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気仙坂

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墓碑銘2009
☆★☆★2009年12月26日付

 ジングルベルの音がにぎやかに通り過ぎ、二〇〇九年が静かに暮れようとしている。新型インフルエンザ、政権交代、デフレ不況と、さまざまなニュースが駆けめぐった今年、国内外では、一時代を築いた著名人の訃報が相次いだ。その何人かを偲び、紙上に墓碑銘を刻みたい。
 六月二十六日(日本時間)、米国から衝撃的なニュースが飛び込んできた。「マイケル・ジャクソン死す」。突然の悲報に、世界が揺れた。
 代表作「スリラー」の世界総売上げは一億枚以上。キング・オブ・ポップ≠ニ称され、ギネス記録で「史上最も成功したエンターテイナー」に認定された。若くして極めた栄光と成功。世界中から絶大な人気を誇ったスーパースターは、数々のスキャンダルにまみれながら偶像化され、五十歳というあまりに早すぎる死によって伝説となった。
 日本の芸能界では八月、女優の大原麗子さん(62)が亡くなった。「すこし愛して、なが〜く愛して」のCMで一世を風靡した癒しのヒロイン。独特のハスキーボイスと甘い口調が今も耳に残る。
 難病の「ギラン・バレー症候群」を患い、ここ数年、表舞台から遠ざかっていた。華やかな女優生活と愛らしい笑顔。そのイメージとかけ離れた孤独死という最期があまりにも切ない。
 十一月には、戦後の芸能史を彩った国民的俳優の森繁久彌さん(96)が天寿を全うした。
 森繁さん主演作品で今でも忘れられないのは、故・向田邦子さんが脚本を手掛けた名作ドラマ『だいこんの花』。竹脇無我さんを息子役に、頑固でユーモアあふれる父親を演じた。
 ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』では約二十年にわたりテヴィエ役を務め、長期間の公演記録を樹立。今なお愛される名曲『知床旅情』を世に送り出すなど各界に大きな足跡を残した。
 芸能界では、一九七〇年代に活躍した四人組グループ「フォーリーブス」の青山孝史さん(57)、俳優の山城新伍さん(70)、牟田悌三さん(80)の訃報も届いた。認知症を発症して女優を引退した南田洋子さん(76)、故・石原裕次郎さんの芸能界の育ての親として知られる元女優の水の江滝子さん(94)らも帰らぬ人となった。
 音楽界では五月、日本ロックの革命家といわれた人気ミュージシャンの忌野清志郎さん(58)が逝った。同じ月、作曲家の三木たかしさん(64)と作詞家の石本美由起さん(85)も死去。十月には『あの素晴しい愛をもう一度』など数々のヒット曲で知られる作曲家で音楽プロデューサーの加藤和彦さん(62)が急逝した。
 スポーツ界では六月、日本女子マラソン界のパイオニアとして、ロサンゼルス五輪に出場した大船渡市出身の永田(旧姓・佐々木)七恵さん(53)が亡くなり、故郷の各界から追悼の声が相次いだ。
 プロレスリング「NOAH」のエースで、受け身の天才といわれた三沢光晴さん(46)が試合中の事故で死亡するという悲劇が起きたのも六月だった。「フジヤマのトビウオ」と称賛された世界的な競泳選手で、戦後の復興のシンボルとして国民を勇気づけた古橋広之進さん(80)、巨人V9戦士の土井正三さん(67)、元広島東洋カープ監督の三村敏之さん(61)らも鬼籍に入った。
 個人的に今年、最も衝撃を受けたのは麻生内閣の財務・金融担当大臣など政権の要職を歴任した中川昭一さん(56)の急死だ。数少ない真の保守政治家といわれ、日本の将来を担うリーダーの一人と期待されていたが、G7でのもうろう会見≠ナ大臣辞任に追い込まれた。
 その後、八月の衆院選で落選。自身のホームページで「新たな決意を持って進んでいく」と再起を誓っていたが、失職から二カ月後に突然死。自殺した父・一郎氏と同様、道半ばでの「非業の死」という言葉が思い浮かんだ。
 このほか、元アナウンサーの頼近美津子さん(53)が五月、古典落語の名手で、テレビ「笑点」の司会などで親しまれた三遊亭円楽さん(76)が十月に死去し、今月二日には日本画の巨匠・平山郁夫さん(79)が亡くなった。
 円楽さんは病魔との闘いが続く中、一昨年二月、「ろれつが回らない」と潔く引退を表明。「円楽」の名跡を直弟子の楽太郎さんが受け継ぐことも決まり、「お後(次の出演者の準備)がよろしいようで」と、人生という名の高座を下りた。
 最後に、今年、惜しまれつつ人生の幕を閉じた有名、無名の物故者の冥福を祈り、合掌。(一)

もう昔の私じゃないの
☆★☆★2009年12月25日付

 メリークリスマス。
 良い子のみんなの枕元には、サンタクロースからプレゼントが届いたかな?残念ながら、良い子時代≠ェ遠い昔に隔たってしまった私の頭上に転がっていたのは、けたたましく鳴りわめく目覚まし時計のみ。うぅ…諦めて会社へ行こう…。
 年末は仕事が立て込み(九割方、要領と段取りの悪さが自分の首を絞めているだけなのだが)、就職してからこれまで、クリスマスの晩の過ごし方は「職場で」というパターンがほとんど。今夜もきっと同僚と肩を並べ、机の前に座っていることだろう。
 そもそも行事というのは、当日より準備期間のほうが遥かに楽しいものだ。クリスマスも、クリスマス前までが一番クリスマスらしい。当日は結構どうでも良い。ハイ、負け惜しみではありません。
 そんなわけで心は早々にジングルベルから離れ、頭はすでに正月モード。個人的には喪中なので大々的にお祝いとはいかないが、今回は仕事で重大ミッションが課せられていた。さて何か?「おせちづくり」である。
 主婦歴三年と二カ月。家事全般苦手であるということを、過去の記事で惜しげもなく(というより恥ずかしげもなく)さらしてきた。知人らから大量にお裾分けされる魚や野菜の扱いに混乱し、掃除特集で家の台所や風呂を紙面に出せば「汚すぎる」と指摘され…。失格主婦≠フ烙印はすでに、自分の持ちネタと化している始末だ。
 その私が、良妻の象徴みたいな伝統料理に挑戦。これまで母の手伝いも含め、おせち料理を作ったことなど一度もない。これは文字通り「挑戦」である。無謀なる戦いを前に、挑みかかる気持ちでいないと挫けそうだ。
 きっかけは本紙連載の「勝手にトークアイ」。年末準備を特集するにあたり「おせち作ってみようかな」などと、つい出来心で発言してしまったのである。
 というのも実はわたくし、この秋頃から心境に変化がございまして。
 秋といえば実りの季節、すなわちお裾分けのピーク。右から左へ流れてくる食材を捌いていくうちに、「あれ…料理ってこんなに楽しかったっけ…」などと、我が心に奇跡とも思える感情が芽生えたのだ。おそらく、以前よりレパートリーが増え、食材を前にたじろぐことが減ってきたからだろう。
 こうなると突然欲が出るのは、身の程をわきまえないタチが為せるわざ。いきなりおせちとはハードル上げすぎであるが、図書館で正月料理の本をごっそり借り、試作もなしに作り始めてしまった。内容は伝統と創作の折衷。詳細は27日付の本紙に譲るのでご笑覧いただければ幸いだが、いやこれが想像以上の楽しさ。 
 縁起を担いだ(そして私でも作れそうな)メニューを決め、重箱への配置を図にし、手順を紙に書く。合間には普段の食事の支度をしてと、考えるのはひたすら段取りのことだけ。作業がひと段落するたび「楽しい…」と浮かぶ不適な笑み。いつのまにか無心の境地に達している。
 家人の健康と来年の多幸を祈りながら丁寧に重箱を埋め、折り目正しく正月を迎える…嗚呼、台所を預かる女性たちは、昔からこのようにして心豊かな生活を獲得してきたのね、としみじみ実感。ビバ・日本の歳時記。次は大掃除で心も浄めよう…とうまい具合に転がっていこうというものだ。
 そう、家事の醍醐味を覚えつつある私はまさに今、失格主婦の殻を脱ぎ捨てようとしているのである。この快感を忘れないうちに「自分良妻化計画」を立案。来年にはカリスマ主婦と呼ばれちゃってるかもしれない。
 ところでこのおせちは撮影用だったため、作ったのは二十三日。とてもお正月までは持たない。かくして我が家では、クリスマスのチキンの代わりにゴボウの肉巻きを食べ、ケーキの代わりに栗きんとんと黒豆を食すことになる。
 では正月本番はどうしよう。せっかく生まれ変わったことだし、こうなったらもう一度おせちを作り直すか。
 ……。いや……今年はもういいかな…。二度目はさすがに面倒くさいしな…。
 と思うあたり、早くも計画は頓挫の気配。そうそう簡単には心を入れ替えられないもんです。(里)

紙を読む実感
☆★☆★2009年12月24日付

 小社の男性社員のほとんどが担当する業務に印刷当番がある。所属部署によってさまざまな役割があるが、普段工場と縁遠くなりがちな編集記者も週一回、新聞を梱包する作業を担当する。刷り上がったばかりの新聞の束を持ち上げ運び、梱包用の紙でくるむ。時間を重ねるにつれ手の平はインクで汚れ、両腕の疲労感が増す。通常業務後の残業でもあり、時におっくうにも感じられる作業だが、出来たての新聞を見た瞬間は、それらを吹き飛ばすほどの達成感を味わうこともできる。
 物作りの特権ともいえる至福の瞬間だが、浮かれてばかりはいられない。近年、著名な雑誌が相次いで休廃刊したり、新聞の部数減少に歯止めがかからなかったりと、紙媒体の苦戦が続いている。他方でインターネット小説や、ダウンロードで読む漫画、小説などは着実に市場が拡大している。特に電子書籍は専用端末の新製品が続々と登場、大手メーカーも乗り出すなど、世界中でシェア獲得合戦が繰り広げられている。
 紙媒体マスコミの末端にしがみつく者として、電子版に勝る紙の本の長所を考えてみた。すると、驚くほど少ないことに気づいてしまった。書店に行かず、ネットを通じて好きなタイトルが購入できることはもちろん、蔵書が家でスペースを取ることもない。近年では内容の一部を閲覧できる立ち読みサービス≠燗W開されているほか、専用端末なら縦書きにも対応し、日本語書籍を読む際も違和感がない、などなど。
 本当に長所がないのか、と愕然としかけたところに、有名な一代成功社長の言葉を思い出した。「お金持ちになりたいなら、成功したいなら、まずは借りてでも百万円の札束を用意し、その感触を味わえ」という話。その心は、札束が持つ重さ、厚み、手触りを覚え、実感として忘れないようにすることで、再び手に入れたいという信念を持ち続けることができる、というもの。
 この通りにして実際に大金持ちになれるかはさておき、物を実感することの大切さ、という観点が新鮮で感銘を受けた。端末の画面上で読む電子書籍にないものも、本ならではの手触り、重さ、厚さ、においなど、本としての実感なのだ。
 確かに本で一番大切なのは、そこに何が書かれているか、という点に尽きる。しかし、素材から形状まで「ハードとしての本」も、すべて記されたストーリーをより興味深く味わうための舞台装置だ。例えば紙の質。それぞれの本のテイストを表現し、中身のイメージを膨らませる重要な要素だ。女性向けファッション雑誌に少年漫画週刊誌の紙を使うのはもってのほかだが、逆もまた漫画誌ならではの親しみやすい素朴な味わいを失ってしまうだろう。
 それぞれの本で、編集者たちが製作コストと相談しながら、手触り、発色のよさ、製本されたときの重さなどを吟味し紙を選ぶ。さらに子ども向けの本なら手を切る心配がないか、書き込み式なら鉛筆のりが悪くないかなど、特殊な事情も加味して決め、世に出される。紙だけでなく、本のサイズ、表紙カバー、帯、綴じ方などについても一つ一つにネライがある。そうした意図を推測しながら総合芸術として本を楽しむのもまた一興ではないだろうか。
 さて、翻って本と同じように、紙でできている新聞。「我々は新聞紙を作っているのではない、新聞を作っているのだ」なんて記者の心構えを表す格言もあるが、新聞紙としてハード面にも工夫を重ねることで、新聞と距離があった層を招き寄せたり、新たな可能性を生むことはできないだろうか。大手の新聞の中には読みやすいよう、折り目が本文にかからない工夫がされているものもある。高知県で取り組まれている新聞紙でバッグを作る活動も、紙としての可能性に着眼し脚光を浴びている。
 「情報が読めればいい」だけではない価値や魅力を、新聞に添えていくこと。これからの業界に課せられた宿題の一つだ。そんなことを考えた印刷当番の日、いつもより梱包が丁寧になった気がした。(織)

師走のもの忘れ大賞
☆★☆★2009年12月23日付

 今年も残すところ十日足らず。なぜ、師走はこんなに駆け足なのだろうか。今年最後の締めであり、総決算だから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、忙しさにかまけ、昨日は冬至かぼちゃを食べるのも忘れていた。
 いささか旧聞になったが、総決算といえば、すっかり師走の風物詩となったものに、軽妙にその年の世相をついた言葉や文字の発表がある。大衆にインパクトを与えた新語・流行語と、今年の漢字という、あれである。
 つい、半月ほど前に発表されたというのに、「あれ?、今年は何だったっけ」と、健忘症は加齢とともに拍車がかかっている。報道各紙でもこの時期、「今年の重大ニュース」とかで一年を振り返っているので、「そうそう、あれ、あれ」と、今度は単語が出てこない。
 ようやく思い出した。流行語大賞が「政権交代」。あの歴史的な衆院選挙が行われたのは夏だった。自民党は議席を激減させ、一方、民主党は議席を大きく伸ばして圧勝した。秋、民主党内閣が発足。選挙による政権交代が実現したのは戦後初めてのことだった。
 あれから三カ月、季節の移り変わりに合わせるかのように、熱の冷めようも早いこと。下野したサイクリング店長≠ゥら、早くも「マニフェスト詐欺」という新語も飛び出す始末。マザコンのなまこ店長≠ノ業を煮やしてか、民主党幹事長の進軍ラッパ≠ェ妙に耳につくが、いずれそれも激動の揺り戻し、長い歴史の一コマとなるのか。
 歴史といえば、自分的には「歴女」という新語が新鮮だった。しっかりベストテンに入っている。時代劇を読み、史跡も訪ねる本格的な「歴史通」を豪語する若い女性が増えているという社会現象はじつに愉快である。
 キッカケとなったのは、戦国時代などをテーマにした映画やゲームもあるが、イケメン俳優が出現した大河ドラマ「天地人」などが推進力となったであろうことは言うまでもない。背景には「草食系男子」の反動との分析もあり、こちらは不愉快。
 その年の世相を一文字で表すという漢字も、すっかり定着した。京都・清水寺の森清範貫首が揮毫する世相漢字と、自らが決めた漢字と見比べ、一喜一憂するのも面白い。こちらは、つい先日発表されたばかりなので「新」と、すぐ思い出せた。
 ところが、不覚にも師走恒例のもの忘れ症候群は、早とちりという形で恥をさらけ出してしまう。何と、森貫首が特大の和紙に「新」の字を力強く書いているのをテレビで見ながら、あまりの達筆さに「あっ『祈』だ」と一瞬、勘違い。同僚の失笑を買った。
 「新」が選ばれたのは、新政権の発足、行政刷新、新型インフルエンザなど、いろいろ理由はあろうが、某紙にコメントを求められた石原慎太郎東京都知事が「新政権か、新型インフルかどっちなの。私に言わせれば衰退の『衰』だね」と皮肉ったとか。
 世相をどんな目線で見るか、立場が違えばそういうことも、あると思います。言わせてもらえば、オリンピック招致に落選したので「落」でも推薦したいところだが、政治家にとって最も嫌がる漢字の一つだけに、「衰退の『退』だね」ぐらいにしておくか。
 それにつけても政治家という人種は、徒党を組むと好んで「新」の字を選びたがるようだ。思い出しただけでも政党に「新」を入れた党は、過去にいくつもあった。細川政権の誕生前夜、新生党、新党さきがけ、日本新党。ロッキード事件後に躍進した新自由クラブというのもあった。
 政権が動く時というのは、国民もやはりあのころと似たような新鮮な気持ち、いや祈るような気持ちになるからだろうか。だから「新」という字が「祈」という字に似ているのかもしれない。
 若い世代にとって、超就職氷河期という試練の年が続いている。新年は陽光が降り注いでほしい。「若いという字は苦しい字に似ているわ、涙が出るのは若いというしるしね」というひと昔前の流行歌を思い出した。古いことはよく覚えているものだ。さて、誰の歌だったっけ。(孝)

その姑息さが気にくわぬ
☆★☆★2009年12月22日付

 増税となれば誰もが目をむき、反対や非難の大合唱が起こるのが普通だが、その増税がなされそうだというのに、別段大声をあげるわけでもなく、逆に力なく肩を落とす人々がいる。喫煙者と呼ばれる納税者たちである。
 政府税制調査会は新年度からたばこ一本当たり三円を値上げする調整に入ったという。「取りやすい所から取る」という「徴税の極意」が発揮されるのだろうか。
 民主党政権誕生の最初の大事業が消費税の引き上げでもなく、環境税の導入でもなく喫煙者というある意味での弱者から税金を取り増すというのは、水戸黄門に登場する悪代官の所業を見るようで小生は義憤を感じざるを得ない。
 この目的があくまで税収をあげるためなのか、それとも喫煙者を減らすためにあるのか、その両方を狙ったものなのかがはっきりしないのはともかく、まずは増税ありきで税調が動き出したことだけは確かだ。
 上げても喫煙者は文句を言わない。嫌煙・禁煙推進団体は大喜びする。夫を父をホタル族に仕立てあげている家族たちも歓迎するだろう。その上に税収が上がるならまさに一石二鳥というわけである。
 ではどんな結果が予想されるだろうか。喫煙経験者としての立場から言えば喫煙者が大幅に減るということはまず考えられまい。二十本入りのたばこが六十円もの大幅な値上がりになるというのは、虎よりも猛き苛政というものであり、食料品がこれだけの比率で値上がりしたら暴動になるだろう。だが、ニコチン依存症はこの際やめようという気になるよりは、仕方ないと応じる確率の方がはるかに高い。つまり税収は確実に増える。
 値上げを禁煙→健康維持の有効な手段と考える厚生労働省や医療関係団体などは欧米のように大幅な値上げをしなければ効果が薄いとして一箱七百円、千円の値上げなどといった大胆な案を提示しているが、さすがそれは短兵急すぎるとして世論の支持を得るまでには至っていない。そこで税調にはどうせならと一本五円案もあるようだ。そのいずれに傾こうとも喫煙者がムシロ旗を掲げて反対することは考えられず、世の禁煙志向も手伝って新年度から喫煙者のふところが痛むようになるのはほぼ確実だ。
 吸っては止め、止めては吸うことを何十回となく繰り返してきたニコチン依存症の小生は、このような弱い者いじめに徹底的に抗し、一円でも協力するものかと十月から禁煙を断行、現在もじっと我慢している。
 そもそもたばこを公認し、公社までつくって喫煙を奨励し、葉たばこ生産者を鼓舞育成してきたのはどこのどいつなのか?その責任を取るでもなしに一転して「喫煙は健康に悪い」などと言い出すだけでなくその上に増税するなど、悪代官すら恥ずかしくてようせぬことである。旧国鉄の尻ぬぐいをさせられ、肩身の狭い思いをしながら地元のためにたばこ税を上納し、身体を張って納税協力してきた功労者に対してよくもこんな冷たい仕打ちができるものだと小生ははらわたが煮えくりかえる思いでこうした動きを見ている。血も涙もないとはこのことだ。
 二十年前と比べたら喫煙率は減っているのに肺ガンの罹患率は増えているというその関係について、医学的検証も考証もよくなされぬまま、たばこの害だけが取り沙汰されているのはおかしいと言わねばならないが、それはもはや世界の大勢として抗うすべもない。だが、そんな現状を奇貨として火事場泥棒のように姑息な値上げをしようというその精神が小生には気にくわないのである。
 よし全国の喫煙者諸君、ここで一斉に断煙し、たばこ税收をゼロにして一矢報いようではないか。と、檄を飛ばしたいところだが、結果は?。やめとこう。(英)

古代史ドラマに興味津々
☆★☆★2009年12月20日付

 司馬遼太郎の原作によるNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』が好評だ。全十三回のうち、先月二十九日の第一回から今月二十七日の第五回で第一部を終えたあと、第二部は来年、第三部は再来年の放映予定という、あしかけ三年に及ぶ力作。
 既に本欄で〈英〉氏が触れた(十二月一日付)ので深入りしないが、秋山兄弟と子規の人間像、明治という時代背景、帝国主義下の世界情勢を可能な限り再現し、混迷する現代日本の近未来を考えてほしいという制作者の意とするところが、近・現代史に疎い者にもひしひしと感じられた。
 NHKのテレビドラマ、とくに歴史ドラマといえば半世紀近い実績のある「大河ドラマ」がその代表だが、一年の長丁場に及ぶため、冗長に過ぎる作品がなくもない。描く人物によっては四十五分を五十回持たせるだけのエピソードに欠け、架空の人物が登場したり、創作と思われる恋愛物語を織り込んだりして、回を重ねたものもみられた。
 もっとも、「大河ドラマはドキュメンタリーではなく、あくまで人間ドラマ」というNHK側の制作意図を、どこかで聞いたことはあるが…。それはそれとして、今回の『坂の上の雲』に限らず、数回程度に凝縮した歴史ドラマに佳作が多いように思うが、いかがであろうか。
 ごく最近では、戦前は近衛文麿の、戦後は吉田茂の懐刀として日本政治の裏舞台で活躍した『白洲次郎』、少し前なら江戸時代の回船商人・高田嘉兵衛を描いた同じ司馬遼太郎原作による『菜の花の沖』(二〇〇〇年)が筆者の印象に残っている。もっとも、後者は復元・千石船を有する我が町でロケが行われたせいもあるが、竹中直人の嘉兵衛になりきった役づくりは今でも忘れられない。
 あまりドラマを見ない筆者は例外として歴史ドラマ、しかも従来あまり取り上げられなかった時代に関心がある。その点では飛鳥、奈良、平安前中期、鎌倉、室町、南北朝を駆け抜けた人物にもっと陽が当たってもいいと思う。「大河ドラマ」でいえば『風と雲と虹と』『炎立つ』『花の乱』『時宗』『太平記』といったところだが、源平合戦や戦国、忠臣蔵、幕末もののような視聴率は稼げなかったと聞く。
 それなら、よりコンパクトな歴史ものに期待したいものだと念じていたところ、来春、NHK「古代史ドラマスペシャル」として『大仏開眼』(一三〇〇年を見つめた瞳)と題するドラマが放送されることを知った。サブタイトルが示すよう、奈良遷都千三百年にちなんだもので、主人公は吉備真備という。
 真備は遣唐使として歴史の教科書でもお馴染みだが、どんな人物?と聞かれても即答できない。調べてみると、奈良時代の学者、政治家、公卿。遣唐留学生。帰朝後、聖武天皇に重用されたが、政権を握った藤原仲麻呂(恵美押勝)に左遷された。再度の入唐ののち、帰還。太宰府、東大寺の長となって押勝の反乱を鎮圧。称徳天皇のもと中納言、右大臣に昇進している。
 ドラマには真備の薫陶を受ける阿倍内親王(のち孝謙・称徳天皇)、政権を担った藤原四兄弟、頭角を現す参議・橘諸兄、九州で反朝廷の旗を揚げた藤原広嗣、大仏建立を発願した聖武天皇、復権を目論む藤原仲麻呂らが登場。揺籃の平城の都を主舞台に、さまざまな人間模様が描かれるものとみられる。
 NHKの「古代史ドラマ」は、筆者の記憶では二〇〇一年の『聖徳太子』、二〇〇五年の『大化の改新』に続く第三弾。滅多に映像化されることのない奈良時代の物語。高橋克彦さんの歴史小説『風の陣』と同時代のドラマでもあり興味津々。大仏建立に我ら蝦夷(東北人)は黄金をめぐっていい印象は持ち合わせていないが、それはさておき、ドラマそのものは大いに注目したい。(野)

殿堂入り火の玉野球∞
☆★☆★2009年12月19日付

 甲子園取材は、地方球場とは全く勝手が違っていた。今もそうかは知らないが、大船渡高校が初めてセンバツ出場した昭和五十九年当時、関西記者クラブが仕切っていた。
 事前に取材マニュアルが渡されたが、分厚い冊子でとても読み切ることはできなかった。ただ、要点は限られている。入場の際の記者証携行、グラウンド内での撮影は事前申請のカメラマン限定、スタンド撮影も所定の場所で行うことが原則だった。
 ところが、この三条件が一つもこなせない。記者証は実績のない地方派遣記者には用意されないため、球場出入りには何枚も切符を買っておく必要があった。内野席で試合の写真を撮り、アルプス席で応援団や関係者のコメントを取り、また内野席に戻ってくるにはそうするしかなかった。
 試合写真も、グラウンドに降りられないため観客席上方にある「所定の場所」で撮るしかなかったが、五百_の望遠レンズでは話にならない。そのため観客の邪魔にならないよう、最前列の空席を見つけるしかなかった。
 しかし運良く、岩手から派遣されていた某紙記者から「予備の記者証が余っているから」と、貸してもらったのには大助かり。そんな裏舞台はともかく、華々しい打撃戦が相次ぐセンバツは日に日に熱気を帯びていた。
 大高が初戦を迎える前の十二試合で、勝利したチームの平均得点は八・九点。ほとんど毎回得点の猛打が、各地区代表の名投手を襲っていた。しかも、大高の相手は二十四戦負けなしの中国地区覇者・多々良学園(山口)。
 一体どうなることかの不安は、初回で消し飛んだ。エース金野が一回表を無難に抑えると、その裏、主砲・鈴木の一振りが大会十七号の2点本塁打となって豪快に先制。その後も金野の快投が冴え、相手にはチャンスの糸口さえ与えない。逆に追加点の欲しい大高は、八回二死一、二塁の場面で五番・今野が左中間を深々と破る適時三塁打で試合を決めた。
 第五十六回センバツ高校野球大会を特集した『毎日グラフ』では、気仙勢にとって甲子園初勝利というこの歴史的一戦に、「大船渡常勝¢ス々良を完封でくだす」のタイトルを付けた。
 夢にまで見た甲子園。しかも、完封勝利を挙げるとは。球場に流れる校歌は、佐藤監督がピアノ演奏し、選手たち自身が吹き込んだ声だった。この時の感動は、大高関係者のみならず、気仙の野球ファンも同じだったろう。
 しかし、感動にばかり浸ってはいられない。二回戦の相手も難敵だった。強打を売り物にする日大三島(静岡)が待っていた。それでも選手たちは、またもやってくれた。三番・清水の先制打に続き、鈴木が二試合連続本塁打。終わってみれば、8対1のワンサイドゲーム。「これが東北?金野巧投チーム11安打」の圧勝だった。
 岩手県民にとっても胸のつかえが下りる快勝だったが、次の準々決勝こそが壁だった。野球レベルの高い四国にあって、名門を誇る明徳義塾(高知)が相手。二試合連続完封勝ちの古豪に対し、金野―吉田のバッテリーを軸に大高の堅守が光った。攻めては四回裏、二塁に走者を置いて、チャンスに強い今野がまたも三塁打を放つ。結局このトラの子の得点を死守。「明徳のお株奪い岩手の湘南≠P対0」で、初陣大高がついに甲子園4強に名を連ねた。
 こうなれば、残るは優勝しかない。準決勝の相手はあまりその名を聞かず、ずっと接戦を続けている岩倉(東京)。これを破れば、決勝に待っているのはあの桑田・清原コンビのいるPL学園(大阪)ただ一つ。
 いよいよ大詰めの一戦。ロッカールームから、大高の選手たちが出て行く。入れ替わりに、準決勝で都城(鹿児島)をまさかの落球≠ナサヨナラ勝ちしたPLナインが引き上げてくる。すれ違いざま、大高の佐藤監督にPLの中村監督が「明日、決勝で会いましょう」と声をかけた。(谷)

我が家の年賀状
☆★☆★2009年12月18日付

 今年も年賀状を書き終え、あとは投函するばかり。
 いつもお世話になっている方々やお世話になった方々に一筆を添え、新年のごあいさつを送る。メール全盛の時代となっても、この習慣は大切にしたいと思う。
 さて、その年賀状である。
 実は、私の年賀状は平成の年号とともに変わった。何が変わったのか。結婚したおかげで家族写真付きに変わったのだ。
 第一号の平成元年は隣に妻がいた。翌年は生まれたばかりの長女が加わった。三年は私たち夫婦と長女、それに次女が妻のお腹の中で写っていた=B四年以降は娘たち二人が年賀状を飾っていく。
 時には私たち夫婦も顔を出す。私自身はあまり出たくない。登場するたびに顔の輪郭が変化し、特に頭部の変わりようが激しい。
「私だけ出るのはおかしい。○○さんもお父さんを見たいと言っているから」
 そう妻に勧められ、女房孝行のつもりで、世の不評を覚悟して顔を出させていただいている。
 これまでの年賀状は妻が順番に整理し、ホルダーに保管している。子どもたちの成長が一目で分かる。小さな赤ちゃんだった娘たちも今や大学生。長女は今年二十歳となり、来年は次女が成人式にのぞむ。本当に早いものだ。
 新年分を含めると二十二枚になる夫婦共用の年賀状。一枚一枚に子どもたちの成長が記録され、夫婦と親子の歴史が刻まれてきた。
 もっとも機械の類が不得手な私は何もせず、写真撮影からパソコンを使ってのデザイン、印刷まで全て妻におんぶに抱っこだ。
 年賀状ではもう一つ、妻に負担をかけている。夫婦共用とは別バージョンの年賀状も作ってもらっているのだ。
 仕事を通じてご厚誼を得た方々の中には、くだけた感じの家族写真では失礼と思える方々もいらっしゃる。結果として、私だけ二種類の年賀状を出している。
 私が作るわけではないのだが、この私専用の年賀状作りがまた大変なのである。優柔不断な私の場合、どの素材を使うかがなかなか決まらないのである。
 私が求めるものは、私と正反対とも言える「品のあるデザイン」と「明るい色彩」。そして「和の心」。なぜかと問われても、説明はしかねる。ただ、私のこだわりである。
 我が家にはこれまで買ったパソコン用の年賀状素材集が何冊かある。ここ数年はその中から好きな漢字四文字の素材で年賀状を作ってもらっているのだが、そのシリーズも段々と底をついてきた。
 気に入ったものがあれば新しい素材集を買おうと本屋さんを訪ねた。大変申し訳ないのだが、買う前の品定めと店内に並ぶ十数冊を立ち見させていただいた。
 じっくり眺めたが、どうもしっくりこない。極論を言えば、多くが少女チックで重量感に欠ける。私向き、早い話が「おじさん用」にはなっていないのだ。結局は一冊も買わず、今年も家にある本のいつものシリーズから迷いに迷った末、新年の漢字を選んだ。
 出版社の方々にはぜひ、『おじさんたちのための年賀状集』も出していただきたいと願う。
 最初に漢字素材で年賀状を作成した時は、決断力の鈍い私も迷うことなく選んだ四文字があった。
 『一陽来復』である。
 冬が去って必ず春が来るように、逆境や不運の中にあっても耐えて辛抱していれば、やがては良い方向に向かうということ。私の大好きな言葉である。
 悲喜こもごもあった平成二十一年も間もなく暮れる。この欄は私にとって今年最後の担当である。一年を省みると、私の場合はただただ拙文、駄文ばかりを書き連ねてきた気がする。にもかかわらずご愛読くださった方々に心から感謝の意を表して『一陽来復』の言葉を贈り、今年の締めくくりとさせていただきたい。(下)

続・平氏の末裔「渋谷嘉助」G
☆★☆★2009年12月17日付

 大船渡湾の弁天山で、渋谷嘉助が石灰岩の砕石を始めたのは明治四十三年。日清戦争が起きてから十六年後のことだった。
 その当時、渋谷嘉助は、東京の日本橋で銃砲火薬を扱う陸軍御用達の渋谷商店を経営していた。
 貿易が広まり近代産業が進展し、鉱業用のダイナマイトを日本で最初に輸入販売したのも渋谷商店であった。
 渋谷嘉助は、明治二十七年(一八九四)の日清戦争でその存在が注目を集める。
 至誠奉公を信条とした渋谷嘉助は、日夜沈思、熟慮した結果、自ら軍夫隊を組織して軍隊の後方支援を計画した。
 命を投げ出して戦地の御用達を志願。渋谷商店で働く人々も賛成した。周到な計画を立て、軍事当局の許可を得て、即座に数百人の職工団を組織した。
 軍旅に必要なあらゆる種類の職工を網羅して、軍隊の不便を感じさせないように従軍させるというのが、その主眼であった。腹心に統率させて、軍隊の後方で軍需補充に動いた。
 硝石を国内で製造することを最初に働きかけたのも、渋谷嘉助であった。
 その生涯を記した伝記「渋谷嘉助翁」(岡本作富郎著)によると、明治維新後、兵制は全部洋式にのっとり鉄砲が武器として重要なものとなったが、鉄砲の命でもある硝石は、当時は外国からの輸入に頼るしかなかった。
 硝石は火薬原料や肥料として必要欠くべからざるものであり、至誠奉公を信条とした渋谷嘉助は、この点にも着目した。
 外国と戦争が始まって、輸入が途絶した万一の場合に備えて、何とかして国内で製造を試みたいと考えた。己一人の力では到底なしえない大事業であった。
 あらゆる工業の先駆として硝石製造の事業を振興させたいと説き、奔走した。百年を達観した活眼と利欲を離れた高い見地からの行動だった。しかし、この緊要な事業に一人として耳を傾ける者はなかった。
 渋谷嘉助は遂に意を決して、新たに開かれた帝国議会に対して、国家の事業とするよう請願したが、採択されるに至らなかった。
 「色々の事を計画したが、あの時ほど焦ったことはなかった」と後年に語ったという。
 硝石製造が緊要であると説いた渋谷嘉助の真意が、初めて人々に知られるようになったのは、日清戦争が始まった時だった。
 難関に遭遇しても屈しない渋谷嘉助は、陸軍当局に日参して願い出た。日清戦争が勃発するに及んで、陸軍と内務の両省から多少の援助を与えられるようになり、遂に目的を達するに至った。
 渋谷嘉助のこうした行動は、人はよく理解しなければ乗り気にならないものだ、目的が達せられないのは己の熱心が足りないからだという一念にあり、そのため百方説いて回った。
 渋谷嘉助の志は単なる商人を超越していた。いかなる事業を行う場合も国家を念頭に置き、自己の利益は二番、三番にした。硝石の製造を志したこともまさにその例であったとされる。
 変動において活躍する風雲児と呼ばれた渋谷嘉助。桓武平氏の平良文を先祖とする血筋を、その姿に見る思いがする。(ゆ)

雪国へのあこがれ
☆★☆★2009年12月16日付

それにしても、先日見た松本清張原作の映画「ゼロの焦点」(犬童一心監督)は、非常に印象に残る
作品だった。
 仕事で石川県・金沢に出かけたまま、失跡した夫を捜す若妻と、現地で夫と交流があったレンガ会社の社長夫人、その会社の受付で働く女性。妻が失跡の謎を調べるうち、周囲では連続殺人事件が起こっていく。果たして、夫は生きているのか、女性たちの関係は、殺人事件の犯人は誰か――。
 アイドルから演技派としての成長著しい広末涼子に、近年の日本映画界で高評価を受ける中谷美紀と木村多江。女優三人の競演もさることながら、見る者に強い印象を与える色使い、心情や環境の変化を表現する細かい演出、昭和三十年代のファッション…と、興味をひく要素が多かった。
 なかでも最も心を奪われたのが、冬の金沢や能登の風景。映画のパンフレットでは理想的な場面を求めて国内各地や韓国でロケーションを行ったと紹介しており、すべてが石川県内ではないかもしれない。しかし、スクリーンに映し出される光景を見て、「やっぱり一度はあの地へ行ってみたい」とあこがれの思いが強まった。
 十数年前、初めて「石川に行きたい」と思ったのも、ある小説と映画がきっかけだった。宮本輝原作、是枝裕和監督の「幻の光」という作品だ。
 主演は当時好きだった女優・江角マキコが務めていた。高校時代に映画の話を知り、見られないのならせめて本で…と原作を手に取った。
 夫が突然鉄道自殺を図ったものの、死の理由を見つけられず、喪失感に襲われる主人公の女性。奥能登の地で再婚し、新たな暮らしを送る中でゆっくりと死の理由を見つめ、心を回復させていく姿を描いている。
 その後、筆者は進学で青森県内に移り、映画も現地の映画館で見ることができた。学生時代は何度か研究の題材にもしており、とても縁の深い作品となった。
 小説を読んでも、映画を見てもストーリーとは別に、四季の移り変わりによって表情を変える奥能登の風景が心に残った。以来、どんなテーマパークよりも、冬の石川が魅力的に思える。
 冬の石川にあこがれるのは、小説や映画の影響だけではない。考えるに、たくさんの雪と海≠ニいう組み合わせと出合ったことがないからだと思う。
 学生時代に住んだ街は豪雪地帯で、十一月下旬ごろから雪が積もるところだった。雪かきをしないアパートの周辺は自転車が雪に埋まり、ごみ捨て場の扉の位置は、夏場よりも低くなる。
 雪が少ない気仙から盆地の雪国に移り、一年目はおっかなびっくりすることばかりだった。やがて転ばない歩き方を習得し、雪がしんしんと降る寒さ厳しい夜も平気で歩けるようになった。
 しかし、そこは内陸で、海がなかった。大学を卒業して再び戻った故郷には、素晴らしい海や日本海側に負けない絶壁があり、海から吹く風も強い。でも、あまり雪が降らない。
 雪の少ない生活に慣れてしまい、車を運転するようになった今ではちょっとした降雪も忌み嫌う。しかし、日本海の風景に思いをはせると、ひと冬に一度くらいなら、ひどく雪が降り積もる碁石や黒崎の様子を見てみたくなる。
 今年は暖冬で、先日見たテレビのニュースでは青森市内も積雪がないという。気仙では五葉山が雪化粧を施したものの、平地ではいっとき舞ったぐらい。「降って。いや、降らないで」と雪に対しては葛藤もあるが、冬らしい光景が恋しくなるのは、雪国へのあこがれのせいかもしれない。
(佳)


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