南米最初の日本人奴隷


ある秋の日の午後、南米アルゼンティンの北西部にあるコルドバ市のプラザ(中央広場)というべき、サンマルテイン広場を、私は火照った頭を冷やしながら足早に横切ろうとしていた。

 その日の私はプロジェクトの資金管理の一端の銀行での業務を済ませて、この町のカテドラルの裏の歴史博物館を訪問した帰りだった。つい半時間前に歴史博物館で驚くべき資料を見せられ、頭の中が真っ白になってしまっていた。

「日本人奴隷が16世紀にコルドバの町で売られていた記録があると言ったら、貴方は信じますかな」
 真顔になって私の顔を覗き込んでいたアレハンドロ・モジャノ館長は、つぶやくように言った。
 私はさっきから、コルドバ市の中央広場から歩いて三町ほどの、州立歴史古文書館の館長室で、目の前に広げられtがた黄ばんだ古い古文書を飽きることなく見つめていた。全く驚くべき文書であった。




  それは痛々しいほどいたんでいて、それでいて気品のある存在感を主張していた。黄ばんだ三枚の用紙は、半紙ほどの大きさで裏からは補強のためか、白っぽい半透明のセロハン用紙が崩れ落ちかけた紙面を必死に支えていた。

 不思議な金釘文字が、奇妙な調和を保って、紙面いっぱいを踊っていた。私にも少しは読めそうであった。
 それは日本の室町時代の古文書よりは、かなり現代風な書き方であるような気がした。しっかりした達者な筆跡で、まさに踊るように字が舞っていた。

 私はモジャレス氏に読んで貰えないかと、遠慮がちに頼んでみた。私はもう四半世紀も昔になるが、日本の慶應義塾大学文学部の図書館情報学科に学んでいた事がある事を付け加えた。


 少し間をおいて、やや淀みながら読み始めた館長は、途中で「エスペレ、ここだ。ここを見てみなさい、、、、」と指を指しながらXAPONと書かれた部分を人差し指でなぞりながらハポンと低く発音した。つまり16世紀には日本はJAPONでなくXAPONと綴っていたのだ。

 最後まで読み終えるには、五分とかからなかった。日本の古文書のように文語体風の言い回しは強くなく、現代のスペイン語でもかなり理解できる内容だった。例えば文中にしきりに使われているマエセという発音は、どうやら現在語のマエストラらしいという事も解ってくる。

 この日本人奴隷の売買というショッキングな四世紀も昔の古文書の存在は、もう20年以上も昔から知られている。発見者の一人であるモジャレス館長は、もう30年以上も昔からこの州立古文書館の責任者だ。



 歴史古文書館そのものは1574年に創立されたという事から、市の創立の翌年に建てられたという事になる。今から役30年ほど前に、当時のアルゼンティン大使だった津田大使と林屋栄吉書記官らにこの資料の存在を、館長の友人を通じて告げられていた。
 その驚くべき資料は、現在はそのコピーもマイクロフィッシュに撮影され、日本の国会図書館に収納されている。
 とろこが、この世紀の発見は、人口に膾炙されることなく、かびくさい古文書館の書庫にモジャレス館長と一緒に仕舞い込まれてしまった。
 
 その内容を要約するとこうだ。1597年3月4日に一つの告訴がコルドバ市のスペイン為政者のトップに対して告訴があげられた。裁判官(未だ裁判所としての体裁は整ってはいなかったが)に対して「フランシスコ・ハポン」という奴隷が「自分は奴隷ではない。不当に売買されるいわれはない。釈放されるべきだ」という訴えを起こしたというのである。

 そもそも、この公証証書の内容とは次のようなものだ。
 これは1965年にコルドバ大学で発表された『1688年から1610年迄のコルドバに於ける奴隷売買状態」という論文である。なお、訳はコルドバ大学の日系伏見教授及び学生のものを大城徹三氏(ラプラ報知コルドバ通信員)がまとめたものである。

 その内容は簡単にまとめると『デイエゴ・ロペス・デ・リスボアというコルドバ在住の奴隷商人がミゲル・ヘロニモ・デ・ポーラスという神父へニッポン人奴隷(21歳戦利品、担保なし、人頭税なし)を800ペソで売る事に同意した』という売買契約書なのだ。


 『この契約証書に関して売り主リスボアは買い主ポーラス神父に対して奴隷売買放棄及びその他の恩恵も辞退し、権利も放棄した後、権力回復を不可能とするというのだ。もし、裁判問題が起きた時は、判決が降りるまで全ての経費と責任を負い、さらに800ペソに対しては、自分の不動産、命、動産の全てで保証するという。なお、管轄区内での裁判を避けて区域外での裁判選ぶ』という。

 1597年7月6火、コルドバに於いて。売り主、デイエゴ・ロペス・デ・リスボア、買い主ミゲル・ヘロニモ・デ。ポーラス神父。この売買契約書はデイエゴ・デ・ソトマヨール公証人の公証証書である。

 告訴:1597年3月4日付け
 フランシスコ・ハポンは『自分は奴隷として売買されるいわれはない。従って自由を要求するという起訴状を裁判所へ起訴した。この時の公証人はデイエゴ・デ・ソトマヨールである。


 その結果、公証人フランシスコ・デ・ソト・マジョールを通じて開かれたが裁判は、原告側の言い分が認められ、1598年1月3日に奴隷は釈放された。保証人ファン・ニエートはリマとサンテイアゴ・デ・チレ在住の友人に対してポーラス神父あkら全額800ペソを取り戻す権利の委任状を与えたのだった。

 しかし奴隷が裁判所に対して告訴状を出し、法廷で争ったというのは、何となく愉快にさせてくれる。

 保証人ファン・ニエートは結局保証金を回収する事ができず、地団駄を踏んだのだと推測される。リマとサンテイアゴ・デ・チレ在住の友人に対してポーラス神父らは全額800ペソをなくしたのと同じである。



 当時ペルー副王領は、ボリヴァイのポトシーから、アルゼンティンのサンテイアゴ・デ・エステーロ(1533)ツクマン、コルドバ(1573)まで勢力が広がっていた。
 これらの町がリマとブエノスアイレスを結ぶルートとして重要な役割を果たしていたのである。コルドバはこれらの中継点として重要な位置をしめており、奴隷の集約地として有名であった。


 同時の奴隷は原住民が中心だったが、言われなく捕らえれた捕虜も含まれていた。未だアフリカからの黒人奴隷は登場していない事にも注目したい。

 しかし、何故アジア人の奴隷が南米大陸に存在していたのか、どういうルートで運ばれてきたのか?

 全て謎である。

 私は、もう少し空想をふくらましてみる事にした。



 
奴隷が、自分の意志で裁判所に告訴状を出し、訴えを起こすことが可能だったのだろうか?ちょっと不思議な気がしてきた。それともこの奴隷を支援するスペイン人がいたのだろうか?

 この当時のコルドバ市の人口は数千人であり、リマの副国王から派遣されていた為政官が支配する小さな地方組織であったに過ぎなかった。このプラザの周囲には数百の住居があったが、パンパ・セコ(乾燥パンパ地帯)のこの町には住居に適した木材や石材も容易には手に入らなかったに違いない。アンデスには遠く離れていていたし(例えばメンドーサ市まではおおよそ800キロ離れていた)、ラプラタ河からも700キロは離れていた。唯一、湿潤パンパから乾燥パンパに向かう中間点にあって、ボリヴィアへ向かう北部のフフイ、サルタ、ツクマン、サンチアゴ・デ・エステロへの中継点として重要な位置を占めていた。

 話しの内容を頭の中で整理していくうちに、私は頭の中がもう一度真っ白くなっていく気がしてきた。そうではないか。1600年〔慶長18)には常倉恒長がメキシコを通過してローマ教皇パウロ5世に謁見している事実などをみると、日本、マニラ、アカプルコの太平洋横断航路は完璧に確立されていたらしい。


 1598年には,日本では日本人キリスタンに対して酷い迫害が行われl国際的に大きな問題になっていた。弾圧を受けた少なからずのキリシタン達が、ルソン島等に逃げ延びている事実を考え合わせると、実に面白い脈絡が存在してくることに気がついてくる。


  『当時ポルトガル人は争って日本人奴隷をアジアでかいあさっていたという事実がある。中国人、日本人の女性だけを満載したガレオン船がアカプルコへ向かっていたのを記録した記述がブラジルの歴史書に出ています』

  1997年の末、サンタクルス市の日系ボリヴィア紙の編集部で、ブラジルからきた日本人がそう教えてくれた。この時、私は日系ボリヴィアに「山岸新作」のベニ時代の記録を書いていて、フランシスコ・ハポンの事を紹介したいたのだった。サンタクルスとコルドバは千キロ以上離れているのも関わらず、大きな繋がりがあったのだ。



  
 慶長渡欧使節の子孫達

  
 また、こんな例もある。スペイン南部のセビリア県のコルアデリア市〔人口2万2千人)にハポンという苗字を持つスピン人が現在も600人住んでいるという事実がある。

 「彼らは此の地に380年前に到着した常倉恒長率いる慶長遣欧使節メンバーの末裔」だという(讀賣新聞1996年11月9日夕刊)。

 コルアデリ市に残る古文書によると一行30名が1614年に同市を訪問した2年後、数名が残留した。徳川幕府の出したキリスト教禁止令で教徒弾圧を恐れたためと推定される。1646年の当時のスペイン王室の国民徴兵名簿にバルトメ・ハポンの氏名が存在しているのがその証拠だという。

 XAPONか、私は低く頷いてみた。

 フランシスコ・ハポンの釈放後の事は何も解らない。どうなったのか。何処へ向かったのか。この地にずっと居続けたのかも、、、、、、、、、。

 又、讀賣新聞は平成15年(2003)の朝刊でも再び、慶長使節渡欧団の記事を出している。それによると11月1日にスペインのセビリア南部のコリア・デル・リオ市(人口2万
4千人)の市民ホール40人の“ハポン”の苗字を持った人々が集まった。地元で結成されたスペイン・日本常倉恒長友好協会のカルバハル・ハポン会長によると現在、“ハポン”姓を持つスペイン人達は645名確認されているという。

  1622年に農業従事者のハポンの姓を冠した古文書が最古の記録だと言われている。1613年仙台を出発し、メキシコ、スペイン経由で2年後にローマ法王に謁見。帰路、5名の日本人がコリア・デル・リオ市に永住を決意したという。

  居残ったニポン人随員が、キリスト教徒への洗礼を受ける際に、その氏名が古文書や17世紀の地元民登録にあり、ほぼ歴史的にその正当性は立証されていると言われている。


 コルドバのフランシスコ・ハポンとほぼ同じ時代で非常に興味深い。



  
コルドバへの自由渡航民


 
さて、前述のフランシスコ・ハポンの次に、南米に到着した最初の日本人が実はコルドバへ辿り着いているという事実を検証し直してみよう。

  移住史の歴史研究家によると、今までのところ、アルゼンティンに最初に到着したのは1886年〔明治19)にイギリス船でブエノス・アイレスにやって来て、材木運搬人、鉄道馬車の御者、その後は機関車の釜たきから機関手になり、そのままコルドバ市に住み着いたのは三崎出身の牧野金蔵(まきのきんぞう:安政6年1959年ー1929)だとされている。この人物はアルゼンティンに入った最初の日本人でもある。
  
彼の機関車の機関手という職業もたいしたものだが、晩年はコルドバの郊外で果樹園を経営しながら息子達を育てた。
 ( 余談になるがチェ・ゲバラもコルドバ大学医学部を卒業した。少年時代は喘息を治すために生まれ地のロサリオからコルドバ郊外のヘスス・マリアに住んでいた)。

  牧野金蔵も終着駅はコルドバだった、という事にまず注目したい。1929年〔昭和4〕71歳をもって没したこの男が、どうやらフランシスコ・ハポンの次にアルゼンティンに登場した日本人らしい。

 
コルドバ最初の日本人“牧野金蔵”(上)
山岸新作と牧野金蔵(下)
 その次のグループは以外な事にいわゆる「ペルー下り」と呼ばれる移民達だった。山岸新作(やまぎししんさく)は特に有名だった。牧野金蔵とのツーショットがあるので左下を見て頂きたい。



 
私は慶応義塾大学文学部図書館・情報学科の卒業生である。卒業後、東京医科大学の図書館で働いた後、南米パラグアイ共和国農牧省付属図書館の創立にボランテイアとして参加した。その後、中米パナア共和国の「日本パナマ職業訓練センター」の業務センターに業務調整員として4年半勤務した。

 その後、南米ボリヴィア共和国サンタ・クルス市の「ボリヴィア家畜繁殖改善計画」に同じく6年半業務調整員として勤めた。

 そして最後は昨年9月までカリブのドミニカ共和国で「ドミニカ共和国山間傾斜地農業開発計画」で2年間勤務した。

 都合この5カ国で役20年間もODA(政府開発援助)の仕事に就いていたことになる。自分で南米を選んだ訳ではなかった。最初のボランテイアの仕事は、当時通勤していたま三鷹発の総武線の中の吊しの広告であった。当時、新宿にあった東京医科大学の図書館に勤める平凡な司書であった。

 パラグアイでの仕事はモイセス・サンチエアゴ・ベルトーニという19世紀に移住してきた著名なスイス人自然科学者の名前を冠した図書館を作ろうとしていた。彼の業績を称え、当時の珍しい著作を収集・整理しつつ、同時国立農牧省の中心図書館として機能を発揮できるような基礎態勢を整備するという内容だった。


 インターネットなどまだ人口に膾炙している訳ではなく、手持ちぶさたで図書館の中で悶々として毎日を送っていた。

 ただ不思議なことに、その後私が関わった仕事には、いつも不思議な日本人自由渡航民の軌跡のしがらが見え隠れしていた。


 
日本人自由渡航民の軌跡のしがらみ
 
 例えば、次のような人々がいた。
 首都のアインシオンに、いまから60年以上昔、福岡庄太郎という唐津出身の柔術家がいた。この人はコンデ・コマと一緒に北米、キューバなどを渡り歩いた明治の武術家でアルゼンティンのロサリオ市、アスンシオン市に進出し、ラプラタの柔術王として知られた存在になっていた。

 この人物の事はアルゼンティンの日本人移住史にたびたび登場してくる。偶然にも、この福岡庄太郎の娘婿が印刷局の所長だった。

 彼の自宅に招かれ福岡庄太郎の写真と当時の新聞記事を見せて貰った。

 その時からである。私の周辺にはいつも不思議な日本人自由渡航民は、少し意味は違うがバカブンドを呼ばれていた。自由気儘に己の意のままに生きる人びとの事を調べてみようという気になっていた。


 また、イエズス会村の熱狂的な神父達の若い行動力や、チャコ地方に今世紀に入植したメノニーター(16世紀のアナバプテスト(再洗礼派)にその源があります。マノ・シモンが始めた成人洗礼の運動)達の生き方も探ってやろうと思った。


  パナマではあの天野芳太朗、大地役治、ペルーからの再移民、ボリヴィアでは前述の山岸新作らの、いわゆるアマゾン下りと言われたペルー逃亡移民らの軌跡に出会い大きな感銘を受けた。

  そして、この最後にコルドバの町でフランシコ・ハポンの存在を知ったわけである。


 

パンパの風のなかで

 
  この町の北部から南部へ400キロほど細く走っている2千メートル級の山脈シエラ・チカには、アンデス山脈ともパンパ・インデオ文化とも違った文化が育っていた。この地域も私のプロジェクト「植物ウイルス研究計画」の守備範囲だった。

  この山脈の中腹には、あの有名なフォークローレの巨匠アタワルパ・ユパンキの家がある。ここで言うフォークローレとは、北部アルゼンティンの民謡の事をさす。アンデスのモノとはルーツも歌詞の内容も全く違う。
 明らかに先住民族の血をひいたユパンキは、生まれ故郷のブエノス・アイレス州より、此の地を愛していた。それは彼の体の琴線を共鳴させてくれる自然環境がある事に気がついていたかだろう。

  町から町の酒場を歩いて歌い歩いた遊興歌手パジジャレロの最後の止まり木もコルドバだった。

  博物館の前から遙か向こうの山腹を見上げると、赤茶けた乳首のような山々が不気味に我々を招いていた。
その麓にユパンキが1950年代に住み着き、ここで魂のフォークローレを作ったのだ。

  ある日の午後、北部のツクママン市からの帰り路、このシエラ・チカの裾野をピイクアップ・トラックで走っていた。その時、言うに言えない感慨が私の全身を覆っていった。

  カセットテープから流れていた、ユパンキの歌声の一節いっせつに、私も含めた青春の彷徨者をたぐり寄せるものが、確実に流れている事を初めて気がついたのだ。

  パンパを流れていう風の声だと思った。パンパを流れのは風の声だとユパンキは歌っているのだった。

  風の声が、世界中の青春の放浪者を、こんなパンパ・セコの外れまでぼくたちをいざなってきたのだ。


                                        (三田評論 2002年3月号)