池田信夫 blog

Part 2

October 2007

2007年10月30日 00:25

若者を見殺しにする国

8年も雑誌の書評を担当していると、たくさん献本をいただくが、一つ一つお礼できないので、ここでまとめてお礼をさせていただく(*)。ブログでも、いただいたことは書かないし、だからといって取り上げることもないが、本書は原型となる論文を当ブログで2回(9/149/23)紹介した経緯もあるので、本としての評価も書いておく。

結論からいうと、コアになる2本の論文(第4章)のインパクトに比べて、本としては弱い。他の部分が、2本の論文を書くまでの経緯とそれに対する批判への反論という形で書かれていて、どっちも中途半端だ。それよりも著者の日常をきちっと描いて、「32歳、フリーター」のルポルタージュにしたほうがよかったと思う。特に後半は、批判の内容がわからないまま延々と反論が続くので、わかりにくい。「識者」のコメントも全文掲載すべきだった。

全体としての論旨も、2本の論文の域を出ず、身辺雑記と論評と社会への不満が雑然と並んでいて、ブログの日記をそのまま読まされているような感じだ。分量(350ページ)も長すぎ、繰り返しが多い。編集者が手を入れて論旨を整理し、200ページぐらいに圧縮したほうがよかった。

ただ、このとりとめのなさが今日的なのかなという気もする。たまたま「就職氷河期」に当たっただけで、その後の人生が狂ってしまい、敗者復活のできない日本への、やり場のない怒り。それに対して「戦争で自分が死ぬことを考えてないのか」(佐高信)とか「他人の不幸を利用して立場を逆転させようとする性根が汚い」(斉藤貴男)などというボケた反応しかできない「左派」の識者たち。著者も認めるように、そういうダメな大人に対抗する論理を彼が築きえているわけではないが、ポイントはとらえている。

左翼のいう「平和」や「平等」とは、組織労働者の既得権を守ることにすぎない。そして私の記事にボケたコメントをしてきた厚労省の天下り役人にみられるように、行政の視野にもフリーターやニートは入っていない。著者の「戦争が起きて、平和が打破され、社会に流動性が発生することを望む」という欲望は、ドゥルーズ=ガタリの「戦争機械」のように根源的なものだ。本としては未熟だが、2007年の日本の現実の一断面を確かにとらえてはいる。

(*)送り先は、職場(〒103-0028 八重洲1-3-19 上武大学大学院経営管理研究科)にお願いします。
2007年10月29日 00:42

一六世紀文化革命

著者の前著『磁力と重力の発見』はベストセラーになり、いくつもの賞をとったが、率直にいって私には何がいいたいのかさっぱりわからず、途中で投げ出した。そういう賞の選考委員の世代にとっては、山本義隆という名前は神話的存在であり、学問の世界から忘れられていた著者が、本格的な学問的業績でカムバックしたことへのご祝儀だったのかもしれない。

それに比べれば、本書は「17世紀の科学革命の源流を16世紀にさぐる」というテーマが明確であり、これは一昨日の記事でも書いた産業革命ともつながる重要な問題だ。Mokyr "The Gifts Of Athena"などの経済史の研究も指摘するように、産業革命が18世紀の西欧に起こったのは、17世紀の科学革命によって実証的な知識が蓄積されたことが大きな要因である(少なくとも出生率よりは説得力がある)。

では、その科学革命はなぜ起きたのか、というのが本書のテーマである。16世紀というと、ルネサンスなどの芸術や人文学についてはよく知られているが、近代科学はまだない時代だと思われている。著者は一次資料を使ってこうした通説をくつがえし、16世紀に起こった文化革命が科学革命の基礎になったとする。その最初のきっかけはグーテンベルクによる印刷革命であり、それによって起こった宗教改革、そしてラテン語から日常語による出版という言語革命である。

全共闘時代のなごりか、革命という言葉が乱発されるが、実際の歴史はそれほど不連続に発展したわけではなく、現在の歴史学では、産業革命も長期にわたって続いた漸進的なイノベーションの積み重ねであり、革命と呼べるかどうかは疑わしいとされている。Clarkの図のように所得が飛躍的に上がるのは、18世紀初めに蒸気機関が発明されてから100年近くたってからである。著者のいう印刷術や日常語の普及はもっとゆるやかな過程であり、革命的な変化とはいえない。

それはともかく、それまで職人の勘と経験で継承されてきた技術的知識(ギリシャ語でいうテクネー)が、日常語で出版されることによって学問的知識(エピステーメー)と融合したのが16世紀の特徴である。特に経験を実験という科学的方法に高めることで、それまでの演繹的推論だけで構築されてきたアリストテレス自然学を帰納的に反証する方法論が確立した。この意味は大きく、たとえば物理学によって砲弾の着弾位置を正確に計算できるようになったことで、欧州の軍事力は飛躍的に強くなり、こうした軍事的な優位が西欧文明が世界を制覇する原因になった。

こうした変化がなぜアジアで起きなかったのか、という問題には著者は直接には答えていないが、科学革命の基礎にはキリスト教的な自然観があったとしている。アジアでは人間を自然の一部と考え、自然の実りをわけてもらう営みとして農業をとらえるのに対して、キリスト教では自然は人間世界の外側の征服すべき対象であり、実験とは自然を「拷問にかけて自白させる」ことだとのべたロバート・ボイルの有名な言葉に代表される攻撃的な自然観が、近代科学を築いたのである。

・・・と要約すると大して斬新な話ではなく、MokyrやShapinなどによって、もっと包括的に経済史や政治史との関係で語られている事実を、一次資料で精密に立証した、というところだろうか。学問的には超一流の業績とはいいがたいが、科学革命の解説書としてはよく書けているし、前著よりはるかに読みやすく、最後まで読める。要点だけなら、第2巻だけ読めばわかる。
2007年10月27日 01:15

1枚の図でわかる世界経済史

以前の記事でも少し紹介したGregory Clarkの"A Farewell to Alms"を読んでみた。第1章は「16ページでわかる世界経済史」と題されていて、このPDFファイルだけ読んでも概要がわかる。中でもポイントになるのは、下に掲げた「1枚の図でわかる世界経済史」と題した図である。これは紀元前1000年から2000年までのひとりあたり所得を図示したものだが、1800年ごろの産業革命期を境に急速に所得が上がっている。これをどう説明するかが、西欧文化圏が世界を制した原因を考える上で最大の問題である。
これまでの通説とされているのは、オランダやイギリスで財産権(特に特許などの知的財産権)が確立されて市場経済が成立し、技術革新が進んだとするNorth-Thomasの説だが、著者はこれを批判する。財産権は、世界の他の地域でもっと早くからみられる。知識を財産とみなす制度が確立したのは、産業革命よりずっと後であり、それが技術革新のインセンティブを高めたという証拠もない。むしろMokyrのように、科学者と技術者のコラボレーションによって自然科学が工業に応用されるようになったことを重視する見解もある。最大の謎は、なぜ産業革命が欧州の端の小国イギリスに起こって、他のもっと豊かな大国で起こらなかったのかということだ。

著者は、通説のいうような特徴はイギリスに限らなかったと指摘する。特に歴史上もっとも長期にわたって世界の最先進国だった中国には、制度も財産権も技術もあったし、教育水準も高かった。商人や米市場などは、日本のほうが早くから発達していた。ただアジアでは、労働生産性の高い階層の出生率が低かったために、「社会的ダーウィニズム」が働かなかった。それに対して、イギリスでは生産性の高い階層の所得が上がり、彼らが多くの子孫を残したため、人口も急増して市場も大きくなり、産業が発達した、というのが本書の結論である。しかし、なぜアジアで富裕層の出生率が低かったのか、という点は説明されていない。

18世紀の所得や出生率などの具体的な経済指標を推定し、産業革命を数量経済史によって再現する本書の議論は、データとしてはおもしろいが、経済学者の論評は批判的なものが多い。特にブルジョア階級の出生率という特殊な(しかも推定による)要因だけでイギリスの優位性を説明する著者の仮説は、この複雑な問題に単純な答を出しすぎている、というGlaeserの批判は当たっていると思う。実際は、上にあげたような原因が複合して起こったのであり、マルサス的な要因はその一つだろう。残念ながら、やはり世界の経済史は1枚の図では語れないのだ。
2007年10月25日 23:43
IT

「情報通信法」のゆくえ

きょうのICPFセミナーは、総務省情報通信政策局の鈴木総合政策課長に、いろいろ話題を呼んでいる「情報通信法」(仮称)の話をしてもらった。会場から出た質問は、主に次の2点:
  • これまで規制のなかったインターネットに「公然通信」として言論統制が行なわれるのか?
  • レイヤー別の規制というのは、通信業者には抵抗がないだろうが、放送局は「水平分離」には反対するのではないか?
このうち前者については、「どの分野も、今より規制が強まることはない」との答だった。実は、放送には(あまり知られていないが)「番組編集準則」というのがあって、民放でも教育番組*%、教養番組*%というように時間配分まで決められている。実際には、お笑い番組を教養番組に算入したりして空文化しているのだが、この過剰規制をやめるのが主眼らしい。インターネットについては、今でもプロバイダー責任制限法などがあるが、幼児ポルノなどの違法コンテンツをISPが削除する法的根拠がないので、その法的根拠を与えるといった形で、行政が直接介入するものではないようだ。

放送業界は、パブリック・コメントでは反対を表明しているが、2001年にIT戦略本部が「水平分離」を打ち出したとき、民放連の会長が官邸にどなりこんだような強い拒否反応は、今のところないそうだ。法案化が2010年と先は長いので、今はおとなしくしているのかもしれない。ただ、今のまま水平分離してキー局の番組がIPで全国に流れたら、ローカル局は死ぬので、レイヤー別の規制に移行するなら、放送業界の再編は不可避だろう。集中排除原則を緩和して持株会社化を可能にするなど、総務省も手を打っているが、ローカル局はキー局の子会社になるぐらいなら、政治家を使って法案をつぶしにかかるかもしれない。

・・・というわけで、来月のセミナーでは放送局の立場から話してもらう。

ICPFセミナー 第23回「通信・放送の総合的な法体系に対する放送事業者の考え方

総務省では「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」を組織し、通信法制と放送法制の統合について研究を深めています。この新しい法体系によって通信と放送の融合が促進されるかどうかについて、世の中には賛否両方の意見が存在します。

情報通信政策フォーラム(ICPF)では月次セミナーでこの新しい法体系について議論を深めていくことにしました。連続セミナーの第2回目は、TBSメディア総合研究所の前川英樹社長をお招きし、放送事業者の考え方を伺います。

スピーカー: 前川英樹(TBSメディア総合研究所社長)

モデレーター: 山田肇(ICPF事務局長・東洋大学教授)

日時: 11月26日(月)19:00~21:00 ※開始時刻が通常より30分遅れます。

場所: 東洋大学・白山校舎・6号館6216教室
      東京都文京区白山5-28-20
      キャンパスマップ ※いつもと教室が違いますのでご注意ください。

入場料: 2000円 ※ICPF会員は無料(会場で入会できます)

★申し込みはinfo@icpf.jpまで、氏名・所属を明記してe-mailをお送り下さい

京都議定書よりはるかに低コストで、温暖化を防ぐ方法がある。大気中に微粒子をまくのだ。この効果は、ピナツボ火山の噴火などで実証されている。毎秒5ガロンの速度で硫酸塩の微粒子を成層圏にばらまけば、向こう50年は気温の上昇を防げる、とKen Caldeiraは提案している。

1992年にも全米科学アカデミーが、ロケットか大砲などで微粒子を散布することを提案し、Nordhausも「真剣な検討に値する」と評価している。しかし、なぜか政府レベルでは検討されたこともない。Mankiwも懐疑的だが、理由ははっきりしない。
きょうの産経新聞で、曽野綾子氏が、沖縄の「集団自決」について語っている。私は、この問題については一次資料を見たことがないが、雑誌の企画で曽野氏と対談することになったので、『「集団自決」の真実』を読み返してみた。

曽野氏の調査によれば、命令を出したとされる赤松隊長も隊員も、「上陸した米軍への応戦で手一杯で、自決命令を出しに行くどころではなかった」と証言している。ただし米軍の砲撃が始まって混乱に陥ったとき、(正規の訓練を受けていない)防衛応召兵が、隊長の命令なしに手榴弾を住民に渡したことは事実らしい。

住民の証言では、当時の村長が「軍の命令だから自決しろ」と言ったというのだが、当の元村長は「私は巡査から聞いた」という。その元巡査は、赤松大尉から逆に「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてください」といわれた、と証言した。ではなぜ集団自決が起こったのか、という点について元巡査は「どうしても死ぬという意見が強かったもんで、わしはサジ投げて・・・」と語っている。したがって、赤松大尉を「屠殺者」などと罵倒した大江健三郎氏の記述が誤りであることは明白だ。

もう一つの座間味島についても、当時の隊長だった梅澤裕氏が赤松元大尉の遺族とともに、岩波書店と大江氏らに対して名誉毀損訴訟を起こしている。座間味島については、秦郁彦氏が『歪められる日本現代史』で梅澤氏の手記や住民の証言をもとに検証しているが、ここでも自決するための爆薬を求める村の助役ら5人に対して、梅澤少佐が「決して自決するでない。壕や勝手知ったる山林で生き延びてください」と答えた、と当時の村の幹部が証言している。遺族会の会長(当時の助役の実弟)は「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、助役の命令で行なわれた。これは私が遺族補償のため隊長命として[厚生省に]申請したものだ」というわび証文を梅澤氏に渡している。

これに対して沖縄の住民側の主張は、沖縄タイムスにまとめられているが、上のような証拠はなく、「11万人結集 抗議/人の波 怒り秘め/真実は譲らない」といった情緒的な記事ばかり。沖縄戦では、この両島以外にも集団自決の伝えられている島があるが、沖縄タイムスは他の島でも「軍の強制」の証拠を示していない。したがって、これまでの証言・証拠からみるかぎり、末端の兵士の関与はあったものの、隊長の命令があったとはいえない。まして、軍の方針として集団自決が強制されたということはありえない。

今回、問題になった検定では、たとえば三省堂の『日本史A』では「日本軍に『集団自決』を強いられたり、・・・」という記述が「追いつめられて『集団自決』した人や・・・」というように「日本軍」という主語を削除するように求められたものがほとんどである(強調は引用者)。上のような実態を考えると、後者のほうが中立的な表現だろう。

私は教科書検定という制度に反対なので、この検定意見を擁護しようとは思わないが、沖縄タイムスの記事を見ても、軍が集団自決を命じたとか強制したという証拠は他の島にもない。むしろ軍が命令もしていないのに、民間人が自発的に集団自決したとすれば、そのほうがはるかに恐るべきことである。曽野氏もいうように
戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。[・・・]軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。
というのが本質的な問題だろう。事実関係の検証もしないで「11万人集会」や九州知事会で検定の訂正を求めるなど、政治的な動きが拡大し、それに屈した形で文部科学省が教科書の「自主的な訂正」を認める、という経緯には疑問を感じる。慰安婦問題と同様、ここにも「悪いのは軍だけで、民衆は被害者だった」という都合のいい図式があるが、『日中戦争下の日本』にも書かれているように、当時いちばん勇ましかったのは新聞であり、末端の国民まで「生きて虜囚の辱めを受けず」という気分が蔓延していた。その(山本七平のいう)空気が、戦後は一国平和主義という空気に変わっただけで、メディアの幼児性は変わらない。歴史を政治のおもちゃにせず、冷静に事実を検証することができないものか。
2007年10月21日 15:01
経済

合成の誤謬

NTTの企業年金訴訟でNTT側が敗訴し、年金の支給額が減額できないという判決が東京地裁で出た。この影響は大きい。NTTの年金債務は約5兆5000億円、それに対して年金資産は約2兆円しかなく、差し引き3兆5000億円もの積み立て不足があるからだ(*)。判決では「NTT東西は年間1000億円の利益を上げている」というが、その利益の35年分が吹っ飛ぶ額である。他にも、日立が1兆3000億円、松下が1兆2000億円など、巨額の積み立て不足を抱えた企業は多い(2003年現在)。

NTTはこの債務を削減するため、確定給付型の年金を確定拠出型に変更しようとし、労使で合意して(法律で定められる)受給者の2/3の同意も得たにもかかわらず、厚労省に認可されず、訴訟になったものだ。この程度の裁量権も経営にないとなると、正社員のコストは非常に高くなる。NTTの場合は、社員ひとりあたり約2800万円もの隠れ給与を負担することになるからだ。

たしかに個々の年金受給者にしてみれば、事後的に支給が減額されるのは「約束が違う」という気持ちになるだろう(今度の騒動も、そういう共産党系の組合の訴訟が原因だったらしい)。彼らに同情して厚労省や裁判所は人道的な配慮をした、とワイドショーなどでは評価されるかもしれない。しかしこういう判決が出ると、企業の経営は悪化し、ますます高コストになる正社員の需要は低下する。その結果、派遣や請負、さらには失業が増えるわけだ。

おわかりだろうか。これは当ブログでおなじみの一段階論理の正義の一例である。個々の正社員にとっては望ましい既得権の保護によって、マクロ的には最も弱い立場の非正規労働者や失業者が犠牲になるのだ。この造語はあまり語呂がよくないので、代わりの言葉をさがしていたら、朝日新聞の取材班のおかげで合成の誤謬という言葉を思い出した(彼らはまちがって使っているが)。

朝日新聞は、夕刊の1面で「手をつなげ ガンバロー」という連載をしたりして「弱者救済」に熱心だが、こういうキャンペーンが合成の誤謬の典型である。厚労省が次の通常国会に出す予定の労働者派遣法の改正案をめぐっても、福島みずほ氏などは規制強化を求めているが、そうすると企業は派遣を請負に変えるだろう。その請負も朝日新聞のキャンペーンで規制されるようになったから、あとは海外にアウトソースするだけだ。彼らの主観的な善意が、結果的には日本から大連に行って年収60万円の労働者を生み出しているのである。

こういう誤謬はケインズの時代からあったぐらいだから、きわめてありふれたもので、しかも説得がむずかしい。目に見えるのは「派遣社員が正社員に登用された」といった個別のいい話だけで、マクロ的な失業率は実感としてわからないし、中国に行った労働者は視界から消えてしまうからだ。この症状は、特に福島氏のような法律家に多いので、司法研修所では経済学を必修にしてはどうだろうか。といっても高度な経済学は必要ない。サミュエルソンの入門書にこう書いてある:
Fallacy of composition: A fallacy in which what is true of a part is, on that account alone, alleged to be also true on the whole.
(*)この数字は、NTTが給付の減額を決めた当時のもので、有価証券報告書では「未払退職年金費用」にあたるが、最新の数字では1兆6000億円まで改善しているようだ(p.81)。

ジェームズ・ワトソンの「黒人の知性は白人と同じではない」という発言は、たちまち国際的なブーイングの嵐を巻き起こした。彼は全面的に謝罪したが、予定されていたロンドン科学博物館での講演はキャンセルされ、彼が所長をつとめるコールド・スプリング・ハーバー研究所の理事会は、彼を停職処分にすると発表した。

問題のインタビューを読むと、たしかに軽率にしゃべった印象はまぬがれない。世界一有名な分子生物学者のコメントとあれば、当然科学的な根拠のある話だろうと読者は思うが、彼はこの点も「科学的根拠がない」とあっさり引っ込めてしまった。

しかしIQと遺伝子には明らかな相関があり、その遺伝子の一部も同定されている。また、かつて大論争を巻き起こした"The Bell Curve"のように、黒人のIQが平均して白人より低いとする研究はこれまでにもある。カリフォルニア大学などでは、ハンディキャップをつけないとアジア系が圧倒的多数を占めて、黒人がほとんど入学できないという実態もある。

IQが「知性」の指標として適切なのかという問題はあるが、他にそれよりすぐれた指標があるわけでもない。IQを教育によって上げるのが困難であることも事実だ。またIQと社会的成功に因果関係があることは、アメリカ心理学会の"Bell Curve"に関するフォローアップでも確認されている。したがって
He says that he is “inherently gloomy about the prospect of Africa” because “all our social policies are based on the fact that their intelligence is the same as ours – whereas all the testing says not really”
というワトソンの発言は、まったく非科学的というわけでもない。黒人の皮膚の色が(遺伝的に)白人と違うように、彼らのIQが遺伝的に違っていても何の不思議もない。これは肌の色で差別する理由にもならない。成功する黒人もいるだろうし、落ちこぼれる白人もいるだろう。結果がすべてである。むしろ問題は、本人の弁明も聞かないで停職処分にする研究所の過剰反応だ。こういう発言が、特にアメリカでpolitically incorrectであることは確かだが、それについての議論まで封じるのはおかしい。

公平にみて、人種と知能の関係は、科学的に決着のついていない問題だ。その大きな原因は、この問題を取り上げること自体がタブーだからである。しかし、かりに黒人のIQが白人より平均的に低かったらどうだというのか。その代わり、黒人は運動神経や音楽の才能は平均的にすぐれているかもしれない(こういう話題もアメリカ人とは禁物だ)。人類の生存してきた数十万年の歴史の99%以上で、IQなどというものは何の役にも立たなかった。運動神経のいい黒人のほうが、生存確率は高かっただろう。

要するに、黒人のIQが低いということが事実だとしても、それは最近の欧米社会の尺度による「成功」の確率が低いということにすぎない。特にアフリカの社会を考えた場合、むしろ欧米的な成功を彼らに押し売りすることが問題だ。Easterlyも指摘するように、アフリカにはアフリカ本来の「自生的秩序」があるのだから、その中で生活水準の改善を考えるべきで、欧米的な価値観をトップダウンで押しつけてもうまく行かない。そもそも彼らの文化をここまで破壊したのが、欧米の植民地主義だったのである。
2007年10月20日 16:36
IT

P2Pのメカニズム・デザイン

先日の記事では、メカニズム・デザインは実用にならないと書いたが、ハーバード大学ではBitTorrentによるファイル共有を効率的に行なうメカニズムの研究が行なわれているそうだ。この記事だけではわかりにくいが、別の記事と総合すると、こういうことらしい。

BitTorrentは他のピアとキャッシュを共有することで効率的なダウンロードを実現する。これはダウンロードする側にとっては便利だが、アップロード側は帯域を他人に占有されるので、自分のほしいファイルだけダウンロードしたらBitTorrentを閉じてしまうことが「合理的」な行動になる。しかし、これは「囚人のジレンマ」で、全員がそういう行動を取ったらP2Pネットワーク全体のパフォーマンスが低下する。

そこで、こうしたピアの過去のダウンロード/アップロードの履歴をデータベースに蓄積する「分散型評判システム」をつくり、高速かつ切断されないピアを選んでダウンロードする。このとき「仮想通貨」を相手のピアに渡し、アップロードに協力した「よいピア」は多くの通貨をもち、ダウンロードするとき優先的に接続できるように設計する。

これはメカニズム・デザインの言葉でいえば、協力すれば通貨をもらえるので、互いに協力することもナッシュ均衡になるから、囚人のジレンマを「マスキン単調」な協調ゲームに変換することになる。マスキン単調性は、目標とする状態にナッシュ誘導できるための必要条件だから、これに加えて仮想通貨を適切に設計すれば、よいピア同士で効率的にファイル共有することがナッシュ均衡になる。

人間社会でナッシュ誘導が実用にならないのは、他人のペイオフを知ることができないからだが、Triblerによって各ピアの情報を共有すれば機能するかもしれない。これはP2Pトラフィックの急増に悩まされているISPにも応用可能だ。経済学の側からいうと、これはP2Pネットワークを使って誘導メカニズムの社会実験ができることを意味する。人間と違ってコンピュータは必ず合理的に行動するから、メカニズム・デザインはコンピュータ・サイエンスに応用できるかもしれない。

追記:こういう評判システムを応用すれば、はてなのイナゴ対策も設計できるかもしれない。今はプラスの星をつけることだけが可能だが、マナーに反する記事やコメントについては星を(第三者が)減らすことも可能にし、点数がマイナスになったらドクロのマークでもつけ、ドクロの累計が一定数を超えたらアカウントを削除するのだ。
2007年10月20日 00:39

所有権のドグマ

教科書を書評するのは初めてだが、本書はそれぐらいの価値がある。これが著者のような大御所の初めての著作権の教科書というのは意外だが、今後のスタンダードになるだろう。しかし大御所の教科書にありがちな前例踏襲型ではなく、時代の急速な変化に著作権法が追いついていないことを認識し、それをどう是正するかという未来志向型で書かれている。たとえば序章で、著者はこう問いかける:
デジタル化の波は著作権法制に極めて大きな影響を与えていると考えられる。著作権法を所有権法制の枠内で捉え、その微修正でその場しのぎをしている現状は大きく変更されなければならないのかもしれない。万人が著作物の複製・改変をし、発信をする時代において、著作権法システムが従来のように所有権のドグマに捕らわれていたのでは、情報の利用にとってマイナスとはならないのか。(p.9、強調は引用者。以下も同じ)
この「所有権のドグマ」についての著者の問題意識は一貫しており、第3章では著作権が物権的な構成になっているのは、たまたまそれを借用しただけだとしている。
現行著作権法は物権法から多くの概念を借用しており、物権的構成を採用してはいるが、それはあくまでも便宜上のものであるということを忘れてはならない。立法論的には物権的構成が唯一のものではなく、対価請求権的な構成も可能である(p.205)
対価請求権とは、当ブログでも何度か提案した包括ライセンスのようなしくみである。また「著作権は他人の行為を禁止するものであるため、他人の表現の自由を妨げる」(p.342)という緊張関係をふまえ、問題の保護期間については、
独占は創作へのインセンティヴを与えるのに必要にして十分な期間を認めるべきであり、それ以上の期間は却って社会厚生へのマイナス要因となる。[・・・]死後50年以上も経済的価値を維持している著作物はごく少数であり、かつ死後50年も経済的価値を維持している著作物は、既に十分な利益を得ているごく一部の著作物(例えばミッキーマウスの絵)と考えられ、それらに更に利益を与える必要はないであろう。(p.343)
と明快に言い切っている。おととい発足したMIAU(私も賛同者のひとり)が文化庁と闘うときも、強い味方になるだろう。文化庁も「国際協調」という名の横並びばかり気にするのではなく、所有権のドグマを超えて、日本からデジタル時代にふさわしい新しい著作権制度を世界に提案するぐらいの志があってもいいのではないか。
民主党が、きのう農業者戸別所得補償法案を国会に提出した。参議院選挙で公約した農家へのバラマキ政策は、単なるリップサービスではなかったわけだ。小沢一郎氏は「都市と農村の格差」を解消するというが、農家の所得のほうが非農家より高いことを彼は知っているはずだ。ちょっと古い数字だが、1998年でも兼業農家の年収が856万円に対して勤労者世帯は707万円。しかも農家全体の所得に占める農業収入は15%しかない。75%が第2種兼業農家、つまり農業もやるサラリーマンなのだ。

ところが日本の納税者一世帯当たりの農業補助金の負担は12万円と、世界一多い。OECDによれば、農業所得の56%が補助金で、EUの32%やアメリカの16%をはるかに上回る。このような補助金漬けの農家に、さらに1兆円の補助金をばらまこうという民主党の政策は、財源の見通しもない無責任なものだ。法案では、一応コメなどの補助金を見直して財源を捻出すると都合のいい計算をしているが、いったんつけた補助金を削減するのがどれほどむずかしいか、小沢氏は知っているだろう。

民主党は、この政策で「食料自給率を39%から80%に引き上げる」とうたっているが、当ブログで前にものべたように、食料自給率などという政策目標はナンセンスであり、それが倍増するという算定根拠もなんら示されていない。しかも、このような生産奨励のための補助金はWTO違反になるおそれが強い。

前にも書いたように、農産物の価格支持をやめて輸入を自由化する代償措置として中核農家に所得補償するのは、意味のある政策だ。しかし、この民主党案は貿易自由化にもふれておらず、無差別にばらまくだけで、松岡利勝がウルグアイ・ラウンドのとき脅し取った6兆円と同じだ。どうせ衆議院では否決されるから、農家向けにポーズだけとって、「否決した自民党は農民の敵だ」とでも言うのだろうが、これは「なんでも反対」の社民党より悪質な偽装ポピュリズムである。
フランク・ナイトの"Risk, Uncertainty and Profit"は1921年に出た本だが、最近あらためてファイナンスの世界で注目されているという。これまでの金融技術でヘッジしてきたのは、値動きがランダム・ウォークで正規分布に従うようなリスクだが、ナイトはリスクと不確実性を区別し、経済活動にとって本質的なのは不確実性だとした。

ブラック=ショールズ公式でもわかるように、正規分布になっているようなリスクは、オプションや保険などの金融商品で(理論的には完全に)ヘッジできる。しかしナイトのいう不確実性は、そもそもそういう分布関数の存在しない突発的なショックである。それは誰も予想できないがゆえに社会に大きなインパクトを与え、危機管理を困難にすると同時に、企業の利潤機会ともなる。Nassim Talebが"Black Swan"で指摘したように、こうした不確実性をどう扱うかは、ファイナンスの世界で最大の関心事であるばかりでなく、9・11のような事件に対応する危機管理の問題として、きわめて重要になっている。

本書の対象とする1997年は、ナイトの不確実性が全世界で発生した年だった。最大の不確実性は、いうまでもなくアジア通貨危機である。これは今となっては、大部分は「バブルの崩壊」とか「取り付け騒ぎ」という既知のカテゴリーで説明できる現象だが、発生した当時は――バブル崩壊がつねにそうであるように――誰も予想しなかった。その原因を「クローニー資本主義」だとするメディアにあおられて、IMFは当事国に緊縮財政と「構造改革」を求め、そうしたIMFの行動がさらに資本逃避を呼んで、危機は拡大してしまった。

そしてリスクヘッジが売り物であるはずのヘッジファンドも、この不確実性をリスクと取り違えて、大損害をこうむった。特に劇的だったのは、ショールズとマートンという2人のノーベル賞受賞者を擁したLTCMが、アジア危機の連鎖で値下がりするロシアの国債を買い続けて破綻した事件だ。ブラック=ショールズの想定した正規分布の世界では、ファンダメンタルズをはるかに下回った債券はいずれ買い戻されるが、パニックになった投資家はリスクのない資産に殺到し、全世界的な質への逃避が起きた。これがまさにナイトの不確実性だったのである。

しかしIMFを中心とするワシントン・コンセンサスは、この危機に対して、LTCMへの債権を銀行団が放棄してLTCMを破綻処理するという形でなんとかしのぎ、危機は短期間に収拾された。これに対して日本の不良債権問題は、当初の規模はLTCMぐらいのものだったのに、大蔵省はどうしていいかわからず、その損失を隠すよう銀行に行政指導を行い、大規模な官製粉飾決算が続けられたため、地価の暴落で不良債権は急速にふくらみ、1997年にはコントロール不可能な状態になっていた。

そして97年11月、三洋証券、拓銀、山一証券があいついで破綻し、未曾有の金融危機が発生した。それなのに橋本政権は「これで不良債権は片づいた」という大蔵省の嘘を信用して、11月に財政構造改革法で緊縮財政路線を打ち出し、さらに危機は拡大した。そして翌年、交代した小渕政権が今度は史上最大の公共事業のバラマキを行なったため、日本経済も財政も壊滅状態になったのである。

今度のサブプライム騒動への対応をみると、欧米の当局はナイトの不確実性に対応する危機管理の手法を身につけたように思われる。何が起こったかわからないときは、とりあえず流動性を大量に供給して「失血死」を防いで時間を稼ぎ、その間に問題の元凶を破綻処理するという手法だ。

これに対して、日本の金融当局は何を学んだのだろうか。官僚の行動様式は「前例」を重んじるが、ナイトの不確実性は、定義によって前例のない現象である。こういう問題に、日本の官僚は非常に弱い。でたらめな金融行政によって日本経済をどん底に陥れた大蔵官僚が、牢屋にも入らないで天下りし、大学教授になって「あのときはしょうがなかった」などとうそぶいているのをみると、日本は「失われた15年」から何も学んでいないような気がする。
2007年10月16日 13:02
経済

メカニズム・デザイン

今年のスウェーデン銀行賞(通称ノーベル経済学賞)は、「経済制度の設計」についてHurwicz、Maskin、Myersonの3人に授賞された。おそらく、これを当てたギャンブラーはほとんどいないだろう。

Hurwiczは、Arrowとともに一般均衡の安定性を証明する論文を書いたあと、一般均衡と線形計画による資源の最適配分の双対性を証明し、こうした技法を使って効率的な資源配分を設計する「メカニズム・デザイン」の元祖となった。これは「分権的社会主義」をめぐる論争の延長上で、計画当局が市場をシミュレートすることで、市場の欠陥を是正するメカニズムが設計できるかどうかを考えるものだ。

その成果は、有名な1973年のAER論文にまとめられているが、結果的には現実に意味のある結果はほとんど出ていない。このころまでに、計画経済のパフォーマンスの悪さは明らかになっており、経済全体をコントロールするというプロジェクトには意味がないことがわかっていたからだ。Hurwiczに師事した青木昌彦氏の『組織と計画の経済理論』は、この種の研究を収穫逓増などの場合に拡張した総まとめである。

このHurwicz論文のあと、メカニズム・デザインは経済全体ではなく、契約のような小さなメカニズムの設計を扱うimplementation theory(誘導理論)という規範的ゲーム理論になった。その主要な結果として有名なのは、アロウの不可能性定理をゲーム理論で証明したGibbard-Satterthwaite定理とか、オークションに使われるVCGメカニズムなどがある。

Maskinの主要な業績は、望ましい結果をナッシュ均衡として実現する「ナッシュ誘導」の必要条件として「Maskin単調性」を証明したことだ(この条件が一部ゆるめられることを西條辰義氏が証明した)。誘導理論全般のサーベイがMaskinのサイトで公開されている。Myersonの業績は、これを確率的なベイジアン・ナッシュ均衡まで拡張したことらしいが、このへんになると実用性のまったくない数学的エクササイズである(*)

結論としてわかったことは、「ほとんどどんな条件のもとでも、一意的な均衡に誘導するメカニズムは存在する」ということである。ただし、それを実現するメカニズムは、一部の数学者にしか理解できない複雑なもので、現実的な意味はない。むしろ誘導理論の副産物として発達した契約理論のほうが、企業理論や金融理論に応用されている。その分野を開拓したHart、Holmstrom、Tiroleなどもノーベル賞の候補とされている。

追記:ちょうど磯崎さんのブログに、談合を通報した企業の課徴金を軽くする話が出ているが、これが(ラフに言うと)「ナッシュ誘導メカニズム」の一種である。つまり普通のゲーム理論とは逆に、「犯人が自白することがナッシュ均衡になるようなゲームとは?」という問題に対して「囚人のジレンマ」というメカニズムを設計し、犯人を自白に追い込むわけだ。

(*)Myersonの授賞理由はrevelation principleのようだ。しかしこれは、彼も受賞講演で述べているように、多くの人が独立に発見したので、Myersonだけに与えるのはいかがなものか。

最近20年の50ヶ国以上を対象にしたIMFの調査によれば、情報化とグローバル化によって所得格差は拡大しているが、所得も上昇している。その主要な結論は
  • 多くの国で、所得格差は拡大している。同時に一人あたりGDPもほとんどの国で上昇し、もっとも貧しい階層の所得も上昇している。
  • この所得格差の最大の原因は、ITなどスキルを要求する技術進歩(skill-biased technological change)であり、ほとんどの所得格差はこれで説明できる。
  • 資本のグローバル化、特に対外直接投資は――技術移転の影響を通じて――国内の所得格差を拡大するが、貿易のグローバル化は格差を縮小する。両方の効果が相殺して、グローバル化の影響は情報技術よりずっと小さい。
  • しかし全体として、技術進歩とグローバル化によってどの階層も絶対的には豊かになっている。格差の問題を解決するには、高等教育によるスキルの普及が望ましい。また斜陽産業から成長産業への労働人口の移動を促進するため、年金や医療などをポータブルにすべきである。
  • 農産物の輸出によって途上国の所得が上昇し、国内格差も縮小する効果は明白である。先進国は農業補助金を削減し、農産物の貿易を自由化すべきである。
ポズナーは、すべての階層の所得が上がる限り、格差が拡大することに何の問題もない、とコメントしている。各国別にみると、日本は格差もフランスに次いで小さいが、成長率もブラジルに次いで低い。全体として、格差の大きい国ほど成長率も高い。「格差社会」を嘆くより、主要先進国で最低に転落した成長率を上げることが日本の課題である。
2007年10月14日 14:42
経済

不都合なノーベル平和賞

ロンボルグがゴアとIPCCのノーベル平和賞受賞にコメントしている:
今回、受賞したIPCCは、科学的な分析によってどのような気候変動が起こるかを予測したが、ゴアは事実にもとづかないで、温暖化がいかに恐ろしいものであるかを誇張して宣伝してきた。彼の映画はアカデミー賞を受賞したが、イギリスの裁判所に「一方的で科学的な誤りを含む」と批判された。映画では向こう100年間で海面が20フィートも上昇することになっているが、IPCCは1フィートぐらいと推定している。これは過去150年間に起こった海面上昇と変わらない。

ゴアは、グリーンランドの氷が「加速度的に溶けている」というが、IPCCによれば、これは今世紀中に海面を3インチ上昇させる程度だ。グリーンランドの温度は、1941年以前には今よりも高かった。ゴアは温暖化で死者が増えると強調しているが、凍死者が減ることに言及していない。2050年までに温暖化で40万人が死亡するが、凍死者は180万人へると予測されている。

IPCCは、ゴアが1人で受賞したほうがよかったと(半分皮肉で)コメントしたが、私は受賞しないほうがよかったと思う。彼の受賞は、ただでさえ歪んでいる地球的規模の問題の優先順位を、ますます歪めるからだ。

熱帯の人々が温暖化で死亡するよりも、栄養不良や感染症で死亡するほうがはるかに多い。彼らを救うには、CO2の削減よりも食料・医療援助のほうが5000倍も効果的だ。高価な京都議定書が完全実施されたとしても、マラリアによる死者は毎年1400人減るだけだが、安い蚊帳を配るだけで毎年85万人の命を救うことができる。

どうしてわれわれは100年後の気候変動を心配するのに、いま起こっているもっと深刻な問題を心配しないのだろうか。毎年、栄養不良で400万人が死亡し、エイズで300万人が死亡し、大気汚染で150万人が死亡し、水質汚染で200万人が死亡しているというのに。こうした問題には、温暖化に比べてはるかにわずかな関心しか払われないし、資金も出ない。途上国が貧しいままでは、最大の温暖化ガス排出国である彼らは、その対策も取れない。

IPCCとゴアのアプローチは、対照的だ。IPCCは何よりも厳密な研究で事実を明らかにすることに集中し、政治的な発言は慎んでいる。ゴアのアプローチは、その逆である。
私のコメント:温暖化をめぐるバカ騒ぎに、ゴア以上に責任があるのは、派手な政治的プロパガンダや映画で政策の重要性を判断する、各国の政治家と官僚とメディアだ。「ポスト京都議定書」の議論をする前に、ロンボルグの本ぐらい読んでほしい。
WSJによると、マドンナがワーナーを離れ、10年契約で1億2000万ドルという契約金で、世界最大のコンサート・プロモーター、ライブ・ネイションに移籍するという。TechCrunchは、これを「マドンナ、レコード業界を捨てる」と報じているが、事情はもう少し複雑なようだ。

契約ではコンサート以外に、3枚のアルバムを出すことになっているが、この莫大な契約金を回収するには、各1500万枚売れないと採算が取れないという。ライブ・ネイションにCD販売部門はないので、別のレーベルにラインセンスする可能性もある。またレディオヘッドのようにウェブサイトでアルバムを提供する計画も発表されていない。

ただ、WSJの記事にも書かれているように、マドンナのコンサート収入は、1回のツアーで2億ドルと、アルバムよりはるかに大きいので、そっちをメインにするのは自然な動きだろう。アルバムはそのプロモーションと割り切れば、プリンスのようにタダでばらまいてもいいわけだ。オアシスもジャミロクワイもナインインチ・ネイルズもレーベルを離れて、ウェブサイトで音楽配信するという。

音楽業界は、全世界の市場の75%を5大レーベルが占める寡占市場だ。この談合構造が、オンライン配信の妨害やCDの価格カルテルの原因になってきた。彼らに搾取されてきたミュージシャンがレーベルを「中抜き」し始めたことは、ウェブによる産業構造の変化の兆候として興味深い。
2007年10月11日 12:38
その他

ゴアにノーベル平和賞?

予想市場サイトintradeによると、まもなく発表される今年のノーベル平和賞の最有力候補は、ぶっちぎりでアル・ゴアらしい。

経済学賞のほうは、本命がFamaで、対抗がBarroかTirole。Mankiwもブログで、いろいろな引用ランキングをもとにして、Famaが本命で、対抗がFeldsteinかBarroと予想している。Famaのような巨匠がまだもらってないのは不思議なぐらいで、引用が多いのは、最近CAPMを批判して論争になったFama-French論文のためと思われる。私の推すRomerも、圏内には入っている。

ちなみに、このサイトのビッドをみる限り、アメリカ大統領はヒラリー・クリントンで決まりのようだ。この種の賭けはイギリスでは盛んだが、政治・経済情勢をメディアよりはるかに正確に予測することで知られている。やはりオークションは「本当のことをいわせるメカニズム」なのだろう。

追記(10/12):予想どおりゴアとIPCCが受賞したが、両者の結論が異なるのは皮肉なものだ。イギリスの高等法院が指摘したように、温暖化で海面が20フィートも上がるなどということはありえない。IPCCが予測したのは、28~43cmである。

追記2:ロンドンのブックメーカーのオッズでは、Grossman-Helpmanが1位で、わがRomerは3位につけている。これは内生的成長理論で共同受賞ということもあるかもしれない。

2007年10月10日 01:59
IT

縮んでゆく日本

昨日ある研究会で、ITU関係者の話を聞いた。おもしろかったのは、ITUが最大のテーマとして掲げる「デジタル・デバイド」の解説だった。日本ではデジタル・デバイドといえば、僻地の商売にならない話というイメージがあり、私もITUの会合で途上国の話ばかり聞かされてうんざりしていたのだが、彼によれば今やデジタル・デバイドこそ最大のビジネス・チャンスなのだという。

特にすごいのはアフリカで、年率20%で携帯電話のユーザーが増え、ガボンでは固定電話が数%しか普及してないのに、携帯電話の普及率は50%を超えている。もちろんGSMで、端末は50ドル以下。ガボンにキャリアなんかないから、ノキアが端末から基地局からオペレーションまで全部やって、アフリカで大もうけしているという。そのライバルは、中国のファーウェイ(華為)。日本の通信ベンダーは影も形もない。

アジアでも同じような状況で、こっちでもノキア、モトローラと並んでファーウェイが各国に進出している。日本のキャリアもベンダーもまったく手が出ず、ひもつきODAがなくなったら終わり。中国では去年NECが撤退して、日本の携帯ベンダーは全滅した。キャリアの下請けに慣れてしまって、ひとり立ちできないのだ。SIMロックを外したら、日本の携帯市場はノキアとモトローラに席捲されるのではないか。もともと端末メーカーが世界で5社しかないのに、その1割の日本で11社も生き残れるはずがない。

トヨタやソニーが世界企業になったのは、1950年代の日本が貧しい時代に、海外に市場を求めるしかなかったからだ。70年代以降は、なまじ国内市場が大きくなったために、PC-9800やPDCに代表されるパラダイス鎖国状態が続いてきた。しかし、それももう長くは続かない。国内市場は成熟して、これから縮小してゆく。今のペースで人口が減少すると、2050年には韓国と同じぐらいになる。ICT産業で、世界市場で闘える企業が1社もないというのは致命的だ。

それなのに、キャリアもベンダーも世界市場は眼中になく、国内で消耗戦を続けている。総務省は、今ごろから財界の老人を集めて「ICT国際競争力会議」を立ち上げているが、そんな時代錯誤の産業政策で、この内外の実力差はとても埋められない。「グローバリズム」や「格差社会」を批判していても、稼ぎ手がいなくなったら、みんな平等に貧しくなるだけだ。今年の第2四半期の実質GDPは、年率1.2%のマイナスになった。

ジュネーブから見た日本のプレゼンスは、とても小さく、また縮んでいく一方だという。日本が「ブロードバンド大国」だなどというのも昔の話で、WiMAXは各国ではもう実施段階だ。NGNも、欧州では単純な「オールIP化」としてどんどん進んでいるが、NTTはデラックスな「NTT版NGN」のトライアルばかりやって、いつビジネスになるのかもわからない。そこにも、グローバルな視野はすっぽり抜けている。

それでも「開国」するしか選択肢はないだろう。政府が支援なんかしないで、外資に合併でも買収でもされて、資本の論理で解体・再編するしかない。アジア通貨危機で破綻した韓国は、その後サムスンが世界企業に成長した。日本の携帯ベンダーも、1社残れば上等だろう。
2007年10月08日 17:26

マルクスの亡霊たち

マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナルデリダの「脱構築」の概念とマルクスの関係は、古くから指摘されてきた。これは知識人と左翼が同義だったフランスでは当然のことであり、マイケル・ライアンの『デリダとマルクス』のように両者をストレートに結びつけた本もある。デリダ自身も「私は正統的なマルクス主義者です」と(半分冗談で)インタビューで語ったことはあるが、彼の本格的なマルクス論は、これが最初で最後である。

社会主義が崩壊し、マルクスは死んだと思われた1990年代になって、あえてマルクスを論じるところに、デリダの反時代的な姿勢がうかがえる。本書で彼は、マルクスへの「負債」をはっきり認めている。脱構築の概念は、言説を解体することによって、その裏側にある(意識されない)意味をさぐりだすことだが、そうした方法論が初めて語られたのは、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。
人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとでではなく、すぐ目の前にある、与えられ持ち越されてきた環境のもとで作るのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生けるものの頭脳を押さえつけている。
ここで「夢魔」と訳されている言葉に、デリダは「亡霊」という意味を重ねる。人々のイデオロギーや過去の亡霊が(そうとは意識せずに)人々の言動を拘束する、というマルクスの分析は、脱構築の先駆だった。『資本論』でも、マルクスは商品の価値の「幽霊的な性格」を指摘し、商品の「物神性」を論じている。日常的には自明なモノと見える価値が、資本主義社会の生み出した幻想であり、その背後には「人と人との関係」が隠されているのだ、という議論は有名だ。

しかしマルクスは、こうした資本主義の「宗教的性格」を見事に分析しながら、最後には亡霊を追い払い、その本質を労働、生産、交換の物質的世界に求め、労働がその本来の価値で交換される透明な世界を「自由の国」として描く。彼はブルジョア社会の亡霊を批判しながら、最後には労働価値という実体を導き入れてしまうのだ。しかし(後にオーストリア学派が徹底的に批判したように)、こうした古典経済学以来の労働価値説こそ、亡霊にほかならない。

この批判はきわめて本質的であり、いわゆるポストモダン派によるマルクス論としては、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』と並んで、もっともすぐれたものだ。しかも新しい亡霊として、デリダがサイバースペースをあげているところは興味深い。それは本質論に解消されることのない亡霊としての亡霊であり、そこに彼のいう「新しいインターナショナル」の可能性もあるのかもしれない。

しかし、このデリダの著書の中でも最も重要な作品の一つが、日本語訳が出るまでに14年もかかった訳者の怠慢には、強く反省を求めたい。
2007年10月05日 13:16

「日本的経営」の偽善

昨日の記事には、予想どおり「財界の犬」とか「違法行為を擁護するのか」などの批判があった。そこでバランスをとって、というわけでもないが、朝日新聞の取材班の書いた本から、御手洗氏の発言を引用してみよう(pp.97~8)。
「キヤノンは、終身雇用という人事制度をとっている。それは終身雇用という制度が日本の文化や伝統に根ざしたものであり、日本人の特性を引き出すのにもっとも適したシステムだからである。」

「アメリカには[・・・]何千、何万という職能分析と給料が地域別に出ており、自分がどこに行けばいくらで雇われるかがわかるから、安心して職を変えられる。日本では、そういう仕組みができていないのに、終身雇用をなくせなどと、学者などが軽々しくいうのは無責任だと思います。」

「セル方式[キヤノン独自の生産方式]で、延べにして2万2000人を減らした計算となるが、増産もあったので、半分ぐらいが残り、実際に減らしたのは約1万人。[・・・]別にクビを切ったわけではありません。外部から来ていた人が引き上げて行っただけです。」(強調は引用者)
トヨタやキヤノンは「終身雇用」や「日本的経営」を売り物にしているが、それは派遣労働者や請負労働者を「外部から来た人」として計算に入れてないことによる偽装終身雇用にすぎない。一時は世界から賞賛された日本的経営とは、このような二重構造の中で、派遣労働者や下請けを人間扱いしないで維持されてきたのだ。

このように終身雇用なんて実際には存在しないのだから、それが「日本の文化や伝統に根ざしたもの」だという御手洗氏の話も嘘である。「文化と伝統」を持ち出すのは、現状維持したい人々のありふれたレトリックだが、戦前の日本には終身雇用なんかなく、職人が腕一本で多くの会社を渡り歩くのが当たり前だった。現在のような雇用慣行ができたのは、1960年代以降である。

だから問題は、このような偽装終身雇用を守ることでもなければ、朝日新聞の取材班が主張するように「請負労働者を正社員化」することでもない。アメリカ経験の長い御手洗氏も理解しているように、「何千、何万という職能分析と給料が地域別に出ており、自分がどこに行けばいくらで雇われるかがわかるから、安心して職を変えられる」仕組みをつくるとともに、社員の雇用形態を契約ベースにして多様化し、労働の流動性を高めることだ。

本書の最後に合成の誤謬というケインズの言葉が出てくるが、取材班はその意味を取り違えている。個々の労働者にとっては、請負より正社員のほうがいいに決まっているが、失業より請負のほうがましだ。ところが朝日が激しくキャンペーンを張ると、企業は「コンプライアンス」対策として請負契約を切り、請負労働者は職を失う。これは、各個人にとって望ましい貯蓄が、経済全体では有効需要を低下させて不況をもたらす、というケインズの指摘した合成の誤謬とそっくり同じ構造である。

問題は請負契約をなくすことではなく、こうした二重構造を作り出している労働法制を改めることだ。具体的には、労働基準法で「企業は労働者を解雇できる」という解雇の自由を明確に規定し、例外として解雇できない条件を具体的に列挙すること、労働者派遣法を改正して派遣労働者を正社員に登用する義務を削除すること、職業安定法を改正して請負契約を「労働者供給事業」の一形態として認知すること、職業紹介業を完全自由化することなどが考えられよう。

追記:コメントで教えてもらったが、ベッカーも解雇を禁止する「テニュア」は必要ないと論じている。本当に必要な労働者は、アメリカの企業でも囲い込んで雇用を保障するのだから、法律で保障する必要はない。


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