ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

           枯骨の恋(2009/06/22)



              嫌談

      

           枯骨

 怪談(a ghost story)短編集であります。しかし、普通の怪談とはちょっと違う嫌~な話、嫌談とでも申しますか、とにかく嫌な話だなあと顔を顰めながらも、寒気がじわじわと背中を上ってくるのを感じ、気がついたら、総毛だっているという、自信をもってお勧めする、怖い話の集大成なんです。
 表題作「枯骨の恋」にこそ、ghostらしき(あくまでも“らしき”)白骨が出てきますが、主人公の昔の恋人とおぼしきghost、これが生前のええ格好しいの駄目男そのままの駄目なghostなんです。といって喜劇ではありません。そろそろ色香も衰えようという主人公が、男を連れ込むと、この白骨、その様を無言で、眼球のない眼窩でじっと見ている。祟るとか呪うとか、そんな悪さをするのでもない。まあ、ラストに、インチキな若い男に誑かされそうな主人公に泣き言を言い、幽明の境を……となることはなるんですがね。
 この短編集、表題作以外も主人公は、皆“行き遅れた”女性。それが、痛々しいほどリアルに描かれると、そこから展開される人間関係の物語は必然的に嫌~な話。しかも、驚いたことにghostが登場しない話のほうがずうっと怖いんです。
 屈折した女の友情が恐ろしい「親指地蔵」、上質なミステリであり、チリチリと神経をいたぶられるような嫌談「翼をください」、弾けた子造り願望をが破滅する「GMS」、正統なホラーっぽい「棘の道」、文字通り擂鉢の底にじわじわと落ちていく恐怖「アブレバチ」、唯一嫌談ではない怪異譚「メモリィ」。
 スプラッタのホラーのともう飽き飽きしているだろうあなたへ。
 思い切り怖くて、思い切り嫌な気分になれる作品群です。

『枯骨の恋』 岡部えつ メディアファクトリー 2009


        唐沢俊一は子供なのである(2009/06/20)




 今頃そんなことに気付いたのかい? なんか、そんな声が聞こえてきそうだな。唐沢の日頃の言動、上から目線とか無礼とか、しょっちゅう指摘されているけれど、あれは爺が若者を見下している態度ではなくて、若者(子供)が老成したふりをして背伸びをしているだけのことなんだ。哀れ五十路を超えながら、背伸びしなければ五十代の大人らしく振舞えないという、なさけない現実が露呈したものなんだよなあ。
 例えば、大人なら当然取るべき態度が取れないでしょう?
 半田健人を巻き込んだ『昭和40年代を語る会』はどうしちゃったんだろう。己のサイトの表紙のトップにバナーを貼って宣伝していたのに、バナーはこっそり剥がされ、事後の経過報告も一切書かれない。状況から推して立ち消えになったのは明らかだが、それがどんな事情によるものなのかファンに報告する義務があることが理解できない。つまり、子供。
 有料のイベントを企画し、入場者に予約までさせながら、中止となった事実も理由もそれに対するお詫びも、一切サイトに書かれない。事前に散々あおっておきながらだ。今回のジュンク堂のトークイベントしかり、ロフトの「司馬遼太郎朗読イベント」しかり。本当に子供。
 唐沢は都合のいいところだけ無頼を装う。大酒を呑み、締め切り間際に曲芸的に原稿を上げ、イベントの不始末なんて知ったところか。
 しかし、大酒を呑んだあげくの喧嘩三昧、アル中街道まっしぐらという筋金入りの無頼派(みっともねえなあと思うけど)とは違い、呑屋にいったらファンに声をかけられたとか毎度のように日記に綴り、体調不安とみるや病院を検索して自ら入院手続きをとる。これはまさに無頼派の威を借るお子様のなせる業だろう。それもこれも、本質を知らずに上っ面をなぞっているだけだからなんだ。
 しかも、どうやら唐沢はプロデューサー志望らしいんだな(芦辺さんがそうおっしゃっていた)。だったら、金勘定から、人脈、関係機関との良好な関係に常日頃から気を使わなくては。イベントを中止にして多くの人に迷惑をかけながら謝りもしないようじゃ、プロデューサーなんかになれっこない。劇団員のホームページの企画をするのがプロデューサーだと思っているなら仕方ないけどね。
 そして、大人は恥を知るが、子供は恥を恥とも思わない。
 だから自分には到底手に負えないようなテーマ、「アニメ、漫画、映画、特撮、音楽、エロネタ、落語、格闘技、プロレス、フィギュア、薬学、化学、物理学、生物学、電気工学、文学一般、古典、江戸文化、日本史、世界史、哲学、海外の事情」といったものに安易に手を出して、たちまちその無知、誤謬を指摘されながら、全く意に介さず(まあ、パクリで対応するのだから、意には介しているのかも知れないが)ガセの山を築くのも、お子様だから出来ること。大人なら恥ずかしくて表も歩けないところ。いわんや、それを糊塗するためにやっちまった盗作がばれているにもかかわらずだもんなあ。
 さらに、大人の話題、とくに男女の機微なんてものが一切ないのが、またいかにも十八歳未満お断りで弾き出されたお子様のようだよね。唐沢の女性関係は古い2ちゃんねるのスレッドに「彼はドンファンでした」と匿名子が書き込んだのと、既婚者でありながら某劇団員と浮気した(らしい)ということくらいか。そのドンファンも惚れられながら「もう、知らないっ!」の台詞のもとに振られているのだが。なんかこの恋愛もいかにも童貞の御ままごとみたいだなあ。
 そして、もっとも子供らしいところは、あの帽子に黒尽くめというコスプレだろう。いるよね、変な格好したがるって子供。唐沢はあのマッドドクターのキャラを「主役にはなれないが、個性的な脇役にはなれる」というコンセプトで採用したのだろう。これはある程度成功した。テレビ番組の穴埋めコメンテーターに起用するとき、
「名前は分かんないけど、あの変な帽子被った眼鏡の親爺」
「ああ、カラサワナントカですか」
 なんて決められるようになったからね。結局、それだけの存在になってしまったわけだけど。
 病気を甘く見て、ホラこんなに元気、どこも痛くない! と振舞うのも子供の特徴だけど、これに限っては大人になるべきだ。そうご忠告しておこう。


             追悼・中町信(2009/06/19)



 中町信氏がお亡くなりになった。享年74。
 わたしが中町信というミステリ作家を知ったのは、今から二十数年前、偶然に読んだ(新幹線の車中だったと思う)アサヒ芸能の『奥只見温泉郷殺人事件』の書評によってだった。そこには中町信は寡作だが、これだけプロットに凝った作品を生み出すのだから仕方ないといったようなことが書かれていた(後年、私自身がそう評価されるようになるとは、夢にも思っていなかったが)。その言葉が無かったら、中町作品を手に取ることはなかったろう。とりわけ『奥只見温泉郷殺人事件』にいたっては、忌むべきトラベルミステリーそのもののタイトルなのだから。
 一読、驚倒した。
 日本にも、こんなミステリを書く作家がいたのかと思った。綾辻行人が『十角館の殺人』を世に問う、実に二年も前のことなのだ。
 それから、中町ミステリをむさぼるように読んだ。残念ながら最初の評価を越えるものはなかった。いや、『奥只見温泉郷殺人事件』を最初に読んだのは幸運だったのかも知れない。ここには中町ミステリのエッセンスが総て詰まっているといっても過言でないからだ。逆に言えば、その中町パターンの最高傑作である(とわたしは思う)『奥只見温泉郷殺人事件』を読んでしまうと、他の作品は総て同じパターンで書かれているため、驚きも少なく、簡単に先が読めてしまうのだ。
 そう失望しかけたとき、わたしは『新人文学賞殺人事件』(→『模倣の殺意』)を読み、また新たなる驚きに狂喜した。中町信侮りがたし。
 東京創元社が『模倣の殺意』『空白の殺意』(『高校野球殺人事件』)『天啓の殺意』(『散歩する死者』)といった傑作群を再刊したことは快挙といえるだろうし、1968年に雑誌に掲載されたきりで、単行本になっていなかった 『湖畔に死す』が『三幕の殺意』として長編化され刊行されたのも嬉しい驚きだった。
 孤高の作家という印象がある。ご本人は意識されていなかったと思うが。
 創元社から刊行された4作品は、すぐに入手出来るから未読の人は是非読んでいただきたい。そして、どこかの出版社が『奥只見温泉郷殺人事件』を復刊してくれないかしら。
 
 ご冥福をお祈りします。


           知的財産権(2009/06/18)



            ちゃんとして欲しい

 何度も何度も同じことを書くのには、飽き飽きしてしまうけど、そうまでしても未だに犯罪を繰り返す奴がいるのだから呆れてしまう。

 唐沢俊一の後出し裏モノ日記にこんな記述がある。

 ここで大ポカ露呈、家から持ってくるはずの『威風堂々』のCDと開封用ハサミを忘れてきてしまった。家に電話して、オノにとってきてもらおうとするが、母が私の部屋の鍵を以前無くしたままであることがわかりダメ。マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする。
 頼光くんは、やはりリハには来られない模様。
 まあ、これくらいの緊張感あった方がみんなひきしまるかも。


 自分のポカで忘れ物をして、その穴埋めに取巻きをパシリに使う。なにが「緊張感」だろ。緊張感が欠けてるから、そんなミスをするんだろうに。「この馬鹿禿野郎」と周囲の連中は殺意にも似た感情を抱いているんだろうな。盗作問題、バーバラ問題で、散々「と学会」にも迷惑をかけているってのに。
 いや、問題はそこではない。

 マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする

 当然ながら、そのCDの使用許可は取っているんだろうね。『威風堂々』は作曲者エドワード・エルガーの著作権こそ消失しているが、CD制作会社に使用許可を得ること、演奏者等の著作隣接権をクリアすることなしに使用したら、知的財産権侵害で有罪になる。大の大人が、有料のイベントを開催しながら、未だにこうした犯罪を繰り返している。自己の著作を持つ人間が、ここまで杜撰な態度をとることは信じ難い。
 「仕事術」なる本を上梓されるらしいが、ビジネスの基本には遵法精神も含まれる。いや、ひょっとしてパクリビジネスの解説書なのか知らん。ちゃんとして欲しい 何度も何度も同じことを書くのには、飽き飽きしてしまうけど、そうまでしても未だに犯罪を繰り返す奴がいるのだから呆れてしまう。 唐沢俊一の後出し裏モノ日記にこんな記述がある。 ここで大ポカ露呈、家から持ってくるはずの『威風堂々』のCDと開封用ハサミを忘れてきてしまった。家に電話して、オノにとってきてもらおうとするが、母が私の部屋の鍵を以前無くしたままであることがわかりダメ。マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする。 頼光くんは、やはりリハには来られない模様。 まあ、これくらいの緊張感あった方がみんなひきしまるかも。 自分のポカで忘れ物をして、その穴埋めに取巻きをパシリに使う。なにが「緊張感」だろ。緊張感が欠けてるから、そんなミスをするんだろうに。「この馬鹿禿野郎」と周囲の連中は殺意にも似た感情を抱いているんだろうな。盗作問題、バーバラ問題で、散々「と学会」にも迷惑をかけているってのに。 いや、問題はそこではない。 マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする 当然ながら、そのCDの使用許可は取っているんだろうね。『威風堂々』は作曲者エドワード・エルガーの著作権こそ消失しているが、CD制作会社に使用許可を得ること、演奏者等の著作隣接権をクリアすることなしに使用したら、知的財産権侵害で有罪になる。大の大人が、有料のイベントを開催しながら、未だにこうした犯罪を繰り返している。自己の著作を持つ人間が、ここまで杜撰な態度をとることは信じ難い。 「仕事術」なる本を上梓されるらしいが、ビジネスの基本には遵法精神も含まれる。いや、ひょっとしてパクリビジネスの解説書なのか知らん。


 上に書きました「著作隣接権」の解釈は、あやまりです。テープ起こし等の作業、放送、有線放送以外に使用する二次使用に関しては、演奏家、レコード制作者には著作権は及びません。
 したがって、このような使用法に関しては、唐沢俊一氏にはなんの落ち度もなく、無礼な文言を用いて誹謗してしまったことをお詫びいたします。


         退院はまだ早いのでは(2009/06/17)



           かえって壊れちゃいませんか

 トークセッションを一週間後に控えて、予定通りというか緊急避難というか緊急入院した唐沢俊一が、堪え性がないもんだから、あっという間に退院してきた。これが疑惑の渦中にある自民党の代議士かなんかなら、マスコミに囲まれて追求されるという騒ぎになるのは必定だが、通行人から好奇の眼で見られこそすれ、一般のマスコミの興味の範疇外の存在であることは本人とっくにご承知で、まずは堂々の復活であります。
 早速空き地になっていた日記を埋めはじめたが、いつもより倍のサービスでガセ(もしくはそれ以前のモノ)で埋め尽くされてらあ。

 5日付けの「裏モノ日記」 au色を好むをチェクしてみようか。
 お得意の訃報ネタ、デヴィッド・キャラダインのマキであります。

『キル・ビル』は東洋への知っていてのあえての曲解が楽しかったがそのキャラダインがリーの死後、『サイレント・フルート』は西欧人の知らないでの東洋思想の思い込み、曲解の典型で全編思わせぶりなエピソードと台詞の羅列。名画座で観ていて(ちなみに客は私一人だった)サクバクたる
気持ちに陥ったものだった。当然大ゴケして、ビデオで出たときは『超戦士伝説ジタン』という、ロボットアニメみたいなタイトルに変更されていた(ちなみに、キャラダインが演じたのは“盲目の男”“猿男”など4役で、格闘技の秘伝書を守る謎の男・ジタンを演じたのはクリストファー・リー)。


 へえ。名画座で、たった一人でご覧になったのですか。「サクバクたる
気持ちに陥った」って東洋思想(なかんずく功夫)の素養がどのぐらいおありになるのやら。「西欧人の知らないでの思い込み」とあなたの教養にどのくらいの差があるのやら、「サクバク」なんて曖昧な言葉に逃げて、肝心の「知らないでの思い込み」に関して、具体的なことをなにも書かないのは、当然ながら見ちゃいないからなんでしょうね。
「サイレント・フルート」の原案はブルース・リーとジェームズ・コバーン。当然ながらリーの主演を前提に書かれた物語だ。「リーの高弟のスターリング・シリファントと一緒にその企画を映画化した」といったら、シリファントがプロデュースしたみたいだが、シリファントが担当したのは脚本。そして、シリファントは、スティーヴ・マックィーン、ジェームズ・コバーンなどと並ぶ、ハリウッドにおけるリーの弟子だが、「高弟」ではない。リーが祖師である截拳道の師範、ダン・イノサントと混同したのか。いや、そんな知識なんかないだろうな。さらに返す刀で、父ジョン・キャラダインを語るのだが。
 
 親父のジョン・キャラダインはシェイクスピア劇出身の名優なのに反骨精神の持ち主でハリウッド・メジャーの作品を嫌い、マイナーなホラーものなどにやたら出まくることで稼いでいた。まともな役を演じた映画はてっきり『駅馬車』一作だった(フェミニストの賭博師の役)のではあるまいか(あと、同じフォード作品で、組合を組織しようとして殺されてしまう『怒りの葡萄』の説教師の役か)。

“まともな役”とはまた酷い言い方だが、ジョン・キャラダインの出演作と言われたら、『駅馬車』『怒りの葡萄』『血と砂』『十戒』『大砂塵』『リバティ・バランスを射った男 』『ラスト・シューティスト』なんて映画がすぐに頭に浮かぶ。「てっきり一作だった」と思ったのは、あんたがてっきり無知だからに他ならない。
 で、さらに、続けて、

 息子のデヴィッド(ちなみに5人の息子のうち4人までが俳優。デヴィッドは長男)も、父を見習ったかまともな役はハル・アシュビーの『ウディ・ガスリーわが心のふるさと』における主人公(このときの設定と格好が『怒りの葡萄』のヘンリー・フォンダそっくり!)くらいで、あとの出演作はことごとくB級アクションとかカルト映画とかB級アクションとかカルト映画とかB級アクションとかカルト映画とかばっかりであった。
 
 ……えーと。
 突っ込んでいいものやら。
 心臓以外のかなり重要な臓器に致命的な欠陥が生じているので、大至急再入院された方がいいと思います。


             神国崩壊(2009/06/14)



          ミステリ史上最強の密室トリック

           神国

 はてさて、昨夜の「本格ミステリ大賞授賞パーティ」で、著者の獅子宮敏彦さんにお会いしてしまい、なおかつ、本作の感想を述べたら「机上の彷徨に書くんですか」と訊かれてしまった。「机上の彷徨」などという過疎コラムのタイトルまでご存知ということは、当然ながら本エントリも読まれるのだろう。参ったなあ。

 いや、参ったのはサブタイトルにも記した、本書の「ミステリ史上最強の密室トリック」であります。あの有栖川有栖と安井俊夫の『密室入門!』の中に、こんなところがある。

安井●先ほどは、出入り口扉と窓がなくても密室は完成すると言いましたが、実は天井がなくても密室が成立する場合があると思うんです。それはたとえば、右ページの【図4】のように、壁の高さが地上100mくらいある場合です。
有栖川●100mの壁ってすごいイメージ。いったい何なんですか、それ(笑)?
安井●たとえば煙突です。煙突の場合は、いちばん下が開いていますけど。実際に人が入ることもできますよね。


 図4 
 【図4】『密室入門!』P.90 から

 有栖川氏が「すごいイメージ」と言った密室を、実は煙突なんかじゃなくて、ちゃんとした建造物で実現したのが本書なんであります。
 ペドラ大公の難攻不落の城マテンドーラ、外城壁の高さは30mもある。お台場のガンダムが18mなんだから想像してみてね。しかし、悪魔と呼ばれる騎馬民族ジャガンは、扉を破ることすらせずに、易々とその城壁を越えて場内に進入し、ぺドラ大公を惨殺する。空を飛んだのか。壁を抜けたのか。
 作家によってはこの謎だけで長編が1作書けてしまいそうな大ネタ。しかし、真相は実にあっさりと提示されてしまう。しまうけど、この真相が凄いのなんの、安井俊夫が考えつかなかったのも無理ありません。つか、誰が考えつくんだ、こんな凄いトリック。
 大ネタを惜しげもなく使い捨てたと思ったら、今度はさらなる大ネタ「都市消失」が示され、いつもの手かと思う間もなく「そうじゃないんだ」と返されるのだからたまらない。
 実はこの話、架空の中国を舞台にした、歴史小説であり、“探偵府”長官の跡取り利春と忠実な家臣“爺(本名は誰も知らない)”、そして、美少女、朱光と朱炎の4人を探偵役にした本格謎解き小説なんである。もっとも、探偵役は冒頭と最後にしか登場せず、入れ子になっているエピソードが凄まじいものばかりなんで、殺伐とした印象なんだが、この4人が登場してくる部分はラノベ調で、ほっと出来る。天真爛漫朱光とアイスビューティ朱炎(古代中国なのになぜか眼鏡っ娘)の活躍―実はこの二人も凄い秘密がある―はもっと読みたいので、是非シリーズ化してもらいたい。

『神国崩壊』 獅子宮敏彦 原書房 2009


          トークセッション中止(2009/06/12)



            唐沢さん急病


 会社から帰ってきたら、義父から留守電が入っていた。実は、ジュンク堂の唐沢のトークセッション、義父の名前で予約を入れていたのだ。今日、義父の所にジュンク堂の担当者から電話があって、講師が急病のため中止しますと連絡してきたんだと。去年のDAICONみたいに、予告したために逃げられた苦い経験があったので、今回はシカトして参加するつもりだったのに(kensyouhanさんが質問したとき妨害する奴がいたら、ちょいと痛い目に遭わせるとかさ)。
 おやおや。
 なんか思い切り体調悪そうなのに、漢方を滅茶苦茶な処方で服用してたから、気にはなっていたんだが。ま、とにかく、

 謝罪せずに、死ぬのは許さんぞ

 ってことで。


         「唐沢俊一検証blog」批判(2009/06/12)



          文盲?っつうか、うぜえええええw

 のっけから、下品な文言で失礼しました。これは、消毒しましょ!というblogの6月12日のエントリのタイトルなんです。内容は、「唐沢俊一検証blog」の6月2日のエントリ、ホームレス?っつうか、うぜえええええに対する批判なんでありますが、タイトルからして、喧嘩を売っているのは明らかですね(まあ、kensyouhanさんも唐沢&岡田両名に、喧嘩を売っているわけなんですが)。だから、ここのコメント欄に返してもいいんですが、なんか“素人のblog”というものはコワレモノのように扱わなければならないようで、何か物申すと「暴れた」とか「痛い」とかなんて批判が一人歩きする。で、自分のサイトに書くことにしました。このblog主も自分のblogに書いているのですから、陰口呼ばわりはされないでしょう。

 「家庭内ホームレス」とは一体何なのか。岡田の定義だと、江戸時代に長屋に住んでいた人もみんなホームレスになってしまうのでは。自分のことを「ホームレスなんです」と安易に言うのは、逆にホームレスに対して失礼なような気もする。それにしても、岡田斗司夫って論理的な話ができない人だなあ。どうして「すべての男は、実はホームレスなんです」となるのかさっぱりわからん。(検証blogの引用)
 なんなんだ、こいつわw 字は読めても文章は読めないという手合いかw 批判のための批判にすらなっていないw 岡田の言う「書斎」とは、男が自分の趣味に耽溺できる場所、女房の金切り声や詰まらない世間話から逃れて自分を取り戻すことの出来る場所、大袈裟に言えば自己表現をしたり自己実現を図れる場所といった程度の意味であろう。実際に部屋を持っているかどうかなど問題とされていないことは「僕や唐沢さんは、ただ単に金を持ってるホームレスなんです」と書いていることからも明らかで、逆に「長屋に住んで」いようが自分が充実していればそこは「書斎」なのである。普通に「論理的な話」であり、「ホームレス」は単なる比喩である。それを「ホームレスに対して失礼なような気もする」だもんなあwww

 草(www)を生やしまくるというのは、真面目に書いちゃいないんだぞという意思表明なんですかね。後で論破されたときの悔し紛れの言い訳「いいのか、そんな素直で」を思い出させます。まず「批判のための批判にすらなっていない」ってのが思いっきりブーメランで、顔面を直撃されてるんですが、こうした輩の常でそれに気付いていない(だからこの手合いとは議論したくないのね。論破されても平気なんだもの)。
 ええと。この方は書斎というものについて、こう書いている。「男が自分の趣味に耽溺できる場所、女房の金切り声や詰まらない世間話から逃れて自分を取り戻すことの出来る場所、大袈裟に言えば自己表現をしたり自己実現を図れる場所といった程度の意味であろう。実際に部屋を持っているかどうかなど問題とされていない」。岡田氏がそう意図していたか否か以前に、この方は続いてこうも書いている。「「長屋に住んで」いようが自分が充実していればそこは「書斎」なのである」
 なんでしょうね「充実していれば」って。
 「充実していれば、「女房の金切り声も詰まらない世間話から逃れて自分を取り戻」せるのですか。長屋の四畳半一間でも、「充実」によって、そこが書斎になると。金切り声も世間話も聞こえなくなるとは、もの凄い集中力、まさに心頭滅却状態です。それが「普通に「論理的な話」」だというのですから、まともな議論が展開できるはずがない。
 岡田斗司夫がむちゃくちゃな話を展開して、それに対してkensyouhanさんが常識的な指摘をしているのに、この方は岡田氏の意見(と申しますか、“うわ言”のようなもんですが)よりもさらに頭の悪い論を展開して、検証blogを批判しようとしています。低レベルなAA貼りより、かえってイメージを悪くしていると思うのですが。

「現実世界でのヴァーチャル感」というのがなんとも頭が悪いのだが(検証blogの引用)
 別に頭悪くない。「現実」と仮想(ヴァーチャル)という相反する言葉を使っているのは単なる演出であり、そこに突っ込むのは無理筋である。

「単に演出である」
 その演出が頭悪いと言ってるんでしょうが。なにが「演出」ですか。いや、この方の頭の悪い批判自体が、徹頭徹尾「演出」ってことなのかも知れません。でしたら、大変な演出力だと思います。思い切り頭の悪い印象になっていますから。しかも反論できないと判断するや「無理筋」なんて変な言葉を持ち出してくるし。
 
 きりがないので、興味ある方はご自分でもとの検証blogとこの方のblogを比較してみて下さい。そうすれば、この方が、検証blogの中の、辛うじて自分が批判出来そうな部分を選び出して、そこに支離滅裂な言葉を浴びせているだけだと分かると思います。やっぱり、唐沢擁護には、こんなのしかいないんだなあ(大学の教員なんて肩書きの人も何人かいますが、ここまで低レベルではないものの、同類ですから)。
 あ、擁護というのは餌です。またこれが入れ食いなんですよね。
 
このような頓珍漢な批判しか出来ないようでは、こやつの「検証」力も疑ってかかる他ない。

 ご自由に。あなたの「検証」力に関しては、疑ってかかるレベルどころか、ゼロであることは明白ですけど。

 苦笑。


         古本買い 十八番勝負(2009/06/10)



              幻の古本屋

            18

 嵐山光三郎の著作で、東京の街歩き本、でもってテーマが古本屋巡りなのに、なぜか買ったその日にぱらぱらやったきりで、ずっと書棚に眠っていた。昨日、出掛けにこの本を鞄に放り込んだのも、全くの偶然、『人を殺すとはどういうことか』を読み終えたので次の通勤本を、と思ったときたまたま目に入ったからに過ぎない。
 嵐山光三郎、坂崎重盛、大島一洋、梶屋隆介、石山千絵という面々が一同に介し、古書店一軒につき15分という制限時間を決めて、古本買いをする。そして、その日の〆に一杯やりつつ戦利品を披露しあうという、誠にうらやましき至福の時間が綴られているのです。
 さらに、巻半ばで、嵐山助手で紅一点のチエちゃん石山千絵は、作家石田千に変貌する。応募していた小説が、第一回古本小説大賞を受賞したのだ。ぱちぱちぱち。
 しかし、まあ、この5人が買い漁る古本(数百円から数千円という値付のものばかり)は多岐に亘って面白そうな本ばかり。なのに知らない本ばかりで(知っていたのは数冊しかない)、うむ、人間が生涯に出会える本(読まなくてもいい)の少なさは考えるだけで哀しくなってくる。
 銀座、早稲田、神保町から中央線沿線と既知の土地ばかりだが、ときとしてエアポケットみたいに未知の空間が紹介される。そこに、いかにも良さげな古書店があって、まさに幻の古本屋なんでありますな。仕事を放り出して早速出かけてみたくなる。
 そんな、一軒が水道橋の日本書房西秋書店。白山通りは何度も歩いているが、三崎神社通りや水道橋西通りの間のごちゃごちゃした空間の記憶はない。くだんの二軒はこのあたりにあるのだ。
 地下鉄の中でうとうとしながら、つかの間夢を見る。
 T字路の突き当たりにある矢鱈に間口の広い、薄暗い古本屋の店内にいる。早朝らしいが、店の前の道は大変に賑わっている。坂崎重盛らしい老人が、当たるを幸いと買い漁っている本は、まあ面白そうな本ばかり。本書のなかでも、遅刻してきた坂崎が七分で、両手の袋に一杯本を買い込んだという描写があるのだ。
 オフィスについてPCを立ち上げると、すぐさま地図のサイトを開いた。水道橋界隈……。

 おいおい。
 おれは昨日ここにいたぞ。ランチョンで軽く呑んでから、古本屋を冷やかしながら飯田橋まで歩いたのだ。驚くべし、日本書房も覗いている。いや、日大経済学部前を歩いていたのだが、ぽつんと見えた道の反対側にある店舗が気になってわざわざ道路を渡って覗いたのだ。しかし、専門書ばかりのような気がして、入店はしていない。
 当然ながら、夢で見た幻の古本屋とも全然違う店だった。

 しかし、なんたる偶然。

 『古本買い十八番勝負』 嵐山光三郎 集英社新書 2005


          人を殺すとはどういうことか(2009/06/09)



 彼は天才でも才能のある男でもなく実績もなく単なる妄想の虜です

        殺人

 面白い。
 著者は全く意図していないだろうが、これは一人の“人殺し”を丸裸にした稀有な記録である。
 著者は自分を天才だと信じている。小学生時代に、知能テストで一番になり、将来は東大に進学して医者か弁護士になると当たり前に考えていた。在日韓国人である父親(前科20犯くらいの凶暴な男)が没落し、それは夢に終わったが、高校中退で就職した教科書販売のセールスでは、たちどころに4,000人中のトップになり、同年代の50倍くらいの年収を得る。
 人生の行動規範は総て父親にある。「一番以外はくず」「文句があったら言え」「嘘をつくな」「喧嘩は勝つまでやめるな」「約束は守れ」「言ったらやれ、やらないなら言うな」。著者はこれを守る。そして、他人にもそれを強いる。経営者として成功しながら、「約束を守らない」「嘘をついた」、そんな理由で当たり前のように二人の人間を殺し、信念を貫いて取調べにも真実を包み隠さず話す。無期懲役の判決が下る。
 「自分」というものが全く無い。父親の言いなりになるロボットだ。しかし、完璧なロボットになるこそわが人生と信じる著者に迷いはない。そんな著者に転機が訪れるのは、裁判での検察官の陳述を聞いたときだった。被害者の死に様がどんなに悲惨だったか。それを第三者の口から聞かされたときに、やっと自分がしでかしたことの重大さを知る。
 しかし、だからと言って、反省と祈りの日々を送るわけではなく、父親の教え通り、自分が正しいと信ずる道をいく。すなわち、他の囚人たちを追求しだすのだ。「なんで殺したのか?」「反省はしているのか?」「償いはどのようにするのか」。なにしろ、「文句があるなら言う」「喧嘩は勝つまでやめるな」を信条にしているから、なんの躊躇もなく相手の心に踏み込んでいく。
 それに対する「人殺し」たちの答えは、ある程度想像してはいたが酷いの一言に尽きる。殺した相手の顔が夢枕に浮かび眠ることすら出来ない、なんて奴は一人もいない。
 人を殺したことで反省することは? と著者は尋ねる。
「指紋を残したことかな」
 どう償うのか?
「だから、ここに収容されてるんじゃないか」
 殺された奴が悪いとうそぶく。
 しかし、ここではじめてわたしは、その“人殺し”に共感を覚えた。倉庫に盗みに入り、発見され、守衛を殴り殺した強殺犯の弁。

 てめえの物じゃねえのに安い給料で真面目に仕事しやがってよ。大人しく寝てりゃいいんだよ。余計なことしやがって、頭にくるじゃん。捕まりゃ刑務所だし、動くな、なんて命令口調で言いやがるしよお。何様のつもりだ、動くなだってよ。えっ、殺意か、あったかもな。裁判じゃ、ねえって言うに決まってんじゃん。そんなのチョーエキの常識だろ」
         ~略~
「殴ってる時? 鉄製の枠みたいので殴ってたけど相手が激しく抵抗するから必死だったよ、殴ってもこっちに向かってくるし、俺のブルゾンを握って離さねえんだ。もう必死よ。それによ、そのブルゾン買ったばかりで気にいってて、それを少し破られて余計にかっとなってよ、絶対に許せねえって思ってよ、滅茶苦茶殴ってやったよ」
         ~略~
「だって、自分の物じゃないんだから、放っときゃいいじゃん。無くなったってそれくらいでびくともしないじゃん、大きな会社だし、てめえが損する訳じゃないし、こっちは捕まったらまた何年か寄せ場(註;刑務所)暮らしだぜ。中での不自由も知らないで」
 周りで聞いていた何人かが頷いていました。論理の飛躍に気づいていません。社会でもよくあることですが、初めの前提が誤っているのにその後の理屈を都合の良いように展開しています。しかし刑務所では、そもそも犯罪行為が悪であるという前提がありませんから、この理論の展開はよくあることなのです。


 誤解覚悟で敢えて言うが、この強殺犯の言うことはもっともだ。身勝手で頭が悪い前科者が考えることは手に取るように分かる。著者はその本音を引き出した自分に酔っているけれど、まあ誰だって考えることだろう。さらに著者はそれにひきかえ、ヤクザには立派な“人殺し”がいるとは称えるのだが。

 ハッキリ言って、この著者、どうしようもない馬鹿だ。自分自身の「論理の飛躍」にも「初めの前提が誤っている」ことにも全く気づいていない。“信条”とか“侠気”とか、そんな訳の分からん理由で人を殺すのは、頭がおかしいからに他ならないのだが、こいつはそれを尊いことのように思っている。
 本書は、そんな馬鹿が「冷徹」に「客観的」に、“人殺したち”を観察し、取材し、分析するという体裁をとっているが、その内容は実は浅薄だ。この本の本当の面白さは、そうした行為を通して見透かされる、著者自身の殺人者としての資質、そして、文字通り「人を殺すとはどういうことか」ということがまさに鏡のように著者自身に映し出されていくところにある。
 なんで人を殺してはいけないのか。
 それは最終的な可能性を奪ってしまうから。わたしは、そう考えている。それだけのことなんじゃないか。

 amazonの書評を見たら、著者の自慢話と無反省ぶりに憤り、半分読んだだけでぶん投げ、☆一つの採点をしている人がいた。なにを期待して本書を紐解いたのだろうか。人を殺すことの恐ろしさに気付いた殺人犯の、懺悔の言葉満載だとでも思ったのかしら。

 しかし、もとヤクザとか殺人犯とか暴走族とかチンピラとか、そうしたアウトローたちが語る自己とは、どれもこれもどうしてこう偉そうで浅薄なんだろうか。
 犯罪者というのは所詮馬鹿なんだよな。

※冒頭の言は、ラスコーリニコフに対して著者が下した評価です。

 『人を殺すとはどういうことか』 美達大和 新潮社 2009


現在地:トップページ机上の彷徨