リクパィ・クジュク日本語訳・注釈

リクパィ・クジュク(India office library No.647)

 スワスティ。吉祥のさらなる吉祥である世尊クンツサンポ、すなわち身・口・意の金剛である大快楽に礼拝します。
 世界の多様性はその本性において二元性を越えたものでありながらも、(個体性をもって現象する)その個体性そのものは心がつくりあげる概念の構成から自由である。
 如実なるものを思考することさえせず、ありのままにまざまざと現れた多様な現象はそれ自身においては絶対的な善なのである。
 存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を断って、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまることが私の教え。

 まず、すべてのタントラ経典からすべてのヨーガの主尊は吉祥金剛薩捶であると知られるなら、この教えにおいてクンツサンポを主尊として説くことについて、いかなる意味の力からお考えになったのかというならば、金剛薩捶は「修習の到達目標」と「成就の区別」の二つをお説きになる立場にいらっしゃるのに対し、クンツサンポはかくの如きものは何も修習しない(という立場に立たれる)ので、この意味の力を強調するならば、クンツサンポが金剛薩捶よりもいっそう至尊としてふさわしいことは、リクパを得ている者たちにはまったく明らかである。

 さて、「吉祥のまた吉祥」という言葉について、すべての存在に対して善を与えることが「吉祥」であるのに対して、善を与えることが努力しなくともまさに自ずと成就していることを示すことが「吉祥よりもさらなる吉祥」というのである。

 「世尊」という言葉は、集合も離散もないダーラニーをそなえているものという意味である。

 「クンツサンポ」という言葉は、ひっくり返り、逆さになってどこに転がっていこうとも、精髄の意味から飛び出すことはないからである。

 「身・口・意の金剛」という言葉は、二元性を越えた乗り物によって三界から離脱することをいうのである。

 「大快楽」という言葉は、「如実」を味わっている絶対的主体の体験をしめしている。

 「礼拝します」という言葉は、「如実」の「界」において自ずと存在することをいうのである。

 「如実」のありようは、「世界の多様性はその本性において二元性を越えたものでありながらも」などといわれるこれらの詩行によって示されている。

 「世界の多様性はその本性において二元性を越えたものでありながらも」という言葉について、欠点と長所などの叙述されるすべての存在者が「多様性」であり、それらの多様性も平等そのものである精髄においては、本性は同じであることを示している。

 では、「多様性がまさに同じである」ことは、全体性をもった虚空を部分へと切り分けるようなことにならないかというならば、それも精髄の意味においてはあり得ないことだから、「(個体性をもって現象する)その個体性そのものは心がつくりあげる概念の構成から自由である」というのである。言葉で表現するその道(方法)も完全に消え入ってしまうから「心のつくりあげる概念の構成(spros)から自由である(dang bral)」というのである。

 「如実なるものを思考することさえせず」という文章の「如実、まさにかくのごときもの(ji bzhin pa)」は既に意味を説明した。「思考しない(mi rtog)」というのは、「如実」という概念にさえとどまろうとしないという意味の言葉である。それなら、すべての全き善を生み出す根底がそれであると、すべての正しい仏説がはっきりと述べるのに、そこにもとどまらないなら、すぐれた知識はあらゆる場所を通じてどこにもまったく生じないことにならないかというならば、「如実」において思考はないのだから、(それ)を欲してもとどまる可能性はないのである。

 しかしながら、「すぐれた知識の領域がまったくない」ことはないのだから、「ありのままにまざまざと現れた多様な現象はそれ自身においては絶対的な善なのである」というのである。さまざまな種類のものとして顕現することがまさしく「如実」であるのだから、生み出そうとすることも初めからまったく必要なく、原初より精髄の戯れである「すぐれた知識」というすべての善が完成し終わっている、という意味である。

 「存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を断って」、「あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまることが私の教え」という文章の「成就している、なし終わっている(zin pa)」という言葉は、すべての欲望はただ今この時点で成就しきっている、という意味である。ところが成就しきっていることに気づかず、いつも(成就のことを)意識して努力することは、絶対的主体が分裂していく病気に他ならぬので、「努力という病気の根を断って(rtsol ba’i nad spangs te)」というのである。それゆえ、すべての「欠けていて必要だと思うもの」を追求しなくとも自ずと成就し終わっているから、「自ずととどまる(lhun gyis gnas pa)」というのであり、なすべきことはないから「ありのまま」の状態に不動のままにとどまるのであって、目標を思い定めて努力修習する必要などはない、という意味である。

 この教えをまとめると「吉祥クンツサンポの大快楽が完成したありよう」ということになる。価値があるとかないとかいういっさいの区別を捨て去ってしまえることが、「内なる大甘露」なのである。菩提を獲得しないのが菩提を得る正しい方法であるから、「ありのまま、如実」の教えにとどまるとき、活動のサマヤ戒(=四行)もまさに自ずと成就して完全にそなわることになる。

 「解脱」することは、さまざまなる存在事物を絶滅させるための最高の手段ではあるが、「如実」の教えにあっては、存在事物の名前すらも完全に消え入ってしまうので、「解脱」はまさしく方便中最高のものとなるために、ここでは「解脱」がすでに自ずと成就してそなわっている(と言われるのである)。

 「結合」は(「如実」を説くこのゾクチェンの教えにおいては)集合も分解もおこらない「初源の場所」でおいて行われ、そこには集合や分解という名前すらもないのだから、原初的な言語の女王(である智慧と)と絶えまなく結びついていることになる。

 「如実」の教えでは、世間的あるいは出世間的なすべての存在事物は増加することもなくありのままに存在しており、与えなくともすでにすべてが与えられているので、「与えないのに受け取る(純粋贈与の状態)」が実現されている。

 「妄語」ということに関して言えば、普通は意味と結びつかない言葉のことをいうのであるが、この「如実」の教えにおいては、内容をそなえた意味も内容をもたない意味も、(意味行為という意味行為)はすべてが錯誤しているので、いっさいが「妄語」と言われる。

 このように(「如実」の教えには)四種の「言葉」も自ずと成就してそなわっていて、生滅(という変成)の位相はない。

 (煩悩を)捨てないという密教でいう五種のサマヤ戒もまさに上記のような説明にまとめられる。「怒り」は「解脱」にまとめられる。「欲望」は「結合」にまとめられる。「愚かさ」は直覚理解の領域を超え出ることをいい、この絶対的主体においては直覚理解すらもないわけであるから愚かさという。「傲慢」は変成しないという意味をさし、大いなる真実の大我には変成はなく、偉大なる自性をはずれてしまうことはないからである。

「嫉妬」は器ならざる者たちに説いても理解しないことをいい、だれも偉大な善の知識を理解しないから、自ずと偉大な秘密となるのである。

 (リクパ・クジュクという教えの本文を構成する)四つの意味は、まず礼拝した後に、言説を超越した菩提心が自ずと成就していることによって、生起次第・究竟次第を行ずる必要もないままにマンダラが取り出され、自ずと存在するところに無為のままにとどまることを語っている。

 「知恵のカッコウ」とは喩である。「リクパが動き出して顕現してくる飾り」という意味である。「金剛の六行詩」は教えの規模を示す。ヨーガの見解と実践であるクチェンの方法(を説いた)リクパ・クジュクの意味を心で考え抜きなさい。

 さて、人々の知性の段階は測り知れるものではないから、教えの門も各人の知性につり合うように不完全な教えがたくさん説かれたけれど、完全な教えが最高の知性をもつ者に対して完全なる口訣として説かれたかといえば、「存在そのもの(法性)」は原初より説かれたことがなかったから機縁はなかったと言えるのだが、クンツサンポの見解と実践は、すべての生き物に備わっている「存在そのもの」にほかならないのであるから、この時点でもう既に、努力しなすべきことを離れているのである。

 このようであるから、原初より備わっている「存在」に努力しないままとどまることが(ゾクチェンの説く)成就である。何も捨てないことがサマヤ戒である。何も保持しない

ことが供養である。これら三つの意味に住するなら、それがヨーガであると、クンツサンポはおっしゃる。終わり。

『リクパィ・クジュク』の註釈

テクストについて。
 ここでとりあげたテクストは、現在 大英図書館(British Library)に保管され、Louis de la Vallee Poussin の Catalogue of the Tibetan manuscripts from Tun-huang in India Office Library (Oxford University Press, London, 1962) において第 647 番写本としてリストされるものである。今回、 Samten G. Karmay の The Great Perfection (rDzogs chen) (E.J.Brill, Leiden, 1988) の末尾に付されている、第 647 番写本の写真版を底本テクストとして使用した。ただし、私たちのテクストは、Karmay 氏が当該書の pp.56-59 において本テクストのTransliteration として提示したものとは、いくつかの箇所において異なる読み方をしている。
 『リクパィ・クジュク』は、ほかにも『クンチェ・ギェルポ』(『台北版西蔵大蔵経第54巻 pp.1-38 フォリオの通し番号 2-262に所収、台湾、1991)の第31章『ドルジェ・ツィクドゥク』(当該書 p.17 フォリオの通し番号 113 )として収められている。
 『リクパィ・クジュク』を扱った研究書は、テクスト、翻訳、研究を載せた前出の S. Karmay (1988) があるほか、チベット人ラマの口訣として Namkhai Norbu Rinpoche の Rigbai Kujyug (The Six Vajra Verses) (Rinchen Editions, Singapore, 1990) があり、その弟子の J. M. Reynolds の The Golden Letters (Snow Lion, New York, 1996)がニンマ派の歴史を語る中で言及している。


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Posted by staff at October 19, 2004 03:54 PM