「ラッキードッグ1」イヴァン誕生日ショートストーリー
『The Gift of the Fools』

2009.12.23〜12.29

 ぱちん、と心地よい音を立てて暖炉の奥の薪がはじけた。
「……アー、気持ちイイな、これ」
「おう。……そりゃ金持ちどもがこういう別荘、持ちたがるわけだよな」
 イヴァンはのっそりと身を起こして、敷布の上に立ち上がる。俺は、ぐうたらのネコか
駄犬のように、ぐんにゃり寝転がったまま。
 ――どっちも、動物か子供のように……素っ裸だ。
「ボイラーでもつけるか?」
「いや、ゆうべもつけなくて大丈夫だったからなあ。コレ、暖炉でしのげるんじゃね?」
「じゃあ、ガンガン焚いとくか」
 イヴァンは、レンガと石、漆喰で積み上げられた暖炉の中に、きれいに割られた薪を
数本置いて火に食わせた。ぱあっと火の粉が散って、いっとき部屋が暗くなり、そして
すぐに、炎が薪を舐めていって――毛皮の敷物がいっぱいのこの居間を、暖かなオレンジ
色がぼうっと照らした。
「……薪の火って、あったけえなあ。これは発見だな」
「ボイラーのパイプや石炭じゃ、こーはいかねえもんな」
 俺もイヴァンも、ぼんやりと暖炉の火を見つめる。イヴァンが鹿か何かの毛皮の上に
転がると、俺もそっちに寝返りを打って……イヴァンの太腿を枕にする。
 外は――この山小屋の外は、音もしないほどの深い雪に包まれている。車のエンジンも
かからないくらいの寒気と雪に包囲された山小屋だったが……。
 暖炉の前は、裸で転がっていても平気なくらいに温かい。
 部屋の空気が、アイスクリームみたいに柔らかく、ひんやりしているのも気持ちいい。
 暖炉の炎が揺れて、その熱気が揺らめき肌を温めてくれるのが気持ちいい。
 そして……。
「……眠くなってくるよな。……てか、もうドンだけ寝てるんだって感じ。犬みたいだ」
「食って、寝て、また食って。動物だなこりゃ」
「エロいこともしてんだろーが。――ウン、動物だ。どうぶつサイコー気持ちいい〜」
「う、うるせえ。しょうがねえだろ、お前が服着るなって、いうからよう……!」
「ハダカ、きもちいいよなあ……。サイコーのプレゼントだ、こりゃ」
「……だな。あのおっさん最高だぜ、ったく」
 ゴロン、と寝転がったイヴァンの身体。そこから転げた俺は、ジャポーネのトラかなん
かの毛皮を身体に巻きながら、今度はイヴァンの腹筋を枕にする。
「……って、なにボッキさせてんだよこのタコ」
「し、しかたねえだろ、おまえがくっつくから――」
「さっきあんだけ出して、もうタマの裏が痛えとかいってたのはどこのイヴァンちゃん?」
「うっせ。……だ……う、うん……そう、やって、触ってるだけで……イイんだよ」
「……ん……。こっちも、そんなかんじ……」
 寒さと炎の温かさのせいか、毛皮のせいか、俺もイヴァンもなんか肌がさらさらの
すべすべだ。ミドルスクールの小僧みたいにボッキしているアレも、なんかオモチャ
みたいにすべすべで…………。
「……っ、ん……う、ふ…………」
「はっ、……ぁう……ジャン…………」
 ときおり、キスをしながら――
 ふたりして、どっちがどっちのアレかわからなくなるくらい重なりあって、お互いを
触って、握って……ああ、なんで他人の手だとこんなに気持ちイイ……?
 パチッ、と炎の向こうで薪がはじけた。
 俺たちの肌がこすれる音と、呼吸、ときどきねっとりエロイ音。そこに、薪の燃える音
だけが重なって……雪みたいに、音が降り積もってゆく。そんな静かさ。
「……さっき、なんの薪?」
「シラカバだったか? おもしれーよな、匂いが違うんだもんなあ」
 空気の中に、シラカバの薪が燃えるときの甘い匂いがそっと広がっていた。樫の薪だと
乾いた清潔な匂い、楡だとしっとりした暖かな匂い、松やモミだと男性用の香水みたいな
匂いがする――すっげえカネのかかった山小屋の、サイコーの暖炉。
「もう、どれくらいここに居るんだろうな、俺たち……」
「……三日くらいじゃねーか? ラジオつけてみるか」
「ん……まだ、いいか。休みは五日あるし……どうせ、迎えの馬車がこねーと、ここから
 動けねえし」
「そりゃそうか――ベルナルドの野郎、やきもきしてんだろうな。電話線、雪で切れて」
「いいんだよ。ちゃんとした休暇なんだから。それより……」
 俺は、紙袋がガソゴソいう音を聞きつけたネコみたいに、首だけもたげる。
「むこうの部屋の棚に、猟銃があったぜ。ウサギか鳥でも撃ちにいってみる?」
「……いや、やめとこう。まだ缶詰も粉もあるしよう」
「……同感。外出たくねえ〜」
 俺とイヴァンは、放り出された毛皮とシーツの上でごろごろ転がり、お互いを枕にして
転がって……キスをして、こすりつけて、一緒に笑って……。
 ふと、二人同時に同じ方向を、同じものを……見た。
「…………」
「………………」
 テーブルの上に置かれた、ピカピカの物体、二つ。いや、二組。
 こんな、カナダ国境に近い山奥の、雪に埋もれた狩り小屋の中には、完全に似つかわし
くないその物体は――俺とイヴァンの靴だった。
 もちろん、この山奥に来るために履いてきた毛皮のブーツとは違う。
 デイバンの街で履いていた、よそ行きスーツ用……コンプレートに合わせた、ピカピカ
の革靴だった。
 完璧に磨かれた、そういう黒い宝石みたいな、おそろいの革靴。
 いや、イヴァンのヤツのほうが俺のより、いっこサイズが上か。
「……サイコーだな、あのおっさん」
「……ああ、ありゃあ男だ。さすが、あれが本物のル・オモ(大物)だな」
「俺たちもトシ食ったら、ああいうオヤジになろうぜ」
「――…………」
「なに嫌そうな顔シテンダヨ」
「お……お前は、そのままでいいんだよ……!」
「なんだそりゃ」
 俺は、俺とイヴァンは――
 このサイコーの休暇を、山小屋をプレゼントしてくれた「ある人物」に腹の底で感謝
して、そして……またあのピカピカの靴を、見た。


 去年がそうだったので、今年も覚悟して、そしてあきらめてかかっていた。

 12月のカレンダーが半分を過ぎると、街は、世界はクリスマスに占領される。
 赤と白のインクをこぼされた世界は、大不況だろうが寒波だろうが、おかまいなしに
クリスマスの色に染まってゆく。
 そこら中に気の早いクリスマス飾りが顔を出し、セールやバーゲンの看板が花開き、
街をゆく人々も、うずくまる連中も、金持ちも貧乏人も、落ち着きの無いそわそわした
素振りで日々を過ごす――24日の夜、そして25日まで。
 もちろん、それは……俺たちCR:5のマフィアも同じだ。
 というか、この季節は一年で一番忙しい。そして一番身体が酷使されてぐったりくる。
 このデイバンを仕切っている、いわゆるイタリア系なヤクザの俺たちCR:5。
 もう20日くらいから、ひっきりなしに、やれ礼拝だ、やれ会議だ、パーティーだ、
食事会だ、チャリティーだ、コンサートだ観劇だと、引っ張りまわされる。
 正直、24日とか25日は分刻みだ。トイレの便座に30秒以上座ってると、すまなさ
そうな護衛のノックで急かされるぐらい忙しい。
 しかも……。
 やっとのことで、俺とイヴァンにおっかぶさっていた例の事件の謹慎がとけてくれて
――俺の、CR:5の二代目カポとして正式な就任が決まったこの年末。
 教会での礼拝や会議で引っ張りまわされる忙しさは、去年の比じゃない。

 正装と、よそ行き用のツラと、二日酔いと、礼拝の眠さに耐える年末が始まる。

 もう、人並みのクリスマスは過ごせない身体になっちゃったよマンマ……。


「――と、いうワケでだ。ほい、少し早いがサンタさんから預かっといたぜ」
 俺は、どすんと紙袋をテーブルの上に置いた。ネクタイを緩め、しんどそうな息を
はいていたイヴァンの目が紙袋と、そして俺に向かう。
「なんだ、こりゃ」
「クリスマスプレゼント、プラスアルファだよ。どーせ、クリスマス当日はそれどころ
 じゃないだろうからさ〜」
「……そりゃそうだが……。なんんだ、この汚え袋は。もうちっと……」
 ブツブツ言いながら、それでもイヴァンは、口の端っこをヒクヒクさせて喜ぶのをこら
えながら――紙袋を破く。
 そこから……俺の吟味した「もの」が姿を現した。バサリ、と。
「………………なんだ、こりゃ」
「だから。プレゼント。それ、メルセデスの後部座席に敷いたらかっこよくね?」
「…………トラの毛皮……?」
「ああ、けっこー高かったんだぜ? ンモー、特別なのよイヴァンちゅわん。だって、
 ベルナルドには手袋だし、ルキーノには葉巻、ジュリオはキャンディーボックスだもん。
 あんまり特別扱いは良くないんだけどねえ、でもさ。今日は!!」
 俺は、大根役者よろしく手を広げて、宣言する。
「今日はイヴァンの誕生日だもんな! NYに行ったときにそれおもいだしてさ!
 もう、コレで死ぬか、って言う気分で大金はたいてこれ買ったんだぜえ!!」
「…………」
「タンジョーび、おめでと〜〜〜! ……って、なんだその人生に不満のあるツラは」
「……だせえ」
「うん、そうだろそうだろ…………なんだと」
「いや、これダセえだろ、カッコ悪いだろ!? センスねえ、っていうか最悪だろ!?
 なんで戦乙女にこんな泥臭いモン載せなきゃなんねーんだよ!? 土人じゃあるめえし」
「えええ〜〜!? カッコいいじゃねえかよ、インドの王様みたいでさ!!」
「いや、ねえ! ありえねえし!! ったく、センスのかけらもねえなこのタコ」
「うわ、この野郎。人がせっかく……。じゃ、じゃあよう! お前、イヴァン!!」
 俺は、ビッシとイヴァンの馬鹿野郎を指差し、言った。
「お前もなんか準備してる、って言ってたよな!? クリスマスプレゼント!!
 誕生日の今日、交換しようって言ってたよな!? それ見せてみろよう!」
「お、おう。……これ、こいつだ」
 そう言って……取り乱したバカは、スーツの内ポケットから何かのケースをひっぱり
出した。小さいがビロードで飾られた、高級時計かなんかのケースだ。
「オ。なんか意外。結構まともそうな……時計か?」
「い、いや――」
「だめじゃん、高いものはよそうぜって約束……まあ、いいか。サンキュ」
 そして、ケースを開いた俺の目に映ったものは……チャラチャラとした……鍵?
「なんだ、これ…………」
「め……メルセデスの、戦乙女のキーだよ!! ……クソ、スペアなんて作った
 のは初めてなんだぜ……!? 俺の運転手にだって持たせてねえ――」
「いや、そうじゃなくて。なんだ、この……キーホルダー……??」
「おう。そいつが高かったんだぜえ、日本製の細工物だ。いいだろ?」
「……なんだ、このキモいミニチュアは」
「な、なんだと!? ジャポーネのスシフードのミニチュアだぞ? クールでカワイい
 じゃねえか!! ウニのやつだぞ!? イタ公、ウニくうだろうが!?」
「ごめん。なんか。即捨てるわ。これ」
「……なんだよ、それ!? クソッ、気に入ると思ったのによ!!」
「そりゃコッチのセリフだ。……NYのチャイナタウンで買ってきたのに、毛皮」
「うるせえ! ……部屋ならいいけど、メルセデスにコレはねーわ」
「……どっちも、無駄か。なんて誕生日だクリスマスだ、O・ヘンリにあやまれ」
 そして……。
 クリスマスを前にして気の早いプレゼント交換をして、そして二人してぐったり
している世界中の男たちの中でも、俺たちはピカいちピカにの大馬鹿野郎だった。
 そんな俺たちの世界で……電話が、鳴った。
「ハイ、こちらクリスマス中止のお知らせ委員会本部。ああ、ベルナルド、どした」
『――すまないね、オフの時に。イヴァンも、そこにいるか?』
 電話越しに頷いた俺に、イヴァンが怪訝そうな顔をした。
『――重ねてすまないが……イヴァンと、ダウンタウンに急行して欲しい』
「面倒事か」
『……ああ。銃や護衛の要る話じゃないが……面倒だ。少なくとも兵隊を送って
 いい相手じゃない。ジャン、イヴァン、頼めるか……?』

 もちろん――二人してうんざりしているよりは、夜の街に繰り出した方がぜんぜん
マシだった。
 正直、ケーキとかにしておけばよかった…………。


 ベルナルドから指示されたダウンタウンの一角、なんどか行ったことのある店。
 そして……思い出深い、ある人物の名前。
 俺とイヴァンは、メルセデスを歩道に乗り上げさせて路駐すると、すぐにその
スタンド、というか少し粋でお値段それなりなバーに乗り込んでいった。
 そこで、俺たちを待っていたのは……。

「おお、イヴァンくんじゃないか! それに、ジャンカルロくんまで! おおお。
 うれしいねえ、ひさしぶりやねえ。うんうん、あ、そうか。ジャンカルロくん、
 二代目決まったんやってね。おめでと、じゃあドンって呼ばにゃいかんね」
 そこにいたのは……。
「シニョーレ・ピロータ……!?」
「お、おやっさん……!? ミスタ……」
「いやあ、やめてよそういうのは。こそばゆいわあ。まあまあ、君たちも飲む?
 ……おっと、いかんいかん。わし、もうこの有様だったわ」
 そこに居たのは、サルマタぱんつにシャツ一枚、そこにソックスと靴だけという
実に……滑稽というか、アレな格好をした老紳士、だった。
 低い背に、滑稽な形に寂しくなった頭、そしてビールで慈しんだ太鼓腹。
 ……前に、イヴァンと一緒に接待し、そしていろいろ世話にもなった堅気の
大金持ち、CR:5にとってVIP中のVIP、イタリア系のル・オモ。
 ピロータ氏が、そこにいた。ほとんど裸で。
 ……あの、金のかかった、まあセンスはご察しのスーツとカウボーイハットもなく、
お供も居らず…………。
 その老人は、だがニコニコとしごく満足そうな様子で笑い、俺たちに話しかけて
いた。そして、あっけに取られた俺たちの視界に、俺たちの倍くらいあっけに取ら
れた他の客と、そして、困り果てているボーイとマスターの顔があった。
 最初に、イヴァンが深呼吸して――切り出した。
「あ、あの。ミスタ・ピロータ、ソ、その。デイバンにようこそ。
 でも、その……なぜ、その、食い逃……いえ、無銭……いえ、その」
「ああ、ウン。駅から降りてさ、フラフラ〜っと歩いてたらね。この店から漂う
 パスタの匂いが腹にしみてね。で、もう。いやあ、食った食った」
「あ。あの」
 今度は、俺が頭の中を整理しながら口を開く。
「その、もしかして……どこかに、財布の入ったカバンか何かを忘れてきた、
 とか……ですよね?」
「うんにゃ。アレ、言ってなかったっけ。わし、いま無一文なんよ」
 はえ?? 俺とイヴァンが同時に声と息を漏らした。
「いろいろあってねえ。トモダチの保証がコッチ回ってきちゃったり、ホテルが
 左前になったり。こういう事は続くもんやねえ。こわいねえ」
「え、えっと……」
「あ、でも返すもんはみんな返したから、心配せんでええよ? そしたらね、
 ちょうどすっからかん、身ひとつになっちゃったの。すっきりしたわあ」
「……ミ、ミスタ……」
 あのビッグマン、ル・オモが……そんな、あっさり――
 俺もイヴァンも、とんでもない断崖絶壁の深淵をのぞきこんでしまったような
気分で、馬鹿な若造みたいに、ただ立っているしかできなかった。
「そんでね。また昔みたいに靴磨きして暮らそうと思ったの。そうしたらこの
 デイバンと、ジャンくんとイヴァンくんのことを思い出してねえ」
「あ……ああ、ハイ、言ってく……仰ってください。CR:5が名誉にかけ
 て、あなたを――」
 俺がそこまで言うと、ピロータ氏は愉快そうに手をふった。
「いやいや。そうじゃないのよ。世話になるんじゃなくてね、デイバンはいい街
 だからねえ、ここで靴磨きさせてもらおうと思ったんで、スジもんの君たちに
 ハナシを通しておこうと思って、電話したのよ。そんだけなの」
「な……! で、でも、しかし……それでは、俺たちの――」
「いいのいいの。お気持ちだけでもうれしいわ。でも、わしまだ元気だから。
 それに、わし、靴磨きは誰にも負けんよ? それで元手つくったんだからね。
 あ、そうだ。ジャンくんとイヴァンくんの靴も磨いてあげようかね」
 俺とイヴァンは、そういう人形みたいにそろって手と首をふる。
 その俺たちに、
「あ、あの……ご苦労様です。申し訳ありません、その、お代はもう……」
 この店のマスターが、ピロータ氏が脱いだであろう豪華なシャツとスーツ、
そしてその玉座の上にちょこんと乗っている、宝石箱みたいなカルティエを持った
まま、途方にくれて俺たちを見ていた。
「……そのカルティエだけで、このあたり一角、買い占められそうだ、こりゃ……」
「ミスタ、その、代金は俺たちが。ですから……」
「うんにゃ。昔から、食い逃げは身ぐるみ剥がれるっていうのが決まりだからね。
 いかんよ、すじもんの君らがそういうこと曲げちゃ。じゃ、わし、もう行くから」
 そう言って……下着姿の王様は、バーの扉を開けて、悠然と12月の夜が支配
する大通りへと――
「わ、わ。ま、待ってください、ミスタ……!!」
 俺とイヴァンは、慌ててその裸の王様のあとを追って店を飛び出した。


「……アレッサンドロ顧問には、連絡しておいた――」
「顧問は、なんと?」
「失礼の無いように。ピロータ氏の望むようにあつかえ、だそうだ」
「そりゃあ無理難題だぞ」
 会議室のテーブルでベルナルドが報告し、呼び出されたルキーノとジュリオ
はため息をひとつ、そして……6つの目が、俺とイヴァンを見た。
「ジャンさん、ピロータ氏は、いまどちらに……?」
「ああ、さすがにあれじゃ凍死するからな。ホテルに連れてこようとしたんだが
 きかなくってさあ、あのおっさん」
「いまは、俺のシマの安アパートに部屋を借りてら。……マジで、靴磨きして
 暮らす気だぜ、ありゃあ」
「いやはや。なんというか……19世紀世代は、タフだな」
「まったくだ。あの大金持ちが、一転、靴磨きか……」
 ベルナルドとルキーノは、そしてもちろん、ジュリオもビシッとコンプレート
を着込んでいた。クリスマスを前の会議と礼拝、パーティーの、ほんの僅かの
合間をぬって、この緊急幹部会議は開かれていた。
「アレッサンドロ顧問とカヴァッリ顧問、どちらも出張中だからな……。
 俺たちだけで、この問題に対処する必要が、ある」
「……ふつうに、氏に投資というか金を貸して、ふつうに余生を過ごしてもら
 うんじゃ、まずいのか?」
 ルキーノがわけ分からない、と言ったふうに息を吐いてコーヒーをすする。
「本人がそれを望んでいない。それと……彼は、ふつうの金持ちじゃない。
 イタリア系の、しかもアメリカきってのル・オモだ」
 そのベルナルドの声に、
「つまり、監視されていると……?」
 ジュリオがコーヒーカップから、俺に目を移して言った。
「そういうことだ。彼の零落を見て、なにかの復讐を企てる奴が居るかもしれん。
 だから、氏を監視し護衛する必要もあるのだが……厄介なのは――」
「財務局か」
 ルキーノが、どんなスラングを言うときよりも毒を込めて吐き捨てた。
 ため息を付いて、ベルナルドもうなずく。
「あ〜〜〜。そういうことか。……こりゃめんどくせえ」
「……つまり、うちからまとまった金をミスタに流すと、それに目をつけられ
 て、どっちも痛くない腹さぐられるわけか。ファック!」
「……ま、こっちは少々痛いところもあるわけだ。だから、まずい」
「じゃあ……! ミスタに、下町で靴磨きさせておけっていうのかよ!?」
 テーブルを叩いたイヴァンに、ジュリオがぼそり言った。
「それが、氏の望み……なのだろう? 顧問も、そのようにしろと――」
「な……!! ……クッ、くそ…………」
「落ち着けよ、イヴァン。そんな、すぐに凍え死んだりするわけじゃねえし、
 オヤジが戻ってきたらまたさ……」
「クソ……! なんてクリスマスだ、クソ、ファック……!!」
「落ち着け、イヴァン。もちろん、氏を見捨てたりはしない。だが、彼がこちらの
 庇護を求めていない時点で、俺たちには監視以上のことはできないんだ」
「わかってる……!!」
「……ふう……。どうするべかなあ……。こうなったら、うちの兵隊にさ、
 一日一回、ピロータさんのところで靴磨け!チップはずめ!って命令する?」
「……すみません、ジャンさん……それは、氏のプライドを傷つけるのでは」
「……デスヨネー。……はあ、だめだな、おれ……」
「……すみません、出すぎました……」
 会議の空気が、しん、と重く沈むと――ルキーノが大きな体を揺すって立った。
「数日すれば、顧問がお戻りになる。そのときに改めて、指示を仰ごうぜ。
 それまでは……イヴァン、お前の仕切りだろ。氏の住んでるあたりと、仕事を
 するあたりの監視を頼む」
「ああ、わかってる。……クソ、こんなときじゃなければ俺が自分で……」
「イヴァン、お前は隠居なさった役員会のパーティーに呼ばれているのを忘れるな。
 あと……ジャンカルロ、お前も、このあとは5分刻で行動だからな」
「へいへい……」
 ふと気づくと……窓の外は、紫色をした冬の夕暮れに染まり始めていた。
 明日のイブは、雪になるかもしれなかった。


「――…………。……!? あ!? お、おい、ちょっと停めてくれ!!」
 リムジンの窓から、ぼんやりと外を見ていた俺は――夕暮れが迫るダウンタウンの
一角に見えた「もの」を見て、おもわず運転席へのマイクに叫んでいた。
「な……? どうなされました、カポ・レジーム……」
 後部座席に乗っていた、護衛の兵隊たちが慌てたが、俺はそれより先にドアノブに
手をかけていた。
「10……いや、5分でいい!! 少しここで停めててくれ!!」
「し、しかし……このあと、市長官邸の……」
「もし遅刻したら俺が全部ひっかぶるから! ごめん、マジごめん……!」
 ラッキーなことに、信号の渋滞に引っかかってリンカーンはその長大な巨体を道路
に停めていた。俺は、右側のドアを開いて――薄汚れた街路に走り出していた。
 背後で、護衛たちが慌てて公衆電話に走り、そして懐に銃を飲んだ男たちが俺のあと
を付いて走ってくる足音が聞こえていた。
 夕暮れの薄汚れたオレンジ色に染まるデイバンには、雪が降り始めていた。

「……ミスタ、ピロータ!!」
 俺は、道端に置かれた小さな袋みたいなその人影に向かって走った。
「おお、ジャンカルロくんじゃないか! 元気しとるかね。……ん? おお、おお。
 男だねえ、スーツ似あうねえ、そうか、もうカポだもんねえ。いい男ぶりだねえ」
「い、いや、まだその、正式には……その、えっと。……大丈夫ですか?」
「ん、なにが? わしはまだビンビンに元気よ? 使うアテは無くなっちゃったけど」 
「ハハ……。でも、雪ですよ? その……よかったら、うちに来ませんか」
「あー、いやいや。平気。ありがとね、うれしいよ。でもね、部屋はあるしね。
 それにさっきね、イヴァンくんが来てね。おいしそーなホットドッグを袋いっぱい
 くれたのよ。だから、大丈夫。あ、君も一本食べる?」
「ハハハ……あの野郎、パーティ遅刻したな……。
 その、俺、これから会議と宴会で。だから、ハラを空けておかないとなんです。
 ……その、ミスタ、えっと……景気、どうっすか?」
 俺がおそるおそる言うと……ボロっちいズボンとコート、そして古カーテンを
マフラーがわりに首と頭にぐるぐる巻いたル・オモは、ピロータ氏は、真っ赤になった
鼻をこすりながらニカッと笑う。
「いやあ。全然あかんのよ。まあ、ここには来たばっかりだからねえ、まだまだこれ
 からよ。まずは、客層を見んとね。あ、そうだ、ジャンカルロくんの靴も……」
「い、いえ、そんな」
「あ、いや。靴はぴかぴかやね。あたりまえだったね、ごめんねえ」
「…………」
 俺は、ひさしぶりにズシンと来た無力感に押しつぶされそうだった。この後、市長
官邸で開かれるお世辞だらけの会議と、そのあとの金を垂れ流すようなパーティの
ことも、考えるだけで空っぽの胃袋がひっくり返りそうだった。
「ああ、そうそう」
 そんな俺の足元で、ピロータ氏が手を叩いて言った。
「あのねえ。ジャンカルロくん、ひとつお願いがあるんだけどねえ。いいかねえ」
「え……。あ、はい、なんでも――」
「じつはね、昨日今日とお客がさっぱりでね。ほんとうにすっからかんなのよ。
 そんでね、さっき、ふと電話しなきゃと思ってたの思い出してねえ。いかんねえ、
 年をとると。だからね、悪いけど、5セント玉いっこ、貸してくれないかな」
 俺は、たぶん3秒くらいあっけにとられたあと……。
「……バッファロー? えっと、あ、はい」
 答えて、ポケットに手を突っ込んで……。そして、絶望する。
 この、夜会用のコンプレートのポケットに小銭なんか入ってるわけがない。
「……あ――」
 絶望の中で、銀色の小さなキラメキが、マジの5セント玉のように光った。
「そうだ……」
 俺は、ベルトを外し…………勝負……!!
 前に、この格好で出かけて――そして、同じように抜け出したとき、イヴァンに
スタンドでガムを買ってもらって、そのときにお釣りの5セント玉でコイントスを
して……それを、たしかベルトに――
「あった……!」
 ベルトの金具の隙間に……ちっぽけな銀色のコインが、挟まっていた。
 服もベルトもクリーニングされたはずだが……このコインはそのまま……。
「ハハハ! やっぱり、イブには奇跡が起こるもんですね、ミスタ!」
「おお、あったあ? すまんねえ、すまんね、じゃあ頼めるかな」
「もちろん!」
 ――なんてちっぽけな奇跡だろう。だが……その小銭一枚で、俺はこの寒くて
無慈悲でくそったれた世界がまるごと、救われ祝福された気分になっていた。
 ピロータ氏は、そのコインに目を細めながら……また、ぽんと手を叩いた。
「そうそう。ちょうどいいわあ。聞いてみよ。ジャンカルロくんさあ」
「はい?」
「君、ブタと牛だったらどっちが好きかね? 鳥とか魚はナシよ」
「え、好きな肉ですか?」
 俺は訳がわからないまま、一瞬考え……そして、ニヤッと笑って、手にした
5セント玉に一働きしてもらうことにした。
「よっと!」
 俺がトスしたコインは、ふわふわと雪が舞うデイバンの夕暮れの中で跳ね、くるくる
と舞って――俺の手の甲に、そして手のひらの下に。
「えっと……。バッファロー。うし、ということで」
「うん、牛ね。やっぱりそうよね、男はステーキよね」
「はい。……インディアンが出たらどーしよかと、ひやひやでした」
 ピロータ氏は、満面の笑顔で俺からコインを受け取ると――
「じゃあね、ありがとね。ジャンカルロくん、恩に着るよ。ほんと。ぜったいにこれは
 返すからね、もうどーんと倍々バイの、でっかくして返すからね!」
 そう言って、ピロータ氏は通りの向こうにある公衆電話の方へ、手を振りながら、
行ってしまった。
 そして……。
「……イブ、か…………」
 ため息を付いた俺の後ろで、時計を気にして胃が荒れまくっている気配の護衛たちが
やきもきとしていた。


 ……眠い。
 時計を見ると、もう夕方の四時。だが、まだこの試練は終わらない。
「……次は、どこだっけ……?」
「聖パトリック教会……だったかな。護衛と運転手がしってらあ」
「そりゃそーだ……」
 俺もイヴァンも、徹夜の礼拝と会議、パーティーで完全に体力を削られていた。
 ピシッとしているのは、着ているスーツだけと言う有様で……だが、人前に出たら
新しき世代のカポと、その右腕の幹部としての顔をしなくてはならない。
「……クリスマスって、つらいよな……」
「……毎年これだぜ、覚悟しろこのタコ……」
「……こんなときだけ、堅気が羨ましい……」
 俺は、熱の味しかしないコーヒーを苦苦の口と胃袋に流し込んで、時計を見る。
 もう秒針のレベルで、すぐにでも護衛とベルナルドがやってきて俺たちを新たな試練
の場に連れてゆく……。
 だが、ベルナルドは俺たちの倍以上、寝ても休んでもいない……。
 それに…………。
「外は雪だなあ……。……あのおっさん、大丈夫かなあ」
「たぶん、な……。部下から連絡が無いから、たぶん、部屋にこもってるんじゃない
 かな、あのおやじ。昨日から、街では姿が見えないってさ」
「……風邪引いてるんじゃ……あとで部屋に――あー……無理だ兵隊に……」

 そのときだった。既視感と言うか――電話が、鳴った。
「はい、こちら……。……ごめん、頭が回らないや」
『――同じく。何かふられて答えられなかったらどうしようかってビクビクしてた。
 ……すまない、休憩中に。イヴァンもそこにいるかい?』
「ああ。どうした――」
 ベルナルドの声には、この前と同じ……兵隊には任せられない面倒事を抱えている、
だが、どこか……なにかいたずらを隠しているような、可笑しそうな、そんな色が
電話線の向こうに見え隠れしていた。
『――すぐに、イヴァンと一緒に下のホールに来てくれないか? お客人だ』
「客? 困るわあ、アポなしは。事務所にハナシを通してくださらないカシラ?
 ……わかった、すぐにバカ連れて行く」
「誰がバカだ、このタコ」
 俺は電話を切ると、うんざりした様子のイヴァンを連れてエレベーターに向かった。


 デイバン・ホテルのそれに比べれば、まだ狭い本部のホール。どちらかというと、
襲撃を受けた際に反撃しやすいように、さり気なく障害物や通路が飾られて隠された
ホールには、ベルナルドにルキーノ、そして……見慣れない、コートのような黒服
に身を包んだヨソの護衛っぽい連中。その前に、さり気なく影のように立ちはだかって
いるジュリオの姿が、そしてCR:5の兵隊たちが集まっていた。
「うわ。なんだ、この忙しいのに……どうした、ベルナルド? 客?」
「やあ、ジャン……。――カポ・デルモンテ。あちらにお客人が」
「客って、聞いてねえ……。……え? ええええええ!?」
 ベルナルドが、すっと手袋をした手を差し伸べたその方向に――
「やあやあやあ。メリークリスマス!! おめでとう、おめでと、おめでと!!」
 あの長衣の黒服部隊――思い出した、ユダヤ人の任侠だ――その男たちをかき分
けるようにして、小柄で、滑稽なほど太った派手な老人がヒョコヒョコ歩いてきた。
「!? ミスタ・ピロータ!?」
 俺とイヴァンは、同時にあんぐり……漫画みたいに、口を開けていたと思う。
「メリークリスマス!! ほかのみんなも、おめでとう、おめでとうさん!!
 いやいやいや、ほんとほんと。ジャンカルロくんとイヴァンくんにはね、ほんと、
 世話になってね。ほんと、このデイバンはいいところやね。わし、ここ大好きよ」
「あ、あ……あ、ハイ、メリークリスマス……。えっと、その……」
「ミスタ、えっと……靴磨き、は……あの、服がもとに、いや、もっと派手に」
「ああ。それがね。そうそうそうそう。じつはね、昨日ね。ジャンカルロくんにね、
 電話代借りたじゃないの。それでね、忘れてた昔のトモダチに電話したの」
 満面の、血の気がいいぱんぱんの赤ら顔で笑う老人を、押しのけるようにして、
のっそり、長身の黒と灰色の影が進み出た。
「――友人などと呼ぶな。わしは……ッ、ゴホッ、オホっ……! フム……。
 借りを、返しただけだ。勘違いするな、ピロータ」
「えー。またまたあ、そんないけずなこと言うもんじゃないよ。ベニーちゃん」
「……だから、その呼び方はやめろ……部下と他のヤツラが・・ゴホッ」
「あ……あん、た……。いや、これはこれは、ミスタ・ベニヤミン……」
 ピロータ氏の後ろから現れたのは、デイバン、いや、東海岸のユダヤ人の元締め、
ピロータ氏よりも大物の――大きな声じゃ言えないが、うちとは腐れ縁の大物だ。
「いやね。昨日ね。電話したのよ、彼に。ジャンカルロくんに、聞いたでしょ?
 ブタがいいか、ウシがいいかって」
「あ……。え、ええ。それが……?」
「うん。わし、食肉事業もやっててねえ。そっちは、ひとに任せてたのよ。でね、
 昨日ね、そのことを思い出して。で、聞いたの。どっち?って」
「え、えっと。わけわかんねえぞ、どういう事だよ、ジャン?」
「いや、俺だって」
 その、俺とイヴァンの前で、つやつやの老人はにこやかに話した。
「コインは一枚だからね、どの人に電話しようか考えたのよ。でね、君が選んで
 くれたね、牛肉事業をあずけてたベニーやんに電話したのよ」
「……まったく、こいつは……ゴホッ、電話をしてくるのが遅いわ……。
 こっちは、貴様が失敗してデイバンに尻尾巻いてきたのは知っていたのだぞ。
 いつ、泣きついてくるかとまっていたのだ……それなのに……ゴフ、ごほ、
 なのに、先にイタリア人などに頼るとは……なめられたものだな」
 ユダヤのル・オモは、苦々しい顔で――灰色のヒゲで隠されたトランプの王様
顔になんだか、悔しそうにも見える表情浮かべて顔を背けていた。
「いや、ごめんごめん。すっかり忘れちゃってた。だって君、革靴履かないし」
「……運のいい奴だ。昨日、お前があの時間に電話をよこさなかったら、もう
 少しであの牛肉株はみんな売り払ってしまうところだったんだぞ」
「いやいや、それはベニーやんの才覚とね、あとは、そうそう!!」
 イタリアのル・オモは、俺の前にあゆみよると、ぽんぽんと俺の背中を、正確
にはケツのあたりを何度も叩いて言った。
「このジャンカルロくんが、ラッキードッグ!! ほんまもんだからやね!!」
 訳が分からない……。そんな顔で周りを見た俺、そして、俺と同じような
ツラをしていたイヴァンに――トランプの王様が言った。
「……こいつから預かっていた株がな、その会社が――今日、アメリカ軍に、
 陸軍と空軍に、牛肉を提供する権利を独占した」
「え。ウシって……まさか」
「どういうことか、わかるか? 数十万、数百万の人間が食う肉が産むカネだ。
 しかも、加工した缶詰は我ら選ばれた民も口にできる。つまり……」
「そっか、ユダこ……失礼、あんたたちもオッケーか。……すげえ」
「そうなのよそうなのよ。いやあ、ジャンカルロくんたちのおかげで、またしば
 らくはお金持ち出来そうなのよ。無くしちゃったもの、いっぱいあるけど、これ
 から がんばって取り戻しちゃうよ、わし!」
「ミスタ……。よくわかんねえけど……はあ、よかったあああ……」
 俺の横で、イヴァンが空気が抜けたように肩を落とした。
「……これが、奇跡ってやつかな?」
「……神様にお礼、言っとくべきかコレよう?」
「……ハハハ、そういや。スクルージとマーレイだな、こりゃ」
 その俺たちの前で――
「それでね。お礼ってわけじゃないけど、用意してきたものがあるのよ。これ」
 そう言って、ピロータ氏は何かのファイルのようなものをイヴァンに手渡した。
「え、これなんだよ? 書類……?」
「うん。わしの別荘で、手放してたやつをね、速攻で買い戻したの。イヴァンくんと
 ジャンカルロくん、クリスマスから新年まで、休みなしでしょ?」
「え、ええ。まあ……」
「だからね、年が開けたら何日か休みとって、そこの別荘で骨休めしてくるといいよ。
 五大湖の近くの、静かな山小屋でね。大抵のものは揃ってるから身、ひとつでね。
 それくらいの休みはいいでしょ。ねえ、そこの眼鏡のひと」
「え……。え、ええ。まあ……三日以降なら――」
「羨ましいぞ、ジャン、イヴァン。鹿でも撃ってきて自慢してくれよ」
「……留守は、まかせてください――。護衛は……その……。じゃあ、頼む……」
「って、俺、こいつの護衛かよ!? メインの招待客は俺だっつーの!!」
 イヴァンは、ジュリオに噛み付いて――そして、参った、というように頭をかき
ながら笑った。俺も、それにつられて笑う。
 ……メリークリスマス!! 時限発火式のプレゼント、ありがとう神さま!

「ああ、そうそう。いかんいかん、もういっこ忘れてたわ」
 ぽん、とピロータ氏が手を打った。
「君たちに約束してたからね。さあさあ、そこ、そこ。立ってて。そのままね」
 ??な顔をした俺とイヴァンの前に、ピロータ氏は、黒服に持たせていた薄汚れた
箱を受け取って……すい、としゃがみこんだ。
 ススで薄黒く汚れたその箱は……まさか――
「え? ミスタ、ま、まってくれ!」
 イヴァンが、銃口突きつけられても出さないような声を出して慌てた。
「いやいや。わし、言ったことはする男だからね」
「まさか……ミスタ、俺たちの靴、を……」
「うん。そのためにここに来たのよ。わし、あのとき言ったでしょ。君たちの靴を
 磨いてあげるって。それはね、わしが金持っててもスカンピンでも変わらないから」
 俺とイヴァンは……。完全に、その老人、いや、大物に飲まれてしまっていた。
「わしね、マンハッタンの靴磨きから始めたのね。いまでも腕は衰えてないよ。
 それにね……人間、自分が何者か、見失うとね。とっても悲しいのね」

 そこにいる人間が、全員、あっけにとられる中――ピロータ氏は仕事を始めた。


「すげえよな、あれから一週間以上経つのにまだピカピカだぜ、あの靴」
「もったいなくて履けねえ……。けど……」
「履かねえと、あのオヤジにわるいよな」
「ああ。……デイバンで、あれ履いてよ、二人で……肩で風切って歩くか!」
「イイねえ。……まあ、それは――あと数日、ここでゆっくりしてから……」
 俺は、イヴァンと一緒に見つめていた靴の輝きから目を離し……。
「な、な……。なんだよう」
 まっすぐ、イヴァンの顔を、目を見つめてやる。自然と、口元がほころぶ。
「なんだよ、この……」
「こら、目、そらすなボケ。まっすぐ見て……こういう時に、言う言葉は?」
「う…………」

 このバカは、言葉の代わりに実力行使で来た。いや、わかっていたんだけどね。

「……つ、ふ……ん、っ……イヴァン…………」
「ん、ふ……あ、はあっ……。なん、だよ……ッ」
「……ちょ、がっつくな。……あらためて。たんじょーび、おめでと……」
END

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