茅(ちがや)の輪
夏が近づいて来ると決まって思い出す。
神社の鳥居の前に飾られた緑の大きなな茅(ちがや)の輪。
遠くからでも見える。
6月30日である。
風呂を浴びて、ゆかたを着て、
夕日の落ちる頃に下駄をはいて行った。
チガヤの輪をくぐる<輪抜け様>である。
茅(かや)で作られた大きな輪をくぐり抜け身を清める。
夏のにおいのするみどりの茅(ちがや)の輪。
だんだん暗くなって行く夜空に流れ星を見た。
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なぜ6月30日なのだろう。
昔は、1年を2つにわけ6月30日を<みそか>としていた。
この日に、前半分の厄落としと、
重ねて、後の半分の無病息災を祈願するのである。
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昔は中国でも日本でも<2倍年暦>が使われていた。
1年を2つに割って、それぞれを1年として数えていた。
つまり今の1年は、むかしは2年だったのである。
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司馬遷の<史記>によれば、黄帝・堯・舜の年齢が100歳を越えていることから、夏王朝の頃の中国は2倍年暦であったことが分る。
魏志倭人伝においても、次のような文章が見える。
"その人寿考、あるいは百年、
あるいは八、九十年。"
これは日本人の年齢。
いまから1700年前の日本なので、これはありえない。
やはり、50歳、40歳、45歳の意味である。
この数字から当時、歳を二倍年暦で数えていた事が分るのである。
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茅(ちがや)の輪で思い出すのは<蘇民将来>の伝説である。
"むかし昔、素戔嗚尊
(すさのおのみこと)が
南へ向かう旅をしている時に、
一夜の宿を求めて
蘇民将来(そみんしょうらい)と
巨旦将来(こたんしょうらい)
の兄弟に声をかけた。
すると、裕福な身なりをしている
巨旦将来は宿を拒み、
粗末な身なりの蘇民将来
の方は快く尊(みこと)を
招き入れ、粟がらで
座ぶとんを作り、
粟飯を作って接待した。
何年かして再び尊が
やってきて、<もし世の中に
疫病が流行った時には、
茅(ちがや)で輪を作り、
それを腰につければ
難を逃れることができる>
と教えて姿を消した。
その後、世の中に
疫病が流行りだし、
巨旦将来の一家は
疫病によって死んでしまったが、
腰に茅の輪をつけていた
蘇民将来の一家は
生き延びたという。"
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まだ仏教が伝わらない昔、人々はこのような物語の中にやるべき事を教える倫理をそっとしのばせた。
茅(ちがや)。
何かなつかしい言葉である。
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