よろしくお願いします! 今日は、笹原さんに“誇り”と“夢舞台”と“夢”について、がっちり語っていただこうと思います!
「よろしくお願いします。というか僕自身は全く、特に波瀾万丈でもない普通の人生なんで」
いえ、普通の方が総合格闘技大会『DREAM』のイベントプロデューサーになることはあり得ないので、そのあたりをガッチリお伺いします! 笹原さんは小さい頃からプロレスや格闘技はお好きだったんですか?
「好きでしたよ。プロレスが大好きで、僕の一番最初の記憶はブッチャー&シーク組vsファンクス兄弟でしたね。それが小学校2年か3年生くらいの時でしたかね」
世界タッグを取る前の時ですかね。見て『すげぇ』と思ったりしてたわけですか?
「そうですね。大興奮して見てましたね。見てた当時はやっぱりファンクスが好きで、テリー・ファンクのファンでしたね。弟にドリーをやらせて僕はテリーをやってましたね。弟は「なんで弟なのにテリーができないんだ」と、不満げな顔をしてたんですけど、俺がテリーだ!言うことを聞けと(笑)。その後は普通に猪木さんでしたね」
笹原さんのプロフィールで気になるのが、大学に7年通われてたそうなんですけど。
「そうです」
ずいぶん勉強熱心ですね(笑)。
「そうです。勉強大好きだったんで(笑)」
7年間はちなみに、何をされてたんですか?
「何もしなかったですね(即答)。だらだらしてましたね」
ちなみに大学はどちらで」
「某国立大学の教育学部です。まぁ・・・・・・これは島田二等兵ばりの上目線なんですけど『先生になってやってもいいかな』と思っていて、浪人はしたくなかったんで、自分の実力で行けるところの中から、教育学部があるところを選んで」
では、当時は学校の先生になろうかなと考えていらっしゃったんですか。
「そうです」
ならなかったのはどうしてだったんですか?
「3年生くらいまでまじめにやってたんですよ。1年やって、教育学部なんで、まわりは当然先生になりたい人だらけじゃないですか。そこですごく違和感を覚えたんです」
それは、どんなところになんですか?
「先生になることに対して、誰も疑問を感じてないんです。素直に、先生になりたいから先生になる、と。僕はそこで結構つまずいたんですよ。先生になるって、大変なことじゃないですか」
大変ですよ。人を教育しなきゃいけないですし、クラス担当して大勢の人に責任持つわけですし。
「やっぱり自分の生き方も問われるでしょうし。そういう非常に重たい職業であるにもかかわらず、そこに何もひっかかりを持たずに先生になっていく、なりたいと思っている人ばっかりだったんで・・・・・・まぁそこは人それぞれですけど、僕はそこが非常に自分自身が気持ち悪いというか、嫌だったんですよ。今も一年に一回くらい、大学時代の仲間と会うんですけど、ちゃんと先生をやってるんで、本当に偉いなぁと心から思いますからね。で、じゃあ僕は先生になれないから、どうしようかなと思って。そこでちゃんとした人だったら、別の道を真剣に探していくんでしょうけど、僕はダメ人間だったんで、そのままダメになっていきましたね(笑)」
じゃあ、大学で浮いてたほうですか?
「いや。僕ね、こう見えても人と合わせるの上手なんですよ」
いや、下手だと思っていないですよ(笑)。
「そうですか(笑)。あまりそういう本心を見せずに、キャンパスライフをエンジョイしてる風にやってましたね」
大学で7年過ごされた後、名古屋のカプセルホテルに就職されたそうですけど、それはまたなぜなんでしょうか?
「4年生以降はもうほとんど大学行かなくなってたんですよ。全然大学に行かなくなって8年目になった時、親が『もうあなた、いい加減いいでしょう』と。そりゃ言いますよね。十分だろう、と」
もういいだろう、と。まぁ言いますよね。
「多分、自分の中でもこのグダグダを脱したいとは思っていたんですけど、自分でそこから這い上がる努力もせず、誰かに背中を押して欲しかったんだろうと思いますけど。親が、帰ってきなさいと言うんで、まぁ、いいかなと実家に帰りました」
卒業はされたんですか?
「してないです。・・・・・・どうなってんのかなぁ、今(笑)」
まぁ、じゃあそこで実家に戻って就職と。
「それで実家に戻ったら・・・・・・これがびっくりするぐらい居心地悪いんですよ(笑)」
そうでしょうね(笑)。
「そりゃそうなんですけどね。7年も大学行って、卒業もせずに帰ってきてるわけですから。僕が親だったら、ぶん殴ってると思いますもん。で、居心地悪かったんで、とにかく家を出たかった。就職活動をしている時も、給料とかの条件よりも、とにかく泊まり込みでやれるところがいいなと思ってたんです。安直なんですけど。で、就職雑誌を探したら、カプセルホテルがあったと」
それも何か、すさんだ理由ですねぇ・・・・・・。カプセルホテル時代は、どう過ごされていたんですか?
「要は7年間もぐうたらしてたわけですから、働くことに対して恐れがあったんですよ。恐怖感もそうですし、毎日働くことに対する畏敬もあった。なので自分は社会人としてまともにやれるのか、っていう不安を打ち消すために、絶対に失敗しちゃだめだと、すごく自分に言い聞かせてましたね」
なるほど。リハビリみたいな感じですかね。
「そうですね。だからとにかく、まじめに働こうと思ってたんですよ。一生懸命働こうと。7年間ぐうたらしてたんだから、同じく7年間はひたすらまじめに働いて、「まともさ」を取り戻そうと。で、石の上にも3年じゃないですけど、ひとまず3年間やり通そうと思ったんです。だからその3年間は、めちゃくちゃまじめでしたよ。自分にプレッシャーかけすぎて、胃潰瘍になりましたね」
カプセルホテルで(笑)。仕事がきつかったりしたんですか?
「いえ、時間は不規則なのはありますけど、それは全然苦にならなかったです。まじめに1年2年やって、あ、結構やれるんだなと思って。ちゃんとサラリーマンできるじゃないか、俺は、と思ったわけです。でも、一生やる仕事じゃないじゃないですか。カプセル道を究めようとは思わなかったんで(笑)」
リハビリ期間を終えて、次の仕事を考えたと。
「なので3年目の終わりくらいから、何か仕事を探し始めましたね。就職雑誌を見て、名古屋にイベント制作会社があったんで、すぐ電話をしたら、もう締め切ってたんですよね。でも、お願いします!と粘ったら、じゃあ面接しましょうということになって。で、何回か面接したらあっさり合格して」
何か、若者らしいアピールをされたりしたんですか?
「僕ね、第一印象でよく思われるのが得意なんですよ」
アハハハハ! だ、大事なことですね(笑)。
「とにかく基本は元気にハキハキと受け答える。あとは、難しい質問をされたときには、一生懸命考えているふりをするのがポイントですね。一本調子の元気さって馬鹿っぽく見えるので、ちょっと濃淡をつけるのがコツです(笑)」
で、無事合格されて、お仕事としてはどうだったんですか?
「楽しかったですね。写真展とか、展覧会をやる会社だったんですよ。主に。多分日本であんなことをやる会社って、他になかったと思うんですけど。たとえば、尾崎豊写真展とかやってるわけですよ。普通は、じゃあイベントの制作だけやりますとか、権利だけ買いますとか、物販だけやりますとかが一般的なんですよ。何か専門のことだけやって、後はアウトソーシングするじゃないですか」
分業してやるのが普通ですよね。
「でも、その会社は基本、全部やってたんです。権利元と話をします、物販もやります、箱(会場)も押さえます、展示もやります、制作もやります、という、全部やっている珍しい会社だったんです」
文化祭がちょっと大きくなったような・・・
「そうです。そんな感じです。それを一年に何本か、まぁ柱のイベントがあって、僕が入ったときは、尾崎豊写真展がもう終わってたのかな。マリリン・モンローの写真展とか、世界中のキスを集めた写真展とか、ちょっとロマンチックで、今やっている仕事とは全然違う、オシャレ系な仕事の内容だったんです」
なるほど(笑)。イベントの内容を考えて、それを実行に移してなんでもやる、と。
「そうです。イベントを作るっていうことはそこで学びましたね」
その後、どういうきっかけで『PRIDE』イベントの立ち上げに参加されることになったんですか?
「毎週月曜日の朝に会議があるんですよ。まぁ、ちっちゃな10人くらいの会社なんですけど、それぞれが受け持っている仕事の進捗状況を確認しあうような会議で、レジメが配られるんです。で、その中に“ヒクソン企画”って書いてあったんです」
(笑)。マリリン・モンローとかの中に。
「95・・・6年ですかね。まだヒクソンとか知名度が低いですよね。ヒクソンって・・・・・・あのヒクソンだよなぁ、と思って、社長に聞いたんです。『ヒクソンって、ヒクソン・グレイシーのことですか』って。そしたら『おまえ、知ってるのか』って」
知ってる人が少ない時代ですしね。
「で、僕が『バリジャパ出てたじゃないですか』って。そしたら『なんだバリジャパって』って、逆に聞かれて『バーリトゥード・ジャパンのことです』って説明してあげて(笑)。おまえ詳しいんだなっていう話になって、実はそういう企画をやろうとしていると。当時のヒクソンの奥さんであるキム夫人と、当時その会社にいたスタッフの女性が仲が良かったんです」
へぇ〜。
「そういうつながりがあって、ヒクソンはバリジャパ以外にも、他にもチャンスがあれば日本のイベントに出たいという意志があったらしくて。で、一方で、榊原信行さん(元・※ドリームステージエンターテインメント代表取締役)は東海テレビ事業時代に、Uインターの興行をやっていたんで、高田(延彦)さんと面識があった。その2人がよく一緒に名古屋でイベントをやっていて、仲が良かったんです」
これまた、不思議な縁ですねぇ。
「で、何かの機会に『俺、ヒクソンと話ができるよ』『俺、高田延彦と話ができるよ』ってことになって。じゃあ、一緒にやれたら面白いよねっていうのが始まりです」
あの一戦は名古屋発信だったんですね・・・・・・。
「そうなんですよ。で、そこから色んなことがあるんですけど、本格的にやるには、東京で事務所を立ち上げなくちゃいけないと。じゃあおまえ好きだから、行くかと言われて、喜んで行きますと。3ヶ月間だけ手伝って、終わったら名古屋戻っていいからと言われて。97年の7月頭くらいに東京に出てきたんですね。で、青山の骨董通りにKRSっていう事務所を構えて、そこに何人かスタッフが入って、ようやく動き始めたというわけです」
当時の状況下で、外から入ってきた組織が格闘技イベントをゼロから立ち上げていくって、すごく大変そうですよね。
「もう、むちゃくちゃ大変でしたね。『おまえ広報やれ』って言われて、なんですか広報って、みたいな話だったんですよ。何にもわからなくて、教えてくれる人もいない中で、とにかく何か、一生懸命やろうとしか思っていなかったんですけど、会見やるにしてもホテル押さえたけど、通訳押さえたっけ、みたいな。看板ってどうなってるのとか、司会進行誰にやらせるとか、そういうの全く分からなかったですから」
まさにゼロから準備してたんですね。
「そうですね。せっかくヒクソン来てるんだから取材やらせないといけないよねって言われて、そうだな、取材させなきゃダメだなと思って、申請書を作って。でも、どの媒体がどうとか、分からないじゃないですか。全然面識ないし。みんなうさんくさい目でこっちを見てるし」
(笑)。それは感じたんですか?
「それは分かったんですよ。最初の会見なんて「お前ら何者だ!」って、新聞記者のかたに怒鳴られたりしてましたから(笑)。なんでこんな目で見られるんだろうなぁと。で、ヒクソンの取材に『月刊・秘伝』が入ってたりとか」
アハハハハ! あぁ、とにかく全部受けてしまったと(笑)。
「そうです。まぁ『月刊秘伝』は、それはそれで面白かったですけど。例えば今だったら断るようなエロ雑誌とか、全部受けてましたね。『うち、やっていいんですか』みたいな(笑)」
『PRIDE.1』は、格闘技イベントとしてすごく意味の大きなものだったと思いますけど、手応えとかは感じなかったですか?
「あ、そんなの全然なかったですね。普通はね、何ヶ月も準備してきて、本当に大変でしたから、ハッピーエンドを期待するじゃないですか」
そうですね。
「やり遂げたって感じを味わえると思ってたんですよね。それが、全く無かったですね」
終わり方も、バッドエンドでしたしね。
「そう、バッドエンドでしたよね。尾も引くし、周りからは『よく頑張ったね』みたいな評価もないし。あれだけ一生懸命やったのに、達成感もカタルシスも何にもなかったんですよ」
何にも・・・・・・(笑)。まぁ、それこそ普通の写真展だったり、イベントだったりすれば、打ち上げじゃないですけど『みんな頑張ったね』『いいもん作れたね』的な終わりがあると思うんですけど、格闘技イベントだと、そうもいかないところはありますよね。
「まったくなかったですね。これは忘れられないんですけど、全試合が終わって、息をつく間もなく、オレッグ・タクタロフがですね」
久々に聞く外国人の名前ですね(笑)。
「ずっと、控え室で動けないって言ってるんですよ。当時、救急の手配とかも万全じゃなかったんですよ。今だったら救急病院が指定してあって、ドクターや看護婦が10人以上いて、何かあったらすぐに病院つれていきますっていう体勢ができているんですけど、その当時そんなフォーメーションになっていなくて、オレッグがある意味、ほったらかしになってたんですね」
あらら・・・・・・それはなんとかしないといけない状態ですよね。
「で、病院連れて行かなきゃいけないってなって、救急車呼んで、誰乗っていくんだって話になって、僕乗っていきますってなったんです。で、病院に行ったら診察カードを作らなきゃいけないじゃないですか、当然。で、“オレッグ・タクタロフ”って僕が書いて。多分、いまでもどこか探せば出てきますよ、オレッグ・タクタロフの診察カードが(笑)。人生ではじめて救急車に乗ったのが、そのときです」
苦労してようやくやり遂げたイベントの終わりにしては・・・・・・。
「ちょっと、せつないですよね。しかもロシア人だから、英語もしゃべれないし、コミュニケーションもうまくとれないじゃないですか。片言の通訳みたいな人はいたんですけど、負けてるわけだから当然、どよーんとしてるわけです。僕からそんな、かける言葉もなくて、しーんとした感じで病院に連れて行って」
さすがに、その環境でこれが天職だとは思えないですよね(笑)。最初は3ヶ月と言われて、東京に行ったわけですから、笹原さんとしてはそこで仕事は終わりですよね?
「最初は確かに終わったら名古屋に戻っていいからと言われてたんですけど、終わって会社に戻ってきて、深夜のテレビで大会の中継を見てたら、エンディングに“次回、『PRIDE.2』開催!”って出てるんですよ。『え!? 次やるんだ』って思って」
テレビで知ったと(笑)。まさに寝耳に水ですよね。
「水どころの騒ぎじゃないですけど(笑)。洪水ですよ。やるんだ!って。もちろん上の人間は知ってたんでしょうけど、下っ端にはそんな話も届いてなくて」
テレビで次回大会開催を知って、その後、5でドリームステージエンターテインメントが立ち上がりますよね。最初の大会では達成感がなかったとおっしゃってましたけど、笹原さんの気持ちはどう変化していったんですか?
「僕、1から4までやって、5でドリームステージ(※ドリームステージエンターテインメント。以下DSE)が立ち上がるときに、前の会社の社長にどっちを選ぶのか選択を迫られているんですよ。戻るのか、それとも『PRIDE』をやり続けるのかと」
出向として行っていたわけですもんね。
「僕がもともと居た会社としては、『PRIDE.4』で一回手を引いてるんですよね。なので、普通なら帰ってこいという話なんでしょうけど、当時の社長が『おまえの好きなようにすればいい。戻ってきてもいいし、やり続けてもいいし。ただもしやり続けて、どうしようもなくなったらいつでも戻って来い。お前を迎え入れるから』って言われたんですよ。これ、いい話ですよね(笑)。でも、随分時間が経ってから、その社長に『あの時、言われた言葉を忘れていません』って言ったら、『俺、そんなこと言ったっけ?』って言われました(笑)。まぁでも、逆にその言葉で、納得するまでやってやろう、という気持ちになりましたけどね。4回やっても達成感ってなかったですし。」
4までやってもですか。
「そうですね。何かやる度に反省ばかりしてたような気がします」
それじゃ会社は辞めることになるわけですか?
「辞めました。その会社を退社して、DSEに入ったんです」
DSE体制になって、2000年の『PRIDE.GP』あたりから一気にブレイクしましたよね。
「ま、フジテレビがついてからですよね」
イベントに火がついていく瞬間みたいなときって、中で働いている人たちはどんな状態なんですか?
「そうですね・・・・・・小川(直也)選手がゲーリー(・グッドリッジ)とやった時、今までに感じたことのないすごくいい緊張感があったんで、もしかしたら可能性があるかなと思ったんですよね。それが8の桜庭×ホイラーで確信に変わりましたね」
リング内が盛り上がっていった時期に、ちょうど先ほどおっしゃっていたフジテレビがついたことが大きかったですよね。
「そうですね。僕らは、やりながら『これは地上波のテレビじゃ流せない』って、思ってましたから」
残酷だからですか?
「そうです。当時は当然、総合格闘技という言葉すら認知もなく、ジャンルとして全く確立してませんでしたから。『PRIDE.1」のときにも、当然いろんなところに話を持って行ってるんですね。テレ東だとか、日テレだとか。でも先方からしたら『何言ってんの』って感じじゃないですか。マウント・・・・・・当時はマウントって言葉も一般的じゃなかったですけど、馬乗りになって、素手で顔面を殴るなんてありえないじゃないですか」
当時だったらそうですよね。時代を感じますねぇ。
「だから逆にフジテレビにしかできなかったと思いますね。まぁK−1をやっていたというノウハウもあったと思いますし、フジテレビでやれることになったのは、本当に大きなきっかけですね」
資金的にも大きく変わってきますし、あの当時、桜庭さんものすごいバラエティとかも出てましたし。
「そうですね。でも、あれはGP、ホイス戦が終わってからですね、桜庭特需が来たのは」
特需(笑)。
「8でそういうことがあって、ドーンと来たのが10ですね。お客さんも本当に入って、多分イベントとしてはじめてちゃんと収支が合った大会じゃないですかね。それくらい大変なんですよ(笑)」
10回かかった、と。
「まぁランニングコストとかもあるんで、単純には割り出せないですけど、明確にお客さんも入って、モノも売れて、内容も素晴らしくてってなったのは10からですね。もともと僕はスポーツ好きだったんで、口幅ったい言い方ですけど、筋書きのないドラマがはまったときの爆発力ってすごいじゃないですか。プロレスはプロレスですばらしさはあるんですけど、そうじゃないものをはじめて自分たちの手で作ったというか、携わって、思っていた以上に、とんでもないくらいの爆発力が生まれたわけじゃないですか。本当に、スポーツってすごいなとあらためて感じましたね」
いまになって思えば、2002年の大ブレイクがあって、2003年の冒頭に森下社長が急死されて・・・・・・
「そうですね・・・・・・大変でしたね。あの一日は長かったなぁ・・・・・・。すごく長かった」
会社としても、代表取締役が突然お亡くなりになったわけですから、その対応というか処理もありますし、あれだけ表に出ていた人ですし。
「うん。だから、結局社長が急逝されたことで、DSEとか『PRIDE』っていう看板が使い物にならないんじゃないかっていう空気だったんですね。でも、『PRIDE.25』をやって大盛況で、『PRIDE.26』もめちゃくちゃ盛り上がって、そういうネガティブな空気をプラスに変えられたと思いますけどね。神がかってましたね、25と26は」
また、日本人選手だけじゃなくて、意外とと言ってはなんですけど、外国人選手が男気を見せてくれたのが印象的でしたね。
「それはもちろん、『PRIDE』が世界で一番大きな団体だったというのはあるんでしょうけど、ああいう世界観って選手からしてみても、お金以外の部分で、心地よかった部分ってあると思うんですね。自分が殉じれるというか。命をかけるって言葉を、心から言えるようなリングだったからこそ、ああいうときに男気見せなきゃいけないっていうことが、日本人の選手が言えるように、外国人の選手も自然に思えるような環境だったんだと思います。物心両面で満足できる舞台だったからこそだと思いますよ」
『PRIDE』って、そういう環境を作り出していたこともそうですけど、非常に吸引力が強いというか、革新的なイベントだったと思うんですよね。
「ま、ある意味宗教でしたからね。この言葉が正しいかどうか分からないですけど。宗教だったからこそ、今のような状態になってもまだ信仰心が残っているというか」
その宗教という考え方でいくと、対立する宗教というか、他宗派のK−1の存在は大きかったように思うんですけど、いかがですか?
「そうですね。K−1があったからこそ、『PRIDE』はあれだけ大きくなったと思います。当時は僕ら『いやいやK−1さんには全然及びませんから』って常に言っていたと思うんですね。ナンバーワンになると、風当たりって当然強くなるじゃないですか」
確かにそうですね。
「だから僕たちはナンバー2で、風あたりはすべてK−1さんに、というのは、意識してやっていたところはありますね。なので猪木さんが馬場さんにかみつくところに、非常にシンパシーを感じるというか(笑)。今だから分かるんですけど、あのときのジャイアント馬場さんは本当に怒っていただろうなと思うんですけど(笑)」
アハハハハ!
「かみつくほうが、結局簡単じゃないですか。簡単というか、楽なんですよね」
かみつかれたほうが、うざったいというか。
「そう、大変だと思いますよ。そこでかみつき返したりすると、人間が小さいとか、ムキになってとかなりますし(笑)。それでもPRIDEの戦略としては、K−1を悪者にというか、大衆格闘技としてのK−1、そうじゃないものとしての『PRIDE』っていうのは、意識してやっていましたね」
そのイメージは浸透してたと思いますし、選手が狙い通りスターになっていったりする課程には、やりがい感じますよね?
「そうですね。でも、その当時はあまりにも『PRIDE』が大きくなりすぎてて、生き物のように感じていましたね。制御しようとしてるんですけど、思った以上にどんどん大きくなって、ふくらんでいくというか。それは望んだものでもあるんですけど、大きくなっていくと結局、いろんなものというか、いろんな人を巻き込んでいくじゃないですか」
そうですね。
「それが本当に、あの、めちゃくちゃ大きくなっていって、ある意味ピークだったのが、ミドル級GPの最初ですね。それこそ大きい生き物に周りがついていくというか、そんな感じですね」
その後、03年に『男祭り』があって、結局大晦日、民放3局で格闘技をやっていた、おかしな年がありましたね(笑)。
「あれが本当に大変だったんだよなぁ・・・・・・。よく最近の人たちが“格闘技バブル”って言い方をするんですけど。確かに、現象だけを見るとバブルなんですよ」
バブルですよね。
「ただ、誰か儲かってたかというと、誰も分不相応の儲けを手にしたわけじゃないんですよね。だから正確にはバブルじゃないんですよ」
まぁ、損した人の方が多いですよね。
「そう。だからバブルって聞くと言葉に違和感を覚えるんですけど。少なくとも現場でやっていた人間は、そのバブルに浮かれてたわけじゃないですし。11月にミドル級GPやって・・・しかもその時の東京ドームのミドル級GP決勝戦って、多分『PRIDE』史上一番盛り上がった大会だと思うんですよ。終わったあと、スタッフと『もうこれ以上のもの出来ないよね』って話をしたんです。東京ドームっていう日本最大の箱で、演出とかも神がかったようにはまって、試合内容も素晴らしくて。もう、これ以上のものは絶対に無理だという中で、大晦日の「男祭り」を発表してましたから、本当に出来るのかなというのが正直なところでしたよね」
そこでもうひとつ『ハッスル』っていうイベントが加わってますよね。
「そうですね。うん」
『ハッスル』では、裏方だったはずの笹原さんが、キャラクターとして実際に表舞台に立たなきゃいけない場面がありましたよね。
「嫌でしたねえ・・・・・・。世間では、僕が立候補してやっていたような、嬉々としてやっていたようなイメージがあるかもしれないですけど、全く逆ですから。これはちゃんとカットせずに書いといてください(笑)。ただ、これはよく島田(裕二)さんと話すんですけど、最初はハチャメチャやっていたんで、楽しかったですね、って」
むちゃくちゃでしたしね。
「やっぱりイベントって、ゼロから立ち上げるときが一番ダイナミックに物事が動くんで。そういうときはやっぱり楽しいんですよね。それは感じましたよね」
DSEとしては、興行の数が単純に増えましたよね。
「そうですね。『PRIDE』やって、武士道やって、その上ハッスルやってましたからね。えらいことですよ」
会社としては、格闘技やってプロレスもやって、イケイケですよね。
「しかも映画もやってましたからね」
あぁ『殴り者』を。
「『殴り者』と『シムソンズ』ですね。だから、外から見るとDSEやそれを作り出していた榊原さんに対する幻想はすごかったと思いますよ。『PRIDE』っていう、誰もが知る格闘技イベントをやって、ハッスルもやってるんですかって話になるじゃないですか。当時、ハッスルポーズブームでしたから(笑)。あれも仕掛けて、しかも『シムソンズ』って、ちょうどメディアにカーリングが注目されましたから。確か当時のスタッフが、トリノオリンピックの競技場で『シムソンズ』の旗を振ってたと思います(笑)。で、やることなすこと、日本にブームを巻き起こすみたいな幻想はもたれていたんじゃないですかね。実際にブームを起こしてましたし」
その後、2007年、突然フジテレビが離れて『PRIDE』っていうものが譲渡されて・・・・・・
「その前にアメリカ進出があるんですよね」
あ、そうでした。
「今思えば、フジテレビのバックアップがある状態で、もうちょっと早くアメリカに進出できていたら、格闘技界の状況は、今とはちょっと違っているかもしれないですね」
海外進出が遅かったということですか?
「そうですね。アメリカがじきに爆発するんじゃないかっていうのは、榊原さんの中では焦燥感に近いものがあったみたいで、そのためにもっと早く進出するべきだと思っていたんでしょう。でもなかなかきっかけがつかめずに1歩なのか半歩なのか出遅れたことが、全部一気にUFCにガッとかっさらわれましたね」
確かに『PRIDE』っていうイベントのすごさは、海外でも当時から伝わってたし、映像も向こうで流れてたでしょうから、1年早く『PRIDE』がアメリカに進出していたら、市場をとれたかもしれなかったですね。
「とれたかもしれないですね。僕らは『PRIDE』が持っていたライブのパワーには自信がありましたから、いろんな人を会場に呼んでいたんです。実際に体験させれば『PRIDE』の世界観は何を説明するより一番早いんで。そうしたら、やっぱりイベントが終わってから、一緒に組んでやっていこうという話がたーくさん来たんですよ。本当に1年早かったら、環境が変わっていた可能性は大きいですね」
じゃあ『ハッスル』をやるより、アメリカに進出してるべきだったと。
「そう。『ハッスル』なんてやってる場合じゃなかった(笑)」
シャラップとか言ってる場合じゃなかったと(笑)。アメリカ進出を果たした直後に、突然の“フジテレビショック”というか、フジテレビが『PRIDE』をやらなくなるという、ものすごく急な発表があって、もう次の大会からつかなくなるという・・・・・・。
「そうですね。ま、もともとのきっかけになったのが週刊誌の記事ですよね」
そうでしたね。
「フジテレビに切られました、っていう、それ自体のダメージも大きかったですけど、それ以上に、その風評被害というか『やっぱり週刊誌に書いてあったことって本当なんだよね、だってフジテレビが切ったんでしょ』っていうイメージが蔓延していくのが大きかったですね。それが思いの外強烈で。」
2007年4月にDSEがPRIDE FC ワールドワイドになって、10月の突然解雇に至るまで、笹原さんはどんなことをしていたんですか?
「そのときはあれですよ、大学7年間と同じような感じですよ」
「今になって(笑)」
「何もするなって言われてたんですよ。何もするな、待機してろと。僕は当然いろんなマスコミの方とのおつきあいもあるから、挨拶に行きたいって言ったんです。そしたら行くな、待ってろと。いろんな人と話をするのも僕らの仕事じゃないですか。それもダメだって言われて、動くなっていう」
軟禁みたいな状態ですね。
「そうそう。だから時間通り会社に行って、何もすることがなくてボケーっとしてて、定時に出て、生殺しです」
社員はとりあえずそうやって、時間に来て、何もすることなくて・・・・・・気持ちが腐りそうですね。
「まぁ、いやでしたけど、イライラしても事が進展するわけでもないですし」
楽観的な感じだったんですかね?
「んー、そこに至るまでいろんなこと経験していますから、たいていのことはなんとかなってきたから、なんとかなるだろうって感じですかね。こうなっちゃった以上は、まな板の上の鯉じゃないけど、そういう状態ですね。待ち続けてはいましたけど」
その後、突然の解雇というのは・・・・・・15分後には出ろと言われたらしいですけど。
「パソコンも触るな、携帯も置いていけと言われて。仕方なく、私物を持って出ていきましたね。青山通りにたたき出されましたよ(笑)」
その時って、どんなことを考えていたんですか?
「うーん。ふざけんなと思いましたよね。一番は、待ってくれているファンの人たちとか、関係者の人たちとか、選手にどう説明したらいいのかっていうことですよね。解雇されたこと自体は、自分自身の怒りとして折り合いはつけられるんでしょうけど、周りの人達の怒りや悲しみって本当に大きかったと思うんです。だからこそ、そうなる前に事前説明をしたかったんですけど」
でも、報道する側からしたら、笹原さんに話を聞くしかないですし。
「そうですね。だから、DSEが入っていたビルの裏の駐車場で囲み取材を受けましたよ(笑)」
ハハハ。
「その日が確か10月4日なんですよ。本来だったら、10月11日が『PRIDE.1』から数えてちょうど10周年だったんで、何かやりたいねという話はしていたんですけど、まさか何もないまま過ぎ去って、最初の日に戻っちゃっているとは、想像もしなかったですけど」
10周年でゼロになっているとは、ですよね。
「10周年で裸になっているとはって(笑)。で、今後どうしようかという話になって、やっぱり肚の虫はおさまらないし」
むかつく、と。
「むかつくと思いながら、なんとかできないかなっていうのを残った数人のスタッフで話をしてました。じゃあ、大晦日のさいたまスーパーアリーナで、一丁意地を見せたいなぁと思って、それが動き始めたのが10月の末か、11月の頭くらいですかね。うーん、もっと遅かったかも」
ギリギリですね。準備期間とか考えたら、今までやってきたイベントの中でもきついものだったんじゃないですか?
「きついですね。楽しかったですけどね」
あ、楽しかったんですね。
「長いことほったらかしになっていたんで、久しぶりにイベントを作っているという充実感がありましたね。むっちゃくちゃ大変でしたけど、むちゃくちゃ面白かったですね」
奇しくも、10年目にしてまた『PRIDE.1』のきつさを思い起こさせるような巡り合わせですね。
「そうでしたね。スタッフも少なかったのも当時と同じでしたし。でも本当にありがたいことに、10年前と違うのは、支えてくれる周りの人だとか、ファンも当然いましたし、選手もいましたし。それは10年やってきた財産だと思ったんですけど、そういう方たちがいたからこそ、本当にできたイベントでしたよね」
10年前と違うのは周りに支えてくれる人がいた、ってすごくいいですね。
「本当にそう思いましたね。ありがたかったですね。だってね、事務所にお客さんからの問い合わせの電話やメールがくる度に『頑張ってください』って声をかけられんですよ。・・・・・・泣けてきますよ、本当に」
いいですね。
「『頑張ってください』ってメールや電話が、ひっきりなしに来て励まされたら、それは男を見せなきゃいけないと思うじゃないですか。本当にありがたかったです。あとはプラスで谷川さんとかの協力が得られたっていうのも大きかったと思いますし」
選手を出してくれたというのもそうですし、あそこで手を組めたというのは、大きかったですね。
「やっぱ、格闘技の火を消しちゃいけないと。それは、黒魔術じゃなくて(笑)」
敵に塩、じゃないですけど、力を認めていたからこそ手を貸せるってことですかね。
「そうですね。ライバルでしたけど、ライバルだからこそわかり合えるところってあるんでしょうし。そこで手をさしのべてくれたことは、それもやっぱり、財産だったと思いますし」
大会は大成功でしたけど、その後、何日間はぼんやりしたりしたんですか?
「いや、一夜明けもやったりしましたし・・・・・・全く休んでないですね。ずっとなんか、いろいろやってましたね」
今後どうするか、っていうのは頭の中にあったんですか?
「もちろんありましたよ。『やれんのか!』をやった仲間がいたんで、この先いっしょに格闘技に携わっていく上で、会社があったほうがいいよねって話して、決めていきましたね。大連立して、格闘技の熱を見せられたわけですから、じゃあ、いっしょにもう一回やっていきましょうと」
そして、現在は『DREAM』イベントプロデューサーをなさっている、と。突然話は変わりますけど、笹原さんはお休みの日とか、何をしてらしゃるんですか?
「僕ですか? 僕、本読むの好きなんですよ(笑)。平凡な趣味で申し訳ないんですけど、趣味は読書です」
噂によると浅草キッドの水道橋博士さんが認めるほどの読書家らしいですね。漫画もお読みになるそうですけど、おすすめはなんですか?
「その質問よく受けるんですけど、パッと出てこないんですよね….でも、上げるのであれば、僕が人生の中で一番影響を受けた小説は『麻雀放浪記』ですかね。興味あるかたは読んでみてください」
ぜひ。麻雀はお好きなんですか?
「好きです。と言っても、全然強くもないですし、ここ数年は全くやっていませんけど。僕、麻雀の何が好きかっていうと、競馬とかパチンコとか競輪もそうですけど、直接人間と向き合ってないじゃないですか。競輪はそういう部分もありますけど、いわゆる対象物に乗っかるモノじゃないですか。でも、麻雀って知らない4人が、向き合ってやるっていうところがコクのある競技だなと思います」
自分がどんなにいい手があったとしても、相手の出方によってひっくり返されたりしますしね。
「だから人間が出るって言うじゃないですか。それは本当に、そう思いますね」
そうですね。持ってるもので勝負、組み合わせで勝負するというのも、マッチメイクと似ているような気がしますね。・・・・・・強引ですけど。
「だから運、不運ってあるじゃないですか。でも、それを嘆いていてもしょうがない。良かったとか、悪かったとかって。その中で勝負するしかないですし、嘆いてる暇があったら前を向いて戦うしかない」
手が悪いって嘆くより、ツモってきて次を考える、と。
「『運命がカードを配り、我々が勝負する』っていう言葉があるんですけど、それが僕の好きな言葉ですね。運命はカードを配るだけなんです。配られた手持ちのカードはみんなバラバラなんですけど、それで勝負するしかない。僕らは配られたカードで勝負するしかないんです。麻雀だけじゃなくて人生にも当て嵌まる言葉だと思いますけど」
いまの『DREAM』は、先ほどの話で言うと『PRIDE.10』が来るまでのしんどい期間みたいなものだと思うんですけど。
「そうですね。どうしても、助走の期間ってのがありますからね。中には助走し続けたままっていうのも、あるかもしれないですけど(笑)。ま、それは絶対必要なことではあるんで。いまはUFCがいいですけど、あれが5年10年続くかは分からないじゃないですか。どこでどんなふうに変わるかは分からないんで、今は来るべきときのために力を蓄えるというか、我慢の時だと思いますけどね」
格闘技バブルっていうものがあったとしたら、今は不況に当たるんですかねぇ。
「まぁ、そうなんでしょう。あと、ソフト的には「世界最強」っていうことを全面的に打ち出せないのが、ちょっと弱いですよね」
あぁ・・・・・・確かにそうですね。
「世界最強って、思っていた以上に相当説得力があって、世界共通語じゃないですけど、それに近いような重みのある言葉だと思うんです。要はその唯一無二の看板を誰が、どこが取るのかと。今は、たまたまアメリカ、海の向こうにありますけど、ずっと向こうに渡しておく気はないんで、いずれ取り返してやろうとは思っていますね」
ベルトを取り返すように、ですね。
「そうですね。例えばライト級とかは、その看板を取り戻すチャンスってあると思いますし、実際胸を張って名乗っても問題ない説得力ってあると思うんです。その上で、格闘家、もっと言えば人間の『誰よりも強くなりたい』という思いが透けて見えるようなリングを作りあげるのが、目標ですね」
確かに。今はきついかもしれないですけど、またそんなリングが見てみたいです。今日は長いお話、ありがとうございました!
「僕なんかの話で良かったんですかね」
いえいえ、面白かったですよ!
「そうですか。そう言っていただけると嬉しいです。こちらこそありがとうございました」