きょうの社説 2010年1月1日

◎「地域主権」元年 「首長の時代」迎える覚悟を
 新たな年を機に、ふるさとの「かたち」が大きく変わるかもしれない。民主党マニフェ スト(政権公約)の「1丁目1番地」とされながら、これまでほぼ手付かずだった「地域主権」の取り組みが今年から本格的に動きだすからである。

 地域主権が進めば、自治体に権限と財源が移り、首長の裁量は飛躍的に広がる。地域の 潜在能力を自在に引き出せるようになり、まちづくりの成否によって、地域の活力や納税額に明確な差が出てくる。住みよい地域とそうでない地域が歴然としてくるに違いない。首長の力量次第で、自治体の将来は大きく変わるだろう。

 今年は、2月25日告示の石川県知事選に始まって輪島、珠洲の両市長選、夏の参院選 を挟んで、秋の金沢市長選と続く。政権交代が国政に激震をもたらしたように、首長選挙が地域の浮沈を決定付ける時代がすぐそこまで来ている。首長は地域を背負って立つ一層の覚悟が求められよう。

●野党をしのぐ発言力

 私たちは、かねてから「首長の時代」の到来を論じてきた。自治体が国の下請け機関と して機能し、地方自治など名目にすぎなかった時代なら、どんな凡庸(ぼんよう)な人物でも、無難に首長の務めを果たせた。首長の力量に対する評価も、優れた政策の立案能力などではなく、いかにして国から予算を取ってくるかで決まった。

 政権交代によって、自民党議員の力を借りて、国の予算をもぎ取ってくる「利益誘導型 」の政治システムは、もはや機能しない。石川県、富山県の首長は、昨年末の予算編成で、国と地方のパイプ役を事実上失った心細さが骨身に染みたのではないか。

 地方の声を首長が代弁し、国に物申す場面は、昨年末、子ども手当をめぐる論議でも見 られた。鳩山由紀夫首相が地方に一部負担を求めたのに対し、全国の知事が一斉に反発し、支払い拒否も辞さない態度を示した。「地方負担」の押し付けは、地域主権の確立を目指す民主党政権の理念と違うではないか、という批判である。

 マニフェストを逆手に取って政府に立ち向かう知事の発言力は、もはや野党の有力幹部 をしのぐ。鳩山政権は、野党の批判を知らぬ顔で受け流せても、地方から発せられる声を無視できなくなっている。それは野に下った自民党のだらしなさというより、時代の必然のように思えるのである。

●「主従」から「対等」へ

 民主党が目指す「地域主権国家」とは、明治以来の中央集権国家を抜本的に改め、国と 地方自治体の関係が、上下・主従から対等・協力の関係となる、新しい国の姿である。これまで自民党政権が進めてきた「地方分権」と、似ているようでまったく違う。自民党があくまで中央集権を前提とした発想なのに対し、民主党はマニフェストに「霞が関の解体・再編」をはっきりうたっている。国民に身近な行政は地方に任せ、国は外交・防衛、医療・年金といった国家行政に専念する。地域主権は、民主党が描く国家像の骨格であり、実現すれば、まさに地方に革命的な変化をもたらすはずだ。

 民主党と自民党の違いは、「道州制」に対する考え方にもある。自民党が地方分権を進 めるためには道州制が必要不可欠と考えているのに対し、民主党はマニフェストでも道州制に触れていない。私たちは、これまで道州制を「非現実的」と批判してきたが、民主党も同じように、道州制は地域主権のむしろ阻害要因になると考えているのだろう。

 道州制は「区割り」や「州都」の決定が容易ではなく、現行制度に屋上屋を架す非効率 さを内包する。道州制という幻想を追い続ける限り、地方に権限・税源を移譲し、地方の裁量に任せるという核心部分は動かない。道州という「器」ができないうちは、権限や財源を渡しようがないと、中央官僚たちは言うだろう。「現状維持」こそ、彼らの思うツボである。

 民主党が道州制に冷淡なのは、官僚たちの「方便」を知ってのことだ。重要なのは、器 の論議ではなく、県や市町村に着実に権限と税源を移譲していく実行力である。小さな自治体で手に余るなら近隣の自治体と共同で受ければいい。そうしていくうちに、新たな地方の「かたち」は自然と決まっていくのではないか。