January 2009

それはともかく、特集の焦点が「正社員の既得権」になっているのは一歩前進だ。菅直人氏もインタビューで登場しているが、製造業の派遣については「継続すべきか否か議論している」と後退した。当たり前だ。この不況のさなかに、製造業の派遣労働者46万人の雇用を禁止するなんて、世界にも類をみない愚劣な法案だ。「お涙ちょうだい」で集票効果をねらったのだろうが、朝日新聞でさえ世論調査で「かえって雇用が減るという意見もある」と付記して、製造業の派遣禁止に46%が反対した。
厚生族の川崎二郎氏が「雇用責任」を強調しているが、これはナンセンスだ。企業が労働者を正社員として雇用する責任なんてない。むしろ重要なのは、雇用可能性(employability)である。派遣労働者が「技能を蓄積できない」とよくいわれるが、実は日本のサラリーマンの技能の大部分もfirm-specific skillで、会社の外では通用しない。
特にひどいのは、いろいろな部署を回るキャリア官僚だ。先日ある経営者に「天下り規制がなくなったら、もっとキャリア官僚を採用するか?」ときいたら、「うちにも天下りはいるが、役所との顔つなぎ以外に使い道がない。民間の仕事を知らないくせに、プライドが高くて使いにくい」。採用するなら30代までで、50代になると「商品価値はゼロ」とのことだった。官僚もそれを知っているから、天下り禁止に激しく抵抗するのだ。
こういう文脈的技能は、高度成長期のように市場が拡大していて配置転換で需要の変動に対応できる時代には意味があったが、今のように製造業全体の規模が絶対的に縮小してゆく時代には、外部労働市場で通用する専門的技能をもっていないと、会社がつぶれたら食っていけなくなる。この意味では、正社員も派遣と同じリスクを抱えているのだ。雇用可能性を高めるには、今の若者を対象にした大学や大学院のしくみを改めて、労働者の再教育機関として位置づけ直す必要があろう。
本書は、1985年に長銀が「第5次長期経営計画」で投資銀行への転進をはかっていた時期の行内の状況を描いている。経営計画は円ドル委員会による自由化の流れに乗って、ゴールドマン・サックスのような高収益企業になることを目標に掲げた。年功序列も廃止し、人事や給与を「経営貢献度」の点数によって決める能力主義を導入した。しかしこうした改革は行内で抵抗を受けたばかりでなく、金制調では証券会社に「メインバンクの力を利用して長信銀が証券業務に侵入するもの」と警戒され、「業態別子会社」という中途半端な形で認可されたため、投資銀行への転換は挫折した。おりからの不動産バブルで、むずかしい金融技術より簡単ですぐもうかる不動産担保融資に傾斜し、長銀はEIEに巨額の融資を行なって、バブル崩壊とともに壊滅した。
長銀が破綻したあと旧経営陣が逮捕され、国有化された長銀が著者など15人の元役員に対して総額63億円の損害賠償訴訟を起こしたが、この裁判は昨年7月、最高裁で刑事・民事ともに被告勝訴の判決が出て決着した。著者もいうように、バブル崩壊を前もって予測した日本人は皆無に等しく、長銀の経営陣が特に無能だったわけではない。不良債権処理を「粉飾」とする検察のストーリーは、銀行に横並びで「計画的・段階的な処理」を指導した大蔵省を免罪して、指導に従った銀行の経営者個人の責任を追及するもので、公的資金投入への批判をかわすためのスケープゴートづくりだ、という著者の主張はその通りである。
しかし本書には、かつては護送船団行政に守られて楽してもうけていた邦銀が、経営が傾いたら大蔵省に泣きついて数十兆円の公的資金を引き出してドブに捨てたことへの反省もなければ、この20年の金融業界の変化についての時代認識もない。特に最終章で、今回の金融危機をめぐって投資銀行を批判して「原点に戻れ」と金貸しへの回帰を唱え、「新護送船団」の再建を提唱するに至っては言語道断だ。この程度の頭取しか持てなかった長銀が破綻したのは当然だが、もっと無能な大蔵官僚が責任追及をまぬがれたのは不公正である。
私の記事に対する上杉隆氏の反論がダイヤモンド・オンラインに出ている。当ブログは、実名の批判には基本的に答える方針なので、お答えしておこう。彼はこう書く:
「財源は埋蔵金を使うから国債は増えない」などという政府の説明を上杉氏が信じているのも驚きだ。埋蔵金は特別会計の剰余金だから、要するに税金である。つまり減税するぶん他の税金(国債の償還財源)を取り崩すだけなので、負債(国債)が減らないかぎり、今年の減税2兆円は将来の増税で必ず相殺される。それが2年後の消費税かどうかなんてナンセンスな問題だ。一般会計の税収は、特定の使途に特定の財源が結びついているわけではない。重要なのは政府のバランスシートの純債務であり、どの税収を何に使うかではない(そんなことは予算にも書いてない)。
定額給付金を埋蔵金でファイナンスするのは、資産の項目を変えて一つのポケットから別のポケットに税金を移すだけだ。卑近な例でいうと、上杉氏の収入が原稿料だけだとしよう。あるとき貯金が底をついて、タンスの中にあったへそくりを出して昼飯代に使ったとすると、上杉氏は得をしただろうか?タンスの中にあろうと銀行にあろうと、上杉氏の本源的な収入は原稿料しかないので、彼は得も損もしていない。政府支出は国民の税金を国民に還元するだけなので、長期的な経済効果はプラスマイナスゼロである。
これはリカードの中立命題として、200年前から周知の事実だ。バラマキ政策が一時的に効果をもつように見えるのは、国民の錯覚を利用しているだけで、それも何度も繰り返すと、国民も学習してだまされなくなる。定額給付金を信用しない日本人は、中立命題を学んだのである。それを理解していないのは、簿記も知らないジャーナリストだけだ。
追記:自民党は、関連法案の成立をまたず、政府短期証券を発行して定額給付金を支給する方針を打ち出した。これで上杉氏の「財源について〈国債の増額〉ということはない」という根拠も崩れたわけだ。要するに埋蔵金も国債も同じで、最後は税金なんだよ。
給付金は、税の還付であるかどうかは議論の分かれるところだが、少なくともその財源について〈国債の増額〉〈必ず増税〉ということはない。今回の第二次補正予算でも明らかなように、その大部分には「埋蔵金」が当てられる。定額給付金が減税であるか還付であるかはどうでもよい。問題は、それが国の資産を2兆円減らすということだ。国の財政を複式簿記であらわすと、資産には税収と国有財産があり、負債には国債がある。政府債務843兆円に見合う資産が843兆円あるとすると、税金(資産)を2兆円取り崩すと、何らかの方法で資産を2兆円増やさないと債務不履行が生じる(国有財産の売却は、もともと資産に計上されている項目を現金化するだけなので、バランスは変わらない)。現実には、現在の税率では税収は国債残高に見合わないので増税は不可避だから、2兆円は将来の増税に上乗せされる。
「財源は埋蔵金を使うから国債は増えない」などという政府の説明を上杉氏が信じているのも驚きだ。埋蔵金は特別会計の剰余金だから、要するに税金である。つまり減税するぶん他の税金(国債の償還財源)を取り崩すだけなので、負債(国債)が減らないかぎり、今年の減税2兆円は将来の増税で必ず相殺される。それが2年後の消費税かどうかなんてナンセンスな問題だ。一般会計の税収は、特定の使途に特定の財源が結びついているわけではない。重要なのは政府のバランスシートの純債務であり、どの税収を何に使うかではない(そんなことは予算にも書いてない)。
定額給付金を埋蔵金でファイナンスするのは、資産の項目を変えて一つのポケットから別のポケットに税金を移すだけだ。卑近な例でいうと、上杉氏の収入が原稿料だけだとしよう。あるとき貯金が底をついて、タンスの中にあったへそくりを出して昼飯代に使ったとすると、上杉氏は得をしただろうか?タンスの中にあろうと銀行にあろうと、上杉氏の本源的な収入は原稿料しかないので、彼は得も損もしていない。政府支出は国民の税金を国民に還元するだけなので、長期的な経済効果はプラスマイナスゼロである。
これはリカードの中立命題として、200年前から周知の事実だ。バラマキ政策が一時的に効果をもつように見えるのは、国民の錯覚を利用しているだけで、それも何度も繰り返すと、国民も学習してだまされなくなる。定額給付金を信用しない日本人は、中立命題を学んだのである。それを理解していないのは、簿記も知らないジャーナリストだけだ。
追記:自民党は、関連法案の成立をまたず、政府短期証券を発行して定額給付金を支給する方針を打ち出した。これで上杉氏の「財源について〈国債の増額〉ということはない」という根拠も崩れたわけだ。要するに埋蔵金も国債も同じで、最後は税金なんだよ。
本書はハイエクの最後の著作だが、これまで邦訳が出ていなかった。それは本書がどこまでハイエクの著作なのかについて疑問があったからだ。ハイエクは健康を害していたため、彼が書いたのは未完成の草稿(未公開)だけで、それをW・バートリーⅢ世が編集したのだが、このとき編者が大幅な改変を加え、しかもそれを明記しなかったため、どこまでがハイエクの著作かよくわからなかった。ただ最近の研究では、大筋ではハイエクの了解を得ており、それほどひどい改竄は行なわれていないとされる。
内容の完成度は高くないが、90歳に近かったハイエクの思想的な総括としては興味深い。特に本書で中心になっているのが部族社会の問題だ。人類が進化の大部分を過ごしてきた小さなグループでは、目的を共有して他人と協力することがきわめて重要で、感情はそうした共感のための装置である。しかしこうしたローカルな行動原理は、何百万人が暮らす「大きな社会」ではうまく機能しない。そこでは非人格的なルールによる統治が必要なのだ。
こうした抽象的なルールの最たるものが価格メカニズムである。しかし、それは群淘汰によって埋め込まれた部族感情に反するがゆえに、いつの時代にも「強欲」や「利己主義」はきらわれる。部族感情を大きな社会全体に拡張したものが社会主義だが、その失敗は本書の執筆時点(1980年代後半)ですでに明らかだった。「日本的経営」は、部族感情をうまく価格メカニズムと接合した成功例といえようが、それも90年代に挫折した。
だからもはや選択の余地はなく、法の支配によって社会を統治するしかない、というハイエクの結論はおそらく正しいのだが、彼は価格メカニズムが人々の自然な感情に合致しないことが、そのうち市場経済を掘り崩すかもしれないとも示唆している。こうした不安はシュンペーターも表明したもので、昨今の通俗的な「市場原理主義批判」をみていると、部族感情によるレトリックの有効性は大きい。それは本能に訴えるからだ。
ハイエクは一貫して合理主義を批判してきたが、部族感情を否定して法の支配を説く点では合理主義者だった。ところが最晩年の本書では、無神論者の彼が「コミュニティを存続させている道徳や価値の人格化」としての宗教の価値を認め、こうした精神的統合が可能かどうかに「われわれの文明の生き残りがかかっているのかもしれない」と結ぶ。しかし彼が大きく貢献した部族感情を破壊するカタラクシー(交換社会)への進化は、逆転しないだろう。その意味では、われわれは――好むと好まざるとにかかわらず――ハイエクの時代に生きているのである。
池尾和人・池田信夫『なぜ世界は不況に陥ったのか 集中講義・金融危機と経済学』(日経BP社、2/26刊)の第1講「アメリカ金融危機の深化と拡大」の一部をPodcastで紹介する(各10分):世の中にはパニックをあおる「大恐慌本」がたくさん出ているが、本書はそういう類書とは一線を画し、1960年代から歴史をさかのぼり、経済学の理論を使って現在の危機が発生したメカニズムを分析するものだ。基本的には、池尾さんの講義を私が聞く形で進められているが、現在の経済危機の本質は世界経済のマクロ的不均衡や産業構造なので、実体経済については私もコメントしている。

- 池田信夫
- 高橋洋一
- 西和彦
- 松本徹三
- 渡部薫
Marginal Revolutionより:
Organized public works, at home and abroad, may be the right cure for a chronic tendency to a deficiency of effective demand. But they are not capable of sufficiently rapid organisation (and above all cannot be reversed or undone at a later date), to be the most serviceable instrument for the prevention of the trade cycle.これはケインズの1942年の言葉である。彼は戦後の状況に対応して『一般理論』を書き直そうとしていたといわれるが、惜しくも1946年に死去した。彼は自説を撤回することをいとわなかったので、もう少し長く生きていれば、バラマキ公共事業ではなく永続的な(cannot be reversed or undone)改革によって潜在成長力を高める『一般理論パート2』を書いたかもしれない。
ウォーラーステインの理論の元祖は、1970年代にフランスで、エマニュエル、アミン、フランクなどによって提唱された従属理論である。エマニュエルの理論は、グローバル資本主義を不等価交換を作り出すシステムとして数学的に定式化し、国際経済学に影響を与えた。そしてフランクがウォーラーステインの「ヨーロッパ中心主義」を批判したのが『リオリエント』で、本書の議論も両者の比較が軸になっている。
ウォーラーステインは、近世の世界=帝国システムが、ヨーロッパを中心とする世界=経済システムに取って代わられる過程として近代世界システムを描いた。これに対してフランクは、歴史上の大部分において世界の富のほとんどは(中国を中心とする)アジアによって生み出されてきたのであり、ヨーロッパはそれに寄生して、ここ100年ほど世界の中心になったにすぎないという。そして21世紀には、ふたたびアジアが歴史の中心になるだろう。
こうした歴史観を検討する上で本書がコアにするのが、ポランニー的不安の概念である。これは『大転換』でのべられた、本源的な自然や人間が市場メカニズムに飲み込まれて「商品化」されることがもたらす不安だ。近世帝国では市場の力は世界=帝国の中に封じ込められていたが、世界=経済システムは市場を中心にすえて効率を上げる一方、ポランニー的不安を全世界に拡大した。日本の非正規労働者をめぐる問題も、その一環である。
しかし世界=経済システムの中核にある市場の等価交換システムは、その上に構築された不等価交換システムとしての資本主義をつねに脅かす。国内で競争が激化して利潤機会が消滅すると、資本は海外に拡大し、軍事的・経済的な植民地化によってアジアを搾取してきたが、新興国が自立すると不等価交換は不可能になる。そこで新たにレントの源泉となったのが情報技術と金融技術だが、金融技術による鞘取りで市場が効率的になると、鞘は失われる。その実態を投資銀行は複雑な「エキゾチック金融商品」によって隠してきたが、今回の金融危機はそれを一挙に明らかにしてしまった。
投資銀行のPonzi schemeが破綻したこと自体は望ましいのだが、それによって新興国の過剰貯蓄をアメリカの過剰消費が吸収する「グローバルなケインズ主義」の構造が崩壊すると、世界経済が縮小することは避けられない。そしてインターネットは、「知的財産権」によってレントを独占してきた既存メディアを破壊しようとしている。
現代が近代世界システムの崩壊過程だという点では、ウォーラーステインもフランクも著者も意見が一致しているが、それがどこに行くのかは誰にもわからない。おそらく世界は相互依存をさらに深め、市場メカニズムが世界をおおい、ポランニー的不安が新興国にも広がるだろう。著者はそれを「新しい帝国の再構築」の過程だというが、旧秩序の解体は明らかでも、新秩序が再構築される兆しは見えない。
J-CASTニュースによれば、周波数オークションについて「総務省の課長補佐」が次のようにコメントしたそうだ:
総務省は1.5GHz帯を、美人投票で既存4社に割り当てる方針だそうだが、いつまで電波社会主義を続ける気なのだろうか。オバマ政権でWerbachがFCCの委員になれば、ホワイトスペースの開放や周波数オークションを進めることは確実だ。日本の対応が遅れると、次世代の無線技術はまたアメリカにやられっぱなしになるだろう。どの技術がすぐれているかを決めるのは、役所ではなく市場である。
追記:英文ブログにも書いた。
電波は公共財なので、普通の商品とは違います。どんな事業者でもいいわけではありません。オークションには、デメリットがあり、コストが当然料金に転嫁されることになります。事業者が投資分を回収できず倒産すれば、その電波が無駄になってしまう恐れもあります。このコメントは論理的に矛盾している。免許のコストを通話料金に転嫁できるのなら、事業者が「投資分を回収できない」ということはありえない。欧州で携帯事業者の経営が破綻したことは事実だが、それは免許料を料金に転嫁できなかったからなのだ。当ブログで何度も説明したように、免許費用はサンクコストなので、それを転嫁することは合理的ではなく、不可能だ。同じことを何度も書くのは面倒なので、前の記事を再掲しよう:
オークションで払う免許料は、賃貸マンション業者の買う土地のようなものだ。どんなに高い土地を買っても、その地価が家賃に転嫁されることはありえない。相場より高い家賃をつけても、借り手がつかないだけだ。逆に、その土地を(相続などで)無料で仕入れたら、不動産業者は家賃を安くするだろうか。業者は相場と同じ家賃を取り、地価はまるまる彼の利益になるだろう。つまり料金は市場で決まるので、免許料は業者の利益に影響を与えるだけなのだ。これは経済学を知らない高校生でもわかるはずだ。「課長補佐」氏は一応、公務員試験を通ったはずだから、この程度のロジックを理解できないことはあるまい。「事業者が投資分を回収できず倒産」するかどうかなんて、余計なお世話だ。業者はもうけようと思って応札するのだから、その思わくがはずれて倒産するのは自己責任である。免許料が高すぎるなら、落札しなければよい。問題は免許が使われないことだが、これは第二市場で転売すればよい。厳密な議論については、私の論文を参照されたい。
総務省は1.5GHz帯を、美人投票で既存4社に割り当てる方針だそうだが、いつまで電波社会主義を続ける気なのだろうか。オバマ政権でWerbachがFCCの委員になれば、ホワイトスペースの開放や周波数オークションを進めることは確実だ。日本の対応が遅れると、次世代の無線技術はまたアメリカにやられっぱなしになるだろう。どの技術がすぐれているかを決めるのは、役所ではなく市場である。
追記:英文ブログにも書いた。
私が1993年にNHKをやめたのは、まもなく地上波テレビは没落するだろうと思ったからだが、テレビ局は意外にしぶとく、政治家を使って電波利権を守り、数千億円の補助金を政府から引き出して延命してきた。しかし、ようやく悪運もつきたようだ。在京キー局(日テレ・テレ東)が昨年の中間決算で初めて赤字になり、3月決算では全キー局が赤字になる可能性もある。
東洋経済の特集で氏家斉一郎氏(日テレ議長)もいうように、これは不況による一時的な落ち込みではなく、マス媒体による広告という手法の効果が落ちたためなので、回復は見込めない。2011年をピークとしてテレビ(アナログ・デジタル計)の台数は減少に転じ、テレビ・新聞は2~3社に統合されるだろう。いまや輪転機や中継局などのインフラは、資産ではなく負債なのだ。
インターネットは電波利権のような独占を破壊して競争をもたらし、価格を下げる。これに対応するには、売り上げを増やすのではなく、インフラを捨ててコストを下げるしかない。Economistも指摘するように、コンピュータの性能が上がり続ける時代は終わり、これからはほどほどの性能でローコストを追求する“good enough” computingの時代だ。Amazon EC2などのクラウド・コンピューティングを使えば、月数万円でIP放送も可能だが、既存メディアがそこまでコストを削減することは不可能だ。今こそインフラをもたないネット企業にチャンスがある。
アメリカでも、誤った「経済学の常識」を吹聴する人がいる――しかも副大統領だ。Mankiw's blogで、財政支出に懐疑的な経済学者をあらためてリストアップしている:ただ財政政策すべてに反対という経済学者は少なく、投資減税が望ましいという意見が多い。これは短期の景気刺激策ではなく、生産性を引き上げる長期の政策である。日本でも、2兆円を定額給付金から投資減税に切り替える法案を民主党が提出すれば、もう少しレベルの高い政策論争が起こると思うのだが・・・
雇用問題への関心は私の想像した以上に強く、メディアの取材もそこに集中している。これはいい機会なので、企業統治の観点からこの問題を考えてみよう。
日本企業は、よく「労働者管理」だといわれる。これは冗談ではなく、日本企業の経営者はほとんどがサラリーマンで、株主の議決権は「持ち合い」などで制限され、ROEは平均数%と先進国で飛びぬけて低い。いろいろな指標でみて、日本の会社は、かつてのユーゴスラビアのような労働者管理企業の特徴をそなえているのだ。
こうした企業が、かつては理想だと考えられていた。サンディカリズムは、資本蓄積を否定して組合による企業経営を指向した。ユーゴはそれを国家レベルで実現した。エンゲルスはサンディカリズムを「空想的社会主義」と軽蔑したが、「労働者が自分の主人になる」という理想は、実はマルクスの掲げたものであり、それ自体は美しい。最近よく話題になるベーシック・インカムも、フランスの5月革命で「自主管理」のスローガンを掲げたアンドレ・ゴルツが提唱したものだ。
しかしユーゴの実験は、失敗に終わった。現代でも生協や農協のように協同組合方式で経営されている企業はあるが、業績が上がらないため減っている。それは労働者が残余請求権者(residual claimant)となるので、賃金を最大化するために資本を浪費するインセンティブをもつからだ。派遣村の人々が主張するように利益をすべて賃金として払いきったら、資本蓄積はできなくなり、老朽化した設備を壊れるまで使うので、企業は市場で競争に敗れてしまう。
日本企業のイノベーションは、労働者を長期雇用で企業に囲い込んで資本収益を労働者に再分配し、資本の浪費を防いだことだ。企業の利益は最終的には労働者に還元されるので、労働組合は「労使協調」によって賃金を抑制し、配置転換に協力する。これは労使が「階級闘争」を行なう19世紀的な産業資本主義に比べて企業の変化への対応を容易にし、高度成長を支えた。
一般的には、Hansmannのいうように、多くの「ステークホルダー」が均等に経営権をもつことは交渉問題を引き起こして好ましくないので、残余請求権者を一つに決め、あとの関係者の請求権は契約によって事前に決めることが合理的だ。この場合の残余請求権者を資本家にする必然性はなく、労働者でも消費者でもよいが、誰にするかで企業の業績は大きな影響を受ける。
企業の付加価値の源泉として最大の部分を占めるのは労働なので、労働者を残余請求権者とすることが一見、合理的にみえる。1980年代には日本の企業を「人本主義」などと賞賛する経営学者がいたが、そういう日本的経営論は最近ではすっかり影をひそめた。その原因は、労働者管理型のガバナンスでは組織防衛のインセンティブが強すぎるからだ。
企業が傾いたときも、労働者以外の生産要素をすべて切ったあとで雇用に手をつけるのが、日本の経営者の心がけとされている。いいかえると、労働者との暗黙の契約を最優先し、ほかの契約は破棄するのだ。これは美しいようにみえるが、企業のインサイダーが残余請求権者になると、企業組織そのものを否定する撤退や清算などの抜本的な事業再構築ができず、Acemogluのいう生産要素の再配分がきわめて困難になる。
この問題は企業統治の理論で詳細に論じられており、結論だけいうと、小規模な変化には労働者管理が適しているが、組織や資本の再構築をともなう大規模な変化には株主資本主義によって所有権の移転を行なうことが合理的だ。ただし資本家が暗黙の契約を事後的に破棄すると、労働者が人的資本に投資しなくなるので、労働市場を競争的にして外部オプションを最大化し、自由に動けるような制度設計が望ましい。くわしくは、Tiroleの教科書を参照されたい。
日本企業は、よく「労働者管理」だといわれる。これは冗談ではなく、日本企業の経営者はほとんどがサラリーマンで、株主の議決権は「持ち合い」などで制限され、ROEは平均数%と先進国で飛びぬけて低い。いろいろな指標でみて、日本の会社は、かつてのユーゴスラビアのような労働者管理企業の特徴をそなえているのだ。
こうした企業が、かつては理想だと考えられていた。サンディカリズムは、資本蓄積を否定して組合による企業経営を指向した。ユーゴはそれを国家レベルで実現した。エンゲルスはサンディカリズムを「空想的社会主義」と軽蔑したが、「労働者が自分の主人になる」という理想は、実はマルクスの掲げたものであり、それ自体は美しい。最近よく話題になるベーシック・インカムも、フランスの5月革命で「自主管理」のスローガンを掲げたアンドレ・ゴルツが提唱したものだ。
しかしユーゴの実験は、失敗に終わった。現代でも生協や農協のように協同組合方式で経営されている企業はあるが、業績が上がらないため減っている。それは労働者が残余請求権者(residual claimant)となるので、賃金を最大化するために資本を浪費するインセンティブをもつからだ。派遣村の人々が主張するように利益をすべて賃金として払いきったら、資本蓄積はできなくなり、老朽化した設備を壊れるまで使うので、企業は市場で競争に敗れてしまう。
日本企業のイノベーションは、労働者を長期雇用で企業に囲い込んで資本収益を労働者に再分配し、資本の浪費を防いだことだ。企業の利益は最終的には労働者に還元されるので、労働組合は「労使協調」によって賃金を抑制し、配置転換に協力する。これは労使が「階級闘争」を行なう19世紀的な産業資本主義に比べて企業の変化への対応を容易にし、高度成長を支えた。
一般的には、Hansmannのいうように、多くの「ステークホルダー」が均等に経営権をもつことは交渉問題を引き起こして好ましくないので、残余請求権者を一つに決め、あとの関係者の請求権は契約によって事前に決めることが合理的だ。この場合の残余請求権者を資本家にする必然性はなく、労働者でも消費者でもよいが、誰にするかで企業の業績は大きな影響を受ける。
企業の付加価値の源泉として最大の部分を占めるのは労働なので、労働者を残余請求権者とすることが一見、合理的にみえる。1980年代には日本の企業を「人本主義」などと賞賛する経営学者がいたが、そういう日本的経営論は最近ではすっかり影をひそめた。その原因は、労働者管理型のガバナンスでは組織防衛のインセンティブが強すぎるからだ。
企業が傾いたときも、労働者以外の生産要素をすべて切ったあとで雇用に手をつけるのが、日本の経営者の心がけとされている。いいかえると、労働者との暗黙の契約を最優先し、ほかの契約は破棄するのだ。これは美しいようにみえるが、企業のインサイダーが残余請求権者になると、企業組織そのものを否定する撤退や清算などの抜本的な事業再構築ができず、Acemogluのいう生産要素の再配分がきわめて困難になる。
この問題は企業統治の理論で詳細に論じられており、結論だけいうと、小規模な変化には労働者管理が適しているが、組織や資本の再構築をともなう大規模な変化には株主資本主義によって所有権の移転を行なうことが合理的だ。ただし資本家が暗黙の契約を事後的に破棄すると、労働者が人的資本に投資しなくなるので、労働市場を競争的にして外部オプションを最大化し、自由に動けるような制度設計が望ましい。くわしくは、Tiroleの教科書を参照されたい。
Acemogluの論文を邦訳するWikiが進んでいるようだ:
このグローバルな危機の惨状があってもなお,大半の国ではGDP損失はせいぜい2パーセントの範囲に収まる.対照的に,経済成長のわずかな変化であっても、それが今後10年~20年積もればずっと大きな数字になってしまう.よって,政策・厚生の観点からみて,経済成長を犠牲にして現在の危機に対応するのはまずいことは自明だろう.要するに、構造的改革と創造的破壊によって長期の潜在成長率を高めることが重要であり、その中核になるのはマクロ的な「刺激策」ではなく、市場メカニズムだということだ。かつて「構造改革はシバキ的清算主義だ」などと騒いでいた評論家が、訳知り顔に「要約」を投稿しているが、彼は内容を理解したのだろうか。
イノベーションはしばしばシュンペーター流の創造的破壊のかたちをとって登場するから,旧来のテクノロジーに頼る生産過程と企業が新たなものによって置き換えられることが伴う.こうした不安定性は防御すべき呪いなのではなく,その大半は市場経済にとっての好機なのだ.過去20年の発展は再配分の重要性に再び焦点を当てた.経済成長は通常,生産活動・労働者・資本が多くの既存企業からその競争相手へ,アメリカをはじめとする先進諸国が比較優位をもたなくなったセクターからその優位が強まったセクターへと移動するのと相伴って生じるからだ.
現在の刺激策の多くの特徴の帰結として明らかに再配分は悪影響を受ける.市場のシグナルは,労働と資本はデトロイトのビッグスリーからよそへ再配分されるべきであり,また高度のスキルを持つ労働者は金融産業からもっとイノベーションの盛んな部門に再配分されるべきだと示唆している.再配分が停止されるということはイノベーションが停止されるということでもある.
我々のメッセージは長期の展望に関するものだ.我々はイノベーション,再配分,そして資本主義システムの政治経済的基盤に現在の政策提案がもたらす帰結について声高く強調するべきだ.経済成長はその議論の中心部分となるべきだ.
ダイヤモンド・オンラインには、上杉隆氏に続いて保田隆明氏も、定額給付金が「マクロ経済学の大原則」だとかいう記事を書いている。こんな初歩的な間違いを編集部がチェックできないのは、ジャーナリストに経済学が理解されていないからだろう。こうした誤解が国会の混乱した増税論議の原因にもなっているので、現在のマクロ経済学の通説を簡単にまとめておこう:
さらに日本の場合、財政政策は財政赤字によって制約され、金融政策はゼロ金利で制約されているので、マクロ政策の自由度も限られている。定額給付金は「負の財政政策」となり、日銀のCP購入などの効果もマージナルなものだ。2次にわたる補正予算が不発に終わった今、GDPを決めているのは1%台に低下した潜在成長率である。政府が考えなければならないのは、解雇規制の撤廃などによって労働生産性を上げ、イノベーションを促進して潜在成長率を高める長期的な規制改革である。
追記:こうした最近のマクロ経済学の動向をやさしく解説した論文が、日銀のレビュー・シリーズで公開されている。
- 財政政策の効果は疑わしい:保田氏が信じている1960年代の経済学とは異なり、現代のマクロ経済学では、財政政策の乗数効果はきわめて低いというのが実証研究の結果である。特に大恐慌については、ケインズ的な財政政策の効果はゼロに近かったというのがChristina Romerなどの結論だ。
- 今年の減税を2年後の増税でファイナンスするのは無意味だ:自民党の財政タカ派は、なぜか増税の時期を明記することが政治家の「矜持」だと思っているようだが、2年後に増税するという条件つきで2兆円の減税を行なうのでは、その効果は中立命題によってほとんどキャンセルされるだろう。
- GDPが低下しても、景気対策が必要とは限らない:現代のマクロ経済学では、GDPが長期的な定常成長水準である潜在GDP(potential output)より高いか低いかを重視する。すなわち実質GDPをY、潜在GDPをY*、物価上昇率を⊿Pとすると、フィリップス曲線は次のようになる(aは需要パラメータ、bは外部ショック):
⊿P=a(Y-Y*)+b
- マクロ政策によって潜在GDPを高めることはできない:財政・金融政策の目的はGDPギャップ(Y-Y*)を縮めて⊿Pを安定化することであり、潜在GDPそのものを高めることはできない。潜在成長率を高めるには、生産性(TFP)を高めるミクロ的な改革が必要である。
- GDPが潜在GDPより大きい場合は、需要喚起策は有害である:GDPがマイナス成長になっても、潜在GDPより高い(Y>Y*)ことがある。1970年代の石油危機や1980年代の日本、あるいは2000年代のアメリカは、そういう状況だったと考えられる。こういう場合、財政・金融政策で需要を追加すると、(物価または資産の)インフレをまねく。
- 財政政策は「つなぎ」にすぎず、無駄も多い:政府支出の効果はその年に限られ、潜在GDPを引き上げる効果もないので、効果はそのとき限りである。それが効果を発揮するのは、大幅な負のGDPギャップ(Y<Y*)が発生し、短期間に潜在GDPに復帰する場合に限られる。また財政支出には政治的なバイアスが大きく、バラマキによる無駄が多い。
- 財政政策の有効性は、財政赤字で制約される:現在の日米のように財政赤字が大きくなると、財政破綻への不安によって需要創出効果がキャンセルされるおそれがある。特にアメリカの場合、経常赤字も大きいので、オバマ政権の巨額の財政政策によってドルが暴落することを憂慮して、株式市場は下げている。
- 短期的な調整は、金融政策で行なうことが望ましい:潜在GDPからの乖離を修正するのは金融政策の役割だというのが、現在の経済学の標準的な理解である。この場合、実質金利が自然利子率より高いかどうかが、金融を引き締めるか緩和するかのメルクマールとなる。アメリカの2000年代のように長期にわたって自然利子率を下回る低金利を続けると、バブルが発生する。
- デフレでゼロ金利になると、金融政策はきかない:名目金利がゼロになると、金融政策の有効性は大きく制約される。特にデフレの場合、マイナス金利にする方法は、理論的にはあるが、実務的には困難だ。この状況で通貨をいくら大量に供給しても、貨幣乗数の低下によって相殺され、マネーストックは増えない。
- 非伝統的な金融政策のリスクは大きい:実質金利が自然利子率を下回っているとき、日銀が行なったゼロ金利や量的緩和は、結果的には円キャリー取引を誘発して、アメリカの住宅バブルを促進した。バーナンキが行なっているリスク資産の購入も、過大なリスクテイクによってFRBが巨額の損失をこうむると、金融システムへの信頼が崩壊するおそれがある。
- 人為的インフレ政策とインフレ目標は異なる:物価を抑制するためのインフレ目標は多くの中央銀行で採用されており、日銀もゆるやかな「理解」は共有している。しかし中央銀行が期待形成をコントロールする人為的インフレ政策は、それとはまったく異なる政策であり、理論的にも実務的にも不可能だ。アメリカの非伝統的な金融政策でもインフレは起こらず、クルーグマンも撤回した。
さらに日本の場合、財政政策は財政赤字によって制約され、金融政策はゼロ金利で制約されているので、マクロ政策の自由度も限られている。定額給付金は「負の財政政策」となり、日銀のCP購入などの効果もマージナルなものだ。2次にわたる補正予算が不発に終わった今、GDPを決めているのは1%台に低下した潜在成長率である。政府が考えなければならないのは、解雇規制の撤廃などによって労働生産性を上げ、イノベーションを促進して潜在成長率を高める長期的な規制改革である。
追記:こうした最近のマクロ経済学の動向をやさしく解説した論文が、日銀のレビュー・シリーズで公開されている。
大竹文雄氏が、WEDGEで解雇規制について書いている:
整理解雇の4要件のうち、「解雇回避努力」の中には、非正規雇用の削減や新卒採用の停止が含まれており、今回のような不況期には雇い止めという形で、まず「非正規切り」を実施することが司法サイドからも要請されているわけである。[・・・]つまり、非正規社員を雇用の調整弁と位置づけ、正社員の解雇規制と賃金を守っていくという戦略に、経団連と連合の利害が一致したのだ。大竹氏は、定期借地権をヒントにした10年程度の「任期つき雇用制度」などによって、雇用形態を多様化することを提案している。景気変動のショックを非正規労働者にしわ寄せする現在の雇用制度は、中高年の余剰人員を残す一方で、若年労働者の技能蓄積をはばみ、日本経済の潜在成長率を低下させるおそれが強い。このような身分差別を撤廃し、正社員の雇用保障を非正規社員に近づけることが合理的である。
したがって、労働市場の二極化に歯止めをかけるためには、非正規社員と正社員の雇用保障の差を小さくする必要がある。たとえば「正社員の労務費削減を非正規社員削減の必要条件とする」あるいは、「非正規社員を削減するのであれば、正社員も一定程度削減しなければならない」というルールを、立法措置によって導入することは直接的な手法となる。
ラジオ(J-WAVE)を聞いていたら、また上杉隆氏が「定額給付金はやらないよりマシだ」と繰り返していた。ダイヤモンド・オンラインでも、同じ趣旨のことを書いている。彼は当ブログの読者なので、あまりにも初歩的な間違いを訂正しておこう。根本的な誤解は、次の記述だ:
オバマも演説でいっていたように、アメリカの財政政策もケインズ的な総需要管理政策ではなく、インフラ投資によって長期的な潜在成長率を高める政策だ。減税は所得再分配の意味が強い。欧米の政治家はケインズを卒業したのに、日本ではいまだにジャーナリストも経済学を勉強しないで、古くさい「景気対策」を振り回すのは困ったものだ。悪いけど、あなたはすごく「日本的」だよ、上杉さん。
追記:「財源は埋蔵金だ」とか「国有財産を処分すればいい」とかいうコメントが多いが、これらは国債の償還財源だから、流用したらそのぶん国債費(税)が増えるだけだ。政府の収入は、本質的には税しかないのである。
今回の定額給付金を含む第二次補正予算案と消費税はまったく無関係の予算案だ。定額給付金を実施したからといって、消費税率が上がるということは一切ない。彼は、定額給付金の財源が天から降ってくるとでも思っているのだろうか。給付金という変な名前がついているが、これは税の還付だから、国債が増額される。国債は税で償還するしかないので、2兆円は何らかの形で必ず増税になる(消費税とは限らない)。つまりこれは、1万2000円の税金で1万2000円の給付金を買う朝三暮四の政策なので、納税者が合理的なら効果はない。欧米で行なわれている財政政策も、政治的には何かやらざるをえないだろうが効果は疑わしい、というのがMankiwなど多くの経済学者の見方である。
オバマも演説でいっていたように、アメリカの財政政策もケインズ的な総需要管理政策ではなく、インフラ投資によって長期的な潜在成長率を高める政策だ。減税は所得再分配の意味が強い。欧米の政治家はケインズを卒業したのに、日本ではいまだにジャーナリストも経済学を勉強しないで、古くさい「景気対策」を振り回すのは困ったものだ。悪いけど、あなたはすごく「日本的」だよ、上杉さん。
追記:「財源は埋蔵金だ」とか「国有財産を処分すればいい」とかいうコメントが多いが、これらは国債の償還財源だから、流用したらそのぶん国債費(税)が増えるだけだ。政府の収入は、本質的には税しかないのである。

このように意思決定が複雑で非効率的なのは、もともとバラバラの国(州)を集めてつくった建国の経緯による。『ザ・フェデラリスト』を読むと、連邦政府への権力の集中をきらう人々を説得するために、筆者(アメリカ建国の父)が権力を分散させることに苦労しているのがわかる。ただ結果的には「弱い大統領」にしたため、大統領が議会の頭越しに国民に訴えることが多くなり、メディアの影響とあいまって大統領の象徴的な力が強まった。いいかえると、オバマの権力は法的な権限ではなく、彼の言葉の力なのだ。この意味で、彼こそ「国民統合の象徴」といってもいい。
本来は首相が必ず多数党の党首である議院内閣制のほうが強いリーダーシップが発揮できるのだが、日本の首相の言葉の重さは地に落ちてしまった。この原因は、官僚内閣制のもとで立法と行政が霞が関に統合されているので、象徴が必要ないためではないか。日本で例外的に象徴パワーを発揮したのは小泉首相だが、あれは属人的な「芸」なので、彼が去ると元に戻ってしまった。小沢一郎氏は、細川政権の実績をみるかぎり官僚依存型なので、期待できない。日本の政治にリーダーシップを取り戻すには、憲法を改正して官僚から法案提出権を剥奪してはどうだろうか。
経済誌があいついで雇用特集を組むそうだが、編集部でも解雇規制の緩和については「賛否両論」だという。もちろん解雇規制は絶対悪でもないし、絶対の正義でもない。その費用と便益を評価するためのベンチマークとして、簡単なゲーム理論的モデルを考えよう。

図の左端は経営者Aの選択肢で、正社員を雇うかアルバイトを雇うかを判断する。1年間雇えば、正社員は300万円の賃金を得て企業は100万円の利益を得るが、アルバイトは200万円の賃金で50万円の利益しか生まないとしよう。次に1年後、景気が悪くなって企業が正社員に解雇を申し渡したとする。正社員Bがそれを受け入れれば、利得は右上のように(A、B)それぞれ(100万円、300万円)で確定する。
しかしBが解雇は不当だとして、訴訟を起こしたとしよう。この裁判にAが勝てば上と同じだが、Bが勝つと、もう1年雇い続けなければならないとする。後者の場合、企業は2年目に賃金を300万円支払って100万円の赤字になるとすると、2年目のそれぞれの利得は(0、600万円)となる(訴訟費用は無視する)。裁判官Cはどういう判決を下すべきだろうか?
Cの選択肢(サブゲーム)だけをみると、AとBの利得の合計は、企業が勝訴すると400万円だが、労働者が勝訴すると600万円だ。労働者は解雇されると生活に困るが、企業は1人ぐらい余剰人員を抱えても倒産するわけではないので、裁判官は労働者の勝訴という判決を出す。これは事後的には合理的である。
しかし労働事件はたくさん起こるから、この判決は次に裁判が起こったときの結果を示し、企業の事前のインセンティブに影響を及ぼす。企業が勝訴した場合の利益は100万円だから、正社員を雇うことによる企業の予想利益をπ万円、勝訴する確率をpとすると、π=100p。他方アルバイトによる利益は50万円だから、正社員を雇うことが合理的になるのは、π>50すなわちp>1/2のときである。
つまり企業が勝訴する確率が半分以下だと、アルバイトを雇うことが合理的になるので、左下の(50万円、200万円)が均衡(サブゲーム完全均衡)になる。これは右上の正社員を雇用した結果(100万円、300万円)より両者にとって劣る。解雇規制が強化されるとpは低下するので、アルバイトを雇うことが合理的になり、正社員の雇用は失われ、企業も熟練労働者を雇えない。このように個別には合理的な行動を合成すると社会的に悪い結果をまねくパラドックスを、合成の誤謬とよぶ。
逆にいうと、たとえ裁判になっても確実に勝訴することが予想できれば、企業は正社員を雇う。つまり解雇の条件が事前に明確であれば、企業はその条件をクリアすることが可能になる。ところが整理解雇の4要件は、事実上「事業を閉鎖しないかぎり解雇できない」というものだから、これを事前にクリアする――閉鎖するとわかっている事業に雇用する――ことはありえない。
だから労働経済学で実証的にもよく知られているように、解雇規制の強化は雇用を減らすのである。したがって労働基準法を改正して、あらためて解雇自由の原則を明確にし、その適用除外条件を具体的に明記すべきだ。この場合、比較衡量しなければならないのは、サブゲームCで何が望ましいかではなく(ここだけみれば労働者保護が望ましいことは自明)、労働者保護の利益と労働需要の低下による損失のどちらが大きいかである。
しかしBが解雇は不当だとして、訴訟を起こしたとしよう。この裁判にAが勝てば上と同じだが、Bが勝つと、もう1年雇い続けなければならないとする。後者の場合、企業は2年目に賃金を300万円支払って100万円の赤字になるとすると、2年目のそれぞれの利得は(0、600万円)となる(訴訟費用は無視する)。裁判官Cはどういう判決を下すべきだろうか?
Cの選択肢(サブゲーム)だけをみると、AとBの利得の合計は、企業が勝訴すると400万円だが、労働者が勝訴すると600万円だ。労働者は解雇されると生活に困るが、企業は1人ぐらい余剰人員を抱えても倒産するわけではないので、裁判官は労働者の勝訴という判決を出す。これは事後的には合理的である。
しかし労働事件はたくさん起こるから、この判決は次に裁判が起こったときの結果を示し、企業の事前のインセンティブに影響を及ぼす。企業が勝訴した場合の利益は100万円だから、正社員を雇うことによる企業の予想利益をπ万円、勝訴する確率をpとすると、π=100p。他方アルバイトによる利益は50万円だから、正社員を雇うことが合理的になるのは、π>50すなわちp>1/2のときである。
つまり企業が勝訴する確率が半分以下だと、アルバイトを雇うことが合理的になるので、左下の(50万円、200万円)が均衡(サブゲーム完全均衡)になる。これは右上の正社員を雇用した結果(100万円、300万円)より両者にとって劣る。解雇規制が強化されるとpは低下するので、アルバイトを雇うことが合理的になり、正社員の雇用は失われ、企業も熟練労働者を雇えない。このように個別には合理的な行動を合成すると社会的に悪い結果をまねくパラドックスを、合成の誤謬とよぶ。
逆にいうと、たとえ裁判になっても確実に勝訴することが予想できれば、企業は正社員を雇う。つまり解雇の条件が事前に明確であれば、企業はその条件をクリアすることが可能になる。ところが整理解雇の4要件は、事実上「事業を閉鎖しないかぎり解雇できない」というものだから、これを事前にクリアする――閉鎖するとわかっている事業に雇用する――ことはありえない。
だから労働経済学で実証的にもよく知られているように、解雇規制の強化は雇用を減らすのである。したがって労働基準法を改正して、あらためて解雇自由の原則を明確にし、その適用除外条件を具体的に明記すべきだ。この場合、比較衡量しなければならないのは、サブゲームCで何が望ましいかではなく(ここだけみれば労働者保護が望ましいことは自明)、労働者保護の利益と労働需要の低下による損失のどちらが大きいかである。
雇用問題の本質は「市場原理主義」でも「階級闘争」でもない。戦後しばらく日本社会の中核的な中間集団だった企業の求心力が弱まり、社会がモナド的個人に分解されていることだ。それは農村共同体が解体して社会不安が強まった1930年代の状況と似ている。今度は軍国主義が出てくることはないだろうが、こういうとき警戒すべきなのは、かつての青年将校のような短絡的な「正義の味方」である。
このような伝統的コミュニティの崩壊は、近代化の中では避けられない過程で、多くの人々がそれを論じてきた。これをもっとも肯定的に論じたのは、マルクス・エンゲルスだった。
ハイエクは、世間の「保守派」というイメージとは逆に、イギリスの保守党の崇拝する「伝統」を既得権の別名だとし、そうした部族社会の道徳を批判した。彼が近代社会をGreat Societyと呼んだのは、ローカルな部族社会の道徳とは異なる普遍的な法の支配の成立する「大きな社会」という意味である。
このように事実認識としては、マルクスとハイエクはよく似ている。マルクスは間違っていたようにみえるが、いわゆる社会主義諸国で実現されたのはレーニンの国家社会主義で、マルクス自身が考えていた労働者管理による「アソシエーション」の可能性は残されているという解釈もある。しかし柄谷行人氏のNAMが漫画的な結末に終わったように、そういうユートピア的原理で大きな社会を維持することはできない。
ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。それは富を増大させるという点では人類の歴史に類をみない成功を収めたが、所得が増える代わりにストレスも増え、生活は不安定になり、そして人々は絶対的に孤独になった。会社という共同体を奪われた老人はコミュニケーションに飢え、派遣の若者はケータイやネットカフェで飢餓を満たす。
マルクスとハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。正月に郷里に帰ると、東京では出会ったこともない人々の暖かい思いやりにほっとするが、それをになっているのは70代以上の老人だ。やがて日本からこうした親密な共同体は消え、「強い個人」を建て前にした社会になってゆくだろう。それが不可避で不可逆だというマルクスとハイエクの予言は正しいのだが、人々がそれによって幸福になるかどうかはわからない。
このような伝統的コミュニティの崩壊は、近代化の中では避けられない過程で、多くの人々がそれを論じてきた。これをもっとも肯定的に論じたのは、マルクス・エンゲルスだった。
遠い昔からの民族的な産業は破壊されてしまい、またなおも毎日破壊されている。これを押しのけるものはあたらしい産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。[・・・]昔は地方的、民族的に自足し、まとまっていたのに対して、それに代わってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係があらわれる。(『共産党宣言』岩波文庫版p.44)これが書かれたのは1848年だが、彼らの予言は早すぎた。「民族的な産業」が破壊されてグローバルな「民族相互の依存関係」に置き換えられる変化は、まだ始まったばかりである。雇用規制の強化は海外生産を促進し、この変化を(よくも悪くも)加速するだろう。マルクスはこの変化を肯定し、資本主義が封建的な土地所有や伝統的な共同体を破壊して全世界をおおいつくした先に、労働者のインターナショナルがそれを奪取する世界革命を展望した。
ハイエクは、世間の「保守派」というイメージとは逆に、イギリスの保守党の崇拝する「伝統」を既得権の別名だとし、そうした部族社会の道徳を批判した。彼が近代社会をGreat Societyと呼んだのは、ローカルな部族社会の道徳とは異なる普遍的な法の支配の成立する「大きな社会」という意味である。
このように事実認識としては、マルクスとハイエクはよく似ている。マルクスは間違っていたようにみえるが、いわゆる社会主義諸国で実現されたのはレーニンの国家社会主義で、マルクス自身が考えていた労働者管理による「アソシエーション」の可能性は残されているという解釈もある。しかし柄谷行人氏のNAMが漫画的な結末に終わったように、そういうユートピア的原理で大きな社会を維持することはできない。
ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。それは富を増大させるという点では人類の歴史に類をみない成功を収めたが、所得が増える代わりにストレスも増え、生活は不安定になり、そして人々は絶対的に孤独になった。会社という共同体を奪われた老人はコミュニケーションに飢え、派遣の若者はケータイやネットカフェで飢餓を満たす。
マルクスとハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。正月に郷里に帰ると、東京では出会ったこともない人々の暖かい思いやりにほっとするが、それをになっているのは70代以上の老人だ。やがて日本からこうした親密な共同体は消え、「強い個人」を建て前にした社会になってゆくだろう。それが不可避で不可逆だというマルクスとハイエクの予言は正しいのだが、人々がそれによって幸福になるかどうかはわからない。