足澤公彦
| 長い旅を続けて来た。 時間と空間と、生と死の諸相の中を。 そしてそこにはいつも、 物言わぬ小さな同行者があった。 |
開高健さんが遺した傑作のひとつに『生物としての静物』いう随筆があるが、一言も言葉は発しないが、実際に生きているのではないかと思える万年筆の話をしたい。主人公は、モンブラン・スターリングシルバー1466である。
万年筆にはそれまでウォーターマン社のブルーブラックばかり入れてきたのだが、モンブラン1466との出会いがきっかけで、ブルーブラック以外の青色インクを使うようになった。
銀のバーレイ模様の1466には、30年以上も前に製造された18金のニブがついている。このニブは、森山さんがモンブラン本社の技術者に頼んでロジウムメッキを施してもらい、金色一色だったニブをわざわざツートンにしてもらったという珍品。字幅はブロードで、イリジウムが縦に長くついている。40年でも50年でも使えますよ、とルーペを覗き込みながら森山さんは太鼓判を押してくださった。
さっそくウォーターマンのブルーブラックを入れて書いてみた。
1466は、升目に文字を丁寧に書いていくのに打って付けだった。独特の弾力があって、綴る文字がなんとも端正な姿になるのだ。重さとバランスも申し分なかった。この光り輝く、特別な、1466を使い込んでみたくなった。
ところが、である。100字ぐらいまではスラスラ書けるのに、次第にインクがかすれていってしまう、という現象が始まった。4、5行書いてはインクが満ちるのを待たねばならず、到底、実用品にはなりえなかった。3ヶ月ぐらいは使ってみてくださいね、と森山さんから説明されたのを思い出し、辛抱しながら使い続けた。
3か月経った。よろしくない。
森山さんによく調べていただいたが、おかしなところはないという。せっかく珍しいニブを付けていただいたのに、と落胆していると、
「インクを替えてみたらどうかな。ロイヤルブルーにしてみたら?」
と森山さんが提案された。
以前、ロイヤルブルーやターコイズブルーを多用して、黒がこげ茶に見えるようになってしまったことがあったため、私は明るい色のインクを使用することを躊躇した。
「だったら、ペリカンのブルーブラックはどうかなぁ?」
森山さんのアドバイスに従って青鈍色のインクにすがってみることにした。
症状は、好転しなかった。使わずに抛(ほう)っておくしかなかった。
1466を使っていないことに気づかれたのか、ある時森山さんが突然、
「古漬けを使ってみるか」
とおっしゃられた。
「古漬け?」
古漬けとは、インクの中に20年以上も漬けておいたペン芯のことらしい。インクフローはペン芯に左右される。森山さんは、いくつもの種類の、エボナイトで作られていた時代の古いペン芯をインクの中に漬けているのだという。
インクが、ペン芯の、奥の、奥の、奥のほうへ沁み込んで、エボナイトの、極小の粒子の穴のいたるところで溢れ返っているイメージが湧いてきて、古漬けのペン芯に付け替えれば、今度こそ治る気がした。
「森山さん、1466をよろしくお願いいたします」
じゃじゃ馬の1466のペン芯は、古漬けのペン芯に交換された。
早速ペリカンのブルーブラックを入れてみた。
インクフローが長持ちするようになったことがはっきりとわかる。300字程度までは一気に書けるようになった。
しかし…。
改善はされたが、完治はしなかった。
「1466よ、いったい何が不満なんだ!!」
一度決めたらインクの色を途中で替えない、というのは、万年筆を長く使っていくときの鉄則だけれど、3色目のインクが頭に浮かんでいた。思い通りにならない1466を前にして、以前から一度使ってみたかったオマスのグレーインクを入れてみよう、と。
結果は、喫驚(びっくり)仰天。目を疑った。今度は、インクがドボドボ、ドボドボ。だらしなくダラダラ、ダラダラ。苦笑いして、憫笑(びんしょう)するしかなかった。
「万年筆がインクを選んでる…」
途方に暮れる私を前に、苦笑いしながら森山さんは、
「別の古漬けに交換してみるから、今度は、モンブランの“キングスブルー”を入れてみてくれないかなぁ」
駄目な奴だ、使えない万年筆だ、と言い続けてきた問題児1466を、森山さんは決して見捨てようとはしなかった。
「明るいブルーのインクかぁ…。インクフローやかすれが改善されても、青色インクじゃ常用できないなぁ」
この時私は、“キングスブルー”と“ロイヤルブルー”を同じものだと思っていた。どちらも紫色のような明るいブルーだと思い込んでいたのだった。
使えない万年筆を持っていても仕方がない。森山さんを信じるしかない。“キングスブルー”を入れるしかない。
帰宅。深夜。独り言。森山さんから頂戴した“キングスブルー”を祈るような思いで吸入してみた。そしてザァッーと書いてみた。
あれ!?
いつまでも同じインクフローのまま、インクがかすれない。この分だと最後の一滴まで同じ調子で線が引けそうだ。
何文字書いても、何枚綴っても、ノー・プロブレム。嘘のようだ。
見事に完治。洋々とインクが流れ出てきて、心地よく原稿用紙の升目を埋めていくことができるようになった。
それに加えて、あれれ!?
目がチカチカしない。目に負担がないような気がする。いったいこの“キングスブルー”って何なんだ?
現在販売されているのは“ロイヤルブルー”で、モンブラン1466に入れたのは“キングスブルー”である。同じようだがまったく異なるインクである。色が違うのである。書き味のことばかり気にしていてインクの色の違いに気づかなかった。
“ロイヤルブルー”は赤味がかった紫色のような明るい色合いなのに対し、“キングスブルー”は青々とした青である。しかも濃い青なのだ。これなら目に影響はなさそうだ。
“キングスブルー”は今から25年ぐらい前にモンブランが製造していた青色インクで、“ロイヤルブルー”という名称になる前のインクである。しかも森山さんはより一層青々とした色にしたくて店にあるロッカーの中でゆっくりと水分を飛ばしたのだという。
モンブラン1466はそれ以来問題児ではなくなった。極上の一本、私にとって“物言わぬ小さな同行者”になった。そうあり続けるための“キングスブルー”は貴重なもの。少しずつ、大事に、モンブラン1466との対話を面白がりながら使うことにした。
もしもの時に備えて、古漬けのペン芯をストックし、昔のインクを大切にしている森山さんは、間違いなく、万年筆が生き物であることを知っている人間の一人である。それが判った私は、半ば興奮しながら、森山さんにモンブラン1466が生きている証を話したのだった。
森山さんは、ただただ微笑みながら、聞いているだけだった。