ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

             官能博覧会!!(2009/10/14)



              唐沢俊一漫画原作作法


               官能

 こんな本があったのだな。睦月影郎のまえがきから推すに、どうやらパソコン通信の同士が集った「官能倶楽部」という集団があったようだ(現在この名前で検索しても風俗店しかヒットしない)、主たるメンバーは、睦月以下、藍川京、安達瑶、館淳一、下関マグロといったような面々だが、そこに唐沢俊一とソルボンヌK子が「レディスコミック」というジャンルの作家として参加していた。
 本書でも丸々一章、「トンデモレディスコミック実作編」というタイトルで執筆している。その中の『恐怖のおりたたみ夫』という自作の解説文の一部を引用しよう。

 …フツーのレディース作家だったら、ヘンな話でもまずここまでくらいなのだが、われわれ夫婦が描くとこんなもんでは収まらない。そのうち亭主は事故で背骨をくだき、全身マヒになってしまう。しかも、背骨の傷が原因でカルシウム代謝異常になり、全身がナメクジみたいにグニョグニョになる(ここらは昔、本で読んだ実際にある奇病のデータを使った)。女房は夫を“おりたたんで”バスケットケースの中に入れて持ち歩き、男との情事を盗み見させる。その浮気相手の一人で妻を脅迫する男を、バスケットケースの中から出てきた夫が、じゅうたんのようにくるみこみ、窒息させてしまう。
 映画『バスケットケース』と、水木しげるのマンガに出てきた「おりたたみ入道」というのも合わせて考えた。


 おいおい。
 また無防備に物凄いことを書くなあ。
 まず、

 ここらは昔、本で読んだ実際にある奇病のデータを使った

 実際の難病の症状をエロマンガの主題に使ったというのだ。到底許されることではない。架空の奇病だって気持ちのいいものではないのに、データを使ったとあるからには実在する患者の状態をそのままホラーのネタにしちまったてことだ。今だったら、大問題になっている。しかも、レディスコミックだったら、参考文献なんか記載しなかったろうから、メインのアイデア自体盗用ということになる(著作権侵害にはあたらないが)。いけしゃあしゃあと手柄話みたいに書くとは。
 さらに、

 映画『バスケットケース』と、水木しげるのマンガに出てきた「おりたたみ入道」というのも合わせて考えた

 正直に書いているけれど、これだって、コミック初出のときは、言及されていなかったのだろうから、読者はまんまとパクリを読まされたことになる。
 『バスケットケース』は、フランク・へネンロッターの怪作だが、バスケットケースに怪物(人間だが)を入れて運ぶというメインのアイデアがマルパクリ。また折り畳み入道も水木しげるの創作妖怪だから、名前の一部とはいえ、無断で使用するのはいかがなものか。それに、じゅうたんのようにくるみこみ、窒息させてしまうというのは同じく水木の一反木綿からのいただきではないか。
 コミック原作者の時代から、こうしたパクリを堂々とやっていたのだなあ。

 『官能博覧会!!』 官能倶楽部[編] 朝日ソノラマ 1997

 なお本書は1998年 幻冬舎アウトロー文庫から再刊されている。


         小説は電車で読もう(2009/10/12)



          悪しき権威主義ってナーニ?


            電車

 9月24日の唐沢俊一検証blogのコメント欄におれはこんなことを書き込んだ。

 唐沢俊一は大いなる勘違いをしているのでしょうね。自分の立場、もっと言ってしまえば「分際」というものを全く勘違いしている。今回のお話だって、手塚治虫や植草甚一が書いたのであれば(パクリは問題外ですが)、全く問題はないのです。それは一流のアーティスト、一流のエッセイストの達人芸として読めるからです。(引用は前半部分のみ)

 そうしたら、SerpentiNagaという方が、こう返してきた。

 横からごめんなさい。
>藤岡先生
現在唐沢俊一に代表される「サブカル畑のインチキおじさん」の系譜を辿ってゆくと植草甚一にぶち当たるのですが。
各務三郎による植草甚一批判をご存じないですか(<EQ>誌1979年3月号「独断と偏見」)。まるで時を超えて唐沢を批判しているかのような面白いエッセイです。各務は植草の『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』をとりあげて、こう語っています。
「これほど独断と偏見にみちた本も珍しい。さらにミステリー専門出版社から刊行されたにもかかわらず、それを指摘する編集者がいなかった事実にショックを受ける(書評以外はミステリー雑誌に連載されたものだから、まずその時点で編集者のチェックがあってしかるべきだった)。」
(太字は引用者)

 不愉快な文章だなあ。
 こうした馬鹿に共通するのは、常識以前の罵詈讒謗(「サブカル畑のインチキおじさん」)を書きながら、本人に無礼な文章を綴っているのだという自覚がないことだ。形式だけ礼に法っているように見えるなら、なにを書いても許されると思っているのだろうか。今から30年以上前の雑誌の記事に書かれた文章を、唯一の根拠として、植草甚一を「サブカル畑のインチキおじさん」を貶める馬鹿さ加減には呆れてしまう。
 いいですか。例えば、「今から30年前に出た××という雑誌に、手塚治はパクリやろうだという記事が乗ってましたよ」なんて得意げに披露して、「現在唐沢俊一に代表される「盗作野郎」の系譜を辿ってゆくと手塚治虫にぶち当たるのですが」なんて書くことが如何に恥ずかしいことか分からないということだ。本当に唐沢並みの出来の人間としか言い様がない。
 その旨コメントを返したが、ウンともスーとも言ってこない。そうしたら、自分のblogに欠席裁判みたいな返答を書いていた。こう書くと「お前だって都合が悪くなると自分のサイトに逃げるじゃないか」とはしゃぐ輩もいるが、おれは続きは自分のサイトに書くと宣言だけはしているよ。で、この馬鹿の言い分は、

 「この作品に日本推理作家協会賞を与えた審査員の目が、全員節穴だとも思えない」――「朝日新聞の書評委員ともあろう人が読まずに書評を書くとは思えない」、「博報堂の敏腕CMディレクターにして奇想ミステリの名手が唐沢俊一ごときに騙されたはずはない」。……悪しき権威主義の押しつけその一。

 なにが悪しき権威主義なのか? 博報堂の敏腕CMディレクターにして奇想ミステリの名手が権威主義なのですか。無礼にそういい切るところから推して、この馬鹿は「能無しの三流会社員にしてワナビ」ってことなのかね(文脈からしてそうとしかとれないが)。
 30年という時間がありながら、己はなにもせずに、各務三郎という悪しき権威主義(言葉の綾です。そう思っているわけではありません)の言葉をもとに、植草を貶める。kensyouhanさんが一年間に、どれだけ唐沢著作に当たり検証し、P&Gの事実を指摘してきたかを考えたら、古雑誌のコピペしか能のないこやつは。
 さて、上のblogのコメント欄できっちり反論させていただきましたが、梨の礫。一週間以上更新もありません。
 反論されるとビビるのも、mailinglistや大阪府職員の馬鹿女に共通するところでしょう。

 それから、おれは、馬鹿を馬鹿呼ばわりすることには躊躇しない。「えーん、馬鹿って言う方が馬鹿なんだもんね」とベソかきたくなければ、喧嘩なんか売ってこないように。

 さて。植草甚一の『小説は電車で読もう』であります。
 ガブリエル・ガルシア=マルケスの日本語表記、筒井康隆はどのようにしていたかしらと、手許にあった、『みだれ撃ち撃ち瀆書ノート』パラパラやっていて、本書の書評を見つけた。厳密には書評ではなく本書の解説なのだが、これは本書を直ぐにでも読みたくさせる優れものなのだ。早速本書を取り出してきて読んだのだが。
 植草甚一って謙虚な人だなあというのが第一の感想だ。本書の内容は1971年から1973年にかけて東京新聞の『中間小説時評』をまとめたもの。植草氏は日本の中間小説なんか全く読んだことがなかったのに、小説雑誌、単行本を恐るべき量読み下し、読まず嫌いを認めて、池波正太郎、藤原審爾、山田風太郎、川上宗薫、田中小実昌、そして、筒井康隆を独自の価値観(これを独断と偏見と嘲るのは馬鹿の証拠だ)で褒め称える。一見、だらだらと歯切れの悪い印象の文体だが、その批評振りは誠に歯切れよく気持ちいい。気に入った新人がいたら追いかけ、最近名前を聞かないがどうしたのだろうかと心配するかと思えば、そうした新人の中から後の宝石達を掘り出してくる。素晴らしいの一言。
 読みもしない書物を「アフリカという国」なんて言葉で語った(騙ったか)唐沢の書評と読み比べてみるがいい。

 ああ、そうそう。
 SerpentiNagaは、おれに各務の文章を読んでいるのかと訊いてきたが、読んじゃいないよそんな古雑誌の記事。それよりこいつ、『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』を読んで発言してるんだろうね。まさか……

 『小説は電車で読もう』 植草甚一 晶文社 1979


          凍れるルーシー(2009/10/11)



              本当の本物


            ミステリーズ

 鮎川哲也賞の帰道、地下鉄の中で受賞作を読むのが習慣だったが、本年はミステリーズ! 新人賞は該当作なしということで(さすがに酔っているので、鮎川賞の長編を読むのはしんどい)、戴いた『ミステリーズ!』をパラパラやっていたら、なんと梓崎優の新作が載っているのに気がついた。
 梓崎は、昨年のミステリーズ新人賞で、『砂漠を走る船の道』が大絶賛されてデビューした新人だが、過去のエントリにも書いたけど、この受賞作はチェスタトンの短編を思わせる傑作だった。その梓崎の新作が、一年ぶりに読めるということで、期待感はいや増すのであります。
 舞台は、ウクライナに隣接するロシア正教の修道院。そこに安置されている、修道女の“不朽体”(腐敗しない遺体)を、列聖に加える審判に、モスクワから司祭がやってくる。腐敗しない遺体といったら、ルルド大聖堂のベルナデッタ・スビルーのそれを思い出す方も多かろう。有名な話だけど、ベルナデッタの遺体はミイラ化が進み、眼窩、鼻梁が落ち込んだため、現在は蝋のマスクが被せられているということだ。
 短編なのでストーリーは紹介できない。しかし、事件が発生し、それを堂々と描写していながら、読者にそうと気付かせない作者の手腕は素晴らしい。そして、恐ろしい事件より、超自然的なものを匂わせるラストはさらに恐ろしく、上質のホラーにもなっている。
 うーん。凄い才能だなあ。
 一人一人、全く資質は違うが、蒼井上鷹、平山夢明、道尾秀介、恒川光太郎と、優れた短編を発表する作家が登場し、読者としては喜び、作家としては焦りまくる日々で御座います。
 なお、前作も含む短編集『叫びと祈り』が今冬、東京創元社から発売予定であるそうだ。愉しみ。

 


           酒造!(2009/10/08)




 10月3日のmixiの日記にこんなことを書いた。mixiニュースを受けての日記である。

 キムタク・古代進で初の実写版ヤマト発進!   
 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=978672&media_id=42
 
 佐渡先生 ヤマト艦内の医師 ;高島礼子
 
 なんだと! 佐渡酒造先生はどうしたのだ。あの親爺が「敬礼」するから、泣けるんじゃろうが。 「大四畳半大物語」の佐渡魔造もいいけど。


 いくつかコメントをもらったが、佐渡酒造に関するものはゼロ(なんで、いまさらヤマトなんだとか)。あまりにそっけない書き方をしたからだろうか。。

 
 宇宙放射線病が悪化していた沖田十三艦長は、艦長室の窓から、近付きつつある地球を見て、
「地球か……何もかも皆懐かしい」
 という言葉を遺して息絶える。直後に艦長室を訪れた船医佐渡酒造は、一瞬言葉を発しそうになるが、不動の姿勢をとり、沖田艦長の遺体に向かって黙って最敬礼する。
 常に一升瓶を抱え、シリアスな登場人物の中で一人浮いていたこのおっさんが、きりっとした表情で敬礼するから感動的なのだ。おれなんかTV前で思わず涙をにじませてしまった。

 それが、高島礼子かよ。


          著作権・その2(2009/10/07)




 著作権に対する勘違いの一番のものは"登録"に関する誤解だろう。
 知的財産権は大きく分類すると、次の二つになる。すなわち、産業財産権(特許権、実用新案権、商標権)と著作権である。
 このうち産業財産権は、登録しなければ発生しないが、著作権は著作物がアウトプットされた瞬間に発生する。道を歩きながらオリジナルの鼻歌を歌っていたら、その曲の著作権はあなたにあり、財産権はあなたの死後50年保護され、それを譲渡しようが人格権は死ぬまであなたにある。こんな強固な権利がなんの手続きもなく手に入るということが理解できず、あんなもの(稚拙なもの)に著作権などあるはずがない、と思い込んでしまうのではないか。
 特許は出願し、出願後三年以内に審査申請をして審査を受けなければならない。この審査で特に問題なしとされたものが特許査定となり、はじめて登録出来る。通常、出願から二年くらいかかると考えていい。唐沢俊一は「抱き枕」の特許を持っていると日記に書いていたが、特許広報を見る限り、未申請なので、特許を獲得しているわけではない。
 商標権にも厳しい審査がある。「識別力がない」と判断された場合は、商標登録は出来ない。オートバイに「バイク」という商標はつけられない(「あのバイク」と言ってもどの「バイク」か分らないし、この言葉が商標になってしまうと、オートバイを語る際にバイクという言葉が使えなくなる)が、野菜ジュースの商標なら認められる。アップルというCPの商標なんかその典型だ。
 意匠権。これデザインに対する権利だけど、工場で生産される製品に限るのね。イラストレーターが新しいキャラクターを描いたから、意匠登録できないかなんて相談にくることがあるが、大丈夫、そういう物は「著作権」で既に保護されていますよ、と答えることにしている。画家や彫刻家の作品、建築家の作品も同様。同じ建物でも工場で生産されるプレハブなどには意匠権が認められる。これまた申請し、審査に通ってから登録する。
 お分かりだろうか。著作権というのはアウトプットと同時に、著作者のものとなり、著作物に対する権利を守ってくれるのだ。だからといって、それだけで「売れる」わけではない。市場的に価値がないと判断された著作物は巷に溢れている。しかし、それを剽窃することは許されない。


            災厄の紳士(2009/10/07)



             考える時間はいらない

             災厄

 D・M・ディヴァインの新訳『災厄の紳士』が東京創元社から送られてきた。過去の二作、『ウォリス家の殺人』『悪魔はすぐそこに』はかなり面白かったので、期待に胸はふるえたのだが。
 おれは、再三述べているように「読者への挑戦」とか「犯人当て」といったミステリーが大嫌いなんだな。酒に例えるなら、口に含み舌で転がし、そっと呑み込み、その馥郁とした香りと豊かな味わい、そして快い酔い心地を愉しむ、それが酒の愉しみ方だと思うのだ。それを、いちいち、製造元から精米度、米の種類、酵母の種類とチェックして、味の感想をメモしながら呑んだらどうだろう。おれはそんな呑み方なんか御免蒙りたい。どうも、「犯人当て物」ってのは、興が乗ったところでぱたりと本を伏せ、物語世界からいきなり“こちら側”の世界に戻ってきて、何度も読み返しては、不審点をメモして……なんて印象がある。すなわち白ける。
 これじゃあ、酔えないよう。
『災厄の紳士(意味深なタイトルだなあ。現代は“Dead Trouble”)』を読んでいて、一抹の不安を抱いていたのは、つまり「酔いから覚める」ことだった。というのも、『悪魔はすぐそこに』で、ディヴァインの遣り口がなんとなく分かってしまったからなのである。

(ネタバレ ↓)

 本作も多重視点で描かれたミステリなのだ。登場人物、それぞれの視点から(そうでない人物も当然いるが)、物語が語られるとき、当然、この中には犯人の視点で書かれたものも含まれているのだと思いながら、突然、重要な人物なのに、さっぱり心の中を見せてくれない人物に思い当たってしまった。あれ? 今回はそういう手を使う気かな?

(ネタバレ ↑)

 そう思って読み進めていくと、本当にその人物が疑わしくなり、考えまいとしても、その人物の過去の言動を検証している自分に気付く。なおかつ、後半から最後にかけて、複雑な人間関係が明らかになり(このへんは『ウォリス家の殺人』を髣髴とさせる)、いよいよ犯人候補が絞られてくると、うーん、こりゃ考えるなってのは無理だよな。で、やっぱりその人物が犯人だと分かると、あれ? と思ってからラストまでの考える時間が長すぎる(充分すぎる)んだよなあ。
 解説で鳥飼否宇さんがロスマクの『さむけ』と読み比べたらと提案されているが、そうなんだよね。犯人の意外性、赤鰊の泳がせ方、確かにロスマクを思わせるところがある。でも、一番の違いは「考える時間」だろうなあ。ロスマクの場合、考える間もなく、ラストまで一気のジェットコースターに乗せられてしまうんだが、本作の場合、特に乗るまでの時間が長いんだ。
 犯人当てに挑もうという読者なら、甚だ難問だが、面白いと思うだろうが、おれ的には、勿体無いと思えてしまうのだよなあ。

 『災厄の紳士』 D・M・ディヴァイン 中村有希 訳 
     創元ミステリ文庫 2009


          レシピの著作権について(2009/10/07)



 インターネットの書き込みを見る限り、著作権に関して勘違いしている人が余りにも多いので一言言わせていただきます。
 その前に。
 法律は微に入り細を穿って定められているようですが、裁判制度の存在を見れば分かるように、現実にはその法律の解釈で正否が決められるのです。だからこそ、「行列のできる法律相談所」なんてバラエティ番組が成立するのです。だから、ネット等の「著作権」に関する記述を読んで「ここにこう書いてある」と指摘しても、本当に懸案となっているケースに合致するものか(大抵は違います)甚だ怪しいのです。もっとも、昨日の「著作隣接権」に関しては、「著作情報センター」のHPの文言に納得がいかず、電話で問い合わせたわたしに、担当者(著作権相談窓口の担当者)は当初、「多分、こちらのHPが間違っていると思うので、折り返しご返事します」と回答してきました。ところが、一時間ほどたって「わたしも勘違いしていましたが、テープに入れ直すとか、放送、有線放送以外の使用では、著作権は及ばないんだそうです」と正式に答えたのです。ネットの記述がまさに的を射ていた稀有な例だと申せましょう。

 わたしが、再三勘違いという言葉を用いるのは、そうした理由でからで、法律のどこかに「小説には著作権はあるが料理のレシピには著作権はない」とかなんとか書かれていると勘違いしているような方が、しばしば見受けられるからです。例えば、小説や歌のタイトルに著作権はありません。法律にそう書かれているのではなく、そうしたものが「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」として認められないと判断されるからです。「有楽町で会いましょう」とか「横浜たそがれ」とか(古いなあ…)そうしたタイトルの著作権を認めたら、有楽町での待ち合わせに関する記述も、横浜の夕暮れに関する記述も、自由に出来なくなってしまうことを考えれば当然でしょう。確かに、言語の著作物(10条1項1号) 小説、脚本、論文、講演その他。ただし、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」は、著作物に該当しない(10条2項)とも定められてはいますが。
 繰り返し述べていますが、こうした著作権は言語の著作物に対しての権利です。つまり、文章そのものです。その文章にオリジナリティがあれば、当然、言語の著作物と認められます。「行列のできる法律相談所」で料理のレシピにも著作権はあるとした(但し少数派)住田弁護士も、そう説明していますが、この説明も誤解されかねないものだと思います。
 料理にオリジナリティがあれば、それを説明する文章にも当然オリジナリティがあるだろうから、言語の著作物として認められる
 ということであって、再三指摘しているように、料理そのもののオリジナリティ=アイデアに著作権があるわけではありません(岡田斗司夫が勘違いしているのはこの点です。まあ、この人は、さらに料理の「特許」なんて、輪をかけたような勘違いを披露していますが)。わたしが、以前のエントリで、例に示した「春の生野菜サラダのすき焼きドレッシング」というレシピには、つまりそうしたオリジナリティを表しているのです。これが「肉ジャガ」とか「鯵の塩焼き」なんてレシピなら、誰が書いても同じようなものになり、当然ながら、言語の著作物とは認められません。

 情けない話ですが、広告のキャッチ・コピーも(それが一世を風靡したものであれ、広告賞を総なめにしたものであれ)言語の著作物として認められない場合がほとんどなのです。
 反対に、如何に稚拙な文章であろうとも、それが小説であるなら、他人の著作物の切り貼りでない限りは、内容に関係なく言語の著作物とされ、著作権が認められます(小学生が書いたものだっていいのです)。
 


           お詫びと訂正(2009/10/06)



 
 唐沢俊一のファンであるという方の、memorandumというblogの中で、わたしが6月18日に書いた文書に関しての意見が書かれていた。ツタヤで買ってきたCDを、CD会社や演奏者に断わりもなく有料イベントに使うのは、著作権(著作隣接権)に違反するというわたしの主張に対し、「実演家とレコード製作者には、著作者のような演奏権は与えられていないのです。したがって、CDを用いて音楽を流す場合には著作隣接権は及ばないということになります」という、著作権情報センターのHPのコピーを示して反論してきたのである。
 事実関係を調べ直して、わたしの主張が誤りだったことが分かった。本人のblogに直接コメントしたかったが、はてなユーザーでないために書き込めないので、ここに書く。
 以下、わたしの過去のエントリ(打ち消してあります)、並びに謝罪文である。
 

 何度も何度も同じことを書くのには、飽き飽きしてしまうけど、そうまでしても未だに犯罪を繰り返す奴がいるのだから呆れてしまう。 唐沢俊一の後出し裏モノ日記にこんな記述がある。 ここで大ポカ露呈、家から持ってくるはずの『威風堂々』のCDと開封用ハサミを忘れてきてしまった。家に電話して、オノにとってきてもらおうとするが、母が私の部屋の鍵を以前無くしたままであることがわかりダメ。マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする。 頼光くんは、やはりリハには来られない模様。 まあ、これくらいの緊張感あった方がみんなひきしまるかも。 自分のポカで忘れ物をして、その穴埋めに取巻きをパシリに使う。なにが「緊張感」だろ。緊張感が欠けてるから、そんなミスをするんだろうに。「この馬鹿禿野郎」と周囲の連中は殺意にも似た感情を抱いているんだろうな。盗作問題、バーバラ問題で、散々「と学会」にも迷惑をかけているってのに。 いや、問題はそこではない。 マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする 当然ながら、そのCDの使用許可は取っているんだろうね。『威風堂々』は作曲者エドワード・エルガーの著作権こそ消失しているが、CD制作会社に使用許可を得ること、演奏者等の著作隣接権をクリアすることなしに使用したら、知的財産権侵害で有罪になる。大の大人が、有料のイベントを開催しながら、未だにこうした犯罪を繰り返している。自己の著作を持つ人間が、ここまで杜撰な態度をとることは信じ難い。 「仕事術」なる本を上梓されるらしいが、ビジネスの基本には遵法精神も含まれる。いや、ひょっとしてパクリビジネスの解説書なのか知らん。

 上に書きました「著作隣接権」の解釈は、あやまりです。テープ起こし等の作業、放送、有線放送以外に使用する二次使用に関しては、演奏家、レコード制作者には著作権は及びません。
 したがって、このような使用法に関しては、唐沢俊一氏にはなんの落ち度もなく、無礼な文言を用いて誹謗してしまったことをお詫びいたします。


 なお、上記blogに書かれている、「レシピの著作権」に関しては、主宰者の勘違いなので、もう一度勉強し直すことをお勧めします。


             象は忘れない(2009/10/05)



 唐沢俊一検証blogの9月24日のコメント欄に、こんなことを書き込んだ人がいた。

 現在唐沢俊一に代表される「サブカル畑のインチキおじさん」の系譜を辿ってゆくと植草甚一にぶち当たるのですが。
各務三郎による植草甚一批判をご存じないですか(<EQ>誌1979年3月号「独断と偏見」)。まるで時を超えて唐沢を批判しているかのような面白いエッセイです。各務は植草の『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』をとりあげて、こう語っています。
「これほど独断と偏見にみちた本も珍しい。さらにミステリー専門出版社から刊行されたにもかかわらず、それを指摘する編集者がいなかった事実にショックを受ける(書評以外はミステリー雑誌に連載されたものだから、まずその時点で編集者のチェックがあってしかるべきだった)。」


 これに対してわたしは、こう返した。

  死後何年もたってから、植草甚一の一般的な評価が変わっていった事実は知っています。それを「サブカル畑のインチキおじさん」と総括するのは、あなたの勝手ですが、少なくともその“系譜”の上に唐沢俊一がいないことは確かだと思います。唐沢はただの「インチキおじさん」であって、「サブカル」は勝手に標榜しているからです。
 各務氏の悪意のある批判を一方的に受け入れるつもりはありません。『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』はリアルタイムで読んでいますし、なによりこの作品に日本推理作家協会賞を与えた審査員の目が、全員節穴だとも思えないからです。それに、わたしの新作『七つ星の首斬人』が収録された東京創元社の叢書「クライムクラブ」は植草氏が創設したものですから。
 なにかあなたのご意見は、どさkyさに紛れて、唐沢という馬鹿を植草氏に重ねて、植草氏を貶めようとしているだけにしか見えないんですが、如何に。


 これに対する返答は、自己のblogSerpentiNagaの蛇行記録で昨日書かれたのだが、引用は面倒なのでリンク先を見ていただきたい。なんかわたしがCMディレクターであるとかミステリ作家であることが、悪しき権威主義の根源かのようにも読めるんだが、そんなことは本質ではない。この人は、今から30年前に各務三郎が、EQに書いたエッセイを根拠に、植草甚一を「サブカル畑のインチキおじさん」と決め付けている。この人がkensyouhanさんなみに、植草の著作を検証して、ガセ、パクリを数多く発見したなら、植草を糾弾するのもいいだろう(権利はあるからね)。しかし、30年前の雑誌記事の受け売りで、「サブカル畑のインチキおじさん」呼ばわりするのは酷すぎないか。
 その根拠というのが、

  ・スティーヴン・マーカス編のハメット短編集『コンティネンタル・オプ』を読まずに、ニューズウィーク紙の『コンティネンタル・オプ』に関する書評を尤もらしく(しかも意味をとり違えて)紹介。
 ・文章を読んでいても、どこまでが他人の意見の引き写しでどこからが著者自身の意見なのか判然としない。やっとオリジナルの意見らしき箇所に逢着したとわかるのは、そこが<独断と偏見>まみれだから。
 ・クリスティーについて述べたくだり。晩年の諸作品における、駄洒落や楽屋落ちや冗長な会話や平凡な謎に今更のように無邪気に感心しているあたり、もしやそれまでクリスティーを読んだことがなかったのではないか?
 ・クリスティーが表題として使った”Elephant Can Remember”(『象は忘れない』)はエセル・ライナ・ホワイトのサスペンス”Elephant don't Forget”(一九三七年刊)が元ネタだと断定。ホワイトの作品の正しいタイトルは”An Elephant Never Forgets”だし、そもそも<象は忘れない>というのはあちらの慣用句なのだが。
 ・「オール・ザ・キングズメン」がマザーグースの「ハンプティ・ダンプティ」からの引用句であることに気づいていない。


 以上の5点(雑誌の記事だから、そのくらいのものだろう)。しかし、二つ目の<独断と偏見>まみれというのはガセでもパクリでもないし、三つ目のもしやそれまでクリスティーを読んだことがなかったのではないか?というのは単なる類推に過ぎない。そして、”Elephant Can Remember”に関しては、こんな事実が報告されているのだ。
 数藤康雄、クリスティー三昧の日々」の中の「第六回 1972年8月10日」という記事である。引用する。
 http://www.hayakawa-online.co.jp/christie/sudou/sudou06.html

 昨年出版された坪内祐三氏の『一九七二』(文藝春秋)によれば、1972年という年は、1964年に始まった高度成長期の大きな文化変動が終わった年と規定されている。つまり1972年こそは、一つの時代の「はじまりのおわり」であり「おわりのはじまり」で、その年に起きた主な出来事として、連合赤軍浅間山荘事件や沖縄返還、「ぴあ」の創刊、海外旅行者百万人突破などが挙げられている。

 そうか、浅間山荘事件はこの年に起きたのか、と記憶を新たにした私だが、実をいえば1972年は私の人生にとって忘れ難い年なのである。初めての海外旅行でイギリスに行き(私も海外旅行者百万人突破に貢献したわけだが)、標題の日にクリスティーの別荘グリーンウェイ・ハウスに一泊して、クリスティーとも直に話すことができたからだ。

 しかしクリスティー会見記を書き出すと、それこそ長い話になってしまう。ここでは質問とその回答を一つだけ披露することで勘弁してもらうが、その質問とは、出版予定の新作について聞いたこと。クリスティーの答えは、私の耳には題名は"Elephant Never Forget"と、そして内容は「??★!◎※∴§」と聞こえた。つまり我が貧弱なヒヤリング力では、かろうじて題名が聞き取れただけなのだが、その後出版された新作の原題は"Elephants Can Remember"となっていた。クリスティーの勘違いか(マサカ!)、私の聞き間違いか(当然!!)と思ったが、真相は、どうやら1937年にE・L・ホワイトが"Elephant Never Forgets"という本を同じコリンズ社から出版しているので、最終的に原題を変更したということらしい。
 その『象は忘れない』を新版で久しぶりに読んだ。「父親が母親を殺したのか、母親が父親を殺したのか?」という奇妙な謎の設定には興奮するが、読書中にクリスティーをつい思い出して、読書が中断しがちになるのには困った。象ほどの記憶力はないものの、あの日の記憶は今なお私の脳に完璧に焼き付いているからであろう。

 ところで単なるファンに過ぎない人間が本当にクリスティーに会えたのか、素朴な疑問を持つ人もいよう。無理もないことである。そこで証拠品というわけで、帰り際にもらった本のサインを公開しておく。よく見れば"To Yasuo Suto from Agatha Christie Aug 11th 1972"と読めるはずだ。新版クリスティー文庫の表紙にあるクリスティーの署名と見比べてほしい。ほら、アリバイ成立!?

 数藤康雄(すどう・やすお) 昭和16年生まれ。ミステリ評論家。アガサ・クリスティ・ファンクラブ主宰。


 註;正確には各務が指摘している通り、"An Elephant Never Forgets"である。

 つまり、クリスティは"An Elephant Never Forgets"というE・l・ホワイトと同じタイトルにする予定だったのだ。それが、その後、"Elephants Can Remember"に変更になったのだから、植草が罵られるほどの話ではない。つまり、論われた5点のうちの3点は難癖のようなものだ。こんな杜撰な検証を有難がって、30年間金科玉条のように奉っていたのだとしたら呆れるしかない。
 これを以って、「サブカル畑のインチキおじさん」呼ばわりされる植草甚一は気の毒としかいいようがない。


               馬鹿との議論(2009/10/05)



 馬鹿と議論してはならない。傍から見ている人にはどちらが馬鹿なのか分からないからだ、

 今まで酷い奴は沢山いたけど、blogのコメント欄にコメントを入れるなと宣言し、自分は反論を書き続けるという卑怯なやり方はこのmailinglistくらいのものだろう。何度も書くけど、コメント欄に来られるのが怖いのなら、blogなんか止めてしまいな。
 しかし、冒頭に書いた通り、無知な野次馬たちはmailinglistのコピペやwikipediaのにわか知識で「著作権」を語り、おれのことを無知だと決め付けようとしている。困ったもんだ。wikipediaで著作権問題を四の五の言えるなら、弁護士も弁理士も知的財産管理技能士も必要ないだろう。
 著作者人格権は譲渡することは出来ないし、著作者の死去に伴い消滅し、相続することも出来ない。しかし、「著作者が生きていたら、著作物をそんな扱い方をされることは望まなかったろう」という考えが正統と看做された場合は効力を発揮する。
 ここで問題です。
 夏目金之助(漱石)の著作物は、既に著作財産権も著作者人格権も消滅している。そこに目をつけて『あたしは猫女』という小説をコピペをもとに作成したとする。捨てられていた若い女を拾ってきて愛人にするという話だが、体裁はほとんど『吾輩は猫である』と同じものだ。
 この本の出版の差し止めの訴えは、第三者にも出来るのか。それが認められる可能性はあるのか。
 おれが言っているのはこうした問題に関してなんでね。
 wikipediaのコピーを嬉々として貼り付けて「藤岡も無知だ」「謝罪の必要はありません」なんて書いている連中を相手にしている(一から教育しなおさなければならないんだから)暇はないよ。


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