フィリピン・マバラカット、今から65年前「神風特攻隊」が始めてこの地から飛び立った。大西瀧二郎中将が指揮した。この後「特攻隊」が次々と組成された。5000人以上の若者が飛んでそして亡くなった。
その指令の中心が「軍令部」しかし、その指令がどのように行なわれたか、記録は無い。「反省会」における録音テープが知るよすがとなっている。そして大西中将の指令前に既に軍令部でそのような作戦が練られていたという。第2回は「特攻」にスポットを当てる。
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取材デスクの小貫さんが昨日に引き続きナビゲーターを務める。
マバラカットにある慰霊碑の前から伝える小貫さん。慰霊碑にも「志願」したという記載があるが、命じた側の記録は無い。誰が何故、何のために死ぬことでしか達せられない目的のために飛ぶように命じたのか。
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反省会で「特攻」の話題が出たのは、鳥巣健之助中佐の発言が始めて。軍令部での計画をただす。三代元大佐がその質問に答える。「最初の特攻は大西中将が発案し、軍令部は認めただけだ。」と。しかし鳥巣中佐は食い下がる。軍令部の作戦立案があったのではないかと。
軍令部は4部に分かれ、第一部の中澤中佐がその命を下したのではないかと。命令は連合艦隊に下される。回天特別攻撃隊への指揮をした鳥巣さんは、特攻に反省と懺悔がないといけないと発言。
土肥一夫元中佐は昭和19年から20年に軍令部にいた人が発言。回天という魚雷を改造したもの、桜花・震海などの特攻兵器を何故軍令部は開発したのか。時期的に特攻隊より前なのである。
当時戦局は悪化の一途をたどっており、軍令部でもなにかしなければならない状態に追い込まれており、特攻兵器の開発が一気に進んでいった。
特攻兵器を進言したのは第二部の黒島大将。二部は主に兵器開発に携わっていた。
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黒島さんが「この非常時に何をぬかすか、国賊が」と、真珠湾の勲功から山本元帥や黒島大将が神格化されていって、口を差し挟む余地が無かったという。(鳥巣さん)
兵器の「伏龍」は死亡事故が相次ぐなど、思いつきの必殺兵器はいろんなものが試作された。そして海軍は特攻隊員募集を始めた。特攻兵器であることは伏せて。
志願した男性は、初めて人間魚雷を見てギョッとしたという。新兵器と言われて応募したが、鉄の棺おけにいるようだったと。不安と緊張と’生きたい’という思いが交錯したという。
回天を送り出した鳥巣さんの隊員は89人が戦死した。「実戦におった参謀や大将は非常に苦しみながら戦い、戦後もその自責の念を死ぬまで持っていた。かたや本部参謀は・・・。」と元隊員。
生きて帰れる道が兵士にはあるけど、特攻隊員にはそれが無い。
そもそもそれは軍務上許されるものではなかったが、戦況はもはやそれを語ることはなかった。
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昭和58年6月の反省会。
軍令部がある戦略を考えていることを明らかにした。
鳥巣中佐が読み上げた電報がそれである。敷島隊など隊が決められて戦意高揚のプロパガンダにも理由。大西中将が隊員を送り出す映像が撮影された。
軍令部第一部の作戦参謀源田大佐によって神風特攻隊が広く喧伝され、国民の戦意を高揚した。しかし戦局は好転することは無かった。レイテ作戦で初めて行なわれた特攻の成果も無く、戦艦を多く失い、戦う手立てのないまま特攻に移していった。戦果が事実以上に喧伝された。
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三代元大佐「特攻作戦の機運は軍令部で高まっていた。」、ここで小池氏が三代氏に「’志願’ではなく編制されたのではないか?」と質問。三代氏は質問に正確には答えなかった。
昭和20年1月の’国家総動員法’により特攻はその主な作戦として’一億総特攻’で本土を守るという方針になった。
土肥元中佐は「一億総特攻と言ってはしゃぎまわるヤツがいて、けんかしたことがある。」
連合艦隊元中佐の中島さん「人間を自動操縦機の代わりにした。」
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当初は効果が上がった特攻もその後大きな成果は上げられず回天の命中率は2%に留まった。そして多くの若者の命が失われた。
使われることがなかった特効兵器は米軍が検証のために没収。
海軍は特攻が戦争犯罪に問われることを恐れて、想定問答集を作成。上級指揮官の命令では無く、人道に違反しないとした。
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桜花の製造に係わった長束元少佐97歳は、製造に係わったことに対し、人道に反しているのではと考えたという。僕も捕まるかも知れないと覚悟したと。
しかしそれは杞憂に終わった。
軍令部の扇元大佐が語る。「新兵器というものに引きずられていったのではないか。」「海軍は自分のモットーを持っていながら本意で無いほうに流されていった。海軍の体質ではないかな。」
息子ののぶたかさん72歳は父の発言で印象に残っているものがあるという。’自分の思ったことを言えていない「やましき沈黙」があった’と。
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軍令部中澤元中将「特攻は作戦にあらず、もっと崇高なもので、私は命令など出したことはありません。」
中澤氏の息子さんも「特攻はあまりいい作戦ではないが、雰囲気にたてつくことは容易ではない」ともらしていたという。
黒島氏は戦後、哲学や宗教に没頭。ノートには’人間’’霊魂’などの文字があるが特効について記載したものはない。
源田氏、自衛隊航空幕僚長にまで上り詰めたが、本人の記録はない。’青年の意思に基づいた’と碑にはある。しかし特攻隊員の名簿を見て毎日祈り続けた。
神風特攻隊だった角田和男さん90歳。毎年仲間を慰霊する。角田さんは特攻隊の軌跡を見守る役目だったという。「戦争はこれで終わりにしてくれというのが本心だったと思いますね。」
角田さんが「反省会」の証言テープを聴く。「そんなに早くから’特攻’を考えていたなんて信用できないですね。昭和19年からそんな兵器を作って、いったいどうしようと思ってたんですかね。」
角田さんが最期を見届けた廣田さん20歳。親が送った白いマフラーをして飛ぶことを遺書にしたためていた。
他にも両親への感謝と長寿の祈りをしたためた若者。
特攻は誰にも止められずに終戦まで続いた。
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間違っていると思っても、雰囲気に流されて’やましき沈黙’に陥る。それは海軍のことのみならず、現在にも当てはまることがある。人の命に係わることに対し’やましき沈黙’は決してしてはいけないと今に伝えているのではないかと思う。(デスク)