ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

              法医学の話(2009/08/11)



               冤罪か否か


            法医学

 ネット環境が未だなかった頃、こんなに役立った本はない。いや、ミステリ執筆の資料としてね。法医学の専門書はいづれも高価だし、資料に使うには煩雑な部分も多すぎる。なにより、死体写真満載なので、そこらに放置しておくわけにもいかないから、手軽で役立つということではこれに勝る類書はない。
 ところで、この本、今は絶版になっている。といっても希覯本というわけでもなく、amazonで1円で入手出来る。
 
 いや、なんで突然、こんな昔の本の話になったかと言いますと、今話題の「裁判員」制度に関連して思うことがあるからなんです。

 「足利事件」で注目を浴びたDNA鑑定(「飯塚事件」でも同様な再鑑定が行われると思いきや、就任1か月の森英介法務大臣はさっさと死刑執行命令を出してしまい、久間三千年は処刑されてしまった)ではあるが、有罪判決が出た当時のDNA鑑定では、
 一般的な型で16人に一人、特殊な型で3万5000人に一人しか判別できず、平均すると、およそ1000人に1.2人の確率しかなかったWikipediaより)ようだ。
 本書のⅥ章「証拠としての血液型の価値」で取り上げられているのは、昭和二十四年に発生した弘前大学教授夫人殺人事件(本文中では大学名は「知名の大学」とだけされている)なのだが、この事件に対して鑑定人だった、著者古畑種基は、当時の詳細な鑑定記録を公表し、現場及び被疑者の衣類に残された血痕から、犯人を特定できる確率を98.5%とした。事件当時、弘前市の人口は6万人。ならば、容疑者は9百人ということになるが、それだけの出血をする怪我を負った人物ということで特定すれば、

 
 怪我をしておらぬB・M・Q・E型(引用者註;4種類の血液分類法から特定した犯人の血液型)の人が、何十万人いようとも、それは問題にならぬのである

 と断言し、被告は懲役十五年の刑に処せられた。
 ところが、この事件には続きがあって(だから本書は絶版にされたのだが)、実は十五年後に真犯人が名乗り出てきたのだ(時効になるのを待っていた)。冤罪を受けた男性が、国家賠償を求めて訴訟を起こしたため、真犯人と名乗り出た男と結託したのではと、一部では邪推されたが、再審が開始された(鑑定人古畑は1975年に死去)裁判では、なんと衣類の血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造であると裁判所は判断したのだ。

 いやはや。
 こんな事件を受け持たされた裁判員。法医学の第一人者で東大教授の鑑定に疑義を挟めるだろうか。いわんや、警察の捏造なんてことに。
 
『法医学の話』 古畑種基 岩波新書 1958


             九つの答(2009/08/09)




               恐ろしいネタばらし


               九つ

 最初にお断りしておく。今回のエントリは凄まじいネタばらしである。だから本書を未読の方は絶対に読まないで下さい。
 なんで、そんな酷いことをするのだ、とお怒りの方もいるだろう。以下、その説明をする。

 本書は、わたしのような人間にとってはベスト10クラスの傑作である。初読のとき、思わず「そうか! やられた!」と叫んでしまった。心憎いアイデアであるし、逆に一発芸だから、その部分をネタばらししちまったら、この驚きが全減してしまうのだ(“半減”ではない)。

 だったら、なんで?

 本当にあなたは未読ではありませんね。
 だったら本書の表紙をよおっく見ていただきたいのだ。気付きました?

 驚いたよね。カーはなにを考えていたんやろ。

 なんのことやら分からんという人は、こちらを。読んで後悔しても知らないよ。

 なんと原題は“NINE WRONG ANSWERS”なのだ。今の今まで気がつかなかった。よろしいか“WRONG”なんだよ。本書の根源となるミスディレクションは、前後9回にわたって提示される作者の答えにあるのだ(だから「九つの答」)。例えば登場人物の一人が毒薬の入った飲み物を飲んで死にかけたとき、「疑り深い読者は、毒を飲んだふりをしただけだと思うかも知れない。しかし、狂言ではなく、○○は本当に毒を飲んでしまったのだ」みたいに。ところが、この答がことごとくダブルミーニングを持っていて、読者はまんまとカーの罠にはまってしまうという仕掛けなのだ。まさかそんなところで嘘を書くわけないだろうと思っていると(実際、「嘘」は書いてないのだが)、まんまと騙されてしまう。しかし、タイトルは「九つの間違った答」なのだ。つまり本当のことは答えていないって、最初から宣言しているのだ。だったら、仕掛けにもなんにもなってないと思うんだよなあ。不思議だよなあ。今日まで気付かなかったけどさ。

 Googleで検索しても、二十数件しかヒットしない。忘れられた傑作なのかも知れない。しかし、この事実が分かってしまったら、支持者が少ないのも分かるような気がする。

 『九つの答』J・ディクスン・カー 青木雄造 訳 ハヤカワポケットミステリ 1958


          6本番・竹内あい(2009/08/07)




          酷い! 酷い! 酷い! (笑

          
           6本番

 モザイク処理はわたしが行いました。

 さてAVであります。タイトルは、『6本番・竹内あい』という、身も蓋もないものなんでありますが。

 これが、稀に見る傑作なんであります。
 (以下、露骨な言葉遣いに為ります故、お嫌いな方はスルーしてね)

 AVというものも、数多く見てくると飽きてしまう。ま、これは仕方ないでしょう。昔だと、本当にSEXしているとか、無修正だとか、いろいろ煽りの情報もあったのですが、いまやサイト上で、アメリカから配信される無修正AV(モロ動画)って奴が、毎日何十件もあるわけで、余程新しい刺激がないと、もはや退屈だけな代物とあい成るわけなんですね。

 で、この作品。これが非常に面白い。これは竹内あいという主演女優の個性のなせる業なんざんしょうが。
 
 後背位でやっております。男は竹内さんの両手を、後ろから引っ張って、まるで「背筋の鍛錬」みたいにして必死でピストン運動に励んでいる。竹内さん、思い切り上体を反らして、「イクイクイクイク!」と叫ぶのは、まあマンネリな演技にすぎません。
 問題は、その直後です。竹内さんが「アーッ!」と絶叫して、逝った(もしくはそうした演技をした直後)、男優は引っ張っていた両手を離します。反動で竹内さん、べしゃっと顔面からベッドに倒れこみ、すっぽんと陰茎も抜けてしまいます。
 この後の、竹内さんの反応が素晴らしい。ヒステリックに怒るのでもなければ、悲惨に泣き叫ぶのでもない。酷い! 酷い! 酷い! と相手の男に、怒るでなく甘えるでなく言葉を投げて、やり返すもんねと宣言する。このやりとりが、非常に微笑ましい。丸出しの男女が、本音で言葉を交わしながらキスするところなんて、グッときますね。
 結局、この後、3Pという設定だったらしいのだが、あいちゃんが許さず、もう一人の男に後ろからハメられながら、先ほどの男優を四つんばいにさせて、後ろから陰茎をしごいたり悪戯する。
 台本の段取りは目茶目茶になってしまったようだけど、生生しくて楽しいAVになりました。


          方向転換・第1回(2009/08/06)



           ゴミ屋敷のボランティア

 8月3日の裏モノ日記になにか怪しいことが書かれている。先日急逝した志水一夫の家を訪ねて、遺された膨大な蔵書の今後を検討したということなのだが。

 入院などで見舞にも葬儀にも出られなかったが、その埋め合わせと、故人の遺した蔵書の始末を、お母さまから皆神さん、私、ひえださんが託されため。
 皆神さんと、
「いよいよあの伝説の志水宅をのぞけると思うとワクワクするね!」
 と話し合う。


 ラジオライフの記事に関して書いたときにも触れたが、唐沢は友人の死を悲しむより、その蔵書の管理を委ねられたのが嬉しくてしかたないようだ。まあ、鬼畜のどうのに関してはもう語らないことにしたわけだが。

 玄関をあけたとたん、段ボール箱がうずたかく積まれている。これ、全部本だそうである。家の中へ通されてちょっと度肝を抜かれる。階段、廊下、リビング、とにかく広いお宅の、台所など水回りのところをのぞいてほぼ全て、本で文字通り埋まっている。階段は三重になった本で一杯になり、体を横にしないと上れない。いや、家のほとんどに、真っすぐにして歩けるスペースがない。ことごとく本、本、本……である。
 もう十数年前になるか、『カルトな本棚』という本を出したとき志水さんにも取材を申込んだが、かたくなに拒否された。たぶん、このような状態の家を他人に見せるのを嫌がったのだろうが、その時はまだ、仕事場で志水さんは仕事をされていたはず。晩年は仕事場までが本に埋もれて入れなくなり、台所で原稿を書いていたとか。つまりその時に比べても数倍の数になっていることである。


 わたしはこの文章に、非常に作為的なものを感じる。志水さんが見られることを嫌がった(と唐沢は思っている)室内の写真が、三葉この日記の冒頭に貼られているのだ。故人が曝されたくないと思っていたと判断するなら、なんでそんなことをするのだろうか。作為的とはつまりこのことで、崩れかけた本の山や、階段を埋め尽くす本の山の写真は、怨念さえ感じられる。加えて唐沢の描写も、蔵書のせいで、この家が家として機能していないことを強調しているのだ。さらに、

 本当に大きなお宅(造りも凝っており、ご両親のご自慢らしいが、今ではお客すら呼べない)であるが、二階の部屋と踊り場に続く部屋全部は本で埋まって、そもそも内部に入れなくなっている。何度か試みたが、積んである本が崩れそうで断念した。この廊下の先にもう一部屋、“ありそうだ”と予測はついたが確かめられない部屋すらあった。
 部屋に入れず、本を取りだせないのだから、書庫としての機能はもはや喪失している。増殖する本に乗っ取られた家という感じである。いかにも志水さんらしい無計画さ、と微笑ましくもなるが、しかし彼は自分の買った本に追い出されて仕事場にも自分の寝室にもいられなくなり、最後はリビングのソファで寝起きしていた。ガンで腰にかなりの痛みがあったのだが、病院にかかるのが遅れたのは、ソファで無理な格好で寝ているから痛むのだろうと思っていたからだという。
 本に殺された、と言っていいと思う。


 この文章から頭に浮かぶ志水像は、取り憑かれたかのように本を買い漁り、その山に埋もれて死んでいった狂人のようだ。唐沢はさらに死者を貶める。

 自分を蔵書家、などと自称していたのが恥ずかしくなるような、恐ろしくなるほどの本の量である。
 とはいえ、うらやましいとかさすがである、とかはここまで来るとほとんど思わない。自分が先日、書庫の大整理を行ったのは本当に正解だった、と胸をなで下ろした。そもそも、ここまで蔵書数を誇っても、個人蔵の限界は、ある冊数を超えると整理がつかなくなるということである。国会図書館が職員とバイトを合わせて1000人近くの人間を雇い、常時、整理と分類、本の修復などを行っているのは、それだけの人数が本の管理には必要だということだ。それが出来ないと、本は勝手に増殖していくかのように持ち主の住居空間を侵し、かくのごときいいお宅をかくのごとき魔境に変えてしまう。


 “魔境”か。しかし、唐沢の暴言は未だ続くのだ。

 お母さま、80代とは思えぬお元気で、ニコニコと迎えてくださる。本当に息子と仲がよかったのだと思い微笑ましいが、この本の増殖を何とか意見できなかったものか。

 息子を甘やかした親が悪いのだというのか。もの凄いブーメランだが(笑)。

 皆神さんと話す。いま、某組織が引き取りを考えてくれているが、果たして全てを向うの予算で引き取ってくれるのか。古書店に売るにしても、梱包と発送は誰がやるのか。労力は誰が出すか。何にしても、一朝一夕に片づく問題でなし。バスで東浦和まで戻り、駅前のつけ麺屋で今後のことを話す。私は、あれだけの冊数だと、ひと部屋の本をざっと分類して段ボール箱につめるだけで一ヶ月以上かかると思う。志水さんの研究対象には、新書や文庫などの雑書でしか出てないものも多く、売れる本とそうでない本をより分けないとまとめて売ることも出来ないのである。故人は散逸させないことをのぞんでいたというが、さて、それが可能か。

 長々と引用してきたが、唐沢の作為はお分かりだろうか。志水一夫は蔵書を散逸させないことを望んでいた。なのに、唐沢は分別して売ることを早くも考えている。そして、志水をあたかもゴミ屋敷に住まう狂人であったかの如く貶めて、自分は老母に成り代わってボランティアでその管理を引き受けた善意の人を演じているのだ。
 
 多分、値打ちのある本は皆神と山分けにし、残った雑本は廃品回収業者に引き取らせ(その代金は総て母親にわたす)、終に志水の蔵書は四散、廃棄されるわけだ。

 唐沢などを家に上げたら、なにを持っていかれるか分からない。しかし、こうした言葉を聞く耳を今の母親は持っていないのだろうなあ。


          唐沢検証の方向転換(2009/08/06)



             不正摘発にシフトします

 一昨年の盗作事件以来、ずっとを唐沢俊一のP&Gを摘発、検証してきましたが、ここでちょっと方向転換、今後は不正行為(盗作、知的財産権侵害)のみを指摘していきたいと思います。
 はっきり言って、疲れました。だって、唐沢が書く文章って、一行たりとてまとものものがないんですもん。キリがないし、冷静に考えたら、馬鹿が書いている文章の、ここがおかしい、そこの意味が分からん、なんて指摘するのって意味がないと思えてきたのでね。
 盗作、他人の著作を自分のものにしてしまう、他者の著作物を無断で上演する。こうした犯罪行為をこれからは、ばんばん取り上げていく所存です。
 よろしく。


         ケンネル殺人事件(2009/08/03)



              髭のある男たち


        ケンネル

 原作は、言うまでもなく、ヴァン・ダインの6作目の長編。「面白い長編小説を書くのは一作家6作が限度」という彼の言葉通り、この後に書かれた6作のミステリーは、はっきり言って総て駄作だった。
 当初ヴァン・ダインも、この作品を最後の作にしようと思ったのだろう、「犬」と「中国骨董」の薀蓄が錯綜したぺダンチックの権化のようなストーリーの上に、怪しい人物が何人も登場し、さらに、犯行そのものも複雑な時系列をすり抜けて行われるという思い切り濃いミステリーに仕上がっている。最初に読んだとき(中学生のとき)は、なんだかよく分らなかったという記憶がある。
 さて、映画は、あまりにも有名な、ウイリアム・パウエル主演、1933年の作品である。映画の冒頭で主なる出演者が紹介されるのだが、どれも怪しげな容疑者の中国人コックを除いた残りの面々、探偵、そして、被害者も皆口ひげを生やしているのである。あまりなじみのない役者、ヘアスタイルも雰囲気も似通っている上、モノクロ画面なんで、こりゃあ人物の識別が大変だなあと恐る恐る見ていたのだが。
 いや、なんといいますか、ファイロ・バンス物からぺダントリーを差っ引くとこうなるのだよなあ。確かに人間関係は複雑だけど、余計な薀蓄披露(ごめん)がなくなってみると、意外にすっきりしていることが分る。加えて、マイケル・カーチス(後に『カサブランカ』でアカデミー監督賞を受賞)のテンポのいい演出も大変分りやすく、密室トリック、犯行の経緯がよおっく分りました。
 しかし、ウイリアム・パウエルのキャラのせいなのか、ぺダントリーのなくなったファイロ・バンスって、なんか吉本新喜劇みたいな雰囲気ですね。

『ケンネル殺人事件』 PSG 2007(1933)


           名探偵だって?(2009/08/02)



             

 唐沢俊一が、7月30日の裏モノ日記に、またもやよう分からんことを書いている。

 インタビュー本原稿チェック、調べることが多くてなかなか進まず。とはいえ、インタビュイー氏の記憶の大変に明晰なことに助けられる。場所の記憶と名称の記憶から調べて、年代が割り出せたときなどは名探偵になったような気分になる。

 インタビュー本ということだが、今回は誰か(インタビュイー氏)に唐沢がインタビューしてこしらえる本のようだ。相手の発言の内容から、事実関係を色々調べなければならないようだが、それはインタビュイー氏の記憶の大変に明晰なことに助けられるといった作業らしい。だから明確な場所の記憶と名称の記憶から調べて、年代を割り出すのは、さほど困難なこととは思えないんだが、なんだってそのくらいのことで、

 名探偵になったような気分になる

 んだろうね。
 餓鬼でも出来る仕事じゃねえの、とまでは言わないが、「名探偵」ってあなた。
 唐沢という人物は、世間一般のレベルを相当低く見積もっているのではないかしら。wikipediaが使えたら「名探偵」? いや、本気で自分を天才だと思っているのかも知れない。なんせ、あの『博覧強記の仕事術』を、

 面白いことに、これが読んでみると、自分でもかなりタメになることを言っている形になっているんですね。ビジネス書に興味のない方にも、楽しめるような本になって いるのではないでしょうか。

 と、自画自賛しているのだから。
 ビジネス書に興味ある人が見たらぶん投げるだろうし、興味のない人は最初から手にもしない。
『血で描く』とかこの『博覧強記の仕事術』みたいな“恥本”を上梓しちまったら、普通は恥ずかしくて表なんか歩けるはずないんだけどねえ。


         唐沢俊一ミステリーを語る(2009/07/31)



              添削の勧め


            ラジオ


 先日、ちょっと触れたように、唐沢は「ピルトダウン人化石捏造」の犯人として、アーサー・コナン・ドイルの名を挙げている。そして、その動機を次のように推理している。

 その動機は、シャルダンがダーウィンの進化論を認めて、聖書にある伝統的創造論を破棄し、カトリック教会から危険思想家として見られていた、ということがある。ドイルもまた、心霊現象を認めようとしない、頑迷なカトリック教会とそのガチガチの信者たちに不満を持っていた。ピルトダウンを訪れた時期のシャルダンは、自分がまだ、教会の教えと自説とどちらに傾こうか、迷っていることをドイルは知っていた。だからドイルはシャルダンを騙し、彼の信ずる進化論の徹底した証拠であるピルトダウン人の化石をこっそり埋めておいて彼に発見させ、発言力にある彼に、カトリック教会との完全な決別に踏み切らせようとしたのだ。
 普通のミステリーでは、ある人物を騙そうとする動機は、その人物に対する恨みである。
 しかし、この場合、ドイルはシャルダンを恨むどころか、対カトリック協会に与する同士として見ており、その決意を促す目的で彼をペテンにかけようとしたのだ…。


 シャルダンというのは、後に北京原人の化石を発見する、フランス人神父、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンのこと。なぜか唐沢はシャルダンの名前をテイール・ド・シャルダンと誤記している。そして、上記の文章で不可解なのは、「普通のミステリーでは、ある人物を騙そうとする動機は、その人物に対する恨みである」という部分だ。
 実際に起こった事件の犯人を推理するときに、なんで「普通のミステリー」なんてものを基準に考えるのか。このことは、わたしが『新・UFO入門』の盗作事件の際質したのに答えて、

 ミステリ作家であるという藤岡さまにこんなことを言うのは釈迦に説法でもありましょうが、あえて私が漫棚通信サイトの文章を自分の文章として盗んで引用したと断定するのなら、その犯行動機があまりに弱くありませんか(あの漫画作品は国会図書館などでいくらでも手に取ることが可能な本で、稀書というものでもありません)。これではミステリのプロットとして提出してもボツ必至だと思いますが、如何?

 と見当違いな答えを返してきたり、

 ダライラマの宗教的独裁に関して、

 ダライ・ラマの宗教独裁時代がどれほどのものかは、チベット行って、あの貧乏な国でポタラ宮をはじめとする宗教施設の壮大なことを見れば一目瞭然だと思うね。さらに昔だと、久生十蘭の『新西遊記』って小説に、門外不出の秘教であるチベット仏典を国外に持ち出そうとした者たちの拷問・処刑法が微に入り細を穿って書いてあるから読んでみるといい。このオレがこれまで読んだり聞いたりした中で一番の残酷さだと言えば度合いがわかるだろうと思うが(笑)。

 なんて馬鹿な意見を開陳したりしたのと同様で、どうしてもフィクションを参照しなければ現実が語れないらしい。
 それにしても、「普通のミステリーでは、ある人物を騙そうとする動機は、その人物に対する恨みである」というのも暴論だよなあ。ミステリーに出てくる詐欺師は全員恨みが動機なのか。いや、騙すということなら、そもそも、ミステリーに登場する犯罪者は、全員、警察官に恨みがあるために、己の犯罪を隠蔽するということなのかね。
 思考力も知識も平均以下なんだから、難しい言葉を無理に使うとか、上から目線で偉そうに書くとか、そんなことを考える以前に、ママなり弟なり、まともな人間に文章を添削してもらうように(バーさんなんか役に立たないよ)。


       『虚無への供物』との暗合(2009/07/30)




             虚無への供物

 小説執筆中は精神状態が「書きモード」になっていて、なかなか本を読む気になれない。とはいえ根っからの活字中毒者、居酒屋ガイドとか軽いエッセイ、オカルト本なんかでお茶を濁すことになる。それが、脱稿して原稿を送付すると、じわじわと「読みモード」となり、今まで手を出せずにいた分厚い本が読みたくなってくる。
 やっと『七つ星の首斬人』が書店に並び(お待たせいたしました)、ほっとしたとたんに読みたくなったのが、塔晶夫の『虚無への供物』だった。何十年ぶりだろうか。三十年近く前に著者の塔晶夫(=中井英夫)に会って、お話を伺ったことは以前にも何度か書いた。『虚無への供物』を読んだのは、そのまた五年ほど前。若気の至りとはいえ、よくもまあストーリーもうろ覚えの癖にいけしゃあしゃあと話なんかしたもんだ(上に提示した、講談社版の初版本にサインまで戴いたのだ)。無教養な若造だと思われただろうなあ。

 いや、驚きました。『虚無―』のオマージュとして、自作に色々悪戯を仕掛けてきたが、再読していたら、そんなこと恐ろしくて出来なかったに違いない。今回、読み直して、色々な暗合にびっくりした次第なんであります。

『ゲッベルスの贈り物』:第二次世界大戦終結前夜、帝国海軍技術大佐飛良泉英雄は、秘密兵器“ゲッベルスの贈り物”を携え、Uボートに乗船、一路祖国日本に向かった。これが冒頭のエピソードだが(戦記小説ではありません)、なんと講談社文庫版の解説(作者年譜)にこんなことが書かれていた。

 一九四五年 昭和二十年 23歳
 三月、長兄・敏雄、ドイツよりV2号の秘密設計書を携え潜水艦で帰国途中に行方不明となる。


 ええっ! 全然知らなかった。少なくとも中井氏にお会いした当時に知っていたら、『ゲッベルスの贈り物』の冒頭は全然別のものになっていたはずだ。

『六色金神殺人事件』に登場するミステリ作家謎丸緑司は、もちろん『虚無―』に登場する氷沼緑司からとったものだが、これは作品中言及している(ペンネームの由来ということで)。『白菊』の登場人物、久村奈々江は奈々村久生のパロディ。この二つは故意だから暗合ではない。

 問題は、新作『七つ星の首斬人』との暗合だ。よくもまあ、「五色不動」なんてものに手を出したもんだ。自作のネタバレをするわけにはいかないが、まるで「裏・虚無への供物」みたいな構造になっている。
 書きモードで良かった。執筆中に『虚無―』を再読していたら、『七つ星―』は書けなかったろうから。


        ラジオライフ 2009 9月号 承前(2009/07/28)



              再び自己を欺く


            ラジオ


 「ピルトダウン人」事件は、考古学史上の大事件で、今更唐沢が四の五の御託を並べることなんかないだろうと思うのだが、結局、今月はこのネタ一本で、しかも本誌の「この世のあらゆるプロテクトを解除する!」という特集を無視して暴走している。
 唐沢は、この「ピルトダウン原人」の化石偽造事件の真犯人にアーサー・コナン・ドイルの名を挙げているのだが、これまた人口に膾炙した有名な仮説で、目新しいことはなにもない。しかし、著名な作家であったドイルが、こんな偽造事件を起こした動機として、唐沢なりに新たな説を提示している。

 ドイルもまた、心霊現象を認めようとしない、頑迷なカトリック教会とそのガチガチの信者たちに不満を持っていた。

 確かに晩年のドイルは心霊学にのめり込んでいたが、それは教会に弓を引くような行為だったのか。唐沢は、かつて、ホームズとワトソンが同性愛関係にあるのではという説に対し、ドイルの性格に触れてこんなことを書いているのだ。

(註:ドイルは)どうしようもないくらいカチカチのモラリストでクリスチャンで愛国者であって、自分の小説の登場人物にそのような性癖を持たせることなど絶対にありえない人物であった。(『トンデモ美少年の世界』 光文社文庫 1997)

 ドイルはカチカチのモラリストでクリスチャンで愛国者だったはずなのだが、今回の記事では、頑迷なカトリック教会とそのガチガチの信者たちに不満を持っていたということになっている。これまた「付箋方式」の自己矛盾ではないのか。
 そして、今回の記事は、こう結ばれる。

 その証拠に、ドイルはそのペテン行為に、大きく、犯人は自分だというある“サイン”を残してある。
 フランス人であるシャルダン(註:ピルトダウン人事件の犯人と疑われた神父。後に北京原人の化石を発見した)を、ミステリー作家である自分が騙しているというサイン。それはピルトダウン人の骨の材料にオランウータンの骨が使われていたことだ。(註:以下ネタバレ)
オランウータンこそ、ホームズに先駆けて世界初の名探偵という名誉に浴したフランス人の名探偵オーギュスト・デュパンのデビュー作『モルグ街の殺人』(作者はアメリカ人のE・A・ポー)における真犯人(犯猿?)なのである。オランウータンの骨を使うことで、ドイルは世間に対し、これが世間の目をくらますミステリーまがいのトリックですよ、とメッセージを送っていたのではないか。
 とまあ、これは私の頭にポッと浮かんだトンデモ妄想に過ぎない。細かく突き合わせれば年代に合わない部分も幾らもある。とはいえ、こんな妄想が頭にワラワラ湧いてくるほど、このピルトダウン人捏造事件はロマンにあふれた、世界最大の偽造事件なのである。


 ピルトダウン人捏造の肝は、それが「脳の進化」を証明するものだったということだ。つまり類人猿の顎と人類に限りなく近い頭蓋骨を持つ化石を発見したということである。「猿が人になった」というダーウィンの進化論に反対していた人たちも、猿ではなく、人類に限りなく近い脳を持つ「ピルトダウン人」が人類の直接の先祖であるということに納得したのだ。だから、ここで顎の骨は類人猿のものでなければならない(顎までが人類に近いものなら、それはただの人類の骨になってしまうからね)。つまり、ポーに対するオマージュで、オランウータンを持ってきたのではないのだ。
 ところで、唐沢のいう「細かく突き合わせれば年代に合わない部分も幾らもある」とはどの部分のことなのだろうか。ほんとうに「幾らもある」のだとしたら、そんな妄想など書いていないで、きちんと検証した結果を書きなさいと申し上げたい。


現在地:トップページ机上の彷徨