今年は、1937年12月、中国の当時の国民党政府の首都南京が、旧日本軍により陥落してから72年後にあたる。12月13日、「ノーモア南京の会」の主催で、国会議事堂の近くの社会文化会館において映画の上映及び、生存者の証言、講演会が開かれた。
映画は、武田倫和監督によるドキュメンタリー映画「南京・引き裂かれた記憶」である。武田氏は、南京虐殺に関わったのは中国に出征した祖父が、よく酔っぱらって「中国人の亡霊が出た」と日本刀を振り回すことがあった身近な出来事が制作のきっかけだったという。
内容は、中国の南京と日本の関西地方を交互に被害者と加害者の証言場面が映し出されるもの。被害者の実体験と加害者の実際に行った残虐行為の証言が見事に重なり合い、虐殺は存在したことを思い知らされる。加害兵士の男性が「自分は天皇陛下の命を受けて、赤紙一つで兵隊にやられた。明日には死ぬかもしれないと思うと、強姦でも殺人をしても平気な心理だった」と語る場面が印象的だ。ちなみに、この映画は
渋谷アップリンクにて上映中。
次に、その南京から楊翠英(ヤン・シュウイン)さん(85)が生存者として証言をした。当時は12歳。以下は通訳を介しての内容の要約。
弟を叩き落とした日本兵のことを話すときの楊さん(撮影筆者)
「1937年12月13日、南京が日本軍により陥落しました。まさに、その日に、私の家族4人が日本兵に殺されました。日本兵が長い銃剣を持って家に押し入り、父を銃剣で突き刺しました。私は1歳の弟を抱いていましたが、日本兵は、残酷にも弟の首元をつかみ地面に叩きつけ踏みつぶしました。私は、鼓膜が破れるほど日本兵にビンタを受けました。結局、父と叔父、祖父、1歳の弟が殺されました。たくさんの死体をみました。日本軍が魚を養殖する池に死体を捨てるのを見ました。
当時、母親は妊娠していました。ですが、食べ物がなく、産まれた子供を餓死させてしまいました。母は悲しみのあまり、涙を流し、ついには失明してしまいました。12歳の私は、道端の草やタニシを食べて飢えをしのぎました。自分たち以外にたくさんの人々が同じ体験をしていました。
当時、南京に残っていたのは、私たちのような貧乏人ばかりでしたが、アメリカ人の女性(ミニー・ヴォートリンと思われる)が難民の避難施設をきりもりしていました。食料の配給を受けました。お粥の支給を1ヶ月受けました。
16歳になって、南京にある日本人の工場で働きました。給料ではなく、食料のみが支給されました。そこでは100人以上の女性たちが働いていました。1日11時間働きました。厳しい環境で、私語をすると日本人の監督から罵声を浴び殴られました。仕事が終わるとボディチェックを受けました。日本が敗戦するまで、そこで働いていました。
私が話したことは全て事実です。過去のことですが、けっして忘れてはいけないことだと思います。
日本人を恨んでいるか、と問われたことがありますが、当然、恨んでいます。ですが、私が恨んでいるのは、私の家族を殺した日本人だけです。また、この過去が両国の友好関係を壊すものではないと思っています。出来るだけ、多くの人に私の話を伝えてください。」
最後に、南京虐殺に関連して、専修大学法学部の大谷正氏が、日清戦争で起きた旅順大虐殺と南京虐殺の関連性を独自の研究による分析で述べた。以下は、講演内容の要約。
専修大学・大谷正氏(撮影筆者)
旅順大虐殺とは、日清戦争中、日本軍が遼東半島の旅順を攻略したときに清国兵に留まらず、婦女子を含めた一般市民を殺戮した事件である。被害者数は2万人といわれる。
この事件は、欧米のメディアで報じられ、日本はそのことで大変な批判を受けたのだが、当の日本軍には、一般市民を巻き込んではいけないという国際法の遵守の感覚がなかったため大変驚いたのだという。戦国時代からの日本の戦法は、互いに略奪し合うことだったので、その批判が理解できなかったが、欧米列強との不平等条約を改正するためにも、文明国であることを証明しなければならず、その後、国際法遵守を取り上げた。しかし、実際のところ、それは軍隊内部には徹底されなかったと思われる。その流れが南京虐殺につながったと考えられる。戦場という極限状態の人間心理以外に、旧日本軍の体質そのものに問題があったと考えている。
講演の後、会の人々と参加者で証言者の楊さんを囲み、中華料理店で夕食会を催した。その席には、南京が陥落した日、中学生で祝いの提灯行列に参加した老人もいた。当時は、提灯行列に参加した者は、学校で無条件に合格点が貰えたという。その老人は、楊さんに対し、「提灯行列に参加したことをお詫びしたい」と述べ二人は握手をした。
南京虐殺記念館 遺骨が展示されている「万人抗」前にて(2004年9月撮影)
昨今、日中関係は急接近をしている。それは、日本にとって中国の重要さが増してきたことと、普天間問題などで日米関係が冷え切ったことが原因だと考える。国家同士というのは、実利主義に沿って関係を築くものだが、両国民同士が真の友情を築くためには、過去の不幸な事実を認め克服することが重要だ。
筆者は日本人として、日本という国をこよなく愛している。その愛国心がゆえに、この活動に関わり続けてきたつもりだ。日本は、日本だけで生きていける国ではない。世界中の国々と協調しながら存続できる。より多くの国の人々と友情を深め、真の国益と愛国心、そして、世界平和を考えたいと思う。