる本能寺の映像を思い浮かべるはずだ。しかし、『週刊朝日』5月29日号でも<NHK大河ドラマ『天地人』はこんなにヘンだ!>という、史実との食い違いやヘンな演出を指摘した記事が掲載されたりするように、なんだか「ヘンな」大河、『天地人』は、やはりこの定番シーンの描き方も一味も二味も違った。
 大爆発したのである、本能寺が。
 松本人志言うところの、「えええええっ!?」という表現に近いだろうか。信長の無念とともに燃え落ちるのではなく、爆発。しかも、爆発する直前、炎に包まれる吉川晃司が突然、岩屋にワープ。その眼前に現れたのが、阿部寛演じる上杉謙信(謙信は死んでるので、霊か。先に逝った大物が迎えにきたということかもしれないが、二人に面識はない)。「人の心は、力で動かすことはできぬ」とか、もっともらしい説教などのくだりのあと、シュゴーッという効果音とともに流星とプラネタリウムみたいな星空とともに、炎の中の現実に。そしてその直後。
 ドカーーン! ......肝心の大爆発が、ヘンにクリアなCG合成で、特撮モノの爆発シーンみたいでもある。
 しかも、この爆発の中、最後まで本能寺にいたのに、なぜか脱出できていた長澤まさみ演じる忍・初音(架空の人物)が、爆発直後に明智光秀の首を絞めていたりするし。笑わそうとしてるのだろうか。戦国を舞台にした歴代の大河ドラマで、本能寺の変といえば、一つのクライマックスシーンであることは間違いない。それがこんなんで、大丈夫なのだろうか。 ~後略~
(本能寺爆発、ワープ、心霊現象......NHK大河『天地人』の多すぎるツッコミ所)

 どこがホームドラマなんだよ。またまた上から目線で大恥をかきましたね、唐沢センセー。


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