ここ数回、永住外国人の地方参政権をめぐる問題について与党側の議論を批判的に検討してきた。誤解を避けるために記しておくが、私は外国人の政治的権利を否定しているわけではない。ただ、私としては、①現在の「永住」外国人の地方参政権法案をめぐる議論が在日朝鮮人という存在についての看過しがたい歴史認識を基になされていること、②それが単なる法案を通すための方便に留まらず在日朝鮮人に対する日本政府の施策全般に影響を与える可能性が高く、現に与えていること、③さらに、在日朝鮮人団体や在日朝鮮人をめぐる諸問題について課題に取り組む団体においても、こうした傾向について批判的に検討する視点がそう多く見られないこと、に危機感を抱き、警鐘を鳴らしているのである。
もし、ここで言及した「旧臣民の論理」や「同化の論理」が、参政権反対派の口から出たものならば、そこまでの危機感は抱かなかったと思う。つまり、推進派が植民地支配責任への清算、とまではいかなくても、少なくとも普遍主義的な立場から外国人の政治的権利を要求するのに対し、反対派の側が「旧臣民の論理」「同化の論理」を持ち出してそれを制限しようとする、という構図ならばである。だが、実際には「旧臣民の論理」「同化の論理」を持ち出しているのは推進派の側であり、「外国人住民」という視点からの参政権論に立つ人々も、法案成立のための戦術的要請からこれに異論をさしはさむことを控えているように見える。 また、報道を見る限りでは、「国交のない国(北朝鮮等)の出身の方は参政権付与の対象にしない」という自由党時代の小沢の認識は、民主党の法案に具現化されており、小沢の発言を軽視するべきではない。参政権取得はよりスムーズな帰化への道筋であるとの小沢の言明についても、単なる方便とは見ることができないだろう。私はおそらく近い将来、特別永住者への国籍取得緩和に関連する法案が、地方参政権に対抗するのではない形で提起される可能性が高いのではないと思っているが、現時点で私の推測に留まるのでこれについては再論したい。 ところで、前回は言及しなかったが、私は小沢が自らの参政権についての見解のなかで、日韓関係を英国と「かつて植民地支配した英連邦出身の永住権取得者」との関係になぞらえて自説を補強していることは、なかなか興味深いと思う。たしかに英国はコモンウェルス加盟国の市民及びアイルランド市民について、国政・地方の参政権を承認している。ただ、これは単純な外国人参政権というよりも、「大英帝国」が解体されていく過程で認められるようになったものである。これを日韓関係になぞらえるというのは、実はある重要な歴史的事実を一つ消去しないとできない。 その事実とは何か。問題をわかりやすくするために英国と「英連邦出身の永住権取得者」の参政権という構図を、日本に置き換えてみよう。よく知られているように、1920年以来、日本「内地」に居住する朝鮮人成年男子のうち一定の要件を満たした者には、国政・地方の選挙権・被選挙権があった。衆議院議員選挙法が属地法だったからである。逆に朝鮮には衆議院議員選挙法は施行されなかったので、朝鮮にいる朝鮮人には選挙権・被選挙権は無く、同じく在朝日本人にも無かった。だが、朝鮮のなかでは植民地支配に協力的な層のなかでも、朝鮮に衆議院議員選挙法が施行されていないことへの批判は強かった。実際、実施こそされなかったが戦時期末期には朝鮮からの衆議院議員選出と貴族院議員の植民地枠の創出が日程に上ったこともあった。 ここまで書けば明らかであるが、小沢が差当り消去している歴史的事実とは、日本が連合国に敗北し、朝鮮が独立したという事実である。小沢の参照する英国と「かつて植民地支配した英連邦出身の永住権取得者」との関係、というのは、大日本帝国が存続し、何らかの朝鮮「統治」上の必要から衆議院議員選挙法を施行するか、あるいは朝鮮が大日本帝国の枠内で「自治」の方向へと向っていくなかで、日本「内地」在住の朝鮮人に引続き帝国議会の参政権を承認しているような状態だと考えればよい。小沢のアナロジーは、日本が連合国に敗北し、朝鮮が植民地から独立したという事実を現代の日本国家を規定する決定的な事実として捉えない、できるだけ過小評価するという姿勢が無ければ成り立たない。 こうした小沢の認識を、彼の代名詞たる「普通の国」論になぞらえて、差当り「普通の宗主国」論と呼んでおこう。大日本帝国が敗北した衝撃、それが現在の「日本国」に与えているインパクトをできるだけ少なく見積もり、英国やフランス的な連合国側の「普通の宗主国」であるかのような姿勢で在日朝鮮人に対する参政権を扱う。もちろん、私は英国やフランスがよいと言っているわけではない。その逆である。せっかく大日本帝国は負けたのに、その負けたことの衝撃を逸らすことによって、「勝つ」ことで宗主国たる地位を1945年以後も維持した国々と並ぼうとするその姿勢を、私は批判しているのである。 もちろん、ここで私が「せっかく大日本帝国は負けたのに」、というときの「負けた」は米国に負けたとか、「一時の国策の誤り」とかではなくて、少なくとも19世紀以来の「坂の上の雲」的な近代日本の歩みがまるごと敗れ去ったという意味での「負けた」である。せっかく負けたのにもかかわらず、戦後日本は結局「負けた」ことの重みをより深め、大日本帝国を否定する方向へ進むのではなく、大勢はゆるやかに大日本帝国と戦後日本を接続する方向へと(そこに天皇がいるのであるから容易に可能だ)、そしてそれを自認する「普通の宗主国」論へと行き着いてしまっているのではないか。植民地期に在日朝鮮人に参政権があったことを無批判に現在の外国人参政権論議につなげたり、英国と英連邦の関係になぞらえたりするのも、そうした日本の敗北を「せっかく負けたのに結局こんな国になってしまった」という痛恨の心情として受け止めないような感性だからこそ、可能なのではないか。私はそう思わざるを得ないのである。 そうした痛恨の感覚の欠落は、私は別に小沢に限ったことではないと思う。もとより小沢にそれを期待してもいないが、以前に言及した進藤榮一しかり、「リベラル」といわれる人々においてあまりにもこの感覚は希薄だ(*1)。むしろこうした感覚を欠落していることが、現代の「リベラル」の条件なのかもしれない。 *1 例えばここで開陳されている伊藤真の外国人参政権論は「リベラル」の無感覚の典型であろう。この論説は、そのあからさまな事実誤認と併せて伊藤真という人物の論理的思考力の無さを如実に示していて興味深い。外国人参政権をつぶすための謀略なのではないとすら思わせる奇天烈ぶりである。 by kscykscy | 2009-12-10 22:34
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