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あら楽や

 投稿者:那田尚史  投稿日:2009年12月31日(木)16時07分38秒
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  あら楽や 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の雲にかかる雲なし

さっきまでハッカイさんと夏以来の連絡を取った。
嬉しい。

中田君、Y君、美人のMさん、ヤイロ鳥のメンバー、瀬戸弘幸さん、草壁先生、牧野さん、

もちろん微笑禅の会の皆様、本当に心から I love you.

よいお年を、全てが吉兆です。

我が家の隣近所では「那田さんはキチガイ」と、言うまでもなく風評被害を創価学会員たちが広めています。

でもキチガイに本人訴訟が出来ますか?最高裁がやり直し審理をしますか。
RJP基金のアイデアを実行できますか?
英語で論文を書き、一つはフランス語に翻訳され、たった30分で書いた「セルフドキュメンタリーの起源と現在」という山形国際ドキュメンタリー映画祭のスタッフから申し込まれた原稿を、北京総合大学の教授が読んで感動し、英語でメールがきて「中国語に翻訳させてほしい」というのでOKしたら、中国で学問的映画雑誌としては突出して権威のある「電影芸術(film art)に掲載されました。キチガイにこんなことが出来ますか?

僕の最大の武器は、まず先祖が由緒正しく「万語読み」と言われた知能派や、小牧の戦いの36人衆の筆頭にある武闘派がいて、見性体験により、先祖のDNAの優れた部分が片っぱしからよみがえったこと(これを過去世が見える、という神通力に数えます)。

もう一つは、類は友を呼ぶで、正義感の強い人間たちが支援してくれたこと。

この二つです。

ハッカイさんと話しながら昼酒しました。いまほろ酔いです。

一昨日石和温泉では一晩7万円使いましたが、今日は2千円で暮らします。
中田君のアドバイスのおかげです。ありがとう。

では明日は a happy new year だね。

そうそう、創価のバカども、

面白き事の無き世を面白く 住みなすものは心なりけり

という辞世の歌を歌った人物は誰でしょう、当てたら豆腐の角に頭をぶつけて死んであげます、と言いましたが、案の定、まだ噂だけでそのサイトは見てないけど、「高杉晋作」と答えたバカがいるそうな。

まんまと落とし穴に落ちました。バカをからかうのは最高に面白いが、もうレベルが低すぎるので飽きてきました。

以下、あるサイトより
****************
 西へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。西へ行く人とは、西行法師を指している。では、東へ行くというのは、東の幕府打倒を意味しているのだろうか。西行法師は、かつて、北面の武士だったが、親しい人の死にあって、世の無常を感じ、出家して隠者として諸国を放浪した。
  晋作は、髷を落としても、隠者とはならない。むしろ、もっと世の中に踊り出て、自由に振舞ってやるぞという気構えである。その意味も含めて、東へ行くとしたのだろうが、当時、「東」といえば、幕府のお膝元江戸に他ならない。
  「我が心をば神や知るらむ」という表現は、そのあたりの覚悟を述べているように思えるのである。
  決意を表明するために、突然髪を断ち、出家した晋作の行動は、一見奇矯に感じられたに違いない。武士が髷を切るなどは、よくよくのことだと思われただろう。晋作のザンギリ頭を見た人々は、それが出家した晋作の姿と思ったかもしれないが、晋作にとっては、そのように見せかけながら、内心ではちょん髷に別れを告げ、西洋文明に一歩近づくつもりではなかったのだろうか。


  かと思えば、反面、晋作と深いかかわりを持った人々への手紙には、赤裸々な心情が語られ、繊細な面がうかがえるのでる。

  晋作の手紙は、安政3年(1856)7月10日付けで、旅役中の父小平太宛に出されたものに始まる。
  彼の場合、父の意に従い、心を安んじようとする志向が極めて強い。それだけに、父の意に反して大事をなす際の、心中の葛藤は、格別に激しいものがあったに違いない。

 一方、「忠」の念の強さも格別である。亡命、脱藩といえば、当時の武家社会にあっては、切腹、お家断絶に値する大罪であるが、常に才気を惜しむ藩の寛容さに助けられ、事あるごとに重用されている。それだけに、彼自身、主君の信頼と温情を深く肝に銘じており、手紙には、「何卒風となり、雨となり、毛利御家の御興を祈るのみにござ候」とある。
  藩に弓引く挙兵に際しても、「悪名を天下に蒙るといえども、毛利のため隠れたる忠士たらんとす」という文句を肩印にしたためていたという。
 晋作にとって戦う相手は、あくまでも藩を牛耳る俗論派であって、決して、藩でも主君でもなかった。それは、当時の武家社会一般の理念の枠を超えた、より本質的な「忠義」であったといえるかもしれない。

 ある意味で、高杉晋作という、多感にして、才気ある一人の青年は、人一倍忠孝の念を心に持つが故に、より苦衷の生涯を送らざるを得なかったようだ。


  父宛についで見られるのが、吉田松陰への手紙である。松下村塾を通じての2人のかかわりは説明するまでもないが、その文面で心打たれるのは、単に学問的、思想的な交流にとどまらず、家庭的な諸事にまで温かい心のやりとりがあったということである。
 魂を寄り添わせる松陰の教育姿勢に対する素直な心情の吐露でもあったのだろう。晋作の松陰に宛てた文面は、兄に対するように心を許しているのである。

 とかく、一匹狼のようにいわれる晋作であるが、感受性の強い青年だけに、友を求める心も強かったようである。そして、友と信ずる者には極めて素直に心を開き、凡庸な悩みまでも訴えているのである。ロマンチストであるのだ。


 しかし、明治維新のひとつの特徴は、青年たちの感受性が国土的義憤となって爆発したところにあるのではないだろうか。そうした一群の核のような存在が、いわば高杉晋作であった。

 忠孝の念と情に厚い晋作の、もうひとつの真骨頂は、「真」と「気迫」を求める姿勢にあった。彼が、世に角を立ててまで徹底して求めたのは、あくまでも「真」であった。そうした点が、彼をして時に激しい行動にも走らせたのだろう。「真」とともに彼が常にその精神としていたのは「気迫」であった。
 そして、彼は、他人に対してばかりでなく、己自身において、より激しくこの気迫の充実を求めていたのではないだろうか。

 攘夷戦敗北の建て直しのための奇兵隊結成、四ヶ国連合艦隊との和議、功山寺挙兵、四境戦争での小倉口緒戦、いずれもこの気迫と憤激によって苦境を好転させている。

 高杉の真の見事さは、繊細な己の心に打ち勝って、豪胆な行動を起こした彼自身の心の内なる戦いにあったともいえる。まさに、「真」に身を投じて浮かぶ瀬を求めた生きざま、あるいは身を投じる決断の潔さが、時に飛躍と見え、狂ともとられたのである。


 慶応3年3月に入ると、晋作の病状は一段と悪化した。晋作重体と聞いて、藩主は、晋作に新しく100石を与え、これまでの労に報いた。奇兵隊の創設の直後、彼は新規160石をもらったが、脱藩の罪で没収されたままだったからである。


 4月14日未明、主治医の石井健伯が、庭先に田中顕助を呼び、「今日は、お大切になされい」といって辞去した。今日、恐らく生命が尽きるであろう、という意味である。

 皆、燈火を寄せ、晋作の枕頭に集まった。晋作は、ずっと昏睡状態にあったが、夜がまだ明けない頃、不意にまぶたをあけて、あたりを見た。意識が濁っていないことが、誰の目にもわかった。晋作は、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼が、紙を晋作の顔のそばに持っていき、筆を持たせた。


 晋作は、辞世の歌を書くつもりだった。
 ちょっと考え、やがて、みみずが這うような力のない文字で書きはじめた。

  おもしろき こともなき世を
   おもしろく

とまで書いたが、力が付き、筆を落としてしまった。

  晋作にすれば、本来おもしろからぬ世の中を、随分おもしろく過ごしてきた、というつもりであったのだろうが、望東尼は、晋作のこの尻切れとんぼの辞世に、下の句をつけてやらねばと思い、

    すみなすものは 心なりけり

と書き、晋作の顔の上にかざした。望東尼の下の句は変に道化めいていて、晋作の好みらしくはなかった。しかし、晋作は、今一度目を開いて、「おもしろいのう」と微笑みし、再び昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。
  ただその間、一度唇が動き、短くつぶやいた声を聞いたものがある。
 「‥‥吉田へ」ということばであった。
 27歳と8ヶ月という短い生涯であった。
*************

つまり尼さん(高杉の愛人)との合作なんです。僕は小学生の時に知っていましたよ。こんな当り前のことを知らずに幕末を語ってはいけません。

ちなみに私の父方の先祖の禄高は80石と記されています。ずいぶんすくないなぁ、と思っていたら。

************
 天保10年(1839)8月20日、萩菊屋横丁に住む毛利藩士高杉小忠太と妻道との間に男の子が生まれた。名を晋作という。150石の高杉家は、長州藩ではいわば中級の藩士というところであるが、のちに維新史に名を留める人々の家柄、たとえば桂小五郎90石、吉田松陰57石、久坂玄瑞25石と比べるとき、やはりかなりの格式ということになろう。ことに「譜代の臣」であるということだが、高杉家にとっての大きい自負であり、奔放な生涯を送った晋作にしても、終生主君への忠義の意識を強く持ち続けた要因となったのであろう
***************

昔は藩は国だったので紀州和歌山と長州では査定が違うでしょうが、80石で代官だったんだからまあまあの地位ではあったのでしょう。

このサイトを見ている友人の皆様へ。
今年はこのような激動の中、普通の人間なら死んでいるところ、実質的に創価学会を叩き潰す戦いをしていたので、年賀状は出す余裕がありませんでした。
 いただいた方々に追って出します。失礼ですが、どうぞご了承ください。
 
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