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岩波書店、菅直人副総理の本を出版 [2009-12-27 00:00 by kollwitz2000]
天皇政治利用問題と天皇訪韓 [2009-12-22 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中の政治家転身宣言? [2009-12-18 00:00 by kollwitz2000] 第4回口頭弁論期日報告 [2009-12-15 00:00 by kollwitz2000] 『世界』2010年1月号と<佐藤優現象> [2009-12-11 00:00 by kollwitz2000] 民主党が社民党を舐めきっている件 [2009-12-09 00:00 by kollwitz2000] 内閣法制局長官の答弁禁止について [2009-12-07 00:00 by kollwitz2000] 民主党政権支持はアフガン侵略容認 [2009-12-06 00:00 by kollwitz2000] 社民党がいるからこそ民主党の横暴が抑えられている? [2009-12-05 00:00 by kollwitz2000] みんなの党(再版「日本新党」)と大連立 [2009-12-03 00:00 by kollwitz2000] メモ10 [2009-12-01 00:00 by kollwitz2000] ニュース風にタイトルをつけてみたが、岩波書店が、12月18日に、菅直人『大臣 増補版』 を岩波新書の一冊として刊行した。岩波書店ホームページでも大々的に宣伝している。旧版出版時(1998年5月)の菅は野党の政治家であったが、今度は副総理の立場からの出版だ。ジャーナリズムの使命の一つは権力の監視ではないのか、などと言うのも馬鹿馬鹿しく思えるな。もはや感覚が麻痺してしまっているようである。
ところで、「首都圏労働組合特設ブログ」で書いたように、私は、「<佐藤優現象>批判」を発表した後に、会社から、「岩波書店の著者」の批判をするな、と「口頭による厳重注意」処分を受けた。 そして、「岩波書店による私への攻撃② 「鄭大均さんも「岩波書店の著者」」――実質的な退職勧告」で書いたように、会社見解によれば、そこでの「岩波書店の著者」とは、岩波書店から1冊でも本を出版するか、または、『世界』等の岩波書店の雑誌で何回か記事を書いた人物、とのことである。つまり、「岩波書店の著者」が、例えば、新潮社から出した本や「諸君!」「正論」といった雑誌で書いた記事を批判するのも、岩波書店から出た本を批判するのと同じだ、というのである。 それで、困ってしまった。菅が首相になれば、「岩波書店の著者」による政権になるから、菅政権への一切の批判は、「岩波書店の著者」への批判になってしまう。また、会社は、私が今後、同様の批判をやれば、「口頭による厳重処分」以上の重い処分を行なうこともありうる、と言っている。 したがって、上の記事で私が推測したように、会社による上の主張が、外部にバレないと思っていたから、「嫌がらせ」の一環として金を退職させるために圧力をかけた、ということでないならば、私が菅政権批判をやれば、少なくとも岩波書店は私に対して「口頭による厳重注意」処分を下さなければならない。 もちろん、岩波書店の以前の「口頭による厳重注意」処分が、醜悪かつ卑劣な動機から出たものであろうはずがないから、私が菅政権批判をすれば、少なくとも「口頭による厳重注意」処分が下されるはずである。困ったなあ。 『世界』が菅政権批判の文章を掲載したら、編集部員全員に対して少なくとも「口頭による厳重注意」処分が下されることになるはずだが、大丈夫なのか。心配だ。もっとも、『世界』は民主党政権礼賛のスタンスだから、そもそも問題は発生しないのだろう。ものすごい整合性に感心させられる。 C・ダグラス・ラミス、姜尚中、萱野稔人『国家とアイデンティティを問う』(岩波ブックレット、2009年12月4日売。なんちゅうメンツだ)を、姜の事実誤認に笑ったり、萱野が日頃のレイシスト的な主張を封印している姿を不快に思ったりしながら読んでいたら、以下の発言にぶつかった。
「姜 (中略)今後、日本でさらに高齢化が進み、労働力人口の割合がどんどん減少していってしまう以上、外から労働力を入れざるをいえないというのは、暗黙にはほとんど了解ずみのことなのだと思います。 むしろ問題は、僕のような人間が、あしたから日本国籍を取って東京都知事になるというような事態です。僕、みなさんが応援してくれるなら都知事選挙に立候補しますよ。石原さんと一騎討ちしてもいい。そういうふうに僕の名前が東京都知事になるということもありうるわけです。4年後、みなさんさえサポーターになってくれれば、姜尚中という東京都知事が誕生することも当然ありうるわけです。そういうことは当然起こってくるわけです。 萱野 いまのお話、仮定の話とはまったく思えないようなリアリティがあったんですけれど。(笑) ラミス 本気で考えているんじゃないんですか? 姜 いえいえ、そんなことはありません。言ってみただけです。(笑)」(50~51頁、強調は引用者) 今年の9月1日の記事で、「私にはなんとなく、姜は政治家としての道にかなり前向きのように見える」と書いたが(念のためだが、この時点では上記の発言は知らなかった)、やはり姜先生は政治家になろうとしているようだ。 この本は、今年の6月12日に行なわれた鼎談に加筆されたもの(同書、3頁)らしいが、民主党政権の現在では、都知事選まで待たずとも、より簡単に政界進出できるだろう。 同書によれば、まだ国籍は日本国籍ではないらしいが、「国籍は韓国籍でも日本籍でもどちらでもいいと思っています」と書いている(46頁)。でも、既に帰化申請していたら、参議院選までには十分間に合いそうだな。または、韓国国籍のままでも、政府関係の何かの委員になるのは可能かもしれない。国家戦略室(国家戦略局)には入れるのだろうか。 小沢一郎が2010年に日韓「和解」を進めようとしていることは明らかであるから、鳩山内閣が参議院選前につぶれるとして、次の内閣に姜が何らかの形で関与する可能性はかなり高いのではないか。そうなれば、社民党もより従順になるだろうし、仮に連立離脱してもすぐに戻ってくるだろう。9月1日の記事で指摘した、マスコミの全面的支持や左派からの批判のタブー化(これはほぼ完了している)だけではなく、民主党にとっては一石何鳥にもなる。 対『週刊新潮』・佐藤優氏裁判の第4回口頭弁論期日が終わった。東京地裁第536号法廷にて、12月14日10時10分から、約10分間開かれた。被告側は、弁護士2名(岡田宰弁護士・杉本博哉弁護士)が出席していた。
今回は、被告側による、準備書面に基づいた陳述(原告の準備書面への反論)が行なわれた。次回は、原告の再反論と、被告からの追加説明がある。 なお、現在の被告代理人3名に加えて、佐藤氏が自らの代理人を追加したとのことで、新しい論点が提示されるため、次回口頭弁論期日の開催が少し遅れることになった。次回口頭弁論期日は、2月1日(月)13時30分より、東京地裁第709号法廷で開かれる。 被告の反論もようやく本格的なものになってきたので、近いうちに、原告の主張と被告の主張を詳しく紹介し、比較対照できる形でウェブ上に掲載する。 1.
『世界』2010年1月号(特集・韓国併合100年――現代への問い)が発売された。単に掲載記事に異論があるというだけならば、雑誌それ自体まで取り上げる気も起きないのだが、今号はそのレベルにとどまらない特徴を持っていると思うので、いくつかの特徴を簡単に指摘しておく。 これは、言い換えれば、今号の『世界』は<佐藤優現象>との関連から論じるべき特徴が、如実に表れている、ということでもある。とはいえ、今号では佐藤優は登場していないので、よく事情がわからない読者は、「『世界』も佐藤優と手を切って、朝鮮植民地支配や戦後補償を扱うなど、真っ当なジャーナリズムに戻ろうとしているようだ」などと勘違いするだろう。以下、<佐藤優現象>との関連で論じるべき諸特徴を指摘する。 2. まず指摘しておきたいのは、今号の『世界』は、佐藤優起用についての編集部の状況認識と佐藤との共犯関係が、よく表れている号であろう、という点である。 2009年1月号から、「沖縄は未来をどう生きるか」と題して、大田昌秀と佐藤優の対談を連載している。これまで、2009年1月号・2月号・3月号・5月号・6月号・7月号・9月号と、計7回掲載している。 ところが、この連載が、2009年9月号(8月8日発売)を最後に、中断しているのである。 これまでの掲載間隔からして、1号だけの休載ならば、特におかしくもないだろう。だが、既に4号にわたって掲載されていないのである。 しかも、9月号の対談は、佐藤の以下の発言で終わっている。 「現下日本では、沖縄戦を材料にして、国内に敵をつくりだし、憎しみを煽ろうとしている言論人がいます。その点で、政治漫画家の小林よしのりさんの言説を軽視してはならないと思います。このことについて、次回は踏み込んだ意見交換をしたいと思います。」(強調は引用者、以下同じ) 『世界』は、以前述べた佐高信の事例のように、「小林は悪だが佐藤は善という図式」を作り出すために、『世界』で佐藤に小林批判をさせようというのだろう。見え透いた話である。だが、ここまで次回予告をしておきながら、4号の間何もないというのはおかしいではないか。この間、佐藤は相変わらずメディアに登場し続けており、大田も、ネット上で確認する限り、各種のインタビューや講演をこなしている。両者のどちらかが病気で対談できなかった、ということではなさそうである。 では一体、4号にもわたって中断している理由は何なのか。もちろんこれは推測の域を出ないが、私は、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」(以下、共同声明)が10月1日に出されたことの影響があるのではないか、と見ている。『世界』編集部は、共同声明に危機感を覚えた結果、連載を中断している、ということではないか。大田も佐藤も、岡本厚編集長とは関係が深いから、編集長の意向ならば受け入れるだろう。 これは、連載がなくなった、ということを全く意味しない。今号(2010年1月号)には、「読者談話室」のお知らせ欄に、「連載「沖縄は未来をどう生きるか」「民意偽装」「アジア女性交流史・昭和期篇」は今月休載いたします。」とある。したがって、連載自体は生きているのである。 したがって、この中断は、仮に共同声明を意識した結果であるとしても、共同声明が求めているような、「佐藤氏の起用が一体どのような思考からもたらされ、いかなる政治的効果を持ち得るかについて、当該メディアの関係者が見直し」た結果ではない。仮に、「見直し」の結果であれば、少なくとも、上記のような告知はなされていないはずである。したがって、仮に共同声明の影響で中断しているとしても、ほとぼりが冷めたと『世界』編集部が判断すれば、すぐにでも連載を再開するであろう。 なお、4号の休載期間のうち、前号(2009年12月号。11月8日発売)においてのみ、どういうわけか休載のお知らせが告知されていない。前号では、この連載をどのようにするか、スタンスが定まっていなかったのかもしれない。いずれにせよ、今号において、今後も佐藤を使い続ける、という意志を『世界』は改めて表明したわけである。 また、佐藤が一時的に誌面から消えていることは、『世界』(編集部)への佐藤の影響力が減退していることを意味しない。今号では、佐藤優の腰巾着と言うべき青木理の連載が始まっており、前号(2008年12月号)や前々号(2008年11月号)にも、佐藤優と昵懇の東郷和彦が登場している。『世界』編集部の、佐藤の人脈への癒着は、ますます進んでいるように見える。 私は、以前書いた「佐藤優の危機感?」で、佐藤及び『金曜日』編集部が共同声明への危機感から行なったと思われる対応策について触れた上で、以下のように述べた。 「佐藤及び佐藤と結託するリベラル・左派系のメディアが、この共同声明に言及したり反論したりすることは、恐らくないだろう。そんなことをして、この共同声明の存在が読者に直接知られるようになっては困るからである。そして、以前にも説明したように、リベラル・左派系の編集者たちが佐藤の起用を反省し、起用を一切止めるという可能性は極めて低いと見ておいた方がよいだろう。だが、今回の、和田の唐突な登場のように、この共同声明への(一時的な)対応策として、佐藤がリベラル・左派メディアに登場することへの新しい正当化、より狡猾な方策を打ち出してくる可能性は大いにありうる。そうした方策に惑わされないことが重要である。」 今号でも確認された、大田と佐藤の連載対談の不自然な中断は、こうした「方策」の一種なのではないか。 3. 次に、<佐藤優現象>と同義であるリベラル・左派の「国益」論的再編が、今号においては、ほぼ完成の姿を見せていることを指摘しておこう。詳論は省かざるを得ないが、今号では、「朝鮮植民地支配」や「戦後補償」問題が扱われているが、全体的に言えば、民主党を、幹部を中心として過去清算問題に理解のある政治家の多い政党と捉え、民主党政権のうちに過去清算と「和解」を実現させ、「東アジア共同体」建設につなげていこう、といった論調である。無論、当事者相互の個別具体的な「和解」の事例は尊重されるべきであるが、雑誌全体の論調として、朝鮮植民地支配(に基因する件)を含めた歴史認識・戦後補償問題について、大日本帝国との連続性を濃厚に有する日本国家や日本社会を変える契機となるべきものと捉える認識は、ほぼなくなっていると思う。 最も重要なのは、以前に「ここ3年ほどの高橋の迷走振り」と言及したように、高橋哲哉の朝日新聞-民主党ラインの政治的立場への移行が、今号に掲載された「2010年の戦後責任論」でほぼ完了していることである。『戦後責任論』『靖国問題』の高橋とは別人のようだ。高橋は、「東アジア共同体構想」に期待しており、民主党政権に対しても大きな期待を抱いているようだが、例えば、高橋が期待するところの「和解」策が、アフガン派兵と併行して進められた場合(そうなると思うが)、どのような態度をとるのだろうか。 4. また、「佐藤優の言論封殺行為について(原告「準備書面(1)」より)」で詳しく論じたような、佐藤の原論封殺行為を『世界』が容認していることは、『世界』がジャーナリズムとして内的に崩壊していることを示していると思うのだが、同じ傾向の側面として、『世界』が権力批判の立場と公正性を消失してしまっていると思われる点が挙げられる。そのことは、今号において非常に鮮明に示されている。 以前にも引用したが、岡本編集長は、民主党政権について、以下のように手放しに礼賛している。 「自民党政治からの「大転換」である。こうした転換は、政権交代の意味と意義を一か月足らずで誰の目にも明らかにした。これまでの政治から利権と特権に与ってきた人々からは怨嗟の声と抵抗が起き、発想を変えられないメディアは戸惑い、苛立っている。しかし、国民は全体として、この大転換について好感を持ってみているようだ。「予想以上」というのが大方の評価なのではないか。」(『世界』臨時増刊号「大転換 新政権で何が変わるか、何を変えるか」巻頭言より。2009年11月8日売) 私はこの一文を読んで、政権への批判意識の欠如に唖然としてしまったのだが(そもそも、メディアが全般的に民主党政権擁護であることは改めて言うまでもない)、今号においても、その姿勢は貫徹されている。今号の岡本編集長による「編集後記」を見てみよう。 「新政権発足三ヶ月。政権内の軋みや混乱も目に付くようになった。しかし、政権交代とは、政策の転換のことであり、そこには予算配分の転換が伴う。それまでの秩序は崩れ、既得権益者からは反発や抵抗が起こる。国民の意見も割れる。軋みや混乱が生じなければ嘘である。」 政治・社会問題を扱う雑誌が、現政権に対して、ここまで批判性を喪失していてよいのだろうか。ましてや、『世界』は自ら「日本唯一のクオリティマガジン」と称する雑誌である。「既得権益者からは反発や抵抗が起こる」という一節は、小泉構造改革を礼賛したマスコミを想起させるが、かつて、反対者を「抵抗勢力」とレッテル貼りする傾向を批判したのはどこの雑誌だっただろうか。 今号を誰もが気づくと思われる点は、これだけ鳩山政権の問題が噴出しているにもかかわらず、鳩山政権や民主党への批判どころか、日本政治の問題を直接扱った記事が非常に少ない点である。論壇誌としては極めて異色であろう。扱っているのは、「世界の潮」欄の一記事「内閣法制局長官の答弁排除の問題性」(青井未帆執筆、全4頁)と、町田透「亀井「郵政改革」の舞台裏」(全6頁)、「片山善博の「日本を診る」 連載第25回 「事業仕分け」から見えてくるもの」(全3頁)、神保太郎「メディア批評 連載第25回」(8頁)、「編集後記」(全1頁)くらいだ。もちろん、文中で日本政治に言及している記事ならば他にもあるが、主題的に扱っているのは上記5つであり、うち3つは連載であるから、独立の記事としては2つしかない。5つの記事の頁数を合わせても全22頁であり、今号全体の336頁からすれば、約15分の1である。 扱う頁数が少ないこと自体は大した問題ではないかもしれない。むしろ私が驚愕したのは、その論調である。片山善博が、上記の記事で、事業仕分けを「画期的」「政権交代がもたらした最大の成果」と手放しに絶賛しているのはまだ序の口である。町田透に至っては、斎藤次郎の日本郵政社長就任と、坂篤朗(財務省出身、前内閣官房副長官補)・足立盛二郎(旧郵政省出身、元郵政事業庁長官)の副社長就任について、以下のように述べている。 「メディアは三人の元官僚に焦点を当て、容赦なく、天下り容認人事と批判した。 確かに、元官僚の登用は事実で、その批判は一面の真理と言えよう。しかし、筆者にはもっと業の深い人事に見えてならない。というのは、斎藤氏は、反自民政権に与し、自民党が政権復帰後に異例の早期退任を迫られた人物である。坂氏は、竹中氏との対立が進退の理由とされた人物だ。足立氏も、当時の小泉首相に、特定郵便局の後押しで出馬しながら選挙違反事件を起こした組織の監督責任を問われた過去がある。(中略) その一方で、ちゃっかり留任した社外取締役は、会長の西岡喬三菱重工相談役と、社外取締役の奥田碩トヨタ自動車相談役だ。二人は早くから、新政権との関係改善が伝えられたり、西川氏との不仲が囁かれたりしていた。逆に、西川続投を支持した前指名委員長の牛尾治朗・ウシオ電機会長や、丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長は、西川氏や副社長だった高木祥吉氏らとともに辞任に追い込まれた。 つまり、徹底して親自民、親小泉、親竹中の人材を排除し、反自民、反小泉、反竹中の人材で固めたのが今回の人事の真の姿なのだ。」 いや、さすがにこれはないのではないか。そもそも、その三人の人物がこれだけで「反自民、反小泉、反竹中」だと言えるかも疑問だが、仮にそうであったとしても、それならば天下り(渡り)も許されるとでもいうのだろうか。ここまで来ると、単なる党派性とでも言うしかないだろう。 だが、さらにこの上があるのである。神保太郎(匿名であろう)は、今号で、以下のように述べている。 「11月3日、東京大学本郷の福武ホールで行われた「筑紫哲也との対話 没後1周年」(東大・朝日新聞社主催)をのぞいてみた。評論家の立花隆氏、朝日新聞編集委員の外岡秀俊氏、東大情報学環教授の姜尚中氏、TBSニュース23元デスクで現アメリカ総局長の金平茂紀氏(スカイプ参加)らが、「揺れ動く世界と日本の『いま』を、筑紫さんなら、どう語るだろう」という趣旨でシンポジウムを行った。 (中略)姜尚中氏は、筑紫さんが徹底した観察者でありながらシニシズムと無縁だったのは、沖縄の現場に触れていたからだろうと言った。 ようやく議論の入り口が見えてきたと思った。だが、その通路は立花隆氏によって閉ざされてしまった。いわく、「ジャーナリズムの使命は権力を監視することと、大衆の妄動に抗うことだ」と。これにはまったく異論はない。が、その先がいけない。権力というのは、「時の権力」、すなわち独裁者小沢一郎だと断言したのだ。そうかもしれない。だが、この言明は畢竟、歴史軸の脱臼(同時性への逃避)によるシニシズムの同類とみえた。あろうことか、話題はガンと闘った筑紫哲也氏の「残日録」に移り、ガンの宣告を受けてなお厳しい仕事を続けた「ジャーナリスト魂」の称賛に流れていった。聴衆は手元のパンフレットを見て、「揺れ動く世界と目本の『いま』を、筑紫さんなら、どう語るだろう」という部分の答えを待ちながらおとなしく座っていた。 姜尚中氏がこんなことを発言した、「民主党に四年問やらせてみたらどうですか。これで失敗したら、そのあとにくるのはポピュリズムであり、どこかの府知事や県知事が出番を待っているかもしれない。ひょっとすると田母神さんかもしれませんよ」と。会場から笑いが上がった。ところが、立花隆氏はまたしても小沢の独裁を四年もやられたらたまらないと言った。姜氏は、穏やかに、しかし厳しくこう返した、「韓国はせっかく手にした民主化を浪費してしまった。いま韓国で起こっている反動について日本の人々はもう少し知る必要があるのではないか」と。」 ここまで来ると、凄すぎてもう何を言っているのかすらうまく理解できない。神保は、立花の指摘を否定すらしていないのである。神保によれば、立花のようにわざわざ指摘すること自体が「シニシズム」らしいのだ。民主党政権を無条件に支持しないものは、「シニシズム」に侵されたものである、と。文化大革命か。どうしてこんな文章が掲載されているんですか? ついでに言っておくと、幼稚な神保は後段で、<正義の味方>である姜が立花をやり込めたつもりになっているようであるが、これにも笑ってしまった。姜は、「いま韓国で起こっている反動」などと言っているが、姜はそもそも李明博政権の誕生には好意的である(注)。私のブログ上での連載「姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象」で検証しているように、現在の姜のほぼ全ての発言は政治的な文脈から出てきているものだから、こんな矛盾は当たり前だ。「ポピュリズム」を云々するならば、そもそも民主党政権自体が「ポピュリズム」に基づいたものであることは自明である。 5. あとは、これはややこじつけかもしれないが(笑)、今号から定価が780円から840円に値上げしたことも<佐藤優現象>の影響かもしれない。誌面が変容して、固定読者が離れて部数が減退しているから、定価を上げざるを得ないのだろう。 いずれにせよ、『世界』の最新号は、佐藤優は登場していないにもかかわらず、『世界』が<佐藤優現象>と依然として骨絡みになっていること、<佐藤優現象>の下で進行するジャーナリズムとしての変質過程がより一層進行していることをよく示している。この傾向は、今後、さらに強まっていくだろう。 (注)日本の民主党政権やリベラル・左派だけではなく、韓国右派政権こそが、日韓の「和解」を進めたがっているわけだから、姜が李明博大統領に好意的であるのは当然と言えば当然である。姜は、李明博の大統領選勝利に際して、『AERA』の連載(「姜尚中 愛の作法 第21回 ドラマなき大統領選 国民は成果を求め 皇帝の時代は終わった」『AERA』2008年1月14日号)で「やや現実離れした公約の数字」は気になるとしつつも、以下のように述べている。 「李明博とはどのような政治家か。まだ多分に未知数でもありますが、おそらく、イデオロギーや政治的スローガンといった目に見えないものを信頼せず、盧武鉉のように精神論を絶叫するような手法には違和感を持ち、成果や効率性を重視する経営者感覚の政治家だと思われます。大運河構想を打ち出すあたり、「日本列島改造論」の田中角栄のようでもあり、彼が市長自体のソウルの変容を思えば、ニューヨークを安全で清潔な街へと立て直したジュリアーニ前NY市長とも瓜二つ、とも言えそうです。」 「いずれにしてもこの政治家の真骨頂は可視化された成果物を出していくところにあり、まさしくそれこそがいま韓国国民が望んでいるものなのです。もはやイデオロギーやナショナリズムの時代は去り、国民は、経済に代表されるような実質的な政策に強い関心を寄せています。」 「とにもかくにも、かくして韓国社会は「皇帝型権力」といわれた圧倒的な大統領権力の時代が終わり、ドライな「CEO型」の実務型権力の時代へと突入しました。熱気を帯びた社会からやや「クール」な社会へと変遷しつつある。僕はこれをある種の「成熟」と見ています。」 神保が引用している姜の発言とのスタンスの違いは明らかであろう。姜は多分、李明博政権に自分を売り込んでいるのだと思う。 12月6日の「沖縄タイムス」の記事から引用する。
「移設先決定 参院選後に 「普天間」政府方針/WGで米側に伝達 米軍普天間飛行場の移設問題で、政府は移設先の方針決定を来年7月の参院選後まで先送りする意向を固めていたことが5日、分かった。鳩山由紀夫首相は外務、防衛両省が目指していた「年内決着」より、連立を組む社民党、国民新党に配慮し、政権維持を最優先させる方針を示している。関係者によると、首相の意向は4日の日米閣僚級ワーキング・グループ(WG)で米側にも伝達されたが、米側は反発したという。普天間移設問題は一層混迷が深まっている。 WGには日本側から岡田克也外相や北沢俊美防衛相らが出席。両大臣が3党連立を重視する政権の意向を米側に伝えたと発表されていた。 しかし関係者によると、社民党が連立を離脱すれば、参院で過半数が確保できず、法案が国会を通らない可能性が生じる日本の政局の状況を伝えた上で、「参院選まで待ってほしい」との趣旨で踏み込んで訴えたという。 参院選で民主党が単独過半数を取れば、連立を組まずに政策決定できる体制を整え、判断したいとの考えとみられる。(以下略)」 http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-12-06-M_1-001-1_001.html 民主党は参議院選後まで、移設問題を先送りするようだ。「社民党がいるからこそ民主党の横暴が抑えられている?」で懸念したことが、現実になってしまった。民主党とすれば、それが一番都合がいいのだから、それはそうするだろう。 それにしても、民主党による社民党の舐め方は酷すぎないか。これ、民主党は、参議院選後には好き勝手やらせてもらいますよ、と言っているわけだから、これでは社民党は何のために連立しているかすら分からない。 メディア上では、社民党が自説に固執して、圧倒的少数派の癖に政権を右往左往させている、といった論調である。だが、これは、真逆なのではないか。民主党と社民党の関係は、亭主関白の夫婦のようなもの、と考えた方がいいと思う。 いい加減な性格で有名な夫(民主党)は、外(マスコミ)では、妻(社民党)がどれだけわがままかを訴えて恐妻家を演じているが、家では君臨して妻を服従させている。妻は、夫から言われるがままに実家の財産を貢ぎ(内閣法制局長官答弁禁止の承認)、将来の不安(参議院選)や世間体(民主党政権を支持する支援団体や左派ジャーナリズム)を気にして、それでも夫についていっているが、夫は、ちょっかいをかけられている別の女性(公明党その他)に手を出しそうな気配である。だいたいこんな感じではないか。 民主党としても、ここまで馬鹿にして大丈夫なのかとも思うが、恐らく民主党は、私たちよりも社民党のこと――ここまで民主党に舐められても連立離脱しないこと――をよく知っているのだろう。 ちょうど、現在の事態は、「現実的に言えば、野党第一党だから言うんだが、社会党をまずぶっ壊さなきゃならない。それには小選挙区制という制度を、ほかにいい知恵があればほかでもいいんだけど、やらなきゃならんと。」(朝日新聞政治部『小沢一郎探検』朝日新聞社、1991年9月、200頁)と小沢一郎が公言しているにもかかわらず、社会党が、小選挙区制を飲み込んだのと同じである。このときも、山口二郎や『世界』(当時の編集長は山口昭男・現岩波書店社長。岡本厚・現編集長も編集部員)など、社会党に近い学者やジャーナリズムが「政権交代」の大義を喧伝したから、社会党は降り(られ)なかったわけだ。完全に当時を反復している。 社民党はフェミニズムに接してエンパワメントの考えを学び、「自立」を目指してはどうか。党首をフェミニストに変えてみてはどうだろう。 前回記事「民主党政権支持はアフガン侵略容認」の中の「社民党が、内閣法制局長官の答弁禁止を認めた(いろいろ笑うべき弁明をしているようであるが)ということは、民主党政権によるアフガン派兵を実質的には容認したことを意味する。」という箇所について、読者から、「内閣法制局長官の意見も聞く、そして記録にも残すということになっているのだから、そのようには言えないのではないか」という意見をいただいた。こういう社民党の留保を指して、「(いろいろ笑うべき弁明をしているようであるが)」とまとめておいたのだが、一応、改めて説明しておこう。
この件についての最新の報道(朝日新聞12月7日13時2分)では、以下のように報じられている。 「民主、社民、国民新の与党3党の幹事長・国会対策委員長は7日、国会内で会談し、官僚答弁を禁止し政治家同士の国会論戦を基本とする国会改革法案について、次の通常国会で成立を図ることで合意した。答弁禁止の例外の「政府特別補佐人」から内閣法制局長官を外すことも一致した。 合意した改革案は、(1)政府参考人制度を廃止し、官僚の答弁を禁じる(2)政府特別補佐人から法制局長官を外す(3)政治家同士の国会論戦を行う衆参委員会とは別に、行政監視を目的とした「新たな場」を設け、官僚や有識者から意見を聴取する、という内容。」 http://www.asahi.com/politics/update/1207/TKY200912070215.html?ref=reca まず、国会職員?の整理にしたがえば、「行政府の憲法解釈が確定する過程において内閣法制局の憲法解釈は、これをもって他の国家機関の憲法解釈を確定するという意味でも、行政府内の憲法解釈を確定するという意味でも法的な拘束力を持つものではなく、あくまで最終的な行政府における決定は内閣によって行われ、結果的に内閣法制局の見解が採用されているにすぎない」(強調は引用者、以下同じ)とある。 http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200802_685/068503.pdf だから、三党の合意案であれば、内閣法制局長官が仮に従来の憲法第9条解釈を踏襲し、それを「新たな場」で見解として表明しようとも、それはあくまでも参考意見として聞き流せばいいのであって、従来のように内閣法制局長官答弁がそのまま採用されて政府見解となることはないのである。 このことを確認するために、民主党の平岡秀夫参議院議員の2009年11月10日付ブログ記事「法制局長官の答弁禁止」を見てみよう。平岡は、『世界』にもよく登場する党内の「リベラル」派であり、恐らく、内閣法制局長官答弁禁止が解釈改憲の一貫という当然の懸念の火消しにまわっているのだと思われる。 平岡はここで、「「小沢幹事長は、内閣法制局長官を国会で答弁させないことによって、憲法第9条のこれまでの政府統一見解を変えようとしているのではないか。」との指摘」について、「的外れ」だと述べ、理由を述べている。平岡の主張は単なる解釈論であって、平岡の解釈でいけば、従来の内閣法制局長官答弁も実は政府見解ではなかったのだから、国会答弁禁止は大した問題ではない、というものだ。これは、従来の内閣法制局長官答弁が、政府見解として機能してきた現実を無視した詭弁に過ぎない。ただ、平岡の発言で見るべき点はそこではなく、以下の結論部分にある。 「要は、内閣法制局長官が国会で答弁できなくなることは、それほど大きな問題ではなく、むしろ問題は、政府統一見解を示す場合に、内閣法制局の意見が内閣の中でどれだけ尊重されるのかにあると考えられます。」 すなわち、平岡は、「大きな問題ではな」いと必死でアピールしているにもかかわらず、答弁禁止により、政府統一見解が内閣法制局長官によって示される形態から、政権の裁量によって示される形態に移行することを認めているわけである。極めて「大きな問題」なのである。内閣法制局長官の位置を変更することで、内閣法制局長官の憲法解釈の変更と、実質的に同じ政治的意義がもたらされるのである。 こうしたことを、社民党が分かっていないはずはない。オバマ大統領がアフガン戦略の重点化、NATOのそれに合わせた増派、小沢のIASFへの参加の公言といった背景の下で、この内閣法制局長官答弁の禁止が出されており、それを容認しているのであるから、社民党がアフガン侵略に対してまともに抵抗する気がないことは明らかである。 三党合意案の「政治家同士の国会論戦を行う衆参委員会とは別に、行政監視を目的とした「新たな場」を設け、官僚や有識者から意見を聴取する」というものは、単に連立を最優先する社民党のメンツを立ててやるものにすぎない。こんなものは解釈改憲に対して何の歯止めにならない。 仮に、法案がこのまま成立した場合、「新しい場」で、(例えばISAF参加と集団的自衛権に関して)政府見解と異なる内閣法制局長官見解が示され、民主党が無視した場合、「民主党は内閣法制局長官見解を尊重すべき」とアリバイ的に、社民党は抗議するだろう。だが、そもそもこの法案の焦点が、内閣法制局長官答弁の政府見解としての位置づけの剥奪にあることは政治的立場を問わず自明であるから、法案が通ってしまえば、そうした抗議は社会的にはほとんど力を持たないだろう。法案成立後に社民党がアリバイ的に、実質的にはほぼ無意味な抗議をするだろうことも、既に(当の社民党を含めて)みんながわかっている。八百長プロレスしかやらなかった、昔の社会党みたいなものだ。そうした抗議は、ダチョウ倶楽部のリアクション芸のようなものであって、それ自体が織り込み済みのものである。だから、そこでの争点は、「民主党が内閣法制局長官の見解を尊重すべきかどうか」ではなく、そのリアクション芸が笑えるかどうか、または、ダチョウ倶楽部の完成度にどこまで近づけるか、でしかない。法案の段階で既に勝負はついている。 森田実『政治大恐慌 悪夢の政権交代』(ビジネス社、2009年1月刊)を読んでいたら、あまりにも的確な指摘の数々に遭遇し、驚いた。
森田の政治的立場自体は、新自由主義的な大連立には反対だが、「修正資本主義」、「社会全体が調和する政治」が必要という立場であって、ほぼ間違いなく、以前挙げたような、「格差社会の是正」を唱える「よい大連立」を歓迎するという立場である(同書では、国民新党の亀井静香がやたら持ち上げられている)。周知のように、この人物は一筋縄では扱えないし、ある意味ではこれも「大連立」への誘導本だ。だが、左派も含めたメディア上で、ほとんど聞くことのできない真っ当な指摘の数々は、一読に値すると思う。 森田は同書で、以下のように述べている。 「 いま永田町でささやかれる政界再編のシナリオの中で最悪のシナリオは、武力行使をともなうアフガニスタン戦争への参加を実行することを明言している小沢民主党内閣のもとでの大連立政権の樹立である。これは究極の従米大政翼賛体制である。 この政権のもとで日本はアフガニスタン戦争に巻き込まれる危険性がある。この道はなんとしても阻止しなければならない。」(同書、53頁。強調は引用者、以下同じ) 永田町のことは知らないが、森田の懸念には完全に同意せざるを得ない。以下、長くなるが、それに値する文章だと思うので、引用させていただく。いくつかの点では私と認識が異なるが、大筋では全く同感である。 「 私は小沢政権に深い危惧と疑念を抱いている。私は、2007年秋に、小沢代表がアフガニスタン戦争に参戦する意思があることを知って以来、小沢代表に対する批判をつづけてきた。 政治において戦争と平和の問題が最も重要である。私は戦争をするおそれのある政権は絶対に支持できない。 2007年10月7日に総合雑誌の『世界』11月号が発売されてから、私は小沢民主党代表を批判しつづけている。それは小沢代表が『世界』の中で「今日のアフガンについては、私が政権を取って外交・防衛政策を決定する立場になれば、ISAF(国際治安支援部隊)への参加を実現したいと思っています」と発言したからである。 日本がアメリカのアフガニスタン戦争に加担することに私は絶対に反対である。 この発言を私が批判して以来、私に対して「小沢代表批判はやめろ!」というメールや手紙が来るようになった。あまりに激しいので、初めは、小沢代表を教祖のように慕う人たちの私への抗議かと感じたことがあった。 だが、それだけではないことがわかった。 「アフガンヘ自衛隊を出してなぜ悪いのか」「アフガンでISAFに自衛隊が参加するのがなぜ悪いのか」という考えが、日本国民の中にかなり根強いことがわかってきた。「戦争してどこが悪いのか」という考えをもつ人々が、日本国民の中にかなりいることを知らされたのである。 戦争体験者のほとんどは戦争反対である。しかし未経験者は必ずしも「反戦」ではない。ある時期から、私の小沢代表批判は単に小沢代表個人に向けるだけではなくなった。小沢代表支持者の「アフガニスタン戦争支持」論者との論戦になった。「戦争をして何か悪い」という人々への反論を書くようになった。小沢氏はそういう「戦争を恐れない人々」の代表的存在なのだということがわかった。 団塊の世代の旧知の新聞記者OBと話し合ったとき、「たとえ小沢内閣ができて、アフガン戦争に自衛隊を派遣することになっても、また、麻生自民党政府が、アフガン戦争への参加をしないとの態度をとるとしても、麻生政権よりは小沢民主党政権のほうがよい」と居直られてしまった。「小沢政権がアフガン戦争に参加してもかまわない。自民党政権はもうたくさんだ。ぼくは小沢代表が『世界』2007年11月号(「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を」川端清隆氏への手紙)の「アフガン戦争参加」発言を実行しても小沢政権のほうがよい」というのである。 私は戦争政権をつくるくらいなら、たとえ政権交代ができなくてもまだ戦争をしない政権のほうがましだと主張した。激しい論争になった。 「自民党政権はもうたくさんだ」という気持ちの国民は増えている。多くの人びとが政権交代を望んでいる。 選挙は過去の政治に対する国民の判断である。自民党は終焉のときを迎えている。だが選挙はそれだけではない。国民は将来への判断も同時に行う。国民が、目本の将来を判断するうえで、「平和」の問題は最大の問題でなければならない。戦争の道を進むか平和の道を進むかは選挙の最大のテーマである。 いまの民主党は、すべての政治問題の判断を小沢代表にゆだねてしまっている。小沢体制下の民主党は上意下達の一枚岩の政党である。総選挙後に小沢政権ができたとき、すべての判断を「小沢首相」が行うことになる。 「小沢首相」は、憲法改正規定の憲法第96条によって憲法を改正することなく、内閣の判断による解釈の変更によって集団的自衛権を行使できるとしている。民主党政権の絶対者一人によって、憲法第9条のもとでも武力行使ができるようになる。小沢民主党政権ができたとき、小沢氏は憲法第9条があるのに武力行使を行うことができるようになる。この可能性はきわめて高いとみなければならない。 こういう政治のあり方――戦争志向と独裁――に私は反対である。団塊の世代の中の小沢代表支持者には、とくに戦争と平和についてもっと真剣に考えてほしいと願う。「戦争して何か悪い」と居直る若い人々にも、戦争の悲惨について学んでほしいと願う。」(71~74頁) 「 ここで、私がなぜ小沢代表への批判をつづけているのか、について改めて基本的な考えを述べておきたい。 アメリカは、アフガニスタン戦争の共同責任を、ヨーロッパのNATO(北大西洋条約機構)軍と日本の自衛隊に担わせようとしている。アメリカはオバマ政権になってもアフガニスタン戦争をつづける意思をもっている。むしろ、オバマ政権下ではアフガニスタンが主戦場となる。 日本は、現在の自公連立政権も、民主党の小沢一郎代表も、アメリカのアフガニスタン支配を支持し、積極的に加担しようとしている。ただし、自民党は集団的自衛権の行使を認めていないが、小沢代表は認めている。小沢代表のほうが過激である。 日本はいま、きわめて危ない状況にある。 2009年9月11日までには衆議院議員総選挙が行われ、政権が交代し、小沢民主党政権が誕生する可能性が高い。そのとき、小沢首相はアフガニスタンに自衛隊を出す可能性が生まれている。 現在の自公連立政権は、アメリカのアフガニスタン戦争への協力については主としてインド洋上における給油活動を行っており、アフガニスタン本土における活動においては武力行使は抑制する態度をとっている。 ところが、民主党の小沢代表はここから一歩踏み出して、アフガニスタンのISAF(国際治安支援部隊)に自衛隊を参加させて武力行使を認めようとしている。 小沢代表はこの考えを総合雑誌『世界』の2007年11月号の中で明言している。 小沢代表は、次のように「テロとの戦い」支持を表明している。 《日本人は、決然としてテロと戦う決意と態度を持たなければなりません》 「テロとの戦い」はブッシュ政権が世界支配のための軍事行動を起こす口実にすぎなかったことは今日では明らかである。それでもなお小沢代表が「決然としてテロと戦う」と主張するのは、時代遅れである。世界中が「テロとの戦い」をやめる方向にある。 さらにこう明言している。 《私は、(中略)国連の活動に積極的に参加することは、たとえそれが結果的に武力の行使を含むものであっても、何ら憲法に抵触しない、むしろ憲法の理念に合致するという考えに立っています》 小沢氏は現在の憲法においても、国連活動に協力する場合は武力行使が可能である、すなわち集団的自衛権の行使は可能だと考えている。軍事優先の思想であり、武力行使可能との立場をとっている。 だが、これは間違いである。 憲法第九条は国権の発動たる戦争と武力の行使を禁じている。国連協力であろうとなかろうと日米協力であろうと、自衛隊が日本の領土領海の外で武力を行使して戦争することは、明らかな憲法違反である。 小沢代表は国連協力を名目にして、ブッシュの起こした宗教戦争に参加しようとしているのだ。日本はキリスト教右派とイスラムとの宗教戦争に参入してはならない。宗教戦争に深入りしたら大変なことになる。許してはいけないことである。 アフガニスタン戦争は本質的には宗教戦争である。日本はこの宗教戦争に巻き込まれてはならない。そして、こう発言している。重要な発言である。 《今日のアフガニスタンについては、私が政権をとって外交・防衛政策を決定する立場になれば、ISAFへの参加を実現したいと思っています》 lSAFとは、lntenational Security Assistance Force =国際治安支援部隊のことである。2004 年8月ドイツ、フランスなどの欧州合同軍が同年10月に予定されていた(アフガニスタンの)大統領選挙に備えてアフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)の指揮権をNATO軍から継承したものだ。 今日では、ISAFはアフガニスタンにおいて戦闘行動を行っており、これに日本の自衛隊が参加し戦争することは憲法上許されることではない。小沢代表は政権をとったら、この戦争に参加すると言っている。 民主党は、従米主義の自公連立政権でさえ躊躇してきたアフガニスタン戦争に参加しようとしている。小沢氏は恐ろしいことを考えているのだ。 最近、民主党の直嶋正行政調会長は国会において、民主党政権になったら集団的自衛権を認め、アフガニスタンにおける武力行使ができるよう法的整備を行うと表明した。 小沢氏の『世界』発言はいまも生きているのである。 民主党内にも平和主義者はいるだろう。私は何人も知っている。 しかし、ほとんどの民主党議員が「テロとの戦い」を支持し、アフガニスタン戦争への参戦を主張する小沢氏に追従している現状はどう見ても異常である。 国民の多くは自民党政権に飽き、民主党政権を求めている。だが、大多数の国民は、アフガニスタン戦争に賛成してはいない。小沢氏がこんな危険な考え方の持ち主であることを知らない。 小沢代表がアフガニスタン戦争をしようという考えの持ち主であることを知ってもなお、国民は、小沢民主党政権の登場を支持するだろうか。多くの国民が戦争に反対していることはたしかだが、しかし戦争を軽視する最近の風潮を私は深く憂慮している。」(76~81頁) 「 総選挙後に大連立政権ができる可能性は高いと思う。2007 年秋に突如として浮上し、瞬時に消えた小沢主導の「大連立」に関する「福田(当時首相)・小沢合意」は完全に消滅したわけではない。「大連立」構想は総選挙後に甦ることは確実である。福田・小沢合意の三条件(①国連決議尊重主義、②ISAFへの自衛隊の参加、③集団的自衛権の容認)もまた甦るだろう。 総選挙後、小沢政権のもとでアフガニスタンのISAFに日本が参加するという小沢外交・防衛政策が実行されるおそれ大である。楽観は許されない。」(83頁) 「総選挙が終わるとともに「大連立」の動きが出てくるとみておかなければならないと私は見ています。2007 年の大連立騒動の主役だった小沢一郎民主党代表と渡遁恒雄読売新聞会長も、総選挙が終わればすぐに動き出すと思います。「いや、もう水面下の動きは始まっている」という情報通もいます。 公明党がキャスチングボートを握る可能性は大きいことはたしかです。公明党も大連立に動く可能性は否定できません。公明党が接着剤となる「民主・自民大連立」というより「民自公3党大連立」も十分に起こり得る状況なのです。 この大連立の動きを当時バックアップしたのが日本をアフガニスタン戦争に引き入れようとしている一部のアメリカ政府の対日政策関係者です。アメリカのオバマ(民主党)政権はアフガニスタン戦争に集中します。アメリカの政治を動かしている「軍産複合体」は戦争をやめません。「軍産複合体」に操られるアメリカ政府は、日本をアフガニスタン戦争に巻き込もうとしていると私は思います。日本に「大連立」体制が生まれれば、これはアメリカ政府にとって好都合でしょう。 小沢一郎民主党代表は日本政界随一の親米派政治家でした。この基本姿勢はいまも変わっていないのではないかと思います。2007 年秋の「自民・民主大連立」工作は、アメリカ政府の対日担当者との連携のもとでなされたのではないかと当時私は分析しました。2007 年8月の小沢一郎民主党代表とシーファー駐日米大使との公開の会談と決裂は政治的パフォーマンスだったというのが私の見方でした。いまでも裏工作はあったと思っています。 小沢民主党代表は麻生自公連立政権との政策上の違いを強調していますが、大部分は小さな政策での対立です。民主党は日米関係の対等化を主張していますが、小泉政権時代のベタベタ従米路線を部分的に修正するだけだと思います。親米路線から自立路線への抜本的転換はありえないと思います。また、「市場原理主義・小さな政府」路線についても、部分的修正はめざしていますが、抜本的転換を断行しようとしていないと思います。すべて中途半端です。 私は「大連立」の策謀はまだ生きていると考えています。なんとしても止めなければならないと決意しています。大連立では、日本がいま直面している経済不況を解決する政策を出すことは困難だと思います。アメリカの影響を強く受けやすいからです。」(183~185頁) 日本の左派は、民主党政権を支持するために様々な弁明を行なっているが、それはすべて国民向けのものだ。アフガニスタンの人々に自分がどう映るか、という視点がない。村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチと同じ構図である。アフガニスタンの人々からすれば、日本の左派は侵略者の一人にしか見えないだろう。実際にその通りである。 「<佐藤優現象>批判」の末尾で、「改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組みを容認するかどうかである」と書いたが、ここに、「対アフガン武力行使を容認するかどうか」も付け加えよう 。左派はどのみち、「小沢は現段階では改憲する気はない」などとしながら、アフガン派兵を容認(黙認)するだろうから、これは、一般市民である読者に対して書いている。 社民党が、内閣法制局長官の答弁禁止を認めた(いろいろ笑うべき弁明をしているようであるが)ということは、民主党政権によるアフガン派兵を実質的には容認したことを意味する。社民党がそのことを理解していないはずはない。実際の派兵にあたっては、伊勢崎賢治が大活躍して正当化するだろう。 「官僚答弁禁止の国会法改正案、社民党が一転了承」
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091203/stt0912031858010-n1.htm 仰天した。ちょうど、社民党が連立にいるからこそ民主党の横暴が抑えられている、といった主張を批判しようと思っていたところだったのだが、書く必要もなくなった。内閣法制局の官僚答弁禁止については、「米国こそが「対米自立」を望んでいる」で既に書いたので、そちらをご参照いただきたい。 また、社民党は、普天間基地移設問題の年内決着に反対している。鳩山首相のグダグダぶりが、落としどころが決まった上でのパフォーマンスでない保証もないのだが、少なくとも以下のことは言えるだろう。決着延期で社民党と共闘する国民新党の亀井静香のように、参議院選まで決めなくてよい、と言うのであれば、民主党は、公約違反の批判を浴びることなく、参議院選を迎えることができることになるし、しかも保守的な支持層に対しては、決着の遅延の責任は社民党に押し付けることができるのだから、民主党にとっては一石二鳥だ、ということである。 前にも書いた、「安保容認・県外施設」の立場である大多数のリベラル・左派は、決着を急ぐ必要はない、とひたすら言い続けるだろう。もう「県外移設」という「民意」は示されているのに。決着が参議院選まで伸びて、民主党が大勝すれば、民主党がコントロールする形で「妥結」することになるだろう。 1.
川田龍平参議院議員の「みんなの党」への入党には驚いた。この件は、意外に重要な案件ではないかと思う。 ウェブ上で左派の見解を見ると、予想通り、川田が市民運動を裏切った、といった非難が一般的だ。左派の見解では、「みんなの党」は保守系の新自由主義政党で、自民党や民主党が構造改革路線を一時的に後退させていることに不満を持っている層に支持されている、ということになっており、私もそう思っていた。実際に、新自由主義者の渡辺喜美が党首であり、日本版ネオコンとでも言うべき浅尾慶一郎もいるのだから、保守系の新自由主義政党、という規定は正しいように見える。 ただ、今回、川田の入党をきっかけに、恥ずかしながら初めて「みんなの党」の結党宣言やマニフェストを見るなどしてみると、そうした規定はこの党の性格を十分に捉えておらず、かえって有害な役割を果たしかねないのではないか、と思うようになった。 「みんなの党」のマニフェストの特徴は、新自由主義というよりも、むしろその可塑性である。すなわち、「新自由主義」的に読めるのは勿論のこと、「脱・格差社会」的にも読めるのである。例えば、労働問題で掲げられている施策は、今の格差社会論の政策的な落としどころと思われるものから、そう外れていない。安全保障に関しても、小国主義的な護憲派からすればもちろん「右」であるが、憲法問題に一切触れていない点に象徴されるように、「リベラル」とでも「保守」とでも言えるようなものになっている。 もう一つの特徴は、「政治家や官僚の利権」、「特定の業界や労働組合」の「既得権益」の徹底した排除を強調する姿勢である。後者は明らかに、自民党や民主党を念頭に置いている。この辺が、「新自由主義」政党と言われる大きな要因だろう。 私は、「みんなの党」のことを、政策重視を打ち出していた新自由主義的かつ保守的な小政党、小沢一郎がかつて率いていた自由党のようなものだと思っていたのだが、どうやらそれは外れているように思う。このマニフェストの可塑的性格と、後述する理由から考えると、「みんなの党」は、自由党よりも、むしろかつての「日本新党」に似ていると思う。 2. 細川護熙編『日本新党 責任ある変革』(東洋経済新報社、1993年4月刊)は、「日本新党の政治理念、政治姿勢、政策を理解していただく書」(同書、12頁)であり、同書では、政・財・官の癒着と官僚政治の打破(「日本新党の基本方針は、徹底した現行行政の解体・再編である」30頁)、「地方分権」、「生活者主権」といった主張が、繰り返し説かれている。なお、安全保障については、「世界に類を見ない“平和憲法”こそ第一に世界にアピールすべき」とする「護憲的改憲論」、という主張に見られるように、「活動する平和主義」、自衛隊とは別個の「国連平和協力隊」の創設など、「右」とでも「左」とでもとれる内容である。 同書掲載の「日本新党の位置づけ」(31頁)という図が、日本新党が自己をどうアピールしたかったかをよく示してくれている。 同書では、以下のようにまとめられている。 「日本新党が立党宣言で掲げた旗は、「品格ある、教養ある国家」である。基本理念は何よりも「平和主義」であることは言うまでもない。そして、政治的には「民主主義」、経済的には「市場主義」。つまり、外に向けては、自由な通商体制である。内に向けては、政官業の癒着、官僚政治によって働いていたものが正当に報われるという「正しい資本主義の精神」が失われてしまったが、その正義を取り戻すことである。さらに、社会的には「生活者主義――地方分権の確立」によって、豊かさを実感できる社会を実現することである。」(同書、8頁。強調は引用者、以下同じ) ところで、「みんなの党」の結党宣言に掲げられたスローガンを見てみよう。 「「脱官僚」「地域主権」「生活重視」で国民の手に政治を奪還する!」 そのまんまではないか。 ただ、これは「みんなの党」が日本新党の政策に影響を受けているというよりも、むしろ、政党の性格が似ているから、掲げるスローガンも同じになる、と理解すべきだと思う。 日本新党は、同書でわざわざ一章を割いて、「なぜ既成政党はこれほど飽きられているか」(同書PART1第2章タイトル)を説いているが、既成政党への有権者の不満を吸収して、日本新党は、1992年5月の結党から2カ月後の参議院選挙(1992年7月)で4議席、1993年7月の衆議院選挙で35議席を獲得する。 私は、「みんなの党」も、今後、日本新党と同じく、既成政党への不満を吸収していくと思う。川田の入党は、そのことを示唆すると同時に、その傾向を助長すると思う。 川田は入党にあたって、以下のように発言したと報じられている。「みんなの党」のホームページにある記者会見の動画を見ると、確かにこのように発言している。 「川田氏はまた、民主党からも入党の誘いがあったことを明らかにした上で、「議員立法の禁止や議員連盟の加入制限など、一党独裁的な政治が行われている。自由に発言ができない」と入党を拒否した理由を述べた。さらに「薬害問題の温床は政官業の癒着だが、民主党は労組や企業に支えられ、しがらみから抜けきれない。『脱官僚』をできないことも明らかになった」と民主党批判を展開した。」 http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091201/stt0912011816007-n1.htm この川田の発言は、完全に正論であろう。川田の「みんなの党」への入党自体は、川田の人脈等の関係かもしれないが、社民党ではこのような形での民主党批判ができないことは明らかである。もちろん「みんなの党」も、民主党政権に対しては「是々非々」路線であるが、要するに、社民党の政権参加や共産党の政権への協力姿勢によって、民主党批判が「みんなの党」に回収される回路が成立している、ということだ。共産党は、90年代後半、「政治改革」に踊った既成政党への不満票を吸収して、一時的に党勢を拡大したことがあったが、再版「政治改革」である今回の「政権交代」に際しては、そうした風は吹かず、不満票は「みんなの党」に流れるのではないかと思う。 うまくやれば、「みんなの党」は、日本新党と同じくどうとでもとれる方針を掲げることで、民主党政権への不満票を吸収する一方、新自由主義の立場の経済学者(例えば池田信夫)の支持や、左派による「新自由主義政党」とのレッテル貼りを受けて、構造改革の支持者の票も獲得できるだろう。「みんなの党」には、もともとこの2つの顔があって、前回の衆議院選挙では後者の顔で支持されたが、川田の入党をきっかけに、前者の顔が前面に出てくるのではないかと思う。 3. 「みんなの党」が単に、自民党と民主党に次ぐ第三党を目指しているだけならば、それほど大きな問題ではないのである。「みんなの党」の党勢拡大が重要だと考えるのは、多分これは大連立につながるのではないか、と思うからである。 「みんなの党」の結党宣言には、以下のようにある。 「 我々「みんなの党」は、今の「政党政治」は「ニセモノの政党政治」だと考えている。同じ政党内でありながら考え方が違い、議員同士が足を引っ張り合う中で、最後はその間隙を縫って官僚が出てきて、足して二で割る当たり障りのない、さして効果もない政策しか打ち出せない。こうした「寄り合い所帯」化した今の政党政治では、いつまでたっても、この国に「夜明け」は来ない、「官僚の世」を終わらせることはできないと考えるからだ。 したがって、我々「みんなの党」は、政権交代後の更なるステップとして、今の政党政治を整理整頓して、政治理念や基本政策ぐらい一致させた「真っ当な政党政治」の実現、すなわち、「政界再編」を究極の目標とするものである。 我々「みんなの党」は、このため、「脱官僚」「地域主権」という理念、政策の旗印を大きく掲げて、今後、この政界再編の荒波の中で、政党横断的に改革派を糾合する「触媒政党」の役割を果たしていけたらと思う。 そして、真の「脱官僚政権」を樹立し、「官僚国家日本」を変える、国民の手に政治を奪還する。」 ここで言われている「政界再編」とは、恐らく、大連立またはそれと類似のものである。「みんなの党」が蝶つがいの役割を担って、自民党と民主党を合わせる、という形だろう。その際には、両党の一部が脱党して右派新党を作るだろうが、大した数にはならないだろう(多分、「左派」は脱党しないだろう)。 実際に、党首の渡辺喜美は今年1月、「危機管理内閣をつくるべきだが、(自民党と民主党が)水と油みたいな戦争を繰り広げている今の状況では無理だ。私が第3極をつくって橋渡しをやる」と発言している。 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090114-OYT1T00705.htm 私は上の発言を、kojitaken氏のブログ記事で知ったのだが、kojitaken氏が指摘するように、渡辺の発言は、平沼赳夫と同じ発想である。平沼は、自身の新党構想について、以下のように述べている。 「小手先の議論ではない、憲法問題のような基幹的な問題に対処できる強力な大連立政権を組み立てたい。私に、そして「平沼グループ」に使命があるとしたら、このために二大政党を結びつける役目を果たすことでしょう。二百六十年つづいた幕藩体制を倒すため、反目しあっていた薩摩と長州が手を結ぶ橋渡しをした坂本龍馬のような役目を果たせないかと考えています。」(平沼赳夫「わが友麻生総理よ、漫画はもうやめておけ」『諸君!』2009年1月号) 最近、田中康夫が「新しい保守」の結集を呼びかけているのも、同じような、第3極→大連立といったものを目指しているのだと思われるが、「みんなの党」は多分これには乗らないと思う。ここで名前が挙がっている国民新党や平沼グループや「田中康夫」は、「みんなの党」が言うところの「しがらみ」が強すぎるので、大衆的支持を得た「第3極」を形成できないと考えるだろうからである。 やや陰謀論的な話になるが、恐らく大連立成立に向けてはいくつかのルートがあって、「みんなの党」の党勢拡大→第三極の形成→大連立といったシナリオは、今のところ、その中でもかなり有力なものではないかと思う。 これはかなり昔、猪瀬直樹が言っていたと思うのだが、「官僚政治の打破」「脱官僚」を至上命題にすれば(例えば佐藤優)、大連立が最も合理的、ということになりやすいのである。大連立擁護者は、「大連立でなければ、与党による改革で官僚が追い詰められた場合、官僚は野党に対して、与党や与党議員の致命傷となる資料を密かに送り、与党を攻撃させる、だから、官僚政治を打破するためには、大連立によって官僚を封じ込まなければならないのだ」と主張するだろう。実際に、猪瀬はそのように主張して、大連立を待望していた。上に挙げた「みんなの党」の結党宣言に見える、ファナティックなまでの「脱官僚」の声は、そのことを示唆していると思う。 なお、『日本新党 責任ある変革』という本は、以下の文章で結ばれている。 「 日本新党は「政権交代」という高い志を持った人たちが集まるための“触媒”であっていい。「小異」を語りながら、さまざまな壁を取り払い、新しい日本をつくるべく“薩長連合”を実現させた坂本龍馬の役割を果たすつもりである。そして、「政権交代」という「責任ある変革」を実現するためにすべての力を結集していく。それがいま、日本新党に課せられた最大の使命であると確信している。」(同書、236頁) 面白いのは、「みんなの党」結党宣言にあった「触媒」という言葉、上記の平沼の引用文にもあった「坂本龍馬」の比喩が、ここにも表れていることだ。この三者は役割を同じくしている。日本新党が、小沢一郎による「政権交代」劇の最大の協力者であったように、「みんなの党」も、より大きな再編劇で、同じ役割を果たすだろう。
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