[AML 20507] 竹島=独島は固有領土か、強奪領土か(1)
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2008年 7月 16日 (水) 22:05:27 JST
半月城です。
また、竹島=独島問題が日韓両国の間で熱くなってきました。その背景を理解する
一助として竹島=独島の歴史を明らかにしたいと思います。そのために、昨年12月
『もうひとつの世界へ』に載った「竹島=独島は固有領土か、強奪領土か」を転載し
ます。
1.はじめに
竹島=独島問題は日韓間に突きささったトゲのようなもので、事あるごとに両国の
民族心を刺激し、過去にはそれが高じて銃撃戦にまで発展したこともありました。
2006年にも竹島=独島周辺の調査船問題がこじれて、一時は日韓両国の警備艇同士が
衝突する事態も懸念されたほどでした。
もともと竹島=独島問題の根は深く、日韓両国が正反対の見解で角突き合わせてい
るだけに、今後も同じような騒動が繰り返される恐れがあります。2006年にも韓国の
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は対日政策に関する異例の特別談話を発表し、竹島=
独島問題は「日本が朝鮮半島の侵略で最初に奪い去った歴史の土地だ」と述べ、激し
く日本を非難しました。
これに対する日本政府も一歩も後へ引かないようです。その核になっているのは、
半世紀以上も外務省が言いつづけてきた「竹島は日本の固有領土」という主張です。
このように日韓両国は竹島=独島の歴史を根拠に強硬な主張を繰り返していますが、
その割には竹島=独島の歴史が、特に日本ではよく知られていないのが現状です。そ
こで、この稿では主に歴史に重点をおき、江戸時代から明治時代を概観することにし
ます。
2.江戸時代の竹島=独島領有意識
日本政府が竹島=独島を日本の固有領土とする根拠は時代とともに変化し、かつて
は最大の根拠としていた「松島(竹島=独島)渡海免許」の主張を最近は引っ込めた
ようです。最近の主張を同省のホームページにみることにします。外務省は固有領土
の根拠として下記の三項目を掲げました。
(1)竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれてお
り、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことで
した。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、
多くの文献や地図等により明白です。
(2)竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立し
ていたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海
を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うと
ともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今
日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されて
いました。
(3)鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しか
し、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が
鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の
政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1
月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、
竹島への渡航は禁じませんでした。
日本が竹島や松島をいかによく知っていようとも、それだけでその地が日本領に
なるわけではありません。また、その地で頻繁に漁労や竹木の伐採等を行なうこと
は、もしその地が外国領であれば、その行為は密漁ないしは略奪行為であり、許され
るものではありません。欝陵島がその典型例でした。同島の歴史をふり返ってみま
す。
1620年、江戸幕府は対馬藩に命じて、竹島(欝陵島)で密貿易を行なっていた
弥左衛門・仁右衛門親子を「潜商」の罪で捕えました。そのことが幕府の外交資料集
である『通航一覧』に記されましたが、その記事において欝陵島は「竹島、朝鮮国属
島」と記述されました。幕府や対馬藩は竹島を明確に朝鮮領と認識していたのでし
た。
それにもかかわらず、幕府はその「潜商事件」の5年後、外務省が説明するよう
に、竹島への渡海免許を鳥取藩の大谷・村川両家に与えました。幕府に竹島奪取の意
図があったのかどうか疑われるところです。このように幕府や対馬藩が朝鮮領と考え
ていた竹島へ大谷・村川両家が出漁したのですから、朝鮮漁民との「遭遇」は必然で
した。
元禄期の1693年、二度目の遭遇を契機に、幕府は朝鮮との通商をまかせていた対馬
藩に対し、竹島へ朝鮮人が渡海しないように朝鮮へ要求する交渉を命じました。外務
省のホームページに述べられた「竹島一件」の始まりですが、これは無理難題でし
た。朝鮮領である欝陵島へ朝鮮人の渡海を禁じるという途方もない要求だっただけ
に、朝鮮が受けいれるはずがありません。交渉はたちまち暗礁に乗りあげました。
その時になって、幕府はやっと竹島問題を本格的に調査し始めました。まず、鳥取
藩へ7か条の問い合わせをおこないました。その第1条を意訳すると「因州、伯州に
付属する竹島はいつのころから両国の付属か?」という質問でした。当時の幕府は、
竹島が因伯両国を支配する鳥取藩の所属と思いこんでいたようです。
しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩
領ではないことを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるもの
ではなく、幕府の老中4人が連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当
然でした。
幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7
条の「竹島の他に両国へ付属の島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の
回答は「竹島や松島、その他、両国に付属する島はありません」として、松島(竹島
=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しました。
実はこの時、幕府は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名
が登場したことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。
外務省のホームページは、欝陵島への渡航禁止後も松島への「渡航は禁じません
でした」と記しましたが、これは明らかに我田引水です。竹島が鳥取藩所属でない、
ひいては日本領でないという理由で同島への渡海を禁止したのですから、同じく鳥取
藩所属でない松島もひいては日本領ではないので、渡海が当然禁止されたとみるべき
です。
さらに当時、松島は竹島と一対ないしは竹島の付属島と考えられており、史料に
「竹島近辺松島」「竹島の内松島」などと記されました。そもそも、松島はその名前
に反して松の木はおろか、木が1本も生えていない岩の島でした。
それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島と対をなすという考えから自然に名
づけられました。そのため、多くの「地図や文献」で両島は一対に扱われました。し
かし、公的な地図や文献で両島が日本領として記載されたことは一度たりともありま
せんでした。
地図でいえば、外務省は沈黙していますが、江戸時代に発行された唯一の官撰地図
「官版 実測日本地図」に竹島・松島は記述されませんでした。この地図は伊能忠敬
の地図を元に作られたのですが、伊能図にも竹島・松島はありません。官撰地図や官
撰絵図からも江戸幕府は竹島=独島を日本領と認識していなかったことがわかりま
す。
3.朝鮮王朝の竹島=独島領有意識
朝鮮では古くから朝鮮の東海に二島あることが知られていました。二島とは欝陵島
と于山島ですが、欝陵島は時には武陵島、蔚陵島など様々な名前で呼ばれました。両
島は15世紀の官撰地理誌である『世宗実録』地理志にこう記されました。
于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれ
ば望見することができる。新羅の時に于山国と称した。一説に欝陵島と云う。その地
の大きさは百里という。
欝陵島近辺には無数の岩や島がありますが、天候が清明の時にだけお互いに望見で
きる島は竹島=独島しかありません。したがって、この文章における于山島は竹島=
独島とみることができますが、その位置や大きさなどは記載されませんでした。
さらに、当時の欝陵島には倭寇などを避けるために空島政策がしかれ、渡海が禁じ
られていました。そのため、于山島の認識はあいまいで、いわば書物の上だけの観念
的な存在でした。
ところが、1696年に一大転機が訪れました。韓国で英雄とされる漁民の安龍福が鳥
取藩へやって来ました。かれは、3年前に欝陵島で日本の大谷家の船により日本へ拉
致されたことがありましたが、今度はみずから来日しました。
その目的は鳥取藩への訴訟であり、朝鮮の官吏を装って、船に「朝欝両島 監税将
臣 安同知騎」と書いた旗を立ててやって来ました。旗の意味を日本では「朝鮮の欝
陵、子山両島の監税将、臣、安同知が乗務」と解されました。子山は于山島であり、
同知は職名です。
この時の安龍福は訴訟のために「朝鮮八道の図」まで用意しました。その地図で欝
陵島と子山島が朝鮮の江原道に属するとされました。しかも欝陵島は日本でいう竹
島、子山島は松島であり、両島は朝鮮領であると彼は主張しました。
この事件は、鳥取藩のみならず、幕府や対馬藩に衝撃を与えました。紆余曲折の
末、対馬藩は当初の主張とは逆に日本人の渡海禁止を朝鮮へ伝達して「竹島一件」交
渉を終結させました。
この安龍福の第2次渡日事件により、朝鮮の官撰史書である『東国文献備考』や
『萬機要覧』などに「欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの
松島なり」と記されるようになり、于山島に対する領有意識が確立しました。
しかし、離島に対する空島政策がその後も継続されたため、于山島の存在は次第に
あやふやになり、1900年の勅令41号では于山島の名が消え、竹島=独島は石島とさ
れました。その詳細は文末の参考書に譲ることにします。
(つづく)
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