|
|
|
-- 悲しさと怒りと−1 「海軍特別攻撃隊」(奥宮正武著)当時海軍中佐もその著書で 「自らの意志で、特攻に参加した背景には」日本の国民性があった。 ととんでもない表現をしている。 奥宮の云わんとしたことを忖度すれば、 恥と名誉の文化を指すものと考えられる。 もし、恥だったとしても、 それは特攻に指名、若しくは命令された者の側に生じる問題で、 特攻を指名し命令した立場の人間に言及していない。 よって彼奥宮は卑怯な 人間の部類に入ると筆者はみなす。 彼らはあまりにも思い上がっている。軍務に服することは、戦争中なら死と隣り合わせで であるが、あくまでも役務を提供するものであって、殺生与奪を含め全生命を預託するものではない。 1944年10月1日、全部隊が特攻を意味する第721桜花(人間爆弾)飛行隊を編成しているのだ。 また、何人といえども人の命をもてあそぶ権利を与えられていない。 元山空、特攻戦死者40人中、兵学校出身者は2人。 奥宮正武のいう「自らの意志で、特攻に参加」 であれば、海兵出身者は「自らの意志で特攻に不参加」であり人間としての クズが海軍兵学校出身者ということになる。明らかに、海軍兵学校出身者は 自らが犯した犯罪行為を糊塗しようとしている。 |
-- 悲しさと怒りと−2 | |
出典:戦史叢書沖縄・台湾硫黄島方面陸軍航空作戦 | 航空特攻に対応するため沖縄島の四周にこのようにレーダー装備のピケット艦を配置した。 特攻機はまずこのピケット艦に発見されたし、多くはこれらの艦艇に突入した。 4月6日の特攻作戦で北方第一配置点と第二配備点のピケット艦が沈没した。 その後この北方配備点1と2にピッケト艦が増強され、駆逐艦2、支援揚陸艇4が投入された。 |
-- 悲しさと怒りと−3 特攻に関して海軍関係者の記述は愚輩からみると卑怯である。例えば、最大公約数的に 『特攻は問題があったかも知れないが・・・・、ただ、英霊の御冥福をお祈り申し上げる』と 問題をすり替えている。英霊を追悼することと、責任を追及することは全く別のことである。 特攻→英霊追悼と詭弁を弄する。中澤 佑,黒島亀人,源田 実。憂国の志呼ばわりは、彼らの犯した 犯罪の片棒を担ぐことと同義である。人として越えてはならない一線を彼らは越えた。 組織にあって一人を失うことは何万分の一かもしれないが、肉親にあってはその全てを失うのだ。 この地球に殺人を許容する民族は存在しない。なぜなのか?。人として越えてはならない一線なのだ。 日本を救うのは諸君の双肩にかかっている。一矢を報いる。一機よく一艦を屠る。 命の尊厳を無視した特攻の結果で、1万トンを越える大型艦艇は1隻もいない。撃沈艦艇排水量合計 44,925トン 空母加賀(38,200トン)+軽巡矢矧(6,700トン)の二隻分である。 いかに航空特攻が 非科学的状態で実行されたか知って頂きたい。 軍令部総長及川,次長伊藤整一,作戦部長中澤 佑(1943/6/14〜1944/12/4), 黒島亀人(1943/6/14〜1945/5/26),源田 実らが 実行した愚かな結果である。 学級崩壊や、いじめが話題になる昨今、本気で次代を担う子供たちに、 普通に生きることさえままならなかった時代を生きた、若者の存在を伝えて欲しい。 |
航空特攻による全沈没艦艇 | ||||
沈没年月日 | 艦 名 | 艦艇番号 | 艦艇種別 | 排水量 |
1944/10/25 | St Lo | CVE-63 | 護衛空母 | 6,730 |
1945/1/4 | Ommaney Bay | CVE-79 | 護衛空母 | 6,730 |
1945/1/6 | Hovey | DMS-11 | 掃海駆逐艦 | 1,190 |
Long | DMS-12 | 掃海駆逐艦 | 1,190 | |
1945/1/7 | Palmar | DMS-5 | 掃海駆逐艦 | 1,190 |
1945/1/11 | Belhnap | APD-34 | 高速輸送艦 | 1,090 |
1945/4/6 | Bush | DD-529 | 駆逐艦 | 2,050 |
Colhoun | DD-801 | 駆逐艦 | 2,050 | |
BushとColhounはレーダーピケット艦として配置に付いていた。 | ||||
Emmons (taiwan) | DMS-22 | 掃海駆逐艦 | 1,190 | |
LST-447 | 戦車揚陸艦 | 1,490 | ||
1945/4/12 | Mannert L Able | DD-733 | 駆逐艦 | 2,200 |
1945/4/16 | Pringle | DD-477 | 駆逐艦 | 2,050 |
1945/5/3 | Morrison | DD-560 | 駆逐艦 | 2,050 |
Luce | DD-522 | 駆逐艦 | 2,050 | |
Little | DD-803 | 駆逐艦 | 2,050 | |
1945/525 | Bates | APD-47 | 高速輸送艦 | 1,275 |
1945/5/27 | Drexler | DD-741 | 駆逐艦 | 2,200 |
1945/6/10 | William D Porter | DD-579 | 駆逐艦 | 2,050 |
1945/6/16 | Twings | DD-591 | 駆逐艦 | 2,050 |
1945/7/28 | Calaghan | DD-792 | 駆逐艦 | 2,050 |
合計 | 44,925 |
-- 民族の誇りとして -- 多くの若者が、生から死への重圧のなかで、自らのためでなく、愛する者のために一身を投げ出し、 ハイテク兵器の対空レーダーシステムと米艦載機群をかいくぐり、 更にVT信管付対空砲弾の弾幕をかわし、フィリピン沖や沖縄近海の 米艦船に突入し果てた。出撃機数 2,367機。戦死 2,165名、突入機数 244機。ほぼ同数の 至近突入(レイテ戦記;大岡昇平/著)があった。決して戦争を賛美するものではないが、 彼ら特攻に散った若人は 民族の誇り として誰かが永遠に語り継いでやらねばならない。 日本軍は「一機よく一艦を屠る」として特攻を正当化したが,その企図は、厳密な科学的な「特攻機の打撃力」を 計算したものとは言えない。特攻機とその搭載する爆弾の破壊力は、 投下した爆弾や砲弾よりも遥かに小さい。 筆者(当Web管理者)も、大和特攻に関連して主として海軍航空特攻を調べたが、 悲しく辛い作業だった。 今日の平和をもたらすために捧げた命と、 若者の苦悩と涙に深い感謝と哀悼の誠を捧げたい。 ぜひ、精神が腐りきっている 海軍の人間爆弾 "桜花" の開発史を知って欲しい。 君はそれでも 志願で特攻があったと信じるか! 誰が、あれほど人間の尊厳を踏みにじった死を強制したのか。そしてその犯罪者らの 責任の追及を放棄したのか。今からでも遅くはないこの問題をキチント検証することが、平和を享受 している飽食の時代に生きる者の責任である。 それこそが特攻で死んだ "英霊" に 安らかにお眠り下さいと応える最短のみちであろう。 特攻で亡くなった若者と、このような悲劇的な戦争発起したA級戦犯とされる者達らは、 間違いなく加害者と重なる。 靖国神社に祭られている者は全て被害者の立場だ。その被害者の中に加害者とされる人間の存在を否定できないであろう。 |
特攻(外道の統率と人間の条件) 森本忠夫/著 文芸春秋:刊 1992/06発行より 「もし貴様が生き残ったら、戦闘機が爆弾を抱えて体当たりしなければならなかった事実を、きっと後世に伝えてくれ」 陸軍特攻隊八紘隊 馬場駿吉少尉 同書 「かつて、千々に乱れた心を振り切り、最後には凛然として、積乱雲の峰を越え、 殉難の阿修羅となって、無辺の彼方にかき消されていった日本の若者達の非業の死を、私たちの世代は語り 継がねばならないのである」
レイテ戦記 大岡昇平/著 中公文庫:刊 1974/10発行より |
航空特攻に関して、戦艦大和が出撃沈没した1945年4月6〜7日の二日間を調べた。
一人ひとりの名前を追いながら、彼ら若者に非情にも次々と強制戦死を命じた、陸軍菅原道太、海軍
宇垣 纏の冷血さに限りない憤り禁じ得ない。特攻に関する出版物も海軍特攻が圧倒的に多い。陸軍知覧・都城基地から
沖縄特攻に向かって出撃し戦死した者439人。 海軍597人。 沖縄戦で陸海双方で1,036人。 太平洋戦争中、国に殉じた航空特攻の数は2,406機、隊員は 3,863人に及んだ。 海軍の特攻艇「震洋」や人間魚雷「回天」による戦死者も含めると 5,852人に達するという。 大和以下特攻艦隊生存者(戦死者・内訳)はこちら。 なお、本特攻作戦の戦死者 4,044 人 これら航空特攻を支えた、航空艦隊司令長官,基地司令、飛行長が戦後どのような余生を送ったのであろうか。 良心の呵責が起きなかったのであろうか?・・・・・・ |
特別攻撃隊 特攻隊慰霊顕彰会編纂 (1990年[平成2年]・非売品) |
海軍特攻隊 | ||
区分 | 地域 作戦名等 | 戦没者 |
航空 | 比島方面作戦(比島航空特攻) | 419 |
サイパン・硫黄島方面作戦 | 56 | |
沖縄特攻直前(敵機動部隊) | 399 | |
菊水1号〜作戦 | 1,590 | |
本土来襲機動部隊 | 67 | |
航空特攻 計 | 2,531 | |
潜水 | 特殊潜航艇 | 440 |
回天特別攻撃隊 | 104 | |
水上 | 震洋特別攻撃隊(ベニヤ艇) | 1,081 |
海軍特攻 合計 | 4,156 | |
陸軍特攻隊 | ||
区分 | 地域 作戦名等 | 戦没者 |
航空 | 比島方面作戦(比島航空特攻) | 276 |
沖縄特攻直前(敵機動部隊) | 1,020 | |
南西方面(スマトラ沖,同島上空) | 66 | |
内地及び満州(B-29突入含む) | 55 | |
航空特攻 計 | 1,417 | |
陸上 | 丹波戦車特別隊 | 9 |
水上 | 海上挺身隊 | 263 |
陸軍特攻 合計 | 1,689 | |
両軍 計 | 5,845 |
軍 別 | 全 体 | 比島航空特攻 | 沖縄航空特攻 | 他地域航空特攻 | 航空特攻 計 |
海 軍 | 4,156 | 419 | 1,590 | 522 | 2,531 |
陸 軍 | 1,689 | 276 | 1,020 | 121 | 1,417 |
計 | 5,845 | 695 | 2,610 | 643 | 3,948 |
現在のところ、前掲の表が特攻に関して一番正確な数字であるとされる。5月24日実行された義烈空挺隊による沖縄強行着陸作戦。義号作戦戦死者は含まれていない。 |
1945年5月 特攻戦果に疑問あり 未完成空母阿蘇 爆撃実験 |
1945年(昭和20年)に入ると撃沈したはずの米艦が沈んでいないことが判明してくる。 そこで 5月進水したものの物資・資材不足で艤装できない空母阿蘇を呉沖(倉橋島大迫・特殊潜航艇基地沖)に引き出し 陸海最強の爆弾投下実験を行った。委員長は呉海軍工廠の妹尾知之工廠長(任期:1945年5月1日〜) 投下したものの1度程度傾いただけ。 | |
更に爆弾を強力にし2回目を6月に実施。前回より少しはましで5度程度傾いたが沈没にはほど遠い状態。
次の実験を7月に予定していたところ、米艦載機の爆弾で見事着底(1945/07/24)。 |
【着底した阿蘇】 | 関係者一同。日本軍の爆弾の威力のなさに愕然。かくも威力のない爆弾で死ねと命じたことは痛憤に堪えない。 とある。高威力だったら痛憤は起きなかったのか。この、「痛憤に堪えない。」の話は 光海軍工廠の記録「光工廠譜」にある。それほど当時の日本海軍兵学校や大学校出身者全体が科学技術音痴であった。 |
逃亡と無能な陸海軍エリートたち 陸軍、富永恭次中将は,捷一号作戦(1944年10月)では陸軍航空隊の第四航空軍司令官として、 フィリピンでの特攻攻撃を指揮した。 比島捷号作戦(レイテ攻防戦・1944/10〜12月)において特攻戦没者251人、使用機202機。特攻隊員が飛び立つ時に訓辞。 「君らだけを行かせはしない。最後の一機で本官も特攻する・・・諸君はすでに神である・・」 いわれなき神があるかぎり、いわれ無き強制死 が待っていた。 |
「諸君はすでに神」 は誰の発言か? 多くは、海軍大西瀧治郎が話*しとしている。大西が第一航空艦隊司令長官に就任した 1944年10月20日、 特攻隊を発令し、その前後に話したとされる。 もう一人陸軍富永恭次。 Webサイトも概ね大西に軍配?を挙げている。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は富永恭次説。 現在我々が目にすることが出来る海軍敷島隊ほか、隊員の出撃時(1944/10/20)の写真は、ただ一人現場同行が 許された報道班員日本映画社(日映*1)カメラマン稲垣浩邦*2撮影である。その時の情況を「特別攻撃隊 日本の戦史別巻C 毎日新聞社(1979年10月1日発行)」 P116 で次のように書いている。 「君達を"神風攻撃隊"と命名する。今日、日本を救うのは君たちの双肩にかかっている」という訓示がありました。 玉井副司令が特攻隊員の一人一人に水筒の水を注いでまわり、日頃厳しい雷親父にもこのときばかりは涙を浮かべ ・・・ 力の限り握りしめた固い握手 ・・・・ と続き、多く玉井副司令と隊員間の機微に触れている。 そこには「諸君はすでに神」発言は まったく書れていない。 * 戦史叢書海軍捷号作戦<2> P114 猪口力平一航艦主席参謀による戦後の回想。 *1 日映とは。支那事変後、映画は国策会社に統合された。 この会社の報道班員が撮影した映画は映画館でニュース映画として上映されていた。 *2 稲垣浩邦は「特別攻撃隊 日本の戦史別巻C 毎日新聞社(1979年10月1日発行) P116」 で 唯一飛行場で取材を許された。と書いているが、「特攻の真実 深堀道義/著 原書房 (2001年11月28日第1冊発行) P275〜」 10月20日同盟通信記者小野田政は海軍報道班員として 飛行場わきの小川のほとりの草むらで腰を下ろして関大尉と語り合った。 (中略) 当時、クラークフィールドや マバラカット飛行場にはカメラマンが居なかったので、小野田記者は常時カメラを携行していた。 「常時カメラを携行」していた。と深堀氏は書いているが、 撮影した。と一言も書いていない。 現在普通に目にする出撃時の写真は一体誰が撮影したのか。? 1944年10月20日10:00頃、茨城県にある鉾田陸軍教導飛行師団に、双軽による「体当たり部隊編成」の命令が届いた。翌21日 教導師団長今西六郎少将は岩本益臣大尉以下十六名の空中勤務者を指名し、これに十三名の整備員付けて比島に送り出した。これが後の万朶隊である。 陸軍の初期特攻隊は尽く失敗し、11月2日大本営から、神風特別攻撃隊の戦果が大々的に発表され、陸軍もこれに追従し、陸軍中央は早速6隊を編成。 11月16日更に6隊合計12隊151名を指名したが、天皇の名において命令することが出来ず、あくまで本人の自発的意志を、第一線指揮官が、 戦局の最高機に発揮する形をとった。 陸軍は中央指導で特攻隊が編成され、海軍は中央黙認、現場主導で特攻が推進された。 少なくとも経緯から海軍側から特攻を行う旨陸軍に情報が入ったのであろう。 大西が比島出発前に陸軍に情報がもたらされたことになる。 陸軍はこのような絶対死命令(統帥権上命令者は天皇)を出せないので、人を超越した"神扱い"せざるを得なかった。 朝日新聞のコラム 「諸君はすでに神」である発言は富永恭次の発言としている。 |
富永恭次は、1945年(昭和20)1月9日米軍がルソン島に上陸し、フィリピンでの日本の敗退が明らかになると、
部下を置き去りに台湾に逃亡。全く処罰 (予備役にまわされたが復帰) されず戦後ものうのうと生きながらえた。 彼らは一様に、「散る桜,残る桜も散る桜」「貴様たちだけを死なせはしない」 「最後の一機で俺も特攻に出撃する」といいつつ特攻はしなかった。敗戦の責任を大元帥閣下に死して 詫びを入れるのが武勲のみを誇った司令らの身の処し方と考えるが、そのような事も一切行われなかった。 海軍で予備学生の墓場と云われた元山航空隊(七生隊)の青木泰二郎司令は、 自らの武勲を誇るために多くの特攻を命じたが、 敗戦確実を知るや昭和20年(1945)8月11日、兵を置き去りにして元山空(朝鮮)から一部の上級幕僚、ならびに家族ともども 日本に逃亡した。海軍軍人は人間が腐っている。 彼の画像入りWebサイトはこちら
殉国の至情に基づく輩が勝手に酸素魚雷を組み合わせ人間魚雷回天を製造し、
これまた勝手に山口県大津島に訓練基地を作り、潜水艦長とつるんで、勝手に出撃し自爆したというのであろうか。 志願が聞いてあきれる。
かっての帝国陸海軍は兵が勝手に国家の資産である航空機と国家の
資産である爆弾と国家の当時油の一滴は血の一滴というほど貴重なガソリンをパイロットが盗み出し
米艦に突入を繰り返えさせたのか。 兵が兵器を盗み勝手に使用することを黙認したのであれば
犯罪の片棒を担いだことになる。また、特攻兵は犯罪者となる。
特攻出撃で不時着帰還者を更に特攻に出している史実をどう説明するのか。
昨今の官僚(厚生労働、社会保険庁) エリート(キャリア)がものを言うすべを持たない弱者(国民大衆)を踏み台にしているのと同じ図式である。丙種飛行予科練習生、
以下 乙飛、甲飛のノンキャリアの命を士官学校卒業のキャリアが弄んだと誰が否定できようか。 |
► * 野中五郎少佐は厳密な意味で特攻隊員ではない。彼の任務は、桜花特攻隊員を射出地点まで届ける輸送役であった。
► 航空特攻の言い出しっペの一人、第721海軍航空隊桜花神雷隊司令:岡村基春(もとはる)大佐(海兵50期) 後に、昭和23年(1948年)7月13日、 千葉県の茂原付近で鉄道自殺(外房線)をする。 彼が死刑を宣告した若者の怨念に耐えられなかったのであろうか?。 全軍特攻化を確認した最高戦争指導会議のメンバーこそ自決すべきであった。 ► 特攻に限って陸海軍とも志願であったという。 戦闘マシンである軍隊が、今から敵を攻撃する。 志願する者この指とまれ。 など笑止なことを行う訳がない。 責任回避と後ろめたさを打ち消す詭弁である。 |
|
|
[tokkou] 内の各 htm ファイル |
第二奇兵隊取材班 E-mail お問合せ、ご質問はこちらへ ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001 |
|