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掲示物数 : 25/30
在日同胞の生活史 日本人の目で
2010-01-01
イラスト カバネット(株)
発掘し 伝え 支える

 在日同胞の今日に至る歴史に胸を痛め、想像を超える厳しい生活を強いられた事実に驚く日本人は少なくない。一般的な日本人にとって同胞は、かかわりたくない異質な隣人から、今では普通の隣人に、そして共生の対象へと少しずつ変わってきた。同胞と真摯に向き合い、理解を深めてきた日本人たちは、在日の歴史を発掘し、伝え、あるいは支えるために、地道な努力を続けている。




在日1世への聞き取り調査をした皆さん
■□
東京
聞き取りの成果展示

 大田区の「昭和のくらし博物館」(小泉和子館長・76)で開かれている企画展「在日のくらし‐ポッタリ(風呂敷包み)ひとつで海を越えて」。「昭和」という時代を生きた同胞の衣・食・住に焦点を当てている。小泉館長を中心とするメンバー8人が、一昨年5月から約1年間をかけて、在日1世への聞き取り調査を行った。

 「在日の方は私たちと同じ土地で、一緒の時間を生きているのに、その暮らしのかけらも知らなかった。衣食住はどうだったのか、条件の悪いなかでいかに自分たちの生活様式を守り、どう生きてきたのかを知りたかった」と館長は話す。

 小泉館長から「在日のくらし」をテーマにすると聞かされたとき、在日と接点のないメンバーの多くは戸惑った。

 雪朱里さん(38)には「在日の歴史をきちんと知らない自分が、そんなテーマに取り組むことができるのか」大きな不安があった。

 「入り込むと耐えられないような事実が浮かび上がってくるんじゃないか」。断片的に触れてはいけないと思ったと話す長井亜弓さん(46)。

 韓国や在日に関心はなかったが、従軍慰安婦問題が大きく取り上げられたことで、考えが一変したという里村洋子さん(63)。拉致問題などの関連資料を読み始めたころ、今回の企画展の話を聞き、嬉しいと思った。

 名古屋市で生まれ育った前潟由美子さん(29)は、京都の大学に入るための部屋探しのとき、在日の集住地区でもあった京都の駅裏には住むなと強く言われたことを今も忘れない。

 聞き取りは、在日韓人歴史資料館、川崎市ふれあい館関係者の協力を得ながら、住まい、食生活、衣生活、お産、冠婚葬祭、娯楽などのテーマ別に取り組んだ。

 雪さんは概説とドブロクを担当。知り合った川崎トラヂの会のハルモニたちは、「夫の仕事が見つからず、収入を得る方法の1つだった」「警察とのイタチゴッコだった」と語る。「在日はドブロクを作り、違法行為をしているという悪いイメージばかりが残っている。だが、そうしなければ生きられなかった状況を日本人が作った事実を、きちんと伝えていかねば」と雪さん。

 在日の住まいを担当した前潟さんは、1934年9月から翌年2月にかけて、東京府学務部社会課が行った東京市内の集住地区に関する調査報告をもとに作業を進めた。 集住地区は不良住宅密集地区や工場、工事現場の近辺に形成された。最も人口が多いのは、深川の4300人。41年に環境整備を目的としてバラックを建設。旧深川区内に不法住宅を構えていた同胞約1000人を中心に、強制的に移住させたことが始まりとされる。 報告書にある集住地区は6カ所だ。いずれの地区も環境は劣悪。深川区塩崎町では66戸の住まいに対して、トイレは1カ所。ほかも水道、電気などの設備がない生活環境に置かれていたことが分かる。

戦後の国の差別も知る

 前潟さんは「戦後とくに大衆の差別に加え、国の差別があった。現在も就職や入居差別はある。社会保障という問題が人の生活を追い詰め、生活を変えてしまう」と憤る。

 長井さんは当初、同胞の子育てについて調べる予定だった。だが、ハルモニたちは「食べさせることだけで精一杯、どう子育てしたのか覚えていない」という返事。その後、衣服全般の調査に切り替えた。

 洗濯では白いものをより白くするために、手洗い、煮洗い、棒で叩き洗いをした後、糊づけした衣服を砧打ちするという過程を知る。また、同胞の統制と同化を目的とした協和会が全国的に組織されると、民族服を着るオモニたちに和服着用を強いるための着付け教室や、和裁教室などが開かれたという事実を知る。

 新潟でハルモニたちの聞き取りをした里村さんは、冠婚葬祭を担当。感じたのは、祖国の姿に少しでも近づきたいという1世たちの強い思いだ。婚礼衣裳は伝統様式でと、チマチョゴリを着用する同胞も少なからずいたという。

 メンバーたちはこれからも、出会ったハルモニら在日との関係を大事にし、さらに交流を深めたいと語る。

藤原史朗さん
■□
兵庫
実を結ぶ人権学習

 「在日を隠す」風潮が続いてきた芸能界でここ数年、カミングアウトするケースが少なくない。女優の南果歩さん(45)もその一人。NHK総合のトーク番組「スタジオパークからこんにちわ」(07年1月11日放送)に出演し両親が韓国人であることを明かした。

 南さんは藤原史朗さん(66)が兵庫・尼崎市立尼崎高校で教べんをとっていたときの教え子。藤原さんは昨年1月23日に再放映の「徹子の部屋」で南さんがルーツを明らかにするのを感慨深げに見守った。

 「感動したし、なによりうれしかった。差別を見抜き差別に負けぬ人間になることを目標とした市尼高校の人権学習が彼女の内に生きているのかも。ルーツを隠していては自分の人生がつくれない。真に人生をつくることに踏み入ったのでは」

 藤原さんは、「自分の名前を大事にし、それをもって日本社会で堂々と生きていく。それが自分自身と周囲の日本社会を明るくしていき、日本人の人権感覚を高めることにもつながる」が持論。

 76年に同校に赴任するや、休眠状態だった「朝鮮文化研究会」(現在日外国人生徒同胞の会)を復活させ、在日韓国人の歴史を教えていった。

 南さんの入学は79年。いくら勧めても「同胞の会」にははほとんど参加しないまま。ただし、朝鮮奨学会主催の「ウリ文化祭」では同胞たちに励まされ、二度だけ「扇の舞」を披露している。

 在日韓国人生徒は、全校集会での人権学習で自分をアピールする場を与えられる。南さんは「私は日本国籍を取得します」と発言し、82年3月に卒業。映画「伽 子のために」(李恢成原作、小栗康平監督)でデビューを飾った。

 南さんは03年、市尼高校PTAの招請を受けて講演したことがある。しかし、出自に基づいた「子育て」の話はなかった。藤原さんは残念な思いを胸に、「読んで」と自著の『在日朝鮮人教育入門1』を手渡した。

 「彼女はずっと悩んできたと思います。その始まりは市尼高の『人権学習』でしょう。よき理解者のパートナー、渡辺謙と再婚したのと、ロサンゼルスで様々なルーツの人々との出会いを通して、自分が何人であるかを明らかにできたのでは」

 藤原さんが市尼高在籍中の04年3月まで、「同胞の会」で「在日韓国人の歴史」を学び、「本名宣言」した在日韓国人生徒は100人をゆうに超える。民族衣装で卒業していった生徒も40人を数えた。

足代健二郎さん
■□
大阪
渡来人との縁を絡め

 旧猪飼野界隈、現在の生野区は、住人の4分の1を韓国・朝鮮籍で占める日本最大のコリアタウンだ。そして1400年前には多くの渡来人が移り住み、「百済郡」という地名で呼ばれた歴史の宝庫でもある。

 郷土歴史研究家で大阪府文化財愛護推進委員でもある足代健二郎さん(67)は、こうした歴史の因果に魅せられ、古代の猪飼野と現在の生野区の歴史に関わる「猪飼野探訪会」(姜信英代表)では事務局長を務め、在日同胞や日本人と古代からの韓半島と日本の関係を伝えてきた。

 足代さんは生まれも育ちも猪飼野。コリアタウンのど真ん中にある御幸森小学校に通った。当時の同級生は日本人と在日が半々だった。在日の友だちに対しての悪い記憶はまったくないという。 足代さんがおぼろげながら在日像を結ぶようになったのは、定時制高校2年のときから。家業を手伝うようになり、在日とも商売上の取り引きで接触の機会が増えてからだった。

 「金回りが悪く、生活が苦しかったためでしょう。売掛金の支払いがよくない人が多かった。それに、分かりやすく例えれば、映画『血と骨』の主人公・金俊平的な1世が印象として目立ちました」。しかし、足代さんの在日像は微妙に変化してきた。

 「在日の人たちの経済力、のみならず文化面でのパワーはものすごい。私の交際範囲の在日の人たちも大変好感が持てます。人間味の豊かな人が多い。猪飼野は在日の集住地であるという点に最大の特徴があり、いまやこれが町の魅力の最大の源泉となっているわけで……私はまあ気に入っています」

 足代さんは昨年10月、関西地区の在日韓国人と日本人が一体となって、コリアタウンの入り口にある御幸森天神宮に建立したハングル歌碑に期待をかけている。

 「古代とつながるコリアタウンの一角に碑ができたことに大きな意義がある。在日韓国人側からの、神社や日本人社会に対する親近感が増すかもしれない。また、日本人側もこの碑を通じて朝鮮半島の文化に親しみや理解を深めるかもしれない。猪飼野が韓国とつながっていることを伝えることができる一つの形ができた。地域の大きな財産になります」

福島俊弘さん
■□
奈良
「つらい労働」の語り部に

 丹波市小学校の敷地内に設置されている奈良・天理市立北中学校夜間学級の一室。

 ここには在日韓国人1世の女性が檜縄(ひのきなわ)の製造に使った皮剥ぎ用の鎌、内皮を叩く槌、檜縄を剥く包丁、縄あみ台、室の火消し具など約100点が展示されている。

 同校で教べんをとる福島俊弘さん(55)は「これらは天理の夜間学級に通う1世オモニたちの歴史そのものです。この歴史を後世に伝えていきたい」と語った。

 日本の戦前から木材の集散地だった桜井には、吉野や宇陀などから檜や杉が運ばれてきた。この檜や杉から薪はだをはいで蒸し、乾燥させては縄を製造した。檜縄は、「材木の町」桜井ならではの数少ない地場産業だった。

 「きつい」「汚い」うえに、長時間の重労働の担い手となったのは在日韓国人たちだった。できあがった檜縄は、木造船の防水詰め具として70年代までは桜井市で盛んに製造された。

 福島さんは文献調査の傍ら、夜間学級に通うお年寄りたちから聞き取りを始めた。

 「この仕事をなぜしたのか」。桜井市から同夜間学級に通う1世女性のほとんどが「子どもたちを育てるため」、「生活の糧として」と答えている。

 福島さんはこの間の聞き取り成果をもとに市民講座を企画し、檜縄にかかわってきた在日1世の生活史を伝えている。毎回、数人の生徒が語り部として重い歴史を市民に伝えている。

(2010.1.1 民団新聞)
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