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残暑の中の政権交代劇から、明後日でちょうど100日になる。
鳩山由紀夫首相は就任会見で「日本の歴史が変わるという身震いするような感激」を語った。あの高揚感は、政権を取り巻くいまの空気にはない。
朝日新聞社の世論調査によれば、内閣支持率は5割を割り込んだ。下落が止まらない。とりわけ鳩山首相のリーダーシップに厳しい評価が下された。
米軍普天間飛行場の移設問題への対応をはじめ、この間のもたつきを見れば当然の反応といわざるをえない。
歴史を変えるとの首相の思いが、まったく実現していないわけではない。
「事業仕分け」の作業は、税金の使い道をオープンな場で吟味するという民主政治の最も根っこにある役割を、国民に改めて思い起こさせた。「官僚丸投げ」もなくなってきた。「戦後行政の大掃除」は緒に就きつつある。
しかし、「コンクリートから人へ」の政治、「『居場所と出番』のある社会」の創造といった大きな物語は、なお具体像を結んでいない。
なにより、日米同盟の管理や来年度予算編成という眼前の勝負どころで、連立への配慮などから「決められない首相」という姿をさらしてしまった。
■「チーム鳩山」の不在
その理由ははっきりしている。
民主党政権の核心となるはずだった「政治主導」の確立をないがしろにしたまま走っているからである。
本来なら首相、副総理、官房長官ら官邸勢を核に、財務相、外相らが緊密な「チーム鳩山」を形成するべきところ、連携があまりに足りない。
各省庁の縦割り脱却についても、主役が政務三役に衣替えしただけで温存されている感が強い。
「政府与党一元化」にいたっては、選挙と国会に専念するはずだった小沢一郎民主党幹事長が政策でも発言権を増すにつれ、ほごと化しつつある。
「官」を抑え込んだ後、「政」がどうものごとを決めていくのかというルールを見いだせていないところに、迷走の最大の原因がある。
「透明な政治」「説明する政治」も、掛け声倒れである。
首相の虚偽献金問題はもとより、マニフェストに掲げた政策の手直しを考えるにあたっての説明ぶりも、不十分というほかない。
政権交代が「未知との遭遇」の連続であることは理解するが、だからといっていつまでも国民の「ご寛容」(首相)をあてにすることは許されない。
内閣支持率が下がる一方で、民主党支持率は4割を超え、高水準を保っている。自民党への民意の支持は低迷したままだ。この数字をどう読み解くべきだろうか。
■選んだ手応え、国民に
私たち有権者が政治を評価するときの物差しが、変わりつつあるのではないか。そんな視点を提示してみたい。
二つの要因を指摘できる。
第一に、民主党政権は有権者が総選挙を通じ、じかに名指しした政権である。自民か民主かという選択肢から、国民は自覚的に政権交代を選んだ。
繰り返すまでもなく、明治以来の近代政治史上初めての事件である。
「大命降下」や国会での議員投票で首相になった人を、総選挙で追認するという過去の多くの例とは、わけが違う。まして、「小泉後」の3代にわたる政権たらい回しとは、民主的な正統性の点で比べものにならない。
だからこそ、有権者の多くは自分で選んだ責任を自覚しているに違いない。首相の実行力不足は歯がゆいが、民主党政権を取りかえなければとまでは考えない。そこには、「お任せ」の民主主義から、みずからかかわっていく民主主義への脱皮が兆している。
第二に、マニフェスト選挙がすっかり根を張ったという事実である。
政策パッケージである政権公約の競い合いの中から、有権者は選択する。
それは、「国民との契約」であり、次の総選挙までの最長4年間、政権党を基本的に縛ることになる。
かつての自民党政治では総選挙とかかわりなく首相をすげ替え、政策路線を転換することが日常茶飯事だった。党内抗争あり、談合もあり。マニフェスト選挙の時代には、それは契約違反との批判を免れない。
民主党の支持率が持ちこたえているのは、もろもろの政治的決着は次の総選挙でつけるものだという流儀が有権者の間に定着しつつあるからだろう。
このような政治意識の成熟の芽を、ぜひとも大切に育てたい。
■選挙最優先への心配
気にかかるのは、来年の参院選勝利に向けた小沢幹事長の強い姿勢である。自民党を解体にまで追い込もうとしているかのような執念すら感じる。
政党が選挙に勝とうとするのは当然だ。まして民主党は参院で単独過半数を持たない。しかし、有権者が望むのは、民主党が永久与党になることでも、新たな一党優位体制が築かれることでもあるまい。
理念、政策の実現か、権力の追求か。ゼロか一かで割り切ることはできないが、あからさまに後者に傾いて理念や政策がゆがめられるなら、歴史的な政権交代も幻滅に終わる。
まだ100日である。年明けには初の通常国会が始まる。
政権の力量が本当に問われるのはこれからである。