ごあいさつ
prudence...
「教養の道」は閉鎖いたしました。約五年の間お読みくださりコメントをくださった方々おひとりおひとりにお礼申しあげます。素敵な思い出がたくさんあります。前サイトより通算しますと十余年、ごくわずかの学術サイトしかなく、商用サイトもまだない時代でした。この間ネット上での邂逅もたくさんありました。さらに遡ればカプラからモデムへというパソコン通信の古き良き時代に「哲学・思想フォーラム」や「文学フォーラム」で知り合った方たちとの交流もありました。そのなかの多くは同志であり友です。初めてお逢いした方からブログを読んでいるといわれて嬉しい思いをしたことも一度や二度ではありませんでした。「教養の道」はフランスやルーマニア、米国からアクセスしてくれていた方々もいて、病気で入院したときには各国各宗派のお祈りを賜りました。近くのひと遠くのひとと連帯いたしました。ブログの知らせから救急の手を差し伸べて頂いたこともありました。厳しい状況であたたかいコメントを頂戴し励まされたひとつひとつをわたしの心のなかの宝とさせていただきます。わたしにはもったいない温情の数々を受け取りました。少し休みます。ありがとうございました。(2009年7月今日佳辰に主筆記す)
<四諦・苦集滅道など>
- 「風によって吹き上げられた塵が雨によって静まるように、ひとが明らかな知慧によって見るときに、諸の欲望の思いが静まる」。
- 「諸行無常と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
- 「一切皆苦と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
- 「一切皆空と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
- 「諸法非我と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。 ……これこそ人が清らかになる道である」。
- […]
- 「施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ること、非難を受けない行為、 *「堪え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の<道の人>に会うこと、適当なときに理法についての教えを聞くこと、
- 「修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、ニルヴァーナを体得すること、
- 「世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、
- 「これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。
- ……これがこよなき幸せである」。 (釈尊、中村元訳)
<最後のつぶやき>
経験と思想を切り離せないダメなわたしらしくというのか、完全なつぶやきブログになってしまった教養の道でしたけれども、最後も私的な思いをことばに残したいと思います。部屋の片づけをしていたら、ブログ閉鎖の日に偶然にも実の母からの古い直筆の手紙を見つけました。そこには「お母さんの精一杯のお詫びです」と書かれていました。自分を生んで育ててくれた母親に謝罪をさせるとは、わたしは最後までダメな息子であったと悲嘆に暮れました。無償の愛でわたしを包んでくれた父と母に感謝の念でいっぱいです。わたしは父と母の子でよかったと心から思っています。だからこそ生まれてきてよかったと信じられます。両親への尊敬の思いは日増しに募るばかり、それなのに素直なありがとうの気もちをことばにできなかったことが悔やまれます。人生も峠を越しました。父の子であり母の子、ふたりの間にしか結ばれなかった者として、恥ずかしくない人格をもつ日のために努力を重ね、ゆっくりと死のときを待ちたいと思います。無理な願いとは知りながらも、極楽浄土でふたりが再会し仲睦まじくのんびりと時を過ごし、ときにはわたしの愛したちゃんと一杯やりながら相変わらずダメなヤツだなと微笑んでいてくれたらと願わずにはいられません。2009/07/02愚息
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