夕方、友人であるBunさんからtwitterでマディ上原さんの訃報を聞いた。
「マディ上原」と聞いていったいどれだけの人が彼の画風、作風を想起するか、いやマンガ家であったことを知っている人がどれだけいるのかと思う。
マディさんは52歳だった。俺より8つ上だ。死因や詳しい状況はまだ解らない。
マディさんと知り合ったのは、「ガロ」に入ってから、やめた先輩の後を引き継いで、杉作J太郎さんの担当を引き継いだ時だった。当時、杉作さんとマディさんは大の仲良しで、当時いつも一緒に居た記憶がある。というより、お会いする場面では常にお二人が一緒だった、ということだろう。
杉作さんもマディさんもマンガだけでは食えず、エロ本のカットやライターなどで糊口を凌いでいた。80年代半ば〜後半の話だ。実は「ガロ」の給料…安月給では食えなかった俺も、編集者でありながら、色々な雑誌や出版社で公認のバイトをして糊口を凌ぐ身であり、その意味では同じような作家さんとは多くの接点があった。
「ガロ」は純粋な「ガロ」デビューではなくとも、個性がありそれゆえにメジャーとはうまくいかない作家の発表の場、アピールの場であったという側面があったことは否定できない。このあたりの「雰囲気」を、今の40歳以下の人に伝えるのはなかなか難しい。
記憶が確かならまず杉作さん、それからマディさんも「ガロ」に登場したと思う。程なくどちらの担当も、俺が担当させていただくこととなった。
根本敬さんの担当を受け持っていたこともあり、根本さんが言い出した「特殊マンガ」系の担当がなんとなく俺だった、という感じだったかも知れない。
杉作さんとは、当時「ガロ」作家や編集者、周辺の人らでなぜか流行ったソフトボールで一緒になって、その日のうちに意気投合した。二人でギャグや世間話でゲラゲラ笑い合って、ソフトボールのあとなだれ込んだどこかでも、朝まで笑い合った。朝になると早朝の年寄り相手にゲートボールの番組が始まるのだが、それさえネタにして「ダブルスパーク!」とか言って笑い転げた。
マディさんもその時一緒だったと思うが、確かあの時は俺と杉作さん以外は全員潰れて寝ていたので、定かではない。
でも、何かの時、麻雀へ行くんだったか、あるいは飲み会へか、当時マディさんの奥さんだった原律子さんと杉作さんと、ジープみたいなオープンカーに乗って、甲州街道を新宿へ疾走したのを鮮明に覚えている。杉作さんたちは「土方」のコスプレをしていたと思う。
それからずっと、俺は杉作さんの担当として毎月お付き合いをさせていただいた。原稿をいただくのは三軒茶屋とか、新玉川線沿線が多かったが、パチンコビデオに出演させられたり、同じくバイトをしていた「平凡パンチ」編集部でお会いすることもあった。濃密な付き合いだった。マディさんとは作家と担当としてではなく、何かあるとよくお会いするという感覚だったのが、「ガロ」で描くようになったのはちょっと今さら的な、不思議な感じだった。
杉作さんは「ガロ」連載後、その独自のキャラクタ(マンガより本人の方が数段面白い、という失礼な評判が多かった)から、役者、タレントとして起用されるようになる。
けれど万人受けしないアーティスト肌の作風だったマディさんは、作家としては売れるという状況とはほど遠い感じではあった。実生活ではごく普通の、というよりどちらかというとシャイで人見知りするような印象の人だった。何か、人と話すときにいつも照れたように、柔和な笑顔で接してくれたことをよく憶えている。
マディさんの「ガロ」での連載は、今だから明かすが、その後読者からも同僚からの評判も良くはなかった。常人の理解の範囲を超えていたと思う。それでも俺は毎月、依頼を続けた。原稿料も出せないのに。
マディさんも原稿料が出ないのに、渾身の力をぶつけた原稿を描いて下さった、あの幡ヶ谷のマンションで。
「俺さあ、ローラーブレイド始めたんだよ」と、いつだったか世間話のときに、いつものように照れた様子で話してくれたことがあった。ろーらーぶれいど、なんて知らなかった。「ローラースケートじゃないんですか」と聞き返すと、「ちょっと違うんだよ」と言って靴を見せてくれた。そして「これでさあ、若い人らと一緒に滑ってんだよ今」と笑った。
俺より8つ上だから、当時でも凄いな、と思った。
マディさんはその特殊な作家性から、同じく特殊マンガの「大統領」である根本敬さんと深い親交があった。後進のためにも「ガロ」のマディさんの連載をそろそろやめてもらわねばならない、その苦渋の決断を、マディさんにお話するのは本当に辛いことだった。そのタイミングとほぼ同時に、根本さんはあるエロ雑誌にカラー連載していたマディさんとの合作を、本に出来ないかと相談してきた。
当時、三流エロ劇画やエロ本など、非大手の雑誌、版元にはたくさんの「ガロ」シンパがいたし、お互いに連帯感を持っていたので、根本+マディなんて今にして思えばとんでもないユニットが実現し得ていたのだ。
根本さんは「こんなのイッパン書店に流通させられるわけないじゃん、だから限定版で何とかさあ」と俺に言ってきた。
根本さんに「何とか」と言われて、やらないわけにはいかんと思った。
「ガロ」本誌の連載は、残念ながら終えていただくマディさんを、特殊マンガ家としては油にノリ始めていた根本さんとのユニットで送る。マディ上原という作家の再評価につながるかも知れない。
オール4色で、しかもB5判で、という無茶な注文を実現させようと、俺は原価計算を必死でした。エロ本からの切り抜きが貼ってあったり、死体写真があったりなどは当たり前で、極めつきは死んだゴキブリを貼り付けた「原画」だった。
「あのー、これ、4色分解出来ますかね?」と聞いた俺に、製版屋は
「アンタらおかしいんじゃないの?」と真顔で怒鳴った。
それでもなんとか製版印刷方面とも交渉して、根本敬+マディ上原合作・限定版「お岩」は、1993年8月末日無事、発刊された。
限定1000部で価格は3980円と高額になったが、B5版全84頁オールカラー、表1は金の箔押し、全てにお二人直筆のカラーサインとイラストまでつけた(これが漫画史上最悪の限定版「お岩」)
全部数売り切るまでには一年以上を要したが、それでも最終的に赤は出さなかった。
限定版「お岩」の1冊目、お二人による俺への「お疲れ様」のサインがカラーで入れられた。今でもそれは編集者として、自分の宝物の一つである。
その後、97年にあの「ガロ」クーデター事件(この記事の最下部参照)が起こる。
その後根本さんとは行き違いもあって没交渉となった。
あれほど、作家と担当として二人で毎月濃密な時間を過ごしたのにも関わらず、当時クーデター側のマスコミ工作、自己正当化の工作はすさまじいものがあり、俺は被害者のはずが単なる「悪者の一味」とされた。いまでもそれを信じている人も多い。
俺は当時から一貫して、ネットを通じて全ての成り行きと自分の立場や意見を公開し続けているというのに、俺をあからさまになじった人から謝罪はほとんどない。マスコミという力の強大さ、恐ろしさを今でも実感している。
もう、あの事件に関して「白取さんの方が正しかった」という総括、謝罪が欲しいという気持ちはあまりない。
もう自分の余命もさほど長くはないことは解っている、つまり、俺に対しやましいと思い、謝らねばと思う人らは、俺が死ぬのを待てば、それをせずに済む。
その気持ちも理解できないことはない。ただし、俺から赦されることはないと思えばいいだけの話だ。
俺は「ガロ」時代、一生懸命担当の作家さんに接してきたつもりだ。
「ガロ」時代は公にすることはなかったが、やまだ紫という誠実で正直に生きた人と、ずっと連れ合ったということでその証明としてもいい。
俺は俺で何も変わっていない、97年のあの「事件」への思いも言い続けてきた「事実」も、今でも1mmもブレることはない。ずっとネット上で公開してきた通りだし、尋ねてくれた人に言い続けてきた通り。
やがて時代が「判定」してくれるだろう、そう思っていたら、時代は事件を「風化」させただけった。
なるほどやはりその時に徹底的に正しいと思ったら戦うべきだったのだと思うものの、その体力も時間も財力も、俺にはなかった。
話が逸れたが、とにかく、幸い俺はまだ今生きている。けれど癌宣告を受け死を覚悟した間に、愛する連れ合いをはじめ、永島慎二、鴨沢祐仁さんなど、たくさんの大好きだった人を失った。俺がまだ生かされているということは、それなりになんらかの意味がある、そう思わねばとても耐えられない。
マディ上原さんのご冥福を、心からお祈りします。
「マディ上原」と聞いていったいどれだけの人が彼の画風、作風を想起するか、いやマンガ家であったことを知っている人がどれだけいるのかと思う。
マディさんは52歳だった。俺より8つ上だ。死因や詳しい状況はまだ解らない。
マディさんと知り合ったのは、「ガロ」に入ってから、やめた先輩の後を引き継いで、杉作J太郎さんの担当を引き継いだ時だった。当時、杉作さんとマディさんは大の仲良しで、当時いつも一緒に居た記憶がある。というより、お会いする場面では常にお二人が一緒だった、ということだろう。
杉作さんもマディさんもマンガだけでは食えず、エロ本のカットやライターなどで糊口を凌いでいた。80年代半ば〜後半の話だ。実は「ガロ」の給料…安月給では食えなかった俺も、編集者でありながら、色々な雑誌や出版社で公認のバイトをして糊口を凌ぐ身であり、その意味では同じような作家さんとは多くの接点があった。
「ガロ」は純粋な「ガロ」デビューではなくとも、個性がありそれゆえにメジャーとはうまくいかない作家の発表の場、アピールの場であったという側面があったことは否定できない。このあたりの「雰囲気」を、今の40歳以下の人に伝えるのはなかなか難しい。
記憶が確かならまず杉作さん、それからマディさんも「ガロ」に登場したと思う。程なくどちらの担当も、俺が担当させていただくこととなった。
根本敬さんの担当を受け持っていたこともあり、根本さんが言い出した「特殊マンガ」系の担当がなんとなく俺だった、という感じだったかも知れない。
杉作さんとは、当時「ガロ」作家や編集者、周辺の人らでなぜか流行ったソフトボールで一緒になって、その日のうちに意気投合した。二人でギャグや世間話でゲラゲラ笑い合って、ソフトボールのあとなだれ込んだどこかでも、朝まで笑い合った。朝になると早朝の年寄り相手にゲートボールの番組が始まるのだが、それさえネタにして「ダブルスパーク!」とか言って笑い転げた。
マディさんもその時一緒だったと思うが、確かあの時は俺と杉作さん以外は全員潰れて寝ていたので、定かではない。
でも、何かの時、麻雀へ行くんだったか、あるいは飲み会へか、当時マディさんの奥さんだった原律子さんと杉作さんと、ジープみたいなオープンカーに乗って、甲州街道を新宿へ疾走したのを鮮明に覚えている。杉作さんたちは「土方」のコスプレをしていたと思う。
それからずっと、俺は杉作さんの担当として毎月お付き合いをさせていただいた。原稿をいただくのは三軒茶屋とか、新玉川線沿線が多かったが、パチンコビデオに出演させられたり、同じくバイトをしていた「平凡パンチ」編集部でお会いすることもあった。濃密な付き合いだった。マディさんとは作家と担当としてではなく、何かあるとよくお会いするという感覚だったのが、「ガロ」で描くようになったのはちょっと今さら的な、不思議な感じだった。
杉作さんは「ガロ」連載後、その独自のキャラクタ(マンガより本人の方が数段面白い、という失礼な評判が多かった)から、役者、タレントとして起用されるようになる。
けれど万人受けしないアーティスト肌の作風だったマディさんは、作家としては売れるという状況とはほど遠い感じではあった。実生活ではごく普通の、というよりどちらかというとシャイで人見知りするような印象の人だった。何か、人と話すときにいつも照れたように、柔和な笑顔で接してくれたことをよく憶えている。
マディさんの「ガロ」での連載は、今だから明かすが、その後読者からも同僚からの評判も良くはなかった。常人の理解の範囲を超えていたと思う。それでも俺は毎月、依頼を続けた。原稿料も出せないのに。
マディさんも原稿料が出ないのに、渾身の力をぶつけた原稿を描いて下さった、あの幡ヶ谷のマンションで。
「俺さあ、ローラーブレイド始めたんだよ」と、いつだったか世間話のときに、いつものように照れた様子で話してくれたことがあった。ろーらーぶれいど、なんて知らなかった。「ローラースケートじゃないんですか」と聞き返すと、「ちょっと違うんだよ」と言って靴を見せてくれた。そして「これでさあ、若い人らと一緒に滑ってんだよ今」と笑った。
俺より8つ上だから、当時でも凄いな、と思った。
マディさんはその特殊な作家性から、同じく特殊マンガの「大統領」である根本敬さんと深い親交があった。後進のためにも「ガロ」のマディさんの連載をそろそろやめてもらわねばならない、その苦渋の決断を、マディさんにお話するのは本当に辛いことだった。そのタイミングとほぼ同時に、根本さんはあるエロ雑誌にカラー連載していたマディさんとの合作を、本に出来ないかと相談してきた。
当時、三流エロ劇画やエロ本など、非大手の雑誌、版元にはたくさんの「ガロ」シンパがいたし、お互いに連帯感を持っていたので、根本+マディなんて今にして思えばとんでもないユニットが実現し得ていたのだ。
根本さんは「こんなのイッパン書店に流通させられるわけないじゃん、だから限定版で何とかさあ」と俺に言ってきた。
根本さんに「何とか」と言われて、やらないわけにはいかんと思った。
「ガロ」本誌の連載は、残念ながら終えていただくマディさんを、特殊マンガ家としては油にノリ始めていた根本さんとのユニットで送る。マディ上原という作家の再評価につながるかも知れない。
オール4色で、しかもB5判で、という無茶な注文を実現させようと、俺は原価計算を必死でした。エロ本からの切り抜きが貼ってあったり、死体写真があったりなどは当たり前で、極めつきは死んだゴキブリを貼り付けた「原画」だった。
「あのー、これ、4色分解出来ますかね?」と聞いた俺に、製版屋は
「アンタらおかしいんじゃないの?」と真顔で怒鳴った。
それでもなんとか製版印刷方面とも交渉して、根本敬+マディ上原合作・限定版「お岩」は、1993年8月末日無事、発刊された。
限定1000部で価格は3980円と高額になったが、B5版全84頁オールカラー、表1は金の箔押し、全てにお二人直筆のカラーサインとイラストまでつけた(これが漫画史上最悪の限定版「お岩」)
全部数売り切るまでには一年以上を要したが、それでも最終的に赤は出さなかった。
限定版「お岩」の1冊目、お二人による俺への「お疲れ様」のサインがカラーで入れられた。今でもそれは編集者として、自分の宝物の一つである。
その後、97年にあの「ガロ」クーデター事件(この記事の最下部参照)が起こる。
その後根本さんとは行き違いもあって没交渉となった。
あれほど、作家と担当として二人で毎月濃密な時間を過ごしたのにも関わらず、当時クーデター側のマスコミ工作、自己正当化の工作はすさまじいものがあり、俺は被害者のはずが単なる「悪者の一味」とされた。いまでもそれを信じている人も多い。
俺は当時から一貫して、ネットを通じて全ての成り行きと自分の立場や意見を公開し続けているというのに、俺をあからさまになじった人から謝罪はほとんどない。マスコミという力の強大さ、恐ろしさを今でも実感している。
もう、あの事件に関して「白取さんの方が正しかった」という総括、謝罪が欲しいという気持ちはあまりない。
もう自分の余命もさほど長くはないことは解っている、つまり、俺に対しやましいと思い、謝らねばと思う人らは、俺が死ぬのを待てば、それをせずに済む。
その気持ちも理解できないことはない。ただし、俺から赦されることはないと思えばいいだけの話だ。
俺は「ガロ」時代、一生懸命担当の作家さんに接してきたつもりだ。
「ガロ」時代は公にすることはなかったが、やまだ紫という誠実で正直に生きた人と、ずっと連れ合ったということでその証明としてもいい。
俺は俺で何も変わっていない、97年のあの「事件」への思いも言い続けてきた「事実」も、今でも1mmもブレることはない。ずっとネット上で公開してきた通りだし、尋ねてくれた人に言い続けてきた通り。
やがて時代が「判定」してくれるだろう、そう思っていたら、時代は事件を「風化」させただけった。
なるほどやはりその時に徹底的に正しいと思ったら戦うべきだったのだと思うものの、その体力も時間も財力も、俺にはなかった。
話が逸れたが、とにかく、幸い俺はまだ今生きている。けれど癌宣告を受け死を覚悟した間に、愛する連れ合いをはじめ、永島慎二、鴨沢祐仁さんなど、たくさんの大好きだった人を失った。俺がまだ生かされているということは、それなりになんらかの意味がある、そう思わねばとても耐えられない。
マディ上原さんのご冥福を、心からお祈りします。