K・M/K・A/K・J | |
K・M、K・A被告:19歳 /H・M被告:18歳 | |
1994年9月〜10月 | |
強盗殺人、殺人、強盗致傷、監禁、死体遺棄、傷害。 | |
少年による連続リンチ殺人事件 | |
少年集団10人が、集団リンチ事件を引き起こした。概要は以下。 【大阪事件】1994年9月28日、大阪市中央区の路上で通りがかりの大阪府柏原市の無職(当時26)を同区内のたまり場に連れ込み、絞殺。遺体を高知県の山中に遺棄。 【木曽川事件】同年10月6日夜、愛知県稲沢市の知人宅を訪れた同市の型枠解体工(当時22)をビール瓶などで殴打。翌7日未明、同県尾西市の木曽川堤防でさらに暴行、河川敷に放置して殺害。 【長良川事件】同7日夜、稲沢市のボウリング場で3人に因縁をつけ、車で連れ回し暴行、11,000万円を強奪。翌8日未明、岐阜県輪之内町の長良川河川敷で3人のうち、尾西市の会社員(当時20)と同市のアルバイト(当時19)を金属パイプで殴り殺した。大学生は大阪市で解放。(強盗殺人、強盗致傷、監禁) グループの中心人物として、一宮市生まれのK・M被告(当時19)、リーダー格である大阪府松原市生まれのK・A被告(当時19)、大阪市西成区生まれのH・M被告(当時18)に死刑の求刑が出された。 起訴された8人のうち、今回の3人を除く5人は有罪判決が確定。また2人が少年院送致されている。 | |
2001年7月9日 名古屋地裁 石山容示裁判長 K・M=死刑判決、K・A、H・M被告=無期懲役判決 | |
2005年10月14日 名古屋高裁 川原誠裁判長 一審破棄 3被告=死刑判決 | |
検察側は公判で「少年犯罪史上、前代未聞の凶悪事件」と位置づけ、暴行の残虐性や執ようさを主張し「暴行や強盗の隠ぺいのためという殺害動機に酌量の余地はなく、矯正の可能性はない」と指弾した。 これに対し弁護側は、非行臨床心理学者の心理鑑定を実施。3被告は不遇な環境で育ち、人格的に未成熟だったと指摘、「反省を深めており、更生は可能」と少年法の保護育成の精神に基づいて死刑を避けるよう主張した。 また、検察側は「確定的殺意があり、事件で果たした役割に差はない」と3被告の刑事責任は同等と主張した。一方、被告側は4人を死亡させた責任は認めたが、確定的な殺意は否定。一宮市生まれの男は木曽川、長良川両事件に関し「未必の故意を含め殺すつもりはなかった」と主張し、大阪市生まれの男は「大阪事件は暴行の途中で現場を去り、帰ったら被害者が死亡していた」と、起訴事実の一部を否認している。 一審判決で木曽川事件については殺人ではなく、傷害致死を適用。K・M被告は中心的な立場にあり、集団の方向性を決定づけていたとして死刑判決。K・A被告は兄貴分でありながらK・M被告に追従したとして、無期懲役判決。H・M被告はもっとも年下で格下であり、追従せざるを得なかったとして無期懲役判決が言い渡された。 控訴審で検察側は、木曽川事件は殺人罪が成立すると主張。また、「3被告の果たした役割に差はない」として、改めて3被告に死刑判決を求めた。 3被告の弁護側はいずれも各事件の殺意や強盗の犯意などを争うとともに、未成熟な少年たちが集団の中で虚勢を張り合い、犯行をエスカレートさせる少年事件特有の「強気の論理」や矯正可能性を重視するべきで、死刑は重すぎて不当だと訴えていた。 またK・M被告の弁護側は、「首謀者との評価は誤り。重要な場面ではK・A被告の役割が大きかった」「未成年者が虚勢を張り合う中で起きた犯行で、中心的役割とした一審判決は誤りだ。死刑は重すぎて不当」と述べた。 K・A被告の弁護側は、「形式上は兄貴分だったが、K・M被告に追従する立場だった」「場当たり的な犯行で、殺意はなかった」と主張し、有期懲役刑を求めた。 H・M被告の弁護側は、「集団の中で末端の従属者に過ぎない」などと述べ、有期懲役刑を求めた。 判決で川原裁判長は、まず木曽川事件について死因を一審同様、明確に特定しなかったが「瀕死の重傷を負わせた事前の暴行を隠ぺいする動機で、約12メートルの堤防斜面を転がり落として河川敷まで運んだ。死期を著しく早める行為で、想定される死因のいずれでも、3被告の行為と死亡の因果関係は認められる」と述べた。大阪事件では、関与を否認していたK・J被告を含め、3被告の共謀を認めた。長良川事件については、強盗殺人罪が成立するとした。 弁護側が殺意や共謀を争った点についても、3被告の言動や遺体の損傷状況などから「殺意と共謀は優に認められる」として退けた。 K・M被告について、「終始、主導的に犯行に及び、グループの推進力として、際立って重要な役割を果たした」と指摘。グループのリーダーであるK・A被告は、「K・M被告が前面に出る場面もあったが、総合的にみて、K・M被告とともに主導的に犯行にかかわった」とした。また、H・M被告も、「グループの中での序列は一番下だったとはいえ、強制された訳でもなく、かえって積極的に犯行に及んだ」と認定した。 | |
最高裁に記録が残る66年以降、少年事件で複数の被告に一度に死刑が言い渡されたのは初めて。犯行時18歳だった少年に対する死刑判決は36年ぶり。 | |
H・M被告は、「週刊文春」に実名に似た仮名で記事を書かれたことについて「少年法に反する」と損害賠償請求訴訟を起こした。一審、二審では請求を認め、文春側に30万円の支払いを命じたが、最高裁は「記事によって一般読者が元少年を犯人と推測できるとはいえない」として、少年法に違反しないと判断。審理を名古屋高裁に差し戻し、同高裁は改めて元少年の請求を棄却。2004年11月2日、最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)は、この元少年の上告を棄却する決定をした。 |
新実智光 | |
26歳 | |
1989年2月〜1995年3月 | |
犯人蔵匿、犯人隠避、殺人、殺人未遂、監禁、死体損壊 | |
男性信者殺害事件、坂本弁護士一家殺人事件、元信者殺人事件、松本サリン事件、元信者リンチ殺人事件、VX殺人事件、地下鉄サリン事件他 | |
●男性信者殺害事件 修行中の男性信者が1988年9月、死亡した際、教団が宗教法人の認可を得るうえで障害になると考えた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)はひそかに焼却を指示した。1989年2月上旬、この信者死亡事件を目撃していたTさん(当時21)の脱会意向を知った麻原は、「事件のことを知っているからこのまま抜けたんじゃ困る。考えが変わらないならポアしかないな。私は血を見るのが嫌だから、ロープで一気に絞めて、その後は護摩壇で燃やせ」と、早川らに殺害を指示。幹部四人が教団施設内でTさんを殺害し、死体を焼却した。 ●坂本弁護士一家殺人事件 横浜市の坂本弁護士(当時33)は、オウム真理教に入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。TBSの取材でも坂本弁護士は教団を徹底追及していくことを発言。オウム真理教の幹部たちはTBSに乗り込み収録テープの内容を見て殺害を決意。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)は早川紀代秀、村井秀夫、新実智光、中川智正、佐伯(現姓岡崎)一明、端本悟に殺害を命じた。実行犯6名は1989年11月3日、横浜市の坂本弁護士宅のアパートに押し入り、坂本弁護士、妻(当時29)、長男(当時1)の首を絞めるなどして殺害。遺体をそれぞれ新潟、富山、長野の山中に埋めた。 坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が関わっていると主張。坂本弁護士がオウム批判をしていることと、坂本弁護士宅にオウムのバッジが落ちていたことなどが理由である。オウム真理教側は、被害者の会や対立する宗教団体が仕組んだ罠だと反論した。 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教への強制捜査を開始。9月10日までに三人の遺体が発見され、7日に5人が、22日には松本被告と実行犯5名が再逮捕された。村井秀夫元幹部は1995年4月に刺殺された。 ●元信者殺人事件 1994年1月30日、元オウム真理教信者だったOさん(当時29)は教団付属病院に入院している女性信徒を救助しようと、女性の親族であり脱会の意志を示しているY被告とともに救い出そうとしたが、警備の信徒に取り押さえられた。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)はY被告に処刑をほのめかしつつ、Oさんと親族のどちらが大切かを迫り、幹部10数名らにOさんを押さえつけさせ、Y被告に絞殺させた。遺体は教団施設内にて焼却した。 ●松本サリン事件 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。 ●元信者リンチ殺人事件 1994年7月10日 元信者のTさんをリンチの末、首をロープで絞めて殺害。遺体を教団施設内にて焼却した。 ●VX殺人事件 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、教団信者の知人だった大阪市の会社員(当時28)を「警察のスパイ」と決めつけ、新実らに「ポアしろ。サリンより強力なアレを使え」などと、VXガスによる殺害を指示。新実らは1994年12月12日、出勤途中の会社員にVXガスを吹き掛け、殺害した。 ●地下鉄サリン事件 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。 他5事件に関与。新実被告が関与した事件では計26人が死亡しており、松本被告による事件の計27人に次ぐ。 | |
2002年6月26日 東京地裁 中谷雄二郎裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2006年3月15日 東京高裁 原田国男裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
弁護側は、各事件の事実関係をほぼ認めたうえで、坂本弁護士一家殺害事件以降の事件については「松本被告を首謀者とする内乱罪に相当し、指示を受けただけの新実被告を死刑にすべきでない」と主張した。判決は「松本被告の空想的企てや願望の範ちゅうを超えない」などと述べ、死刑を首謀者に限定した内乱罪の成立を否定した。 また、弁護側は、地下鉄サリン事件について「実行役を車で送迎したに過ぎず、殺人・殺人未遂のほう助にとどまる」と主張したが、松本被告や実行役らとの共謀を認め、これを退けた。 控訴審でも弁護側は弁論で、一連の事件は教団元代表松本智津夫(麻原彰晃)被告による国権奪取を目的とした内乱罪に当たると主張。新実被告は、松本被告の指示に従わざるを得なかったとし、死刑とした一審判決の破棄を求めた。 判決で原田裁判長は「犯罪史上まれにみる悪質な犯行と言わざるを得ない。被告としては宗教的な確信という動機に基づいた犯行だとしても、死刑を回避すべき事由とは到底なり得ない」「オウム真理教への信仰を正しいものとして保持し続けており、自己の責任を直視する者の態度とは評価しがたく、死刑以外を選択する余地はない」とし、弁護側の量刑不当の主張を退けた。 2009年11月24日の最高裁弁論で弁護側は、「教祖の指示に従い、犯行を行うしか選択肢がなかった。己の欲望に従って犯罪に手を染めたのではない」と主張。「十分に矯正可能性がある。死刑を科すことは酷。死刑になることを当然として受け入れており、刑罰として死刑を科すことに意味はない」などと訴えた。検察側は「極悪非道な反社会的犯行」として上告棄却を求めた。 | |
吉田純子 | |
37歳 | |
1997年〜2001年 | |
殺人、詐欺、強盗殺人未遂、住居侵入、脅迫 | |
看護師連続保険金殺人事件 | |
同じ看護学校出身である元看護師吉田純子被告、治験コーディネーター堤美由紀被告、看護師池上和子被告、元看護師石井ヒト美被告は共謀して、以下の事件を起こした。 (1)吉田、堤被告は1997年、同僚看護師から500万円を搾取した。(詐欺罪) (2)池上被告は、吉田被告から夫(当時39)について「愛人がいる」「保険金目的で(池上被告を)殺そうとしている」などと虚偽の事実を告げられて殺害を決意。吉田、堤、池上被告は1998年、池上被告の夫に睡眠剤入りのビールを飲ませ、静脈に空気を注射して殺害。保険金約3500万円を詐取した。(殺人、詐欺罪) (3)吉田、堤、池上、石井被告は1999年、石井被告の夫(当時44)に洋酒や睡眠薬を飲ませ、鼻からチューブで大量の洋酒を注入して殺害。保険金約3300万円を詐取した。(殺人、詐欺罪) (4)吉田、池上、石井被告は2000年、預金通帳を奪う目的で堤被告の母を襲撃した。(強盗殺人未遂、住居侵入罪) (5)吉田、池上両被告が2001年、夫殺害などを警察に相談しようとした石井被告を脅した。(脅迫罪) 2002年4月28日、(3)の容疑で逮捕された。 | |
2004年9月24日 福岡地裁 谷敏行裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2006年5月16日 福岡高裁 浜崎裕裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
検察側は論告で「人間はうそをつくが、金は裏切らない、という吉田被告の異常なまでの金への執着が最大の原動力」と指摘。巧みな話術や演技で、池上、石井両被告の夫の浮気などのトラブルを信じ込ませ、犯行に引き込んだとした。医療器具や薬物を使った殺害計画書を作成していた点について「計画書は殺人の処方せんそのもの。劇場での女優のように振る舞い、完全犯罪としてゲームのように演じた」と指弾した。 さらに、論告の中で吉田被告の公判供述を挙げ「事件が発覚しなければ、金目当てに自分の夫の殺害すら考えていた」とも述べた。 弁護側は、2件の殺害事件の起訴事実を認めた上で「決して首謀者ではない」と主張。「夫殺害については妻である池上、石井両被告が抑止力をもつべきだった」「虚言癖などの人格障害が、事件に与えた影響は大きい」と量刑に考慮を求めた。 谷裁判長は犯行動機について「ぜいたくな生活を維持したいという欲望のため、殺害計画を発案し、強力に推進した」と認定。看護学校の同級生や後輩を犯罪に巻き込んだ手口については「殺害相手を『生きる価値のない人間』と思い込ませ、時にはどう喝し、執ように殺害を迫った。仲間でさえ平気で裏切る驚くべき身勝手さ」と述べた。「金銭欲のため、医学知識を駆使して完全犯罪をもくろんだ冷酷非情で凶悪な犯行。共犯者を虚言で巧みに操り、殺人行為に駆り立てた手口は陰湿かつ非人間的で、酌量の余地はない」として求刑通り死刑を言い渡した。 弁護側は控訴審で、「事件はそれぞれの共犯者がもつ欲望や意思が起こしたものであり、吉田被告はそのきっかけをつくったに過ぎない」などと、事件の首謀者だったことを否定、無期懲役が相当と訴えていた。 これに対し、浜崎裁判長は、「異常な金銭欲を満たしたり犯行の発覚を逃れたりするため、ほかの共犯者にうそをついて操った。犯行によって得た利益のほとんどを得ている」「巧みなうそで共犯者を操ったことは明らか」として、ほかの3被告に比べて責任は格段に重いと結論づけた。その上で、「金銭欲のため人命を奪うことをはばからない動機は悪質、冷酷で、人間性のまひは著しい」「被告にはもはや死刑をもって臨むほかはない」と死刑判断の理由を示した。 | |
堤美由紀被告は求刑死刑に対し、2004年8月2日、福岡地裁で一審無期懲役判決。2006年5月16日、検察・被告側控訴棄却。上告せず確定。 池上和子被告は2004年9月1日、卵巣ガンで死去、公訴棄却。享年43。池上被告は死刑を求刑され、3月8日に結審していた。しかし6月から体調が悪化したため、福岡地裁は2004年8月3日、病気を理由に公判手続き停止を決定し、同5日に予定していた判決公判を延期していた。 石井ヒト美被告求刑無期懲役判決に対し、2004年8月9日、福岡地裁で一審懲役17年判決。2006年5月16日、検察・被告側控訴棄却。上告せず確定。 |
土谷正実 | |
29歳 | |
1994年5月〜1995年5月 | |
殺人、殺人未遂、殺人ほう助、麻薬取締法違反他 | |
弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件、VX殺人事件及び同未遂2事件、地下鉄サリン事件他 | |
●弁護士サリン襲撃事件 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、中川智正ら4被告、19歳の女性信者と共謀、1994年5月9日、教団相手の民事訴訟に出席するため甲府地裁を訪れた「オウム真理教被害対策弁護団」メンバーの弁護士(39)を殺害しようと、弁護士の乗用車のフロントガラス付近にサリンを垂らし、中毒症を負わせた。 ●松本サリン事件 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。 ●VX殺人事件及び同未遂2事件 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、教団信者の知人だった大阪市の会社員(当時28)を「警察のスパイ」と決めつけ、新実、中川らに「ポアしろ。サリンより強力なアレを使え」などと、VXガスによる殺害を指示。新実らは1994年12月12日、出勤途中の会社員にVXガスを吹き掛け、殺害した。他別の会社員2名にも吹きかけ、殺害しようとしたが失敗した。 ●地下鉄サリン事件 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。 ●幻覚剤のPCP(フェンサイクリジン)製造 | |
2004年1月30日 東京地裁 服部悟裁判長 死刑判決 | |
2006年8月18日 東京高裁 白木勇裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
土谷被告の弁護側は「サリンを地下鉄や長野県松本市でまいたり、殺人にVXを使うとは知らずに生成に関与させられただけ。殺意はなかった」と無罪を主張。土谷被告も「自分が製造に関与したサリンが本当に地下鉄でまかれたのか疑問」と述べていた。 東京地裁、服部悟裁判長は松本事件について、土谷被告が捜査段階で「ほかの教団幹部らが不特定多数を殺害しようとしていることを認識していた」と供述している点などを重視し、「犯行を幇助(ほうじょ)する意思があった」と認定した。地下鉄事件についても、捜査段階の供述などから、自分が製造したサリンが近い将来に地下鉄を含む東京都内で使われることを被告が知っていたと判断。「松本事件とは異なり、共同正犯の責任を負う」と結論づけた。指名手配中の信者二人をかくまったとされる犯人蔵匿については「共謀を認める証拠が足りない」として無罪とした。 控訴審で土谷被告は弁護人との接見を拒否し、4回開かれた公判ならびに判決には一度も出廷しなかった。 弁護側は弁論で、土谷被告は犯行の具体的計画を知らされず、教団元幹部らに科学的知識を利用されたと主張。元代表松本智津夫被告らとの共謀は成立せず、地下鉄事件では殺人のほう助罪、松本事件では殺人予備罪にとどまると訴えた。 白木勇裁判長は「教団随一の豊富な化学知識や経験を駆使し、被告の存在なくして犯行はなし得なかった。悪質かつ残虐極まりなく、死刑以外を選択する余地はない」と指摘した。無罪主張については「実行行為を行っておらず事前謀議にも参加していないが、教団が不特定多数の者を殺害しようとしていることを認識していた」などとして退けた。 | |
土谷被告は一審で私選弁護人を2回解任し、東京地裁が国選弁護人を選任したが、判決まで8年以上かかる長期審理となった。控訴審でも選任していた私撰弁護士を解任している。 |
高尾康司 | |
40歳(2003年時) | |
1998年2月11日/2003年12月18日 | |
非現住建造物等放火、現住建造物等放火、殺人、器物損壊、現住建造物等放火未遂 | |
館山市一家4人放火殺人事件他 | |
千葉県館山市に住む土木作業員高尾康司被告は、2003年12月18日午前3時半ごろ、酒を飲んで帰宅途中、館山市の男性(当時56)方の玄関先で古新聞などにライターで放火。男性方や周囲の住宅計7棟約470平方メートルを全焼させ、男性と男性の妻(当時52)、長男(当時27)、二男(当時25)の4人を焼死させた。 高尾被告は同日未明から早朝にかけて他に住宅の勝手口やスーパーの入り口付近など3件の放火をしている。 また高尾被告は1998年2月11日未明、館山市のキャバレーに放火。木造2階建て店舗兼住宅を半焼させた疑い。2階で寝ていた従業員(当時65)が一酸化炭素中毒で死亡した。この事件では、店内に人がいるとの認識はなかったことで、殺人の罪には問われていない。 高尾被告は2004年1月6日午前4時頃、館山市のスーパーで放火、外に置かれた正月用のしめ縄飾りなどが入った段ボール箱や外壁の一部が焼けた。午前6時頃、館山市での検問において道交法違反(酒気帯び運転)容疑で現行犯逮捕され、その後放火を認めた。高尾被告は「約10年前からイライラすると放火するようになった」「館山市内で過去に十数回、放火した」と供述している。 | |
2005年2月21日 千葉地裁 土屋靖之裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2006年9月28日 東京高裁 須田賢裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
捜査本部は、高尾被告が「古い木造家屋なので燃え広がるかもしれないと思った」と供述し、男性方に人がいる可能性を認識していたとして、少なくとも殺人の「未必の故意」があったと判断して、殺人罪で起訴した。 高尾被告は初公判で「火を付けたのは間違いないが、人がいるのを確かめていない。殺そうと思ってやったわけではない」と述べ、殺意を否認し、殺人罪では無罪を主張した。弁護側も、「犯行は火が燃え上がるのを見るためで、現場が住宅地との明確な認識もなかった」と殺意を否定した。 一審土屋裁判長は検察側主張を採用。「仕事上の不満などのストレスを晴らすため、酒を飲んでは無差別に放火を繰り返した」と指摘し、「更生の余地を見いだせず、一挙に4人もの尊い命を奪った刑事責任はあまりにも重大。極刑をもって臨むことはやむを得ない」と結論付けた。 二審で弁護側は放火については犯行事実を認めたが、殺害の意図まではなく殺人罪は成立しないと主張。未必の殺意を認めた捜査段階の自白調書には任意性がないと訴えた。しかし須田裁判長は「放火の状況についての供述は具体的かつ詳細で全体的に自然。自発的な供述もあり、調書の任意性は明らかだ」と退けた。そして「殺意が未必的とはいえ、放火のスリルと快感という自己の欲求満足のために、縁もゆかりもない他人の生命を犠牲にした犯行は悪質きわまりない」「地獄絵を見るがごとき悲惨な事態を招いており、極刑をもって臨むほかない」と述べた。 | |
森健充 | |
45歳(2002年11月16日逮捕時) | |
2002年4月14日 | |
現住建造物等放火、殺人 | |
平野母子殺害放火事件 | |
元府警巡査で大阪刑務所刑務官森健充被告は、2002年4月14日、大阪市平野区の4階建てマンション3Fに住む養子の会社員宅にて、会社員の妻(当時28)の首を犬の散歩用のひもで絞めて殺害し、長男(当時1)を水を張った浴槽に沈めて水死させた。さらに部屋に火をつけ、42平方メートルを全焼させた。 森被告は会社員の母親の再婚相手で養子縁組をしていた。また、会社員が事業資金として借りた2000万円のうち500万円の連帯保証人となっていた。森被告は夫婦の生活に干渉したり、脅迫やセクハラまがいのメールを会社員の妻に再三送信したり、性的嫌がらせを続けていたが相手にされず、しかも借金を背負ったまま夫婦で行方をくらませたことに憤っていた。 | |
2005年8月3日 大阪地裁 角田正紀裁判長 無期懲役判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2006年12月15日 大阪高裁 島敏男裁判長 一審破棄 死刑判決 | |
森被告は捜査段階から犯行を否認。任意の取り調べでは一時、事件当日にマンションに立ち入ったことを認めたが、翌日に多量の睡眠導入剤を服用する自殺未遂を起こし、逮捕後は黙秘を貫いた。公判で森被告は「マンションに入ったことは一度もない」「被害者に恋愛感情はなく殺す動機がない。捜査機関が私を犯人であるというストーリーにはめこんだ」と主張。弁護側は、▽吸い殻は事件当日に捨てられたとは限らず、DNA鑑定結果も信用できない▽住民の目撃証言は詳細すぎて不自然――などと訴えていた。 直接証拠もないため、検察側は事件当日に現場近くで目撃されていることと、マンション階段の灰皿で見つかったたばこの吸い殻の唾液成分が被告のDNA型と一致したとする鑑定を提出するなど状況証拠を積み重ね、「犯人は被告以外にあり得ない」と結論づけた。 判決では、「DNA鑑定や目撃証言などから、被告が事件当日、現場マンションに立ち入ったと考えられ、犯人性を強く推認させる」と状況証拠の信用性を認め、弁護側の無罪主張を退けた。 量刑理由で角田裁判長は「犯行は残忍かつ冷酷で、動機に酌量の余地はない」としたが、被告なりに被害者宅の金策に走り回るなど一家のために尽力していた▽犯行までの16年間を刑務官としてまじめに勤務しており、改善・更正の余地がないとはいえない――などと指摘。「究極の刑罰である死刑の選択にはなおちゅうちょを感じる」などと無期懲役とした理由を述べた。 森被告は「マンションに入ったことは一度もない」と一貫して無罪を主張して控訴。検察側は「無期懲役は軽すぎる」として死刑を求めて控訴した。 公判では(1)マンション階段の灰皿にあった吸い殻のだ液成分と森被告の血液のDNA型が一致(2)犯行時間帯に森被告の車を複数の住民が目撃(3)犯行時間帯に携帯電話の電源を切るなど森被告の不可解な行動――などの間接証拠の信用性と評価が最大の焦点だった。 島裁判長はこれら間接証拠の信用性を認定したうえで「被告が犯人であることを強く推認させる」と判断、森被告の有罪を導いた。 そして、量刑について「残虐な犯行で罪責は誠に重大。事実を認めず、何ら反省しない被告には更生の可能性はなく、極刑はやむをえない」「1歳の子への徹底した攻撃など、被告には強い犯罪性向があり、反省の態度を一度も示したこともないことなどから、死刑を選択するほかなく、一審判決は軽きに失した」と指摘した。 また、犯行動機に関しては「女性とのやりとり、言動をきっかけに怒りを爆発させたとみられ、計画的ではない」と判断した。 | |
森被告は2002年8月、大阪府警の事情聴取中に自白を強要され、暴行や脅迫でけがをしたとして、特別公務員暴行陵虐致傷容疑で大阪地検に告訴状を提出。9月には大阪府に慰謝料を求め提訴した。 森被告に対し法務省は懲戒免職処分とはしなかったが、「悪質かつ重大な犯行で、給与支給は到底国民の理解を得られない」として無給としていた。しかし2003年7月に、人事院が名古屋刑務所の受刑者死傷事件で起訴された刑務官への休職給支給を決定したのを受けて、2003年8月4日、給与法に基づき給与の6割以内の「休職給」を支払うこととした。 給与法は、国家公務員が刑事事件で起訴され休職にしたときは、休職期間中、給与の6割以内を支給することができる、と定めている。 しかし法務省は、公訴権を持つ検察庁を所管しており職員の違法行為に対してより厳正に対応する必要があるとの立場から、1986年に人事課長通達を出し原則無給としていた。 |
藤崎宗司 | |
43歳 | |
2005年1月18日、1月28日 | |
強盗殺人、強盗強姦未遂他 | |
鉾田町独居高齢者連続強盗殺人事件 | |
茨城県鉾田町(現鉾田市)に住む漬物工場従業員藤崎宗司被告は、スナックなどでの飲食代の支払いに困って強盗殺人を計画。2005年1月18日午前1時ごろ、近くに住む無職女性(当時75)方に侵入し、女性の首を両手で絞めて窒息死させ、仏壇棚などから現金計7万6700円を奪った。その際、女性に乱暴しようとした。10日後の同月28日午前2時半ごろには、鉾田町に住む無職女性(当時79)方に窓ガラスを割って侵入し、女性の首をタオルで絞めて窒息死させた。1月31日に逮捕された。 | |
2005年12月22日 水戸地裁 林正彦裁判長 死刑判決 | |
2006年12月21日 東京高裁 河辺義正裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
藤崎被告は、起訴事実を全面的に認めている。逮捕時、「独り暮らしの高齢者を狙った。第3、第4の犯行もやるつもりだった」と述べている。 検察側は「隠ぺい工作をするなど犯行は極めて冷酷非情」とした。 弁護側は「(藤崎被告は)適切な教育や規範意識が欠如しており、衝動的、短絡的な犯行に過ぎない」と主張し減刑を求めた。 判決理由で林裁判長は「顔見知りの被害者に通報されることを恐れ、あらかじめ殺害した上で金員を奪うことを企図した計画的で強固な殺意に基づく犯行」と指摘。「好意を抱いた女性が勤めるスナックで飲食したいというだけの欲望を満たすために犯行を計画し、経緯、動機に酌量の余地は全くない」と述べた。また窃盗事件を繰り返していた藤崎被告が成人後の大半を刑務所で過ごしたことに触れ、「十分な矯正教育を受けたにもかかわらず、規範意識は著しく鈍く、犯罪性向はより深化している」と述べた。 弁護側は情状面で「生育歴や知能程度を考慮すべき」と主張したが、地裁は藤崎被告が犯行後に着衣を洗うなど証拠隠滅を図っている点などから「合理的に行動していることが明らか」と判断した。 控訴審で弁護側は、弁護側は「被告は知能が著しく低く、犯行当時は心神耗弱だった」として死刑回避を求めていた。 河辺裁判長は被告について「幼少時から十分なしつけや教育を受けたとはいいがたい」とし、量刑の際に成育歴も考える必要があるとした。しかし、「金品獲得のため破綻を来すことのない行動に及んだ」「冷静に証拠隠滅をした」と認め、一審・水戸地裁の「知能程度の低さや成育歴を過度には評価できない」とした判断はうなずけるとした。そして「まことに身勝手で、酌量の余地はいささかもない」「わずか10日のうちに2人を殺害した凶悪事件で、死刑が重すぎて不当とは言えない」と一審判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。 | |
尾崎正芳/原正志 | |
尾崎正芳被告27歳/原正志被告44歳 | |
2002年1月8日/1月31日 | |
住居侵入、強盗殺人、現住建造物等放火、死体損壊、殺人、詐欺 | |
替え玉保険金殺人事件他 | |
福岡市の会社役員竹本正芳(旧姓)被告は元従業員で無職竹本正志(旧姓)被告に強盗殺人を指示。2002年1月8日、正志被告は北九州市に住む無職男性(当時73)方に侵入し、男性を刃物で刺殺した上、預金通帳などを奪って放火したし、家を全焼させた。 竹本正芳被告はまた、正志被告、従業員の男性被告(一審懲役8年が確定)と共謀し、別人を替え玉にして保険金をだまし取る殺人事件を計画。2002年初めまでに山口県内の男性と養子縁組し義理の兄弟になった上、正志被告に計約5000万円以上の生命保険金をかけた。1月31日夜、正志被告、男性被告は大分県安心院町の河川敷の水路で、北九州市出身でホームレスの男性(当時62)に睡眠薬を飲ませた後、顔を水に押しつけて窒息死させた。正芳被告はアリバイづくりのために福岡県内にいた。殺害後、男性被告が同日午後9時半ごろ「男性が川に落ちた」と119番した。しかし、2人の話に不審な点があり宇佐署が追及、犯行を認めたため、2月1日に2人を逮捕した。正芳被告は2月9日に逮捕された。 当時、正芳被告は、経営するスナックの資金繰りに困っていた。 | |
2005年5月16日 福岡地裁小倉支部 野島秀夫裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2007年1月16日 福岡高裁 浜崎裕裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
検察側は論告で、「二件の殺人事件の首謀者は正芳被告」と指摘する一方、「正志被告も正芳被告から遊興費などの恩恵にあずかろうと強盗殺人などを敢行しており、その身勝手さは正芳被告に勝るとも劣らない」とした。 正志被告側は2事件とも認めた上で「正芳被告から脅され、やむをえず指示に従った」と強調し、減軽を求めた。正芳被告側は北九州市の事件について「正志被告に殺害、放火の指示はしていない」と主張した。 野島裁判長は正志被告について「自分の利益のため、実行役として不可欠な役割を平然と果たした」と認定した。正芳被告については「殺害と放火の指示を認めた、捜査段階の自白は信用性が高い」と退けた。 控訴審で尾崎正芳被告の弁護人は北九州の事件について「殺害指示は事前に撤回していた」などと主張。原正志被告の弁護人は「(被告は)従属的な立場だった」としていた。 判決理由で浜崎裁判長は、尾崎被告を事件の首謀者と認め「原被告を犯行に誘い込み、事件を終始指導した」と指摘。実行犯の原被告については「尾崎被告の指示を全く拒否できない状況にあったとはいえない。自らの利益のため、ためらうことなく犯行に加担した」と述べた。 そして「他人の生命の尊さを顧みない冷酷非道な犯行であり、死刑に処するのはやむを得ない」として控訴を棄却した。 | |
ともに事件当時の旧姓は竹本。養子縁組は一審判決後に解消された。 |
淵上幸春 | |
30歳 | |
1999年3月25日〜9月20日 | |
詐欺、殺人、死体遺棄、電磁的公正証書原本不実記録・同供用、威力業務妨害、詐欺未遂 | |
宮崎の口封じ連続殺人事件 | |
1999年3月15日、宮崎市の産業廃棄物処分会社統括営業部長だった淵上幸春被告は社員3人や他2人と共謀し、宮崎市内で故意に追突事故を起こし、保険会社2社などから総額約1440万円を受け取った。しかし分け前を巡るトラブルから、3月25日、追突した車を運転していた土木作業員Yさん(当時47)の首を絞めて殺害、外車のトランクに詰めたまま事情を知らない会社の部下に、宮崎県西都市の山中にある産業廃棄物最終処分に埋めさせた。 さらに9月18日、詐欺事件の事情を知っていた同社監査役の税理士(当時47)を口封じと保険金目的などで殺害を指示、淵上被告の指示で、同社営業主任(懲役12年確定)が車で引くなどして殺害、宮崎県西都市の産廃処分場に埋めた。 このほか偽装交通事故による保険金詐欺など11件の罪にも関与した。 | |
2003年5月26日 宮崎地裁 小松平内裁判長 死刑+懲役10月(1993年の詐欺事件)判決 | |
2007年1月23日 福岡高裁宮崎支部 竹田隆裁判長 控訴棄却 死刑+懲役10月判決支持 | |
弁護側は、絞殺された土木作業員の事件については「殺意はなく、首も絞めていない」「被告は筋ジストロフィーにかかり、人の首を絞める力はなかった」などと事実関係の誤りを指摘して無罪を主張したが、判決は検察側が提出した検査結果などを採用し「人の首を圧迫する筋力があった」と退けた。 弁護側は他の罪についてほぼ起訴事実を認めたうえで、被告は難病の筋ジストロフィーを患っていて再犯性は低いなどと刑の減軽を求めていた。 控訴審でも弁護側は土木作業員の事件について「被告は筋ジストロフィーで、絞殺できる体力があるとは思えない」などとして殺害を否定し、量刑不当を主張していた。 判決理由で、竹田裁判長は「自らの保険金詐欺事件の発覚を免れるため2人の命を奪った。人命軽視の態度は甚だしく、改善更生は望めない」と述べた。弁護側の殺害否定主張については、「一審判決に事実誤認はない」と退けた。 | |
淵上被告は、1995年2月15日に恐喝未遂、横領、詐欺の罪により懲役3年10月に処せられ、同年3月2日にその裁判が確定して受刑、1998年7月に仮出獄していた。それ以前にも窃盗や詐欺で二度懲役刑を受けている。 |
魏巍 | |
23歳 | |
2003年6月20日 | |
強盗殺人、死体遺棄 | |
中国人留学生による福岡一家4人殺害事件 | |
中国・河南省出身の元専門学校生魏巍(ぎ・ぎ)被告は、吉林省出身の中国人元日本語学校生王亮(おう・りょう)容疑者(21)、元私立大留学生楊寧(よう・ねい)容疑者(23)とともに、2003年6月20日未明、福岡市東区の衣料品販売業者の男性(41)が外出するのを確認して男性宅に侵入。妻(40)、長男(11)、長女(8)の首を次々と絞めた。長男と長女はそのまま窒息死、妻は仮死状態になった。さらに帰宅した男性も首を絞めて仮死状態にした。金品を強奪した後、4人に手錠をかけ、男性の車を使って遺体を博多港内の海中に投げ入れた。男性と妻は水死した。 王亮容疑者と楊寧容疑者は6月24日に帰国。中国公安省は8月15日、北京の日本大使館を通じて事件の状況について聴き、海外で重要犯罪を犯した自国民への刑事処分を定める「国民の国外犯規定」に基づいて8月19日に遼寧省瀋陽市で王被告、27日に北京市内で楊被告の身柄を拘束した。 魏巍被告は9月13日、別件の傷害容疑で逮捕された。 魏被告らは男性がベンツを運転していることから一家に数千万円の預金があると考え、一家をロープで殺し遺体を山に捨てるため、ツルハシや作業服を購入。翌朝にキャッシュカードで金を引き出すことを計画していたことを明らかにした。事件を提案したのは楊被告である。 | |
2005年5月20日 福岡地裁 川口宰護裁判長 死刑判決 | |
2007年3月8日 福岡高裁 浜崎裕裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
魏被告は他の実行グループの殺害行為や死因については「知らない」とした上で、「妻を浴槽に押し付けたり、子供の顔に枕を押しあてたりした。そのほかは間違いありません」と述べ、起訴事実を大筋で認めた。ただ、誰が首謀者かはお互いになすりあっている。 川口裁判長は従属的立場だったという弁護側の主張に対して、「王、楊両被告の指示を受けて行動していた面はあるが、殺害行為や死体遺棄行為に重要かつ不可欠な役割を果たした。他の2人より従属的だったとは言えない」と認定した。 そのうえで、川口裁判長は「何が起きたか分からないまま苦もんの中で絶命した被害者の心情を思うと、憐憫の情を禁じ得ない。本件犯行の結果はもはや取り返しのつかない重大かつ深刻なもの」と指摘。「まだ若く、事件を認めて反省していることや、王被告が中国で無期懲役判決を受けたことなどを最大限考慮しても、事件の残虐性や結果の重大性などを考えると、生命をもって償わせるのが相当だ」と述べた。 2006年7月4日の控訴審初公判で、弁護側は魏被告について「強い犯罪傾向はなく、共犯が発案した犯罪に巻き込まれた。被告は真摯に反省している」などとして従属的立場を強調し、死刑回避を主張した。 弁護側は2006年12月14日、魏被告が初めて遺族あてに書いた謝罪文を証拠として提出。「愚かな行為で4人の命を奪ってしまい、きっと憤慨していることでしょう」「どんな言葉も無力でしょうが、心からおわび申し上げます」などと書かれており、遺族にも郵送したという。 続いて最終弁論があり、弁護側は「(被告を含む)3人の共犯者の中で、被告は従属的な立場だった。真摯に反省しており、生きて償うのが相当」と死刑回避を主張。検察側は「死刑が適当」として、魏被告の控訴棄却を求めた。 浜崎裁判長は判決で魏被告の従属的立場を指摘。その上で「自己の利益のために犯行に加わることを決意し、極めて重要、不可欠な役割を果たしている。共犯の2人と特段の差異があるとは言えない」「非業の死を遂げた4人の無念さは察するに余りあり、残虐で冷酷な所業としか言えない」と述べた。 | |
殺害された男性は昨年まで福岡市中央区で韓国料理店を経営、事件当時は無店舗で衣料品販売業を営んでいた。男性は借金などで複数の金銭トラブルがあり、また中央区のマンションで大量の大麻草を栽培していた。そのため、犯行を依頼した人物がいると見られていたが、3被告ともそれを否定した。大きな疑問点として、以下が挙げられている。 (1)強盗目的なのに事前に死体遺棄の準備をし、危険を冒して遺体を海に捨てている(2)家中を物色した痕跡がない(3)トランクが荷物でいっぱいの被害者の車で4人分の遺体を乗せ、3容疑者も乗って1回で運ぶのは不可能(4)被害者宅は車がベンツであること以外はごく普通の民家で、なぜ目標にしたのか不明――など。 中国公安当局は王亮被告、楊寧被告を2004年7月27日付で殺人罪などで起訴。2005年1月24日、中国遼寧省遼陽市の中級人民法院(日本の地裁に相当)で判決公判が開かれた。同法院は「残虐な犯行で、証拠は明白」として、楊被告に死刑、王被告に無期懲役を言い渡した。王被告については「自首」を認定、刑を軽減した。楊被告は控訴、王被告は控訴せず。 2005年7月12日、楊被告の控訴棄却、執行。王被告の無期懲役も最終的に確定した。 | |
「週刊新潮」は被害者の妻の兄である会社役員の男性を真犯人であるかのような記事を掲載。名誉を傷つけられたとして、男性は新潮社と発行人を相手に5500万円の損害賠償を求めた。東京高裁は新潮社に、770万円の賠償を命じる判決を出した。新潮社側は上告したが、2006年8月30日、最高裁は上告を退け、判決が確定した。 男性は同様に「フライデー」に対しても3300万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしており、2005年8月29日、東京地裁は出版元の講談社に880万円の賠償を命じた。11月30日、東京高裁の宮崎公男裁判長は一審判決を破棄し、賠償額を660万円に減額する判決を言い渡した。宮崎裁判長は「一切の事情を総合的に判断すると精神的苦痛の慰謝には600万円(弁護士費用除く)が相当」と指摘。一審が命じた「判決内容を伝える広告の掲載」も取り消した。上告せず確定か? 男性は「週刊文春」にも、中国人の容疑者逮捕後を含め2003年10月まで6回掲載された記事で、夫妻側が被害者とトラブルを抱え、事件当夜に被害者宅を訪問したかのように報じて犯人扱いされたとして、2000万円の賠償を求めた。2006年9月28日、東京地裁は1100万円の支払いを命じた。金子順一裁判長は「ずさんな取材で主要部分が真実でない記事を6回も掲載され多大な精神的苦痛を被った」と述べた。2007年8月6日、東京高裁は双方の控訴を棄却した。一宮なほみ裁判長は「取材が十分とは言えず、記事内容が真実と信じる相当な理由は認められない」と述べた。 |
熊谷徳久 | |
64歳 | |
2004年5月29日/6月23日 | |
強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗未遂、銃刀法※違反、現住建造物等放火 | |
横浜中華街店主銃殺事件他 | |
熊谷徳久(くまがい・とくひさ)被告は2004年4月に窃盗罪で服役していた刑務所を出所すると、ディスコの開店資金を得るために強盗を計画。 2004年5月6日、無職熊谷徳久被告は東京駅のキヨスク集金事務所を拳銃で襲撃するつもりだったが、目的の集金所を見つけることができず、腹いせのため午後5時頃、東京駅地下3階の機械室に灯油をまいてライターで放火。廃棄するため置いてあったエアコンやペンキ缶などを焼いた。この火事で、東京駅地下5階にある総武快速・横須賀線ホームに白煙が立ちこめ、乗客約300人が避難する騒ぎになった。なお、熊谷被告が思い込んでいた、キヨスクの集金事務所は存在しない。 5月27日、熊谷被告は現金を奪おうと横浜市内の警備会社事務所を襲ったが、何も奪うことはできなかった。 5月29日深夜、熊谷被告は横浜中華街の中華レストラン経営者(当時77)を横浜市中区の自宅前で待ち伏せし、頭を拳銃で撃ち殺害。経営者が持っていた売上金約44万円入りのバックを奪った。 6月23日朝、熊谷被告は東京メトロ渋谷駅構内で駅員(当時32)の腹を拳銃で撃ち、右足まひなどの後遺障害を残す重傷を負わせ、持っていた洗面用具などの入った紙袋を奪って逃走した。 熊谷被告は6月26日、渋谷駅銃撃事件について警視庁に出頭。その後、横浜市の強盗殺人事件で家の周辺に残された指紋が一致したこと、銃弾に残された線条痕が酷似していることから神奈川県警が追求、犯行を自供した。出頭当時、所持金は数百円だった。 | |
2005年5月20日 東京地裁 毛利晴光裁判長 無期懲役判決 | |
2007年4月25日 東京高裁 高橋省吾裁判長 一審破棄 死刑判決 | |
一審、論告で検察側は論告で、「事業資金を得るという私欲のための極悪非道な犯行。わずかな期間に凶悪な事件を連続して引き起こし、自責の念も認められず、更生も期待できない」と述べ、死刑を求刑した。論告は「被告の犯罪傾向は根深く、反省のかけらも認められない。遺族や被害者も極刑を望み、社会に与えた影響も大きい」「反省の念は皆無で極刑をもって臨むしかない」と指摘した。 弁護側は最終弁論で事実関係を認めた上で、「反省して自首しており、更生する可能性もある」と述べた。また、不遇な成育歴(出生後、間もなく母親が去り、父親とも2歳で死別。身を寄せた伯父の家は空襲で被災し、その後はたまたま知り合った人の家を転々とする生活だった)を強調し情状酌量を求めた。 熊谷被告は被告人質問で、「自分は死刑に等しい人間。(被害者には)申し訳ないと思っている」と語っている。 毛利裁判長は判決で、「刑務所出所後わずか1ヶ月半余りの間に立て続けに犯行に及んでおり、金に対する執着と、人の命を奪うことすら構わない危険な考えがみてとれる」と熊谷被告を断罪。「起訴事実を認めているが、金に執着して人命を奪うことも構わない危険な考え方が見られる。不遇な成育環境に対する恨みや性格の偏りがあり、更生意欲もない。被害者が死刑を望むのももっともだ」と指摘。「更生の可能性は低く、同様の犯行に及ぶことが大いに懸念される」と述べた。 その一方、殺害された被害者が一人だったことや、殺人など重大事件の前科がない、自首をした、被害者の家族らに謝罪の手紙を送っていることなどを考慮し、「死刑はいささか躊躇を感じざるを得ない」と判断した。ただ、「仮出獄については、犯行に照らして慎重な運用がなされるべきだ」と付言した。 検察側が死刑を求めて控訴した。 弁護側は「死亡した被害者が1人の事件では死刑ではなく、無期懲役とするのが近時の裁判例の傾向」と主張した。 判決で高橋裁判長は「拳銃が使用されて一般市民が標的になり、国民を恐怖に陥れた。他の凶器による犯行以上に危険かつ悪質で社会的な非難は強い」と指摘。「被害者の遺族らの憤激や悲嘆の念は計り知れない。また右ほおに拳銃を押し付けて発射した態様などから、死亡被害者一人だからといって死刑を回避するケースではない。一審は量刑判断を誤っており、破棄を免れない」「10回懲役刑に処され、度重なる矯正教育にもかかわらず犯罪性向は深刻化しており、被害者が1人でも死刑をもって臨むほかない」と判決理由を述べた。また判決では、一部の事件について自首の成立を認めた。しかし、「事案の重大性にかんがみ、有利な事情を酌む程度には限度がある」と判断した。 | |
熊谷被告は1996年1月、横浜市中区で銀行嘱託社員を工具で襲い、小切手を奪った強盗傷害事件で実刑判決を受け、2004年4月に出所したばかりだった。この事件を含め過去に10回、懲役刑を受けている。 殺害された経営者の妻は検察官に、長男は公判でいずれも被告を死刑にしてほしいと求めた。また。駅員は心身に深い傷を負い、2007年現在も通院を続けている。家に引きこもったままで、家族は検察官に「体は元に戻らない。死刑にしてほしい」「同じ苦痛を味わわせたい」と訴えた。 | |
大橋健治 | |
64歳(逮捕当時) | |
2005年4月27日/5月11日 | |
住居侵入、強盗殺人、鉄砲刀剣類所持等取締法、強盗、窃盗 | |
大阪・岐阜連続女性強盗殺人事件 | |
新聞勧誘員大橋健治被告はパチンコなどでできた借金返済のめどが立たず、犯行を計画。2005年4月27日、岐阜県揖斐川町のパート従業員女性(当時57)宅に侵入して現金15000円を奪い、女性の首を絞めて殺害した。 事件直後の4月29日ごろ大阪に移り、ビジネスホテルなどを転々としていた。 大橋被告はさらに5月11日午後4時20分頃、大阪市旭区のマンションに住む主婦(当時45)の自宅を新聞勧誘員を装って訪問。玄関で女性に果物ナイフを突きつけて「金を出せ」と脅し、抵抗した女性の胸などを6ヶ所刺して殺害した。犯行の1時間前には、現場近くの別のマンションに強盗に入ろうとしていたが、インターホンを押して出てきた相手が妊婦だったため、犯行をやめていた。 大橋被告は事件直後に京都府南部などで8〜9件の空き巣を重ね、逃走資金を稼いだ。起訴は強盗1件、窃盗2件である。 現場近くに残された血液のDNA鑑定より、DNAデータベースにあった大橋被告の名前が挙がり、大阪府警が殺人容疑で指名手配。その後、京都府警が窃盗容疑で指名手配した。2005年8月4日午後、潜伏先の大阪市天王寺区のウィークリーマンションに帰ったところを、張り込んでいた旭署の捜査員が逮捕した。その後、岐阜の事件について犯行を自供し、9月22日に再逮捕された。 | |
2006年11月2日 大阪地裁 中川博之裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2007年4月27日 大阪高裁 陶山博生裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2005年10月31日の初公判で、大橋被告は大阪の事件に関する起訴事実を、追起訴後の12月22日の第二回公判で岐阜の事件に関する起訴事実をすべて認めた。 検察側は「被害者に抵抗されれば殺害することを事前に決めていた人命軽視も甚だしい犯行。65歳で反社会的性格は固定しており、更生の余地はない」と述べ、死刑を求刑した。 弁護側は「殺人にいたったのは偶発的で、真摯に反省もしている」などと死刑回避を求めた。 判決理由で中川裁判長は、被告がパチスロによる借金のため、1ヶ月に5件の強盗殺人・窃盗事件を起こしたことを指弾。殺害はいずれも被害者に抵抗された末のもので計画性はないことや、金品の被害が少額であることに触れながらも、「規範意識が乏しく、同種犯行を起こしやすい傾向がある」「身勝手な動機から落ち度もない女性を殺害しており、残忍で冷酷な犯行。極刑をもって臨むほかない」などと述べた。 控訴審にて陶山裁判長は判決理由で、動機について「パチスロにのめりこんだ借金のために犯行に及んだ。自業自得で酌量すべき事情はない」と指弾。その上で、「何らの落ち度もないのに生命を奪われた被害者の無念さは想像に難くなく、いずれの遺族も極刑を望んでいる」「わずか2週間の間に2人を殺害しており、罪責は極めて重大。死刑をもって処断すべきとした一審の判断は是認できる」「殺害自体は計画的でないが、執拗かつ冷酷な犯行で、死刑はやむを得ない」と述べた。大橋被告は急病のため、この日の公判に出頭しなかった。 2009年12月7日の最高裁弁論で、弁護側は「最初から強盗殺人を計画していたわけではなく、反省している」と訴えて死刑回避を求めた。検察側は「酌量の余地はない」と反論し、上告棄却を主張した。 | |
遠藤誠一 | |
34歳 | |
1994年6月〜1995年3月 | |
殺人、同未遂 | |
松本サリン事件、地下鉄サリン事件、VX襲撃事件、弁護士サリン襲撃事件他 | |
●松本サリン事件 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。 ●地下鉄サリン事件 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。 村井秀夫容疑者は1995年4月23日、東京・南青山の教団総本部前で殺害されたため不起訴。殺人犯は一審懲役12年が確定している。 ●VX襲撃事件 1994年12月2日、信者の脱会を手助けした都内の駐車場経営者(84)をVXガスで殺害しようとして傷害を負わせた。 ●弁護士サリン襲撃事件 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、中川智正ら4被告、19歳の女性信者と共謀、1994年5月9日、教団相手の民事訴訟に出席するため甲府地裁を訪れた「オウム真理教被害対策弁護団」メンバーの弁護士(39)を殺害しようと、弁護士の乗用車のフロントガラス付近にサリンを垂らし、中毒症を負わせた。 ●池田氏サリン事件 村井秀夫は、1993年11月中旬頃、遠藤誠一、新實智光、中川智正、滝澤和義らに対して、創価学会名誉会長池田大作に、教団で生成したサリンをかけるよう指示した。池田氏が対象となったのは、創価学会信者による被告人の説法会の妨害行為や1990年の総選挙の際の選挙活動妨害行為があり、また、教団を攻撃した『サンデー毎目』を発刊している毎目新聞杜と創価学会とが緊密な関係にあると考えたこと等から、村井が噴霧実験の対象としたのであった。 村井らは、農薬用噴霧器を普通乗用自動車に取り付けて噴霧する方法を考え、同月中旬頃、村井、新實、中川及び滝澤は、噴霧するため、八王子市内の創価学会施設付近まで赴き、上記普通乗用自動車で創価学会施設周辺を走行しつつ、車の後方から外に向けて噴霧した。車の真後ろにはバイクでついて来る者がいて、この者が噴霧したサリンを浴びたのは明らかであり、また、創価学会施設の警備員らも噴霧したサリンを浴びたのは明らかであったが、何らの影響も現れなかった。 この第一次池田事件に際して、サリン注入や噴霧中に噴霧したものが車内に逆流して来たことが原因となってか、村井、中川、新實及び滝澤らは、「手が震える、息が苦しい、目の前が暗くなる」という症状が出た。 なお、第一次池田事件の際、遠藤が生成を担当していたボツリヌス菌も同じ噴霧車に備えた別の噴霧器(霧どんどん)で撤こうとしたが、噴霧器が途中で動かなくなり、ほとんど撒くことができなかった。 さらに村井は、1993年11月末ないしは12月初旬頃、土谷及び中川に対し、サリンを5キロ造れと指示し、土谷らは、同月中旬頃、サリン約3キログラムの生成を完成した。このサリンを、八王子の創価学会施設で池田氏の講演会があるということで、その付近で噴霧することとなった。村井らは、サリンを加熱して気化させ噴霧する方法を考案し、この方式の噴霧装置を製作して2トンの幌つきトラックに搭載する準備をした。噴霧を予定していた当日に、講演会は中止となったことがわかったが、村井及び新實は、同月中旬頃、上記サリン3キログラムを噴霧装置に注入した噴霧車に乗車し、中川、遠藤、滝澤はワゴン車に乗車し、八王子市まで行った。 噴霧する前に、中川らにおいて、噴霧車が火を噴くんではないかという話が出ていた。そして、実際にサリンを噴霧しようとしたところ、ガスバーナーの火が噴霧装置に燃え移ってトラックの荷台が発火してしまった。創価学会の警備員に察知されて追いかけられ、噴霧は中止した。トラックを運転していた新實は、かなりの量のサリンを直接浴びてしまい、重体に陥った。 | |
2002年10月11日 東京地裁 服部悟裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2007年5月31日 東京高裁 池田修裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
「人が死ぬとは思わなかった」(松本サリン事件)、「サリンを作ったが、何に使うか知らなかった」(地下鉄サリン事件)。1996年の第4回公判まで起訴事実を全面的に認めていた遠藤被告は、弁護人を解任して無罪主張に転じ、こんな釈明を続けてきた。 弁護側は公判で犯意や共謀を争うとともに、事件当時はマインドコントロールの影響で心神喪失か心神耗弱状態だったと主張している。 一審で服部裁判長は、遠藤被告が松本智津夫被告らと共謀して、4事件に正犯として関与したと認定し、「教団内で名誉ある地位を得たいといった利己的な動機も含め、自らの判断で犯行に及んだ」と述べた。 一方、監禁事件などで指名手配中の信者2人を教団施設内にかくまったとされる犯人蔵匿罪については、無罪とした。 判決理由の中で、服部裁判長は、地下鉄サリン事件について「サリンが地下鉄などの閉鎖空間で殺人に使われることを認識しており、犯行実現のため極めて重要な役割を担った」と述べ、「何に使うか分からなかった」とする弁護側の主張を退けた。 松本サリン事件についても「サリンの毒性を十分認識しており、不特定多数の住民に対する確定的殺意があった」と認定した。 遠藤被告は一審では松本死刑囚との決別を口にしたが、控訴審では「尊師に帰依しており、尊師の弟子である」と翻し、「死刑は弟子12人だけでいい。尊師は未来仏なので(死刑)執行しないでください」と擁護した。 控訴審の最終弁論で、弁護側は「遠藤被告は松本智津夫死刑囚(教祖名麻原彰晃)のマインドコントロール下にあり、事件当時は心神喪失か心神耗弱の状態で、責任能力がなかったか、減退していた」「サリンが地下鉄でまかれるとは思っていなかった」と主張。また「実行行為に関与しておらず、過剰な制裁は正義に反する」として死刑の見直しを訴えた。 検察側は「関与した地下鉄、松本両サリン事件で計19人が死亡した結果は重大。犯行に不可欠な役割を果たした」として控訴棄却を求めた。 池田裁判長は「自らの判断で加担した」と認定。その上で「松本事件でサリンの威力を痛感したのに、地下鉄事件でサリン生成に主体的に関与した。刑事責任は実行役に勝るとも劣らない」と指摘した。そして無差別大量殺人を企てた犯罪史上例をみない残虐卑劣な暴挙。極刑で臨むほかない」と述べた。 | |
薬物密造4事件は、検察側が審理迅速化のため起訴を取り消した。 |
中川智正 | |
25歳 | |
1989年2月〜1995年5月 | |
殺人、殺人未遂、逮捕監禁、死体損壊他 | |
坂本弁護士一家殺人事件、元信者殺人事件、弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件、VX殺人事件及び同未遂2事件、目黒公証役場事務長拉致監禁事件、地下鉄サリン事件、新宿青酸ガス発生事件、都知事爆破物郵送事件他 | |
●坂本弁護士一家殺人事件 横浜市の坂本弁護士(当時33)は、オウム真理教に入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。TBSの取材でも坂本弁護士は教団を徹底追及していくことを発言。オウム真理教の幹部たちはTBSに乗り込み収録テープの内容を見て殺害を決意。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)は早川紀代秀、村井秀夫、新実智光、中川智正、佐伯(現姓岡崎)一明、端本悟に殺害を命じた。実行犯6名は1989年11月3日、横浜市の坂本弁護士宅のアパートに押し入り、坂本弁護士、妻(当時29)、長男(当時1)の首を絞めるなどして殺害。遺体をそれぞれ新潟、富山、長野の山中に埋めた。 坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が関わっていると主張。坂本弁護士がオウム批判をしていることと、坂本弁護士宅にオウムのバッジが落ちていたことなどが理由である。オウム真理教側は、被害者の会や対立する宗教団体が仕組んだ罠だと反論した。 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教への強制捜査を開始。9月10日までに三人の遺体が発見され、7日に5人が、22日には松本被告と実行犯5名が再逮捕された。村井秀夫元幹部は1995年4月に刺殺された。 ●元信者殺人事件 1994年1月30日、元オウム真理教信者だったOさん(当時29)は教団付属病院に入院している女性信徒を救助しようと、女性の親族であり脱会の意志を示しているY被告とともに救い出そうとしたが、警備の信徒に取り押さえられた。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)はY被告に処刑をほのめかしつつ、Oさんと親族のどちらが大切かを迫り、幹部10数名らにOさんを押さえつけさせ、Y被告に絞殺させた。遺体は教団施設内にて焼却した。 ●弁護士サリン襲撃事件 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、中川智正ら4被告、19歳の女性信者と共謀、1994年5月9日、教団相手の民事訴訟に出席するため甲府地裁を訪れた「オウム真理教被害対策弁護団」メンバーの弁護士(39)を殺害しようと、弁護士の乗用車のフロントガラス付近にサリンを垂らし、中毒症を負わせた。 ●松本サリン事件 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。 ●元信者リンチ殺人事件 1994年7月10日 元信者のTさんをリンチの末、首をロープで絞めて殺害。遺体を教団施設内にて焼却した。 ●VX殺人事件及び同未遂2事件 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、教団信者の知人だった大阪市の会社員(当時28)を「警察のスパイ」と決めつけ、新実、中川らに「ポアしろ。サリンより強力なアレを使え」などと、VXガスによる殺害を指示。新実らは1994年12月12日、出勤途中の会社員にVXガスを吹き掛け、殺害した。他別の会社員2名にも吹きかけ、殺害しようとしたが失敗した。 ●目黒公証役場事務長拉致監禁事件 1995年2月28日、逃亡した女性信者の所在を聞き出すために信者の実兄である目黒公証役場事務長を逮捕監禁、死亡させ、遺体を焼却した。 ●地下鉄サリン事件 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。 ●新宿青酸ガス発生事件 1995年5月、新宿駅で青酸ガスを発生させた。 ●都知事爆破物郵送事件 1995年5月、東京都知事に爆発物を郵送し、都職員に重傷を負わせた。 罪に問われている事件では、松本被告の13事件に次いで多い。中川被告が関与した事件では計25人が死亡しており、松本被告、新実被告に次ぐ。 | |
2003年10月29日 東京地裁 岡田雄一裁判長 死刑判決 | |
2007年7月13日 東京高裁 植村立郎裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
中川被告は、弁護士一家殺害事件の実行行為に加わったことは認めたが、多くの事件で殺意や共謀を否認。松本サリン事件では「殺意はなく、傷害致死の幇助にとどまる」と主張。地下鉄サリン事件では、サリン製造にかかわったことは認めたが、「何に使われるか知らなかった」として無罪を主張した。また、「心神喪失に準じる精神状態で、全事件で責任能力を欠いていた」とも訴えた。弁護側は無罪やほう助罪などの適用を主張している。 判決は、坂本弁護士らの殺害について「それまで坂本弁護士の名前を聞いたこともなかったが、出家した以上は松本被告の指示に従わなければと思い犯行に加わった」と指摘。被告が坂本弁護士の妻の首を着衣で締め付けて殺害し、長男の顔にタオルケットを強く押し付けたと認定した。 地下鉄、松本両サリン事件については、中川被告らが生成したサリンが使われたと認定した。 控訴審で弁護側は最終弁論で「教組で特異な存在だった松本智津夫死刑囚(教祖名麻原彰晃)の指示であったからこそ従った」と死刑を回避するよう求めた。 判決は、罪に問われた11事件のすべてについて、中川被告の関与を認定した。植村裁判長は、「医学の知識を犯行に悪用し厳しい非難を免れない、刑事責任能力もあった」「松本死刑囚がそばにいるような神秘体験が犯行を促す方向に作用した可能性があるとしても責任能力に疑念は生じない。サリンが悲惨極まりない結果を引き起こす毒物と熟知しながら積極的に関与した」「死者が計25人に上るなど事件の極限的な悪さに照らせば、反省や謝罪を前提にしても死刑選択を妨げる特段の事情はない」と述べた。 | |
松永太 | |
40歳(2002年3月7日 逮捕当時) | |
1996年2月〜1998年6月(殺人について) | |
殺人、傷害致死、監禁致傷、詐欺、強盗 | |
小倉監禁殺人事件 | |
布団販売会社経営松永太被告と元幼稚園教諭の緒方純子被告は1982年頃から交際を始め、事実上の夫婦関係にあったが、1992年に会社が多額の負債を抱えたため逃亡。指名手配されたため、マンションなどに隠れ住むようになった。 1994年10月、北九州市のマンションで松永被告と緒方被告は不動産会社員だった男性・娘と同居を開始。1996年2月、マンションから逃げ出そうとした男性(当時34)を風呂場に何日も閉じ込め、食事もろくに与えず体に電気を通して衰弱させ、多臓器不全で死亡させた。松永被告はノコギリやミキサーで遺体を解体し、公衆便所や海に捨てさせた。男性の娘はその後、ずっと監禁された。 1997年から同じマンションで緒方被告の親族6人が両被告と同居を開始。緒方家は財産のほとんどを松永被告に吸い取られていた。松永被告は家族全員に通電による虐待を繰り返し、食事も満足に与えなかった。松永被告は緒方被告にも通電虐待を繰り返していた。 1997年12月21日、両被告は緒方被告の父親(当時61)の発言をきっかけに通電行為を行い、死亡させた(この事件のみ、傷害致死)。 1998年1月20日、両被告は逃亡生活や父の死が露見することを恐れ、緒方被告の母(当時58)を絞殺した。手をかけたのは妹の夫、足を押さえたのは妹とされる。 2月10日頃、両被告は緒方被告の妹(当時33)を殺害した。手をかけたのは妹の夫、足を押さえたのは娘とされる。 4月8日頃、虐待と不十分な食事で栄養失調の状態にあった妹の夫(当時38)は、高度の飢餓状態に基づく胃腸障害を発症した。しかし両被告は暴行、虐待を加えた事実が発覚することを恐れ、医師の適切な治療を受けさせず、同マンション浴室内に閉じ込めたまま放置して衰弱させ、同月13日ごろ、胃腸障害による腹膜炎で死亡させた。 5月17日頃、両被告は妹の息子(当時5)を殺害した。両被告はすでに殺害されていた母親に合わせるとだました上に、妹の娘に息子を絞殺させた。足を押さえたのは監禁されていた少女、手を押さえたのは緒方被告とされる。 6月7日頃、両被告は妹の娘(当時10)を縛り上げ、電気コードの先端にクリップで体にはさみ10分間通電させ、また監禁されていた少女に首を絞めさせ、感電死もしくは窒息死させた 死体はいずれもバラバラにされた上、海などに投げられたため、見つかっていない。 また松永被告は学歴などを詐称して女性(当時36?)と交際。緒方被告と共謀して1996年12月30日から1997年3月16日にかけ、女性と二女(当時3)を同市小倉南区のアパート二階の四畳半和室に閉じこめ、入り口には南京錠をかけて監禁。電気コードに取り付けた金属製クリップで女性の腕などを挟み通電させるなど、連日暴行を続け「逃げようとしたら捕まえて電気を通す」などと脅迫した。女性は3月16日未明、すきを見て部屋の窓から路上に飛び降り脱出したが、その際、腰の骨折や肺挫傷などの重傷を負った。また松永被告は女性に対し、「母親から金を引き出せ」などと脅迫し、現金を奪った。 両被告は2002年、北九州市の別のマンションで少女を感電させるなどして虐待し、約1ヶ月のけがを負わせた。 2002年3月6日早朝、マンションで監禁されていた少女(当時17)が脱出したため、犯行が発覚。翌日、両被告は逮捕された。二人は別の部屋で男児4人を監禁していた。男児(当時9、6)は両被告の息子であった。双子(当時6)は別の女性(当時35)の家庭の不和につけ込んで預かった子供で、女性から約2500万円を貢がせていた。 | |
2005年9月28日 福岡地裁小倉支部 若宮利信裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2007年9月26日 福岡高裁 虎井寧夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
遺体などの物的証拠は見つかっていないため、検察側は緒方被告や監禁されていた少女の証言を元に二人を起訴。 検察側はすべての事件について殺人で起訴。論告で、松永被告を「善悪のたがが外れた首謀者」、緒方被告を「愚直な実行者」と位置づけた。その上で、一連の事件は被害者に虐待や生活制限を加えて支配し、金づるとしての利用価値がなくなると口封じのため殺害を繰り返した計画的犯行と指摘。「被害者に家族の殺害、死体処理を手伝わせ、揚げ句に殺害するという鬼畜の所業」と指弾した。 緒方被告が公判で「松永被告の指示がなければ殺さなかった」と供述している点については「二人は車の両輪のような関係。松永被告の指示に忠実でなければ、これほどの大量殺人を遂行し得たかは疑問。刑事責任は松永被告に劣らず重い」として、共同正犯の成立を主張した。 また、「緒方被告が勝手にやった」と全面否認する松永被告の供述も「不合理な虚偽弁解。救いようのないほど反省の情が欠如している」と批判した。 緒方被告が公判段階で殺意を否認し、傷害致死罪の適用を主張した被害少女(保護当時17)の父親(当時34)殺害については「虐待を続ければ死に至ることは予見できた」と指摘。両被告が殺意を否認する緒方被告の父(当時61)殺害は「両乳首と唇への通電は死の危険が大きいことを認識していた」と述べ、両被告の主張を退けた。 緒方被告は緒方被告の父(当時61)と監禁被害女性の父(当時34)については傷害致死罪の適用を主張したが、その他については起訴事実を大筋で認めており、一連の犯行は松永被告の主導と主張。弁護側は「松永被告の支配下での犯行だった」と強調するとともに、事件の全容解明に貢献したとして情状面から死刑回避を求めていた。 松永被告は、緒方被告の父(当時61)については一部関与を認めたうえで傷害致死罪を主張。監禁被害女性の父(当時34)については「浴室で転んで頭を打った事故死」、緒方被告のほかの親族5人については「家庭内の不和などが原因で、緒方一家で殺害し合った」として関与を否定している。松永被告の弁護側は、緒方被告の供述の信用性に疑問を呈し、「緒方被告は死刑を免れるため、『いずれの事件も松永被告から指示された』と主張している可能性がある」と反論した。検察側が緒方被告の供述と共に立証の柱にした監禁被害少女の証言について「当時は年少であるうえ、極めて特異な環境で育ったことによる認識能力へのマイナス影響もあり、信用性に問題がある」と主張した。 一審若宮裁判長は、緒方被告の供述について「自己に不利益な事実も含めて一貫しており、事件の核心部分においても女性の証言と一致している」と信用性を高く評価し、「真相解明を前進させた」と述べた。松永被告の供述については「事実をわい曲している」として退けた。 そのうえで、監禁された女性の父の殺害について「金づるとしての価値が無くなり、疎ましくなったため、松永被告が主導して緒方被告と黙示的に通じ合い、連日の暴行、虐待で死亡させた」と判断。緒方一家殺害については「生き地獄のように過酷で、松永被告は支配しただけでなく、家族を疑心暗鬼、相互不信に陥らせ、孤立させた」と述べた。 父の事件は「通電行為により死亡させたが、死後に蘇生行為をしていることなどから、殺意の認定には合理的疑いが残る」とし、殺人罪ではなく傷害致死罪を適用した。 しかし、母については、夫の死後、精神的に変調をきたして大声を上げるようになったため、「松永被告が緒方被告らに示唆し、絞殺させた」とした。他の4人殺害についても、同様に松永被告の指示がなければ、殺害は実行されなかったと指摘した。 そして松永被告を事件の首謀者と位置づけ、緒方被告は「松永被告の意図をいち早く察知し、積極的かつ主体的に動いた」と判断し、二人に死刑判決を言い渡した。 2007年1月24日の控訴審初公判で緒方被告は一審と異なり、「過酷な虐待で精神的に支配され、松永被告の『道具』として殺害行為を行った」と述べ、利用された側は罪に問われない「間接正犯」にあたるとして無罪を主張した。また「松永被告からの暴行で行動を制御できない状態で、責任能力は喪失か減弱していた」と精神鑑定を申請した。 松永被告側は一審同様、無罪を訴えた。さらに、「緒方被告は一連の犯行前、別の殺人事件を起こしており、それを知った親族の口を封じたいという動機があった」と新たな事件の構図を主張した。 7月2日の最終弁論で松永被告の弁護人は「緒方被告は一連の事件前、別の殺人事件を起こし、それを知った親族を口封じする殺害動機があったが、松永被告にはなかった」と改めて主張し、緒方被告側は「松永被告の暴力で責任能力が喪失、減弱し、道具として利用されたに過ぎない」として、ともに無罪を訴えた。 被告人質問で、緒方被告は、事件で犠牲となった父らの名を挙げ、「取り返しのつかないことをしてしまった」と涙声で謝罪。松永被告は「(緒方被告らに)殺人するほどの影響を与えていない」と大声で関与を否定した。 緒方被告側が申請していた精神鑑定請求は却下された。 検察側は「松永被告の供述は全く信用できない」と主張した。緒方被告については「松永被告の強い影響下で、判断力、批判力が低下したとしても、喪失したとまでは言えない。一連の犯行は緒方被告の存在がなければ実現できなかった」と指摘。両被告の控訴棄却を求めた。 判決は、緒方被告に対し死刑の一審福岡地裁小倉支部判決を破棄、無期懲役を言い渡した。松永被告は一審に続いて死刑とした。判決理由で虎井寧夫裁判長は、緒方被告は犯行当時、松永被告に暴力で支配されていたと指摘。「ドメスティックバイオレンス(DV)の被害者特有の心理状態に陥っていたことは否定できない。適法な行為を行う可能性は限定されていた」と述べ、殺害の実行行為の中心だったが立場は従属的だったと判断した。松永被告については一審判決と同様に「事件の首謀者」と認定。「不合理、不自然な弁解に終始し、反省の態度もみられない」と批判し、「犯罪史上まれに見る冷酷、残忍な事件であり、刑事責任は極めて重大で、死刑の選択は当然だ」とした。 | |
大山清隆 | |
40歳(2002年6月17日逮捕当時) | |
1998年10月中旬/2000年3月1日 | |
詐欺、窃盗、有印私文書偽造、同行使、殺人、死体遺棄 | |
広島連続保険金殺人事件 | |
元生コン商社役員大山清隆被告は1998年10月中旬、広島市佐伯区内の駐車場で社長だった養父(当時66)を鈍器で頭を強打した後、車の助手席に乗せて壁に衝突させ、交通事故を装って意識不明の重体にさせた。養父は1999年1月に死亡。大山被告は死亡保険金約7000万円をだまし取った。大山被告は養父に数千万円の借金があったほか、会社名義でも数億円の負債があった。会社は経営破綻しており、精算方針で養父と対立していた。大山被告は養父のおいで、中学生の時に養子になった。 養父殺害や保険金を得たことについて妻にうそをつき通せなくなり、殺害を決意。2000年3月1日午後11時40分頃、同区内の自宅で睡眠導入剤入りの茶を飲ませて妻(当時38)を浴槽につけて殺害。翌日、南区宇品海岸の岸壁から海中に遺棄。事故死と偽って死亡保険金299万円を詐取した。 逮捕当時は詐欺罪により広島地裁で公判中だった。 | |
2005年4月27日 広島地裁 岩倉広修裁判長 死刑判決 | |
2007年10月16日 広島高裁 楢崎康英裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
論告で検察側は「養父とは経営する会社の経営をめぐって意見の対立があった。妻からは離婚を迫られていた」と動機を指摘。その上で「完全犯罪をもくろみ、最も身近な存在を殺害するなどの犯行は、冷酷非情で人間性が欠如している」と厳しく非難した。 大山被告は公判で2人の殺害と保険金を請求したことは認め、養父殺害の動機は「会社の清算方法を巡る意見対立で、保険金は結果でしかない。保険金も第三者の口座に振り込まれ、手にしていない」と主張した。 弁護側は最終弁論で「養父殺害は保険金目的ではなく、妻殺害も完全犯罪とは言い得ない」とし、無期懲役を求めた。また二件の殺人はいずれも広島県警の捜査の甘さがあって発覚が遅れたと批判した。交通事故を装って養父を殺害し保険金を詐取した事件を、県警は当初、交通事故として処理していた点を疑問視。「現場には大量の血痕や骨片が残り、従業員も気付いたのに、聞き込みや捜査を怠った」とした。二年後に妻を自宅の浴槽に漬けて窒息死させ、南区の海に遺棄して事故死と偽った事件は、遺体の肺から淡水が検出されたのに、海水と成分を照合する捜査を怠り、遺族が告訴するまで県警は海中で水死したとみていたと指摘し、「初歩的な捜査が足りなかった」と強調した。特に、養父を殺害した事件が早く発覚していたら、妻の殺害事件は起きなかった」として情状酌量を求めた。大山被告は「遺族に深い苦しみと悲しみを与え、子どもを不幸な境遇に追いやってしまった。己の命をもってしても償いきれない」と手紙を読んだ。 判決理由で岩倉広修裁判長は「養父殺害の1週間後に保険金請求手続きをしており、殺害動機の一つだ」と、養父殺害が保険金目的だったと認定。「実の親同様の養父と最愛の妻を殺した犯行の社会的影響は大きい。2人の命を奪う冷酷な犯行で、慎重に検討しても死刑は回避できない」と述べた。 弁護側の捜査非難について岩倉裁判長は、「発覚の遅れは大山被告の綿密な準備のためで、捜査機関に責任転嫁は出来ない。責められるべきは、恩義ある養父や妻を殺害するという人間としてあるまじき重罪を犯した被告人自身だ」と非難した。 2006年6月15日の控訴審初公判で弁護側は、養父の殺害について保険金目的ではないと主張、また、犯行の計画性は乏しかったなどとして減軽を求めた。また死刑は憲法違反であると主張した。 2007年4月17日の最終弁論で弁護側は、「養父の殺害に関しては、養父が大山被告の最愛の養母を殺したかもしれないという疑惑が影響。また大山被告の息子も死刑を望んでいない」として懲役刑を主張。検察側は「死刑を言い渡した原判決の量刑は相当で控訴は棄却されるべき」と述べた。 楢崎裁判長は被告側が養父殺害は保険金目的ではなくて恨みからだという発言について、「被告の供述は信用できない」と退けた。また、大山被告の長男が「大山被告が社会復帰した後は共に支え合いたい」と話しているなどとして、情状酌量を求めていた点については、「ほかの遺族の気持ちを代弁しているわけではない」とした。 そのうえで、養父殺害の動機については、借金返済のための保険金目的だったと認定。妻については、養父殺害が露見するのを恐れたため殺害したと認めた。 そして、「2件の殺人は計画性が高く、証拠隠滅を図るなど犯行後の情状も悪質」と述べた。また死刑制度は憲法違反ではないとした。 | |
北村真美/北村孝紘 | |
北村真美被告45歳/北村孝紘被告20歳 | |
2004年9月16日〜17日 | |
強盗殺人、殺人、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反 | |
大牟田市4人連続殺害事件 | |
福岡県大牟田市の暴力団幹部北村実雄被告、妻北村真美被告は6600万円以上の借金を抱え、暴力団上部団体への上納金や生活費に困窮するなどしていたため、貸金業を営んでいる友人の女性(当時58)にうその土地購入話を持ちかけて約2600万円の現金を用意させたうえで殺害しようと計画。北村孝被告も加えて殺害の機会をうかがったが、真美被告がためらっている間に、孝被告が、両親を出し抜いて女性の家の金品を奪うために二男殺害を計画。500万円の報酬を条件に北村孝紘被告を誘い込んだ。 孝、孝紘両被告は実雄被告らには内緒で2004年9月16日夜、女性の二男(当時15)を絞殺し、遺体に重しをつけて川に遺棄。女性宅から指輪などの貴金属数十点(398万円相当)が入った金庫を強奪した。ただし、金庫の中に現金はなかった。孝紘被告は17日午後、自分の身分証明書を用いて指輪6個を計10万8000円で質入れし、現金を孝被告に渡した。孝被告は4万円を孝紘被告に分配した。 真美被告は17日午後、孝被告に殺害協力を依頼。金庫に現金が入っていなかったため、孝被告は依頼を受け、孝紘被告を誘った。 4被告は9月17日深夜、孝紘被告らが使っていた大牟田市のアパートで女性に睡眠導入剤入りの弁当を食べさせて眠らせた後、ワゴン車に乗せて大牟田港まで移動。翌18日午前0時半ごろ、ひも状のもので首を絞めて殺害し現金26万円などが入ったバッグを奪った。絞殺したのは孝紘被告とされる。 犯行後、実雄被告らは女性の軽乗用車に乗って行方不明の二男を捜していた女性の長男(当時18)と友人男性(当時17)を自宅近くで呼び止め、大牟田港から約1キロ離れた埋め立て地に連れて行き、午前2時20分頃、孝被告の指示で、実雄被告の拳銃を使って孝紘被告が撃った。さらに孝紘被告は死ななかった友人の胸にアイスピックを刺して殺害した。 4被告は女性宅を探したが現金は見つからなかった。4被告は同日午前3時半頃、3人の遺体を乗せた女性の軽乗用車を同市の諏訪川に沈めた。 二男の遺体は21日午前、通りがかった人が川に少年の遺体が浮いているのを見つけ、110番通報。消防署員らが同11時ごろ、遺体を引き揚げた。福岡県警は22日午前1時前、死体遺棄容疑で真美被告を逮捕。23日午後6時すぎ、二男が見つかった現場近くの川底から、女性の軽乗用車を発見、車内から男女三人の遺体を収容した。 9月25日、死体遺棄容疑で孝紘被告を逮捕。10月2日、孝被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月8日、回復した実雄被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月26日、女性強殺容疑で4人を再逮捕。11月17日、長男と友人殺害で4人を再逮捕。12月7日、二男強盗殺害容疑で孝被告、孝紘被告を再逮捕した。 殺害された女性は違法な高利で金を貸しており、真美被告は取り立て役を担当する一方、女性に数百万円の借金があった。さらに依頼されて取り立てた金を着服するなどのトラブルになっていた。 犠牲となった長男や次男、友人男性はもともと孝紘被告と親しい間柄だった。しかし、長男の女友達をめぐり孝紘被告との関係が悪化するなど複数のトラブルが起きていた。 | |
2006年10月17日 福岡地裁久留米支部 高原正良裁判長 死刑判決 | |
2007年12月25日 福岡高裁 正木勝彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
真美被告と孝紘被告は起訴事実を認めた。北村実雄被告は単独犯行を主張。孝被告は起訴事実を否認している。 検察側は「史上まれに見る凶悪な事案。犯罪性向や観念、発想は人格の本質にまで深化し、矯正不可能」として、両被告に死刑を求刑した。真美被告について「動機面で犯行の中心的存在。(息子を)事件に引き込み殺人行為をさせ、人間の所業とは思えない」と指摘。さらに性向にも言及し、「強固な金銭欲、自己保身欲、生命に対する冒涜をためらわない凶悪さ」と述べた。孝紘被告についても「犯行の実行行為者で4人の生命を次々と奪った。殺人鬼としか言いようがない」と指摘。法廷で殺害行為を「やくざ論としては名誉」と述べたことにも触れ「暴力団特有のゆがんだ観念から抜け出す可能性は見いだせない。再犯に及ぶ可能性は極めて大きい」とした。 その上で、両被告が犯行を認め、法廷で遺族に謝罪したことを考慮しても「極刑しかあり得ない」と断じた。 判決で高原裁判長は、真美被告を「動機面の中心的存在」、孝紘被告を「4人全員の殺害を実行した」とそれぞれの役割を認定。真美被告について、被害者殺害を考えながら自ら踏み切れずに息子2人を引き入れた点を指摘。「反省が深いことなどを考慮しても刑事責任はあまりに重く、極刑で臨むほかない」と述べた。 孝紘被告についても「人命軽視の反社会的な価値観が強く、矯正は困難」と指弾。「当時20歳3ヶ月と若かったことなどを考慮しても刑事責任は重い」と述べた。 殺害の共謀については、実雄被告は被害者3人、長男孝被告は4人についてそれぞれ認定した。 2007年6月5日の控訴審初公判で、真美被告側は「関与は従属的で消極的。犯行の全容を正直に供述し、解明に貢献。改悛の情は顕著」と主張。孝紘被告側は「実行犯だが、絶対的立場の父母、兄の命令を受けたもので本質は従属的。強盗への関与も消極的」と情状酌量を訴えた。検察側は、両被告の控訴棄却を求めた。 9月27日の最終弁論で、真美被告の弁護人は「改悛の情が顕著で、分離公判中の残る2被告が事実を認めていないことに心を痛めている」とした。 一方、孝紘被告の弁護人は「一家の手足として行動した従属的な立場だった。事件を後悔し、被害者に謝罪の意思も表明している」と述べ、いずれも無期懲役刑への減刑を訴えた。 判決で正木裁判長は「人命軽視も甚だしく、死刑が重すぎて不当とはいえない」と述べた。両被告の量刑不当について正木裁判長は、「真美被告の言動が一連の犯行の契機となっているほか、2人の息子を犯行に引き入れるなど、重要な役割を果たしており、従属的とは評価できない」と指摘。孝紘被告についても「4人をわずか2日間のうちに殺害した実行犯で、刑事責任が特に重いことは明らかだ」「極端な暴力肯定の態度が認められる」と断じた。また一審同様、実雄被告は被害者3人、長男孝被告は4人についての共謀をそれぞれ認定した。 | |
2004年10月4日、北村孝紘被告は拘置先の県警筑紫野署の留置場でトイレットペーパーを大量に飲み込み、自殺を図ったが未遂に終わっている。 |
鈴木泰徳 | |
35歳 | |
2004年12月12日〜2005年1月18日 | |
強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、強盗強姦、強盗強姦未遂 | |
福岡3女性連続強盗殺人事件 | |
福岡県直方市のトラック運転手鈴木泰徳被告は以下の事件を起こした。 2004年12月12日午後11時40分頃、飯塚市の公園で専門学校生の女性(当時18)を強姦したうえ、女性の首をマフラーで絞めて殺害した。さらに財布を奪おうとしたが通行人が現れたため何もとらずに逃走した。 2004年12月31日午前7時頃、北九州市の路上でパート従業員の女性(当時62)の胸や背中を包丁で刺し殺害、約6000円入りの財布などが入ったバッグを奪った。 2005年1月18日午前5時半頃、福岡市の公園で会社員の女性(当時23)を強姦しようとしたが、通行人に目撃されることを恐れ断念。女性の腹などを包丁で刺して殺害し、携帯電話や財布(約1000円)が入ったカバン(総額約45000円)を奪った。 2005年3月8日午前1時頃、捜査本部は福岡市で殺害した女性の携帯電話を持っていた鈴木被告を直方市内で見つけ、占有離脱物横領の現行犯で逮捕した。鈴木被告は携帯電話で出会い系サイトを利用していた。犯行を自供した鈴木被告を、3月10日に強盗殺人容疑で逮捕した。 鈴木被告は事件当時、飲み代やパチンコ、携帯電話の出会い系サイト料金の支払いなどのため計800万円の借金を抱えており、結婚生活が破綻していた。 | |
2006年11月13日 福岡地裁 鈴木浩美裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2008年2月7日 福岡高裁 正木勝彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
鈴木被告は飯塚市の事件では殺意を認めたが強盗目的を否認。北九州市の事件では「女性ともみ合ううちに転倒し刃物が刺さった」と殺意を否認。福岡市の事件では殺意や暴行、強盗目的を認めていない。 論告で検察側は事件の動機について「経済的な困窮状態と性的な欲求不満状態から、強盗と暴行目的で女性を物色していた」と指摘。いずれの事件も口封じのために殺害したとした。そのうえで「女性の性や生命に対する畏敬の念もなく、自らの欲望を満たすために女性を襲い殺害した、凶悪かつ残忍極まりない犯行」と厳しく非難した。 また、飯塚市の事件については捜査段階の供述から強盗目的はあったと指摘。北九州市の事件での殺意については、包丁で刺した回数や傷の深さなどから強固な殺意があったとした。福岡市の事件についても傷の状況や犯行態様、当時の生活状況から暴行・強盗目的だったと指摘した。 そして検察側は、「若い人に犯罪に走らないよう伝えたい」「命の大切さを伝えるためにも死刑にはなりたくない」などと死刑回避を求める鈴木被告の法廷での態度について、「醜悪極まりなく、常識はずれも甚だしい。遺族の怒り、悔しさを増幅させた」と厳しく指摘した。「何の落ち度もない女性を襲った凄惨、冷酷な犯行に酌量の余地は皆無。死刑の適用をためらう必要性など全くない」と述べ、死刑を求刑した。 最終弁論で弁護側は、今までの公判で認めていた飯塚市の事件の殺意を否認し、「首は絞めたが、殺害目的はなかった」と強盗致死罪の適用を求めた。弁護人は「被害者3人に対して殺意はなかった。強盗殺人ではなく、傷害致死や強盗致死などに該当する」「被告は、被害者に謝罪し、反省しており、更生の可能性はある」と主張。さらに「自白の誘導などがあった」と捜査を批判し「ごく普通の会社員だった被告が短期間に犯行を重ねており、動機は未解明だ」と述べた。 鈴木被告は最終意見陳述で、謝罪の言葉を述べる一方、「取り調べでは、捜査側の考えを押しつけられた」「裁判長の質問に、とげがあるように感じるのは私だけでしょうか」などと、約1時間にわたって捜査や裁判批判を展開。これまでの公判で、裁判長から事件と向き合うよう諭される場面もあったが、最後には「事件を起こした原因は、答えが出ません」などと述べて締めくくった。 判決で鈴木裁判長は傷跡の状況や凶器の殺傷能力などから、いずれも「金品を奪い取る目的で、殺意もあった」と強盗殺人罪の成立を認定した。量刑理由では、「金銭欲などから3人もの女性を殺害した動機に酌量の余地はない」と指摘。1月18日の事件で、犯行後に女性の携帯電話で出会い系サイトを利用したことなどを挙げ、「被害者へのぼうとくで、犯行後の情状は劣悪」と断じた。 さらに、「被害者の生命だけでなく、遺族らの幸福な生活をも奪った」と遺族感情に言及。鈴木被告が、公判で捜査官の取り調べに対する不平不満を述べることに終始したり、「正義の味方面した検察官は許せない」とする文書を福岡県警に送ったりした点を挙げ、「自分の行った行為を見つめ直しているとは言えず、遺族の感情をさらに害した。自己中心的かつ身勝手な考え方や犯罪性向は深まっている」「動機に酌量の余地はなく、殺害方法も凶悪で残忍。被告には反省の態度がなく、遺族の処罰感情は厳しい」「凶悪で残虐極まりない犯行。人間らしい理性もなく、生命をもって償うのが相当」と結論づけた。 2007年7月10日の福岡高裁初公判で、弁護側は鈴木被告が犯行後、被害者の携帯電話を使い続け、凶器の刺し身包丁を捨てずに車中に置き、罪の意識もなく生活を送っていた点を指摘。「妄想性人格障害か妄想性障害の影響下だった」として、心神喪失か心神耗弱を主張した。そして弁護側は「犯行時、責任能力がないか、著しく欠いた状態だった」と主張、精神鑑定を申請した。検察側は「著しく不自然、不合理な主張で、到底信用できない」として、控訴棄却を求めた。正木裁判長は、精神鑑定の採否について、留保とした。 11月6日の第3回公判で、正木裁判長は弁護側が請求していた鈴木被告への精神鑑定を却下し、結審した。この日の公判で、遺族は「被告には反省、悔悟が見られない。私の命と引き換えに被告を殺したい」と意見陳述で涙ながらに悲痛な思いを吐露した。これに対し、鈴木被告は被告人質問で「『罪を憎んで人を憎まず』と言う。権力が人を許さないと、更生への道を閉ざすことになる」「都合のいいことを言うな、と言われるでしょうが、生きて償う道を私に与えてほしい」などと死刑回避を訴えた。 判決で正木裁判長は「被害者の人格を無視した強固な確定的殺意に基づく、非情かつ残酷な犯行」「性的欲求や金銭欲に始まり、人命軽視も甚だしく、身勝手極まりない」「目を覆いたくなるほど残虐で、通り魔的犯行として社会を震撼させた。刑事責任は極めて重大で、死刑はやむを得ない」と指摘した。 極度のストレスで心神喪失か耗弱状態だったという弁護側の主張に対して、正木裁判長は「日常生活で被告の言動に異常を感じた者もいない」「軍手や包丁を用意して被害者を追跡するなど、その場の状況に即した対応をしており、不自然、不合理な点は一切認められない」とし、「妄想や意識障害を疑わせるような状況は存在せず、責任能力に疑問を差し挟む余地はない」と退けた。 | |
2006年1月26日の公判で、検察官は「3人を殺して無期懲役になるのは虫が良すぎる。今から(死刑を)覚悟しておいた方がいい。こんな事件を社会は許さない」と語った。また鈴木被告は取り調べに対する不満を述べることに終始し「事件を防ぐにはどうするべきだったか今も分からない」などと述べた被告に対し、谷敏行裁判長は「君は事件に向き合っていない。被害者の立場で考えることが責任ではないか」「遺族は君の反省の言葉を望んでいる。君が殺したんだよ。遺族は『到底許せない』との気持ちを深めたと思わないか」と声を荒らげ約10分間説諭した。 福岡地検は2005年6月の初公判以降、公判の度に、担当の検察官が遺族に公判内容を解説する異例の犯罪被害者支援の「説明会」を行ってきた。質問に応じ、感想を述べ合って公判内容の充実を図った。 |
片岡清 | |
72歳(逮捕時) | |
2003年9月28日/2004年12月10日 | |
住居侵入、強盗殺人、道路交通法違反、道路運送車両法違反、自動車損害賠償保障法違反 | |
広島・岡山独居老人強盗殺人事件 | |
無職片岡清被告は2003年9月28日夜、広島県東城町に住む一人暮らしの女性(当時91)宅の物置部屋の窓を、ドライバーなどでこじ開けて侵入。寝室にいた女性が驚いて逃げようとしたため、首を手で絞めて殺害した。室内を物色したが、何も見つからず逃走した。片岡被告は「裕福なお年寄りがいる」という情報を得たため、殺害して現金を奪うことを計画したが、名前を忘れたため、お年寄りが住んでいた東城町で人違いをして女性を殺害していた。 また片岡被告は、岡山県井原市のそば店店主の男性(当時76)方で2004年12月10日深夜、男性の頭部などをバールで殴って殺害し、現金約5万円などを奪った。 片岡被告は12月14日、広島県内で無免許運転の現行犯で逮捕。その後岡山の事件を自供し、12月24日に強盗殺人容疑で再逮捕。さらに2005年2月2日、広島の事件で再逮捕された。 | |
2006年3月24日 岡山地裁 松野勉裁判長 無期懲役判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2008年2月27日 広島高裁岡山支部 小川正明裁判長 一審破棄 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
片岡被告は捜査段階で殺意を認めた。 2005年4月18日の初公判で、片岡被告は岡山の事件の起訴事実を認めた。 検察側は冒頭陳述で「被告は広島での強盗殺人事件で警察に逮捕されるのを恐れ車で放浪生活をしていた。事件当日、タイヤがパンクし、修理代などを得て放浪生活を続けるため犯行を決意した」と指摘した。 6月10日の公判で、片岡被告は広島の事件の起訴事実を大筋で認めた。 検察側は冒頭陳述で「同居していた元妻の実母の介護のため外出できず収入が無くなり、借金して生活費に充てるようになった。2003年9月末の支払資金が無くなり、被害者を殺害し金を奪うことを決意した」と動機を明らかにした。 片岡被告はその後の公判で、広島の事件について「被害者を脅して金を借りようと思っただけで、殺すつもりはなかった」「首を絞めた後、『落ちた(気を失った)』と思い、すぐ手を離した」と主張を変更、殺意を否定した。 2006年1月25日の論告求刑で検察側は、広島の事件について、内妻が購入した健康器具の支払いができず、金を奪おうとした犯行動機を明かし、「被害者の首を絞めた後、ビニールひもでしばり、布団をかけて発見されるのを防いだ」など確定的な殺意があったことを強調。さらに岡山の事件では、犯行後にもバールなどを購入していたことを挙げ、「人命軽視の傾向が見られ、第3、4の事件が起きていたかもしれない」と再犯可能性を示した。そして「犯罪史上まれに見る凶悪事件」などと約30分にわたり、犯行の残忍性を指摘。「人命軽視の傾向が強く、矯正は不可能」と述べ、死刑を求刑した。 弁護側は同日の最終弁論で、広島事件の殺意を否認した上で、極刑回避を求めた。 松野裁判長は広島での事件について「被害者を一時的に気絶させるつもりだった」などとして殺意を否定し、強盗致死罪を適用。「金銭目当ての自己中心的な動機で二人の命を奪い、広島、岡山両県の高齢者を不安に陥れるなど社会的影響も大きい」としながらも「責任は極めて重大で死刑の求刑にも相当な根拠があるが、被害者の遺族に謝罪の手紙を送るなど、参酌すべき事情もある。矯正措置が全く不可能とまでは言えない」と理由を述べた。 量刑不当を理由に検察側が控訴。 控訴審で検察側は、「犯行の下見をした際に被害者に顔を見られており、殺すつもりで1分以上、両手で首を絞めた」と改めて強盗殺人罪が成立すると指摘。これに対し、弁護側は「当初は被害者を脅して金を借りようと思っていた。騒いだ被害者を黙らせようと思い、片手の指で数秒間、首を絞めただけだ」として殺意や計画性を否定していた。 判決で、小川裁判長は「被告は自己に有利なように供述を変遷させており、一審での供述は信用性に欠ける」と指摘。殺害状況について「被告は被害者が抵抗しても、2〜3分にわたり首を両手で強い力で絞め続けた。その後も救命救護の措置を取らず、毛布を頭からかぶせ金品を物色した」と明確な殺意を認め、「強盗致死とした一審判決には事実誤認があった」とした。そして2件の事件は「いずれも経済的窮境を脱するために他人の生命までも踏みにじったもので、動機は理不尽で極めて身勝手かつ自己中心的。同情すべき点はいささかもない」と指弾した。そして「極刑をもって臨むほかない」とし、一審を破棄した。 | |
2003年9月の広島の殺人事件で、広島県警は当時片岡被告を二度にわたって事情聴取したが、自供を得られず、証拠も無かったため立件を見送っていた。 |
守田克実 | |
55歳(2005年10月21日逮捕当時) | |
2002年8月5日〜11月22日 | |
住居侵入、強盗殺人、現住建造物等放火、電磁的公正証書原本不実記録、同供用、有印私文書偽造、同行使、旅券法違反 | |
警察庁指定124号事件(マブチモーター社長妻子強殺事件他) | |
無職小田島鉄男被告(強盗殺人罪などで分離公判中)と、無職守田克実被告は共謀して以下の事件を犯した。 (1)2002年8月5日午後3時ごろ、千葉県松戸市にある小型モーターの世界的トップメーカー・マブチモーター社長方で、社長の妻(当時66)と長女(当時40)を絞殺。現金数10万円と高級腕時計や指輪など966万円相当を奪った上、2部屋に混合ガソリンをまいて放火し、木造2階建て住宅延べ約170平方メートルを半焼させた。小田島被告は宝石を東京都内の宝石商に偽名で売却していた。 (2)2002年9月24日、二人は東京都目黒区に住む歯科医師の男性(当時71)宅に侵入。自宅1階居間で男性を電気コードで縛ったうえ、ナイフで胸部や腹部などを突き刺し、タオルなどで首を絞めて殺害。現金約35万円や指輪を奪った。 (3)2002年11月21日、二人は千葉県我孫子市の金券ショップ社長(当時69)方に警官を装って押し入り、侵入。社長の妻(当時64)を殺害し、現金100万円を奪った。 2人は共謀して2002年7月、本籍北海道の男性の住所を勝手に伊勢崎市に移した上、男性名義の旅券を不正に取得。マブチ事件後に複数回、この旅券などを使い、成田空港からフィリピンに出国していた。二人は旅券法違反で2005年9月30日に逮捕された。 2人は刑務所で服役中に知り合った。守田被告が小田島被告から何度も誘われたことが、事件のきっかけだったとされる。マブチ事件後、フィリピン旅行などで金を使い果たしたため、第二、第三の犯行に手を染めた。 二人は一時、群馬県内で同居。二人は新聞のお悔やみ欄を見て葬式で留守中の家を狙い、群馬県などで空き巣を繰り返していた。2005年1月、前橋市内の無職女性宅から現金などを盗んだとして群馬県警に窃盗容疑で逮捕され、小田島被告は前橋地裁で懲役4年の判決(控訴中)を、守田被告は前橋簡裁で懲役2年8月の判決(服役中)を受けていた。 | |
2006年12月19日 千葉地裁 根本渉裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2008年3月3日 東京高裁 中川武隆裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
守田被告は逮捕段階で犯行を全面的に認めた。また、マブチ事件で逮捕後、2件の犯行を認める上申書を提出した。 2006年2月23日の初公判で、守田被告は起訴事実を全面的に認めた。 検察側は論告で「4か月で4人を殺害するなど犯罪史上まれにみる重大かつ凶悪な犯行」などとして、死刑を求刑した。 弁護側は「いずれの事件も小田島鉄男被告が計画、主導したもので、守田被告の関与は従属的だった」とし酌量を求めた。 守田被告は公判で「極刑でも罪を償うことはできない」と発言する一方で、遺族らへの気持ちについては「表現できない」などと謝罪の言葉は述べていない。最終意見陳述でも「ありません」と答えた。 根本渉裁判長は「4ヶ月足らずの間に連続して行われた凶悪事件で、社会に与えた衝撃も大きい。罪責はあまりにも重く、極刑をもって臨むほかない」と述べ、求刑通り死刑を言い渡した。 根本裁判長は、共犯の小田島鉄男被告について、「対象の選定、計画立案など寄与度は大きい」としながらも、「マブチ以外の2事件は守田被告が持ち掛け、現場でも小田島被告と役割分担をしており、主従関係があったとはいえない」と指摘。弁護側の主張を退けた。 2007年10月29日の控訴審で、弁護側は控訴趣意書で▽共謀とされた長女の殺害は、監禁して金品を奪う当初の計画を、小田島被告が勝手に変更しており事実誤認▽守田被告の精神鑑定を却下した一審は、訴訟手続きの法令違反▽死刑判決の量刑不当――などと主張。計画のほとんどを共犯の小田島鉄男被告が計画したとして、「守田被告は小田島被告の指示で動いていた」「従属的な立場の犯行だった」と主張した。また、「一審は必要不可欠だった精神鑑定を却下した。4人のうち2人の殺害は共犯者による独断で、共謀は成立しない」などと訴えた。一方、検察側は「小田島被告の誘いに乗って積極的に犯行に加担した」として従属的立場だったとの主張を否定。控訴棄却を求めた。 判決で中川裁判長は「具体的な計画を立てたのは小田島死刑囚だが、被告は大金の魅力に惹かれ、積極的に小田島死刑囚に働きかけるなど、互いに利用し合う関係が成立していた」と指摘。「利欲目的で何の落ち度もない4人の命を奪うなど刑事責任は重く、小田島死刑囚と大きな差を見つけることはできず、極刑はやむを得ない」と述べた。 | |
小田島被告は1990年、2人組で東京都内の社長一家7人を2昼夜監禁し、現金3億円と貴金属を奪った。約3カ月後に香港から帰国したところを逮捕され、懲役12年の実刑判決を受け、2002年6月に仮出所していた。 守田被告はタイ人女性殺人事件で懲役12年の判決を受け、89年に入所していた。 小田島鉄男被告は分離公判。2007年3月22日、東京地裁で一審死刑判決。11月1日、本人控訴取り下げで確定。 |
大倉修 | |
36歳(2005年9月27日逮捕当時) | |
2004年9月16日/2005年9月9日 | |
殺人、死体遺棄、死体損壊 | |
同僚・妻連続殺人事件 | |
静岡県焼津市の生協職員大倉修(当時の姓は滝)被告は2004年9月16日、ワゴン車内で、同僚の生協職員男性(当時37)が不倫相手を中傷したことに腹を立て包丁で胸や腹を刺し殺害。翌日、死体を静岡市の茶畑に遺棄した。遺体は2004年10月24日に発見された。 2005年9月9日、不倫がばれ離婚を迫った妻(当時36)を自宅にてネクタイで絞殺。翌日、自宅浴室で遺体を電気丸のこで切断し、同県由比町の山林など3箇所に遺棄した。9月18日、大倉被告は焼津署に「勤務先の研修から11日に帰ったら、妻がいなくなっていた」と捜索願を出していた。県警が自宅に残っていた指紋を照合した結果、遺体の身元が26日に判明。同日夕から大倉被告に事情を聞いたところ、容疑を認めたため、9月27日、妻の死体遺棄容疑で逮捕した。 2005年12月22日の初公判後、大倉被告の乗用車を再度鑑定したところ、助手席から同僚男性を殺害した時に付着したとみられる血液が検出されたことから、2006年5月、死体遺棄容疑で再逮捕した。 | |
2007年2月26日 静岡地裁 竹花俊徳裁判長 死刑判決 | |
2008年3月25日 東京高裁 安広文夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2005年12月22日の初公判(このときは、妻殺害事件のみ)で、大倉被告は起訴事実を認めたが、弁護側は「犯行当時大倉被告は心神喪失または心神耗弱だった」と主張した。 弁護側はうつ病の影響を理由に精神鑑定を請求したが、2006年5月17日の公判で、竹花裁判長は却下した。 その後、男性殺害の事件で大倉被告が逮捕されたため、6月26日に予定されていた論告求刑公判は中止された。7月10日に大倉被告は男性殺害の事件で追起訴。期日間整理手続きにより双方が年内結審で合意し、弁護側は精神鑑定を改めて請求した。 10月26日の公判で、大倉被告は男性殺害の起訴事実を認めたが、弁護側は当時被告が心神喪失・耗弱状態にあったとして責任能力を争う構えを見せた。 11月25日の公判で、竹花裁判長は弁護側の精神鑑定請求を再び棄却した。 2006年12月11日の求刑論告で検察側は、これまで被告を診た医師がいずれもうつ病は軽度で責任能力はあったと判断したと指摘し、周到な証拠隠滅を図った点などから完全責任能力があったと断じた。また1年間に2人も殺害したことについて「(同僚殺害の)大罪を犯していながら何ら反省せず妻を殺害した。遺体をゴミでも捨てるように遺棄した」と厳しく批判した。そして「自己中心的で短絡的な動機に酌量の余地はなく、犯行は残虐」として死刑を求刑した。 最終弁論で弁護側は「うつ病により少なくとも責任能力は減少していた」と主張。「動機など事件の原因が何ら明らかになっていない」とあらためて精神鑑定を求め「鑑定がなされないなら大幅な減刑がされるべきだ」と訴えた。 大倉被告は真っすぐ前を見つめ、求刑の際も表情は変わらなかった。最後に発言を許されると「裁判所には、私は存在してはならないとお伝えしたい」と自ら極刑を求め「申し訳ありませんでした」と傍聴席に土下座した。そのまま一分ほど動かず、最後は弁護人に起こされた。 竹花裁判長は、被告が不倫を続けるため殺人を重ねたと指摘し、同僚殺害の計画性はないとした。しかし「計画性のなさは死刑選択をしない理由にならない」と酌量を認めなかった。被告が「同じ状況になったら、きっと同じことをする」と述べるなど反省がみられないことも厳しく指弾した。一方妻殺害について「一緒に死のうと思った」という被告側の主張は周到な証拠隠滅を図っていることを理由に退けた。そして「一年間に二人の命を奪った冷酷無残な犯行」と述べた。 大倉被告は、死刑自体は「率直に受け入れる」としたが、妻殺害の動機を「不倫相手との関係を維持するため」とした判決について「真実を知ってもらうためにも是正しなければ」と控訴した。 2007年10月30日に初公判が開かれた。弁護側は控訴趣意書などで、大倉被告がうつ病を発症し、「犯行時は責任能力がなかった。仮に責任能力が認められたとしても、有期懲役刑が適切」と主張。これに対し、検察側は答弁書で、「うつ病に関する弁護側の主張は、精神医学の文献を根拠としているだけで薄弱」と反論し、控訴棄却を求めた。 2007年11月29日の第2回公判における被告人質問で大倉被告は、一審で認定された「不倫相手との関係を維持するため」という妻の殺害動機を否定。「妻に離婚届を書かされたことで絶望的になり、2人で死のうと思い殺した」などと供述した。 弁護側は「被告の精神状況を確認するために鑑定の実施が必要」とする医師の意見書を提出。2008年1月24日の第3回公判で、安広裁判長は「精神鑑定を行うとすれば、高裁ではなく、差し戻し審として地裁が実施すべき事柄だ。高裁は、被告の審理を進める上で鑑定が必要だったかどうか判断するが、鑑定そのものを行う立場にない」と述べ、精神鑑定請求をあらためて却下。弁護側は被告が妻を殺害後、自分も自殺しようと考えていたことを裏付ける証言として、今月9日に静岡地裁で行われた被告の父親の証人尋問の記録なども証拠として提出した。 同日の最終弁論で弁護側は「一審の動機認定は誤りがある。原判決は明らかに被告の行動を説明できていない。破棄し、地裁に差し戻して精神鑑定を実施するべきだ」などと主張して結審した。 判決で安広裁判長は争点となった責任能力について、判決は「被告が入通院していた精神科医の意見をみても、うつ病が影響を与えたとはいえない」「合理的に犯行を遂行し、罪証隠滅工作を行っている」「被告の記憶の状況が取り調べ段階からこれまで終始一貫している」などとして、完全責任能力を認めた。 妻殺害事件の動機を「不倫相手との関係維持のため」と認定した一審・静岡地裁判決について、弁護側は「離婚届を書いて絶望的になり、2人で死んだ方が楽と考えた」と否定していたが、安広裁判長は「不倫相手を中傷したことに立腹した」とした男性殺害事件の動機も含め、「いずれも了解可能」と判断した。その上で、「不倫相手に対する思慕の情を汚す相手に対し、制裁を加えるという両事件共通の基盤がある」との見方を示した。 被告に前科前歴がなく、まじめに仕事をしていたことなどを酌むべき事情としたが、遺族の処罰感情や自己中心的で身勝手な動機などを挙げ、「死刑は極めて慎重に適用すべきことを考慮しても、被告を死刑に処した一審判決の量刑はやむを得ない」と結論づけた。 | |
静岡県内では1971年7月、地裁沼津支部が質商強盗殺人事件で主犯に言い渡して以来の地裁死刑判決。 大倉修被告とその弁護士は、警察が報道機関へ配布した資料の交付を拒否されたのは違法などとして、県に500万円の損害賠償を求める訴訟を2006年10月3日、静岡地裁に起こした。 |
北村実雄/北村孝 | |
北村実雄被告60歳/北村孝被告23歳 | |
2004年9月16日〜17日 | |
強盗殺人、殺人、死体遺棄、銃刀法※違反、逃走(孝被告のみ) | |
大牟田市4人連続殺害事件 | |
福岡県大牟田市の暴力団幹部北村実雄(じつお)被告、妻真美(まみ)被告は6600万円以上の借金を抱え、暴力団上部団体への上納金や生活費に困窮するなどしていたため、貸金業を営んでいる友人の女性(当時58)にうその土地購入話を持ちかけて約2600万円の現金を用意させたうえで殺害しようと計画。長男孝(たかし)被告も加えて殺害の機会をうかがったが、真美被告がためらっている間に、孝被告が、両親を出し抜いて女性の家の金品を奪うために二男殺害を計画。500万円の報酬を条件に二男孝紘(たかひろ)被告を誘い込んだ。 孝、孝紘両被告は実雄被告らには内緒で2004年9月16日夜、女性の二男(当時15)を絞殺し、遺体に重しをつけて川に遺棄。女性宅から指輪などの貴金属数十点(398万円相当)が入った金庫を強奪した。ただし、金庫の中に現金はなかった。孝紘被告は17日午後、自分の身分証明書を用いて指輪6個を計10万8000円で質入れし、現金を孝被告に渡した。孝被告は4万円を孝紘被告に分配した。 真美被告は17日午後、孝被告に殺害協力を依頼。金庫に現金が入っていなかったため、孝被告は依頼を受け、孝紘被告を誘った。 4被告は9月17日深夜、孝紘被告らが使っていた大牟田市のアパートで女性に睡眠導入剤入りの弁当を食べさせて眠らせた後、ワゴン車に乗せて大牟田港まで移動。翌18日午前0時半ごろ、ひも状のもので首を絞めて殺害し現金26万円などが入ったバッグを奪った。絞殺したのは孝紘被告とされる。 犯行後、実雄被告らは女性の軽乗用車に乗って行方不明の二男を捜していた女性の長男(当時18)と友人男性(当時17)を自宅近くで呼び止め、大牟田港から約1キロ離れた埋め立て地に連れて行き、午前2時20分頃、孝被告の指示で、実雄被告の拳銃を使って孝紘被告が撃った。さらに孝紘被告は死ななかった友人の胸にアイスピックを刺して殺害した。 4被告は女性宅を探したが現金は見つからなかった。4被告は同日午前3時半頃、3人の遺体を乗せた女性の軽乗用車を同市の諏訪川に沈めた。 二男の遺体は21日午前、通りがかった人が川に少年の遺体が浮いているのを見つけ、110番通報。消防署員らが同11時ごろ、遺体を引き揚げた。福岡県警は22日午前1時前、死体遺棄容疑で真美被告を逮捕。23日午後6時すぎ、二男が見つかった現場近くの川底から、女性の軽乗用車を発見、車内から男女三人の遺体を収容した。 9月25日、死体遺棄容疑で孝紘被告を逮捕。10月2日、孝被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月8日、回復した実雄被告を死体遺棄容疑で逮捕。10月26日、女性強殺容疑で4人を再逮捕。11月17日、長男と友人殺害で4人を再逮捕。12月7日、二男強盗殺害容疑で孝被告、孝紘被告を再逮捕した。 殺害された女性は違法な高利で金を貸しており、真美被告は取り立て役を担当する一方、女性に数百万円の借金があった。さらに依頼されて取り立てた金を着服するなどのトラブルになっていた。 犠牲となった長男や次男、友人男性はもともと孝紘被告と親しい間柄だった。しかし、長男の女友達をめぐり孝紘被告との関係が悪化するなど複数のトラブルが起きていた。 | |
2007年2月27日 福岡地裁久留米支部 高原正良裁判長 死刑判決 | |
2008年3月27日 福岡高裁 正木勝彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
北村実雄被告は一審初公判で単独犯行を主張。孝被告は地検支部から逃走した以外の罪を全面否認した。真美被告と孝紘被告は起訴事実を認めている。 論告で検察は、すべての事件で自らの単独犯行を主張する実雄被告を「家族に刑事責任を免れさせようとする独善的な発想」と批判。事件への関与を否認する孝被告については「卑劣な人間性が際立っており、邪悪としか言いようがない」と非難した。 最終弁論で孝被告の弁護人は、実雄被告の妻の真美、息子の孝紘両被告の供述調書に加え、孝被告の捜査段階での自白調書も含めて非合理や任意性がないなどを理由に「信用性が認められない」と無罪を主張。孝被告も泣きながら「天地神明に誓って事件に関与していません」と述べた。 実雄被告の弁護人は、事件の動機を「感情のもつれ」とし強盗目的を否定して、死刑回避を求めた。同被告は、従来通り「私1人が4人を殺した」と単独犯を強調した。 高原裁判長は判決で「人命より金銭欲を優先させた自己中心的な行為で、情状酌量の余地はない」「人命を軽視した冷酷、残虐な犯行で、両被告の責任はあまりに重く、極刑をもって臨むほかはない」などと述べた。 判決は北村被告を「犯行の中心的存在」、孝被告は「現金への強い欲求から、殺害の計画や実行に積極的に関与した」と認定した。 北村被告は自身の単独犯行を主張してきたが、判決は同被告が逮捕前に拳銃自殺を図ったことを挙げ「自らの死で真相を隠そうとしたのは、暴力団特有の価値観。真美、孝紘両被告の供述や関係証拠から、単独犯行はあり得ない」と退けた。 2007年10月11日の控訴審初公判で、実雄被告は一転、ほかの被告との共謀を認めた上で、強盗目的を否定し、死刑回避を訴えた。女性殺害では真美、孝紘両被告との共謀を認め、孝被告との共謀、強盗目的を否認。別の2人殺害では4人の共謀を認め、もう1人の殺害については関与を否定した。 孝被告は一審同様、「犯行に関与していない」「犯行を裏付ける客観的証拠は存在しない」と無罪を主張した。 12月20日の最終弁論で、孝被告の弁護側は「共犯者の供述は信用できるとは言い難く、犯行時にアリバイもある」とあらためて無罪を訴えた。 正木裁判長は実雄被告について、真美被告に指示して孝被告らを犯行に引き入れ、殺害方法も示唆したとし、「殺害行為こそ担当しなかったが、北村家の中心または暴力団組長として各犯罪の遂行に向け主導的な役割を果たした」と認定。孝被告については「実行役を孝紘被告に押し付け、自分は脇役を装うなどできるだけ自分の手を汚さずに済まそうとし、自己中心的」とした。そして「利欲的で人命軽視も甚だしく、死刑はやむを得ない」と述べた。 | |
北村実雄被告は真美被告が逮捕された2004年9月22日午前9時過ぎに大牟田署へ「妻が逮捕されたので様子を聞きに来た」と出向いた。同署の取調室で、捜査員が対応していたところ、持っていた拳銃で自殺を図った。 2004年10月13日午後5時40分ごろ、福岡地検久留米支部で、取調中の北村孝被告が夕食中に逃走。北村被告は客を装ってタクシーに乗り熊本県方面に向かったが、福岡県警は緊急配備を敷いて行方を追い、約3時間後の同8時55分ごろ、南に約35キロ離れた熊本県荒尾市上井手の駐車場内で、タクシー車内にいた北村被告の身柄を確保した。 孝被告は2000年6月、友人ら6人とともに、同県城島町中牟田の路上で、大牟田市の元建設作業員の少年(当時18)に木刀で殴るなどの暴行を加えて、水路に転落死させる傷害致死事件を起こし、懲役3年6月の判決を受け、出所していた。 孝被告は、真美被告と前夫の息子。実雄被告との間で、養子縁組を結んでいる。 北村真美被告、北村孝紘被告は2006年10月17日、求刑通り一審死刑判決。2007年12月25日、被告側控訴棄却、上告中。 |
阿佐吉広 | |
54歳(逮捕当時) | |
1997年3月/2000年5月14日 | |
殺人、逮捕監禁、傷害致死、横領 | |
都留市従業員連続殺人事件 | |
山梨県都留市の朝日建設(2003年8月に倒産)社長阿佐吉広被告は全国から労働者を受け入れていたが、都留労働基準監督署などには「給料を払ってもらえない」との苦情が多数寄せられており、同社と労働者の間でトラブルが絶えなかった。同社の従業員は常時50−60人、多いときには100人を上回っていた。会社側は寮に住み込ませ、行動を監視。反発する従業員の頭を、幹部がガラス製の灰皿で何度も殴り続けるなどしていた。 1997年3月、阿佐被告は前夜に人夫寮でナイフを持って暴れるなどの騒ぎを起こした身元不明の男性労働者に対して説教を始めたが、男性が反抗的な態度をとったことから、制裁を加えようと考え、木刀を手にとって男性に暴行を加えた。男性は肺挫滅による気管支肺炎の傷害により死亡した。 2000年5月14日、阿佐被告は元暴力団組長(病死)、元社員ら6人と共謀。当て逃げ交通事故を起こした制裁として労働者3人の手足を縛って社内に監禁した。このうち抵抗したり暴れたりした男性2人(当時50、51)をロープなどで手や足を縛ってワゴン車で運び、阿佐被告と元暴力団組長、元社員の3人は車内で首を絞めて殺害した。遺体はいずれも都留市にある自社経営の朝日川キャンプ場に埋めた。2人を殺害した動機は、解放すれば後日労働争議団に訴えられ会社の経営に支障を来すことや、自分への報復を恐れたためであった。 また阿佐被告は元従業員と共謀し、2002年10月1日に会社の労働者が負った交通事故について、保険金約2412万円を横領した。 2003年10月6日午後4時頃、朝日川キャンプ場の駐車場で土中に男性の遺体が埋められているのを捜索していた県警捜査1課と都留署が見つけた。約40分後には、近くから別の男性の遺体が見つかった。7日朝、残る1名の遺体が発見された。 | |
2006年10月11日 甲府地裁 川島利夫裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2008年4月21日 東京高裁 中川武隆裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
阿佐被告は1997年に従業員を死なせた傷害致死について、逮捕時は関与を認めたが初公判では無罪を主張。 2000年の事件については、会社事務所に監禁したことは認めたが「キャンプ場でけがの手当をしろと指示しただけで、自分は行っていない」「殺害したのは知人の(死亡した)元暴力団組長」と殺人について無罪を主張した。阿佐被告の長女と長女の友人も法廷で「5月14日には母の日の贈り物を買いに行くために一緒にいた」とアリバイを主張したが、検察側はこの日、「買い物をした際の領収書など、客観的な証拠が残っていない。被告人にも確定的な記憶が残っていない」とアリバイの不成立を主張した。 検察側は「共謀者の供述が重要部分で一致しており、信頼性は極めて高い」とし、公判で十分に裏付けられていると主張した。 検察側は補充論告で「阿佐被告のアリバイは成立せず、共謀者の供述が重要部分で一致している」と主張したのに対し、弁護側は「懲罰的な暴行はしたが、死因とつながらない」「検察側証人の証言は二転三転しており全く信用できない」として傷害か暴行罪が妥当だと主張した。 阿佐被告は最終陳述で、「私はキャンプ場には行っていない。無実で冤罪です」と訴えた。 判決で川島裁判長は「当日午後から夕方は多くの証言により阿佐被告らが被害者らに暴行を加えた時間帯で、時間的な信用性に大きな疑問がある」などと被告のアリバイ主張を退けた。また、阿佐被告による殺害を証言した共犯者の供述について「具体的で不自然な点はなく、一連の経過が大筋で一致している。阿佐被告は責任を免れようと関係者に口裏合わせをしようとした」と認め、主導的な役割を果たしたことを認定した。そして「殺害の実行を最終的に決定し、実行した中心的立場にあった」「意に添わない者には命をも奪う人命軽視の態度が甚だしい」と厳しく糾弾した。 2008年2月18日の控訴審初公判で、弁護側は殺人について、阿佐被告の長女らが「当日は一緒に買い物に行った」と証言しており、アリバイの成立を主張。一審で「殺害直前の時間帯に阿佐被告をキャンプ場で見た」と証言したキャンプ場管理人(当時)による「証言はウソで、検事から言わされた」との書面を新たに提出した。そして「殺人時のアリバイ成立は明らかで、傷害と死亡の因果関係にも合理的疑いが残る。一審判決は事実誤認」として、殺人と傷害致死の罪について否認し、一審判決破棄を主張。 一方、検察側は「アリバイ証言に客観的な証拠はない」と指摘。「一審判決に事実誤認はなかった」などと主張し、控訴棄却を求めた。 3月19日の第2回公判で、弁護側は阿佐被告が当日キャンプ場にいなかったことを証言する証人への尋問などを申請したが、却下された。これを受け、弁護側は「裁判所の対応は特異で不当」として、裁判官3人の忌避を申し立てたが、「裁判の遅延のみが目的なのは明らか」として却下された。 一方、「検察の取り調べに対し、阿佐被告を当日キャンプ場で見たと話したのはうそだった」とするキャンプ場の管理人の話を弁護士が聞き取った書類や、阿佐被告の主張をまとめた書類などは採用された。 4月2日の最終弁論で弁護側は、前回公判で証拠採用されたキャンプ場の管理人の陳述書を挙げ、「検察の取り調べにうそをついていたとする管理人の話は信頼性が高く、管理人の供述に基づいた原判決は破たんしている」などと主張した。検察側は「管理人の供述には具体性がなく、不自然極まりない」と反論。前回公判で弁護側から証拠提出された阿佐被告の陳述書についても「虚偽の弁解を蒸し返しているだけ」とし、「控訴には理由がない」と主張した。 判決で中川裁判長は、2人殺害については共犯者の供述の信用性を認め、阿佐被告側の主張を退けた。傷害致死についても「阿佐被告の暴行が死亡の唯一の原因」と認定した。そして「被告にアリバイがあるとする長女らの証言には裏付けがない。殺人への関与を一切否定しようとする被告の供述は到底、信用できない」と述べた。弁護側は判決前に「元管理人の証人尋問は事実認定に必要不可欠」として弁論の再開を申請したが、退けられた。 阿佐被告は身じろぎせずじっと聞き入っていたが、被告に不利な元社員らの証言を採用した部分に差し掛かると、「うそばっかりじゃないか」と声を荒らげ、退廷を命じられた。 | |
2004年9月16日、山梨地裁は従業員2人を殺害した共犯者の元社員に対し懲役9年(殺人、逮捕監禁 求刑懲役15年)、逮捕監禁罪に問われた元従業員に懲役3年、執行猶予5年(求刑懲役5年)、元労働者に懲役2年、執行猶予3年(求刑懲役2年)、関連会社の元従業員に懲役1年、執行猶予5年(懲役1年)。逮捕監禁と横領罪に問われた元従業員に懲役2年、執行猶予4年(求刑懲役2年)を言い渡した。判決理由で川島利夫裁判長は「会社の非人間的な体質から起こるべくして起きた事件」とし、「いずれの被告も阿佐被告の指示の下、従属的立場で犯行に関与した」と指摘した。5人はいずれも犯行を認めたため、犯行を否認している阿佐被告とは分離して公判が進められていた。いずれも一審で確定している。 |
F・T | |
18歳 | |
1999年4月14日 | |
殺人、強姦致死、窃盗 | |
山口県光市母子殺人事件 | |
1999年4月14日午後2時半頃、山口県光市のアパートに住む会社員男性(当時23)方に、当時18歳1ヶ月のF被告が排水管の検査を装って、強姦目的で侵入。男性の妻(当時23)を強姦しようとしたが抵抗されたため、首を両手で絞めて殺害後、姦淫した。さらに、そばで泣いていた長女(当時11ヶ月)を床にたたき付けた後、持ってきたひもで首を絞めて殺害した。その後、事件発覚を恐れ2人の遺体を押し入れに隠し、妻の財布を奪って逃走した。 F被告はその後、友人の家やゲームセンターなどに寄っていたが、4月18日に逮捕された。山口家裁は6月4日、少年審判で検察官送致(逆送)を決定。6月11日、F被告は殺人等で起訴された。 | |
2000年3月22日 山口地裁 渡辺了造裁判長 無期懲役判決 | |
2002年3月14日 広島高裁 重吉孝一郎裁判長 検察側控訴棄却 無期懲役判決支持 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2006年5月20日 最高裁第三小法廷 浜田邦夫裁判長(退官のため上田豊三裁判官が代読) 二審判決破棄 高裁差し戻し 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2008年4月22日 広島高裁 楢崎康英裁判長 一審判決破棄 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
1999年8月11日の山口地裁初公判で、被告側は起訴事実を認めた。 12月22日の論告求刑で、検察側は乱暴目的の計画的な犯行だったと主張。生い立ちなどについても「母親の自殺と犯行は関係なく、殺人が許されないのは小学生でも分かる。自己の欲望と感情のおもむくまま、幸福な家庭を築いていた主婦と乳児を殺害した冷酷かつ残虐極まりない非人間的犯行。真摯な反省の態度もうかがえない。遺族は極刑を望んでおり、少年犯罪の凶悪化を考慮して刑罰で知らせる必要がある。事件の重大性を考えると極刑をもって臨むほかはない」と述べ、少年に死刑を求刑した。 最終弁論で弁護側は、、主婦宅に入れたために乱暴の意思が芽生え、計画性はなかったとし、「母親の自殺と父親の再婚で心の支えを失った。少年の内面の未熟は顕著で、18歳未満を死刑にしないという少年法の精神が適用されるべきだ」と主張した。 判決で渡辺裁判長は「犯行は身勝手、自己中心的で酌量の余地はないが、犯行当時18歳になったばかりの少年であり、矯正教育により更生の可能性がないとはいいがたい。被告はそれなりに反省の情を芽生えさせている」と理由を述べた。 検察側は量刑不当を理由に控訴した。 2000年9月7日の控訴審初公判で、。検察側は一審判決について(1)死刑適用の判断で重視すべきでない被告の更生可能性を強調して死刑選択を回避(2)遺族の被害感情を考慮していない(3)少年であればいかなる犯罪を犯しても極刑にはならないとの誤った風潮を助長しかねない――と批判し、死刑を求めた。一方、弁護側は死刑違憲論を今後展開する考えを示すとともに「更生の可能性がある」とした一審判決を妥当として控訴棄却を求めた。 10月5日の第2回公判で、被害者の夫である男性の証人尋問が行われた。男性は「少年を自分の手で殺しても構わない」と死刑判決を求めた。 2001年4月26日の公判で、事件後に少年が友人に出し、検察側が「不謹慎な内容で反省がみられない」とした計23通の手紙が証拠として採用され、一部が公開された。手紙は、一審の公判中だった1999年11月から、一審判決後の2000年6月にかけ、拘置所内で再会した友人にあてたもので、量刑不当を理由に控訴した検察側が証拠として提出。一部を法廷で読み上げた。 検察側は「7年そこそこで地表にひょっこり芽を出すからよろしくな」「選ばれし人間は、人類のため、社会のため悪さができる」などの手紙を紹介した上で、文面にわいせつな言葉があふれている点にも触れて「反省がみられない」と指摘。「裁判官、サツ(警察)、弁護士、検事。私を裁けるものはこの世におらず」「検察のバカ」など、司法手続きをちゃかす内容が多いことも強調した。 さらに事件後、被害者の権利擁護や少年法改正に取り組んでいる被害者の夫の男性を「調子づいている」とからかうなど、遺族を中傷する内容も多いと述べた。少年は「不謹慎なところもあると思うが、手紙をやり取りするうちに相手を笑わそうとしたもので、公開されるとは思わないで書いた」と釈明。弁護側は「本人の同意なしに証拠とするのは憲法が保障した信書の秘密を侵害する」と主張したが、退けられた。 2001年12月26日には、被害者の夫である男性が初めて意見陳述。改めて、改めて死刑判決を求めた。 2002年1月15日の最終弁論で、検察側は「被告からは反省の情が全くうかがえず、遺族が今なお厳しい感情を抱いており、極刑以外に選択の余地はない」として死刑を主張。弁護側は「少年の更生可能性を認めた一審の無期懲役判決は妥当」と述べ、死刑回避を求めた。 判決で、重吉裁判長は「極刑の当否を慎重に検討すべき事案」と認定。その上で、殺害の計画性を否定し、最大の争点だった更生可能性についても(1)18歳になって間もなく、内面が未熟(2)前科がなく、顕著な犯罪的傾向がない(3)家庭環境が不遇(4)矯正は可能とする鑑別結果―などを考慮した一審判決を「主観的事情を過大に評価したものとはいえない」と支持。「極刑がやむを得ないとまではいえない」との判断を踏襲した。 検察側は控訴審で、元会社員が一審公判中から知人にあてたわいせつな表現や遺族らを中傷する内容の手紙を証拠として提出。重吉裁判長はこの点について「犯行の重大性や遺族らの心情を真に理解しているのか疑問」としながらも、公判での供述などから「不十分だが、悔悟の気持ちを抱いている」と指摘した。 検察側は判決を不服として上告した。同高検の五島幸雄次席検事は「本件は人倫にもとる残忍な犯行であって、2名が殺害されたという結果の重大性などを勘案した」とするコメントを出した。 2005年12月8日、最高裁第三小法廷は、弁論の期日を2006年3月14日に指定。しかし、定者吉人弁護士ら2人が3月6日付で辞任し、3月6日付で新たに弁護人に就任した安田好弘弁護士と足立修一弁護士は、「準備期間が必要な上、14日は日弁連で研修用模擬裁判のリハーサルがあり出頭できない」と延期を申し立てたが、最高裁が却下した。以降連絡が取れない状態が続き、13日午後になって、出頭できないとのファクスが提出された。 3月14日の法廷では、裁判長以下4人の裁判官、検察官、遺族を含む傍聴人が出廷したが、弁護人だけが姿を見せなかった。異例のドタキャンに検察側は「7人の遺族の方々が傍聴している。裁判を遅らせる目的なのは明らか」と主張。検察側だけの弁論で結審するよう求めたが、最高裁は認めなかった。浜田邦夫裁判長は「何ら正当な理由がない不出頭は極めて遺憾」と異例の見解を表明。4月18日にあらためて弁論期日を指定した。刑事訴訟法は、3年を超える懲役、禁固刑にあたる事件の公判を弁護人なしで開くことができない、と規定されている。 最高裁第三小法廷は、意図的な審理遅延行為を防ぐために改正刑事訴訟法に新設された「出頭在廷命令」を、15日付で2人に出した。出頭在廷命令は、裁判員制度での審理遅延を防ぐ目的から、2005年11月施行の改正刑事訴訟法で新設された規定で、適用されたのは全裁判所で初めて。弁護人が命令に従わない場合、裁判所は、10万円以下の過料と開廷費用の賠償を命じることができ、その場合、弁護士会に懲戒などの処分も請求しなければならない。 2006年4月18日の口頭弁論で、検察側は、「犯行は冷酷残虐。反省も全くうかがえず、被告の年齢などを考慮しても死刑の適用を回避すべき事情はない」と述べた。弁護側は弁論で、「被告の行為は傷害致死罪および死体損壊罪にとどまるもので殺意はなく、検察官の上告は前提事実に誤りがある」などと主張。その上で、(1)検察側の上告棄却(2)事実誤認がある二審判決の破棄、差し戻し(3)弁論の続行−の三点を求めたが、浜田裁判長はこれを認めず、結審した。しかし、1ヶ月以内に書面を提出すれば内容を検討するとした。5月18日、弁護側は上野正彦・元東京都監察医務院長による鑑定書や、被告が遺族にあてた謝罪の手紙を添えた弁論要旨補充書を最高裁第三小法廷に提出した。 5月20日、最高裁第三小法廷は死刑を求めた検察側の上告を認め、広島高裁の無期懲役判決を破棄し、審理を高裁に差し戻した。判決は、「計画性のなさや少年だったことを理由に死刑を回避した二審判決の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」と述べた。 浜田裁判長は、「何ら落ち度のない2人の命を踏みにじった犯行は冷酷、残虐で、発覚を遅らせようとするなど犯行後の情状も良くない。罪責は誠に重大で、特に考慮すべき事情がない限り死刑を選択するほかない」と指摘。その上で、死刑回避のために考慮すべき事情があるかどうかを検討した。 判決は、犯行の計画性について「事前に殺害までは予定していなかった」と認めたが、「主婦に乱暴する手段として殺害を決意したもので、殺害は偶発的とはいえず、計画性がないことを特に有利な事情と評価できない」と述べた。 また、二審判決が犯行時に18歳1ヶ月の少年で更生の可能性があることを死刑回避の理由とした点について、「被告の言動、態度を見る限り、罪の深刻さと向き合っているとは認められず、犯罪的傾向も軽視できない」と指摘。「少年だったことは死刑選択の判断に当たり相応の考慮を払うべきだが、犯行態様や遺族の被害感情などと対比する上で、考慮すべき一事情にとどまる」とした。 また、遺体の状況から「殺意がなかった」とする弁護側主張についても「一、二審の認定は揺るぎなく認められる」と退けた。 差し戻し審で、被告側には22人の弁護士が着いた(後に1人解任されている)。 2007年5月24日の差し戻し審初公判で、弁護側は殺意や強姦目的はなく、傷害致死罪に当たると主張した。弁護側は独自に行った法医鑑定から殺意を否定。「女性については、騒がれたため口をふさいだら誤って首を押さえ続け窒息死させた。長女については、泣きやまないので首にひもをまいて、蝶々結びにしたら、死んでしまった」などと傷害致死罪を主張。強姦目的についても「被害者に中学1年の時に自殺した母親を重ね、甘える思いで抱きついたら、予想外の抵抗を受けパニック状態に陥った」などと新たな主張を展開した。さらに、弁護側は独自実施の精神鑑定と心理鑑定から、犯行時の精神年齢を12歳程度だったとし、当時の心理状況を「幼少期からの父の虐待と中1時に母親を自殺で亡くしたストレスなどで、幼児化した状態」と説明、女性の殺害については「母に対する人恋しさに起因する母胎回帰」と論じた。検察側が「美人の主婦を物色した」と主張する、元少年が会社の作業服を着てアパートを戸別に回った行為を、「会社を欠勤した罪悪感をまぎらわすための仕事のまねごと、つまりママゴト」と弁護側は表現した。 検察側は「社会に及ぼした影響は深甚で、一般予防の見地から格段の厳罰に処する必要がある。被告は現在に至っても真摯な反省もうかがえず、矯正可能性があるとの判断は根拠に欠ける」などと訴えた。 6月26日〜28日の集中審理で弁護側の被告人質問があり、元少年は「赤ちゃんを抱くお母さんに甘えたいという衝動に駆られた。背後から抱きついたが、性的なものは期待していなかった」などと述べ、殺意や強姦目的を否認した。また長女殺害については「事件当初は赤ちゃんの首にひもを巻いたこと、蝶々結びにしたことすら分からない状態だった。取り調べの際、ひもを提示されて、蝶々結びにしたことなどを知らされた」などと述べた。また、「長女を押し入れの天袋に入れた」と話し、理由について「押し入れはドラえもんの何でも願いをかなえてくれる四次元ポケットで、ドラえもんが何とかしてくれると思った」と説明。更に、死亡した女性を姦淫したことについて「生き返ってほしいという思いだった。(以前に読んだ本を通じて)精子を女性の中に入れて復活の儀式ができるという考えがあった」と述べた。 弁護側の依頼で元少年の犯罪心理鑑定をした日本福祉大の加藤幸雄教授の証人尋問では、「自我が低下した中で、女性に優しく接してもらい、亡き母のように甘えさせてくれるはずだという強い思いこみが(元少年に)生じた」と分析。一方、動かなくなった女性の体を触ったことについては「母に対する依存感情が性的願望として大きくなっていくことはあり得るので、性的感情が全くなかったという元少年の主張は必ずしも適切ではない」と述べた。この他、一審前の少年鑑別所の記録で「退行した精神状況だった」などと、今回の鑑定と類似した結果が出ていたことも指摘した。 7月24日〜26日の集中審理における弁護側の被告人質問で、元少年は現場のアパートに向かった理由について「多くの人と話をしてぬくもりが欲しかった」などと述べ、改めて強姦目的を否認。「部屋に入るつもりはなかった」とも供述した。排水検査を装ってアパートを戸別訪問した理由について、元少年は「直前の昼休みの時間に(自宅で)父と再婚した義母に抱きついて甘えていたが、『仕事に遅れる』と言われて寂しかった。人と会話して寂しさを紛らわしたかった」と供述。作業服を着て排水検査員になりすました点については「作業服を身にまとうことで、会話ができやすくなるかもしれないという期待があった。ロールプレーイングゲームのように会話を交わし、次のステージに行くという感覚」と話した。その後、女性に「作業をやって下さい」とトイレに案内されたが、室内に入ったことについても「実際の作業はできないので、想定外の出来事」と説明。強姦目的ではなかったかと聞かれ、「違います」と答えた。 弁護側が請求した日本医科大大学院の大野曜吉教授が証人尋問で、女性の殺害方法について「(検察側が主張するような)首の損傷は見られない」と証言し、絞殺を否定した。長女を床にたたきつけたとする検察側の主張について、鑑定人は、遺体の損傷から否定。ひもで首を絞めたとされる点も「痕跡がない」と指摘した。また同じく弁護側が請求した上野正彦・元東京都監察医務院長は証人尋問で「口をふさごうと右手で押さえていたら、ずれて首を押さえたと考えられる」と弁護側の主張を肯定。検察側が主張する「両手の親指で圧迫した」痕跡はないと説明した。 弁護側の依頼で元少年の精神鑑定をした野田正彰・関西学院大教授の証人尋問では、「人格発達は極めて遅れており、他の18歳と同様の責任を問うのは難しい」と述べた。野田教授は、元少年の父親が妻と元少年に繰り返し暴力を振るっていたことが、元少年の内面に大きな影響を与えたと指摘。その上で「事件当時までの人格発達は極めて遅れており、更に母親の自殺で停滞した」と述べた。 9月18日〜20日の集中審理で、元少年は、一、二審で認めた起訴事実を差し戻し審で否認した理由について、「当初否認していたが、検察官に『否認していると死刑の公算が高まる』と言われ、調書に署名した」と供述した。被告人質問で、元少年は強姦の意図を「逮捕当初から否認していたが、検察官から『否認していると死刑の公算が高まる。生きて償いなさい』と言われ、涙を流して調書に署名した。なのに一審で死刑を求刑され裏切られたと思った」と話した。当初担当した弁護士に、全調書に署名したと伝えると「検察側の主張をのんで無期懲役を維持した方がよい」と助言を受けたとも述べた。 差し戻し前の控訴審で取り上げられた友人への手紙で、「7年でひょっこり芽を出す」と書いたことに関しては「差し入れの本に、無期懲役の場合は少年なら7年で仮釈放されると書かれてあった」と説明。犯行を犬の交尾に例えたとされる内容についても「当時、自分が鬼畜のように言われていたから、自分を犬に例えた」とした。 検察側の依頼で遺体の法医鑑定をした川崎医療福祉大学の石津日出雄教授の証人尋問で、石津教授は、元少年が右手の逆手で首を絞めたとする弁護側主張について、「逆手だと力が入らず、簡単に払いのけられ、現実的にはあり得ない」と否定した。石津教授は、長女については、弁護側が頭にあった皮下出血は打撲程度で、たたきつけるなどはしていないと主張している点について、「乳児の頭の骨は、衝撃を吸収して骨折は起こりにくい」と話した。 意見陳述で、初めて法廷に立った女性の母は「娘はやっと自分の幸せを見つけることができた。孫を抱く笑顔が忘れられない。それを一瞬で壊された」と声を詰まらせ、死刑を求めた。続いて遺族の夫である男性は「心の底から真実を話していると思えない。君の犯した罪は万死に値する。自らの命をもって罪を償わなければならない」と改めて死刑判決を求めた。男性は「(一、二審で)起訴事実を認め、反省していると情状酌量を求めていたが、すべてうそだと思っていいのか。ここでの発言が真実だとすれば君に絶望する。この罪に対し、生涯反省できないと思うからだ」と述べた。 意見陳述を受けての被告人質問で、元少年は「事件と向き合うことができず、(真実を)言えなかった。(今法廷で)述べたことは真実です」と述べた。そのうえで、「亡くなった2人のことを考えると、生きたいとは言えません。よければ生かしていただきたい」と述べた。生きて何をしたいのかと問われ、「拘置所で男性に会いたい。謝りたい。会えるような自分を目指したい。法廷では、男性の中に作っているモンスターを見てるから、僕自身を見てほしい」と訴えた。 一方で法廷内の仕草についてまで厳しく問いつめた検察官に「なめないでいただきたい」と言い返し、反感をあらわにした。 10月18日の検察最終弁論で、検察側は「被告の弁解は言い逃れで、死刑を回避する理由はない」などとして改めて死刑を求めた。 検察側は差し戻し審での元少年の新たな供述について、「弁護側の法医・精神鑑定に合わせ、供述を変遷させたのは明らか」などと不合理さを指摘。女性の殺害方法に関し元少年が「抵抗されたので右手の逆手で押さえようとしたら、首を絞めてしまっていた」などと殺意を否定した点については、「5分以上素手で圧迫し続け、殺意は明らか」とした上で、検察側の法医鑑定を基に「右手の逆手では力が入らず、現実的にあり得ない。遺体の所見とも一致しない」と反論した。 強姦の計画性については、「女性に抱きついたのは、実母の姿と重なって見えて甘えたかった。姦淫は生き返らせるため」とする弁護側の主張に対し、「唐突に言い出したもので、明らかに荒唐無稽のこじつけ」と主張。一方、検察側が「床にたたきつけられた」としている長女の脳に障害が残っていなかった点については、「障害が残る前に絞殺された」とした。 12月4日の最終弁論で、弁護側は、殺意や乱暴目的を改めて否定したうえで、「精神的に極めて幼い少年が起こした偶発的な事件。生きる道しるべを指し示す判決を」と訴え、死刑回避を求めた。弁護側は差し戻し審で行った独自の精神、法医鑑定などに基づき、2人への殺害状況などについて、一、二審は事実誤認があったと強調。「少年特有の未成熟さから、捜査官により事実をねじ曲げた調書が作られ、一・二審と最高裁の判決は問題点の検証を怠って正義に反する事実誤認をした」と主張。実母に甘えたいような感情を持ち、女性に抱きつき、反撃されたために無我夢中で押さえつけ、誤って窒息死させてしまったとして殺意を否定。長女についても殺意を否定し、「殺意も乱暴目的もなく、傷害致死罪に過ぎない」と主張した。さらに、元会社員の家庭環境にも触れ、父親の虐待や中学時代の実母の自殺が影響し、元会社員が精神的に未成熟だったために起きた事件で、計画的犯行ではないとし、「犯行当時、18歳1ヶか月で成人同様の責任を負わせることはできない」と述べ、「未熟な少年による事件であることを考慮し量刑を決めるべきだ」と訴えた。元会社員の更生の可能性については、教誨も受けるなど反省は以前より深まっているとした。 判決で楢崎裁判長は主文の言い渡しを後回しにし、判決理由の朗読から始めた。まず、新弁護団がついた上告審の途中から、元少年側が殺意や強姦目的の否認を始めた経緯を検討。「弁護人から捜査段階の調書を差し入れられ、『初めて真実と異なることが記載されているのに気づいた』とするが、ありえない」「当初の弁護人とは296回も接見しながら否認せず、起訴から6年半もたって新弁護団に真実を話し始めたというのはあまりにも不自然で到底納得できない」と述べた。 また、元少年側が「被害女性の首を両手で絞めて殺害した」との認定は遺体の鑑定と矛盾し、実際は右手の逆手で押さえつけて過って死亡させたものだとした主張を退け、「そのように首を絞めた場合、窒息死させるほど強い力で圧迫し続けるのは困難であり、遺体の所見とも整合しない」と判断した。また、「右手で首を押さえていたことを『(元少年が)感触さえ覚えていない』というのは不自然。到底信用できない」とした。長女殺害についても、首にひもを巻いて窒息死させたとの認定にも誤りはないとし、「(元少年の)供述は信用できない」と否定した。 さらに、被害女性に母を重ねて抱きついたとする元少年側の「母胎回帰ストーリー」を「犯行とあまりにもかけ離れている」と否定。「性欲を満たすため犯行に及んだと推認するのが合理的だ」と述べた。元少年が強姦行為について「女性を生き返らせるため」としたことについて、「荒唐無稽な発想であり、死体を前にしてこのようなことを思いつくとは疑わしい」と退けた。 事件時、18歳30日だった年齢についても「死刑を回避すべきだという弁護人の主張には賛同し難い」とした。また、元少年の差し戻し審での新供述を「虚偽の弁解をろうしたことは改善更生の可能性を大きく減殺した」と批判。「熱心な弁護をきっかけにせっかく芽生えた反省の気持ちが薄らいだとも考えられる」とした。 そして楢崎裁判長は「犯行は冷酷残虐で非人間的と言わざるを得ない。殺害の計画性や強姦の強固な意思があったとは言えないが、死刑を回避するに足る特段の事情は認められない」「身勝手かつ、自己中心的で、(被害者の)人格を無視した卑劣な犯行」と述べ、一審の事実認定に誤りはないが、量刑は軽すぎると判断した。 | |
本事件では被害者の夫である会社員は、積極的にマスコミに登場し、事件や裁判について積極的に意見を述べた。また、犯罪被害者遺族が司法から疎外されていると訴え、他の人たちと犯罪被害者の会(現全国犯罪被害者の会)を2000年12月に設立し、各地で講演を行っている。被害者の権利を保障した犯罪被害者基本法が2005年4月に施行される原動力となった。 最高裁から弁護人に就任した安田好弘弁護士と足立修一弁護士の2名は、3月14日の最高裁弁論を欠席したことについて、テレビをはじめとするマスコミからバッシングを受けた。 被害者の夫である男性は、安田弁護士、足立弁護士への懲戒請求を2006年3月15日に提出。2007年1月19日、第2東京弁護士会の綱紀委員会で初めて請求理由の説明を行った。請求から10ヶ月を経て行われた事情聴取で、男性は「弁論欠席で遺族を苦しめただけでなく、国民の司法に対する信頼を失墜させた」などと述べた。 広島弁護士会は3月30日付で、同弁護士会の綱紀委員会が、「弁論欠席は被告のために最善の弁護活動を尽くす目的だったと認められ、不当な裁判遅延行為とは言えない」とした議決を受け、同会が決定した。広島弁護士会の決定は、「公判期日の延期を見込んで、批判覚悟で、あえて弁論に欠席した動機は、死刑か無期懲役かという究極の局面にある被告の弁護活動を尽くすためだったと認められる」と指摘した。 12月20日付で第2東京弁護士会の綱紀委員会は「模擬裁判のリハーサルと重なることを欠席の理由の一つにしたのは妥当ではなかった」としながらも、「被告の権利を守るため、やむを得ず欠席したもので、引き延ばしなどの不当な目的はなかった」と議決。これを受け、同弁護士会は懲戒せずの決定を下した。遺族側は日弁連に異議申し立てしたが、2008年3月24日付で棄却された。 2007年5月、橋下徹弁護士(その後大阪府知事)がテレビの番組で、「(弁護団を)許せないと思うのなら、弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけたことから、差し戻し審の弁護団に対する懲戒請求が急増し、約8000件に達した(橋下氏は提出していない)。東京、仙台、大阪、広島の各弁護士会はいずれも請求を却下した。 この件に関し、弁護士業務を妨害したとして、今枝仁弁護士ら弁護団のメンバー4人が橋下徹弁護士に1人当たり300万円の損害賠償を求めて提訴した。 2008年4月、放送倫理・番組向上機構(BPO)が、弁護団に批判的なテレビ番組を「一方的、感情的な放送」と指摘し、疑問を投げ掛けた。 |
小林竜司 | |
21歳 | |
2006年6月19日〜20日 | |
殺人、強盗、監禁、暴力行為等処罰法違反(集団暴行)、傷害他 | |
東大阪大生リンチ殺人事件 | |
東大阪大学4年の男子学生Fさん(当時21)は、同じ大学サークル内にいた東大阪大学の女性(当時18)と交際していたが、同じサークルにいた東大阪大短期大学の卒業生でアルバイト従業員徳満優多被告(当時21)が女性に携帯メールを送ったことを知り激怒。相談を受けた無職Iさん(当時21)は仲間2人とともに徳満被告から金を脅し取ろうと計画。 2006年6月16日夜、Fさん、Iさん、男性会社員(当時21)、同大3年の男子学生(当時20)の4人は、徳満被告、同じサークルにいる東大阪大3年の佐藤勇樹被告(当時21)を東大阪市の公園に呼び出し、顔などを殴って打撲の怪我を負わせた後、約1時間に渡り車内に監禁。Iさんは実在する暴力団の名前を出し、女性トラブルの慰謝料の名目で、計40万円を要求するなどした。 佐藤被告は事件後、中学校時代の同級生だった岡山県玉野市の無職小林竜司被告(当時21)に電話で相談。小林被告は同じく同級生であった大阪府立大3年の廣畑智規被告(当時21)に相談するよう指示した。相談に乗った廣畑被告は仕返し方法を計画。17日、佐藤被告らは大阪府警に恐喝容疑などで被害届を提出した。また小林被告は、同県内の風俗店で働いていた際の知り合いで岡山市に住むも都暴力団員で無職岡田浩次被告(当時31)に電話で対応を相談した。岡田被告は相談に対し、「相手を拉致し、暴行して金を取ってやれ」と指示。さらに、山口組関係者と称していたというIさんに関しては「ヤミ金融や消費者金融で借金漬けにしてやるから、連れてこい」と命じた。 18日、廣畑被告は大阪府に住む大阪商業大4年の白銀資大被告(当時22)、佐藤被告、無職佐山大志被告(当時21)をつれ、岡山県に行き、小林被告、小林被告の元アルバイト先の後輩だった岡山県玉野市の少年(当時16)と合流。廣畑被告はここで、男子学生らへのリンチ計画を明かし、それぞれの役割を決めた。小林被告には凶器を準備するよう指示し、少年が特殊警棒などを事前に購入していた。 ただしこのときは、殺人までは計画していなかった。同日、小林被告の指示で後輩少年被告が仲間として、玉野市の派遣社員の少年(当時16)とアルバイトの少年(当時17)を連れてきた。 18日夜、佐藤被告、徳満被告は「被害届を取り下げる」「神戸で慰謝料を払う」という口実で男性会社員の車にFさん、Iさんとともに同乗。途中で「岡山なら払える」と偽り、岡山市に誘い出した。 19日午前3時過ぎ、山陽自動車道岡山インターチェンジで、待ち伏せしていた小林被告は仲間と一緒にFさん、Iさん、男性会社員の3人を取り囲み、仲間と交代で特殊警棒やゴルフクラブなどで殴るなどの暴行を加えた。このとき、携帯電話と現金約98000円を奪った。Iさんが「知り合いのやくざを呼ぶぞ」という言葉に小林被告らが激怒。さらに岡山県玉野市内の公園に場所を移し、執拗に暴行を続けた。現場で直接、暴行したのは小林、佐藤、徳満各被告と後輩少年被告であり、廣畑被告は指示役、他の被告は見張りなどをしていた。Fさんがぐったりしたため「やりすぎた」と後悔したが、警察への発覚を恐れ殺害を決意。そして小林被告が以前働いたことのある岡山市内の資材置き場に移動した。午前4時50分ごろ、Fさんを資材置場で生き埋めにし、窒息死させた。このとき、小林被告が自らパワーショベルを操作して穴を掘り、小林、佐藤、徳満各被告と後輩少年被告がコンクリート片や石を投げつけた上、小林被告が後輩少年に重機で土をかぶせるよう指示。少年がショベル部分で何度も地面をたたいて土を固めた。パワーショベルは、小林被告と少年が以前働いていた解体会社の持ち物で、小林被告の指示で少年が事前に鍵を持ち出していた。廣畑被告は白銀被告、佐山被告に、資材置き場の入り口付近とふもとの道路で人の出入りや車の通行などの見張りをするよう指示。少年2人や佐藤被告と徳満被告にも、Fさんや一緒に拉致した男性会社員、車のトランクで監禁したIさんが逃げ出さないように監視を指示した。 その後、男性会社員は最初の暴行に余り関与していないと佐藤被告やFさん、Iさんが話したことで解放した。男性会社員は廣畑被告、白銀被告をマイカーに乗せて大阪に戻り、19日朝、2人を降ろして解放された。「途中、廣畑被告に口止めされた」と証言している。また佐藤被告らも帰った。 小林被告と後輩少年被告は廣畑被告にIさんを連れていくことを伝え、了承を得た。小林被告は、Iさんを車のトランクに入れ、自宅マンションに連れ帰ったが、歩行困難なほど衰弱していたため、改めて岡田被告に電話で相談。岡田被告は「それでは金を取れないから、連れて来なくていい」と言ったうえで、「事件を知られた以上、警察に通報されるので、帰さずに処分するしかないだろう」と、暗に殺害するようほのめかした。小林被告は廣畑被告、白銀被告に電話で処置を相談。2被告は「埋めたらいい」と殺害を了承した。小林被告は後輩少年被告とともに20日未明、資材置き場に戻り、パワーショベルで掘った穴にIさんを生き埋めにして窒息死させた。 翌日の21日、廣畑被告は小林、佐藤、徳満、佐山各被告らと岡山県内で会い、「小林と後輩の少年の2人でやったことにしよう」と口裏合わせをした。また小林被告は、暴行後に解放した男性会社員に電話で脅し数10万円を要求した。 22日、解放された男性会社員が大阪府警に届け出たことから事件が発覚した。 24日、佐藤、徳満、佐山各被告が岡山県警に出頭、逮捕された。 25日、小林被告が同県警に出頭、逮捕された。 26日、小林被告の元アルバイト先の後輩の無職少年が同県警に出頭、逮捕された。 27日、資材置場から2遺体が発見された。また別の少年2人が同県警に出頭、逮捕された。逮捕された。 28日、大阪府立大3年の廣畑智規被告(当時21)、大阪商業大4年の白銀資大被告(当時22)が逮捕された。 8月10日、大阪、岡山両府県警合同捜査本部は岡田浩次被告を逮捕した。 徳満被告、佐山被告は東大阪大短期大学部の卒業生で、佐藤勇樹被告と同じサッカーサークル内にいた。廣畑、白銀、小林、佐藤各被告は中学時代の同級生。廣畑、白銀、佐藤の3被告は小学時代、同じサッカー少年団のチームメートでもあった。 | |
2007年5月22日 大阪地裁 和田真裁判長 死刑判決 | |
2008年5月20日 大阪高裁 若原正樹裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
公判前整理手続きを採用。弁護側は精神鑑定を求めたが、後に却下されている。 2007年1月23日の初公判で、小林被告は被害者から財布を奪ったことについて強盗目的ではなかったとしたが、殺人や監禁などについては起訴事実を全面的に認めた。弁護側は「Fさん殺害を持ちかけたのは廣畑被告で、小林被告が明確に殺意を抱いたのは、資材置き場でパワーショベルのかぎを見つけた時点」と主張した。 3月27日の論告求刑で、検察側は小林被告が事件を主導したとし「人間の所業とは思えない。更生の可能性は乏しく、年齢は若いが極刑で臨むほかない」と主張。同日の最終弁論で弁護側は「責任は重いが、反省を深めており更生は期待できる」として死刑回避を求めていた。被害者2人の両親ら遺族も意見陳述し、「全員を死刑にしてほしい」などと述べた。 判決理由で和田裁判長は「犯行を主導し、集団で暴行を加えたうえ、生き埋めという冷酷かつ残虐な方法で2人の前途ある若者の命を奪った。まれに見る凶悪な犯行で、被害者を物のように扱い生きたまま土中に埋めたのは、人として絶対に許されない行為。人間としての優しさが欠如していると言われても仕方ない」と断罪。「2人の若い命を奪った結果は重大で、犯行に至る経過や態様もむごすぎる」「これ以上残忍な殺し方がないという冷酷で凶悪な犯行。反省しており更生の可能性も認められるが、極刑は免れない」「共犯者の中でも責任は特に重く、極刑を選択するほかない」と述べた。 小林被告は公判で、殺人罪については認め、「金品を強取するつもりはなかった」と強盗罪のみ否認していた。和田裁判長は強盗罪の成立も認定したうえで、「一方的に激しい暴行を加えるなど粗暴性が如実だ」などと小林被告を指弾した。 被告側は量刑不当を理由に控訴した。 2008年1月22日の控訴審初公判で、被告側は控訴趣意書で「犯行当時は人格が未熟で集団心理に支配されていた。犯行当時21歳と若く、更生は十分可能。死刑を科すのは誤り」と死刑の回避を訴えた。検察側は控訴棄却を求めた。 以後も一審の認定事実について争いはなく、弁護側は「多数の共犯者に後押しされる集団心理に支配された犯行。拘置所で写経するなど内省を深めており、命を絶つのは酷」と死刑回避を訴えた。 判決で若原裁判長は、「前途ある若者2人の命が奪われた結果は重大。用意周到に計画されたわけではないが、偶発的ともいえず、逮捕を恐れるなど、自己保身のための冷徹な犯行」と指摘。さらに、被告側が「遺族に謝罪の手紙を書き、冥福を祈って写経も続けるなど反省を深めている」として死刑回避を訴えたことについて、「犯行当時21歳で、更生の可能性は否定できない」としつつも、「残虐非道で人間性を欠く冷酷な犯行。犯行の態様や結果の重大さに照らすと、死刑が重すぎて不当とはいえない」と断じた。 | |
殺害されたFさん、Iさん、解放された男性会社員、知人大学生は、佐藤勇樹被告らに慰謝料名目で金を要求したなどとして、恐喝や監禁などの疑いで、2006年9月15日、書類送検されている。 2006年8月8日、少年2人は殺人の非行事実で家裁送致された。 後輩少年被告は、2007年5月11日、大阪地裁(宮崎英一裁判長)で懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡された。2008年1月23日、大阪高裁(森岡安広裁判長)で被告側控訴棄却。そのまま確定。 徳満優多被告、佐藤勇樹被告は2007年5月31日、大阪地裁(和田真裁判長)でともに懲役9年(求刑懲役18年)が、佐山大志被告には懲役7年(求刑懲役15年)が言い渡された。判決では、殺意を認めたものの、関与は従属的だったとした。2008年4月15日、大阪高裁(古川博裁判長)は徳満被告の一審判決を破棄、「自ら犯した罪を反省する真摯な態度が見受けられない」として懲役11年を言い渡した(検察・被告側控訴)。また佐藤被告に対する検察・被告側控訴を棄却、佐山被告に対する検察側控訴を棄却した。2被告の一審判決も「軽すぎる」と指摘したが、判決後の遺族への謝罪や慰謝料支払いなどの情状酌量を認め、一審判決を支持した。佐藤被告、佐山被告はそのまま確定。徳満被告は上告した。2008年9月16日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は徳満被告の上告を棄却した。二審懲役11年判決が確定した。 岡田浩次被告は2007年6月1日、大阪地裁(水島和男裁判長)で懲役17年(求刑懲役20年)が言い渡された。控訴審判決日不明。2009年3月17日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は被告側の上告を棄却し、一審判決が確定した。 廣畑智規被告は2007年10月2日、大阪地裁(和田真裁判長)で求刑通り無期懲役が言い渡された。2009年3月26日、大阪高裁(小倉正三裁判長)で被告側控訴棄却。2009年10月27日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)で被告側上告棄却、確定。 白銀資大被告は2007年10月2日、大阪地裁(和田真裁判長)で懲役20年(求刑懲役25年)が言い渡された。2009年3月26日、大阪高裁(小倉正三裁判長)で一審破棄、懲役18年判決。白銀被告が一審判決後、遺族に計450万円の被害弁償をしたとして減軽した。弁護側によると、白銀被告は両親の援助で2人の遺族に1200万円ずつ支払い、受け取りを了承した1遺族には月額2万円の支払いを続けているという。2009年10月27日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)で被告側上告棄却、確定。 |
兼岩幸男 | |
44歳(2003年7月16日の逮捕当時) | |
1999年8月15日/2003年5月25日 | |
殺人、死体損壊、死体遺棄 | |
交際2女性バラバラ殺人事件 | |
すしチェーン店職員の兼岩幸男被告は1999年8月15日、愛知県蟹江町のアパートに住んでいる、同じ店で働いていたパート店員の女性(当時43)の部屋で、女性の首を手で絞めて殺害した。兼岩被告は部屋の浴室で女性の遺体をカッターナイフなどで切断。ポリ袋に入れて頭部を愛知県小牧市の焼却炉に、胴体と両脚を名古屋市中川区の河川敷近くの草むらに捨てた。見つかっていない両手首は同市中川区のアパートのごみ捨て場に捨てたという。 女性は1988年に損害保険の仕事を通して兼岩被告と知り合い、当時の夫と別居後も交際を続けていた。兼岩被告は「生活苦で借金を返せずなじられた」と供述している。 遺体は1999年8月、小牧市の造園業者の焼却炉の中から、女性の頭部が燃えて白骨化した状態で見つかり、愛知県警が死体損壊・遺棄容疑で捜査したが、身元は分かっていなかった。女性は1999年、家族が警察に捜索願を出していた。死体損壊・遺棄容疑については時効が成立している。 当時名古屋市の焼肉チェーン店部長だった兼岩幸男被告は、愛知県一宮市に住む女性と2002年3月から交際し、9月に一宮市にて共同で清掃管理会社を設立。女性が社長となり、兼岩被告が実質的に経営した。しかし兼岩被告は女性から結婚を迫られたため疎ましくなり、犯行を決意。 2003年5月25日午前1時半頃、女性(当時49)方で、女性の首を手で絞めて窒息死させた。その後、女性方の浴室で、工作用カッターナイフを使って女性の遺体を切断した。さらに黒いごみ袋に入れ、26日未明に岐阜県柳津町の境川に捨てた。 兼岩被告は一宮市の事件で2003年7月16日、死体損壊・遺棄容疑で逮捕。後に殺人で再逮捕された。一宮市の事件の初公判後、1999年の事件を自供した。 | |
2007年2月23日 岐阜地裁 土屋哲夫裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2008年9月12日 名古屋高裁 片山俊雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
被告は2003年10月の初公判で一宮市における殺人事件の起訴事実を全面的に認めている。しかし2004年11月8日の公判で1999年の事件の殺人を否認、死体遺棄は認めた。12月13日の公判で、女性は自殺していたと主張した。さらに「警察官による自白の強要など黙秘権の侵害があった」と訴えた。 弁護側は2006年3月24日の公判で、情状鑑定の実施を申請したが、岐阜地裁は却下した。 検察側は「二人の殺害は確定的殺意に基づく計画的かつ残虐な犯行」「執拗かつ残虐な犯行で反省の態度も認められない」と断じた。 最終弁論で弁護側は、「パート従業員は自殺。事前に殺害や遺体の解体、遺棄を計画したこともない」と改めて無罪を主張した。共同経営者殺害については「衝動的、突発的犯行で、犯罪の発覚を恐れて慌てて遺体を処理した」と計画性を否定した。 兼岩被告は最終意見陳述で「いかなる事情があっても、人をあやめたり自殺をさせたりする状況になってしまったことについて釈明はない」と述べた。 土屋裁判長は「短絡的、自己中心的で身勝手な犯行で、情状酌量の余地はない」「確定的殺意に基づく残酷かつ冷酷な犯行。社会に与えた影響は大きく、極刑をもって償うしかない」と述べた。被告側の自殺主張に対しては、「遺体を切断して遺棄し、誰にも言わないことが、自らの行為を隠ぺいするためであるのは社会通念上明らか。捜査は供述を強制するものではなく、信用性に疑いを生じさせない」と起訴事実を認定した。また「黙秘権の告知も受けず、警察官に自白を強要された」として争っていた捜査手法については、「黙秘権の告知がなくても任意性に問題はない」とした。 2008年2月20日の控訴審初公判で、弁護側は、被害者の女性のうち1人は自殺で、犯行時間などから被告に殺害は無理だったなどとして「一審判決は事実誤認」と主張、量刑も不当と訴えた。検察側は控訴棄却を求めた。 7月9日の弁論で、弁護側は1人目の殺害時間について、「認定があいまいで、殺害に合理的疑いがある。自殺をうかがわせる客観的証拠もある」と主張。2人目の殺害も「相手が包丁に手をかけたので、やむなく首を絞めた。正当防衛か過剰防衛だ」「被害者は包丁を持ったまま体当たりしており、殺害行為を招いた落ち度があった」と訴えた。また取り調べの違法性を指摘し、「自白の証拠能力は認められない」と述べた。 一方、検察側は自殺だったとする供述に、「自然な供述変遷ではない。罪を免れるための虚偽」と反論。2人目の殺害も、「包丁を持っていたとは控訴審まで言わなかった。卑劣、狡猾で、更生の可能性はない」と主張した。「刑事責任を免れるために虚偽の供述を繰り返しており、一審の時よりも反省心が欠如した」と控訴棄却を訴えた。 片山裁判長は判決理由で「3年9カ月の時を経て1度ならず2度までも交際中の女性を殺害しており、自己保身のためには手段を選ばず、他人の生命を軽く見る態度が顕著。社会にとって極めて危険な犯罪的傾向を有している」と指摘した。そして「遺体の損壊にまで及ぶなど、その態様は確定的殺意に基づき冷酷かつ残忍」と述べた。2003年の事件における正当防衛主張に対して片山裁判長は「重要な事柄を控訴審でようやく主張し始めること自体不自然極まりない」と退け、捜査段階の自白調書も「任意性が認められる」とした。被告側の無罪主張に対しては、信用できないと退けた。 | |
兼岩被告は2006年8月22日に同地裁で開かれた公判で、警察官による自白の強要など黙秘権の侵害があったほか、真実を求めて3月24日に申請した情状鑑定を却下されたと主張。「裁判は推定有罪で進んでいる」として忌避を申し立てたが、土屋裁判長は「訴訟の遅延が目的」として簡易却下した。さらに名古屋高裁へも即時抗告しているが、こちらも却下されている。 |
浜崎勝次 | |
56歳 | |
2005年4月25日 | |
殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反 | |
市原市ファミレス組員2人射殺事件 | |
元暴力団組員浜崎勝次被告は暴力団組員宮城吉英被告、暴力団幹部の男性(4月27日?に拳銃自殺 享年61)と共謀。2005年4月25日午後8時55分ごろ、千葉県市原市のファミリーレストラン内で、職業不詳・市原市の男性(当時45)と埼玉県草加市に住む建築業者の男性(当時39)を拳銃で数発撃ち7発命中させて殺害した。 宮城被告らと殺害された2人はいずれも暴力団関係者で、2004年4月に宮城被告が起こした傷害事件の慰謝料支払いを巡り、殺害された男性が所属する暴力団から金銭を要求されており、要求に屈すればヤクザとしてのメンツがつぶれると思ったのが動機とされる。宮城被告は5月25日に逮捕された。 浜崎勝次被告は逃亡を続けていたが、2007年3月8日、水戸市内のコンビニ駐車場にいるところを見つかり、逮捕された。 | |
2007年10月26日 千葉地裁 古田浩裁判長 死刑判決 | |
2008年9月26日 東京高裁 安広文夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2007年7月13日の初公判で、浜崎被告は起訴事実を認めている。 8月10日の論告求刑で、検察側は「一般客のいる中で行われた無差別な殺りく行為。酌量の余地はない」「不特定多数の一般客を死傷させる危険性が極めて高い、テロ行為とも評すべき犯行」と断罪した。 9月7日の最終弁論で、弁護側は不当な現金要求を繰り返すなど被害者側にも落ち度があるなどと主張、死刑の回避を求めた。 古田裁判長は判決で「強固な殺意に基づく残忍かつ執拗な犯行。一般市民を巻き添えにする恐れも極めて高かった」と述べた。 浜崎被告側は、起訴事実を認め、死刑は重すぎると主張した。 安広裁判長は「組のメンツを守るためという、暴力団特有の価値観に基づく身勝手かつ自己中心的な発想により引き起こされた」と指摘した。「極めて危険かつ独善的な犯行で、死刑はやむを得ない」と述べた。 | |
宮城吉英死刑囚は2009年に死刑が確定。 |
謝依俤 | |
25歳(逮捕時 2002年9月19日) | |
2002年8月31日 | |
強盗殺人、出入国管理及び難民認定法違反他 | |
品川製麺所夫婦強殺事件 | |
中国福建省出身、元解体工の謝依俤(シェ・イーディ)被告は2002年8月31日、住んでいたアパートの大家だった夫婦の製麺所兼自宅に侵入。持っていたナイフで男性(当時64)と妻(当時57)を刺殺し、現金約47000円、指輪やネックレスなど52点(約7万円相当)を奪うなどした。 謝被告は2002年春ごろから、殺害された夫婦が所有する製麺所裏のアパートに住んでいたが、家賃月18000円は滞納しがちで、先月分の家賃を支払っていなかった。8月上旬に解体工を辞めた後は職に就いていなかった。 謝被告は1999年2月ごろ、船で名古屋港に密入国。入国時に背負った借金もまだ残っていた。解体工のほか、飲食店の皿洗いなどをしていたが、長続きせず職を転々としていた。 | |
2006年10月2日 東京地裁 成川洋司裁判長 死刑判決 | |
2008年9月26日 東京高裁 須田賢裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
謝被告は「盗みをするつもりだった。誤って刺したが、殺すつもりはなかった」と強盗目的や殺意を否認している。 論告で検察側は「金銭目的で何の落ち度もない2人の命を奪った身勝手で冷酷な犯行。反省も見られず、極刑をもって臨むほかない」と述べた。 成川裁判長は「被害者と会った際、いつでも鋭利なナイフを使用できる状態で所持しており、むしろ計画的な犯行」と指摘。その上で「ナイフで息の根を止めるまで執拗に突き刺し、強固な殺意に基づく犯行だ。その凶悪さには目を覆わしめるものがある。金銭的欲望を満たすため、何ら落ち度のない2人の命を奪った。遺族が極刑を望むのも当然。前途がある年齢で反省も示しているが死刑を回避する事情とまでは認められない」「自らの金銭的な欲望を満たすため、何ら落ち度のない2人の尊い生命をちゅうちょなく奪い、身勝手極まりない動機は酌量の余地が皆無。死刑をもって臨むことはやむを得ない」と述べた。 控訴審で謝被告は、殺意はなかった、一審が重すぎると主張。 判決で須田裁判長は、謝被告が犯行後もディスコで頻繁に遊ぶなどしていた点を指摘。また「ストッキングをかぶって侵入し、直後にナイフを抜き身にした」ことから、「(2人殺害は)強固な殺意のもとに行われた。落ち度のない被害者の生命を相次いで踏みにじった冷酷で残虐な犯行。非人間的で、極刑をもって臨むほかない」と述べ、謝被告側の主張を退けた。 | |
高見沢勤 | |
50歳(2005年11月17日逮捕当時) | |
2001年11月〜2005年9月 | |
殺人、死体遺棄、窃盗、銃砲刀剣類所持等取締法違反違反(加重所持)、火薬取締法違反 | |
暴力団組長による3人殺害指揮事件 | |
指定暴力団山口組系組長高見沢勤被告は以下の3事件を起こした。
2006年1月24日、前橋地裁の初公判で、高見沢被告は死体遺棄容疑を認めた。同日、同事件で使用されたとみられる拳銃を所持した銃刀法違反容疑(加重所持)で再逮捕された。 2月14日、2005年9月の事件の殺人、銃刀法違反(発射)容疑で再逮捕された。 3月7日、2005年4月の事件の死体遺棄容疑で再逮捕された。 4月11日、2005年4月の事件の強盗殺人容疑で再逮捕された。(起訴は殺人容疑)。 6月6日、2005年4月の事件に絡み、高崎市内に住んでいた殺害男性方で拳銃1丁と密造散弾銃1丁、散弾銃用の実弾百数十発を所持するなど、県内4カ所に拳銃7丁、密造散弾銃1丁、日本刀1本と実弾三百数十発を隠し持っていた疑で再逮捕された。 11月20日、2001年11月の事件の殺人容疑で再逮捕された。死体遺棄容疑は時効が成立した。 | |
2008年2月4日 前橋地裁 久我泰博裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2008年12月12日 東京高裁 安広文夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2006年1月24日、前橋地裁の初公判で、高見沢被告は2005年9月の事件についての死体遺棄容疑を認めた(他容疑では逮捕、起訴されていない)。 2006年5月22日の公判で、高見沢被告は2005年9月の殺人罪について認否を保留。7月3日の公判でも、2005年4月の事件の殺人罪について認否を保留。このため、争点を整理する公判前整理手続きが2007年5月まで続いた。 手続き終了後の初の公判となった2007年6月11日、高見沢被告は2001年11月の事件について全面的に否認。2005年4月の事件について「他の組員ともめたため殺した。正当防衛だった」と主張。2005年9月の事件については配下幹部の単独犯行として関与を否定、死体遺棄だけを認めた。 T受刑者は自身の公判で、高見沢被告の指示を認めている。 YO受刑者、O被告は高見沢被告の公判で、高見沢被告の指示を否定している。 11月26日の論告求刑で、検察側は「犯行は冷酷かつ凶悪」「規範意識の欠如は極みに達しており、改善更生の可能性は絶無」と死刑を求刑した。 12月10日の最終弁論で弁護側は「共犯者の供述は信用性に欠く」と訴え、死体遺棄事件はいずれも偶発的で、計画的なものではないと主張。殺人行為についても正当防衛が成立するとして無罪を求めた。高見沢被告は「遺族には心から申し訳なく思う」と述べた。 2月4日の判決で、久我裁判長は「組長の立場から組員に殺害を指示したり、自ら拳銃発射行為に及んだ。いずれも組織力を活用しており、被告が責任を最も問われる立場にある」と指弾、高見沢被告の刑事責任を明確に認定した。 また被告側の無罪主張について、「共犯者の供述は信用性が高く、被告の共謀が認められる」、「積極的な加害行為の意思が認められ、正当防衛は成立しない」とそれぞれ退けた。特に、高見沢被告らが関与した保険金詐欺事件に絡み、口封じのため男性を殺害した動機について「極端に人命を軽視した身勝手な犯行」と厳しく非難した。 そして「組織力を活用しており、被告が最も責任を問われる立場にある」と指摘。「社会に与えた不安も計り知れない」「被告なくしては実行され得なかった事件で、極刑はやむ得ない」と述べた。 さらに判決言い渡し後、「これだけ証言や証拠がそろっていると有罪は免れず、死刑以外ありえない」と言及。「死にたくないと思って(関与を)否定していたのでしょうが、被害者の人たちも死にたくなかったと思います」と諭した。 控訴審で被告側は1番目と3番目の事件については組員との共謀の事実がないとして、2番目の事件については正当防衛が成立するとして、殺人については無罪を主張していた。安広文夫裁判長は「正当防衛は成立しない。配下の組員らの供述から関与は明白。死刑判決を是認せざるを得ない」と述べた。 | |
YA受刑者は2007年5月24日、殺人罪他により前橋地裁で懲役17年(求刑懲役20年)判決がそのまま確定。 O被告は2007年6月5日、殺人罪他により前橋地裁で懲役20年(求刑無期懲役)判決。控訴中。 YO受刑者は2006年6月27日、犯人隠匿罪他により前橋地裁で懲役4年6月(求刑懲役6年)判決がそのまま確定。さらに2007年5月24日、殺人罪他により前橋地裁で懲役20年(求刑無期懲役)判決がそのまま確定。 I被告は、2006年10月30日、殺人罪他により前橋地裁で懲役25年(求刑懲役30年)判決。2007年3月27日、東京高裁で被告側控訴棄却。 S(旧姓Y)被告は2006年11月14日、殺人罪他により前橋地裁で懲役24年+懲役10ヶ月(求刑無期懲役+懲役1年)判決。2007年3月1日、東京高裁にて検察・被告側控訴棄却。 T受刑者は2006年10月19日、殺人罪他により前橋地裁で懲役27年+懲役8月(求刑無期懲役+懲役1年)判決。2007年4月19日、東京高裁で一審破棄、無期懲役判決。2007年8月29日、被告側上告棄却、確定。 H被告は2006年3月13日、死体遺棄罪により前橋地裁で懲役1年8ヶ月(求刑懲役3年)判決。 NO被告は2006年8月28日、死体遺棄罪他により前橋地裁で懲役7年(求刑懲役10年)判決。 S受刑者は2006年3月27日、死体遺棄罪他により前橋地裁で懲役1年6ヶ月(求刑懲役3年)判決がそのまま確定。 NA被告は2006年7月20日、死体遺棄罪、覚せい剤取締法違反他により前橋地裁で懲役3年6月+罰金20万円(求刑懲役5年+罰金20万円)判決。 H被告は2006年7月6日、死体遺棄や覚せい剤取締法違反の罪により前橋地裁で懲役6年+罰金70万円(求刑懲役8年+罰金70万円)判決。 H被告の逃走を助けた露天商T被告は2006年4月28日、犯人陰徳の罪により懲役1年(求刑懲役1年6月)判決。 他にも犯人隠匿などで逮捕者が出ている。 |
若林一行 | |
29歳 | |
2006年7月19日 | |
強盗殺人、住居侵入、強盗強姦未遂、死体遺棄他 | |
岩手県洋野町母娘強盗殺人事件 | |
青森県八戸市の塗装業若林一行被告は2006年7月19日午後3時ごろ、盗みや乱暴目的で岩手県洋野町の会社員女性(当時52)宅に擂り粉木を持って侵入。午後5時10分ごろ、帰宅してきた女性を玄関で襲い乱暴しようとしたが、女性が激しく抵抗したため覆面が取れ、逆上。頭部を何度も殴り付け、最後には馬乗りになって首を絞めつけて殺害した。そして午後6時ごろに帰ってきた女性の二女(当時24)を和室前の廊下で頭を殴り、両手で首を絞めて殺害した。さらに室内や2人の車の中から現金22000円と、テレビゲーム機や音楽CDなど77点(約45000円相当)を奪った。さらに2人の遺体を南西約5キロの山林の雑草の中に遺棄した。 連絡が取れないのを不審に思った親類の男性が22日午後、県警久慈署署交番に届け出た。近くの住民から20日、女性方の近くで19日に不審な軽トラックを目撃したという情報が寄せられていた。捜査本部はナンバーから若林被告を割り出し24日、八戸市内にいるところを任意同行を求めた。当初は否認していたが、同日夜になって殺害をほのめかす供述を始めた。その後、観光宿泊施設近くの遺棄現場に同行させ、女性の遺体を発見した。 若林被告は殺害前日にも女性の部屋へ侵入していた。物色しながら女性の二人暮らしであることを把握し狙いをつけた。 若林被告は2005年9月に勤めていた塗装会社を辞めて独立。自営で塗装業を始めたが、ほとんど仕事がなく実質的には無職の状態だった。その一方でパチスロや釣りにのめりこみ、400万円の借金を抱え、2006年春ごろから空き巣を繰り返すようになっていた。 女性宅は事件後無人となっていたが、11月5日午前5時半頃出火し、木造2階建て約100平方メートルを全焼した。久慈署は不審火として出火原因を調べている。 | |
2007年4月24日 盛岡地裁 杉山慎治裁判長 死刑判決 | |
2009年2月3日 仙台高裁 志田洋裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
公判前整理手続きが適用され、弁護側は起訴事実を争わず、当時借金で生活に困っていた事情などを訴えた。 2007年3月5日の初公判で、若林被告は起訴事実を全面的に認めた。 3月22日の論告求刑で検察側は「仕事はしたくないが金は欲しいという動機は身勝手極まりない。落ち度のない命を一方的に奪っており、極刑に処するほかない」「自己中心的で卑劣な犯行。遺族の処罰感情も強い」として死刑を求刑した。同日の弁論で弁護側は起訴事実を認めた上で「殺すつもりはなかった」と主張した。また、若林被告が犯行前日に女性方に侵入し、女性の2人暮らしを確認した上で待ち伏せして犯行に及んだとして、計画性を指摘。相次いで帰宅した2人を殺害し、犯行の発覚を逃れようと遺体を遺棄した悪質さを強調した。 同日の弁論で弁護側は強盗の動機となった借金のきっかけに同情の余地があることや、殺害動機は目出し帽の中の顔を見られたためで「強盗の意思はあったが、殺害は計画的でない」「被告は罪を認め、死刑を覚悟するほど反省している」と述べたほか、死刑制度自体に問題があるとして無期懲役を求めた。 判決で杉山裁判長は「女性の2人暮らしであることを犯行前日に知り、金などを奪おうと帰宅を待ち伏せした。犯意は強固で執拗だ」と計画性を指摘。「パチスロなどで借金をつくり、生活費などに窮して犯行に及んだ動機に酌量の余地はない」「被害者の抵抗をまったく意に介さず、棒で強打するなどの行為を重ねており、犯行完遂に向けた意思は異様なほど強固」と述べた。杉山裁判長は「2人の恐怖、無念などは筆舌に尽くしがたく、遺体を遺棄されるなど死後も苦痛を被った。遺族の悲痛や落胆は極めて深い」と被害者感情に言及。「殺害は顔を見られたことによる突発的なものだった」とする弁護側主張を「事前に計画したものではないが、抵抗抑圧や犯行発覚防止のためだった」と退けた。 勤務先の脱税が原因となって独立して塗装業を営むに至った経緯については「若干同情すべき点がなくはない」としたが、現実逃避のためにパチスロや釣りに興じるなどして借金が膨らんでいったことや、発覚防止のために2人を殺害したことは「酌量すべき点は全くない」と断罪した。 そして最後に杉山裁判長は「死刑の適用には慎重を期さなければならないことを考慮しても、極刑をもって臨むほかはない」とし、死刑以外の選択肢はありえないことを強調した。 弁護側は公判で、死刑制度自体の問題性を主張していたが、杉山裁判長は「現行の死刑制度が憲法に違反しないことはすでに確立した判例」との見解を示した。 一審の弁護人が量刑不当と事実誤認を訴え控訴した。 2008年3月17日の控訴審初公判で、弁護側が控訴趣意書を朗読。若林被告は以前から産業廃棄物の不法投棄をしているグループと付き合いがあり、強盗殺人と強盗強姦未遂について「被告は事件発生時、産廃を山中に捨てており殺害現場にいなかった。実行犯はこのグループの可能性がある」と述べた。 一審で犯行を全面的に認めた理由を「グループにだまされたが、話せば妻子(現在は離婚)に危害が及ぶと考えた。家族を守る唯一の方法だった」と説明した。自白については、「自己の体験していないことを想像で組み立てて話した」と主張した。被害者宅への住居侵入は「キヨカワと名乗るメンバーにここはおれの家≠ニ言われて入ったので罪に当たらない」と否定。死体遺棄も「キヨカワが遺棄したとみられる」とした。 さらに、事件から約4ヶ月後に被害者宅で発生した火災も取り上げ、「このグループが証拠隠滅のため放火した可能性がある」と主張した。 検察側は、「弁護人の主張には理由がない」と控訴棄却を求めた。 被告側の照井克洋弁護士(一審弁護士とは別)は閉廷後、一審の態度を翻した理由を「接見の中で被告に事実を話すべきだ≠ニ諭した。ただし、キヨカワらのグループについては特定していない」「被告は前からこれらの事実を話していたが警察に聴いてもらえなかった上、暴行まで受けたようだ」とした。また、被害者方から盗まれた物を被告が持っていたことについては「『キヨカワ』から渡されたらしい」と述べた。 5月13日の第2回公判で若林被告は被告人質問で、事件当時かかわっていた産業廃棄物処理業の組織から、2人を殺害したとされる2006年7月19日、「産廃の仕事がある」と言われて洋野町に行き、ほかに男3人が集まった。同日夜、うち1人の男から「投げたい物がある」と投棄に都合の良い場所を尋ねられ、若林被告は後に2人の遺体が見つかった同町の山林を案内した。組織は青森県の暴力団と関係があり、投棄場所を尋ねた男も組織関係者だという。被害者の血が付いた軍手や目出し帽などが見つかった被告の軽トラックは当日、男に一時預けており、逮捕時に遺留品発見を聞かされ、「はめられたと思った」と述べ、あらためて無罪を主張した。これらの話を一審で明かさなかった理由については「組織が家族に報復するのが怖かった」と説明。さらに捜査段階で「やっていない」と否認した際、岩手県警の取調官から顔を殴られるなどの暴行を受けたと述べた。一審までの取り調べについては「推理小説のストーリーに沿って供述した」とし、凶器や証拠など本と食い違う部分は「遺体の引き当たりの際、負傷の状況をよく覚えておき、世間の情報などを基に話を作った」と説明した。 11月5日の最終弁論で弁護側は起訴事実のうち、強盗殺人などについては「犯行の事実はない」と主張。犯行は、産業廃棄物の不法投棄グループの「清川」という人物らによるものだとし、「事実を話すと関与していた真犯人のいる組織から報復を受け、妻子に危害が及ぶ。葛藤の末、虚偽の自白で罪をかぶった」と一審までの供述の不自然性を訴えた。また、「取り調べで捜査官に受けた暴行など、(二審の)供述は迫真に富み信用できる」とした。さらに、事実誤認が認められない場合でも、「被告に前科や犯行の計画はなく、死刑は重きに失して不当」と死刑回避を求めた。 これに対し検察側は、犯罪組織が母子を殺害し山中に遺棄するというのは、労力やリスク、経済的な面からして何ら合理性がないことと、若林被告が主張する不法投棄グループの活動実態などに具体性がない点を指摘。そして「妻子への報復を危惧したとしても、黙秘や否認をすれば足りる。極刑が見込まれる事件で一審まで虚偽の自白を維持し、罪をかぶる理由はない」と不自然さを主張。「被告の弁解は裏付ける客観的証拠が皆無で真犯人の人物像など具体性を欠く」と二審での供述の信用性の乏しさを指摘した。そして「自白は動機や経緯、犯行状況など犯人でなければ語り得ない内容で信頼できる。荒唐無稽な弁解に終始し、遺族の心情を逆なでするような態度に出ており、死刑を回避する余地は皆無」として控訴棄却を求めた。 判決で志田洋裁判長は被告側の無罪主張を「弁解は極めて不自然で不合理。(一審段階までの)供述は犯人しか知り得ないはずの被害者方の血痕の付着状況や被害者の死体が発見されるという秘密の暴露などを含んでおり、信用性がある」と退けた。その上で「仕事がないのにパチスロにふけって金銭に困り、性的な欲求不満を解消しようとした犯行で、身勝手極まりない動機に酌むべき点はない」と指摘。「被害者宅で待ち伏せし、順次帰宅した二人を殺害しており、遺族らが極刑を求めるのも当然」と述べ「刑事責任は重大極まりなく、一審の死刑が重すぎて不当とはいえない」と結論づけた。 | |
盛岡地裁での死刑判決は、1965年12月、盛岡市で男が母子3人を殺害した事件以来。求刑では1999年11月に、小2女児をいたずらして殺害した被告に言い渡されている(判決無期懲役)。 |
渡辺純一 | |
28歳(2005年6月23日、逮捕監禁容疑で逮捕時) | |
2004年10月13日〜16日 | |
傷害致死、殺人、死体遺棄、逮捕監禁致傷、逮捕監禁、監禁、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律違反、傷害 | |
架空請求詐欺グループ仲間割れ事件 | |
コンサルタント会社社長清水大志(たいし)被告をリーダーとする架空請求詐欺グループは、2004年10月〜11月、法務省の関連団体を名乗り、実在しない“電子消費料金”の請求はがきを不特定多数に郵送し、電話をしてきた被害者から現金を銀行口座に振り込ませる手口で、26人から約4750万円をだまし取った。 清水被告が「社長」、無職渡辺純一被告、会社役員伊藤玲雄(れお)被告、芸能プロダクション経営阿多真也被告が「部長」と呼ばれ、それぞれ子グループを統率していた。 伊藤被告の部下であった船橋市の飲食店員の男性Nさん(当時25)らは、幹部らに比べて極端に分け前が少ないことに不満を募らせ、中国人マフィアを利用して清水被告ら幹部を拉致し現金を強奪しようと2004年8月に計画し、同じメンバーで東京都杉並区に住む元建設作業員の男性YAさん(当時22)、同区に住む元不動産会社員の男性Iさん(当時31)、千葉県に住む元会社員の男性YOさん(当時34)が参加することとなった。 約2ヶ月後、4人が東京都内の拠点事務所に姿を見せなくなったことを不審に思い、清水被告ら幹部はYAさんを問い詰めた。計画を知り激怒した清水被告らは、見せしめで制裁を加えようと、他のメンバーらに拉致を指示した。 10月13日、NさんとIさんが東京都新宿区の事務所に連れて来られた。YOさんは呼び出しに応じた。4人を集団で金属バットなどで殴り、覚せい剤を注射したり、熱湯をかけるなどの暴行を加えた。4人が衰弱すると、16日未明にNさんら2名を熱傷で死亡させ、同日夕には、衰弱した2人の鼻と口を手でふさぎ窒息死させた。計画を告白したYAさんは当初、監禁する側だったが結局、Nさんらと一緒に殺害された。 清水被告・渡辺被告の指示を受けた伊藤被告らが殺害の実行犯である。 遺体の処理に困った清水被告らは、暴力団幹部の男性らに1億円を支払い、遺棄を依頼した。4人の遺体は20日夕、茨城県小川町(現小美玉市)の空き地に埋められた。 詐欺で捕まった阿多被告らが犯行を供述。遺体は2005年6月18日に見つかった。 | |
2007年8月7日 千葉地裁 彦坂孝孔裁判長 無期懲役判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2009年3月19日 東京高裁 長岡哲次裁判長 一審破棄 死刑判決 | |
公判前整理手続きを採用。 2006年9月4日の初公判で、渡辺純一被告は罪状認否で、死体遺棄罪などの起訴事実は認めたが、「殺害の指示も共謀もしていない」などと述べ、殺人と傷害致死罪については否認した。 その後の公判では、清水大志被告とともに審理された。 検察側は清水被告を詐欺グループを取りまとめた「頂点」と位置づけ、渡辺被告を暴力団構成員としての経歴を生かして犯行に加担したなどとした上で、「2人のグループ内での影響力は絶対的だった」と指摘。両被告を、殺害を指示した「主犯格」と位置付けた。 両被告は「暴行は指示したが、殺せとは言っていない」「検察の主張するエピソードは間違えている。やってもいない殺人に対して、反省を求められても困る」と繰り返し、殺人と傷害致死罪に当たるのは実行犯の3被告だと主張。弁護団も「共犯者同士で『殺害を指示された』と口裏を合わせている」との見方を示していた。 2007年2月26日の論告求刑で、検察側は「まれに見る凶悪重大事件。反省の態度もなく矯正は不可能」と指摘した。 4月27日の最終弁論で、渡辺被告、清水被告とも殺人と傷害致死の起訴事実を否認。弁護側は最終弁論で「一連の犯罪は計画性がなく、被告はまだ若く更生の可能性もある」と情状酌量を求めた。 最後に裁判長から「何か言っておくことはないですか」と問われた際、清水被告は「逮捕されてから(仲間が)どんどん敵味方に分かれ、(実行犯の)3人と争う形になってしまった」と言葉少なに、また渡辺被告は「自分はグループのトップではない」と、それぞれ述べた。 8月7日の判決で彦坂裁判長は、伊藤被告らの「清水、渡辺両被告から殺害指示を受けた」とする供述は認めなかったが、「殺害が最も有力な解決手段との認識をもって伊藤被告らに解決を任せた」と、清水、渡辺両被告と伊藤被告らとの共謀があったと認定した。その上で清水被告について「首謀者として殺害の謀議をまとめ上げ、終始殺害に向けて積極的に行動して共犯者をけん引。殺害実行を唯一止めうる立場にありながら、伊藤玲雄被告に責任を押し付けた渡辺被告の行動を最終的に容認し、次善策を講じようとしなかった」と指摘。その上で「直接的な殺害指示があったとまでは認められないが、首謀者としての罪責はあまりに重大で極刑をもって臨むほかない」「人命を全く軽視し、強固な殺害意思に基づいた極めて冷酷かつ非道な犯行」と断罪した。渡辺被告については「被害者の処遇を自ら決定するような首謀者でなく、当初は清水被告に事の成り行きを任せていた」と述べ、「死刑の選択にはちゅうちょを禁じ得ない」とした。 また伊藤被告らの判決と同様、検察側が殺人罪を主張した3人のうち1人について、傷害致死罪が相当と認定した。 清水被告、渡辺被告は事実誤認を理由に即日控訴。検察側は殺人罪を主張した被害者3人のうち1人を傷害致死と認定したのは事実誤認であると、両被告に対して控訴した。また渡辺被告については量刑不当も訴えた。 2008年6月19日の控訴審初公判で、清水大志被告は「共謀の認定について1審判決には事実誤認がある」として死刑回避を求めた。一審で無期懲役とされた渡辺純一被告も減刑を求めた。検察側は、一審判決が被害者のうち1人について殺人罪を適用せず、傷害致死罪としたことについて事実誤認を主張した。 以後は公判が分離された。 判決で長岡裁判長は、2007年8月の一審判決と同様、検察側が殺人罪の適用を求めた被害者のうち1人の死亡について、傷害致死罪に該当すると判断。しかし、「4人を監禁した後、『殺すしかない』と積極的に発言し、グループでの影響力も大きかった。渡辺被告は反省の念が乏しく、改善・更生が著しく困難。犯行は執拗で残忍。刑事責任は極めて重大」として、死刑を選択した。 一審判決は、グループ内での渡辺被告の役割について「首謀者の立場ではなかった」と認定したが、この日の判決は、渡辺被告が共犯者に対して何度も殺害の指示を出し、「しゃべったら家族を殺す」と口止めまでしていた点を重視。「事件が重大化したのは、渡辺被告によるところが大きい」と認定した。 | |
一連の事件では殺人や傷害致死、死体遺棄や監禁などの罪で18人が起訴されている。11人は懲役17年〜1年2ヶ月の実刑判決、2人に執行猶予付の有罪判決が出ている。また、架空請求詐欺の件で5人が懲役6年〜4年4ヶ月の実刑判決、5人が執行猶予付の有罪判決が出ている(他にも逮捕者はいるが、判決は確認できていない)。 清水大志被告は2007年8月7日、千葉地裁で求刑通り死刑判決。2009年5月12日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 伊藤玲雄被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑通り死刑判決。2009年8月28日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 阿多真也被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑死刑に対し一審無期懲役判決。2009年8月18日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 鷺谷輝行被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑通り一審無期懲役判決。2009年7月3日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 |
岩森稔 | |
61歳 | |
2007年2月21日 | |
強盗殺人、窃盗 | |
埼玉本庄夫婦殺害事件 | |
埼玉県狭山市の無職岩森稔(当時61)被告は2007年2月21日午後、顔見知りである本庄市の無職男性方で、男性(当時69)と妻(当時67)の頭などを鈍器で殴って殺害し、少なくとも現金1万円を奪った。 また岩森被告は2月15日午後、同市内の知人男性方で、約1万円入りの財布を盗んだ。 岩森被告は事件直後に逃亡。3月5日、山梨県の実家近くに止めた乗用車内で逮捕された。 岩森被告は運送会社を経営していたが2004年頃に倒産。移転後も現場付近をたびたび訪れ、知人らに金を無心していた。 | |
2008年3月21日 さいたま地裁 飯田喜信裁判長 無期懲役判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2009年3月25日 東京高裁 若原正樹裁判長 一審破棄 死刑判決 | |
2007年11月21日の初公判で、岩森被告は「初めから現金を奪おうとしたわけではなく、借りようと思った」と強盗目的を否認した上で、「遺族には一生残る悲しみと傷をつけてしまい、極刑をもって償いたい」との書面を読み上げた。 検察側は強盗殺人の根拠として、〈1〉被告があらかじめ凶器を用意していた〈2〉緊縛目的で針金を持ち込み、妻を縛った〈3〉経済的に困窮していた−−などを挙げた。 弁護側は、岩森被告が男性に借金を申し込んだが断られ、「死んだら保険金が出る」と言われたことに腹を立て、殺害したと説明。殺人罪に当たると主張した。 2008年2月22日の論告求刑で、検察側は、鈍器や針金を持ち込むなど犯行は計画的だったとした。そして「金目的の計画的な犯行で、冷酷非道で悪質極まりない」と述べた。 同日の最終弁論で弁護側は、妻に対する強盗殺人罪は認めたが、夫の殺害については、借金を断られ腹を立てて殺害した殺人罪だと主張。「室内にあった凶器を使い、計画性はなかった」として寛大な判決を求めた。 岩森被告は最終陳述で「極刑をもって償いたい」と述べた。 判決で飯田裁判長は、弁護側の「夫婦宅を訪れたのは、借金を申し込むためだった」との主張を退け、被告は凶器と夫婦を緊縛するための針金を持ち込み当初から強盗目的だったとし、検察側の主張通り、二人に対する強盗殺人罪を認定した。 その上で「日々の食事に困るほどの生活苦を、何の落ち度もない夫妻に対する凶行で解消しようとした動機は、短絡的で身勝手というほかなく、殺害方法も執ようで残虐。遺族の被害感情などを照らし合わせると、死刑をもって臨むしかないとする検察の意見には相応の理由がある」と、死刑選択も十分考えられるとした。 一方で、夫婦殺害後、金品の物色もそこそこにして、指紋などを残したまま逃走するなど、ち密さや周到さに欠けていたことを指摘。当初は借金を申し込むつもりもあったとし、「強盗目的が確定的でなかった」と検察側が主張した計画的な強盗殺人は否定した。 殺害態様の残虐性については「無我夢中で歯止めが効かなくなったところがあった」と述べ、「事件以前は犯罪とは無縁の生活を送り、反社会的性格が強いとまで断ずることができない」と指摘。「死刑よりもむしろ、終生をかけて被害者夫婦の冥福を祈らせ、反省と悔悟の日々を送らせるべき」と無期懲役が相当と判断した。 死刑を求める検察側と有期懲役を求める弁護側の双方が控訴した。 判決で若原正樹裁判長は「夫婦宅を訪問した当初から、2人の殺害、強盗を計画していた。近所付き合いをしていた2軒隣の落ち度のない夫婦の頭や顔をめった打ちにした残虐な犯行で、真摯な反省も認められない」と述べた。 判決は、被害者の頭部や顔面に激しい打撃が加えられ、岩森被告が殺害後の短時間のうちに金目の物を物色していた点などを重視。また殺害に使用された凶器の形状と合致する凶器が夫婦宅に存在しないことから、凶器は被告人が持ち込んだ物と考えるほかないとし、殺害に計画性がなかったとする一審判決は誤りだと指摘した。 弁護側は「借金を申し込むために被害者宅を訪問。殺害は予想外の事態だった」と主張していたが、若原裁判長は「夫婦に借金を申し込み、断られた状況を酌んだとしても有期懲役刑は不相当」と弁護側の訴えを棄却。勤務先の会社を辞め、定職に就くことなく過ごして金銭に窮した状況を「自身の無計画で忍耐力に欠ける生活態度に起因するなど、斟酌するほどの事情と認めることはできない」と述べた。 また「夫婦は2006年に2,3万円の借金を申し込んだ被告人に10万円貸しており、事件直前に空腹の被告人に食事を振る舞うなど被告人にとっては恩がある間柄であるにもかかわらず、命が奪われるのは理不尽」とし「罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑をもって臨むほかない」とした。 | |
清水大志 | |
26歳(2005年6月8日、詐欺容疑で逮捕時) | |
2004年10月13日〜16日 | |
傷害致死、殺人、死体遺棄、逮捕監禁致傷、逮捕監禁、監禁、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律違反、傷害 | |
架空請求詐欺グループ仲間割れ事件 | |
コンサルタント会社社長清水大志(たいし)被告をリーダーとする架空請求詐欺グループは、2004年10月〜11月、法務省の関連団体を名乗り、実在しない“電子消費料金”の請求はがきを不特定多数に郵送し、電話をしてきた被害者から現金を銀行口座に振り込ませる手口で、26人から約4750万円をだまし取った。 清水被告が「社長」、無職渡辺純一被告、会社役員伊藤玲雄(れお)被告、芸能プロダクション経営阿多真也被告が「部長」と呼ばれ、それぞれ子グループを統率していた。 伊藤被告の部下であった船橋市の飲食店員の男性Nさん(当時25)らは、幹部らに比べて極端に分け前が少ないことに不満を募らせ、中国人マフィアを利用して清水被告ら幹部を拉致し現金を強奪しようと2004年8月に計画し、同じメンバーで東京都杉並区に住む元建設作業員の男性YAさん(当時22)、同区に住む元不動産会社員の男性Iさん(当時31)、千葉県に住む元会社員の男性YOさん(当時34)が参加することとなった。 約2ヶ月後、4人が東京都内の拠点事務所に姿を見せなくなったことを不審に思い、清水被告ら幹部はYAさんを問い詰めた。計画を知り激怒した清水被告らは、見せしめで制裁を加えようと、他のメンバーらに拉致を指示した。 10月13日、NさんとIさんが東京都新宿区の事務所に連れて来られた。YOさんは呼び出しに応じた。4人を集団で金属バットなどで殴り、覚せい剤を注射したり、熱湯をかけるなどの暴行を加えた。4人が衰弱すると、16日未明にNさんら2名を熱傷で死亡させ、同日夕には、衰弱した2人の鼻と口を手でふさぎ窒息死させた。計画を告白したYAさんは当初、監禁する側だったが結局、Nさんらと一緒に殺害された。 清水被告・渡辺被告の指示を受けた伊藤被告らが殺害の実行犯である。 遺体の処理に困った清水被告らは、暴力団幹部の男性らに1億円を支払い、遺棄を依頼した。4人の遺体は20日夕、茨城県小川町(現小美玉市)の空き地に埋められた。 詐欺で捕まった阿多被告らが犯行を供述。遺体は2005年6月18日に見つかった。 | |
2007年8月7日 千葉地裁 彦坂孝孔裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2009年5月12日 東京高裁 長岡哲次裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
公判前整理手続きを採用。 2006年9月1日の初公判で、清水被告は「殺人の実行行為も共謀もしていない」と主張し、殺人と傷害致死の起訴事実を否認、逮捕監禁と死体遺棄は認めた。清水被告側は「監禁、暴行が続いた2日間に、清水被告が常に現場にいたわけではなく、4人が死亡した時にも不在だった」とし、「ほかのメンバーに監禁や暴行は指示したが、殺せとは言っていない」と主張。殺人罪と傷害致死罪に当たるのは、あくまでも実行犯のメンバーで、清水被告は共謀関係にないとした。 検察側は冒頭陳述で、残酷なリンチの様子を詳細に再現。「一連の犯行は、グループのリーダーだった清水被告が主導した」と断定した。 なお清水被告は、徳島地検が追起訴した組織犯罪処罰法違反罪(組織的詐欺)の容疑についても「私はその事実に関与していない」と全面否認している。 2006年9月5日の初公判で、渡辺純一被告は罪状認否で、死体遺棄罪などの起訴事実は認めたが、「殺害の指示も共謀もしていない」などと述べ、殺人と傷害致死罪については否認した。 2007年2月26日の論告求刑で、検察側は「まれに見る凶悪重大事件。反省の態度もなく矯正は不可能」と指摘した。 4月27日の最終弁論で、両被告とも殺人と傷害致死の起訴事実を否認。弁護側は最終弁論で「一連の犯罪は計画性がなく、被告はまだ若く更生の可能性もある」と情状酌量を求めた。 8月7日の判決で彦坂裁判長は、伊藤被告らの「清水、渡辺両被告から殺害指示を受けた」とする供述は認めなかったが、「殺害が最も有力な解決手段との認識をもって伊藤被告らに解決を任せた」と、清水、渡辺両被告と伊藤被告らとの共謀があったと認定した。その上で清水被告について「首謀者として殺害の謀議をまとめ上げ、終始殺害に向けて積極的に行動して共犯者をけん引。殺害実行を唯一止めうる立場にありながら、伊藤玲雄被告に責任を押し付けた渡辺被告の行動を最終的に容認し、次善策を講じようとしなかった」と指摘。その上で「直接的な殺害指示があったとまでは認められないが、首謀者としての罪責はあまりに重大で極刑をもって臨むほかない」「人命を全く軽視し、強固な殺害意思に基づいた極めて冷酷かつ非道な犯行」と断罪した。渡辺被告については「被害者の処遇を自ら決定するような首謀者でなく、当初は清水被告に事の成り行きを任せていた」と述べ、「死刑の選択にはちゅうちょを禁じ得ない」とした。 また伊藤被告らの判決と同様、検察側が殺人罪を主張した3人のうち1人について、傷害致死罪が相当と認定した。 被告側は即日控訴した。検察側は「殺人罪を主張した被害者3人のうち1人を傷害致死と認定したのは事実誤認だ」として控訴した。 長岡哲次裁判長は判決で「清水被告に殺害を指示された」とする共犯者の供述は信用性があると認定。殺害の共謀関係はなかったとする被告側の主張を退けた。検察側は被害者1人について殺人罪が相当だと訴えたが、判決は一審同様、傷害致死罪を適用した。 そして長岡裁判長は「人命を無視した冷酷かつ残忍な犯行で中心的役割を果たした。反省の念に乏しく、更生は困難」と述べた。 | |
一連の事件では殺人や傷害致死、死体遺棄や監禁などの罪で18人が起訴されている。11人は懲役17年〜1年2ヶ月の実刑判決、2人に執行猶予付の有罪判決が出ている。また、架空請求詐欺の件で5人が懲役6年〜4年4ヶ月の実刑判決、5人が執行猶予付の有罪判決が出ている(他にも逮捕者はいるが、判決は確認できていない)。 渡辺純一被告は2007年8月7日、千葉地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。2009年3月19日、東京高裁で一審破棄、死刑判決。被告側上告中。 伊藤玲雄被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑通り死刑判決。2009年8月28日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 阿多真也被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑死刑に対し一審無期懲役判決。2009年8月18日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 鷺谷輝行被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑通り一審無期懲役判決。2009年7月3日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 |
伊藤玲雄 | |
31歳(2005年6月9日、逮捕監禁容疑で逮捕時) | |
2004年10月13日〜16日 | |
傷害致死、殺人、死体遺棄、逮捕監禁致傷、逮捕監禁、監禁、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律違反 | |
架空請求詐欺グループ仲間割れ事件 | |
コンサルタント会社社長清水大志(たいし)被告をリーダーとする架空請求詐欺グループは、2004年10月〜11月、法務省の関連団体を名乗り、実在しない“電子消費料金”の請求はがきを不特定多数に郵送し、電話をしてきた被害者から現金を銀行口座に振り込ませる手口で、26人から約4750万円をだまし取った。 清水被告が「社長」、無職渡辺純一被告、会社役員伊藤玲雄(れお)被告、芸能プロダクション経営阿多真也被告が「部長」と呼ばれ、それぞれ子グループを統率していた。 伊藤被告の部下であった船橋市の飲食店員の男性Nさん(当時25)らは、幹部らに比べて極端に分け前が少ないことに不満を募らせ、中国人マフィアを利用して清水被告ら幹部を拉致し現金を強奪しようと2004年8月に計画し、同じメンバーで東京都杉並区に住む元建設作業員の男性YAさん(当時22)、同区に住む元不動産会社員の男性Iさん(当時31)、千葉県に住む元会社員の男性YOさん(当時34)が参加することとなった。 約2ヶ月後、4人が東京都内の拠点事務所に姿を見せなくなったことを不審に思い、清水被告ら幹部はYAさんを問い詰めた。計画を知り激怒した清水被告らは、見せしめで制裁を加えようと、他のメンバーらに拉致を指示した。 10月13日、NさんとIさんが東京都新宿区の事務所に連れて来られた。YOさんは呼び出しに応じた。4人を集団で金属バットなどで殴り、覚せい剤を注射したり、熱湯をかけるなどの暴行を加えた。4人が衰弱すると、16日未明にNさんら2名を熱傷で死亡させ、同日夕には、衰弱した2人の鼻と口を手でふさぎ窒息死させた。計画を告白したYAさんは当初、監禁する側だったが結局、Nさんらと一緒に殺害された。 清水被告・渡辺被告の指示を受けた伊藤被告らが殺害の実行犯である。 遺体の処理に困った清水被告らは、暴力団幹部の男性らに1億円を支払い、遺棄を依頼した。4人の遺体は20日夕、茨城県小川町(現小美玉市)の空き地に埋められた。 詐欺で捕まった阿多被告らが犯行を供述。遺体は2005年6月18日に見つかった。 | |
2007年5月21日 千葉地裁 彦坂孝孔裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2009年8月28日 東京高裁 長岡哲次裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2006年3月29日の初公判、起訴事実の認否で3被告(伊藤玲雄被告、阿多真也被告、鷺谷輝行被告)は、YOさん(当時34)殺害については否認したが、他の3人の殺人、傷害致死についてはほぼ認めた。 2006年11月13日の論告求刑公判で検察側は「犯行は執拗で残忍」「まれに見る凶悪、重大な犯行。被害者に対する暴行はこの世の地獄を思わせるもので、人間の所業ではない」と指摘した。 2007年1月11日の最終弁論で弁護側は、口や鼻を粘着テープでふさがれるなどして殺害されたYOさんの事件について、「殺意はなかった」と傷害致死罪の適用を主張。また、清水大志被告らリーダー格による殺害の指示を拒めなかった、と情状面の理解を求めた。阿多被告側は、起訴されたすべての罪で自首が成立すると主張した。 3被告は最終陳述で涙ながらに謝罪し、このうち伊藤被告は「裏切ったら家族ごと殺すと脅された。生きて罪を償う道を与えてほしい」と訴えた。 彦坂孝孔裁判長は「人命を全く軽視した非道な犯行で、主導的に殺害行為をした責任は極めて重大だ」と述べた。検察側は男性3人に対する殺人罪が成立すると主張したが、彦坂裁判長は、テープで縛られて死亡した1人の死亡について「殺意までは認められない」と傷害致死罪を適用した。また、殺害の指示を否認しているグループの主犯格メンバー清水大志被告らの指示を認めた。弁護側は「殺害は(グループ内の首謀者とされる)渡辺被告への恐怖心に支配された結果」などと主張したが、彦坂裁判長は「行為に直接関与しており、認められない」と退けた。一方、阿多被告は捜査段階で供述した殺人以外の罪について自首の成立を認め、「伊藤被告らの言動に影響された面があった」として死刑を適用しなかった。鷺谷被告は「伊藤被告に同調した従属的な犯行」とした。 被告側は量刑不当を理由に控訴した。千葉地検は地裁判決に事実誤認があったとして、東京高裁に控訴した。判決で、地検が殺人罪を主張した3人のうち1人について傷害致死罪が相当と認定した点を事実誤認とした。地検は控訴に踏み切った理由を、犯行グループのリーダーで無職の清水大志被告らの量刑に影響があるためとしている。 2008年3月13日の控訴審初公判で、検察側は、一審判決が傷害致死罪に当たると認定した1人について、「事実誤認で殺人罪に当たる」と主張。死刑求刑に対し、無期懲役とされた阿多被告については量刑不当を訴えた。 伊藤被告の弁護側は「リーダーらのマインドコントロール下での犯行だった」と主張、死刑回避を求めた。 判決理由で長岡哲次裁判長は「被告は反省しているが、執拗で残忍な態様、結果の重大性などを考えれば死刑を回避すべきとはいえない」と結論付け、無期懲役を求めた弁護側の訴えを退けた。被害者4人について、は被害者が死亡した状況は被告の供述から「殺意があったと認定することはできない」として、殺害3人、傷害致死1人との検察側主張を認めず、殺害2人、傷害致死2人と認定した一審判決を踏襲した。 | |
一連の事件では殺人や傷害致死、死体遺棄や監禁などの罪で18人が起訴されている。11人は懲役17年〜1年2ヶ月の実刑判決、2人に執行猶予付の有罪判決が出ている。また、架空請求詐欺の件で5人が懲役6年〜4年4ヶ月の実刑判決、5人が執行猶予付の有罪判決が出ている(他にも逮捕者はいるが、判決は確認できていない)。 清水大志被告は2007年8月7日、千葉地裁で求刑通り死刑判決。2009年5月12日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 渡辺純一被告は2007年8月7日、千葉地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。2009年3月19日、東京高裁で一審破棄、死刑判決。被告側上告中。 阿多真也被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑死刑に対し一審無期懲役判決。2009年8月18日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 鷺谷輝行被告は2007年5月21日、千葉地裁で求刑通り一審無期懲役判決。2009年7月3日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。被告側上告中。 |
山田健一郎 | |
36歳 | |
2003年1月25日 | |
殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、殺人未遂 | |
前橋スナック乱射事件他 | |
指定暴力団住吉会系幸平一家矢野睦会会長矢野治被告らは、対立する指定暴力団稲川会系指定暴力団稲川会大前田一家元組長(当時55 後に稲川会から絶縁)の殺害を計画。 矢野被告の指示を受けた暴力団幹部山田健一郎被告(当時36)は、同幹部小日向将人被告とともにフルフェースのヘルメットをかぶって、2003年1月25日午後11時25分頃、前橋市三俣町のスナック前にいた元組長の警護役(当時31)を射殺した後、店内で拳銃を乱射し、いずれも客で近くに住む会社員(当時53)、パート職員(当時66)、会社員(当時50)の3人を射殺し、元組長と客の調理師(当時55)の2人に重傷を負わせた。当時店内にはカウンターに客が8名と、カウンターの中に女性経営者がいた。 事件直後の2003年2月、捜査本部は「自分がやった」などと出頭した住吉会幸平一家矢野睦会系幹部(後に殺人予備容疑で逮捕)を銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で逮捕したが、前橋地検は証拠不十分のため処分保留で釈放していた。 前橋市のスナック乱射事件は、2001年8月に東京都内の斎場で指定暴力団住吉会系組幹部2人が稲川会大前田一家系組員2人に射殺された事件がきっかけになったとされる。事件をめぐり、両組織は和解したが、住吉会幸平一家の矢野睦会組員らはこれを無視して大前田一家の幹部をつけ狙ったとみられる。 2002年2月21日の大前田一家元総長宅(前橋市)発砲事件にかかわった矢野睦会幹部が、4日後に入院先の日医大病院(東京都文京区)で射殺された。元総長宅襲撃失敗の口封じが目的で、警視庁は同会会長の矢野治被告ら3人を2003年9月に逮捕した。 矢野睦会の襲撃はその後も続き、2002年3月1日には大前田一家元総長宅の敷地内に火炎瓶が投げ込まれ、2002年10月14日には白沢村の銃撃事件も発生。こうした流れの中で2003年1月にスナック発砲事件が起きた。 小日向被告は事件後、フィリピンに逃亡するなどしていた。2002年10月、不法滞在容疑でフィリピンから強制送還され、警視庁が旅券法違反容疑で逮捕した。捜査本部が、抗争事件に絡む盗品等有償譲り受け容疑で逮捕していた。 矢野被告は2003年7月8日に元組長宅への放火容疑で逮捕された。矢野被告らとともに小日向被告は前橋事件への関与を追求された。小日向被告は2004年2月に、「会長の指示で2人でやった」などと供述を始める。本事件で矢野治被告と小日向被告は2004年2月17日に逮捕された。 山田被告は2004年5月7日に逮捕された。山田被告は白沢村銃撃事件でも射撃の実行犯として起訴されている。 | |
2008年1月21日 前橋地裁 久我泰博裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2009年9月10日 東京高裁 長岡哲次裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
山田被告は逮捕当初から犯行を黙秘した。 2004年7月22日の初公判で、山田被告は起訴事実を全面否認した。 2006年11月28日に東京地裁で開かれた矢野治被告の公判で、山田被告が弁護人証人として出廷し、自身の事件への関与を初めて認めた。しかし、事件直前に携帯電話で矢野被告に「撃ち合いになる。危険すぎる」と話したなどとする小日向被告の法廷証言については、「全くのでたらめだ。証言の7、8割はウソ」と明言。矢野被告が犯行を指示したかについては「電話を受けたのは小日向被告なので自分はわからない」と話した。また小日向被告が襲撃に消極的だったとされる点について「(準備段階で)自分の目からはやる気に見えた」と述べ、その後も小日向被告の供述に対して逐一反論を述べた。山田被告は事件当日の模様についても詳細に供述した。 2007年2月26日の公判で、山田被告は矢野被告の公判で述べたとおり、実行役であることを認める証言を展開した。被告人質問では矢野被告の公判での証言と同様、もう1人の実行役である小日向将人被告の証言をことごとく否定。事件の全容解明に貢献したとされる小日向被告の証言は「事実と違う。だまされないでほしい」と訴えた。 7月2日の論告求刑で検察側は、「冷酷無比で残忍極まりなく、一般市民の平穏安全など眼中にない傍若無人な犯行」と指弾。「捜査段階では黙秘を貫き、公判段階では(首謀者の)矢野をかばうなど、真相解明を阻む態度に終始し、反省にはほど遠く、矯正可能性はいささかもない」「一般市民の生命を奪うのも構わないと凶行に及び、憐憫や躊躇など人間らしい感情は全くうかがわれず鬼畜の仕業に等しい」とした。また、遺族側の「犯人に対する刑としては死刑しか考えられない。私たちの苦しみを犯人たちに思い知らせてやりたい」とする言葉も読み上げた。 10月15日の最終弁論で、弁護側は山田、小日向両被告の証言の違いに言及。会長の矢野治被告が「事件を指揮した」とする小日向被告の供述を「刑事責任を軽減するために作り上げたストーリー」として、矢野被告を首謀者とする事実認定には「誤りがある」と指摘した。また、女性客の射殺について、両被告は「撃ったのは自分ではない」としてきたが、弁護側は残った銃弾などの状況証拠を挙げ、山田被告の犯行ではないと訴えた。山田被告による死傷者は抗争相手の元組長と元組長と間違えた男性客2人とし、「一見して一般人と分かる女性らへの発砲は、共犯者による、共謀を超えた行動」と訴えた。そして、「小日向被告の虚偽(の証言)をうのみにした判断は承服できない」と述べ、小日向判決にとらわれない判断を求めた。 暴力団関係者が見守る中、約2時間の弁論を聞いていた山田被告に、裁判長が「最後に言いたいことは」と問うと、被害者の名前を1人ずつ挙げ「私が誤射してあやめてしまった人やご遺族に心からおわび申し上げます。いかなる刑でも受ける所存です」と述べ、傍聴席の遺族に深々と頭を下げた。言葉は5分以上続き「なぜこんなことになったか分からない」と述べた。 当初、12月17日に判決予定だったが、前橋地裁は弁護側の申し立てを受け弁論を再開。判決を2008年1月21日に延期した。 弁護側は1遺族との和解成立を陳述。改めて減軽を求めた。検察側は「和解を斟酌するには限度がある」と反論した。 久我裁判長は判決で、「住宅街のスナックで、たまたま居合わせただけの一般人3人を射殺するなど前例のない痛ましい事件。被告も必要不可欠な役割を果たした。計画性、組織性が極めて高度(な犯行)で、被告の果たした役割も重大。(被害者は)残虐な方法で殺されており、その無念さは察するに余りある。山田被告が上位者の指示を受けて犯行に及んだ経緯などを考慮しても、罪刑の均衡の見地から極刑はやむを得ない」と述べた。 弁護側が「(亡くなった4人のうち)3人の殺害は、もう一人の実行犯の犯行」などとし、責任が限定的だと主張していた点については、指示役とされる矢野治被告や、もう1人の実行犯とされる小日向将人被告と比較すると、山田被告は「犯行計画や準備行為への関与の度合いが低い」などと情状酌量すべき点も指摘。山田被告側の「責任は客の男性1人の殺害と男性1人の傷害にとどまる」とする主張も一部認めた。しかし、結論としては、「遅くともスナックに入って客が多数いることを認識した時点で、元暴力団組長の殺害に障害となる者をも拳銃で殺害するという意図を、小日向被告との間で暗黙のうちに共有した」と指摘。死傷者全員について山田被告は共同正犯として責任を負うとした。 久我裁判長は、山田被告に対して「まだ時間はある。これまで語っていない部分を正直に話してほしい。それが遺族にとっても、自分にとっても唯一できる最善のことだ」と説諭。山田被告はこの言葉を聞いた後、遺族のいる傍聴席に向かって土下座をした。 2008年11月13日の控訴審初公判で、弁護側は控訴理由について「市民3人のうち2人の殺害は小日向被告によるもので、一審判決は事実誤認。山田被告に殺意はなかった」として減刑を求めた。また事件は小日向被告の主導によるもので、山田被告は従属的な立場だったとの主張を展開した。そのうえで、山田被告が犯行に積極的に関与したと結論づけた一審判決は事実誤認だと訴え、「(死刑ではなく)一生をかけて罪を償う機会を与えてほしい」と減刑を求めた。 弁護側の主張に対して検察側は、店の営業時間中に乱入し、拳銃を発砲している時点で殺害行為に加担しており、死刑は免れないとして控訴棄却を求めた。 判決で長岡裁判長は「ほかの実行犯との間で事前に役割分担が決められ、多数の客がいる店内で拳銃を発射した犯行に酌むべき事情はない」と指摘。共謀はなかったとする弁護側の主張を退けた。そして「狭い店内で発砲すれば、客に当たることは想定できた。住宅街での銃器犯罪で、法治国家への露骨な挑戦だ」と指摘。「刑事責任は極めて重い。遺族らに見舞金を支払っていることなどを考慮しても死刑が相当。結果の重大性などを考えれば、死刑が重すぎて不当とはいえない」とした。 | |
他の被告については、矢野治被告の項参照。 小日向将人被告は2005年3月28日、前橋地裁で求刑通り死刑判決。2006年3月16日、東京高裁で被告側控訴棄却。2009年7月10日、被告側上告が棄却され、死刑判決が確定した。 矢野治被告は2007年12月10日、東京地裁で求刑通り死刑判決。2009年11月10日、東京高裁で被告側控訴棄却。現在上告中。 | |
矢野治被告の項参照。 |
川崎政則 | |
61歳 | |
2007年11月16日 | |
殺人、死体遺棄他 | |
坂出祖母孫3人殺人事件 | |
香川県高松市の元会社員川崎政則被告は2007年11月16日午前3時45分頃、坂出市に住む義姉でパート従業員の女性(当時58)の自宅に無施錠の玄関から侵入。女性と、隣家から遊びに来ていた女性の孫(当時5、3)姉妹を持参した包丁で刺して殺害。3人の遺体を自分のワンボックスカーに積み込み、坂出港の岸壁近くの資材置き場に埋めた。 姉妹は15日午後6時ごろ、女性方に泊まりに行ったが、翌日午前7時50分ごろ、母が迎えに行ったときには3人の姿が消えていた。寝室の床やベッド、玄関、浴室などには血痕が残され、女性の携帯電話や靴、自転車がなくなっていた。香川県警は事件発覚から2日後の18日、坂出署に捜査本部を設置した。 県警は11月27日、川崎被告を死体遺棄容疑で逮捕。川崎被告は当初山中に捨てたと供述したが、遺体は発見されなかった。その後、供述を変更。28日に3人の遺体が発見された。12月18日、県警は川崎被告を殺人容疑で再逮捕した。 川崎被告は妻が女性の借金を肩代わりする形で金を貸していたことを1997年頃に知って夫婦関係が悪化し、女性のことを恨んだ。その後女性や妻の両親の遺産で女性の借金は片が付いたが、2007年2月に妻が入院。さらに4月に妻は死亡したことから、女性を恨んでいた。遺族側は金銭トラブルについて否定している。 高松地検は2008年1月9日に殺人などの罪で川崎被告を起訴した。簡易鑑定の結果、同容疑者の責任能力に問題はないと判断した。 | |
2009年3月16日 高松地裁 菊池則明裁判長 死刑判決 | |
2009年10月14日 高松高裁 柴田秀樹裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
公判前整理手続きにより、殺害の事実関係については争わず、主に川崎被告の犯行時における責任能力について争われた。 2008年7月17日の初公判で、川崎被告は「間違いありません」と起訴事実を認めた。弁護側は「精神遅滞などが原因で責任能力は限定的だった。川崎被告の犯行時の責任能力は、精神鑑定で明らかにされるべきだ」などと述べた。高松地裁はこの日、精神鑑定を行うことを決定した。 精神鑑定の結果を受けて、裁判の争点や日程などを決めるための期日間整理手続きが行われ、3月9〜12日に集中審理し、16日に判決を言い渡すことが決められた。 検察、弁護側双方が推薦する2人の鑑定人が精神鑑定を実施。ともに知的能力は低いものの、刑事責任能力を完全に認める診断内容だった。 2009年3月9日の第2回公判では、川崎被告の責任能力について争われた。検察側は以前から恨んでいた女性を完全犯罪で殺害する計画とし、姉妹を殺害した理由については犯行の発覚を防止するためと主張した。そして責任能力はあると主張した。弁護側は犯行や動機について争わず、川崎被告について「知的能力、精神能力、特定不能の広汎性発達障害があり、犯行に大きな影響を及ぼしている」と指摘した上で「悪いことと分かっていても行動に出ることを思いとどまることが著しく困難だった」と心神耗弱を主張した。 3月12日の論告で検察側は争点となった責任能力について、精神障害はないとした鑑定医2人の鑑定結果などを踏まえ、「善悪を判断し、自らの行動を制御する能力に障害はなかった」と指摘。弁護側の主張に対し、「少年法は、少年の健全育成を期すためのもので、被告にその趣旨を及ぼすことはできない」と反論した。さらに「現場を下見し、事前に遺体を埋める穴を掘って包丁を準備するなど犯行は計画的」と述べた。そして「金銭トラブルによる恨みで祖母を、発覚を防ぐため孫2人を殺すという短絡的で身勝手な動機に酌量の余地はない。殺害方法は残虐、執拗で卑劣極まりない。遺族の悲しみは深く、極刑を希望している」と述べた。 同日の最終弁論で弁護側は事件当時の被告について「知的能力が低く、広汎性発達障害の影響もあり、悪いと分かっていても行動を思いとどまることが著しく困難だった」と限定的責任能力を主張した。そして前科前歴がないことや、謝罪の手紙を出し弁護人に150万円を預けて遺族の支払いを確約していることを述べた。最後に精神年齢は15歳程度で、(18歳未満を死刑にしない)少年法を適用して無期懲役とするのが相当だとした。 判決は、被告が事前に凶器の包丁を用意し、女性方を2度下見するなど計画的で、殺害後も失跡を装うため女性の自転車を持ち去るなどの証拠隠滅を図ったと指摘。「精神障害はなく犯行に著しい影響は及ぼさなかった」とする検察側、弁護側双方の精神鑑定の結果を信用できるとし、「心神耗弱状態だった」とする弁護側の主張を退けて完全責任能力があったと判断した。殺害の動機については、病死した妻が実姉の女性の借金を肩代わりしたことなどで恨みを募らせたと認定。幼い姉妹については、女性殺害後に2人が目を覚まして泣きながらそばにやってきたためと認めた。そのうえで「極めて身勝手で自己中心的。酌量の余地はまったくない」と指摘。3人を何度も刺した殺害方法も「執拗かつ残虐で、遺族が被告に極刑を求めるのも当然だ」と述べた。一方、一貫して起訴事実を認めている▽姉妹殺害について謝罪している▽一度決めたら容易に変更できない性格だった――など被告に有利な事情を挙げたが、「それらを最大限考慮しても、恐怖で泣き叫ぶ罪のない子どもに攻撃を加えており、小さく弱い者に対する情など人間性のかけらも見いだせない残虐な犯行。動機や経緯、結果の重大性などにかんがみて死刑を選択する以外にない」と結論づけた。 弁護側は即日控訴した。「被告は広汎性認知障害の影響で、悪いと分かっていても行動を思いとどまることが著しく困難だった」と限定的責任能力を主張し「無期懲役が妥当」と訴えている。 2009年9月10日の控訴審初公判で、弁護側は「川崎被告は事件当時、精神障害を患い、女性が財産を横取りしようとしているとの妄想を抱いていた。被告は行動制御能力が著しく低下しており、限定責任能力を認めるべき」との控訴趣意書を提出。検察側は「精神的障害があったとは考えられない」と主張し、即日結審した。弁護側は「川崎被告は妄想を抱く精神障害のパラノイアにかかっており、心神耗弱状態だった」として、再度の精神鑑定を要求したが、柴田裁判長は新たな鑑定の実施は認めなかった。高裁は、一審で精神鑑定を行った医師2人に改めて精神障害の有無について照会したが、2人ともその可能性を否定したという。証人尋問では、姉妹の父が「恐ろしい思いをさせて子供や義母を殺した。死刑を求めたい」と証言。川崎被告は被告人質問で「姉妹にはかわいそうなことをした。女性も殺す必要はなかった」と述べた。また同日の公判では殺害された女性の父親が弁護側証人として法廷に立ち、「被告の知的能力が低いのは分かっていた。一人で悩まずに相談してくれれば今回の事件は起こらなかったはず。できれば減刑をお願いしたい」と述べた。検察側証人である姉妹の父親は「被告も人の命の重さは分かっているはず。反省しているとも思えない。死刑を望む気持ちに変わりはない」と訴えた。 判決で柴田裁判長は、一審で被告を精神鑑定した医師2人に照会した結果を踏まえ、「一審の鑑定人が見落とすとは考えられない」として弁護側主張を退けた。事前に凶器を準備するなどした犯行の計画性や、川崎被告が女性の失跡を装うために犯行後に自転車などを廃棄した証拠隠滅工作なども挙げ、犯行時の完全責任能力を認定した。 犯行動機については、一審で十分触れていなかった殺意を抱いた経緯を検討。川崎被告は1997年ごろから、妻(既に病死)への借金などをきっかけに女性に不満を抱き始めた。金銭トラブルから「女性に家庭を壊され、(妻が消費者金融から用立てた金の)返済に苦しめられている」と殺意を持つに至ったとした。そのうえで、量刑について検討。女性殺害について「極めて強固な殺意に裏打ちされ、殺害方法も執拗かつ残虐」とし、たまたま泊まりに来ていた幼い姉妹を殺害したことも「悪事の発覚を防ぐため、何の関係もない幼児2人を殺害した。事情を理解できないまま、恐怖と痛みの中で短い生涯を閉じさせられた幼い姉妹はあまりにあわれだ。酌むべき余地はまったくなく人倫に反する行為。状況も分からず泣きながら近寄ってくる幼い子供たちに執拗に包丁を突き刺し、誠に凶悪」と指摘。控訴審で女性殺害を謝罪するなど反省の態度を示した▽一審判決後に遺族に150万円の被害弁償をした――など被告に有利な事情を考慮しても、「(一審の死刑判決が)重すぎて不当とは言えない。残忍な犯行と結果の重大性により社会に脅威を与えており、死刑をもって臨むとした量刑はやむを得ない」と判断した。 | |
事件発生当初から親族、特に姉妹の父親の関与を疑う声が強く、一部週刊誌やインターネット上などで父親を犯人視、中傷した発言、問題視する記事などが相次いだ。2007年11月21日には女優が自身のブログ中に家族の会話として「父親の仕業」と記載し、ブログは炎上した。後に謝罪するとともにブログを閉鎖。所属事務所も謝罪文とともに、1年間の活動停止処分を発表した。 11月19日にはワイドショーで人気司会者のみのもんたが、発生後に父親が直接警察署に届け出たことについて、強く疑問を投げかけるコメントをした。2008年1月11日にみのがスタッフとともに謝罪したとの報道があったが、番組内では一言も触れられていない。 母親は2009年3月11日の公判で読み上げられた手記の中で、長男(11)がマスコミによる父親犯人視報道によって学校でいじめにあっていたことを述べている。 川崎被告は東京都の消費者金融会社を相手取り、妻が1989年9月以前に契約を結び、2007年1月までに借り入れと返済を繰り返し、利息制限法で定められた上限を超えた金利を課せられ、約554万円の利息を違法に多く支払わせられたとして、過払い金変換訴訟を高松地裁に起こした。2009年1月15日、高松地裁で和解が成立したが、内容は明らかにされていない。 一審では裁判員制度を控え、第2回公判以降は4日間連続の審理で結審した。また専門用語が多くてわかりにくいとされてきた医師の証人尋問では、大型モニターを使って講義形式で実施された。 |
矢野治 | |
54歳(2003年7月逮捕当時) | |
2002年2月〜2003年6月 | |
盗品等有償譲受け、有印私文書偽造・同行使、旅券法違反、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反、現住建造物放火未遂 | |
日医大暴力団組長射殺事件、前橋スナック乱射事件他 | |
2001年8月、東京都内の斎場で指定暴力団住吉会系組幹部2人が稲川会大前田一家系組員2人に射殺された事件が発生した。事件をめぐり、両組織は和解したが、住吉会幸平一家の矢野睦会組員らはこれを無視して大前田一家の幹部をつけ狙った。 2002年2月21日、住吉会系の組長(当時54)が稲川会系指定暴力団稲川会大前田一家元組長宅を襲撃しようとして発砲したが失敗した。24日夕方、組長は豊島区で男に短銃で撃たれて入院した。 指定暴力団住吉会系幸平一家矢野睦会会長矢野治被告は、矢野睦会辰力組組長T元被告、知人の元暴力団員A元被告と共謀。2月25日午前9時ごろ、日本医大病院一階の集中治療室の窓から、ベッドで寝ていた組長に拳銃数発を発射、殺害した。組長は暴力団抗争から抜け出そうとしたため、口封じのために殺害したものである。 矢野被告は2月下旬、埼玉県三郷市の鉄工所でガソリン噴射機を製造し、放火を計画。3月1日に対立する指定暴力団稲川会系指定暴力団稲川会大前田一家元組長(当時55 後に稲川会から絶縁)宅を襲撃し、塀などに銃弾を打ち込み、噴射機で放火しようとしたが、放火前に見つかって未遂に終わった。 矢野被告は同会幹部山田健一郎被告、同土居春夫元被告らと共謀。2002年10月14日午後4時35分ごろ、群馬県白沢村の村道で、ゴルフ場から帰る途中の元組長の乗用車に拳銃を発砲。元組長の右肩に重傷を負わせた。 さらに矢野治被告らは、元組長の殺害を計画。 矢野被告の支持を受けた暴力団幹部小日向将人被告は、同幹部山田健一郎被告とともにフルフェースのヘルメットをかぶって、2003年1月25日午後11時25分頃、前橋市三俣町のスナック前にいた元組長の警護役(当時31)を射殺した後、店内で拳銃を乱射し、いずれも客で近くに住む会社員(当時53)、パート職員(当時66)、会社員(当時50)の3人を射殺し、元組長と客の調理師(当時55)の2人に重傷を負わせた。当時店内にはカウンターに客が8名と、カウンターの中に女性経営者がいた。 事件直後の2003年2月、捜査本部は「自分がやった」などと出頭した住吉会幸平一家矢野睦会系幹部のD元被告を銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で逮捕したが、前橋地検は証拠不十分のため処分保留で釈放していた。 矢野被告は2003年7月8日、放火未遂事件の容疑で逮捕された。9月1日、日本医大病院での殺人容疑で再逮捕。2004年2月17日、前橋のスナック乱射事件で再逮捕。6月2日、白沢村の殺人未遂事件で再逮捕された。 | |
2007年12月10日 東京地裁 朝山芳史裁判長 死刑判決 | |
2009年11月10日 東京高裁 山崎学裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2003年12月19日の初公判で、矢野被告は日本医大病院での殺人容疑を辰力元被告と共に否認した。A元被告は単独犯行を主張した。 2004年6月1日の、前橋スナック乱射事件の初公判で、矢野被告は起訴事実を全て否認した。また後に、白沢村襲撃事件でも容疑を否認した。 2006年11月28日の公判で、山田健一郎被告が証人に立ち、小日向将人被告の証言はでたらめと非難。証言の7,8割は嘘と明言した。矢野被告が犯行を指示したかについては「電話を受けたのは小日向被告なので自分はわからない」と話した。小日向被告は2004年2月に乱射事件への関与を認めた後、事件の全容解明に向けて積極的に供述している。 12月12日の公判でも、山田被告は殺害が矢野被告の指示だったとする検察側の主張について「それはありません」ときっぱり否定した。またスナックで拳銃を乱射した後、小日向将人被告の携帯電話に「このやろう、女が巻き込まれているんじゃないのか」などとどなり声で電話があったことを明らかにしたが、電話の相手については「わからない」と繰り返した。 2007年5月23日の論告求刑で、検察側は「被告は犯行を指示した首謀者で刑事責任は最も重いのに、起訴事実を全面否認し反省の情も見られない。もはや人間性は失われ、矯正不能だ」と指摘した。検察側はこの日の論告で、矢野被告について、「一片の反省悔悟の情も認められず、矯正不能」「暴力団特有の論理で一般人の犠牲もいとわない姿勢は反社会性の極み」などと指弾。「何の罪もない父や、その仲間たちの命を容赦もなく奪っていった犯人たちに私たちと同じ社会に存在してほしくない」などとする遺族の言葉も読み上げた。 9月3日の最終弁論で、弁護側は「共犯者らの供述は虚偽で、有罪とする十分な証拠はない」などと改めて無罪を主張した。 判決で朝山裁判長は「スナックでの銃乱射は至近距離から撃つなど残虐で、一種の無差別テロの様相を帯びている。実行行為を具体的に指示しており、実行犯と同等以上の責任がある。極刑をもって臨むしかない」「拳銃で弾丸を何発も発射するという残虐な犯行。合計5名もの人命が奪われ、犯行結果も重大。極刑をもって臨むほかない」と述べた。朝山裁判長は、犯行動機は対立していた指定暴力団稲川会系の元組長に対する報復だったと認定。その上で「暴力団特有の論理に基づく反社会的犯行。矢野被告の反社会的人格は根深い」と指摘し、死刑の選択もやむを得ないと判断した。 朝山裁判長は矢野被告の関与を認めた実行役らの供述について「具体的で信用できる」と判断。いずれの事件も被告の指示で行われたと認定し、弁護側の無罪主張を退けた。その上で、前橋事件について「残虐きわまりない一種の無差別テロ。人生の充実期にあった、暴力団と無関係の3人の無念の情は、察するに余りある」と指摘。「暴力団抗争に多数の一般市民を巻き込んだ社会的影響は極めて大きい」と述べた。日医大事件についても、「制裁と口封じ目的で、酌量の余地はない。ほかの患者らに危害が及ぶ可能性もあった」とした。 矢野被告は初公判から「身に覚えがない」と一貫して起訴事実を否認。このため、県警の捜査員や小日向被告らの証人出廷が余儀なくされ、矢野被告の公判は他の事件も含めて求刑時69回を数えるまで長期化した。 控訴審で弁護側は、矢野被告は実行犯との連絡役か調整役に過ぎないとして、一審同様無罪を主張した。また検察側の主張に対し、共謀の証明が不十分と訴えた。 判決で山崎学裁判長は2002年2月〜2003年6月にあった計11の事件について「被告は犯行の実行行為こそ担当していないが、暴力団組織の上下関係を利用し、犯行を具体的に指示した首謀者だ」と認定。「責任は重大で実行犯と同等以上。一般人を含む多数の犠牲者を出しており、社会への影響は極めて大きい。5人の人命が奪われた結果は極めて重く、とりわけ乱射事件で殺害された一般人3人の無念さは筆舌に尽くしがたい」と述べた。住吉会総裁らが昨年9月、スナック乱射事件の責任を認め、遺族らに計9750万円を支払う内容で和解したことも被告に有利な事情として言及したが、「極刑がやむを得ないとした一審判決は相当」とした。判決に矢野被告は出廷しなかった。 | |
2004年10月29日、東京地裁はA被告に懲役16年(求刑懲役18年)を言い渡した。そのまま確定か。 12月13日、前橋地裁は見張り役として襲撃の手助けをしたとして、殺人未遂ほう助罪に問われた元組員に懲役2年4月(求刑懲役4年)を言い渡した。 12月27日、前橋地裁は実行犯を車で運び逃走させたとして、犯人隠避などの罪に問われた組員に懲役7年(求刑懲役8年)を言い渡した。 2005年1月17日、前橋地裁は小日向被告に拳銃一丁と実弾四発を約三十万円で譲り渡したとして銃刀法違反の罪に問われた暴力団幹部に懲役2年8月(求刑懲役5年)を言い渡した。 2月14日、前橋地裁は狙われた元組長の情報を教えたなどとして、殺人未遂ほう助の罪に問われた元組長に懲役3年(求刑懲役5年)を言い渡した。控訴せず確定している。 4月18日、前橋地裁はスナック乱射事件の見張り役をしたほか、旧大胡町で発砲事件を起こしたなどとして殺人未遂ほう助、銃刀法違反などの罪に問われた元暴力団幹部に懲役11年(求刑懲役13年)を言い渡した。 4月26日、前橋地裁はスナック付近の見張りなどをしたとして殺人未遂ほう助罪などに問われた元組員に懲役5年(求刑懲役8年)を言い渡した。 6月6日、前橋地裁はスナック乱射事件で、見張り役をしたとして殺人未遂ほう助の罪に問われた元組員に懲役2年8月(求刑懲役4年6月)を言い渡した。 2006年6月9日、東京地裁はT被告に無期懲役(求刑同)を言い渡した。控訴するも後に取り下げ、確定。 6月19日、前橋地裁は旧白沢村での拳銃乱射事件や、スナック乱射事件で拳銃を準備し現場の下見をしたなどとして、殺人予備、銃刀法違反などの罪に問われたD被告に懲役15年(求刑懲役20年)を言い渡した。この幹部は当初スナック乱射事件の実行役として指名されていたが、直前に小日向被告と仲違いして山田被告と交代している。また、事件直後にこの幹部は「自分がやった」として出頭、逮捕されたが、証拠不十分で釈放されていた。被告は即日控訴したが、10月31日付で取り下げ、確定している。 6月19日、前橋地裁は旧白沢村で元組長に拳銃を発射し、重傷を負わせたとして殺人未遂罪などに問われた暴力団組長に懲役15年(求刑同)を言い渡した。被告は即日控訴している。 小日向将人被告は2005年3月28日、前橋地裁で求刑通り死刑判決。2006年3月16日、東京高裁で被告側控訴棄却。2009年7月10日、被告側上告が棄却され、死刑判決が確定した。 山田健一郎被告は2008年1月21日、前橋地裁で求刑通り死刑判決。2009年9月10日、東京高裁で被告側控訴棄却。現在上告中。 | |
警察庁によると、暴力団の発砲事件に巻き込まれて3人の一般市民が死亡するのは初めて。 2006年11月22日、被害者男性の遺族3名が指定暴力団住吉会の西口茂男総裁、福田晴瞭・同会会長、矢野治被告、小日向将人被告、山田健一郎被告を相手取り、総額約1億9760万円の損害賠償を求めて前橋地裁に提訴した。別の遺族は提訴する意思がなく、もう一方の遺族は弁護士紹介の要請があったが、引き受ける弁護士がいなかったという。原告弁護団(石田弘義団長)によると、2004年2月に矢野被告らが逮捕され、不法行為の損害賠償請求権の消滅時効(3年)が迫っているとして提訴に踏み切ったという。 2007年2月23日、前橋地裁での第1回口頭弁論で、使用者責任を問われた西口総裁と福田晴瞭会長は請求棄却を求める答弁書を提出。小日向将人被告は請求内容を認め、裁判が終了した。答弁書によると、西口総裁と福田会長は「事件があったことは知っているが、詳しい役割分担までは知らない」などとして、傘下組員による事件への責任は負えないとし、全面的に争う構えを示した。一方、小日向被告は答弁書で「本当に申し訳ありませんでした」と謝罪し、裁判所側が「争いがない」と認定。今後は原告側が小日向被告への賠償金などを協議する。 2007年4月27日、前橋地裁の松丸伸一郎裁判長は矢野治被告、山田健一郎被告に対し、慰謝料など8219万円の支払いを命じた。このうち慰謝料分は3000万円で、原告が求めた1億2000万円から大幅に減額された。刑事裁判で山田被告は発砲を認める法廷供述をしたが、矢野被告は関与を否認している。しかし民事裁判の口頭弁論にこれまで出廷せず、松丸裁判長は原告の主張を全面的に認めたと判断した。原告側は判決を不服として控訴した。 2007年7月13日、被害者女性の遺族や重傷を負った客、スナックの経営者ら8人が西口茂男総裁、福田晴瞭・同会会長、矢野治被告、小日向将人被告、山田健一郎被告を相手取り、総額1億5000万円の損害賠償を求めて前橋地裁に提訴した。 9月11日、遺族3人が総額約1億9760万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審第1回口頭弁論が東京高裁で開かれ、矢野被告と山田健一郎被告は一審同様代理人を立てず、答弁書も提出しなかったため、即日結審した。 9月12日、遺族8人が総額約1億5000万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が前橋地裁で開かれ、西口総裁、福田会長側は、同事件の別の遺族が起こしている裁判と同様、使用者責任を否定する姿勢を見せ、請求棄却を求めた。矢野治被告と山田健一郎被告は答弁書を出さず、即日結審。小日向将人被告は「申し訳ない」などと請求を認める答弁書を提出し、訴訟が終了した。 10月16日、東京高裁の判決で、宗宮英俊裁判長は、一審前橋地裁判決を変更し、660万円を増額、矢野被告と山田被告に対して計約8880万円の支払いを命じた。原告側は、殺された男性への慰謝料が、1審判決では交通事故死のケースとほぼ同額しか認められなかったことについて、「銃で殺された男性の慰謝料が、過失による交通事故と同じでいいのか」と主張していた。宗宮裁判長は「慰謝料額はそれぞれの事件ごとの事情を酌んで個別に算定すべきで、交通事故の慰謝料とたまたま符合したとしても直ちに不当とはならない」と退けたが、遺族への慰謝料は増額した。 10月19日までに、遺族8人が総額約1億5000万円の損害賠償を求めた訴訟で、「被害弁償が済んだ」として提訴を取り下げた。原告側代理人によると、代理人間の交渉で実行役の被告らが今月、被害弁償額を提示。代理人は金額は公表していないが「被害者の納得のいく額に達したため、和解に応じた」と話している。 2008年5月30日、最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は男性被害者の子供3人が慰謝料増額を求めた上告を退ける決定を出した。8880万円の支払いを命じた二審・東京高裁判決が確定した。 2008年9月26日、男性客(当時50)の遺族3人と、西口茂男総裁、福田晴瞭会長との和解が前橋地裁で成立した。原告側代理人によると、和解は、下部団体の構成員が事件を起こしたことについて、西口総裁らが自らの責任を認めて再発防止を約束し、計9750万円を支払うという内容。暴力団犯罪の使用者責任を巡り、指定暴力団トップが自らの責任を明確に認めたのは初めてという。 |
加賀山領治 | |
58歳(2008年の事件当時) | |
2000年7月29日/2008年2月1日 | |
強盗殺人、強盗殺人未遂 | |
中国人留学生強殺事件/DDハウス事件 | |
元アルバイト、加賀山領治被告は2000年7月29日午前1時頃、大阪市中央区の路上で帰宅途中の中国人女子留学生(当時24)のバッグを強奪。自転車で逃走し、取り押さえようとした会社役員の男性(当時34)の左足を刺し、さらにバッグを取り返そうと追いすがってきた女性の胸や腹などを刺して逃げた。女性は搬送先の病院で約1時間後に死亡した。加賀山被告は1999年に退社後はアルバイトをしていたが、事件直前は大阪城公園でホームレス生活を送っており、借金も断られ所持金はほとんどなかった。 加賀山被告は「当時一緒に路上生活をしていた男に誘われた」と語っている。犯行直後「60歳ぐらい」とされる共犯の男と大阪城公園で合流し、奪った6000円を山分けしていたが「名前は知らない」と言い、特定には至っていない。 加賀山被告は2008年2月1日午後10時15分ごろ、大阪市北区にある複合ビルのトイレに窃盗と強盗の両方の準備を整えて潜み、たまたま入ってきた会社員の男性(当時30)にナイフを突きつけ「金を出せ」と脅したが、応じなかったため、胸などを刺して殺害した。加賀山被告は2007年秋に仕事を辞めて以降、競馬やパチンコで所持金を使い果たしていた。 加賀山被告は2月8日午前、大阪府府警此花署に出頭した。当初は盗みの準備をしていたところを見られたため殺害したと供述していたため殺人容疑で逮捕されたが、後に強盗目的を認めた。 大阪府警は加賀山被告の余罪を調べていたが、2000年の事件現場に残されていた犯人の血液のDNA型が加賀山被告と一致。3月21日、大阪府警は加賀山被告を再逮捕した。 | |
2009年2月27日 大阪地裁 細井正弘裁判長 死刑判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2009年11月11日 大阪高裁 湯川哲嗣裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2008年11月20日の初公判で、加賀山被告は「殺そうとは思っていなかった。取り押さえられそうになり夢中で刺した」と述べ、被害者2人への殺意を否認した。検察側は冒頭陳述で、1999年に会社を退職後、借金をしながら遊び暮らしていた加賀山被告が知人と強盗計画を立て、自転車で帰宅中の女性からバッグを奪った際、逮捕を逃れるため胸を狙ってナイフを突き刺したと指摘。胸と腹を2回刺し、傷口も17センチと深いことから殺意があったとした。 12月26日の論告求刑で検察側は胸などを複数回刺したことや傷の深さが7〜17センチに達していたことなどから殺意があったと主張。「犯行は冷酷、執拗で残虐非道。鬼畜と化した者のなせる沙汰。一片の人間性のかけらも見いだすことができない。反省の態度が認められず、極刑をもって臨むほかない」と述べた。同日の最終弁論で弁護側は「捕まりそうになり夢中で刺した。殺意はなかった」として強盗致死罪にあたると主張。2月の事件後、警察に出頭しており、自首を認めて懲役刑にするよう求めた。加賀山被告は最終意見陳述で「今さら遅いが、申し訳ないことをした」と述べた。 判決で細井裁判長は強盗殺人が、ナイフを用意した上で胸などを複数回突き刺し、傷も深いことに触れ「計画的であり、殺意を持って犯行に及んだと認められる」と殺意を認定。加賀山被告が男性の事件後、警察署に出頭したとして、自首の成立を主張していた点についても、強盗目的を隠していたことなどに言及し「申告したとは評価できず、自首と認められない」と弁護側の主張を退けた。その上で「留学生事件から約7年半後に男性を殺害しており、真摯(しんし)に反省し、再犯防止に努めると期待するのは困難。加賀山被告は法廷で不合理な弁解に終始しており、真に反省しているとは認められず、死刑回避を相当とするような酌量すべき事情は見当たらない。2人の若者の尊い命を奪った結果は重大。遺族らの処罰感情もしゅん烈。殺意も認められ、極刑をもって臨むほかない」と結論付けた。 被告、弁護側は控訴した。 弁護側は一審に続き控訴審でも「いずれの事件も、無我夢中で振るった刃物が当たった。事件当時は正当な判断能力を欠いていた」として殺意を否認し心神耗弱状態にあったと主張。加賀山被告が男性刺殺事件の1週間後に出頭した点に触れ、「殺人を申告したことで捜査を容易にした」として無期懲役への減刑を求めた。 湯川裁判長は判決で「相当の力を込めて何度も突き刺しており、いずれの事件にも、未必の殺意が認められる。金品を奪取しており、完全に責任能力はあった」などと弁護側の主張を退けた。そして「危険かつ残忍な犯行で若い2人の無念は察するに余りある。性懲りもなく凶悪犯罪を繰り返し、金銭のために人の命を顧みない危険な犯罪性向は根深く、更生の可能性は乏しい」と述べた。 | |
加賀山被告には強盗致傷等の前科がある。 |