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【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 帰還事業とマスコミの責任
≪日本人妻の帰国訴え≫
在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業(北送事業)から丸50年たった今月14日、帰還船が出航した新潟港中央埠頭(ふとう)で、「あの日を忘れない新潟港追悼集会」が開かれた。集会には、帰還時に夫とともに北朝鮮へ渡った日本人妻1人を含む8人の脱北者も参加した。
主催者の移民政策研究所の坂中英徳代表は「日本人妻1831人のうち生存しているのは100人前後。全員帰ってくるまで頑張りたい」と呼びかけた。
同じ日、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の集会も新潟市で開かれ、三浦小太郎代表は「政府は日本人妻の安否調査を北朝鮮に要請すべきだ」と訴えた。
帰還事業は、朝鮮総連などの呼びかけで日朝両赤十字が中心になって推し進めた。昭和34年から59年まで続けられ、日本人妻を含む計9万3380人が北に帰還した。だが、多くの帰還者は差別され、苦しい生活を送ったといわれる。特に、日本人妻は2、3年に1度の里帰りを約束されて北へ渡ったものの、それもかなわず、日本人であるという理由で冷遇されたといわれる。
帰還運動の発端は昭和33年8月、神奈川県川崎市で開かれた朝鮮総連の集会で、在日朝鮮人の1人が北朝鮮の金日成首相(当時)に帰還を希望する手紙を出すことを提案したことだったとされる。手紙は届き、金首相は翌9月の建国10周年記念大会で、帰還希望者の受け入れを表明した。
一方、日本赤十字も当時の岸信介内閣に在日朝鮮人の帰還を働きかけ、岸内閣は翌34年2月、帰還の仲介を赤十字国際委員会に依頼することを閣議了解した。韓国はこれに強く反対した。
しかし、同年8月、インドのカルカッタ(現コルカタ)で、日朝両赤十字が帰還に関する協定に調印し、事業開始が正式に決まった。
≪新聞はそろって歓迎≫
日本の新聞各紙は社説で、この決定をそろって歓迎した。
朝日「北朝鮮への自由意思による帰還という人道上の問題が、解決の運びとなったことは喜びにたえない」(昭和34年8月14日付「日朝帰還協定の調印」)
毎日「この決定を心から歓迎するとともに、この決定発表の時期がまことにタイムリーであったことを喜びたい」(8月13日付「帰還問題の責任は変わらぬ」)
産経は少し抑えたトーンで「国際赤十字の援助を確保し得て、実行の段取りにまでこぎつけることができたのである。まずまず成功といってよかろう」(8月13日付「自由帰国問題の新展開」)と評価した。
第1次帰還者975人を乗せた船は同年12月14日、「マンセー(万歳)」の声に送られ、新潟港を出航した。各紙も北朝鮮に記者を派遣し、帰還者の受け入れや平壌の様子をリポートした。
「帰還者は、清津で三日滞在したあと平壌に行き、ここで仕事や学校をきめられる。約十五日平壌に滞在、新しい職について学んだあと各地に“配分”されるが、本人の希望と国の計画とがこれを決める。住宅は各地に建てられ、学校も用意されている」(12月25日付産経)
「北朝鮮の社会主義建設はめざましい。…古い平壌は跡かたもなくなって新しい平壌が生まれた。…道路の両側は近代的なビルが並び、それはことごとく労働者の住宅である」(12月26日付朝日)
北朝鮮は「地上の楽園」ともいわれた。帰還者が必ずしも恵まれた生活を送っていないことが、帰還者から日本の親戚(しんせき)に送られてくる手紙などで伝えられたが、大きな声にはならなかった。
≪拉致を放置した責任≫
当時、北は日本が残した水豊ダムや興南の化学工場などで経済的に恵まれ、各紙の平壌リポートもあながち誇張とはいえない。
その後、北の経済破綻(はたん)が伝えられた昭和50年代以降も、平壌に招待された多くの記者は「税金、医療費タダ」「水準高い市民生活」「国造り進む北朝鮮」といった礼賛記事を書き続けた。
横田めぐみさん、蓮池薫さんらが次々と北朝鮮工作員に拉致されたのは、50年代前半だ。産経は55年1月、「アベック失踪(しっそう)」事件として報じたが、日本政府が本格的に拉致問題に取り組み始めたのは63年1月、大韓航空機を爆破した北の女性工作員が会見で、「拉致された日本人女性に日本語教育を受けた」と明らかにしてからだ。
北への幻想から完全に目を覚まされるのは、平成14年9月17日の日朝首脳会談で、金正日総書記が小泉純一郎首相に拉致の事実を認め、謝罪してからである。
拉致問題を放置した責任は、北に無警戒だった政府だけでなく、帰還事業以降、北の宣伝に乗せられ続けたマスコミにもあるといえる。(いしかわ みずほ)