新春なので病棟では入院患者さん達が駅伝を観ている。
駅伝は残酷なスポーツだと思う。またその残酷さがいかにも日本的なスポーツだと思う。チームの命運を一人に背負わせて走らせるのに、周囲がするのは声援ばかり。実のある援助がないので、選手は孤軍奮闘を強いられる。一人が下手をうつとチームごとリタイヤすることになるから冒険的な戦略も取れない。堅実に、まじめに、耐えて走ることが美徳とされる。失速した選手は落伍者扱いである。彼らのことを語る報道の上から目線ぶりは観ていて痛い。痛くてこの数年ほど駅伝はまともに観られない。
昔はスポーツって一般にそんなものなんだろうとしか思わなかったが(だから体育会系って付き合ってられないんだよねとも思っていたが)、自転車のロードレースを見始めると、こんな考え方をする種目もあったのかと瞠目した。ロードレースではチームが一体となってエースを勝たせようと協力する。エースの前を走って風よけになり、飲み物や食べ物を運び、寒いときの上着を運び、万が一にも接触事故などでエースがこけないように周囲をかためて保護し、云々。チームの命運のかかったエースならみんなで勝たせようじゃないかと、合理的かつプラグマチックなチームプレーが行われる。
まあ昨年のツールでのアスタナみたいな例外はあるかもしれんが、一般的にはそういうものだ。たとえばレースの序盤でエースの風よけのために前を走り続けて体力を使い果たした選手が後にリタイアしても、それは単に彼が自分の責任をはたしたということにすぎず、彼が未熟だとかいう話にはならない。彼がアシストしたエースが最終的に勝利すれば、その栄誉はアシストした選手にも共有される。リタイアしたからと言って彼に後ろ指をさそうという発想は観るがわにもない。
であればこそ、戦略として序盤にあえて先走って「逃げ集団」を形成するという戦略も取り得る。実力を考えればゴールまでのどこかでメイン集団に追いつかれ追い抜かれることは確実な、いっけん無謀な独走であっても、彼がそうして独走することでチームの戦略にも寄与することができる(らしい。いまひとつ、逃げがチームに具体的にどう寄与するのか私にはピンと来ないのですみません)。少なくとも逃げ集団はテレビ中継によく映るのでスポンサーは大喜びするし、逃げた彼らが最終的にメイン集団に追い抜かれ、力尽き果ててリタイアしたところで、チームが負けることにはならない。
そういう駅伝と自転車ロードレースの精神風土の違いが、そのまま、彼我の風土の違いにもなっているような気がする。先走りも異端も許されず、かといって実質的な応援もあるわけではない孤軍奮闘を強いられ、失速やリタイアはそのまま周辺を巻き込んでの破滅となり二度と浮かび上がれない日本。向こうではどうなのか日本を出たことがない私にはよく分からないけれど、日本で駅伝が精神性の塊みたいに称揚されるのと同じようなありかたで、自転車ロードレースの精神が社会の精神のあり方を象徴しているのだとしたら、向こうでは才覚ある個人の独走をあたたかく見守る雰囲気があるんだろうと思う。その独走が最終的に潰えても、次のレースではまた走ることが許されるんだろうと思う。エース級の人の奮闘にはチームが惜しみなくアシストする雰囲気があるんだろうし、アシストの人たちも自己の犠牲をそれほど自己憐憫することはないんだろうと思う。そうしてアシストされて勝つエースもいたずらに高ぶったり卑下したりすることなく、シンプルに勝利を喜びアシストに感謝するんだろうと思う。行ったこともない社会を理想化しすぎだろうか。
さいきん日本の男子マラソンが世界の水準に追いついていかないのは駅伝という競技が悪いんだとは聞いたことがある。どんどんスピード重視になっていく世界の潮流のなかでは、確実さを極端に重視する駅伝の選手育成方法では世界で勝てる選手は育たないんだそうだ。それは陸上競技に限ったことか?と問うてみたい気はする。