[No6]
柳田国男と胞衣(えな)信仰
精霊の王/中沢新一
註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。
これは大田区の郷土博物館にある石棒である。
大田区の教育委員会ではトンチンカンな説明をしているが、
富士眉月弧文化圏に見られるまぎれもない石棒である。
多摩川の近くの上沼部(かみぬまべ)の貝塚から出土した。
ミシャグチは日本の民俗学にとって、いまもなおその草創期と少しも変わることなく、謎にみちたロゼッタ・ストーンであり続けている。
ロゼット・ストーンは、1799年にナポレオン率いるフランス軍によって、エジプトのロゼッタ村で発見された石碑である。その石碑には上段・・・ヒエログラフ(象形文字)、中段・・・デモティック(古代エジプトの民衆文字)、下段・・・古代ギリシャ語の3つの言葉で同じ内容が刻まれている。以後、この石碑をもとに古代エジプトの象形文字に関する研究が進められはいるが、今なお謎が解明できたというわけではなく、中沢新一は「謎にみちたロゼット・ストーン」という言い方をしている。
縄文土器の紋様は、ただ単に装飾が施されているというものではなく、そこに「野生の思考」が表現されている。したがって、それら縄文土器の紋様は、文字というものではないけれど、象形文字的な意味を持っており、その解明が期待されている。中沢新一は、「東北学VOL9」(2003年10月、東北芸術大学東北文化研究センター)のなかで縄文土器が表現する「野生の思考」に関する特別論考を行なっている。さすが中沢新一・・・という・・・目からウロコが落ちるような・・・驚くべきというかきわめて新鮮な識見であり、縄文考古の研究者は是非それをもとに今後の研究を深めていってもらいたいと思う。さて、本論に戻ろう。
藤森栄一氏や今井野菊女史の努力によって、諏訪のミシャグチについては、多くの解明がなされてきた。しかし、その諏訪のミシャグチと、多様な名称をもって列島上に数多く祀られている「シャグジ」とがどのような関係をもっているのか、またそれは猿楽をはじめとする芸能の徒たちがみずからの守護神として重要視してきたあの「宿神」と、いったいどういう糸で結ばれているのか、などということについての理解は、じつは柳田国男が『石神問答』を著した頃から、そんなに進んではいないのである。
役人生活のかたわら、暇を見つけては武蔵野を散歩することを好んだ柳田国男は、そこにあるたくさんの神社に共通する不思議な感覚に、深く惹かれるものを感じていた。こんもりとした森に囲まれてたたずむそれらの神社には、たしかに全国に共通する形をもった社殿が建ち並び、そこには神名帳に記載された名のある神話の神々が祀られている。しかし、柳田国男の鋭い直観は、そうした神道の神々の背後ないしは地下室の部分に、別種の霊威をたたえた神々がいまも生き続けていることを、はっきりととらえていた。
武蔵野の古い神社の境内からは、しばしば縄文時代の遺跡が発掘され、そこからは石棒や石皿や丸石などが、生活の道具とともに発見されていた。そして時々、神社の本殿の脇に置かれた摂社や小祠などに、石棒や石皿が神体として祀られ、シャクジンとかシャグジとかショウグンなどの名前で呼ばれているのである。武蔵野における精神の地層は大きく二つの層でできているのではないか。一つは表面にある神道の神々のつくる層。その下にはまだ名付けようのない「古層」の神々が、おそろしく古めかしい霊威の感覚を発散させながら、目に見えない別の地層を形成しているのだ。
その精神の古層をあきらかにしていく手始めとして、柳田国男は小さな祠の神々の名前に注目することからはじめた。すると驚いたことに、シャクジンとかシャグジとかシュクジンとかショウグンなどの名で呼ばれる神を祀った祠や摂社は、武蔵野ばかりではなく、関東一円、中部地方に広く分布していることが、しだいにはっきりと見えてきたのだった。それどころか、それは播州の坂越(シヤクシ)から壱岐の杓子松や九州北松浦のシャクシ島にいたるまで、列島の全域からも見いだされた。
国家の制度とまったく関係をもたない神として、これほどまで広くこの列島上に分布している神はほかにはない。この神は列島上に国家というものが形成される以前の、古層に属する宗教的思考の痕跡をしめしているものではないか。いままさに民俗学というものを創造しようとしていた柳田国男は、シャグジという神のうちに、国家の思考によってつくりかえられた神道以前の神道の姿を、見通してみたいと考えたのである。
ではそのシャグジとはいかなる神なのか。そこで柳田国男は独特の音韻論的還元の手法を使って、ひとつの仮説にたどりつくのである。シャグジは漢字で書けば、社宮司、石護神、石神、石神井、尺神、赤口神、杓子、三口神、佐久神、左口神、作神、守公神、守宮神のように多様だ。しかし、そこに共通しているのは、どの呼び名にも「シャ」「サ」「ス」などの「サ」行音と「カ」行音の「ク」または「ガ」行音の組み合わせでできているという点だ。
「サ」音は岬、坂、境、崎などのように、地形やものごとの先端部や境界部をあらわす古いことばに頻出する。この「サ」音が「カ」行音と結びつくと、ものごとを塞ぎ、遮る「ソコ」などのことばにあらわされるような「境界性」を表現することばとなる。ようするに、シャグジは空間やものごとの境界にかかわる霊威をあらわすことばであり、神なのではないか。
そこから、芸能の徒の守り神が「宿神」と呼ばれた理由を、柳田国男はつぎのように推論した。芸能者はもともと定住をおこなわなかった人々である。そのために、彼らが村や町に定住しようとしても、住むことができた場所といえば村や町のはずれだったり、坂や断層の近くだったりした。そうした場所はたいがい、境界性をあらわすサカやソコなど「サ+ク」音の結合で呼ばれるところだった。そのために芸能者たちは「ソコ」や「スク」や「シュク」の人々と呼ばれるようになり、彼らの守護神自身も「シュク神」と呼び慣わされるようになったのではないか。
シャグジは境界性の意味をおびた神々である。境界というもののはらむ霊威が、そのような名前で表現されたのである。そして、この境界性を通じて、芸能の徒の神である「宿神」は、全国に広く分布するミシャグチやシャグジとつながっている。シャグジが道祖神などと重なり合った性格をおびているのもそのためで、境界の隙間からわきあがってくる災いや危険を、こちらの世界に入れまいとして境界を塞ぐ「ソコ」の神である道祖神も、もとはといえばシャグジと同じ境界神の一種だからなのである、と。
しかし、柳田国男自身このような仮説が、シャグジのすべてを説明できるとは思っていなかった。この仮説に大いなる不安の影を投げかけている一つの有力な実例のあることを、彼はよく知っていたからである。それはほかでもない、諏訪神社信仰圏におけるミシャグチの存在である。彼は日本民俗学の草創期を三十年後に回顧しながら、『石神問答』の再版に寄せた序文の中で、こんなことを書いている。
私は実はシャクジは石神の音読であろうという、故山中先生の解説に反対であったばかりに、この様な長たらしい論難往復を重ねたのであったが、その点は先生も強く主張せられたわけでも無く、又あれから信州諏訪社の御左口神(おさくじん)のことが少しずつ判って来て、是は木の神であったことが先ず明かになり、もう此部分だけは決定したと言い得る。しかもどういうわけで社宮司(しやぐし)、社護神(しやごじ)、遮軍神(しやぐんじん)などという様な変った神の名が、弘く中部地方とその隣接地とだけに行われて居るのか、諏訪が根源かという推測は仮に当って居るにしても、其信仰だけが分離して各地に分布して居る理由に至っては、三十年後の今日もまだ少しも釈くことが出来ないのである。
ミシャグチは諏訪信仰の世界では、村はずれの境界に祀られているわけではなく、そこになんらかの差別の感情や思考がまつわりついているわけでもなく、むしろ堂々と人々の暮らしの中心に位置していた神なのである。石と樹木の組み合わせで表現されるミシャグチは、そこをとおって若々しい善なる力が人の世界に降りてくる通路として、たとえ空間的な境界に関係をもつにしても、それは中心にあるものから排除された領域としての境界を意味するのではなく、まさに世界と生命の根源にあるものに触れている境界の皮膜をあらわしている。ミシャグチやシャグジや、もろもろの「サ+ク」音の結合であらわされる霊威を、空間的な境界性で説明しつくすことはできない。空間における境界性は、ミシャグチにとっては、むしろ二次的な意味しか持っていない。
その意味で、ミシャグチはいまだに日本人の精神の深層に踏み込んでいこうとするものにとっての、ロゼッタ・ストーンの意味を失っていない。この神は謎なのだ。そして、この神の謎を解き明かしていくことの中から、私たちは神道というものの本質に近づいていくことができる。神道の神々の世界の地下には、象形文字で書き表された「古層の神々」の世界を伝えるロゼッタ・ストーンが埋められている。私たちが「神道」の名前で知っているのは、ミシャグチのような古層の神々が地下に埋められたり、目に付きにくい脇に取りのけられたりした後につくられた、霊威の表現の合理化された一形態にほかならない。
その不思議な石の解明にまっさきに乗り出したのが、柳田国男であったことを、私たちは忘れない。彼によってはじめて着手された「心の考古学」たるこの民俗学という学問は、いまだ象形文字解読の作業も半ばにして、深刻な危機に瀕している。柳田国男に帰れ。ミシャグチに帰れ。
中沢新一が考える大事な部分をもう一度掲げておこう。『 ミシャグチは諏訪信仰の世界では、村はずれの境界に祀られているわけではなく、そこになんらかの差別の感情や思考がまつわりついているわけでもなく、むしろ堂々と人々の暮らしの中心に位置していた神なのである。』
なお、かって私は、山形県の立石寺(りっしゃくじ)(山寺ともいう)を書いたとき、「山ノ神」について触れておいたが、この「山ノ神」が男根や女陰で表わされることがある。これも中沢新一が言うように、堂々と人びとの暮らしの中心に位置していた神である。縄文信仰に連なるところの男根や女陰をいやらしく眺めてはならない。神聖な気持ちで眺めなければならないのである。中津川の夫婦岩もそうだ。
さて、諏訪を中心としたミシャグチ信仰は、胞衣(えな)信仰とか石棒信仰と言っていいものだが、実は、一つの文化圏を形成していて、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と呼ばれたりしている。多摩川の沿川と相模川の沿川がその範囲に入る。富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の重要な遺跡として・・・長野県富士見町の井戸尻遺跡と山梨県須玉町の津金御所前遺跡があるが、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の特徴として石棒信仰や丸石信仰がある。
上記の石棒は大田区で出土したものだが、世田谷区でも同様の石棒が出土している。 富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と呼ばれているものは、次の通りである。
画面では少々黒くなっているが、まゆげに相当する部分が富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏である。向かってまゆげの左端に諏訪湖があり、その付近を頂点として山形に黒くなっている。片方が天竜川であり、片方が釜無川(かまなし)である。もう一つの山形は、これこそ三日月型になっているが、釜無川と笛吹川(ふえふきがわ)の合流点から多摩川と相模川に黒い部分がのびている。この部分が三日月型であるので、眉月弧(びげつこ)と呼んでいるのであろう。富士川と富士山がおおむね真ん中、すなわち鼻の位置にあるので、富士眉月弧(びげつこ)と呼んでいる。
この富士眉月弧(びげつこ)における実際の遺跡分布は、次の通りである。
この写真も写りが悪くて見にくいが、多摩川流域と相模川流域に遺跡が散らばっているのに注目願いたい。これらは富士眉月弧(びげつこ)文化圏にある。しかし、その中心地はどうも諏訪湖から長野県富士見町と山梨県須玉町にかけての地域らしい。
それでは井戸尻遺跡を訪ねて・・・・、
まずは富士見町に行ってみるとするか。
そうしよう!そうしよう!
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