July 2009
今年で創刊75周年を迎えたDownbeat誌の批評家投票のベスト・アルバムは、圧倒的な差でSonny Rollins。80年代のまだ50代のライブが中心なので、とても元気でフレッシュな演奏だ。彼は79歳で、ベスト・アーティストにも選ばれた。ジャズ界の高齢化が心配になるが、Rising StarにはRudresh Mahanthappaという30代のインド人が選ばれ、彼のKinsmenというアルバムも5位に選ばれた。インド音楽風だが、現代的なジャズでおもしろい。
本書も前半はゲーム理論の教科書だが、後半は行動経済学の実験結果をゲーム理論で説明する試みだ。たとえば制度や規範が複数均衡からどうやって選ばれるのかという問題は、従来のゲーム理論では難問だが、本書では規範を相関均衡として理解している。他方、財産権は通常、法的な問題と考えられているが、実は霊長類には財産権に似た行動がかなり広く見られる。これは行動経済学の保有効果(自分が持っているものの価値を高く評価する)を考えると、タカ=ハト・ゲームの均衡として解釈できる。
このようにゲーム理論によって行動経済学の「バイアス」を合理的に説明する理論は、BenabouやTiroleなどの主流派も試みており、ネタのつきたゲーム理論が生き延びる方向としては有望だろう。哲学的な議論だけでは、社会学のような「お話」になってしまうので、継続的にパズルを作り出すシステムが、パラダイム競争では重要だ。
しかし普通の人間の習慣的な行動を相関均衡やBayesian Nash均衡など複雑なアルゴリズムの計算結果として説明するのは、不自然といわざるをえない。この点では、アカロフ=シラーがSchankのスクリプト理論など認知科学の概念を参照している方向のほうが有望だと思う。スクリプト理論は人工知能としては挫折したが、最近はメタファー理論の先駆として再評価されている。
著者は無理して伝統的なゲーム理論で行動経済学を説明しようとしているが、たぶんこの種の現象を一番てっとり早く説明できるのは、彼が昔やったマルクスだろう。『資本論』が「資本家社会の富は、商品という要素の集積として認識される」という言葉で始まるのは、富が商品というメタファーに物象化(概念化)されることが資本主義の根本的メカニズムだという、きわめて重要な洞察を示している。マルクス経済学には何の価値もないが、マルクスの経済学には再評価の価値がある。
このように英語をモデルとして「日本語は主語がないので論理的ではない」という学校文法に対する批判も古くからあり、時枝文法や三上章など、「日本語の論理は英語とは違う」とする議論も多い。本書は、学校文法や生成文法を否定する点ではこうした理論と同じだが、「日本語特殊論」も批判し、日本語と英語は同じ論理の変種だと論じる。著者の理論的根拠とする認知言語学は第2章に要約されているが、くわしいことは著者の前著を読んだほうがいいだろう。
認知言語学では、意味から独立した統語論を否定し、文をメタファーの関係としてとらえる。ここでもっとも基本的なのは、外的な世界を概念化する過程であり、文法はその概念=メタファーの関係をあらわす形式にすぎない。そうした形式のルールは記号論理学として完成されており、そこには主語という概念は存在しない。たとえば「犬が走る」という文はf(x)のような関数(述語)として表現され、その複合が命題になる。多くの文は複数の述語の複合した命題であり、その論理的な関係は集合の包含関係に置き換えられる。
日本語の「象は鼻が長い」といった文が表現しているのは主体と客体の関係ではなく、象という全体集合の中に鼻という部分集合があるという包含関係だから、命題論理に近い。英語は、文の要素としての述語論理の構造に近い。両者は別の論理ではなく、同じ論理の異なる面である。出来事が「なる」ことを誰かが「する」ことだと考えるのはきわめて特殊な発想で、たとえば「雷がこわい」という文を"The thunder scares me"というように無生物を主語にする文は不自然である。主語=主体を特権的な概念とする欧米語の文法は、自己完結的な個人という西欧近代のフィクションを反映しているのだ。こうした「主体」の概念に対する批判は、ニーチェからフーコーに至る哲学者のテーマだったが、それが脳科学で検証できるようになったことは画期的だ。
20世紀の社会科学の主流は、生成文法や新古典派経済学のようなメカニカルな方法論だったが、その限界生産性はゼロに近づいた。21世紀の主流は「認知論的転回」になるのではないか。だからといって、それは新古典派が無意味だということを意味するわけではない。かつて人工知能の挫折によって人間の知的活動がアルゴリズムに帰着できないことが否定的に証明されたように、今回の金融危機で金融工学の限界が明らかになったことが、メタファー(アニマル・スピリッツ)にもとづく行動経済学を生み出し始めている。科学は理論と実証によって進歩するのではなく、このようにパラダイム(メタファー)とそれに対応する科学者集団の闘いによって変化していくのである。
民主党のマニフェストが発表され、論議を呼んでいる。選挙で政策が大きな争点になるのはいいことだが、その内容は旧態依然たる分配の政治で、違うのは自民党が財界や業界団体に配っていた金を中小企業や労働組合に回すことぐらいだ。こういう「政策転換」は、30年ぐらい前に行なわれたことがある。東京都の美濃部知事を初めとする「革新自治体」が全国に生まれ、「大資本中心の政治から福祉中心に!」とのスローガンのもと、老人医療の無料化など、巨額のバラマキ福祉が行なわれた。
その結果は、放漫財政と公務員のお手盛り昇給と財政破綻だ。組合の強い大阪府は、いまだにその後遺症に苦しんでいる。それでも自治体は、起債の限度があるため、破綻が早く来やすい。国の場合は問題を先送りできるので、夕張のようになるのは10年以上先だろう。しかし破綻したときは取り返しがつかない。IMFも指摘するように、消費税を30%から60%ぐらいに上げないと、公共サービスが維持できなくなる。与野党ともに、今の高齢者の「安心」については語るが、若い世代の将来への不安には関心がないようだ。少子化の原因はこの不安であり、子供手当による将来の負担増は、むしろ問題を悪化させるだろう。
高度成長期には、競争力の高い製造業などの成長部門が創造した富を農村などの衰退部門に再分配する所得移転が政治の役割だったが、この構造は90年代以降、決定的に変わった。日本経済の停滞によって再分配すべき原資が減り始めた状況で、今後も再分配を続けるには、将来世代から現在世代への所得移転が必要になる。900兆円近い政府債務とそれを上回る年金会計の破綻は、団塊世代からロスジェネ世代への「つけ回し」だが、このネズミ講はいずれ破綻する。
こういう問題は、経済学者がいくら抽象的な数字をあげてもだめで、日本経済が本当に夕張のようになるまで、政治家にはわからないだろう。しかしマーケットはそれを知っている。もう概算要求も出た段階で、鳩山政権が歳出削減をやろうとしても、官僚のサボタージュで来年度予算も大幅な赤字になるだろう。それを見越して、長期金利がじりじり上がり始めている。国債が増発されたら、資本逃避やインフレが起こるおそれも強い。民主党がマニフェストに明記した「製造業の派遣禁止」が実行されたら、製造業は工場を海外に移転し、雇用はさらに減るだろう。
いま問われている真の争点は、どうやってこのネズミ講を終わらせ、福祉の原資となる成長を維持するかという問題だ。「官僚中心の政治の転換」などというのは、その手段であって目的ではない。自民党は31日にマニフェストを出すそうだが、民主党の分配政治に対抗して、規制改革やイノベーションによる成長戦略を打ち出せば、勝ち目もあるかもしれない。
その結果は、放漫財政と公務員のお手盛り昇給と財政破綻だ。組合の強い大阪府は、いまだにその後遺症に苦しんでいる。それでも自治体は、起債の限度があるため、破綻が早く来やすい。国の場合は問題を先送りできるので、夕張のようになるのは10年以上先だろう。しかし破綻したときは取り返しがつかない。IMFも指摘するように、消費税を30%から60%ぐらいに上げないと、公共サービスが維持できなくなる。与野党ともに、今の高齢者の「安心」については語るが、若い世代の将来への不安には関心がないようだ。少子化の原因はこの不安であり、子供手当による将来の負担増は、むしろ問題を悪化させるだろう。
高度成長期には、競争力の高い製造業などの成長部門が創造した富を農村などの衰退部門に再分配する所得移転が政治の役割だったが、この構造は90年代以降、決定的に変わった。日本経済の停滞によって再分配すべき原資が減り始めた状況で、今後も再分配を続けるには、将来世代から現在世代への所得移転が必要になる。900兆円近い政府債務とそれを上回る年金会計の破綻は、団塊世代からロスジェネ世代への「つけ回し」だが、このネズミ講はいずれ破綻する。
こういう問題は、経済学者がいくら抽象的な数字をあげてもだめで、日本経済が本当に夕張のようになるまで、政治家にはわからないだろう。しかしマーケットはそれを知っている。もう概算要求も出た段階で、鳩山政権が歳出削減をやろうとしても、官僚のサボタージュで来年度予算も大幅な赤字になるだろう。それを見越して、長期金利がじりじり上がり始めている。国債が増発されたら、資本逃避やインフレが起こるおそれも強い。民主党がマニフェストに明記した「製造業の派遣禁止」が実行されたら、製造業は工場を海外に移転し、雇用はさらに減るだろう。
いま問われている真の争点は、どうやってこのネズミ講を終わらせ、福祉の原資となる成長を維持するかという問題だ。「官僚中心の政治の転換」などというのは、その手段であって目的ではない。自民党は31日にマニフェストを出すそうだが、民主党の分配政治に対抗して、規制改革やイノベーションによる成長戦略を打ち出せば、勝ち目もあるかもしれない。
霞ヶ関の「大異動」が話題になっている。今年の人事で事務次官が交代しなかったのは、外務・経産・農水の3省だけで、「民主シフト」が鮮明だ。鳩山代表が「局長級にはすべて辞表を出させる」とか「霞ヶ関に100人以上の政治家・民間人を送り込む」といっているのに対抗して、国交省と農水省では民主党ともめた場合の次官の「バックアップ」を用意する異例の人事が行なわれた。
局長級は、だいたい私の大学の同期がなる時期なので、個人的にも知っている人がいるが、民主党に対する「抵抗力」を重視した配置が行なわれたようだ。特に経産省では「市場派」が一掃されて「産業政策派」が主要ポストを独占し、「官僚たちの夏」が全面的に復活した。総務省も「親NTT派」の事務次官が就任して、「再々編」は骨抜きになりそうだ。
これに対して民主党の戦闘態勢はどうかといえば、はなはだ心許ない。先週のICPFの特別セミナーでも、民主党の「IT専門家」である内藤正光氏は、「ホワイトスペース」について何も知らず、周波数オークションには反対した。彼が力を入れていた「日本版FCC」などという組織いじりは、手段であって目的ではない。問題は人事や組織ではなく、意思決定を実質的に官僚から国民の手に取り戻すことだ。
そのメルクマールが、周波数オークションである。今のように官僚が「国定技術」を決めて免許人に無償で割り当てる電波社会主義が、日本の携帯電話業界が世界に立ち後れる原因になったのだが、セミナーに出てきた自民党の世耕弘成氏(NTT出身)も社会主義を変える気はないらしい。NTT労組出身の内藤氏が社会主義を擁護するのは、むしろ当然だろう。
その代わり、出てくるのは「電子政府」とか「教育・医療のIT化」などのバラマキ政策ばかり。世耕氏の紹介したのは現在の総務省の政策だからしょうがないが、内藤氏の「次の総務省」の政策も、ほとんど見分けがつかない。このように規制改革よりバラマキというバイアスは霞ヶ関の本能みたいなもので、これを逆転しないかぎり、本質的な改革はできない。
TBSのドラマ「官僚たちの夏」は視聴率も好調で、「最近珍しい社会派ドラマ」として好評だ。中身が原作とまったく違うフィクションであることは、番組のウェブサイトにも断ってあり、「昭和30年代ブーム」に乗って、日本のよかった時代を懐かしむオヤジ向けドラマらしい。昔話としては、よくできている。あのころの日本には「アメリカのように豊かになる」というわかりやすい目標があり、役所が民間をまとめることができた。
しかし今は違うのだ。官僚でさえ若手はそれに気づいているが、省内では口に出せないという。「役所は手を引くべきだ」などといったら、出世できないからだ。それをコントロールすべき民主党も、若手にはわかっている人がいるが、マニフェストに出てくるのは「官僚たちの夏」が永遠に続くかと思うようなバラマキ政策ばかり。民主党にはなるべく小さく勝ってもらって、「第三極」の結集に期待したい。
局長級は、だいたい私の大学の同期がなる時期なので、個人的にも知っている人がいるが、民主党に対する「抵抗力」を重視した配置が行なわれたようだ。特に経産省では「市場派」が一掃されて「産業政策派」が主要ポストを独占し、「官僚たちの夏」が全面的に復活した。総務省も「親NTT派」の事務次官が就任して、「再々編」は骨抜きになりそうだ。
これに対して民主党の戦闘態勢はどうかといえば、はなはだ心許ない。先週のICPFの特別セミナーでも、民主党の「IT専門家」である内藤正光氏は、「ホワイトスペース」について何も知らず、周波数オークションには反対した。彼が力を入れていた「日本版FCC」などという組織いじりは、手段であって目的ではない。問題は人事や組織ではなく、意思決定を実質的に官僚から国民の手に取り戻すことだ。
そのメルクマールが、周波数オークションである。今のように官僚が「国定技術」を決めて免許人に無償で割り当てる電波社会主義が、日本の携帯電話業界が世界に立ち後れる原因になったのだが、セミナーに出てきた自民党の世耕弘成氏(NTT出身)も社会主義を変える気はないらしい。NTT労組出身の内藤氏が社会主義を擁護するのは、むしろ当然だろう。
その代わり、出てくるのは「電子政府」とか「教育・医療のIT化」などのバラマキ政策ばかり。世耕氏の紹介したのは現在の総務省の政策だからしょうがないが、内藤氏の「次の総務省」の政策も、ほとんど見分けがつかない。このように規制改革よりバラマキというバイアスは霞ヶ関の本能みたいなもので、これを逆転しないかぎり、本質的な改革はできない。
TBSのドラマ「官僚たちの夏」は視聴率も好調で、「最近珍しい社会派ドラマ」として好評だ。中身が原作とまったく違うフィクションであることは、番組のウェブサイトにも断ってあり、「昭和30年代ブーム」に乗って、日本のよかった時代を懐かしむオヤジ向けドラマらしい。昔話としては、よくできている。あのころの日本には「アメリカのように豊かになる」というわかりやすい目標があり、役所が民間をまとめることができた。
しかし今は違うのだ。官僚でさえ若手はそれに気づいているが、省内では口に出せないという。「役所は手を引くべきだ」などといったら、出世できないからだ。それをコントロールすべき民主党も、若手にはわかっている人がいるが、マニフェストに出てくるのは「官僚たちの夏」が永遠に続くかと思うようなバラマキ政策ばかり。民主党にはなるべく小さく勝ってもらって、「第三極」の結集に期待したい。
歴史的な経済危機は、新しい経済理論を生んできた。大恐慌がケインズ理論を、そしてスタグフレーションが自然失業率理論を生んだように、今回の危機も新しい理論を生むだろうし、生まないと困る。それが何かはまだはっきりしないが、週刊ダイヤモンドの書評の仕事で『アニマルスピリット』を訳本で読みなおしてみて、この本がそれに相当する21世紀の古典になるかもしれないという気がしてきた。
ケインズはマクロ経済学という分野を創造し、フリードマンは「新しい古典派」を生んだが、同じような意味で、アカロフ=シラー以後の新しい経済学は、Cowenのように経済システムを行動経済学によって理解するようになるのではないか。それは従来の経済学のように古典力学をモデルとするものではなく、むしろ認知科学に近い。「アニマルスピリット」という言葉がケインズの用法を逸脱した拡大解釈だ、という批判はもっともで、これは行動経済学のフレームと呼んだほうがいい。
今回の危機についてのアカロフ=シラーの説明が、メタファー理論と似ているのも偶然ではない。経済学者は、金融市場では効率的市場仮説で決まる「正しい」価格と現実の(まちがった)価格の裁定でトレーダーがもうけると想定しているが、こうした仮説はこれまでも検証されたことがなく、今回の危機で完全に否定された。事実は逆で、まず「AAAの金融商品を買っておけば必ずもうかる」という物語=メタファーが市場で広く信じられ、その中身がわからないまま「ガマの油」が大量に売られたのである。
この理論に従えば、現在の危機の本質はきわめて単純だ:もともと嘘だった物語が、嘘だとばれただけなので、こぼれたミルクを元に戻すことはできない。中央銀行の本質的な仕事は金利や通貨供給の調節ではなく、市場の信頼を取り戻して新しい物語を再建する監督政策だ(これは竹中平蔵氏の経験とも一致する)。したがってマクロ指標は政策目標ではなく、市場の信頼を取り戻すための手段の一つでしかない。
物語が嘘だとばれるのは一瞬だが、人々が新しい物語を本当だと信じるには長い時間がかかる。それは政府の力だけではだめで、多くの腐った銀行や企業が整理され、人々が「膿みは出つくした」と信じるまで、アニマルスピリットは出てこない。行動経済学の多くの実験が明らかにしたように、人々は効用関数を計算して最適化しているのではなく、まずフレームを決めてその中で行動するので、国民が同じフレーム(意味)を共有することが経済の正常化の第一条件である。
池尾・池田本の副題を「金融危機の経済学」としないで「金融危機と経済学」としたのは、金融危機を経済学で分析するだけでなく、金融危機に経済学が学んで自己革新しなければならないという意味だが、今回の危機が30年代のケインズ理論のようなイノベーションを生めば、悪いことばかりでもない。昔の経済学者は、新しい理論のヒントを物理学の教科書に求めたが、これからは言語学や脳科学に学ぶ必要があるかもしれない。
ケインズはマクロ経済学という分野を創造し、フリードマンは「新しい古典派」を生んだが、同じような意味で、アカロフ=シラー以後の新しい経済学は、Cowenのように経済システムを行動経済学によって理解するようになるのではないか。それは従来の経済学のように古典力学をモデルとするものではなく、むしろ認知科学に近い。「アニマルスピリット」という言葉がケインズの用法を逸脱した拡大解釈だ、という批判はもっともで、これは行動経済学のフレームと呼んだほうがいい。
今回の危機についてのアカロフ=シラーの説明が、メタファー理論と似ているのも偶然ではない。経済学者は、金融市場では効率的市場仮説で決まる「正しい」価格と現実の(まちがった)価格の裁定でトレーダーがもうけると想定しているが、こうした仮説はこれまでも検証されたことがなく、今回の危機で完全に否定された。事実は逆で、まず「AAAの金融商品を買っておけば必ずもうかる」という物語=メタファーが市場で広く信じられ、その中身がわからないまま「ガマの油」が大量に売られたのである。
この理論に従えば、現在の危機の本質はきわめて単純だ:もともと嘘だった物語が、嘘だとばれただけなので、こぼれたミルクを元に戻すことはできない。中央銀行の本質的な仕事は金利や通貨供給の調節ではなく、市場の信頼を取り戻して新しい物語を再建する監督政策だ(これは竹中平蔵氏の経験とも一致する)。したがってマクロ指標は政策目標ではなく、市場の信頼を取り戻すための手段の一つでしかない。
物語が嘘だとばれるのは一瞬だが、人々が新しい物語を本当だと信じるには長い時間がかかる。それは政府の力だけではだめで、多くの腐った銀行や企業が整理され、人々が「膿みは出つくした」と信じるまで、アニマルスピリットは出てこない。行動経済学の多くの実験が明らかにしたように、人々は効用関数を計算して最適化しているのではなく、まずフレームを決めてその中で行動するので、国民が同じフレーム(意味)を共有することが経済の正常化の第一条件である。
池尾・池田本の副題を「金融危機の経済学」としないで「金融危機と経済学」としたのは、金融危機を経済学で分析するだけでなく、金融危機に経済学が学んで自己革新しなければならないという意味だが、今回の危機が30年代のケインズ理論のようなイノベーションを生めば、悪いことばかりでもない。昔の経済学者は、新しい理論のヒントを物理学の教科書に求めたが、これからは言語学や脳科学に学ぶ必要があるかもしれない。

内容も、当ブログや「アゴラ」で書いてきたことだ。特に強調したのは、派遣規制が労使の結託によって非正社員を労働市場から排除する身分差別だということである。それは当の派遣労働者の組合である人材サービスゼネラルユニオンが派遣規制に反対していることでもわかる:
このところ格差社会を論じる際に、間接雇用である派遣がその元凶であるという意見がたびたび出てきます。私たちは、マスコミや一部の労働界、政党から出されている、派遣イコール「ワーキング・プア」、派遣イコール「不本意な働き方」という見方には強く違和感を覚えます。福島みずほ氏は、法案発表の記者会見で「すべての労働者を正社員にさせる」と息巻いていたが、彼女の望むように「いったん雇った労働者は絶対に解雇してはならない」という法律をつくったら、パートもアルバイトもすべて失業し、日本の失業率は大恐慌なみの25%ぐらいになるだろう。さすがに菅直人氏は「政権を取っても同じ法案を出すのか」という質問に答を濁していた。どうせ社民党との選挙協力の方便だから、総選挙で民主党が単独過半数をとったら反故にするのだろう。
組合員の話を聞き、さらに厚生労働省の調査結果をみると、こうした見方が一方的であることが浮かび上がってきます。 間接雇用であるがために「不安定である」、「かわいそう」、「ひどい働き方だ」などといわれ、信念・プライドをもって派遣労働者として働く仲間は傷ついています。職業選択の自由の下、間接雇用も直接雇用も同等に「労働」であることの評価がされるべきです。
このように選挙のときだけ、お涙ちょうだいのリップサービスをするのは、昔ながらの万年野党だ。こういう無原則な機会主義が国民の信用をなくして政治の混乱が続いてきたのが「政界の失われた16年」だということは、鳩山氏も岡田氏も身にしみて知っているだろう。同じSAPIOで土居丈朗氏も書いているように、民主党の掲げる子供手当などの「17兆円の抜き打ち増税」も実現可能な政策ではなく、自民党に矛盾を攻撃されたら崩壊する。必要なのはまずマニフェストを見直し、実行できる約束だけをすることだ。
竹森俊平氏の対談シリーズの最終回のゲストは、意外にも竹中平蔵氏。しかも彼を「日本経済の恩人」と絶賛している。かつて「不況の最中に構造改革なんかやるのはバカだ」と竹中氏を(暗黙に)批判していた竹森氏が、リフレ派から構造改革派に「転向」したのはけっこうなことだが、かつての自説との矛盾の説明がいささか苦しい。
2000年代の最初の不良債権処理についての2人の意見はほぼ一致しており、当ブログや池尾・池田本で書いたこととほとんど同じだ。経済危機の本質は信頼の欠如にあり、それを回復することなしに財政・金融政策だけで危機を脱却することはできない。その意味で(中途半端に終わったとはいえ)竹中氏のハード・ランディング政策は正しかったのである。
ただ私が興味をもったのは、最後の「低成長でも健やかに暮らせればいい?」という問いだ。Welfareを「厚生」という変な日本語に訳したのは誤訳で、これは英語では「幸福」という意味の普通の言葉である。したがって福祉政策の目的も「人々を幸福にすること」であり、welfare economicsも「人々を幸福にするにはどうすればいいのか」を考える学問だ。だから幸福を最大化するためには、何が幸福なのかをまず考えなければならない。ところが経済学ではベンサム以来、welfare=wealthと定義し、富を最大化することが幸福の最大化だと考えてきた。
この単純な功利主義は、ハイエクも指摘したように、明らかに誤りだ。幸福は富と同一ではなく、その増加関数かどうかさえ不明だからである。実験経済学や行動経済学などの実証研究によれば、両者はほとんど無関係だというのが定型的事実だ。日本人の所得は1950年代から5倍になったが、「幸福度」は2.9から2.6に下がり、世界で60位前後だ。幸福=富と考えるかぎり、日本人がこれから大きく幸福になる可能性はあまり高くない。世代会計でみると、今の30代以下は不幸になるおそれが強い。
ゼロ成長で所得の再分配を極端に進めると、みんなが平等に貧しくなるだけで、財政も破綻してしまう。それよりも成長率を上げて経済全体が豊かになることが大事だ――という竹森氏と竹中氏の一致した結論は、おそらくすべての経済学者のコンセンサスだが、次の総選挙で自民・民主両党のとなえる政策とは違う。彼らは一致して「市場原理主義」を否定し、「低成長でも健やかに暮らせればいい」と主張しているからだ。
これほど経済学者の常識と世間の常識が乖離しているケースも珍しい。しかもそれは「幸せとは何か」というきわめて根本的な問題だ。現実にゼロ成長に近い状況が続く可能性が高いとすれば、そういう時代に適応して希望を捨てる政策は、少なくとも現実性という点ではかなり有力な選択肢であり、議論に値する。ただ2005年の総選挙で「日本をあきらめない」というスローガンを掲げた民主党が、今それとは逆の政策を進めていることぐらいは自覚してほしいものだ。
2000年代の最初の不良債権処理についての2人の意見はほぼ一致しており、当ブログや池尾・池田本で書いたこととほとんど同じだ。経済危機の本質は信頼の欠如にあり、それを回復することなしに財政・金融政策だけで危機を脱却することはできない。その意味で(中途半端に終わったとはいえ)竹中氏のハード・ランディング政策は正しかったのである。
ただ私が興味をもったのは、最後の「低成長でも健やかに暮らせればいい?」という問いだ。Welfareを「厚生」という変な日本語に訳したのは誤訳で、これは英語では「幸福」という意味の普通の言葉である。したがって福祉政策の目的も「人々を幸福にすること」であり、welfare economicsも「人々を幸福にするにはどうすればいいのか」を考える学問だ。だから幸福を最大化するためには、何が幸福なのかをまず考えなければならない。ところが経済学ではベンサム以来、welfare=wealthと定義し、富を最大化することが幸福の最大化だと考えてきた。
この単純な功利主義は、ハイエクも指摘したように、明らかに誤りだ。幸福は富と同一ではなく、その増加関数かどうかさえ不明だからである。実験経済学や行動経済学などの実証研究によれば、両者はほとんど無関係だというのが定型的事実だ。日本人の所得は1950年代から5倍になったが、「幸福度」は2.9から2.6に下がり、世界で60位前後だ。幸福=富と考えるかぎり、日本人がこれから大きく幸福になる可能性はあまり高くない。世代会計でみると、今の30代以下は不幸になるおそれが強い。
ゼロ成長で所得の再分配を極端に進めると、みんなが平等に貧しくなるだけで、財政も破綻してしまう。それよりも成長率を上げて経済全体が豊かになることが大事だ――という竹森氏と竹中氏の一致した結論は、おそらくすべての経済学者のコンセンサスだが、次の総選挙で自民・民主両党のとなえる政策とは違う。彼らは一致して「市場原理主義」を否定し、「低成長でも健やかに暮らせればいい」と主張しているからだ。
これほど経済学者の常識と世間の常識が乖離しているケースも珍しい。しかもそれは「幸せとは何か」というきわめて根本的な問題だ。現実にゼロ成長に近い状況が続く可能性が高いとすれば、そういう時代に適応して希望を捨てる政策は、少なくとも現実性という点ではかなり有力な選択肢であり、議論に値する。ただ2005年の総選挙で「日本をあきらめない」というスローガンを掲げた民主党が、今それとは逆の政策を進めていることぐらいは自覚してほしいものだ。
逆にいうと、経営者を入れ替えて戦略を立て直せば、ガラパゴスと馬鹿にされている技術を世界に売り込むこともできるはずだ。本書は、そのためのフレームワークを提唱し、いくつかのケースを「進化論」的な枠組で分析している。日本の製造業が要素技術ではすぐれていながら収益が上がらない原因は、モジュール化によって「すり合わせ」の優位性が生かせなくなったからだ、というのはおなじみの議論だが、この程度の認識もなしに「ものづくり」にこだわる経営者が多い。
問題は、どうすればこの隘路を突破できるのかということだが、そこに意味的価値という概念が出てくるのがおもしろい。iPhoneは、物理的な要素技術では日本の携帯に劣るが、そのおしゃれなデザインやソフトウェアとの連携、AppStoreによってユーザーがアプリを開発できるしくみなどのコンセプトがすぐれているのだ。こうした「意味」は要素技術に分解できず、コンセンサスで作り出すこともできない。スティーブ・ジョブズという個性によってしか生み出すことはできないのだ。
イノベーションを「産学連携」や「埋もれた知的財産の発掘」によって生み出そうという霞ヶ関のアプローチは、日の丸検索エンジンやスパコンの戦艦大和のような「奇形的進化」を生み出すだけだ。最近の認知科学が発見したように、最初にフレーム(意味)があって行動が決まるのであって、その逆ではない。そして多くのフレームの相互作用の中から意味が生成する言語ゲームは進化的なので、何が生まれるかは予測できない。必要なのは「国営マンガ喫茶」ではなく、新しい企業や新しい経営者によって、なるべく多くの突然変異を生み出す制度設計だろう。
Marginal Revolutionで知ったが、ポール・ローマーがスタンフォード大学を辞め、世界各国に「特区」をつくるビジネスに専念するそうだ。彼は電子学習システムの会社を設立してIPOで巨額の利益を得ており、大学の給与はもう必要ない(ノーベル賞にも大学のポジションは不要)。世界銀行のチーフ・エコノミストになるよう求められたが断り、自分で世界を変える会社をつくるわけだ。上のYouTubeの講演は、その決意表明のダイジェスト版である。
ローマーは世界のすべての政府に参加を呼びかけるそうだから、民主党も彼に業務委託して、霞ヶ関のおもちゃにしかなっていない沖縄特区を、日本だけでなく世界を変える根拠地にしてはどうだろうか。彼の理論をてっとり早く知るには、このプロジェクトの仕掛人でもあるWarshの本が便利だ。
革命の経験をすることは、それについて書くよりも愉快であり、有益である。――レーニン

ベンは「フリードマンとシュワルツは正しかった。FRBは1930年代の過ちは繰り返さない」といったそうだけど、彼はわれわれの本をちゃんと読んだのかね。アンナと私が書いたように、FRBの金融引き締めが大恐慌を拡大したのは1933年までで、その後の主な問題は金融じゃない(たぶんFDRが実質賃金を上げたことだ)。今はもう流動性不足じゃないんだから、これ以上通貨供給を増やすのは有害無益だ。大恐慌と今回とはまったく違うんだよ。
天国から見ていると、今回の状況はむしろ70年代のスタグフレーションに似てるね。あのときも原油価格の高騰に対して政府が右往左往し、無原則なバラマキ財政でインフレを拡大し、経済を破綻させてしまった。私が60年代に提唱した「自然失業率」の意味を人々が理解し始めたのは、こうした破局のあとだった。私が言ったのは、単純なことだ:人々はマクロ的な予想にもとづいて行動するので、それが市場で正しく調整されるためには一定のルールが必要だ。政府が場当たり的に介入すると、その予想が混乱して問題はかえって悪化するんだよ。
70年代には財政政策が問題だったが、いま問題なのは銀行監督政策の混乱だ。ベア・スターンズを助けてリーマンをつぶしたのはなぜか、ベンは一度も論理的な説明をしたことがない。「あのときはあわてたので間違えた」というなら、正直にそう認めて、今後はどういうルールで運営するのかを明確にしないと、銀行も企業もどうしていいかわからない。この混乱が続くと、70年代のスタグフレーションのように長期化するリスクもある。
今のようにすべての銀行にジャブジャブ金をつぎんこんでいる状態は、いつまでも続けられない。日本の90年代のように、いずれは整理しなければならない。大事なのは資本注入ではなく、資産査定を厳格にやって助かる銀行とそうでない銀行をはっきりさせ、前者には資本注入する一方、後者はすみやかに破綻処理することだ。そうしないと、助からない銀行はいつまでも実態を隠して追い貸しを続け、危機が長期化する。
要するに、大恐慌と今はまったく違うが、危機管理の本質は同じなんだよ。危機を克服するのは最終的には個人の努力であり、政府やFRBの役割はそれをサポートするためにルールを決めて実行することだ。ベンは自分がどれだけ賢いと思ってるか知らないが、市場より賢くなることはできない。問題は政府の裁量じゃなくてルールなんだよ。これは私が半世紀前からずっと言ってきたことなんだが、彼はまだわかってないみたいだな。


ついでに、ミラーニューロンについての訳本が2冊出たので、紹介しておこう。リゾラッティ=シニガリア(左側)は、ミラーニューロンの発見者による研究書で、「生物学におけるDNAの発見に匹敵する」という茂木健一郎氏の賛辞がついているが、一般の読者にはイアコボーニの解説書で十分だろう。
他人の感情を理解するメカニズムとして、一時期の脳科学では他人の行動から感情を推論するアルゴリズムを想定したが、これではたとえば親子の愛情などは理解できない。リゾラッティたちは90年代初めに、偶然「人の気持ちがわかる」ミラーニューロン発見した。猿がものをつかむと発火するニューロンを調べる実験で、猿が休んでいるとき、たまたま観察している人間がものをつかむと、同じニューロンが発火したのだ。最初その意味はよくわからなかったが、彼らはメルロ=ポンティにヒントを得て、これを認識と身体をつなぐ器官だと考えた。
メルロ=ポンティはカントを批判して、人間の知覚は超越論的主観性のような抽象的観念に支配されているのではなく、身体そのものが主体なのだと論じた。もちろん彼の時代には、具体的にどういう器官が主観性をになっているのかはわからなかったが、もしかするとミラーニューロンがその一部かもしれない。レイコフなどの言語学者も実験を行ない、人がものを食うとき発火するニューロンが、小説で食事の場面を読んだときにも発火することを発見した。つまり脳の中の言語とか観念によって意思決定が(合理的に)行なわれ、身体はその決まった行動を実行するだけ、というデカルト的な心身二元論が逆転され、むしろ身体や行動からのフィードバックによって言語や観念が形成されることがわかってきたのだ。
この「革命」はまだ進行中なので、その射程がどれほど大きいのか、あるいは経済学のような経験科学で検証可能な結果をもたらすのかどうかはっきりしないが、ニューロエコノミックスではミラーニューロンを扱い始め、アダム・スミスの「共感」とミラーニューロンを結びつける研究も出ている。未来の経済学の教科書は、脳科学の章から始まるようになるかもしれない。
第1部・第2部はブッシュ政権がいかに凶悪な世論操作を行なってきたかというプロパガンダで、いま読む価値はないが、第3部はこれを学問的に論じている。おもしろいのは、前に「認知論的転回」として紹介した社会科学や心理学のいろいろな理論をメタファーに結びつけていることだ。中でも重要な役割を演じるのは、カーネマンなどの行動経済学のフレームの概念で、これをピンカーの心理言語学やゴフマンのフレーム分析や人工知能のフレーム問題とも結びつけている。
注目されるのは、著者がこうしたフレームの脳科学的な基礎を明らかにしていることだ。これがミラー・ニューロンで、ある行動を起こすとき発火するニューロンが、他人の同じ行動を見るだけで発火するというものだ。ミラー・ニューロンは1990年代に発見されて、いろいろな分野で注目されており、著者はこれを行動と認識がフレームで結びつけられていることを示す革命的な発見と評価している。
著者は、こうした新しい科学革命が人文・社会科学の多くの分野で同時に起こっていると論じる。それはデカルト以来のメカニカルな合理性をモデルとする「古い啓蒙主義」を克服し、脳の活動がフレームによって合理的に組織される過程を分析する「新しい啓蒙主義」だという。それは古い啓蒙主義を特殊な部分として説明できる。たとえばチョムスキーの理論でうまく説明できない(所与のカテゴリーでしかない)品詞はフレームの典型で、ニューロンの発火にも対応している。
認知科学の成果を取り入れるのは20世紀の社会科学の主流だったが、経済学だけは古い啓蒙主義で科学性を装うことができたので、こうした潮流とは無関係だった。しかし幸か不幸か古典力学のメタファーは破綻し、多くの研究者が合理主義モデルから逃げ出し始めている。本書で紹介される成果のかなりの部分はCowenと重複しており、著者が賞賛する新しいパラダイムのヒーローはカーネマンである。ようやく経済学も「普通の社会科学」になるのだろうか。
「反哲学」という言葉には、そもそもphilosophy(知を愛すること)を「哲学」などと訳したのが誤訳だという意味もこめられているのだが、解説の中心は何といってもプラトン以来の哲学を全面的に否定したニーチェである。日本では、ニーチェというと『ツァラトゥストラ』の文学的なイメージでとらえられることが多いようだが、あれは本来の「主著」の導入ともいうべき叙事詩で、ニーチェの本質は『力への意志』と名づけられている未完成の遺稿を読まないとわからない。
著者の専門であるハイデガーも、ニーチェの圧倒的な影響を受けており、デリダもドゥルーズもフーコーも「新ニーチェ派」といってもいいぐらい影響を受けている。その原点を著者は、ハイデガーの存在論に求める。彼の本来の思想は『存在と時間』より、晩年の『ニーチェ』講義にわかりやすく書かれている。それはプラトン以来の、世界を(神に)つくられたものと考える西洋の存在論を否定し、存在を世界になるものととらえる存在論で、この点ではニーチェもハイデガーも一致しているのだ。
これは西洋人には非常にむずかしい問題で、ハイデガーも答を出せないまま世を去り、ポストモダン派は「本質の現前としての存在論の解体」の部分しかいわない。しかし著者は丸山眞男の「「つぎつぎに・なりゆく・いきほひ」を引き合いに出し、西洋圏以外ではむしろ世界を誰かがつくったなどという存在論のほうが変なのではないか、と論じる。これが「特殊西洋的な思考法としての哲学を否定する」という反哲学のもう一つの意味だ。
丸山は「つくる」世界観が近代的で、「なる」世界観はアジア的後進性と考え、荻生徂徠に前者の先駆を求めたのだが、これは文献学的にはともかく経済史的には注目すべき論点を含んでいる。産業革命がなぜ18世紀のイギリスで生まれたのか、という難問の答の一つとして、株式会社という人工的組織(Gesellschaft)が重要なイノベーションだったのではないかという説が最近、有力だからである。この文脈で、大塚史学や講座派マルクス主義なども見直す価値があるかもしれない。
ゲゼルシャフトでは、個人を自己完結的な合理的主体と想定する。そういう単純化にもとづいた(新古典派経済学的な)経済システムが効率的であることは、歴史的にも証明されたが、それが不自然で不愉快で不平等なシステムであることも証明された。われわれの社会がもう十分豊かだと思う人は、これ以上の経済成長よりも静かで平等で安定した社会を求める「反資本主義」を構想することも可能だと思う。しかしそれには『蟹工船』レベルのお涙ちょうだいではなく、ニーチェやハイデガーにつりあうぐらいの超人的な知性が必要だ。
金融理論については、効率的市場仮説(EMH)や金融工学を批判しているのは当然だが、今回の失敗は金融工学の欠陥といった高級な問題を持ち出さなくても説明できる。Black-Scholes以来の金融工学は、すべての資産価格がランダムに動く(分散や相関が一定)と仮定しているので、今回のようにすべてのバブルが一挙に崩壊するといった強い相関が発生した場合には、そもそも金融工学を使うのが間違っていたのだ。
だから真の問題は、DSGEや金融工学が役に立たないことではなく、それより役に立つ理論があるのかどうかということだ。MITのAndrew Loは、EMHの代わりに市場参加者が試行錯誤によって価格を決める"adaptive market hypothesis"を研究している。ここでは人々は合理的ではないが、市場はきわめて競争的で、誤った予測をしたトレーダーは淘汰される。この理論のモデルは物理学ではなく、生物学や生態学における進化の理論である。
Loは、今回の経済危機を単なるマクロ経済的な不況と考えるのではなく、航空機事故のような複合的事故と考え、その原因を心理学や政治学などの専門家の協力も得て検証する事故調査委員会をつくってはどうかと提案している。私も同感だ。特に日本の90年代については計量的な検証も十分ではなく、当事者への聞き取り調査さえ行なわれていない。民主党政権になったら、国政調査権を使って「失われた20年の事故調」をつくってはどうか。
このように経済学が直面している危機についても、行動経済学的な検証が必要だ。New Classicalのマクロ理論が実証に耐えないことは、30年前から指摘されてきた。それでもこういう「別世界」の理論しか一流のジャーナルに載せてもらえないのは、Levittも指摘するように、経済学界そのものに中身より飾りを重視する強いバイアスがあるからだ。
経済学者のほとんどは、真理を探究しているわけでも政策提言するために研究しているわけでもなく、学界で出世するにはどういう論文を書けばいいかを考えているだけだ。これは現在の学界のバイアスを所与とすれば合理的な行動だが、それがここまで世間に大きな迷惑をかけたのだから、経済学界のあり方にも「事故調」が必要だろう。
日本の学校は単に勉強する場ではなく、地域の生活や家庭の関係などもすべて反映する共同体になっているため、それに適応できない異端児は、いじめによって全人格的に排除される。いったん排除される対象が決まると、正のフィードバックが生じて他の子供がいじめに「群生」し、ときには自殺のような悲劇的な結果をまねくまで止まらない。
他方、学校もこうした行動にあまり介入せず、子供たちを学校のルールを守って「仲よくさせる」ことで解決しようとする。しかし学校の秩序に子供を組み入れても、問題は解決しない。なぜなら、地域の公共空間から隔離され「閉鎖空間でベタベタすることを強制する学校制度」の構造こそがいじめを生み出しているからだ。
著者はこれを中間集団全体主義とよぶ。日本は戦後、個人を企業や学校などの中間集団に同化させることによって秩序を安定させ、発展をとげてきた。政府は中間集団に介入して保護することには積極的だったが、中間集団内の権力から個人を守ることにはまったく注意を払わなかった。このため個人に過剰な同調圧力がかかり、心理的なストレスを生んできた。そのひずみが今、いじめや非正社員といった形で顕在化しているのだ。
戦後の日本で、よくも悪くも社会のコアになっていた企業や学校などの小集団の求心力が低下した今、中根千枝氏なども指摘するように、もともと日本社会には小集団をコーディネートする構造が存在しないので、混乱を収拾することはきわめてむずかしい。いま永田町で起きている「麻生いじめ」も、こうした日本社会の調整メカニズムの欠如を象徴しているのではないか。
ナッシム・タレブが、FTで「今回の危機をまねいた本質的な原因は過剰債務だ」とのべている。伝統的な(完全情報の)金融市場では、株式と債務は同等だが、現実の世界では債務は次の点で欠陥がある:
- 破綻処理が困難である:株式の場合はITバブルのときのように、企業が破綻したら株券が紙切れになって終わりだが、債務は債務者の資産価値が落ちても軽減されないので、債務削減や清算の手続きが複雑になる。
- 市場の変化に適応できない:グローバル化やインターネットによって市場の変動が大きくなり、金融契約が複雑化した世界で、一定の金利を保証する金融契約はリスクが大きい。
- 経済状況の変化を反映しにくい:企業業績が大きく落ちた場合、株式の場合は個々の銘柄の配当の変化に反映されるが、金利は債務不履行になるまで返済されるので、企業の潜在的リスクがわかりにくい。
この傾向を彼は自閉症(autism)と表現する。これはかつては特殊な病気と考えられたが、最近では広い範囲に(多かれ少なかれ)みられる機能障害の一種と考えられている。人間関係がうまくいかないので社会的活動には支障をきたすことがあるが、集中力が強いので、共同作業する必要のない芸術家や科学者には自閉的なタイプが多い。たとえばゴッホ、メルヴィル、スゥイフト、アインシュタイン、チューリング、ジョイス、ヴィトゲンシュタイン、バルトーク、グレン・グールドなどはそういう傾向があったという記録が残されている。
このような人々にとって、くだらない人間関係に煩わされないで創作活動に専念できるインターネットは福音だ。創作は、今はブログやSNSのような断片的な形で生まれているが、それが古いメディアをしのいで主要な表現形式となる日は、たぶんそう遠くないだろう。本やレコードは資本主義の生んだ特殊なパッケージにすぎず、後者はすでに滅亡の淵にある。学会誌に投稿して3年後に掲載されるなどという古代的な習慣は、ウェブベースのディスカッションペーパーに置き換えられようとしている。
この新しいメディアでもっとも重要なのは、膨大なゴミの山から読むに値する情報だけを選別する自閉的テクノロジーである。人間の神経系は、そういう機能を進化させてきた。行動経済学では、情報の重要性をあらかじめ順序づけることをバイアスと呼んでいるが、人はバイアスなしにすべての情報を平等に認識することはできない。たとえばわれわれのまわりにはあらゆる波長の電磁波が飛び交っているが、目に見えるのはそのうちわずか300nmの波長幅の可視光線だけだ。
特に重要なのは、フレーミングと呼ばれる行動だ。これは言語学や心理学や脳科学でも重要な研究対象になっており、もちろん行動経済学の中心概念でもある。その意味で、本書は『ブラック・スワン』の次に読まれるべき本だ。タレブが暴露したのは、金融工学の美しい体系が実はご都合主義的なフレーミングにすぎないということだったが、本書はさらに進んで(心理学・脳科学と同様に)すべての認知行動はフレーミングであると主張しているからだ。これはアカロフなどが強調する物語の概念とも共通する。
こうした思想は、実はそう新しいものではなく、歴史をたどればクーンの「パラダイム」や心理学の「ゲシュタルト」、マイケル・ポラニーの「暗黙知」、そしてその元祖であるマッハの懐疑主義にゆきつく。マッハは『力学史』で、ニュートン力学を批判した。それはマクスウェルの電磁気学と両立しない「世界についてのニュートンの物語」にすぎないというのだ。この指摘がアインシュタインに天啓となって、特殊相対性理論を生み出した。このようなフレーミング機能に障害のある人が自閉的にみえるわけだ。
既存の社会科学をニュートン力学のような特殊な物語にしてしまう、まったく新しい21世紀の社会科学を生み出すのは、もしかすると国際学会でも査読つき論文でもなく、ペレルマンのようにウェブにDPを投げたまま姿を消す自閉的な天才かもしれない。

まず問題なのは「タテ社会」というタイトルだ。これは著者もミスリーディングだと認めているのだが、もう定着してしまった。本来これは日本社会はヨコの連携の弱い小集団の集合体だという意味で、集団内ではむしろタテの階級構造があまりなく(建前上は)平等に近い。小集団はイエ(家族)とムラ(村落)の2層構造になっており、同じムラの中でもウチとヨソは違うが、つきあいはある。ただムラを超えた交流はほとんどなく、近世以前は国家意識はまったくなかった。
この構造は、日本人が思っているほど普遍的な「共同体」ではなく、アジアでも他の国にはほとんど見られないという。東南アジアでは個人間のネットワークはもっとゆるやかで、一人が多くのネットワークに同時に所属し、その所属もしばしば変わる。これに対して日本人の小集団に対する帰属意識はきわめて強く全人格的で、ほとんど変更されない。これは学校や職場にも持ち込まれ、学歴や職歴が一生ついてまわる。
こうした小集団――組織でいう現場――の自律性と機動性が世界でもまれに見るほど強いのが、日本社会の最大の特徴だ、と著者はいう。日本企業でも「工場長あって社長なし」などといわれるが、本書はその理論的な説明が弱い。経済学者なら、たぶん繰り返しゲームで説明すると思うが、一般的なフォーク定理からはこういう特殊な小集団は出てこないので、何か日本固有の歴史的・地理的な環境が作用したのだろう。土地が狭く、水利圏があまり広くなかったことが影響しているのだろうか。
もう一つの問題は、こういう小集団をどうやって束ねるのかということだが、これについての本書の説明は「軟体動物」というメタファーに依存していて弱い。ゲーム理論でいうと、長期的関係による「暗黙の契約」の拘束力が強いので実定法は必要なく、農民は武器を取り上げられたので戦争も少ないから、ムラをまとめる強いリーダーシップもいらない。兵士が優秀だから将校が無能でもいいのだ。
ただ近代国家となるとそうもいかないので、ここにプロイセンの行政中心の実定法主義を接ぎ木したわけだ。しかし川島武宜も嘆いたように、明治期に輸入された大陸法の体系は、ついに日本に根づかなかった。もし岩倉使節団がイギリスの君主制を学んでいたら、日本の近代化はもっとスムーズにいったような気もする。
産業政策を礼賛する番組を、50年前の昔話だと思ってはいけない。総務省は7月3日、「電波新産業創出戦略」なるターゲティング政策を打ち出した。それによれば、上の図のように
2015 年までに5つの電波利用システムを実現し、2020 年までにさらにこれを高度化・発展させることが不可欠である。すなわち、これらシステムごとの周波数配分・研究開発推進の連携施策を5つの「電波新産業創出プロジェクト」として創設し、2010 年代の新たな電波利用システムの実現を推進するエンジンとして位置づけるとのことだ(強調は引用者)。この審議の過程では、経産省からさえ「役所が周波数や技術まで決めるのは時代錯誤だ」として、周波数オークションの導入を求める意見がパブリック・コメントの原案に書かれたが、それも無視され、100年前と同じ命令と統制(command and control)によって、総務省が最適な技術と業者を選んで電波を割り当てる。かつて通産省が「有望」な業者に外貨を割り当てたのと同じだ。「電波利用制度の抜本的見直し」という項目には、ホワイトスペースの「技術的検証」を行なうと1行書いてあるだけだ。
こういう政策がいかに異様なものであるかは、海外と比べればわかる。たとえば昨年、行なわれたアメリカの700MHz帯のオークションでは、落札した業者がその帯域を何に使うかについての制限はない。他社にも端末を開放せよという条件はついたが、基本的には他の無線通信に干渉しなければ何に使ってもよい帯域免許である。急速に進歩する無線技術の世界で、役所が勝手に「戦略」を決めて業者に押しつけるのは有害無益だからである。
総務省がこのような「命令」方式で電波と技術を割り当てた結果、日本の第2世代携帯電話はPDCという規格で「国内統一」されて携帯業界はガラパゴス化し、現在に至っている。地デジ(ISDB-T)も、日本以外ではブラジルとチリだけで使われる「南米規格」である。かりに上の図のような電波利用が2020年に可能になるとして、どの分野がもっとも有望で、どういう業者が最大の収益を上げられるか、総務省は正確に予想できるのだろうか?
もしできなければ、誤って割り当てた電波を再配分するには最低10年かかる。この「戦略」で確実に利益を得るのは、毎年600億円以上の電波利用料を「研究費」として使える総務省の天下り先(NICTなど)ぐらいだろう。かつての「国民車構想」が実現しなかったことは日本の自動車産業にとって大きな福音となったが、この「電波新産業創出戦略」が実現すると、日本の電波産業はGMのようになるのではないか。