2010-01-02 今年の目標:安らかに生きる or 安らかに死ぬ
個人的に「天皇はいらない!」と思う理由
いきなり剣呑な言葉だけれども、これ、はてな左翼の牙城になっているはてなハイクのキーワードである。まあハイクが政治と無縁でいられる理由なんかないので。
さて、先日このキーワードに寄せた文章を改稿して載せてみる。
小学校高学年〜中学の頃、ぼくは古墳時代専門の考古学者を志していた。そのころから何事も徹底する性格だったので、週末になると数キロ離れた福岡市の埋蔵文化財センターまで自転車を飛ばしては発掘調査報告書を読みふけり、土器の編年基準がどうたらなんていう知識をひたすら頭に詰め込んでいた(当時は『古墳マニア』として知られており、まさかアニオタに変貌するとは誰も思っていなかっただろう)。
で、そうやっているうち、明らかに考古学上重要そうな墳墓に限って宮内庁により天皇陵や陵墓参考地(天皇家の陵墓の可能性が考えられるもの)に指定され、発掘はおろか立ち入りすら禁止されているという現状を知る。たとえば中一の夏休み、休部状態だったのをぼくの主導で再建した歴史研究同好会は宮崎の西都原古墳群*1まで出かけたのだけれども、古墳群どころか九州で最大規模の前方後円墳である男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)は陵墓参考地に指定されており、柵で囲われていて近づくこともできないわけだ。
正直ウザい。
もうひとつ。ぼくが小6だった1991年、奈良県橿原市の見瀬丸山古墳という300メートル超(全国第6位)の前方後円墳の後円部で、地元の子供が石室の入り口を見つけ、その父親が中に入って石棺の写真を撮ったという出来事があった。この石室は古くから知られており、江戸時代末の天皇陵比定作業では7世紀後半に在位していた天武・持統天皇の合葬陵とされていたのだが、その後鎌倉時代の史料が見つかったことで別の墳墓が天武・持統陵と判明。明治に入り、後円部の一部だけが宮内庁によって陵墓参考地に指定され、石室も忘れ去られる。何故後円部だけが? というと、「丸山」という名前が示すとおり前方部などはすでに田畑に利用されてしまっていて、古くから円墳と認識されていたためである。
さて、問題の石室の入り口は宮内庁が囲った柵の外側にあった。発見者の父親が撮った、全長28.4メートルという古墳時代最大規模の横穴式石室の奥に2つの石棺が置かれている様子が当時のニュースステーションなどで流れ、一躍話題となる。実はこの古墳、学者の間では天武・持統天皇より100年ほど前の欽明天皇、およびその后である堅塩媛(聖徳太子の父・用明天皇の父母)の墳墓という説が有力とされていたのだ。
欽明天皇陵というのは別に存在するのだけれども、なにしろ考古学的な知見も乏しかった江戸〜明治期に古い文献を引っ張り出して無理矢理当てはめた作業の結果なので怪しげなものが多い(神武天皇陵やヤマトタケル陵だって存在するくらいだ)。そもそも全長140メートル程度の欽明天皇陵よりもはるかに巨大な見瀬丸山古墳のほうがよほどそれらしいのに、ただの参考地扱いなのもアレだ。ともあれ、はじめて天皇陵の石室を直に見られたということで、世間や考古学界は大いに沸き立ったのである。
しかし、宮内庁は即座に入り口を立ち入り禁止にして、程なく石室の入り口を封鎖してしまう。その際、マスコミに対しては入り口付近から、はるか30メートル近く先の石棺のビデオ撮影のみを許可。石室の入り口部分はもちろん、新たな柵によって囲われた。
この宮内庁の秘密主義は、「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と威厳を保持しなければならない」という理由によるもの。現に天皇陵へ行くと鳥居や玉砂利が置かれている。しかし、そんなことのためにこの国の成り立ちの超重要資料に対して一切手が出せないというのが、本邦の歴史学・考古学にどれほどの損失を与えていることか。
正直超ウザい。
これらのことが、「天皇家いらねえ! どっかいけ!」の個人的な原点だった。その思いは今も変わらない。連中を平民に堕とし、遺跡を遺跡と認めず調査もさせないような特権を引っぺがしてしまいたい。在日皇族特権を許さない、とでも言おうか。
だいたい怪しげな天皇陵比定の経緯から言って、皇室祭祀などというものも誰を相手に行っているのか知れたものではないのだ。すでに挙げた神武天皇陵もそうだが、もっとひどい例がある。平安初期に在位した平城天皇の陵墓は、その名のとおり平城京の北側にある巨大な円墳……なのだが、なんとこれ、彼の御代よりも数百年前の古墳時代(5世紀前半)に築かれた前方後円墳の前方部が平城京造営の際に削られた残りの後円部であることが、平城京発掘調査の際に判明してしまった。
当然、どういうこったオイという話になる。大昔の前方後円墳を壊したうえに、そこに改めて葬ったとでもいうのだろうか? しかし宮内庁が比定を改めることはなかった。過去に天皇陵比定を変更したのは、天武・持統陵のただ一例のみ。何故そこまで頑ななのかと考えるに、戦前において現人神たる万世一系の天皇に絶対的な権威を持たせようとしたことの名残、としか思えない。発掘の成果程度でコロコロと陵墓指定を変えていれば権威が揺らぐし、そもそも遺跡として発掘させること自体が差し障りがあるということだろう。いやはや、こういうものをこそ前時代的と言うのではないか。
それにしても、これほど怪しげなものを「祭祀が続いている」ことを理由に一切の調査を禁ずるというのは、ある意味皇室さえバカにされているようなものだろう。どうせなら、正しく祖先を祀りたいのではないかな? そうであるなら、発掘調査は奨励されこそすれ、禁じる理由などないはずなのに。
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