コペルニクス
地球を中心に天が動いているというプトレマイオスの天動説は、16世紀に至るまで人々の支持を得ていました。しかしコペルニクスが登場し、地球ではなく太陽を中心に、水星,金星,地球,火星,木星がまわっているという地動説を唱えました。
コペルニクスがこう考えたのは,「こちらのほうが簡単に説明できる」という理由からです。
地動説は、私たちの実感とはかけ離れていますが、プトレマイオスの言うような地球の周りの円の上を、さらに円がまわっているという説よりも、はるかに天体の運行をスッキリ説明できたのです。
ちょうど同じように、私たちの心が世界を生み出すという教説は、私たちの実感とかけ離れていますが、相対性理論や量子力学の解釈をめぐる難問が、この考え方に立ったほうがスッキリ説明できることが分かってきました。
昨日に引き続いて『唯心論物理学の誕生』から引用してみましょう。
著者は、ライプニッツのモナド論を応用していますが、モナドという概念は馴染みが薄いため、ここは広い意味で「心」と理解してもらってよいと思います。
「モナド(心)は互いに相互作用はしないが、(心の)内なる世界は予定調和により相互に照合し合う」
<モナドは空間に浮かぶ物理的実体ではないので、モナド同士で、いわゆる物理的な相互作用はしない。しかし互いに何の関係もないというわけではない。関係がないのなら複数のモナドを出す意味がないのである。
人間の意識内容は外界の反映ではなく、心が作り出した〃イメージ〃であるというのが、唯心論の立場である。問題は自分の中のイメージと他人の心の中のイメージの関係である。
常識的には外界があって、それをそれぞれの視点で見ることによって、各自の心に外界のイメージが出来上がると考える。視点が異なるから、イメージは異なるけれども、同じ外界を観察するから、対応関係を付けることができる。
ここで見方を変えてみよう。
「同じ外界を見ているからイメージに対応関係が付く」と見てもいいけれど、「対応関係があるから、イメージの原因としての外界があるかのように感ずる」と見てもよい。ライプニッツの見方は後者である>
ではどうしてこのような、つまり自分の中のイメージと、他人の中のイメージとの間に対応関係が生ずるのか?という疑問が出てくる。
しかしそれはこの対応関係を初めに自然法則として設定してしまえばよいのである、と筆者は言っています。
なぜかは分からないが、最初からそういうことになっているのだ、つまり「予定調和」ということです。
いい加減な、と思われる方もあるかもしれませんが、物理法則というのはその基本においてはそういうものなのです。例えば、なぜ宇宙なんてものがあるのですか?と言われても、あるからある、としか言いようがないではありませんか。
各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという一見奇異な筆者の主張も、それを受け入れたほうが、相対性理論や量子力学の解釈上の難問がスッキリ解消するのであれば、「そんな馬鹿な」で片付けていいはずはありません。
天体の運行を見事に説明できたコペルニクスの地動説も、当時の人たちにとっては「そんな馬鹿なあ」という俗説だったのですから。
次回は、各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという考えを、一つの喩えで説明したいと思います。(つづく)
地球を中心に天が動いているというプトレマイオスの天動説は、16世紀に至るまで人々の支持を得ていました。しかしコペルニクスが登場し、地球ではなく太陽を中心に、水星,金星,地球,火星,木星がまわっているという地動説を唱えました。
コペルニクスがこう考えたのは,「こちらのほうが簡単に説明できる」という理由からです。
地動説は、私たちの実感とはかけ離れていますが、プトレマイオスの言うような地球の周りの円の上を、さらに円がまわっているという説よりも、はるかに天体の運行をスッキリ説明できたのです。
ちょうど同じように、私たちの心が世界を生み出すという教説は、私たちの実感とかけ離れていますが、相対性理論や量子力学の解釈をめぐる難問が、この考え方に立ったほうがスッキリ説明できることが分かってきました。
昨日に引き続いて『唯心論物理学の誕生』から引用してみましょう。
著者は、ライプニッツのモナド論を応用していますが、モナドという概念は馴染みが薄いため、ここは広い意味で「心」と理解してもらってよいと思います。
「モナド(心)は互いに相互作用はしないが、(心の)内なる世界は予定調和により相互に照合し合う」
<モナドは空間に浮かぶ物理的実体ではないので、モナド同士で、いわゆる物理的な相互作用はしない。しかし互いに何の関係もないというわけではない。関係がないのなら複数のモナドを出す意味がないのである。
人間の意識内容は外界の反映ではなく、心が作り出した〃イメージ〃であるというのが、唯心論の立場である。問題は自分の中のイメージと他人の心の中のイメージの関係である。
常識的には外界があって、それをそれぞれの視点で見ることによって、各自の心に外界のイメージが出来上がると考える。視点が異なるから、イメージは異なるけれども、同じ外界を観察するから、対応関係を付けることができる。
ここで見方を変えてみよう。
「同じ外界を見ているからイメージに対応関係が付く」と見てもいいけれど、「対応関係があるから、イメージの原因としての外界があるかのように感ずる」と見てもよい。ライプニッツの見方は後者である>
ではどうしてこのような、つまり自分の中のイメージと、他人の中のイメージとの間に対応関係が生ずるのか?という疑問が出てくる。
しかしそれはこの対応関係を初めに自然法則として設定してしまえばよいのである、と筆者は言っています。
なぜかは分からないが、最初からそういうことになっているのだ、つまり「予定調和」ということです。
いい加減な、と思われる方もあるかもしれませんが、物理法則というのはその基本においてはそういうものなのです。例えば、なぜ宇宙なんてものがあるのですか?と言われても、あるからある、としか言いようがないではありませんか。
各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという一見奇異な筆者の主張も、それを受け入れたほうが、相対性理論や量子力学の解釈上の難問がスッキリ解消するのであれば、「そんな馬鹿な」で片付けていいはずはありません。
天体の運行を見事に説明できたコペルニクスの地動説も、当時の人たちにとっては「そんな馬鹿なあ」という俗説だったのですから。
次回は、各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという考えを、一つの喩えで説明したいと思います。(つづく)