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花の名所

プラス1 里人に脈々と山への思い



丹波修験の行者が水行をして出発した筱見四十八滝 の長滝

 かつて大峰山と並ぶ勢力といわれた丹波修験の流れについて、御嶽山ろくの篠山市瀬利に住む郷土史家の畑治男さん(87)(市立青山歴史村名誉館長)に尋ねた。文書などが残っておらず実体がつかみにくい丹波修験だが、「頼朝に追討された源義経が吉野からも逃れてから平泉に赴くまでの3年間、強い丹波修験の勢力に支えられて御嶽に隠れ住んでいた可能性もあります」と歴史上大きな役割を持ったというのが畑さんの見方。少々飛躍しているようだが、義経が須磨の一の谷攻めに向かう時、通り道に選ぶなど縁が深い地であることを考えると興味深い。

 「修験道が入る前からこの山は丹波一円から見られる標山(しめやま)とみられていました。神の降り立つ山として崇敬を集めていたのでしょう」。室町時代に拠点の大岳寺が大峰山の僧兵に焼き討ちされた後も、江戸時代には再び山伏が入り山頂近くに篭り堂が設けられたり、修験道ゆかりの不動明王をまつった御嶽太師堂が建てられるなど、山への信仰は、組織としての丹波修験と別に連綿と続いてきたと畑さんはみている。

 大峰山に登る篠山市域の各講が集まった丹波大峰会会長の岸見俊治さん(86)は「大峰修験でも多紀の講は活発で一目置かれる存在でした。多紀連山のふもとで育ち、険しい山道を歩くのに慣れていることもあるのでしょう」と話す。会にとって最も大事な行事は8月1日、2日の大峰登山だが、丹波修験の伝統も守ろうと、最終の行の「水行」を行う北西山ろくの栗柄で1月3日に護摩法要を営むなどゆかりの地での伝統行事を守ってきた。

 山ろくの各集落でも、かつて丹波修験道場だった山を広く知ってもらおうと多紀連山開発促進協議会にまとまってPR活動などを行っている。協議会の役員を務める畑さんは「健康づくりはもちろん、歴史を知りながら山登りを楽しんでもらえれば」と、史跡の説明板設置などを進めている。大峰の戸開きなどの儀式は残っていないが、協議会など地元の人が中心となって5月第2日曜には山開き、11月の第2日曜には「多紀連山アルペンルート登山」を催し、かつての修験の道を織り込んだコースを登る。この時に丹波大峰会による護摩法要も行われ、京阪神方面の登山者の参加も増えている。

 日中戦争が広がる昭和13年に小学教師になった畑さんには、山といえば終戦まで児童と炭焼きをさせられ、山登りどころでなかった時代のことが思い出される。戦後、小学校や中学校の遠足で子供たちを山に連れて行った畑さんは今、地域の中の教育で山の大切さを感じている。「山ろくの畑小学校では『緑の少年団』の活動で山から流れる谷川でのホタルの復活や川魚の調査に取り組んでいます。山すその瀬利の里山では都会の家族に林を自由に使ってもらう『貸し山林』も始めました」。修験の伝統も踏まえて多紀連山の自然を現代に生かす試みが広がってきている。

(小泉 清)
2006年04月29日  読売新聞)

〔参考図書〕  「みたけの里 歴史さんぽ」畑小学校・畑校区歴史書編集委員会、1991


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