2009年12月16日

ニコニコ大百科

ニコニコ大百科への参加を本気で考えています。
ルールを一通り読んだらプレミアム会員になろうと思います。

もしニコニコ大百科に参加することになったら、ウィキペディアの私の利用者ページは管理者に依頼して冒頭のテンプレートのみを残して白紙化、会話ページは過去ログ送りにしてもらおうと思っています。

多分これが最もいい方法だと思うので。
posted by Haruno Akiha at 18:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

「感覚だけは共通」という錯覚

視覚障害者に対して、見えないものを「見ろ」とは言わない。
足の不自由な人に対して、動かないものを「動かせ」とも言わない。
しかし感覚に障害を持っている者に対して、感じないものを「感じろ」と言うことは日常的にある。

よく言われているのが「他人の気持ちになって考えろ」だ。

自分は自分、他人は他人で全く違う個体なのだから感じることも全く違うはずで、「他人の気持ちになって考える」ことなど絶対不可能にしか思えないのだが、そう思っていない人たちのほうが圧倒的に優勢だ。

しかも「他人の気持ちになって考える」ことは社会的に絶対必要な条件であり、それができない人間は会社に勤めることすら許されない。いや、下手をすれば社会人である以前に人間扱いすらされないかもしれない。

言うまでもなく、人間を人間として認めないのは一番非人間的なことである。しかし現代社会ではこの非人間性は永久不変の真理であり、全く変わる気配はないし、変えようともしない。

私がウィキペディア日本語版を事実上追放されたのも、復帰に際して理不尽な条件を突きつけられたのも、その条件が飲めない理由を提示してもなお条件の緩和に応じてもらえなかったのも、現代社会の非人間性に起因していることは明らかであろう。

私は「ウィキペディア日本語版から現代社会を変える」ことを決心した。私は絶対にウィキペディア日本語版に復帰してみせる。そして現代社会を啓蒙し、変革を促してみせる。人間が人間として生きることが当たり前になる世界にするために。
posted by Haruno Akiha at 05:55| ウィキペディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

共同作業とは

共同作業とは何か。

それは、常に相手の作業を肯定的に捉え、相手が作業することを絶対的に保証することである。

自分のことは自分のこと、相手のことは相手のことと割り切って、互いに相手の作業を決して止めたりしない。相手もそれを了解していれば、自分の作業が止められることは絶対にないはずである。

止めてよいのは、全く肯定的に捉えられないほど悪意に満ちた作業を行う者か、相手が作業することを絶対的に保証しない考えを持っている者だけである。

前記のいずれにも該当しない者の作業を止めることによってしか成り立たない、ウィキペディアにおけるいわゆる「共同作業」は、本当の共同作業ではない。

私は、ウィキペディアに本当の共同作業を周知させるために行動し続ける。
posted by Haruno Akiha at 05:34| ウィキペディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

評価と排斥論

他人の評価など必要ない。
ただ自分のやりたいことをやりたいようにやればよい。
他人の評価は必要ではないが、評価すること自体は構わない。
そんな評価は無視するだけだ。

最悪なのは評価ではなく排斥だ。
排斥されそうになったときは、徹底してその排斥を妨害する。
なぜなら、自分のやりたいことをやりたいようにやれなくなるからだ。
そのためには、もちろん相手を排斥してはいけない。
posted by Haruno Akiha at 03:38| 妄言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

「百科事典の記事の取捨選択」という難問

ウィキペディア自身の定義によれば、ウィキペディアは百科事典である。したがって、ウィキペディアの標準名前空間のすべての記事は「百科事典の記事」でなければならない。

しかし、ウィキペディア日本語版では「何が百科事典の記事であるのか」ということについては直接言及されておらず、[[百科事典]]の記事や[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか]]より間接的に判断するほかない。そのような形式を取っているため、両方ともかなり長い文書であるにもかかわらず、これらを読んでもさっぱり要領を得ないという人は決して少なくないのではないだろうか。

なぜだろうか。その理由は、ウィキペディアを執筆するのに必要なことが、当然の前提として暗黙のうちに隠されているからである。それは「すべての百科事典の記事は『百科事典の記事の形式』にのっとって取捨選択されなければならない」ということであるが、これは既存の百科事典には決して書かれていないことである。なぜなら、既存の百科事典そのものは「百科事典の執筆者のためのガイドブック」ではないからだ。

「百科事典の記事の書き方」であれば、ウィキペディアの既存の記事や、既存の(書籍の)百科事典を規範として記事を執筆することができる。しかし、「百科事典の記事の取捨選択」についてはそれらを規範にすることができない。まだ執筆されていないだけなのか、それとも紙幅の都合で切り捨てられたのか、そもそも百科事典に必要とされない文だから記載が許されないのかのいずれであるのかが判然としないからだ。

また、「百科事典の記事の取捨選択」の規範を書籍の百科事典に置くと、勢い抑制的にならざるを得なくなる。ウェブ上のデータよりも印刷物のほうが物理的な制約が大きいからだ。

ウィキペディア日本語版でしばしば問題となる「都道府県道の記事」や「漫画作品の記事」などは書籍の百科事典にはごくわずかしか載っていない。それは、それを興味の対象とする者の範囲が極めて限定されており、費用対効果が極めて低いからである。書籍の場合、こういうものは特定分野専門の事典の領域である。

しかしウィキペディアは書籍ではなく、対価を取って発行するものでもないため、費用対効果を考える必要はない。したがって、百科事典の収録範囲から漏れていた特定分野専門の事典の領域をも一つにまとめて収めることが可能になったのだ。にもかかわらず、百科事典の規範を書籍の百科事典に置いている者たちは、前記の理由によりそれらの記事の存在を認めようとしない。

今ウィキペディア日本語版に必要とされているのは、「百科事典の記事の取捨選択」の規範を書籍の百科事典に置くことをやめ、利用者たちの合議によって新たな規範を定めることである。

もちろん、この「利用者」の範囲は、ウィキペディア日本語版における様々な思想の対立を抜きにして可能な限り広く取るのが望ましい。今まで思想の対立によってウィキペディア日本語版を去っていった、あるいは不本意ながらもウィキペディア日本語版を追放された者たちの声も聞き逃してはならない。それは、新たな規範を定めるためには過去の規範にとらわれないことが必要だからである。
posted by Haruno Akiha at 00:00| ウィキペディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする