2009.12.19

■ 天皇は玉であり玉でない ■


 ◎ 憲法の規定に則りモノをいうといけないのか? ◎

 【週刊誌の天皇問題理解度】

 ① 天皇の国事行為あるいは公的行為

 1) 憲法第7条の解釈問題
 『AERA』2009年12月28日号(定価380円 税込み)は「最高権力・小沢の『急所』-『一役人』羽毛田が刺した一撃-」(70-71頁)という記事を組んでいる。見開きで2頁分〔縦書き・5段組〕に書かれた記事である。天皇が中国の習 近平国家副首席と12月15日にあったとき,両者が握手している写真も大きくかかげている。

 はじめの記述は,「民主党の最高実力者」小沢一郎幹事長が12月14日の記者会見でみせた姿は,多くの人に「この人,なんなの?」と思ったに違いない,というものである(70頁1・2段)

 今回,日本国憲法第7条「天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために」「国事に関する行為を行ふ」という規定を準用したかたちで運用されている「天皇の〈国事行為〉ならぬ〈公的行為〉」のひとつ:「外国要人の習副首席との会見」問題をめぐって,羽毛田信吾宮内庁長官が「1ヶ月ルール」を口にした点に猛反撥した小沢幹事長が,居丈高にも感じられる態度でその憲法条項を強調しながら逆に,宮内庁長官を叱責・批判した行為が,前段の記事で話題にされている。

 つぎの記述は,「自分は天皇より上」と小沢幹事長が考えているのではないかとする指摘である。「自分は天皇陛下より上の立場にあり,天皇の行為を左右できるともとれる」ゆえ,「天皇という権威への敬意がまったくうかがわれない。この問題は右も左もない」といった,元産経新聞政治部長花岡信昭拓殖大学大学院教授の論評を紹介している(71頁1段)

 2) 天皇の権威とはなにか?
 「天皇という権威」なるものは,いったい「日本国・国民の統合の象徴である天皇」のどこから・どのように求められるのか。このまともな説明もないまま,花岡のようにサンケイ的に分かりきった「天皇無条件称賛」の視点からそのように指摘をされても,あまり説得力を感じることができない。憲法の規定上においては,「象徴たる天皇に対して国民は権威を認め敬意を表さねばならない」というような強制事項は存在しない。もしも,このような要求を国民に突きつけたらその瞬間に明治憲法体制に逆戻りしかねない。例の「天皇は神聖にして犯すべからず」である。この「旧式の精神構造」と「花岡の心理機制」は五十歩百歩である。 

 「外国の賓客との会見」は,憲法第7条には該当するものがなかったから,これを「公的行為」に相当すると指摘したのは日本共産党の志位和夫委員長であった。本ブログの筆者はこの指摘がなされる以前に,第7条には「天皇が外国要人と会見してよい」などと書いてはないと批判してみた。

 また,天皇の「公的行為」とは,第7条にはない天皇の「公と思われてよい行為」を一括した概念である,と説明されている。しかし,憲法の規定にはなく,慣習的に執りおこなわれている「天皇の外国要人との会見」の設定手順である。それゆえ,実際のところは,政府「内閣の助言と承認により,国民のために」「国事に関する行為を行ふ」のであれば,政権党の主導・差配をもって,それにこの政権の必要や利害に則して「天皇を使いながら」,「国際外交」の舞台・場面において「天皇を政治的に利用する」ことになっている。

 小沢幹事長が記者会見の場を借りて,「以上の事実関連」を正直にだが,それもかなり強調の度合が過ぎた口調で,「お前らはそんなこともも承知していないのか」と,それも厳密にいえば,第7条にはない「天皇による公的行為」の国際政治上の必要性を指摘したのである。それも,宮内庁長官が内閣府に属する下部組織である宮内庁の立場を逸脱したかのように,「一ヶ月ルール」をもちだしての「クレーム」を世間に直接公報したことを,小沢幹事長ははげしく非難したわけである。

 さらに,今回の天皇会見の実現に当たっては中曽根康宏元首相が介在しており,事情をややこしくしていたとみられる。

 本当のところは,「天皇の公的行為」である「外国要人との会見」を,憲法条項を楯にして議論することじたいが,どだい間違えている。「天皇の政治的利用の可否」を問う立場そのものも,本質的に間違えている。そうではなく「天皇の政治的利用のしかた」が現実の問題であるに過ぎない。というのも,憲法第7条とは離れた次元において,天皇外交〔=皇室外交〕がおこなわれているからである。そこで利用されているのが,憲法上ではなんら規定のない「天皇の権威」であり「皇室の威光」である。

 ② 騎馬民族征服説否定

 『AERA』編集部の記者,小北清人と野口 陽は,韓国ソウルの国民大学で12月12日,小沢幹事長が学生らを相手に講演したなかで,「朝鮮半島の権力者が海を渡り,(日本列島に上陸して)初代の天皇になった」とか「古代の応神天皇,仁徳天皇陵が発掘されれば歴史のナゾが解けると専門家から聞いた」とかいって,いわゆる「騎馬民族征服説」を紹介したくだりについて,こう記述している。

「が,ある専門家は『騎馬民族征服説というのは証拠のない仮説で,今日ではほとんど否定されている』と指摘した」(71頁4段)

 問題なのは,民主党小沢幹事長にしてもこの編集子2名にしても,「ある専門家によると」といっているように,間接的な,それこそ「生かじり的な伝聞の知識」で,ものをいいあっていることである。「騎馬民族征服説」に一理もないとはいえないし,この日本古代史に関する仮説的な理解が一文の価値もないとはいえない。

 日本古代史はナゾだらけである,古代王権時代における「日本」(当時は日本という国はなかったから厳密は使えない国名だが)史理解において,騎馬民族説は,無視できない含意を有する学説である。古代において朝鮮〔半島〕と日本列島,とくに西日本地域は一衣帯水の密接な政治経済・社会文化の〈国際関係〉にあった。というよりも,中世以降のように日本と朝鮮〔韓国〕という国境を隔てた独立国間の関係ではなく,いわば東アジア古代史においては「両国(といっておく)」が同族経営されていた,ともいうべき間柄なのである。

 『AERA』の記者たちは,日本人・日本民族として小沢幹事長が韓国の大学生に対して〈リップサービス〉的にいった,それも「韓国では常識」にも属する日朝古代史の基本知識が,よほどお気に召さなかったかのように観察される。日本の皇室はいまではりっぱに「日本人・日本民族のもの」であるけれども,千年くらいさかのぼってみれば,日朝間における政治次元での親密な人脈関係は,東アジア古代史研究においては周知の事実である。

 ③ 天皇に忠実な宮内庁長官

 羽毛田宮内庁長官「は日頃から陛下に会っている。会見の内容も陛下の以降を忖度したものだろう」という宮内庁関係者のみかたが大勢である,とも『AERA』は分析している。そして,「いまの天皇陛下はとりわけ国民統合の象徴である自分の立場に忠実であろうとされ,天皇の政治利用と解釈されかねないことについては懸念される。今回の長官発言はその流れだろう」と,皇室事情をしるよくしる関係者の指摘も紹介している。

 昭和天皇もそうであったことであるけれども,平成天皇はむしろ,自分が『「政治的に利用」されている事実』を踏まえて,いかにして皇室および自分の立場が有利になるかを,必死になって計算ずくで対応・行動している。天皇一族のことになると「敬語・敬称」を特盛りしたごとき表現をしていないと,あたかも「不敬罪」に抵触しかねないかと思われるほど「天皇の権威」を無条件に認めているかのような立場であれば,天皇問題をはたして,客観的にあつかいうるのか疑問は大きい。

 本ブログでも既述のように,結局「天皇」は日本の政治において〈玉=ギョク〉であると同時に〈玉=タマ〉であるという二面性を内包させている。天皇は自身が〈玉=ギョク〉として大事に〔政治的に〕使われることを願い,政治家のほうではつねに〈玉=タマ〉としてこれをぞんざいに利用しようとする。この皇室と政府の隠微かつ露骨な相互の駆引・作用は,幕末・維新の時代からいつもかわらずに,日本の歴史を内幕的に形成してきた「躍動的な実体」を意味する。

 天皇を「陛下・・・」と呼ぶのはよい〔→ある意味においては勝手である〕。だが,「陛下」ということばの意味が,『民主主義の国家体制』を構える「日本という国」のなかを貫いている。天皇の「政治的利用」という,いわば「厳然たる現実問題」の存在,この日本国家の根幹にかかわる難題に目を向けないでいられる「天皇事項に関する問題意識不在」が,そもそもの前提に控えた問題といえる。

 日本という国家組織に関していえば,防衛省大臣〔ついこのあいだまでは防衛庁長官〕と宮内庁長官が共通に仕えるそれは,基本性格において大きな異質性=齟齬を有するほかない。防衛省は国家防衛のために自衛隊3軍を統率する官庁組織である。宮内庁は「日本国・国民統合の象徴である天皇」に関する一連の業務を統括する官庁組織である。民主主義の現行憲法のなかで,軍隊組織と皇室一家を,質的に共約性あるいは連続性あるものとして関連づけ整列させることは不可能である。

 某有名大学の教員でいま憲法学方面では八面六臂の活躍をしているある先生は,朝日新聞の論調が最近どうもおかしいと指摘している。つまり,分りやすくいえば,サンケイ新聞寄りに引っ張られていると懸念している。産経新聞や読売新聞の2大紙があれば,こちらの方面で大声を上げている〈右翼っぽい論調〉は,それで十分である。これに対抗的な新聞紙として存在する朝日新聞〔や毎日新聞,東京新聞〕がわざわざ,よたよたと右寄りにふらついているということなのであるから,情けない。その原因を提供した論説委員が誰かは,ここではあえて指摘しない。

 ④「天皇制の “万世一系” 神話 と 民主主義」 

 この題名「天皇制の “万世一系” 神話と民主主義」を掲示したあるホームページは,1993年の行事に関連して制作・公開されていた。「市民の古代」編集長藤田友治の講演内容である(1993年2月10日:福井県職員会館)。この文章から2個所を引用させてもらう。いまから16年もまえにおける資料として読んでもらいたい(なお「 」の装飾は本ブログ筆者の挿入であり,『 』は原文では「 」であった)
 
 ★-1) 差別につながる身元調査を平然とする宮内庁
 最近の結婚を伝える皇太子妃の内定のマスコミ報道ですが,「小和田雅子さんの家系図」が出ています。内定が遅れた理由として,雅子さんの祖父がチッソの社長であったということで,水俣病の原因になった企業であるから相応しくないというのです。これは,結婚の前提である,「両性の合意とは全く違う姿」がそこに出ています。

 そこで,宮内庁は旧皇族・旧華族からリストアップしたわけです。ここで身元調査をしているわけです。本籍を調べたり身元を調べたりすることで,非差別部落への差別に繋がるわけです。「宮内庁をそれを平然とやっている」わけで,全くそれに対して抗議しないというのはおかしいことです。

 ★-2) 皇室典範の噴飯もの性
 皇太子の結婚は憲法で定められた『両性の合意』に基づくものではなく,皇室典範には『皇族の男子の結婚は皇室会議の議決を要す』と書かれています。皇室会議で反対があれば出来ないということで,宮内庁は通りやすいように「身元調査を外部にまで発注し公然とやっている」わけです。精神の障害者に対して,非差別部落に対して,在日外国人に対して,今回はチッソに対して行われるわけです。

 水俣病の問題は,当然社長としての道徳的・倫理的問題も含めて全体的に引き継がなければならないわけです。逆にいうならば,「皇太子の祖父である昭和天皇の責任」も問わなければならない。昭和天皇は公害の責任どころではない。何百万人もの戦争責任の問題です。論理的にも法的にも最高責任者でしたから。マッカーサーが天皇を政治的に利用しようとしたため責任を逃れたのだといえます。
 註記)http://www.mitene.or.jp/~ryuzo/chotto/x2fujita.html
 
 --ここまでいわれてしまった皇室,その責任官庁である宮内庁は,日本国憲法に表明されている根本理念を文字どおり蹂躙している。皇室は別格,別世界の規範がある。

 現行憲法の第14条は「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」。「2 華族その他の貴族の制度は,これを認めない」。「3 栄誉,勲章その他の栄典の授与は,いかなる特権も伴はない。栄典の授与は,現にこれを有し,又は将来これを受ける者の一代に限り,その効力を有する」と規定しているにもかかわらず,皇室典範の規定はこの憲法を無視・超越したつもりの条文を設け,実際に運用させてもいる。

 こうした前近代的=封建的な法律をもとに運営・管理されている皇室組織,そのために仕事をしている宮内庁が,現在の日本国家体制のなかで《獅子身中の虫》たるほかない実在であることは,いうまでもない。現に【人生の夕暮れどき日記】というブログは,こう語っている。

 もし,日本が世界平和を実現することと真逆のことに手を染めることがあるとすれば,天皇制に対してタブー視される思想そのものである,と僕は思う。敢えて断言するが,日本に象徴的であれ,天皇制は必要ない。天皇制などなくても日本は世界平和に貢献し,日本自体が発展し得る国である。天皇制存続のための国費をマスコミは明らかにしなければならないし,その是非についても自由に語れる国でなければ,何が民主主義国家か! どのようなことにもタブーを持たぬ国,これこそが真正の民主主義国家ではないのだろうか?
 註記)http://ameblo.jp/zig-guy0088/entry-10394711079.html

 天皇・天皇制が必要である〔上記では〈天皇〉ということばは入ってないが〕と主張する者は,こうした根源的な疑問に真正面より答え,相手を納得させうる〈適切な思想〉と〈合理的な論理〉をもって対決しなければならない。現に「天皇の政治的利用」体制そのものにある国家日本が,「天皇政治的利用はいけない,政治的にならないように天皇を活躍させるべきだ」というふうに,まったくもって奇妙奇天烈な,逆立ちした理屈で議論されている。思えば,実に珍妙かつ迷妄の殺風景である。

 ★-3) 天皇一家の遊覧日程
 本日の記述をこの 2) までで切りあげようとしたら,その間にみたテレビのニュースは,つぎのように報じていた。引用源は asahi.com である(2009年12月19日17時1分)

     ★ 天皇ご一家勢ぞろい ゆかりの横浜・こどもの国 ★

 天皇,皇后両陛下は12月19日日午前,横浜市青葉区の「こどもの国」を訪問した。皇太子,秋篠宮の両ご一家の7方と長女の黒田清子さん夫妻も合流した。皇太子ご夫妻の長女愛子さまは風邪のため参加を見合わせたが,両陛下とそのお子さま,お孫さま方が屋外で勢ぞろいするのは珍しい。

 こどもの国は両陛下のご結婚の際に寄せられた国民からの祝い金で建設され,1965年に開園した。今年がご結婚50年に当たるため,ご一家での訪問となった。牛舎では,両陛下が見守るなか,悠仁さまと雅子さまが一緒に子牛にえさやりをした。
 註記)http://www.asahi.com/national/update/1219/TKY200912190213.html
    写真は,http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091219-OYT1T00491.htm より。

   このたぐいの天皇一族の遊行日程は,はたして〔天皇の〕「国事行為」と無縁であることはいうまでもない。それでは「公的行為」かというと,これまた否である。過去にさかのぼる事情はうかがえるものの,あくまで彼らが余暇を過ごす私的な行楽である。しかし,それならばなにゆえ,このようにニュースとして彼らの娯楽の行為を国民に対して報道するのか。〈象徴〉だからか? だが,象徴であるのは天皇明仁だけである。

 こうして大々的に各報道機関が天皇一族の行楽日程を報告しなければならない理由は,いったいなにか? 国事行為でもない,公的行為でもない。私的な時間を過ごしているのではないか。それなのに,「彼らを政治的に利用する」かのように報道する材料にしている。はて,仮に「国民統合の象徴である」ということで,天皇とその家族たちの小遊行を報道したのか。

 いま,日本国に住む国民・市民・住民など〈庶民〉の生活は,おしなべてみなが非常に苦しい。「皇族の一統」が,平成天皇夫婦結婚の際に寄せられた国民からの祝い金で建設され」「思い出の遊園地」に行楽にいったとしても,はたしてこれが日本の国民「統合の象徴」の私的かつ公的な行為たりうるのか。これは逆説的な問題提起のつもりであるが,いつまでも疑問は尽きない。

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  【12月20日:追 記】 上記記事「こどもの国」にいった天皇一族は,写真のように「ミニSLに乗って」楽しんだ。写真が小さくて判別しにくいが,前方から家長の明仁天皇とその妻,長男・次男・長女とその妻・夫たちなどなどの順番で,みごとに「一定の序列」にしたがい,乗りこんでいる。この光景を当然とみるか,それともなにか特定の意味を読みとるかは,読者の想像にお任せしたい。


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