弱い自分、強い男 海外の高峰にトライし続けるのも、自分がどこまでやれるのか、野性がサビついていないか、どれだけ体を張れるのかを試したい気持ちがある。そうしたトライがあってはじめて、「頑張れよ」と、人に言うことができるのだと思う。 日常には、楽にやっていこうと思えば、いくらでも逃げる道は用意されている。が、日常生活を、安易な安定や快楽で埋めることはしたくない。常に挑戦し続けて、強い男でありたいと思っている。 そう思い続けているのは、いつも何かのときに弱い自分が出てきてしまうからだ。例えば、長い間携わってきたレースの世界でも、いまだにその弱さが顔を出すときがある。ル・マンやF1など短い時間で勝負を決するようなレースなら、それでも気合や根性でなんとか走ることができる。しかし、三週間近くもナビゲーターと二人で走り続けるパリ〜ダカールラリーのような長いレースになると、そういったごまかしはきかなくなる。自分の弱さが露呈されてしまう。 二度目の参戦になる二〇〇三年のパリ〜ダカールラリーがそうだった。僕のクルマは終盤の十二日目に引っくり返ってしまい、リタイアせざるを得なかった。そのときのナビは、年配のフランス人で会社社長だった。ダートコースを僕が一六〇キロで飛ばしながらジャンプすると、怖がってスピードを「落とせ、落とせ」と言う。 (ここでスピードを落としたら、レースにならないだろう)と思ったとき、僕の中にもう一人の悪い自分が出てきてしまった。 (もっと怖がらせてやろう)と、どんどん飛ばしていくうちに、冷静な判断ができなくなってしまい、あっと思ったら大転倒だった。 リタイアしたクルマを、当時は持って帰れなかったのでその場で燃やすことになっていた。燃やすのはドライバーの役目である。でも僕には、とてもそんなことはできなかった。クルマが悪かったわけではない。冷静さを失った僕の弱さが、クルマをこんな目に遭わせてしまったのだ。そういう愚かな自分が、今でも出てしまう。だから、強い男になりたいと、挑戦を続けているのだ。 僕には、一人見習いたい人がいる。電子地図の会社、ゼンリンデータコムの林秀美社長だ。林さんとは、僕がF1で走っていたときに、親会社のゼンリンにスポンサーになっていただいてからのお付き合いだ。当時、林さんは親会社の副社長だった。二〇〇二年に初めて参加したパリ〜ダカールラリーでは、林さんがナビゲーター、僕がドライバーとなり一緒に挑戦した。 その林さんとホノルルマラソンに出たときのことだ。学生時代からサッカーや登山で体を鍛えていたスポーツ万能の人で、初マラソンにもかかわらず五時間を切ってゴールインした。ゴールしてから、一緒に走りにきたグループの女性らが二七キロ地点で足を痛めて泣いていることを知る。林さんは、「よーし、彼女たちを励ましに行ってこようか」と言って、また走って戻ったのだ。フルマラソンを好タイムで足ったあと、さらに往復で三〇キロを走るのだ。口で言うのは簡単だけれど、なかなかできることではない。 林さんは、そのとき頭で考えて行ってやろうかと思ったわけではないはずだ。ハートで感じて、頭より先に体が動き出したのだと思う。 僕は今、様々な活動をしているけれど、いつも頭で考えずハートで感じて動こうと心がけている。 極端な例になるが、駅で見知らぬ子供がホームから落ちたら、何の計算もなしに助けに行ける男になりたい。そういう優しさに裏打ちされた強さというものを、持っていたい。自分が弱いことはよくわかっている。打算的なことも知っている。そうしたことを直していくために、山に登ったり、走ったり、自転車で旅をしながら、ひとつひとつの挑戦を続けている。 孔子の 『論語』には、「ハートで感じる」ことが書かれている。儒教の教えのなかで出てくる正直者の話だ。 ある児の長官が孔子に、「私の村には 『正直者の窮』といわれる男がいる」と自慢をする。どんなに正直なのかというと、その男の父親が他人の羊を盗んだときに、自分の父親の罪を証言したというのだ。それに対して孔子は「私の村の正直者は違います」と言い、「父は子供のためにその罪を庇い、子は父が罪を犯したとしても庇います。人間としての正直さとは、そのようなところにあるのではないでしょうか」と応える。 もちろん、羊を盗むのは悪いということはわかっている。孔子はそれを無理に押し通そうとしているのではなく、そうはいっても親が子の、子が親の罪を暴くことが、果たして本当に正直と言えるだろうか、互いの過ちを許して庇うことが、親子の自然の姿ではないかと言っているのだ。これが孟子になるともっと積極的で、たとえ話として語られるものではあっても、殺人を犯した父のために、すべてを捨てて一緒に逃げることが子供の自然な姿だと言っている。 儒教の信奉者というわけではないけれど、この話を読んだとき素直に納得した。僕の子供が犯罪を犯したとしたら、親としては庇ってしまうと思うからだ。父親に対しても同じことで、例えば父が脱税をしたとしても、それを告げるようなことはしないだろう。 これをやったら自分にとって得であるとか、法律に照らすとおかしいと思うとか、頭で考えて行動するとはそういうことなのだ。孔子の村の親子はその逆で、ハートで感じて行動しているのである。 そのように理屈で考えることをやめたときに、募金をしたりチャリティをしたりすることも素直な感情の表現のように思えてきた。 良い映画を観たときに自然に涙があふれてきたり、音楽を聴いて鳥肌が立つほど感動するのと同じ。困難に直面している子や病気と闘っている子がいて、難局を乗り切ろうと一所懸命頑張っているのを見て心が痛んだら、応援してあげたい。僕自身、全力で何にでもぶつかっていくことが正しいと信じているからだ。 ところが、日本という社会では、ボランティアやチャリティが恥ずかしい、かっこ悪いと思うような風潮があるのはなぜなのだろう。 道で体がぶつかっても、ひと言もなく去っていく若い子がいる。電車のなかや公共施設で、子供が大声を出して周囲に迷惑をかけていても、隣にいる親は知らないふり。いや、知っていて注意しないのではなくて、親自身も一緒にいるよその親と諸に夢中になっている。人に迷惑をかけているとはさらさら感じていないのだ。 足かけ四年ほどヨーロッパに住んでいたし、今もよく訪れるけれど、このようなこと は、あまり見聞しない。美術館で子供たちが騒いでいれば、近くにいる大人が「しーっ」と言いながら口に指を当て注意する。子供は子供で大人の言うことをよく開いて、一度の注意で静かになる。体が少しふれただけでも、すかさず「失礼」の言葉が返ってくる。 僕は日本にいても、悪いことをしていれば他人の子供であっても叱るようにしている。そして、何かをやり遂げるために、懸命に汗を流す人間のほうがずっとかっこいいんだということを、若い子たちにわかってもらいたいと思う。 モナコで迎えた四十歳の誕生日 去年の五月、四十歳の誕生日をモナコで迎えた。 ル・マン24時間レースに参加するためにフランスに行った際、まず、F1のテレビ解説の仕事でモナコに立ち寄った。 日本でレースに出始めるようになってから、いつかはF1マシンでモナコを走り、モナコに住むことを夢見ていた。そして実際、F1に乗り、モナコにも三年間住んだ。華やかなF1グランプリという世界に身を置き、どこでもセレブとしての扱いを受けた。モナコでのF1グランプリは公道で行われるレースだ。モンテカルロ港前の狭い道を爆音を轟かせて走り抜けていくF1マシンの姿は、乗っていたときはもちろん、こうして見る立場になってからも僕の心を震わせてくれる。引退してからも見るたびに、「あー、オレにも走らせてくれー」と思わず叫んでしまう。 モナコにひさしぶりに立って、いろいろなことを思った。 昔のままのコース、そして高級レストランやブティック、豪華なヨットやホテル。モナコを離れてからもう六年になるけれど、この小さな公国は相変わらずの賑わいだし、モナコGPの華やいだ雰囲気は変わらない。若くて目をギラギラさせていた、かつての僕自身が、そこに居るような錯覚がした。自分の中を若かったころの片山右京が突き抜けた気がした。 (お前、あれからどうしてる? 前に進んでいるか?) (今の僕はどうだろうか? 自分にムチ打っているだろうか?) 昔の僕が、自分に問いかけたような気がした。 (オレはこんなところで解説なんかしていていいのだろうか?いまだレーシングドライバーであり、チャレンジャーであり続けているか? 右京よ、四十歳といえば、二度目の二十歳だぜ) モナコで自分を見つめ直してから、ル・マン24時間レースに挑んだのは、僕にとって幸運だった。 (予選では、ポールポジション狙うよ!) そんな大口をたたいていたけれど、正直なところ一パーセントくらいの不安はあった。レーサーとしての僕は、錆び付いていないだろうか、と。 フランス・サルテのコースを走った途端、その不安は吹き飛んだ。 長い直線があり高速の出るユノディエールで風を切りながらアクセル全開。時速三五〇キロでかっ飛んでいって、シケインに突入する。横Gとタイヤからのコンタクトを体で感じたとき、レーサーとしてのスイッチが「オン」になった。 僕は、このユノディエールからシケインへと続く通が大好きだ。ル・マンはこの年を含めて通算で六回、走っている。以前は、シケインもなく六キロのただの直線だったので、四〇〇キロを超えるスピードを出すクルマもあったところだ。一周一三・六〇五キロのコースは、ブガッティ・サーキットと一部公道が使われている。ユノディエールはその公道の部分で、サーキットのように照明はなく、田舎の何もない道なので街灯もついていない。だから、夜になると真っ暗になってしまう。前のクルマのテールランプを追いながら、その灯りに吸い込まれそうになっていると、ふいにシケインを示す矢印のランプが目に入ってくる。前のクルマは赤い光跡を残しながら、右へとカーブを切っていく。その瞬間の美しいことといったらない。 高速で走っているし、運転に集中しているので緊張はしている。しかし、誤解されることを覚悟で言うけれど、直線なのでドライバーとしてはほとんどすることがない。缶ジュースを飲み干す時間くらいは、余裕でありそうな気持ちにもなる。 以前、ルーティンのピットインでマシンを降りたら、飛んでいるハエがすごくゆっくり見えたことがあった。きっと、体内の時間の進み方が変わってしまうのだろう。自分の周りの動きすべてが、すごく遅く感じてしまうのだ。まるで、サイボーグ009になったような感覚だ。 二〇〇三年の予選では、マシンのトラブルもあって、満足なアタックができなかった。レースでは、後のほうから走るのは不利になる。前方に遅いクルマがいれば、それを抜きたくてもなかなか抜けなくなるからだ。コースの幅は狭いので、一台抜くためにほんの少しのチャンスしかない。そのチャンスを見つけるために何周も足らなければならないときがあるのだ。だから、悔しくて悔しくて、その日の夜は眠れなかった。今から思うと、アドレナリンをコース上で消化できてなかったのかなとも思うが、とにかく消化不良の予選が悔しかった。 だが、決勝を終わってみれば十三位完走。「そんな順位で喜ぶな!」と怒られそうだけれど、素直に喜べた。あのときの態勢では、完走できるかどうかすらわからなかったからだ。予備の部品はギリギリだし、マシンもトラブルに見舞われた。そのなかで総合十三位は十分満足のできる成績だった。 このチームは、マッチこと近藤真彦君が監督兼ドライバーを務めるプライベートチーム「ADVAN KONDO RACING」。シャシー、エンジン、タイヤと、すべてが日本の技術による純日本製マシン。ドライバーは僕、近藤君のほか、新鋭の福田良君と日本人ドライバーだけで挑んだ。そういう意味でも、どこまで上に行けるか、挑戦の年だったのだ。だから、素直に完走できて本当に噂しい。 考えてみると、〇二年のル・マン以来、エベレスト、パリ・ダカとリタイアが続いた。僕自身も、負け癖がついていたところを、このル・マンの完走が断ち切ってくれた。まだまだ、レーシングドライバーとしての挑戦も続く。どんなに、「挑戦をすることに価値がある」と口だけで言っても、誰の心にも響かない。自分が身をもって示して、自分の言葉で語ってこそ伝わるのだと思う。 三つのこと 僕には、少なくとも三つは実践していこうと決めていることがある。 ひとつめは、メイク・ア・ウィッシュをはじめ、ボランティア活動を最低でも二十年間は続けて、できるだけ多くの子供たちの願いをかなえてあげることである。T君と会ってから、僕はメイク・ア・ウィッシュの活動に、少しでも役立つことができるならと思い、微力ながら協力させてもらっている。 二〇〇三年の二月、間もなく失明してしまうF1のファンの男の子がいた。その子の願いは、目が見えるうちに、イギリスを拠点にして活躍しているF1ドライバーの佐藤琢磨君に合いたいということだった。メイク・ア・ウィッシュでは、海外に行きたいという子供のために、マイレージ・サービスの寄付を皆さんにお願いしている。その子は、マイルを寄付してくれた人のおかげでスペインに行って琢磨君に会い、誕生日のお祝いをしてもらったと喜んでいた。 また、花嫁になりたいという願いを持った女の子がいた。白血病だった。お嫁さんになりたいという最期の願いをかなえてあげるために、ヒルトン・ホテルの友人が披露宴の式場を用意してくれた。新郎はいない、一人だけの結婚式だったけれど、ウェディングドレスを着た彼女は、両親に花束を渡して「お父さん、お母さん、行ってきます」と言うことができたと感激してくれた。 そういう子供たちがいるということを聞くと胸が痛むし、放ってはおけない。もちろん、聖人君子ではないから限界はある。それはわかっているが、だからこそ僕たちには何ができるかということをいつも考えて、そして実践していきたい。これまでに六年間やってきたけれど、最低二十年は続けることを目標としている。その間に何人の夢をかなえてあげられるか。そこで真価が問われると思う。 次に、ボランティアを含めた活動を、スポンサーのお金で運営するのではなく、自分たちの稼いだお金でやろうということ。そのために会社をつくり、オリジナルの自転車を開発し、販売している。スポンサーの寄付だけで運営していると、他人の褌で相撲をとっているようで、自分たちが本物ではないような気がしてしまう。チャリティやボランティアをやっていても、それが本業の税負担を軽減するための方便だったりするようでは、僕たちがやる意味がない。ポリシーに反することにもなる。だから、ひとつ目の最低二十年続けるということと同じように大切なこととして、自活能力を持つということである。まず、自分たちのビジネスがしっかりしていかなければならない。そこで今は、自分でデザインした折りたたみ式のUGOというマウンテン・バイクの販売をしている。おかげさまで販売台数も増えた。 三つ目は、何かに挑戦をするにしても、他人の手は借りないようにすることだ。他の登山者の悪口をいうわけではないが、エベレストに登るにしても、人が張ってくれたロープを使い、シェルパに荷物を背負わせて、あたかも自分の力で登ってきましたというような顔を僕はしたくない。今は、僕たちも大した力を持っているわけではない。でも、大きな夢は持っている。練習をして、準備をして、少しずつでも前に進んでいきたい。エベレストの登項はいつか達成したいけれど、それが一番大きな目標というわけではなくなった。ヒマラヤの八〇〇〇メートル級の十四峰の中には、エベレストよりも、はるかに技術的に難しい山がある。そうした山に挑戦していく過程にエベレストも含まれているというだけなのだ。ただ、エベレストは一般の人にもよく知られた山だから、僕の活動を知ってもらうためにはいいツールでもある。エベレストでは、むしろ一度登項に成功したら次は無酸素で、それが成功したら次はシェルパもなし、まったくの一人で登りたい。できれば厳冬期を攻めるとか。そういう本物の冒険をやっていきたい。僕の挑戦が誠実なものであれば、説得力も増していくだろう。 続きを読む 目次に戻る |